7-5a 廃墟にて
森を抜けた先にあった民家。
それは菜瑠に少なからず失望を与えた。
人が住んでいる息遣いが、微塵にも感じられない。古い茅葺の屋根は降灰に白く染まり、庭は雑草の畑と化している。
少なくとも、一週間やそこらでこの有様になるとは考えにくく、遺棄されてそれなりの時間が経過しているに違いなかった。
人の手を離れた人工構造物は、慌てて大自然との再婚を望むのではないか。そんなふうにも思う。
「これで誰かいたら……むしろホラーだね」
そんな風に菜瑠が呟くと、エイミはだらしなく頬を掻いた。
「ダメだこりゃ……。シャワーって感じじゃないわ」
しかし翔吾は廃屋であることを気にもせず、雑草を踏み分けて開きっぱなしの土間へと足を踏み入れた。
そうしてわざとらしく呼びかける。
「誰かいっかー? いないなら居ないって言えー。俺に入って欲しいなら、黙ってろ」
むろん、返事はない。
ケンタや遼も無表情に家屋へと進み、翔吾に続いて家宅侵入する。
誰も居ないとは言え、これは立派な犯罪なのではないか。
「これって不法侵入……だよね?」
「ダイジョブよ、ダイジョブ。どうせ、法律が生きてっかどうかもわかんないし」
男子が入ったことで、ようやく菜瑠たちも家屋内へと移動した。菜瑠が控え目に「おじゃまします」というと、エイミもそれに倣った。
そうして古びた敷居をくぐると、木造住宅特有の深みのある匂いが鼻を突く。
「日本ムカシ話の世界だわ、これ」
エイミはもう少し近代的な家屋を想像していたのだろう。落胆にテンションが低い。
見回せば、暗い中でも、埃が積もっていることがわかる。
だが、造り自体はしっかりしているようで、床が抜けていたり、柱が倒れていることもない。
翔吾は遠慮することなく土足で上がりこむと、閉ざされた引き戸などを無断でガタガタとやり始めた。
「ちょっと!」
「お前らも手伝えよ。さっさと! こう暗かったら話になんね!」
乱暴な物言いではあったが、これは正しい。
ただでさえ外も暗いのに、雨戸が締め切られていては、非常灯がある地下施設より暗い。
全員が手分けして、解放できる窓や雨戸を全て開け放つ。外からの頼りない光で、ようやく家屋内がじっくり観察できるようになった。
それほど広くはない。部屋の中央には囲炉裏。襖で区切られたもう一つの部屋。2階へと続く急階段。
「ケンタ! 2階行こうぜ、2階!」
「うぇーい!」
廃屋を探検する事に興奮しているのか。
翔吾とケンタが2階へ上がると、女子勢は顔を見合わせた。
菜瑠はため息を一つして、久々に腕を組む。バカと煙は、とは本当かも知れない。
「ねぇ菜瑠。お風呂探そうよ。お風呂。アタシ、お風呂さえあれば世界滅んでてもいい」
このエイミの提案に異議はない。
勝手に人様の家を使うのは気が引けるが、この様子では戻ってくるという事もあるまい。
野宿で得られない利点はこの際、最大限利用させてもらわねば。
ユキを遼に預けて、菜瑠たちは一階の探索を始めた。
土間に台所。それを進んだ先にはトイレがあった。汲み取り式というのは、あまり歓迎したくないが、野宿でことをいたす事と比べれば格段に上品だ。
風呂はタイル張りのものがあった。
開いた窓から吹き込んだであろう落ち葉が、浴室全体に散らばってはいるが、掃除すればまだまだ使えそうだ。
「菜瑠ぅ……。これマキで燃やすやつ?」
「みたい……」
だがこれも、野宿に比べれば、である。ぐるっと一階を周りきったところで、ようやく2階から翔吾達がおりてきた。
「2階は特になんもねぇや」
「そう……」
「よし。じゃあ、俺、戻るし」
唐突に翔吾が言う。
「えっ?」
「言っただろが。ユーリとロクを置いてけねぇ、ってよ」
翔吾は反論を許さない勢いで、全員を見回す。
「ここなら、掃除すりゃ、2、3日は泊まれるだろ。お前ら、ここで待機してろ。俺はあのアホどもを連れ出してくっからさ」
「でも……」
「エイミ! 俺は義理を果たしたぞ! 男の仁義を押し曲げて、お前らに義理を果たしたぞ!」
引き止めを見越したかのようにするどい視線で翔吾が言う。議論する気も、交渉する気も一切ない。そんな決意が言外ににじむ。
「僕もいこっと」
緊張感なくケンタが言うと、翔吾は素早くその頭をはたいた。
「デブ禁止!」
素早く遼が口を挟む。
「眼鏡は?」
「禁止。お前らは掃除と護衛」
ここまで大人しかった翔吾はずっと戻ることを考えていたに違いない。
その決意を前にして、菜瑠は引き止める言葉を知らない。
「いいな! ナル子! 3日。3日経って戻って来なかったら、たぶん俺もピンチだから、さっさと山降りて通報しろ。助けに来んなよ。俺で無理ならお前らには絶対無理だし」
まぁ、絶対戻っけど、そんな事を翔吾は言う。
「うん。わかった……」
「よし。掃除しっかりやれよ!」
言うが早いか、翔吾は自分の荷物から加工した木片を取り出し、ポケットにねじ込む。
「じゃ3日な! 今日は抜きで!」
それだけ言い放つと、翔吾は例のネコ科の動きで土間へと駆け下り、一瞬で姿を消した。
「ズルイ」
ケンタは不服そうだ。
だが、菜瑠は不思議と目標ができたように感じて心強かった。
きっと、翔吾は帰ってくる。杜倉憂理と、坂本甚六を連れて。戻ってくる。
それを万全の体制で待つ。
あるいは消極的とも言える目標であったが、積極的に事を進める事に不安を感じるいま、それは菜瑠の重荷を少しだけ軽くするものではあった。
「掃除!」菜瑠は声を上げた。
「3日間、ここでお世話になるわ。掃除して、環境を整えます。役割分担を決めるわ」
生活委員として、こんな事は慣れたものだ。
自分は翔吾や憂理の役に立てる。そう思えるのが嬉しかった。
* * *
風呂場の掃除は菜瑠の担当となった。
囲炉裏部屋の床はケンタとユキ。トイレは遼が進んで引き受けてくれた。
四季は囲炉裏部屋の床以外。土間や台所も担当する。
そして、掃除嫌いを公言し、新たな女子力のあり方を模索すると主張したエイミには家屋周辺の偵察が割り当てられた。
風呂場担当である菜瑠は、とりあえず落ち葉や枯れ枝を窓から捨てる作業に取り掛かった。これだけでも大仕事だ。
何層かに降り積もったそれは、中層以下がじっとり湿っており、ダンゴムシの住処になっていた。
「ごめんね。3日間だけ、使わせて」
手を汚しながらも、腐葉土となりかけた『住処』を住人ごと窓から外へ。天井にも蜘蛛が住処を作っていたが、家主はすでに転居しているらしかった。人も虫も去ったのか。
囲炉裏の方からは、幼稚な言い争いが聞こえる。
これはケンタの声か。
「四季さん! 上からホコリおとさないで! そこ、ゴミ片付けたばっかなのに! ユキも言って!」
「シキお姉ちゃん、やめて!」
「あなたたちの手順が間違ってる。まず、掃除は上から始めるのがセオリーよ。上部から下部。リンゴは木から落ちる、ゴミだって床へ落ちる。重力というものを考えるべきよ。優先されるべきは私の作業。非難されるいわれはないわ」
四季も案外おとなげないな、と菜瑠は思う。だが、こうして掃除などをしていると、過去、『13月以前』の施設を思い出す。
賑やかで、騒がしくて、軽口や馬鹿騒ぎ。そこには菜瑠の出番が沢山ある。個性と個性の小さなせめぎあい――平和とは、こういうことを言うのかもしれない。
「菜瑠、やったよ! 川ぁ見つけた。小川小川。井戸もあったよ、なんか蓋してあってキモイから近寄んないけど。小川はバッチシ!」
エイミが風呂場の窓から満面の笑みで覗き込んで来る。
「川かぁ、よかった……。水はきれい?」
「んもう、文句ナッシッングよ! たぶん、あれ湧き水だかんね。湧き水だぜ? すんげー冷たいよ」
「あとはバケツで水をくめれば良いんだけど。浴槽も洗いたいし……。バケツとかあるかな」
「菜瑠ぅ、あんたエイミさんナメてる? すでに手配済み!」
そう言って、エイミはその笑顔の横に桶を並べた。
「裏の納屋みたいなトコにあったんだ! 洗ったらまだ使える」
すると囲炉裏の方からケンタの声。
「水あんの? ちょうだい。床ふくから。シッキーもいる?」
「優先順位は私の作業のほうが上だわ」
「オケーオケー。エイミさんに任せとき!」
ああ、こんな感じだった。
菜瑠は思わず笑ってしまう。以前もこんなやりとりがあった。
色々な事があって、沢山成長して、沢山変化したような気がしていた。多くの失望を味わったし、人間の汚い部分もさんざん見せられた。
『人間の本質』というモノに不信感を覚えることもあった。
だが、こうしていると、少なくとも、ここにいる仲間たちは以前と同じ人たちなのだと再認識できた。
あの施設にこんな活気が戻ることはもうない。それは、さみしく思う。
だが、場所が変われど前向きにとらえれば、いつだって、どこだって、新しい居場所を作ることができる。
「ナル子。あの……トイレットペーパーどうしようか。持ち出したティッシュって、数も知れてるし。葉っぱとか……『マジで!?』って文句も出ると思うんだけど」
遼が言いにくそうに尋ねてくる。菜瑠はすっかりナル子に戻って言う。
「なんとかして。アナタの方が頭いいんだから」
四季も苦情を言いに来る。
「稲上ケンタが邪魔だわ」
「じゃま?」
「もう殺すしかない」
「もう……子供じゃないんだから。我慢して」
久々に菜瑠は充足感を噛み締めていた。
杜倉憂理の代わりではない自分。雑務の指揮者としての路乃後菜瑠を楽しんでいた。
日が暮れるまでに、薪も集めないと。水もできるだけ多く確保しよう。
* * *
風呂に張られた水が、入浴に適した温度まで上がった頃には、森に夜が訪れていた。
部屋全体を照らすには心細い囲炉裏の火。その頼りない光の元で『誰から入るか』が議論される。
この場に憂理や翔吾がいたならば、その議論も紛糾したに違いない。
だが、遼が早々に論戦から戦線離脱した今、論客はケンタだけ。そしてそのケンタも入浴へのモチベーションは決して高くない。
「いーわね! 女子が先!」
エイミの勝ち誇った笑顔が頼りない照明に下から照らされ、悪魔的に見える。
「覗きとかしたら、殺すから」
「しないよ。そんな事」
「懐中電灯借りて行くね」
「どーぞ」
入浴の順番は、エイミとユキ、四季、菜瑠。そして遼、ケンタとなった。
荷物から着替えやタオル、そして石鹸のたぐいを取り出し、エイミとユキが風呂場へと行くと、囲炉裏の周囲には奇妙な緊張が残った。
菜瑠はケンタと遼を睨みつけ、生活委員らしく言う。
「変なこと、想像しないでよね」
年頃の男子の考える事は、菜瑠にだって想像できる。
しかし、ケンタは眠そうにアクビを見せ、遼は寡黙に薪をくべる。
――興味ないのかな。
だが、『見たくないのか』と聞くのも人としてどうか、である。
腹の底を読み合うような、奇妙な緊張感が囲炉裏の周辺にあった。普段は特に意識していないが、彼らは男子である。ある一面において獣性を発揮するかもしれない。施設の男たちがそうであったように。
だがケンタと遼は、楽しそうに手にした木の枝で炎をかき混ぜるばかりで、四季はそれをじっと見つめている。
ほとんど会話のないまま時は過ぎ、やがてエイミとユキが湯気を立てながら囲炉裏前へと戻ってきた。
髪を完全に下ろしたエイミは、どこか大人っぽい。濡れ髪が囲炉裏の明かりに艶やかに吸収している。
「いやーお風呂マジ最高ッスティクス。ね、ユキー」
「うん」
囲炉裏の前に座り、エイミはユキの頭をタオルでガシガシやりながら、菜瑠に言った。
「次、菜瑠と四季入りなよ。 こいつら野獣はアタシが見張ってっから!」
* * *
夜が更ける。
灰の薄く乗った薪を囲炉裏にくべるたび、火の粉が赤い蛍となって小さく舞い上がる。火蛍は気流に乗って複雑に迷走し、やがて消える。
菜瑠などは囲炉裏を前にすれば、鉄鍋でなにか調理したい欲求に駆られるが、結局は真空パックで胃を満たすしかない。
慣れた手つきで好みの食材を取出し、厳かな晩餐となる。
雨戸のある窓はすべて閉ざしたが、すべての窓を塞げるわけでもない。
めざとく通り道を見つけた風たちが、開け放された窓から入ってきて、ヒュウヒュウと自己主張する。
早々に横になったケンタとユキを除いた4人は囲炉裏の四方にそれぞれ座って、踊る炎を見ていた。
「なんか……聞こえた」
囲炉裏の炎の向こうで、エイミが不安げに肘を抱いている。
髪をお団子にせず、ストレートに下していると、彼女は少し大人っぽく見える。
「なんかって?」
「わからないけど……オオカミ?」
これには遼が即答する。
「日本にオオカミはいないよ。絶滅した」
「絶滅って……。復活パターンは?」
「あったら良いんだろうけど、ね」
「じゃあ、トラとか」
「もっといない」
「じゃあ、恐竜」
「いたら大発見だね。おめでとう」
馬鹿にされたことを悟ったエイミが、ムッとして菜瑠へ顔を向ける。なにか言ってよ、だ。
菜瑠は受けた視線をそのまま四季へと投げかけた。
機械少女は頭からタオルをかぶり、炎の頼りない光を浴びて怪しい司祭のようになっている。タオルの下から覗く半開きの瞳が遼をとらえる。
「私も聞こえたわ」
「え? どんな?」
「獣の咆哮。でも、なんら|かの動物の鳴き声。これで6回聞こえてる」
エイミは目を見開く。「えっ、そんなに?」
「うーん。四季が言うなら……そうなのかも……」
なんとも軽薄な学者見習いである。個人的な感情が観察結果に影響するなど、あってはならない。エイミはさらにムッとして、「いるんだって、恐竜だって、恐竜! ダイナソー!」
翔吾などがいれば、がぜんテンションを上げて騒ぐのだろうが――。
菜瑠は薪に積もった灰を払いながら、ぼんやりと言葉を紡いだ。
「恐竜は……ないと思うけど……。でも……」
「でも?」
自分の考えを吐露することに戸惑いを覚える。菜瑠は薪から顔を上げ、仲間たちの表情をうかがう。
エイミは『なによ、早くいってよ』
遼は目に懐疑的な色。
四季は黒目だけ向けて菜瑠を見つめている。
「こんなこと言うの、自分でもどうかしてるって思うんだけど」
菜瑠は再び薪に視線を落として続けた。
もし、この地域、あるいはこの地方一帯が何らかの出来事により壊滅的打撃を受けていたなら、動物園の生物、あるいは農場の家畜はどうなるのか。
それらが解放される――ないし逃亡したとしたなら、自然の多い山間部に逃げ込むと考えるのが自然ではないか。
「ちょっと菜瑠。やめてよー」
「ごめん。考えすぎかな」
しかし、可能性はゼロではない。先に起こったという地震の規模によっては動物園の柵が壊れたとしても不思議はない。
黙って話を聞いていた四季が、タオルの頭巾から片耳だけを出して、目を閉じた。
「また、鳴いた」
「ちょっと、シッキ。怖いって」
「でも、距離はある」
檻の向こうにいた猛獣。菜瑠などは動物園に行ったとき、それらを可愛いと思った。
だが、いま脳裏によみがえるその動物たちは、不穏な雰囲気を持っている。
檻という区切り、安全の保証があってこそ、彼らを可愛いなどと評価できたのかもしれない。
彼らは檻の中の飼育されていた。腹もすかせず、渇きも覚えず。
だが飼育員がいなければ、彼らは自らで自らを飼育せねばならない。それは野生、というべきもの。
いざ、自然界に投げ出されたとき、自分は彼らのエサでしかないのではないか。
エイミは不安をごまかすように、あははと笑う。
「動物園にいたなら大丈夫よ。人間に慣れてるもん。可愛いもんよ」
「遼はどう思う?」
「うーん。心配しすぎかもね。もし逃げ出したとしても……。ほとんどは一年と生き延びないだろうし。温度管理もなくて、必要なエサも調達できるとは限らない……」
この気候に適したモノ、あるいは適応したモノだけが生き残る。
「生き残るのは……。変化できるモノ」
菜瑠がユキエの言葉を口に出して反芻すると、遼が小さく言う。
「ダーウィン、だね」
「なによ!」エイミは不機嫌だ。「いまそんなん関係ないじゃん。ダーウィンなんてただの『豆のオッサン』でしょ!」
「それはメンデルかな」
遼が言うと、四季も言う。
「メンデル」
とりあえず、菜瑠も言った。
「メンデル。遺伝の研究」
よくよく見回してみれば、この4人は成績上位者ばかりだ。エイミを除いて。
立場の悪さを察したエイミは、手にしていたタオルを丸め、寝ているケンタに投げつけた。「ちょっとケンタ! 今後のホーシンについて大事な話してんのよ! おきなさい」
だが、小太りの少年はユキとモゴモゴいうばかりで夢の世界から帰ってこない。最近、よく眠る。
「また……」四季が目を閉じ言った。「鳴いた。少し、近い」
それは菜瑠にも聞こえた。
地獄の底から響いてきたような、深く、重く、長い咆哮。
「ねぇ。入口、封鎖しよ?」
* * *
エイミの強硬な態度により、女子は2階で就寝することになった。
『獣』がもし襲ってきた場合、男子から食われるべき――というエイミの主張はいささか物騒であったが。
すっかり熟睡していたユキを起こすが、ぐずって表情を崩すので、ケンタのそばで寝かしておくことにする。
きっと、大きなぬいぐるみでも手に入れた気分なのだろう。ユキのためにもケンタには清潔にしてもらおうと菜瑠は思う。
1階と違い、2階は窓も雨戸も締め切られていたことで、積もった埃を除けば廃墟としての印象は薄い。
建物全体の古さはあるものの、野宿することと比較すれば格段に素晴らしい。
旅館、などとは言えないし、民宿と表現するのも上等すぎる。民家。それも下の下。だが、菜瑠はこういったボロ屋のほうが落ち着く。ここと負けず劣らずの環境で育ったからだ。
綺麗すぎるホテルなど、汚してしまうかもと考えて落ち着けない性分だ。
陽のあるうちに、畳の上は拭いたが、若干のカビ臭さは否めない。
「ね、菜瑠、みてみて。ローソク」
懐中電灯で照らしてみれば、たしかにロウソクだ。コップ型のガラス容器に閉じ込められたソレはあまり大きなモノではないが、光源に乏しい2階にあって貴重なアイテムだといえる。
「お地蔵さんとかに供えるやつ?」
「さあ? 座卓の引き出しに入ってた。下行って火を着火ファイヤーしてくるね。懐中電灯かして」
エイミが菜瑠から懐中電灯を受け取り、ドタドタ音を立てて階段を下りていった。光源を失ってしまうと2階の部屋は全くの闇だ。
自分が目を開けているのか、閉じているのかさえわからない。
「四季、いる?」
「いるわ」
「どこ?」
「ここ」
わからない。
だが、闇の中にかすかな風が起こって、やがて物音も生まれる。
どうやら、四季が何かしらの行動を起こしているらしいが、菜瑠には全く見えない。
きっと憂理なら、こういう。『暗視カメラも実装してんだな』
やがて、闇のなかに微かな光が生まれた。
縦に1メートル、横に数センチほどの光の線。それでようやく、四季が雨戸をあけたのだと菜瑠は理解した。
ガタガタ音が立つたびに光は広がり、やがて光は線から長方形になった。
月明かりなどない。だが、外は雨戸を締め切った部屋よりは幾分か明るかった。
とはいえ、とても照明の代わりにはなりそうにないが――。
「不思議だわ」
四季が長方形の光の中に、影絵となって姿を見せる。
「なにが?」
「羽虫がいない」
「ハムシ?」
「蛾、ユスリカ、カゲロウ、ウンカ、羽蟻……。下も窓が開けっ放しだったけど、羽虫の一匹も迷い込んでこなかった」
「そうなの。ダンゴムシはいたけど……コロコロしてたよ?」
影絵の四季が小さく頷く。
「地中の虫は確認していないけど、少なくとも、羽虫の類が寄ってこない。真冬でもないのに不自然だわ」
四季の観察が正しいのか、菜瑠にはわからない。ただ、確かにここまで羽虫に悩まされた覚えは無かった。いないならいないで、別段問題だとも思わなかったが、四季の実装する何らかのセンサーには反応したらしい。
「気になるの? 四季」
「わからないわ。快適ではあるけど――奇妙でもある」
そういえば、と菜瑠は考える。
施設から出て今日で2日目。ここまで虫だけでなく、鳥の鳴き声を聞いた記憶がない。これほどの山奥ならば、飽きるほど聞けるであろうに……。
虫が消え、虫を餌にしていた鳥が消えた――その推測が正しいのか、今の菜瑠にはわからない。ただそれが不吉な暗示ではあることは理性ではなく、本能で感じる。
それにしても、四季は不思議な女の子だと思う。
何も見ていないようで、何も聞いていないようで、実は全てを把握しているのではないか。
そして、それを表に出さず、自分の内で消化している。
一緒に行動するようになって、四季の一挙手一投足に注目してしまう自分を菜瑠は再発見していた。
自分が四季の事ばかり気にしているように思う。
「キャンドルきたよ!」
いささかに興奮気味のエイミがバタバタと床を鳴らして戻って来ると、部屋はパッと明るくなる。雰囲気的にも光量的にも。
「結構、明るいっしょー? ヤバイっしょー? ライト・ヒアー、ライト・ナウよ」
エイミは嬉々として部屋の中央にロウソクを設置し、懐中電灯を菜瑠に返した。
たしかに、明るい。
部屋全体を照らすほどではないが、『開けた窓』よりは頼りになりそうだ。
「明日は、家の中調べよっか。もっと、役に立つ物があるかも」
ロウソクを中心としてバッグを並べ、枕とする。
エイミなどは、すぐさま横になりだらしなく身体を伸ばしたが、四季は窓辺から外を眺めたまま離れない。
「四季?」
菜瑠が呼びかけると、ようやくで振り向き、小さく頷く。
エイミは大きなアクビを見せ、聞かせ、言った。
「さぁ、寝よ寝よ。昨日もほとんど寝られなかったし……。肌が火星みたく荒れちゃうわ。人類が寄りつかなくなっちゃう」
菜瑠もバッグの枕に頭を預け、ロウソクの火を見つめる。ガラスの中で、小さな火が敏感に燃えている。
「私たち、どうなるんだろ」
エイミがボソリと呟く。
「どうなると思う?」
「アタシ、バカだからわかんないけど、あの地下にいるよりはマシって思える。これからどうなろうとも、ね。少なくとも、半村も深川もいないし……。まぁ、イケメンには欠けてるけど」
「うん」
「ホントに破滅したトカ思わないけど、今後のプランは考えなきゃだわね。警察がダメだったら、トカさ。ね、四季?」
「皮肉だわ」
四季は枕に頭を乗せ、天井を見つめている。
「なにが?」
「あの施設は『世界の滅亡』を想定して作られたシェルター。引きこもるにうってつけの設備だった。なのに私たちはそこから逃げ出して、こんな廃屋で安全を確保したつもりでいる」
たしかに皮肉な事ではある。菜瑠はため息を一つして反論した。
「施設は完璧でも、内情が――アレだから」
「残念だわ」
それから、沈黙があった。
やがてエイミの寝息が聞こえ、四季の目が閉じられると、菜瑠はそっと半身を起こし、ロウソクの火を消した。
虫の声のない、どこまでも静かな夜だった。
* * *