7-6 ある奴隷の憧憬
重金属の混じったような重苦しい雲が、北へも南へも流れず、ただ中天でうねっている。
そんな空を佐々木ツカサは飽きずに見上げていた。
シャッター前での監視をユキエから仰せつかったが、ことさら意味がある役目とは思えない。
来客など期待できないし、どうせ、この外の状況を見て脱走する物好きなどそうはおるまい。
門番などと言うモノは実に退屈な仕事ではあったが、施設内で延々と続く暴力や強要、『ポイント』目当てで繰り広げられる血なまぐさい所業に加担するぐらいなら、よほど自分に適した仕事だと思う。
――ユキエさんや、半村さまの言うとおり、世界は滅んだのかな。
もし、そうだとしたら、自分はこんな息苦しい世界で生きなければならない。
そう思うと泣きたくなる。
もう、強要されての自慰は嫌だ。もう、叩かれるのも嫌だ。不本意な命令をするのもされるのも。なんでこんなふうになったのだろう。
しかし、今更T.E.O.Tの連中に投降して『裁判』を受ける勇気はなかったし、杜倉グループに加わるチャンスもなかった。
少年というほど少年にもなりきれない年頃の佐々木少年は、ただ流されていた。
耳にかかる緩やかな巻き髪、白すぎる肌。その中性的な容姿だけならテオットに籍を置いていた方が順当ではあるし、殺伐とした半村派内で自分が浮いていることも佐々木は自覚はしている。
あの自慰以来、ユキエに気に入られているのは気付いている。
明らかに優しくしてくれるし、優遇もしてくれる。
――でも……。
そんな事を考えながら、ふと、見上げた空から視線を落とすと、目の前に『来客』があった。
招かれざる客は、ネコ科を思わせる鋭い視線で、人を小馬鹿にするように曲げられたアヒル口を佐々木に向ける。
「な、七井さん?」
名を呼ばれて、翔吾は軽薄に挨拶する。
「よう。チョリッス」
喋った事はない。だがその顔は知っている。
トクラグループ――半村派の仲間たちが探してる脱走組の中心人物。
佐々木が強張った表情に変わったのを見て、翔吾は不敵に笑う。
「まったく、クソいい天気、だろ?」
無責任な軽口。
年齢で言えば翔吾のほうが4つほど上だろうが、身長はほとんど変わらない。
なのに佐々木少年は目の前の翔吾に気圧されて、ほとんどパニックになっている。
仲間を呼ぶ、あるいは悲鳴をあげる。そのどちらの選択も選べず、ただ硬直する。
もちろん、佐々木に戦うという選択肢など存在しない。
「お前……女?」
「お、男です」
「マジかよ。声も女みてー。男なら堂々としろよ」
「は、はい、すいません」
翔吾は佐々木の背後に広がるトンネルをヒョイと覗き込み、言った。
「俺さ、見逃せないアニメあるんで、戻ってきたんだけど」
「あ……アニメ、ですか?」
翔吾はケラケラ笑って、佐々木ツカサの肩に軽く拳をぶつける。
「冗談だよ、冗談。アニメじゃなく、特撮。幸福戦隊ブタ怪人の続きを、だ」
「は、はぁ」
「とにかく、『逃げる』ってんじゃなく、戻ってきたんだし、入っていいだろ?」
「えっと、でも、僕は」
「お前なぁ、半村奴隷だろ? もっとサツバツとしろよ、サツバツとよ。カネダみたく『ふざけんな!』ぐらい言え。張合いがないからよ!」
「ふ、ふ、ふざけないで下さい」
「あー。駄目。お前、全然ダメだわ。センス・ナッシング。お前、テオットに移籍しろ。そんなんじゃ、そのうちカネダあたりにいじめられっぞ。女みてーな見た目だし、どっちかってーとテオットのが馴染めるだろ」
「ぼくは……」
「ともかく、ここは通るからな」
翔吾は佐々木を押しのけて、金具で固定された半開きのシャッターをくぐり、勝手にトンネルへ入ってゆく。
「な、七井さん、待って、待って下さい」
「うるせー」
どうしてよいかわからず、佐々木はオロオロしたまま翔吾の後ろをついてゆく。
きっと、七井翔吾を捕らえたとなれば、大きなポイントが得られる。公開自慰で一つランクは上がったモノの、まだ佐々木少年は『奴隷階級』であり、他の者たちにアゴで使われる身分だ。
――捕らえれば。
だが、そんな勇気はない。
ついてくる佐々木を無視するかのように翔吾はどんどん先へ進み、それを追う佐々木も持ち場から凄い勢いで離れてゆく。
どうにもシャッター前を離れるのは気が引けたが、侵入者を放置するのはもっと気が引ける。
その一方で、微かに自分が高揚している事に佐々木ツカサは気がついていた。
自分は杜倉グループのメンバーと一緒にいるのだ。いつも台風の目となってアクションを起こし続けるグループ。次の一瞬には何をしでかすかわからない者たち――。
極端に引っ込み思案というわけでもないが、決して積極的な性格でもない佐々木ツカサはそんな杜倉グループに憧れに近い感情を抱いていた。
自分が何に期待してるかわからないまま、佐々木は何かを期待してしまう。
――この人たちは、いつも自分たちで道を切り開いてきた。
きっとまた、なにか凄いことをしようとしてる。
どんどん先へ進む翔吾の背中に、佐々木は控えめに問いかけた。
「あの、七井さん。他の人たちは……?」
「他の? ああケンタとか? 死んだよ」
「えっ?」
翔吾は振り返らないまま、ぶっきらぼうに答える。
「ケンタなー。とうとう破裂しちまったんだわ。俺もそろそろヤバイかなーっておもってたんだけど、やっぱ限界きてパン! って風船みたいにハジけちまった。デブだけど、いい奴だったなぁ」
これは嘘だ。それぐらいは佐々木にだってわかる。
「えっと、あの」
「なんだよ」
「あの、芹沢さん……は?」
「芹沢? ああ、エイミ?」
「はい」
「なんでエイミを気にすんだ?」
「えっ、だって、えっと、可愛い、じゃないですか。オシャレで」
それを聞いてようやく翔吾が振り返った。暗いトンネル内でも悪趣味な笑みが張り付いているのがわかる。
「なに、お前、エイミ好きなん?」
「いや、えっと、そういうのじゃなくて」
「マニアックだなーお前。あいつ、中身ババアだぜ? それに……」
「そ、それに?」
「知りたい?」
「少し」
佐々木の反応に翔吾が立ち止まった。
「じゃあ交換条件、だな。エイミの秘密知りたかったら、ロクと憂理の居場所教えろ」
闇の中でネコ科の目が光ったように見えた。
「でも……」
「知ってんの?」
「はい。ジンロクさんの居場所は、ですけど……」
「どこよ?」
「えっと、生活棟の……倉庫です」
「案内しろよ」
「えっと、エイミさんの秘密って……」
「じゃあ一つ目教えてやるよ」
「一つ目? 沢山あるんですか?」
「決まってんだろ。ただなぁ、全部を知ったとき、お前、きっと女って生き物がトラウマになるぜ? パンドラの箱って知ってっか? まさにアレだよ」
様々な害悪が詰められた箱。世界に災厄を生み出した箱。それぐらいは佐々木も知っている。その箱の底には希望があったときく。
「なんだか、少し怖いです、七井さん」
「だろーな。俺の親父も言ってたけどよ、女なんてな、みんなパンドラの箱だよ。ホント。外側は小綺麗でもな、もう中身にゃあ、ヤバいモンがパンパンに詰まってる。ちなみに最後までいっても、希望は入ってねぇよ? オーライ?」
「オーライ、です」
――そうなのか。
佐々木少年は人生の先輩である翔吾の言葉を真摯に受け止めた。さすが七井さんは違う――。
* * *
不思議な事に、貨物エレベーター付近にいるはずの見張りはその姿を消していた。
なにかあったのか、と佐々木は不安になる。
そんな佐々木を気にする様子もなく、翔吾はどんどん大区画を進んでゆく。
コンテナのビル群を抜け、階段を上がり、地下階へと歩みを進め、まさに堂々たるもの。
侵入者としての振る舞いを忘れたかのようだ。
「あの、七井さん」
「なによ」
「何かあったのかも知れません」
「何かって、何が」
「みんなが、居ないんです。おかしいです、こんなの」
翔吾が「ふぅん」と気のない返事をする。
「居ないなら居ないでいいわ。ラクだしな」
だが、おかしい。ここまで半村奴隷に誰一人として遭遇していない。それは『見張り』を任された佐々木にとって幸運なことではあったが、同時に不安なことでもあった。
もしここで半村と遭遇したら、どうなるのか。
翔吾は叩きのめされ、自分は裏切り者として厳しい処遇を下されるのではないか。
それこそ公開自慰が軽い刑だと思えるほどの。
もう少し歩けば生活棟というところで、ようやく佐々木は決心を固め、翔吾を呼び止めた。
「七井さん!」
唐突に名を呼ばれて翔吾が立ち止まった。そして訝しげに佐々木へと振り返る。
3メートルほどの距離、大声で呼び止める必要もない。だが大声を出してしまった。
翔吾の鋭い視線が佐々木をとらえる。蛇に睨まれたカエル――この場合は猫科に睨まれたネズミか。
「七井さん。バレちゃまずいです。殺されちゃいますよ」
そう、下手をすれば殺される。翔吾だけでなく、佐々木自身も。
そんな訴えを聞いても、翔吾は片眉を上げて、アゴを掻いて、面倒くさそうに応じるだけだ。
「もうバレてる、だろ? お前、半村奴隷じゃん」
「ぼ、僕はいいんです!」
「じゃあ、俺もいい」
「駄目ですよ! 変装しましょう、変装!」
変装などと苦しマギレに言ってしまったが、瞬間、パッと翔吾の眉が上がり、表情が明るくなった。
「変装? えっ、どんな?」
「七井さん、カツラですよ! カツラで別人を装えば」
「えっ、えっ? カツラとかあんの? マジ?」
翔吾の食いつきが良すぎて、佐々木はむしろ尻込みしてしまう。なぜ、こんな笑顔で?
「なぁ、どこにあんの? カツラ? 女装みたいな? 顔に樹脂とか塗んの? ルピンみたく?」
「えっと、どことか……わかりませんけど……。あるのかどうか……」
「え」笑顔が一転して眉間にシワが寄る。「なんだよ、お前、もってんじゃねーのかよ。期待させんなよなー」
「マズイですよ、絶対! ちょっと待っててください! すぐ戻りますから、絶対待っててくださいね!」
* * *
「七井さん、いいのありました!」
「んだよソレ……」
「バスタオルですよ、七井さん! これを頭から被ってれば、一目で七井さんだってわからない! そこのシャワー室にありました」
佐々木は満面の笑みで、ほとんど押し付けるような形で翔吾にバスタオルを受け渡す。
「うぇぇ……。お前なぁ、コレなんか湿ってんだけど……」
「はい!」
「はい、ってお前……。これってよ、前に俺らが使ったやつかも」
「そうなんですか?」
「そこ曲がったトコにあるシャワー室?」
「ええ!」
「やっぱそうじゃん」
ケンタの使ったものかも知れない、と嫌がる翔吾に佐々木少年は涙目で何度も何度も何度も懇願し、やがて翔吾が折れた。心底不快そうではあるが、被る事に同意する。
これで、シャワー上がりを装って、七井翔吾であることを隠せる。
「あの、それ、臭いますか?」
「そだなー。こりゃあ、ケンタの使ったやつじゃねーな。うん。コレたぶん、エイミのだ、エイミの匂いするわ。うん、完全にエイミ臭だわ。うっほー」
「えっ!?」
「嘘だよ、アホ。なに期待してんだよ」
「そんなんじゃ!」
「名前、聞いてなかったな」
「さ、佐々木司です」
「ツカサ? また女みてーな……。まぁいーや。道案内よろしくな。裏切ったら殺すかんな。ちゃんとロクんトコまで案内しろよな」
「えっと、はい! がんばります!」
かくして2人が生活棟へ続く中央階段のドアを開いた瞬間――階段の上から、耳をつんざくような悲鳴が降り込んできた。それは硬いコンクリートに染みこまず、強い反響をもって2人の鼓膜を揺らした。
翔吾が――素早くポケットから小刀を取り出したのを佐々木少年は見た。
* * *
翔吾が階段の壁へ背を預けたのに倣い、佐々木ツカサも壁に寄り添った。
なぜ自分までが侵入者のようなマネをしているのか、と不思議に思うが、流れに逆らえるほど主体的な人格でもない。
小刀を逆手に握った翔吾が、一歩、また一歩と階段を上ってゆくたび、階上の騒ぎが鮮明に聞こえてくる。
怒号、叫び、悲鳴。そのどれもがツカサには不快なもので、心は乱される。
「七井さん、どうなってるんですか?」
「俺に聞くな。でも、なんだろなー」
翔吾は立ち止まり、ツカサへと神妙な表情を向けた。
「よし、お前、偵察してこい」
「ヤですよ! なんで僕が」
「いや、お前、半村奴隷だろが。生活棟にいても問題なくね? 俺の役に立て」
「でも、すごい悲鳴ですよ! こわいです」
「ビックリするぐらいヘタレだな、お前は。そんなんじゃ、エイミに振られるぞ」
「な、内緒にしててくださいね」
そうして、仕方なく2人して忍び足で階段を上がってゆく。
生活棟を覗き込んで、すぐに2人は気付いた。これは、交戦だ、と。
先端に刃物付いた棒で、半村奴隷を壁際へと追い詰める黒腕章3名。うち1人はノボルだった。女子2人とともに、ハマノを壁際まで追い詰めている。
床には倒れた女子もいるが、腕章でそれがテオットの人員だとわかる。
「くっ、来んな!」
ハマノは手にした棒切れでテオットの武器を払うが、多勢に無勢は否めない。
じわじわと追い詰められ、その表情は恐怖に歪んでいた。
「七井さん! なんか、凄いことになってますよ!」
「ああ、ハマノとかいい気味だよな」
気の弱い佐々木はオロオロするばかりだが、あまり性格のよろしくない翔吾はニヤニヤしている。
「あれって、テオットの方ですよね」
「ああ、……サマンサ・タバタだな」
「どうします?」
「そだな……」
2人が様子をうかがっていると、やがてハマノが降参した。向けられる刃物に心が折れたのか、床に膝を落とし、命乞いをしているのがわかる。
翔吾がその光景を見つめながら、佐々木に訪ねた。
「お前、助けに行かなくていいのかよ? ハマノは仲間だろが」
「そうですけど、僕が行ったって、何もできませんもん……」
「マジ、ヘタレよな。おまえ」
「だって、テオットの人たち、刃物持ってますよ?」
「ありゃあ、ヤバし、だな」
やがて、ハマノは武器を奪われ、ロープらしきもので拘束された。
テオットたちはハマノの自由を奪うと、その場にハマノを転がしたまま、走り去ってゆく。
「七井さん、行きました」
「よし。俺らも行くぞ」
2人はようやく生活棟に足を踏み入れ、縛られたハマノの前に立つ。
ハマノは拘束されたまま2人を見上げ、驚愕だか、怒りだかの表情を顔面に浮かべた。
「お前! 七井ッ!」
「気安く呼ぶなザコ。七井様、なら許してやる」
翔吾は靴の先端でハマノの首あたりをグリグリ押す。
「佐々木ッ! 七井をやれ!」
指名されたツカサは、ハマノを見て、翔吾を見て、やがて首を振る。
「えっと。僕、そういうの苦手で……」
翔吾はハマノの首をつま先でイジめながら、憎らしげに言った。
「おい、ゴミ。何があったのか言え。言わなきゃ、痛い目みるぜ? 首、踏まれたい?」
ハマノは最初、反抗的な目で翔吾を見上げていたが、やがて首に足を乗せた翔吾の軍門に降った。
「テオットの連中が攻めて来たんだよ! アイツら頭おかしい! 刺すなんて普通じゃねぇよ! ユキエさんも、カネダさんもやられちまった! アイツら、異常だ!」
ユキエとカネダが。
それはツカサに尋常ならざる衝撃を与えた。半村派の二大巨頭が『ヤられた』など、にわかには信じがたい。
だが翔吾は動じる様子もなく、ハマノの首を踏みつけたまま、尋問する。
「半村は?」
「知らないよ! もう、なにがなんだか!」
生活棟全体がテオットの襲撃により混乱をきたしているのだろう。これは、ツカサにとっても、翔吾にとっても都合の良いことだった。
「ふーん。じゃ、俺、行くから」
「ほどいてくれよ!」
「いや、それ、お前にスゲぇ似合ってっから。ほどくとか、無理」
「佐々木ッ! ほどけ! 命令だ!」
翔吾とハマノに睨まれ、佐々木ツカサは慌てた。いまハマノに逆らえば、後で酷い目にあわされるに違いない。
だが、翔吾はもっと恐ろしい。
それに、エイミの秘密をもっと知りたいという欲求もあった。
――ええっと、ええっと!
瞬間、翔吾がツカサの首元に小刀を突きつけた。
かぶったタオルの下からのぞくネコ科の眼が、ツカサに冷や汗をかかせた。
「ハマノよ。コイツな、今、俺の捕虜なんだわ。コイツにお前をほどく自由はない」
鋭い目のまま、翔吾がツカサに命令する。
「オラ、案内しろ、オトコ女。死にたくないんだろ?」
翔吾に尻を蹴り上げられ、ツカサはヨタヨタと通路を歩き始める。
これが翔吾による『フォロー』であることに、ツカサは数メートル歩いてから、ようやく気付いた。
自分がこの出来事の後、半村派にすんなり帰属できるよう、翔吾が一芝居うってくれたのだ。
角を曲がり、ハマノの姿が見えなくなってから、ようやくツカサは翔吾へと向き直って礼を言った。
「あの、七井さん。ありがとうございます!」
「次も同じ手を使うからな。『仲間を助けたいフリ』ぐらいはしとけ」
「はい!」
やはり、七井翔吾は男の中の男だ。尊敬できる男だ。自分もこんなふうになりたい。
いささかに心酔気味に、ツカサは翔吾に奇妙な忠誠心を感じていた。
* * *