8-4 七井翔吾の不信
七井翔吾は心を閉ざしている。
女性という存在に心を開くことができない。それどころか嫌悪感すら覚える事がある。遡れば、それが母親による影響だと本人も自覚していた。
母は、多重債務者だった。
それが『借金まみれ』という意味だと父親から教えられたのは中学に上がる前の話だ。まみれるだけなら、救いはあるかも知れない。だが、彼女は完全に『浸かって』いた。
小学校から帰宅したとき、ほとんどの場合、母は家を空けていた。ようやく帰ってきても、不機嫌で、翔吾に当たり散らす事もあった。
ギャンブルにのめり込んだ母は、毎朝、数万の金を金融会社から借り受け、それをパチンコにつぎ込んでいた。
「父さんに言ったら、殺すからね」
そのセリフも何度聞かされたかわからない。
夕方ごろに帰ってくる不機嫌な母親となるべく会わないよう、翔吾は学校のグラウンドでサッカーボールを蹴っていた。
日が暮れて、父親が帰ってくる時間に合わせて帰宅するようにしていた。
ボールを蹴っている間、ボールを追いかけている間、その間だけ嫌な事を考えずにすんだ。
夕刻になって、友人たちが帰ったあとも、1人でボールを蹴り続けた。友人たちは翔吾を『練習熱心』などと評価したが、本当はそうじゃなかった。
息子が自分を避けている――と気付いた母親は、余計に翔吾に辛くあたった。
「情けない! アンタは父さんと同じよ! 逃げグセのついた負け犬!」
パチンコに勝った日だけは優しく、新しいボールやゲームを買ってくれたりもする。だから、完全に憎むことはできなかった。
本当の母はどちらの母か。幼い翔吾にはわからなかった。
毎朝、5万円を借り受け、金利を差し引いた4万5千円を受け取る。
勝てば即日で返済するが、負ければ次の日も5万円。手元に4万5千円。
むろん、前日に借りた5万円は高い金利で借入額を大きくしてゆく。
父親のボーナスを返済にあてていたが、それでも『金利だけ』の返済だ。
勝った時の母は饒舌で、上機嫌に勝利の方程式を教えてくれた。
「母さんはね、攻略法を知ってるの。いまはちょっと流れが悪いけど、最終的には収束するのよ。他の人たちとは違う――」
その方程式が、妄想や盲信の類であったことは、金融業者の自宅への来訪によって証明された。
その頃には、様々な闇金融から金を借り受け、別の金融への返済へあてる自転車操業となっていた。
「父さんに言ったら、殺すからね」
一度、言い争いになった。
父ちゃんにこれ以上黙ってるなんて、できない。父ちゃんは毎日、ヘトヘトで帰ってくるじゃないか。真っ黒に日焼けして帰って来るじゃないか。頑張ってる。働いてる。なのに母ちゃんは、そうやって父ちゃんが稼いだ金をドブに捨ててる。
議論にもならなかった。
血走った目で、母は翔吾を叩き、罵倒した。
彼女は自らの破滅を想像だにしていなかったからだ。
彼女にとって、『借り入れ限度額』は、『自分の金』だった。まだ、いける、まだ新規で20万は借りられる。
ある時、翔吾が父親に打ち明けた事で、終わりが始まった。
母親は今まで翔吾に見せていた強硬な態度を露ほどにも見せず、テーブルの向こうにいる2人の観客に対し、涙ながらに悲劇のヒロインを演じ切った。
この女――。
翔吾は思った。
この女、怖い、と。
あるいは、それで改心すれば今の七井翔吾はなかったかも知れない。
だが父親に許された母親に抑制が働いたのは僅か2週間だった。『7のつく日のイベント』なら勝てる――そう考えたのかは定かではない。
やがて、負債は父親の知らぬところで、完全に焼け付くに至った。
彼女は借金の返済のため、体を売った。年増の女に高額を出す客はいない。母親は数をこなすことで、低価値の溝を埋めるしかない。薄利多売の見本だ。
やがてホテル代を自らの懐に入れるため、家に『客』を連れ込むことが多くなった。
すべては破綻し、離婚が成立したとき、翔吾は迷わず父親に付いていった。ローンの残る家を売り払って、返済にあて、父親にも借金が残った。
あんな女じゃなかったんだがな。いつから変わったんだろうな。
酒が入るたびに、父は悲しそうにこぼした。
「女はな、感情の生き物だ。感情をくんでやれなかった俺にも過失はあるかも知れん」
父ちゃんは悪くない。そう翔吾が抗弁すると、父はいつも首を振ってうなだれた。
本当に悪くない、翔吾はそう思った。なのになぜ父が落ち込むのか理解できなかった。
そんな父が言った言葉を、七井翔吾は生涯忘れない。
「俺が悪いんだ。女を信じたから」
翔吾、理屈じゃないんだ、女はな。
自分の感情のためなら、自分のどんな悪徳にだって涙ながらのドラマや理由を作れる。翔吾、男と女は違う生き物なんだよ。女は、自分のためなら自分にだって嘘がつけるんだ――。
父親の哲学は、いささか被害妄想にとらわれたモノだったかも知れない。
だが、その言葉は実体験を伴って、翔吾の心の最深部に最悪の印象を焼き付けた。
そして、その心的外傷を癒せぬまま、学費のかからない『施設』へやって来た。
そこで杜倉憂理と稲上健太に出会った。
よく、笑ったし、笑わせられた。『男』のあり方について、話し合ったりもした。
遼もジンロクも、内心で尊敬している。ツカサだって、小心者なりに頑張ってる。
だが、女たちには心を許せない。菜瑠も四季も、エイミだって。心から信頼できない。いずれ彼女たちが裏切るのではないか、憂理が、仲間たちが騙されはしないかと心配にもなる。
そんな『女たち』を手足のごとく操るタカユキに恐怖すら覚えたりもする。得体の知れない恐怖だ。魔物を使役する者が、善たる存在であるはずがない。
その不可解なるテオットたちを探して、七井翔吾は杜倉グループの先頭を行く。
あくまでも、仲間たちに期待される男であるために。
いつもの、七井翔吾であるために。
* * *
「んで、テオットどこよ?」
先ほど大立ち回りを演じた場所まで来て、翔吾が肩をすくめた。憂理はジンロクの肩を借りながら周囲を見回すが、確かにテオットの気配はない。
「ここだよな?」
あれから少なくとも20分以上は経過しており、姿がなくとも不思議はない。
だが、現状の生活棟でテオットが集まれる場所は多くない。ジンロクが眉間にシワを寄せていう。
「ユキエを探してる時には、まったく見なかったな」
「じゃあ、上か?」
「かもな」
中央階段へ歩みを進め、ゆっくりと上階へと向かう。
ジンロクが背負おうか、と気を使ってくれるが、憂理は照れ臭くてその誘いを断ってしまう。リハビリはキツイものだと肝に命じる。
「マジでタカユキに『手』があんのかよ?」
先頭を行く翔吾が、訝しげに訊いてくる。
しかし、憂理自身も確証がなく、返答に困ってしまう。テオットの女子たちが『延命のチケット』を見逃した――。それだけが根拠だ。
薄弱と言えば、薄弱な根拠ではある。だが、強制淘汰を前にテオットが1人も投降しないのは憂理には理解できない。
「タカユキに聞こう……」
やがて、中央階段を登りきって、テオット階へとやって来た。廃墟のようなバリケードを通り抜け、3人は通路へと出る。だが、人の気配がまるでない。
行きかう者も、見張りの者も、1人とていない。
「もぬけのカラってヤツ?」
翔吾が拍子抜けした表情で唇を歪めた。これにジンロクが答える。
「いや、いるぞ。かすかに話し声が聞こえる……」
憂理は目を閉じ、呼吸を止め、聴覚に意識を集中させた。
かすかに――。距離は掴めないが、かすかに人の声が聞こえる。たしかに、誰かいる。だが、それは憂理には『話し声』には聞こえなかった。会話だの対話だの、そういったモノでなく、なにか……。
「たしかに、いるな……」
ジンロクは小さく頷き、声のした方向を指差した。
声の発生源がわからない憂理などは、ジンロクのどこか野生的な能力を垣間見た気がする。
「体育室のほうだ」
翔吾を先頭に体育室の方へと進んで行く。
近ずくたびに微かだった声が鮮明となり、幾つかの言葉が聞き取れるようになる。
真実。探求。試練。
間違いなく、テオット関係者の声だった。
憂理たちは目配せで、『見つけたな』と確認し合い、さらに歩みを進めて行った。
わたしは! 真実を探求する存在であり、この2つの眼は真実を見つめるためのものである!
私は見た! 奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くのを!
穴を掘る者はそれに落ち込み、石垣をくずす者は蛇にかまれる!
彼が口にすることばの始まりは、愚かなこと、彼の口の終わりは、みじめな狂気!
愚か者はよくしゃべる。人はこれから起こることを知らない。これから後に起こることをだれが告げることができよう!
耳に飛び込んでくる詩文のようなセンテンス。
これはテオットの『祈祷文』のようなものか。憂理は以前にもこの詩文を聞いたことがある。
だが、いま聞くそれは、以前のソレよりも不気味さを増していた。いま、憂理の耳に届いている声が、1人のものでなかったからだ。
何十人もの声が、同じ文章を斉唱していた。
「救済の時があり、変革の時があり、進歩の時がある。私の血は炎より赤く、炎より熱く、炎より高く上がる! この目は新しい世界を見る、この耳は救いの声を聞く」
一糸乱れぬ、とはこの事を言うのか。
何十もの声が見事に重なり合い、開かれた体育室のドアから溢れ出していた。
それはどこか荘厳ですらあった。
見れば、体育室の扉から離れた位置の通路に1人の男子がいた。
通路の端で三角座りをし、頭を両手でかかえている。
「あれ……アツシじゃね?」
「ああ……」
うつむいたままで表情は読めないが、指が髪の毛をかき乱している。憂理はゆっくりと近づき、アツシの肩を優しく叩いた。すると、緩慢な動作でアツシが憂理を見上げてきた。
疲れた表情に余裕はなく、乱れた髪とあいまって、どこか狂人を連想してしまう。
「ユーリ……」
「……お前、こんなとこでナニやってんだ?」
斉唱に加わらなくていいのか。そんな事を憂理が訊くと、アツシは唇を噛んで、首を振る。
「どうかしてるよ、どうかしてんだ」
不足した主語を翔吾が問う。
「なにがよ?」
「みんな、おかしくなってんだよ。みんな」
元からだろ、などと軽口を言える雰囲気ではない。例の人懐こい笑顔もなく、アツシは泣き出す寸前の表情だ。
アツシは再び頭をかかえ、独り言のように言葉を吐き出す。
「もうすぐ、窒息するかも、ってのに、何もしない気なんだ」
「は?」
「タカユキくんが、ますます変な方向に行ってんだよ! ロクに殴られておかしくなったんかも!」
憂理と翔吾がジンロクへ視線をやると、ジンロクは唇をへの字に曲げ、困ったように肩をすくめた。
「いや、まぁ、殴ったが……。それでおかしくなったのか?」
「わかんねぇ……。最近はずっと少しおかしかったけど……。わかんねぇ。俺にだけ『意味がなくなった』って言ったけど。意味の意味がわかんねぇ……」
アツシの独白自体が憂理にとっては意味不明だ。
翔吾やジンロクも肩をすくめるしかない。
「タカユキくん、半村に空気止められてるってのに、涼しく笑ってたんだ。別にいいや、って感じでよ。死ぬかも知れねぇんだぞ? なのに別にいいや、って」
「あいつら、何を唱えてるんだよ」
「みんな、頭がどうかしたんだよ! 誓いの言葉で何が変わるってんだ! なのにバカみたく指示に従って、延々と繰り返してる! このままじゃ窒息死なのに!」
失望が憂理の中で生まれ、それは一瞬で絶望へと変わる。確信を得るため、憂理はアツシに確認した。
「えっと、アイツら……意味なくああしてるダケって事か? 死ぬまでやることが無いから、ただ合唱してる?」
アツシはようやく顔を上げ、情けない笑顔で頷いた。その目からは涙がこぼれた。
打開策はゼロだった。
信じがたいが、アツシの涙がそれを証明していた。
「女子の一部は半村のトコ行こうとしたんだよ。おれ、仕方ないと思った。だって誰だって死にたくないじゃん。だから、おれ、行かせてやろうと思った。でも、他の奴らが行かせなかった。なんも打つ手がねぇのに、嘘までついて、行かせなかった!」
脱力感が憂理の気力を奪い、壁へと背をつかせた。なんだ、こいつらは。
空気の薄さを意識させられるたびに、焦りと恐怖が深く根をはる。きっと、誰もがそうだ。
現実味の薄かった『死』が、実感を伴って二ジリ寄って来る。
なのにテオットの連中は現実逃避の斉唱に時間と酸素を使っている。
憂理が言えた事は、平仮名3文字だった。
「なんで」
まったく抗わず、ただ死を待つ。これは『半村に殺される』と言うよりも、ただの集団自殺だ。
非暴力、無抵抗主義といえば美しい響きであるが、彼らが先ほどまで武器を手にしていたと思えばこれは軽薄な厚化粧にすぎない。
化粧を施さない素顔はどんなものか。その答えは、いま憂理の側にいる。
「なぁ、ユーリ、どっからオカシくなったんだろ。俺たち、どこで間違えたんだろ。なぁユーリ。俺たち、どこで間違ったのかな。本当に世の中を良くしたかっただけなのに。なのに、こんな……」
アツシは顔をクシャクシャにして、泣いた。どこから、どこが。そんな指摘を憂理ができるハズもない。
ジンロクが眉間のシワを深くして、言った。
「ダメだな。他の手を探すか……」
あっさりと言い放つジンロクの言葉が、冷たく聞こえる。
だが、憂理たちとて死のカウントダウンの渦中にいるのだ。同情などしている暇がない。
気味が悪いほどピッタリ合った斉唱が、テオットたちの『無』を体現しているように憂理には思えた。
ズレなく、間違いなく、ピッタリ合わせる。文言の意味など、きっと考えてもいない。
彼らは完璧な斉唱に没頭することで、現実逃避しているにすぎない。
憂理はそんな風に思う――自分が、タカユキを絶望させた直接的な原因だと気付きもせず。
そして、憂理はおぼつかない足取りのまま、体育室の入り口に立った。
人間たちの生み出す熱気が、斉唱とともに溢れ出てくる。酸素に労力にエネルギー、そして時間。様々なモノを浪費して、斉唱が上がっている。
この日の下に一つの悪があるのを見た。それは権力者の犯す過失のようなものである!
愚か者が非常に高い位につけられ、富む者が低い席に着けられている!
私は、奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くのを見た!
穴を掘る者はそれに落ち込み、石垣をくずす者は蛇にかまれる!
石を切り出す者は石で傷つき、木を割る者は木で危険にさらされる!
知恵ある者が口にすることばは優しく、愚かな者のくちびるはその身を滅ぼす!
テオットたちは誰もいない壇上に向かい、規則的に整列し、目をつぶって、天井を見上げ、ただ声をからして叫んでいた。
――バカじゃねぇの。
体育室に足を踏み入れようとした憂理の背中に、翔吾の声が浴びせられる。
「おい、憂理、やめとけってばよ、バカがうつるぜ」
たしかに、『致命的なバカ』だと憂理も思う。
だが空気感染しなけりゃいい――。
憂理は振り向かないまま小さく頷き、テオットの集団へ歩み寄ってゆく。
そして、その群れを割るようにして、壇上を目指した。
押しのけられた者が異変を察して、次々と憂理へ視線を向ける。やがて斉唱は止まった。憂理の進行方向にいるテオットが、スッと道を開け、さながら海が割れたかのようだ。
憂理は無数の視線を浴びながらも、その一つとも視線を交わさず、テオットの中を横断し、やがて壇上まで辿り着いた。
そこに指導者であるタカユキの姿はない。ただ演壇に『真実の目』が書かれた旗がかかっているだけだ。
憂理はクルリと狂信者たちへ向き直った。そして、声を張るわけでも、叫ぶでもなく、ただ静かに訊ねた。
「この中に、ここ最近、微熱が続いてる奴はいるか」
斉唱もなく、ただシンとした空間に憂理の声が染み渡る。だが、返事はない。
「この中に、ここ最近、妙な気怠さトカ、軽い吐き気を覚えてる奴はいるか」
やはり返事はなく、憂理は続ける。
「妙な夢が続いたり、意識がぼんやりしたり、変に興奮したり、感情が不安定なやつはいるか」
「現実と夢が曖昧だったり、出来事の全部がぼやけて思える奴はいるか」
眼前の集団に微かなざわめきが複数生まれ、やがて拡散してゆく。水面に投じられた小石が波紋となって拡がるように。
そして、その波紋同士がぶつかった場所で、波は一段高くなる。たとえば、それはサマンサ・タバタの場所だ。
正統派の美少女は、白い頬を微かな血痕で汚し、杜倉憂理を見つめてくる。血濡れの美少女というのも、どこか得体の知れぬ魅力がある。
「杜倉くん。何を言ってるの?」
言外に、馬鹿なことを言うのはやめて、という響きがあった。憂理はぼんやりとした意識のまま、タバタと見つめあった。
この美少女は、タカユキの工作――薬物の投与を知っているのだろうか。
知っていて、その事実を隠蔽しようとしているのか、あるいはなにも知らないのか。
憂理は訊いた。
「お前は、さっきの症状でてないのか?」
「体調がいつでも万全な人なんていないわ。ねぇ、みんな?」
タバタは仲間たちに同意を促すかのように周囲を見回すが、他のテオットたちは戸惑い、ぼやけた反応しか返さない。そう、イツキを除いて。
「ユーリくんは何が言いたいの?」
「イツキ……。お前は、さっきの症状でてないのか?」
言葉も視線もまっすぐに、憂理は訊いた。光線のようなソレにあてられたイツキは、少し戸惑った様子で小さく唇を動かした。
「誰だって……具合が悪いときぐらいあるよ? 頭が痛いときもあるし、吐き気がするときも……」
「露骨に、おかしいって思うときあるだろ?」
個人差はあろうが、『クスリ』の引き起こす諸症状は不自然なもの。テオットの連中も間違いなく薬を投与されているはず――これは憂理の憶測などではく推測だ。タカユキのカリスマ性だけで、これほど人間が人形化するとは考えがたかった。
イツキは懐疑的な眼差しで、言い返してくる。
「何が……言いたいの?」
「お前ら、騙されてる」
テオットに対し、イツキに対し、この言葉を掛けたのは何度目か。
だが、今回は根拠がある。
「さっき言った症状がある奴。別に名乗り出なくてもいい。ただ聞いてくれ。お前らは……」
言えたのはそこまでだった。
体育準備室から、タカユキが現れたからだ。
タカユキは左頬をドス黒く腫らしながらも、その眼に強い光を宿して憂理を見つめてきた。
「戻って、きたのか、ユーリ」
どこか、喜びの色があった。だが、憂理は冷たくあしらう。
「戻るもなにも、行くとこがないんだよ」
事実そうだ。できれば、こんな所へは二度と戻りたくはなかった。
憂理の言葉に、タカユキはほとんど反応を示さなかった。ただ、呆けたように立ち尽くしている。
「お前ら、死ぬ気か? このまま此処でグタグタしててもしゃあないぞ」
「救ってくれるのかい? ユーリ」
「救うとか、救わないとかじゃないだろ。このままじゃ全員死んじまうだぞ」
タカユキは見守るテオットの集団に向いて、大きく両腕を開いた。天から降る雨を全身で受けるような、どこかワザとらしくも見える動作だ。
「みんな、やはり杜倉憂理が来た。新世界に必要な救世主だ! これで、道は開ける! 憂理こそ、なくてはならない僕たちの希望だ! 」
タカユキの言葉が広い空間にスッと通ってゆくと、その宣言を理解した者から順に、笑顔を取り戻した。
どの目にも喜びがあり、どの唇にも笑みがあった。
――救世主だって?
憂理は驚き、戸惑うしかない。そんな役目、聞いていない。
本当に救世主などと言うたいそうな使命を背負っているなら、神には憂理が胎児のころに耳打ちする義務があるハズだ。『世界をよろしく』と。
そう知らされていれば、品行方正な生き方もあったろうが。杜倉憂理が自身の半生を思い返してみても、救世主としての振る舞いに欠けていた記憶しかない。
地獄行きのチケットを分割払いで購入している途中――とでも言った方がしっくりくる。
「待ってく――」
「皆ッ! 拍手をッ! 偉大なる指導者に、我々の杜倉憂理にッ!」
タカユキが煽るように大声を上げると、歓声と拍手が申し合わせたようにわき上がった。その圧倒的音圧が、憂理の言葉をノドで止めてしまう。
熱量まで感じさせる歓迎の意に包まれ、憂理が唖然としていると、一群を煽っていたタカユキがスッと近づいて来て、耳打ちした。
「みんな死ぬ。僕はね、それも一つの結末だって受け入れるつもりだった。でも憂理は僕のところへ戻ってきた。僕は救われたよ憂理。僕の命も、皆の命も憂理にあげる。僕たちが……生きるも死ぬも、君次第だ」
「あげる……ってお前……」
「もう、逃げられないよ憂理。ここにいる全員の命は、いま君に預けた。憂理が逃げ出せば、みんな死ぬ。みんな、死ぬんだ」
無責任な従属者、受動的な人質を憂理は預かった。
杜倉憂理という名の箱舟に、動物たちが駆け込んで来たのだ。それも、未完成の箱舟に。
水位が上がれば、ただ虚しく沈むだけの未完成の船。なのに乗り込んできた動物たちは歓喜の表情さえ浮かべているではないか。
そんなテオットたちの短絡は、やはり薬物に起因するものなのか。あるいは、もとより主体性の無い者の集合体がテオットになったのか。憂理にはわからない。理解できないモノに無理矢理に理由をつけて解釈することほど愚かなことはない。
タカユキが微笑みながら囁いた。
「ユーリ。逃がさないよ……。僕には、僕たちには、君が必要なんだ。逃がさない。救ってくれ……。じゃなきゃ、みんな、死ぬ」
* * *