7-10 暴君の決断
ジンロクが憂理を背負い、タカユキの部屋をあとにする。
小走りに人気のない通路を駆けて、いくつものドアの前を通り過ぎ、ようやく中央階段が近づいた頃、ツカサは閃いた。
シャワーで冷水を浴びせれば、憂理の正気が戻るかも知れないと。
そんなアイデアを控え目に提案すると、それは翔吾とジンロクに好意的に受け入れられた。そしてツカサには想定外であったが、体育室のシャワールームに一行は向かう。
シャワールームに入ると、よどんでいた湿気の洗礼を受ける。この空気を吸うだけでノドの渇きを癒せるのではないか。そんな風に思う。
「こんな所に……シャワーがあったんですね」
「ああ、憂理が見つけた。ロク、そこに憂理下ろせ、頭冷やさせてやる」
ジンロクが床に憂理を寝かせると、翔吾はシャワーヘッドを引っ張ってきて、冷水を放射する。ツカサなどはなにやら死者に鞭打つようで、少し嫌な気分だ。
「おらぁー起きろー」
「七井さん顔にかけちゃマズいですよ!」
「いーんだよ。ちょっとぐらい」
憂理のまぶたが微かに反応するのをつぶさに観察したジンロクが何度か頷く。
「効果ありそうだな」
そうして、ジンロクは濡れた憂理の頬をペシペシと叩いた。最初は弱かったそれは、やがて強くなってゆく。
「ちょっと、ジンロクさん、可哀想ですよ」
「ん、そうか」
やがて、憂理の頭の横にいたナオが、翔吾に訴えた。
「翔吾にいちゃん、憂理にいちゃんが何か言ってるぞ」
「ああ? なんも言いやしねぇよ。バカになってんだからよ」
「口が動いてるもん!」
「そりゃケイレンってヤツだ。ケーレン。ツカサ、言ってやれ」
「ケイレンだと思います」
「そっかー」
しかし、ツカサはすぐに前言を撤回することになる。たしかに憂理の唇が何か意識的な動きを見せたのだ。
「七井さん! シャワー止めてください、意識戻りかけてます! 杜倉さん、何か言おうとしてます!」
「マジか! よっしゃ! とどめ!」
翔吾はおもむろにシャワーの冷水を『最大』まで回して、凄まじい水圧のシャワーを憂理の顔面に浴びせかけた。
跳ね返った水滴にツカサもジンロクもナオも思わず後ずさる。
これは荒療治なんてものではない。水責めだ。
「翔吾! やめろ」
「七井さん! 窒息しますよ!」
その直後、憂理が唐突にむせた。放水が止まり、一堂の視線が憂理へと注がれる。
憂理は苦しげに何度も咳をして、身をよじり、かすれた声を出した。
「さ、むい……」
翔吾は自らの頭にかけていたタオルを素早く憂理の頭にかけて、ゴシゴシと乱暴に水気を抜いてゆく。
「おい、ユーリ、すぐ拭いてやっからな、聞こえっか? 俺が誰か、わかっか? おい」
「……あ、あ」
「目ぇ覚めたか?」
「あ……あ……」
「ダメだこいつ!」
翔吾は苛立たしげに、憂理の頭をはたく。
それでも反応は薄い。
ジンロクは憂理の半身を起こさせると、再び頬を軽く叩く。だが憂理は薄く開いた目で宙を見つめ、首をグラグラさせるばかりだ。
「まぁ……時間がかかるかも知れんな。たぶん俺たちとは比較にならん量をクワされたんだろう」
「憂理にいちゃん、また何か言った!」
「何も言わねぇよ。おいツカサ、言ってやれ」
「なにも言わないです」
「だよな」
「言ったよ!」
ナオは激しく抗議して、自らの耳を憂理の口元に寄せた。そうして、しばらくののち、リスニングの成果を披露した。
「ショウゴ、コロスって言ってる!」
そしてまた素早くリスニングに戻り、数秒ののち、嬉しそうに報告する。
「ショウゴ、マジ、コロスって!」
* * *
頭はタオルをかけられてはいるが、憂理の服は、絞ればリットル単位の水が得られそうなほど濡れている。
ツカサはそれが不憫で着替えさせたいと思うが、翔吾やジンロクは気にする様子もない。ほっときゃ乾くだろ、の一言で返される。
あまり親切な救護班とは言えなさそうだ。
ジンロクがまだ朦朧とする憂理を再び背負い、一行は体育室から通路へ出た。そうして、中央階段を下りながら、頭の後ろに手を回した翔吾がツカサに聞いてくる。
「で、お前、どうすんの?」
「どうするってどういう事ですか?」
「いや、これから、だよ。俺たちは外でるけど」
「僕も行きます。……いいですか?」
間があった。拒絶される――そんな気がする。一秒か二秒、体感ではもっと長い。
審判を待つ子羊は、ただ祈ることしかできない。
やがて、翔吾が審判を下した。
「別に良いけどよ」
「あ、ありがとうございます! 僕、頑張って役に立ちますね!」
「でもお前、ヘタレだしなぁ」
どう評されたって構わない。ここで断ち切られない限り、評価を覆すチャンスはいくらでもあるのだ。
一行が生活棟まであと数段というところで、また怒鳴り声が聞こえてくる。
相変わらず、修羅場であるらしい。
「いないワケないだろ! 徹底的に探せ!」
その声はアツシのものだった。怒声ではあるが、焦りや不安の成分が多く含まれている。見ればテオットの人員が1ダースほど集まっており、どの肩も激しく上下していた。
「鍵がかかってるところ以外、全部探したよ!」
「じゃあ、下か! 堂島、美木! 下の階へ! 半村は下かも知れない!」
アツシの指示に2人のテオットが階段を駆け下りて行く。
やがねアツシが、上階から降りてきた一行に気づき、目を細め、眉間にはシワを寄せた。
「七井! 半村を見なかったか!?」
「見ねぇよ。見たくもねーし」
「……あれ。その、ロクの後ろに……ロクが担いでんのは……?」
ツカサなどはバレてはただでは済まないと、鼓動が高まるが、翔吾はあっけらかんと言い放った。
「ユーリ」
「え? ユーリ?」
「ああ。ユーリ」
「なんで……。まだいたのか」
アツシもイツキ同様、憂理が監禁されていた事実を知らなかったことは、その反応から明らかだ。
翔吾は殺気立ったテオットたちを気にする様子もなく、あっけらかんに言う。
「んじゃ、俺ら行くわ。天気もいいし、お散歩ってくらぁ。お前らにゃ付き合いきれねーし」
そう言って、歩き始めた翔吾の足が数歩もいかぬうちに止まった。その歩みを止めたのは『声』だった。
それが放送であるとこに気付くと、その場にいる者たちの視線は天井へ向けられる。
その場にいる者たちの視線を集め、天井に埋め込まれた丸いスピーカーが喋る。
「あー。サルども。聞こえますかぁ、日本語オーケーっすかぁ? アテンションプリーズ?」
ラジオ放送よりもザラついた音質ではあったが、それが半村の声であることは明白だった。
「あー。お前ら、まったく面倒かけやがって……。物覚えが悪ぃみたいだがな、俺はお前らを『飼って』やってる。いや『飼って』やってた。俺は、シツケってやつに失敗したわ……」
半村による生放送。
『天の声』『天からのお告げ』が必ずしもありがたいモノというわけではない――この放送はそれをツカサに理解させてくれる。。
いま天井から降り注ぐその天声は、露骨に聞く者たちの不安や怖気を煽る。
「おい、ロンゲ。聞いてっか? これはな、お前のせいだ。俺だってこンな事になるとは思ってなかった……」
タカユキは施設のどこでこの放送を聞いているのだろう。ツカサにはわからない。
マイクが拾う半村の呼吸音。それさえも聞き逃さないほど意識は耳に集中する。
この放送で、半村はなにか重大なことを言おうとしている――。
「あー……」
半村の声に、なにかしらの戸惑いや逡巡の色がうかがえた。
無論、なにに迷っているのか、何をためらっているのか、ツカサにはわからない。
天井を見上げる翔吾の表情は冴えず、ジンロクの顔もけわしい。
「ロク……なんなヤバそうな雰囲気感じね? なんか……今までと違うヤバさってーか」
「ああ。早めに外に出たほうがよさそうだな」
翔吾の言う『ヤバさ』、それはツカサにも感じる事ができる。
いつもの暴君ではない。暴力を振るう時に見せていた、まがまがしい軽薄さや、いまいましい辛辣さが影をひそめている。
いつもと違う半村。それがよりいっそう聞く者の不安を煽る。
そんなリスナーたちのザワつく心を意にも介せず、半村による天声は歯切れ悪く続く。
「あー。……なんだ。なんつーか。バカども、よく聞けよ……。ハッキリ言っとくが、恨むならロン毛を恨めよ。俺は最大限、寛容だった」
スッと血の気が引くのをツカサは感じた。
そしてそれは、ツカサ以外の者たち、この施設で生放送を聞いた者たち全てに共通した感覚であったろう。
半村の言葉には、聞いた者すべてに死を意識させる『何か』があった。
だが、どうすれば? だからと言って、何をすれば?
その場にいる誰もが、口を固く閉ざし、ただ天井に張り付いたスピーカーを見つめるしかできない。
「あー……じゃあな」
それでプツリと放送は途絶えた。
なにが言いたかったのか。あの軽薄、酷薄な半村をして『言いにくい』こと――。
「な、七井さん! なんかマズいことになってません!?」
翔吾にも余裕は感じられない。
「ヤバさ、だよな。まじ」
「さっさと行くぞ」
ジンロクが先立って階段を降り始めると、先ほど下階へ向かった2人のテオットが駆け上がってきた。
「アツシ! だめだ、下には行けない!」
片割れの男子が、さっきの放送は何だよ、と半ばパニック気味にわめく。
唐突に、翔吾が猫のようなしなやかさを見せて階段を駆け下りて行った。ジンロクもそれに続き、ナオとツカサも慌てて後に続く。
「なんだよクソ! ふざけんな! 死ね、マジ!」
ツカサが翔吾に追いついた時、猫科の少年はシャッターを蹴りつけ、悪態をついていた。
――これ、なんだ?
ツカサは自らの目を疑う。さっきまで、階段は使えた。
だが、いまは踊り場のすぐ下でシャッターが下りて見事な『行き止まり』を作り上げている。
「さっきまで……通れたのに」
「半村だッ! あのクソが遠隔しやがったんだ! ロクっ! やってくれ!」
指名を受けたジンロクは憂理を背負ったまま、小さく首を振り否定する。
木製のドアならともかく、頑丈なシャッターに『ノック』するのは無駄と判断したらしい。
「無理だな」
「クソっ! なんだってんだよ!」
「防火シャッターか。半村の奴、何する気だ?」
「知るかよ!」
失望を隠さない翔吾がシャッターに額をあて、悔しげに何度か小さな頭突きを見舞う。ジンロクは深いため息を吐いて、ナオは口をへの字に曲げていた。
四人の周囲を脱力感をともなう沈黙がつつみ、誰の口からも『さあ、どうする』の一言が産まれない。だが、ツカサは期待している。
杜倉グループは道を作る集団だ。行き止まり程度のことで終わろうはずがない、と。
そして、その期待は報われた。
ジンロクに背負われている少年が、弱々しくも声を発した。
「……翔吾、蔵書室から開けろ……遠隔しかえせ」
「ユーリ! 目ぇ覚めた?! 蔵書室ってパソコンだろ? 俺ら四季じゃねぇからわかんねぇよ! お前、やりかた知ってんのか?」
まくし立てる翔吾に憂理は小さく応じる。
「七井翔吾に……不可能は……」
「ない!」
「……だろ? だと思う」
「すまん、そんな基本的なコト忘れてたわ」
ジンロクがずり落ちそうになる憂理を背負い直した。
蔵書室と言われても、ツカサにはその重要さがわからない。だが、翔吾やジンロクの反応をみれば何かしら重大な要素があるのは明らかだ。
――蔵書室へいけば。
刹那、キン、と天井から不快な音が響いた。
耳から入り込んだ音。それは脳細胞に悪影響を与え、全員の表情すら歪めさせる。
その不快音がスッと消えると、今度は『不快な声』だ。
「あー……」
半村の放送に、時が止まる。
「言い忘れたわ。これから、お前らのいる階の空気循環を止める……。恨むなよ」
それを最後に声は途絶えた。
「な、七井さん、ど、どういう事ですか」
「空気循環? なにそれ。どゆことロク?」
「んー。換気しないって事か」
すると、ジンロクの肩からダラリと垂れていた憂理の腕が上がり、力なく最寄りの換気口を指差した。
そして、杜倉憂理は蚊の鳴くような声で二つの単語を呟いた。
無駄のない、それでいて不足もない、端的な説明だった。
「……窒息。……皆殺し」
* * *