7-2b 車椅子と箱船
ジンロクは意識を取り戻した後に、嘔吐を繰り返し、ケンタはゾンビのような動きながらも汚れた服を着替えにトイレへ。
薬物の影響が一番懸念されたユキとナオはむしろ2人よりも復調が早かった。半分ずつに分けたおかげで、摂取量が少なかったのかも知れない。
「完全復活っちゅうワケでもねーけど、一応全員揃ったな。ロクはもう動いて大丈夫か?」
「ああ。気分は悪いが……。動けないほどじゃない」
「じゃあ、ナル子、荷物まとめて出発でオーライ?」
名前を呼ばれた菜瑠はハッと我に返って、頷いた。
「うん……。でも……憂理は?」
菜瑠たちはこのプラントで10時間近く過ごした。もう、憂理が上階から降りてきていてもおかしくはない時間だ。
むろん、この部屋で仲間たちが待機していることを憂理は知らず、先行している可能性もあったが。
翔吾が四季の横で椅子をクルクル回しながら言う。
「先にいってんじゃね? T.E.O.Tに捕まってなけりゃ」
サラリと不穏なことを言う。
だが先行していたなら、外部へ繋がるシャッターあたりで落ちあえるだろう。
「無事だと良いけど……」
「大丈夫だってばよ。簡単に死ぬぐらいなら、もう死んでる」
エイミが菜瑠の側に来て心配そうにのぞき込んでくる。
「菜瑠、まだ調子悪い? なんか元気ないよ?」
「大丈夫。ちょっと疲れてるだけ……」
こうして仲間たちとコミュニケーションを取っていると、少しは気が紛れる。自己嫌悪と憂鬱の間で、ため息を吐かないよう気力で『ナル子』を演じる。
「おい、四季! いつまでパソコンいじってんだよ! ゲームは1日1時間って言われなかったのか」
翔吾がありあまるエネルギーを椅子の回転で消化しながら言う。
「この施設。すごいわ」
「だろ?」
「別に、アナタの手柄じゃないけれど、ここの根幹システムは芸術的だわ。本当にシェルター……地下都市として完璧に機能してる」
菜瑠は四季の横に立って、彼女の操作するモニターを見つめた。だが、モニターには様々な図形と文章が走っており、どこがどう凄いのか理解できない。
「地下都市?」
菜瑠が控え目につぶやくと、四季は無言でコクリと頷き各種のデータを指さした。
「設計思想は素晴らしい。人間が一定の文化水準で暮らせるように作られてる。だけど、その機能が完璧に運用されてるとは言い難い。残念だけど、凍結してるシステムが多いわ」
「止まってる? 壊れて?」
「運用する人間がいないから。最低限の部分しか稼働してない。車だって、誰かが運転しなければ走らない」
「私たち、凄いところに住んでたんだね……」
翔吾は大人しく聞いていたが、とうとう飽きたらしく、話に割って入ってくる。
「どーでもいいだろ、俺たちはもう出てくんだからよ」
いささかに投げやりな発言ではあったが、システムに興味のない人間からすれば『もっとも』な発言ではあった。
たとえ、この施設が近代科学の粋を結集した『ノアの方舟』であっても、希望が乗って居るとは思えない。それこそ動物に近づいた人間たちが乗っているだけ。
そうこうしている内に、トイレからケンタが戻ってきた。
体調の悪さが顔色として滲んでいる。菜瑠は早歩きにケンタへと近づき、真っ先に声をかけた。
「体調はどう?」
「頭の中がグルグルする……。動けないほどじゃないけど」
「あのとき、どんな感じだった?」
「どんな感じって……。なんか、気持ち悪い夢を見て、光を見て……。物凄い気持ちよかった。全部が許せるみたいな、天国みたいな。神様を見たかも」
自分と同じだ。菜瑠は自らの体験とケンタのそれを重ねた。ケンタも『再体験』を望むのだろうか。
捨てきれずにポケットに隠したミートボールに指で触れてしまう。
「もう、大丈夫だと思う?」
「わからない。でも……」
「でも?」
「すごい体験だった……」
そう語るケンタの目は、どことなく恍惚としていた。ケンタもかなりの快感を得たに違いない。
仲間が増えたように感じ、ホッとしながらも不安にもなる。
ケンタも自分と同じように、快楽を求めて闇を彷徨うことになるのだろうか。脳を蝕む『記憶』を振り払おうと、菜瑠はなるべく強く言葉を発した。
「出発しよ」
「よっしや、行こうぜ。タラタラしてても仕方ねぇ」
号令がかかると、各人が立ち上がり、一様に配給されたペットボトルを後ろポケットにねじ込んだ。
「大区画まで……なるべく急いで。深川先生に会ったら、とにかく逃げてね」
かくして逃避行は再開された。
ケンタの体調が優れないせいか、交わされる冗談や軽口はおしなべて少ない。
緑光が頼りなく照らす通路を、八つの影が黙々と進んでゆく。
生活委員としてこの地下階を訪れていた頃とはまるで印象が違う。
だが大きく変わったのは、施設ではなく、施設の内容物。自分たちだ。
変わらないものなど、きっと一つもない。変わってゆくという事実だけが変わらない摂理だ。菜瑠はそう思う。
先頭を歩いていた遼が、スッと立ち止まった。そして、無言で手を横に伸ばす。
「どうしたの?」
「音が……した」
翔吾の表情が険しくなる。
「深川か?」
「わからない」
全員が息を殺して耳をすました。100メートル先で針が落ちても気づくほどに集中する。
翔吾は手に巻かれていた包帯を、スルスルと外し、添え木すら外して通路の端に音もなく置く。
そうして、何処からか見覚えのある小刀を取り出した、
「来るなら来いっての」
トラブルは避けたい。菜瑠は小声で翔吾に自重を求めた。
翔吾の戦力を過小評価しているわけではない。ジンロクやケンタが体調を崩している今、撃退できるのは翔吾だけだろう。
だが、駄目だ。殺すのも、殺されるのも、駄目だ。
菜瑠に窘められても、翔吾はむしろ深川との遭遇を望んでいるのか、小刀を収めない。
「しまいなさい」
「命令すんな」
エイミも翔吾に詰め寄る。
「やめなさいよ!」
小声での言い争いが続く。
「俺の自由だろ?」
菜瑠は翔吾の正面に立ち、真っ直ぐに対峙する。
「私、憂理に『あとを頼む』って言われたわ。勝手なことはさせない」
「関係ねぇよ。憂理がどうであれ」
「ハッキリ言うわ。今、私たちにはアナタと遼君しかいない。ジンロクくんも、ケンタも動けない。アナタが頼りなの。私たちを守って欲しい。男として杜倉憂理が戻るまで皆を護って」
最後まで聞くと、翔吾は舌打ちを一つして、小刀を鞘に収めた。
「……しゃあねぇな」
この場は上手く収めることが出来た。だが、気がつかない間に、遼がかなり先まで先行してしまっている。そして、曲がり角に身を隠して遼が手招きしてきた。早く来い、と。
足音を立てないように一団が遼へと追いつくと眼鏡の少年は一つのドアを指差した。
「あそこだ」
あの部屋の中から音がしているのか。遼は声を殺して続ける。
「あの前を通らなきゃならない」
「深川?」
「わからない」
「静かに、気付かれないように行きましょう」
そうして、ゆっくりと角を曲がり、一団はドアへと近づいてゆく。
菜瑠の耳にも遼の聞いたであろう音が届いた。金属が擦れ合うような、ヒステリックな音だ。キィ、キィ、と不規則に部屋から聞こえてくる。
一際声を殺した翔吾が誰に言うでもなく、言う。
「車椅子、だろ?」
そういえば……。そんな、話が――。
刹那、ドアが開かれた。
ちょうど、ドアの前を横切っている最中。それは最悪のタイミングだった。
緑光だけだった世界に、部屋からの白光が差し込む。
ドアの向こうには、車椅子の男がいた。薄くなった髪、顔の下半分を覆うゴマシオの無精髭。斜視気味の黒い目――その片方が菜瑠を見ていた。
その邂逅は周囲の時間を止めた。一秒、二秒、いやもっと長い。
止まった時の中から一番に抜け出したの翔吾だった。
素早く、しまったハズの小刀を取り出し、低い姿勢で車椅子へ駆けてゆく。
止まっていた時は動いた。だが、緩やかに。
全てがスローモーションになって、駆ける翔吾の躍動がつぶさに見えた。ゆっくりと、ただゆっくりと。
獲物を見つけた猫科の猛獣が、その牙を剥こうとしていた。握られた小刀が車椅子へ伸ばされる。
刹那、悲鳴が上がった。
部屋を、通路を、施設全体を揺るがすような悲鳴。それは野太い男の声で、その音圧は菜瑠の心臓を萎縮させる。
車椅子の男が上げた悲鳴だった。
唐突な悲鳴に驚いた翔吾が小刀を引いて、数歩後ずさった。
「き、き、君たちは、ここの人じゃない」
車椅子の男が怯えた表情で言う。翔吾が小刀を構えたまま怒鳴る。
「テメーこそ! 何モンだッ!」
「ぼ、ぼくは、ここの人だ! き、君らはちがう!」
斜視気味の目がつぶさに動き、それに呼応するかのように吃音が強くなる。菜瑠は肌の一番浅い場所で『優位』を感じた。体格の良さが精神力の強さと比例しない顕著な例だ。
――この人……怖がってる。
「俺らはここのヒトだよ!」
「ち、ち、ちがう! ち、ちがう!」
「違うのはテメーだろ! キモオヤジが!」
菜瑠は翔吾の横まで歩み出て翔吾の腕に手を乗せ、構えた小刀を下げさせた。
「ナンだよ、ナル子ッ!」
「貴方は……誰?」
優しく問いかけた菜瑠に、車椅子の男は揺れながら反応する。
「ぼ、ぼくは、ぼくは」
「私、路乃後菜瑠って言うの。貴方は?」
ひと回り以上も歳上であろう男に、菜瑠は迷子に話しかけるように接する。
男は自分の顔をはたいたり、体を揺らしたりしながら答えた。
「ぼ、ぼくは、はんむら、半村尚志」
――半村……。
菜瑠はその名の衝撃を受け止めきれず、仲間たちへと振り返った。
エイミはポカンと口をあけ、四季は相変わらずの表情。遼は眉をひそめて首を傾げ、ケンタやジンロクたちもポカンとしている。
そんな中でも翔吾は動揺を怒りに変化させたらしい。
「半村ぁ? ふざけんな、お前はよ!」
「ふ、ふ、ふざけて、ない。よ」
「そのツラからしてフザケてんだよ!」
「ふ、ふざけて、ない」
「やめなさい」菜瑠は翔吾を押しのけて、半村に尋ねた。
「私たち、他にも半村って人を知ってるの。あなたはその人のコト知ってる?」
「に、兄ちゃん、じゃないかな、ぼ、ぼくの」
――兄弟。
菜瑠は驚きが表情として露出しないよう隠しながら対話を続ける。
「私たちは、怪しい者じゃないわ。それに、『ここのヒト』。上の階に住んでるの。貴方は?」
「ぼ、ぼくは、ここ。ここにずっといる」
「ひとまず、部屋に入っていい? 少しお話ししたいの」
* * *
仲間たちとともに、ほとんど無理やりに半村の部屋へと押し入り、菜瑠は部屋内を見回した。
――これは。
教室ほどの広さを有する部屋内。そこは『自室』と言うにはあまりにもせわしない。
先ほどのプラントよりも多くの機械がブロックパズルのように整然と並べられ、それらが様々な光を点滅させている。
これは、おそらく『私物』ではないだろう。彼の私物は部屋の隅に設置されたパイプベッドだけなのではないか。薄汚れたシーツが唯一の生活感に思える。
「おまえ、ココに住んでんの?」
翔吾が問うが、半村尚志は反応しない。相変わらず手で顔を触ったり、体を揺らしたりしている。見れば、四季が部屋内を勝手に歩き回り、機械を観察したりモニターを見たりしている。
菜瑠は尚志をのぞき込んで尋ねた。
「これは、なんの機械なの?」
尚志は少し動きを止めて、再び動き、やがて答えた。
「わ、わからない。よ。仕事、だから」
「操作するの?」
尚志は答えない。何かを考えているかのように見えるが、そうでないようにも見える。
部屋中を埋め尽くす機械は、プラントに置かれていたもの――『生産用』とは明らかに違っていた。機械に疎い菜瑠にもわかる。これは『管理用』だ。
色とりどりのモニターが様々な数値を指し、グラフの中で曲線がうねっている。
菜瑠たちが訝しげに部屋内を見回していると、尚志は急に車椅子を動かし、せわしなく部屋の奥へと去って行った。
――悪い人ではなさそうだ。
変わった人ではあるけれど、敵意や裏は感じられない。
「車椅子ってこんな奴だったのかよ。なんか拍子抜け、だな」
翔吾がどんな人物を想像していたのか菜瑠にはわからないが、それは翔吾が勝手に創り上げたイメージであり、尚志本人になんら非のある事ではない。
「生活感があるような、ないような部屋だね」
そんな感想を漏らす遼。
「もう行こうぜ」
「四季。もう行くよ?」
人一倍、興味深げにモニターを見ていた四季は、菜瑠の呼びかけに反応しない。呼びかけが聞こえない距離ではない。
「四季?」
もう一度呼ぶと、四季はフワリと髪をなびかせて、菜瑠の前までやって来た。
「あの人が、施設のインフラを動かしてる」
「えっ?」
「この施設の電力、上下水道、排水、空気循環、全てを管理してる」
半開きの目でそんなことを言う。コレには菜瑠も訝ってしまう。尚志を過小評価するわけではないが、彼の知性は……。
「嘘だろ? 出来るわけないじゃん」
翔吾が率直すぎるほどに菜瑠の気持ちを代弁した。突き放した言い方には問題があったが――四季は相変わらずの半開きの目で主張する。
「間違いない。あの人が管理者」四季の言葉に迷いは見られない。
「ここから、全てを管理出来る」
その言葉が正しいとすれば、この『現代の方舟』の船長が、あの半村弟ということになる。
遼と翔吾、エイミと菜瑠。互いに顔を合わせて、怪訝な表情を確認しあう。その怪訝の主成分は確認し合う必要がない。
すると、キコキコと甲高い金属音を聞かせて、半村尚志が再び姿を現した。
太ももの上に丸い金属製のトレイを乗せ、菜瑠の方へとやってくる。
トレイには8つのコップが乗っていたが、見るからに不揃いだ。白いマグカップに湯呑み、ガラスのコップに紙コップ。
尚志は近くのテーブルに車いすを横付けすると、たどたどしくそれらを乗せてゆく。そうして全てを乗せ終えると、彼は言った。
「お、お茶、ど、どうぞ」
「あ……ありがとう」
菜瑠は戸惑いながらも反射的に礼を述べた。
しかし、仲間たちは誰もカップに手を伸ばさない。
それは礼を言った菜瑠も例外ではなかった。菜瑠自身、それを飲むことに微かな抵抗を感じてしまっている。
だが、彼は自分たちを客人としてもてなしてくれている。ここで手をつけないのは失礼にあたるのではないかと菜瑠は思う。
菜瑠は小さな深呼吸をすると、ようやくガラスのコップに手を伸ばした。
茶色い液体は間違いなくお茶だ。きっとそうだ。彼は客人として自分たちをもてなしてくれているのだ。
だが、口をつける勇気が湧いてこない。仲間たちは依然として茶に手を伸ばそうとせず、ただ菜瑠の動向をじっと見つめてくる。
菜瑠だって警戒心は大事だと思う。先ごろも薬を盛られたばかりなのだ。
だが、善意なら――。この一杯の茶が彼の純粋な善意なら、手をつけないのは失礼だと思う。そしてなにより、1人とて手をつけずにいれば、彼を傷つけるかも知れない。
菜瑠は意を決して、コップを口元に運んだ。
そして、唇を開き、茶色の液体を一気に口内へ流し込む。
舌の表面で微かに感じる麦の香ばしさ。一度、二度、三度、喉を鳴らして、菜瑠はコップを空にした。
そして、飲み終えたコップを静かにテーブルへと戻した。
「ごちそうさま。喉がかわいてたの」
笑顔で言うと、尚志も嬉しそうに笑う。
「ま、まだ、あるよ、お、おかわりあるよ」
「ううん、いいよ。お腹いっぱいになっちゃったから」
「そ、そうだね」
なんだか、少し打ち解けた気がする。
「貴方はここで、何をしてるの?」
「ぼ、ぼくは、仕事をしてるんだ、うん、仕事」
「仕事って、どんな?」
「す、数字合わせ、合わせて、なおすんだ」
「へぇ。大変そうだね」
「た、たいへんだよ、ポンプのキャップの交換もするし、ぶ、部品もなおさなきゃ」
――この人、本当に……。
「1人で?」
「う、うん。に、兄ちゃんに教わった」
「すごいんだね」
菜瑠がお世辞抜きで感心すると、尚志は恥ずかしそうに体をよじる。
「ま、前は、たくさんいたけど、いまはひとり」
そんなやりとりを尻目に翔吾が退屈そうにアクビを見せ、近くの操作盤に腰を下ろした。その瞬間、半村尚志が激しく反応した。
「だッ、駄目、駄目、さわっちゃ、駄目!」
大声で叫び予想外の素早さをみせて翔吾へと接近する。
その勢いに驚いた翔吾がバランスを崩し、その拍子に操作盤の一部に肘をぶつけた。
その瞬間、フワリと、光が失われた。突然の闇が菜瑠や仲間たち、そして半村尚志を包み込んだ。
闇中で仲間たちの口からそれぞれの動揺が言葉にされる。
「何だよ!」
「ちょっと! なに?!」
暗い。
自分が目を閉じているのか、開いているのかもわからない。
だが、数秒ののち、無数のモニターが蘇りし、それに遅れて天井で赤い非常灯が点灯した。
完全な闇ではなくなったが、それでも十分に暗い。写真家などを連れてこれば嬉々として現像を始めるのではないか。
「なんだ! 何が起こった!?︎」
動揺する翔吾を操作盤から押しのけ、尚志が何やら計器類をいじる。
「だ、駄目、駄目なのに、駄目なのに!」
「どうなったの?!」
菜瑠が問いかけても尚志は一心不乱に操作盤に向かうばかり。
「だ、駄目なのに、駄目、駄目、怒られる、また、怒られるのに」
「怒られる?」
「な、直らない、直らない、だ、駄目なのに、駄目」
ただ事ではない雰囲気に菜瑠まで焦りを感じてしまう。赤色灯の下で、仲間たちは赤と黒に染まり、動揺を動きで伝えてくる。
「86.100.95.10.19.19.19.525.25」
突如として尚志が数字を暗唱し始める。菜瑠などはそれが、なにかの呪文かと思ってしまう。
「70.100.19.19.19.255.255.255」
「なにか、手伝える?」
「あ、あっち行け! 駄目なのに! き、きみらのせいだ! きみらのせい! ぶ、ぶ、ブス!」
先ほどの穏やかさやたどたどしさは尚志から失われていた。凄まじい勢い。圧倒的な感情。気圧された菜瑠を翔吾がかばう。
「なんだと、この野郎! ナル子を侮辱すんのか! テメー、管理者ならテメーがなんとかしろ!」
「き、きみらのせいだ! ででで、でてけ、ここから出てけ!」
尚志の声には怒りと焦りと憤りがあった。
管理者とはいえ、きっとこれは、彼の手に余る事態なのだろう。尚志から発せられる『焦り』が菜瑠にも感染する。
「四季! 何とかならない?!」
すがるように菜瑠が言うと、赤と黒の中で機械少女が揺れた。そしてその影はゆらりゆらりと操作盤に近づいてゆく。
「86.100.95.10.19.19.19.525.25……」
ああ、駄目だ。菜瑠は頭を抱えたい気分だ。四季までが呪文を唱えだしたではないか。
「70.100.19.19.19.255.255.255……」
しかし尚志の反応は菜瑠のそれと違う。
「き、きみ、知ってるの?」
「何処か――で見た数値だわ」
四季はモニターの隅から隅までを指で追い、同時に操作盤も確認する。
――四季ならなんとかしてくれる。
根拠はないが、自信はあった。それは信頼と言い換えてもいい。
「四季、できそう?!」
「静かにして。気が散るわ」
「四季ッ、やったれ!」
「静かにして、と言ったわ」
それぞれの応援に応じながら四季はモニターを確認し続ける。
やがて、赤光に染まった四季の顔が尚志に向いた。
「255.255.255の次は?」
問われた瞬間に尚志が数字を呟き始める。
「75.80.75.80.75.80.200.200.200.12.55.100.100.100.596.3.3.3……」
驚いた事に尚志の暗唱と同時に、四季も同じ数値を暗唱し、途中から完全なコーラスを聴かせる。
――この子、すごい……。
菜瑠自身、何が凄いのか把握できていない。理解の及ばない領域というのは存在するのか。
「間違いないわね」
「ま、まちがって、ない!」
「そう思うわ。私の記憶が正しければ」
「き、きみは……知ってる!」
「そう願うわ」
四季はモニターの一部を指差しながら、操作盤を注視した。様々なスイッチやノブに触れ、それらを、回したり切り替えたり、そしてまたモニターを確認する。
何度かその作業を繰り返し、言った。
「回転既定値まで……10秒。9、8……」
何がなんやらわからない。ただ圧倒されるだけだ。
「圧力が高いわ。リークバルブを解放して」
四季は言う。だが、その無表情が直撃する尚志はヒステリックに揺れるばかりだ。
「そ、そんなの、しらない、しってない!」
「じゃあ――この数値25を制御しているツマミは?」
「こ、これ、これ」
四季は指差されたツマミを何の躊躇もなく操作する。
「解放。1、5、10……20。25。既定値回復」
だが照明は復旧しない。相変わらず不穏な赤色灯が天井から照らしている。
「主電源、復旧。プログラム開始」
四季が宣言してから、5秒ほどの沈黙があった。どの頭も天井へと向き、赤色灯を見つめていた。
やがて、唐突に赤が白へと切り替わった。
パッと部屋中の照明が眩しいぐらいに輝き始めた。
天井へ向けられていた顔に、それぞれの笑顔が生まれる。
「やった!」
「凄い!」
菜瑠も正体不明の感動に体を痺れさせる。
――この子、凄い!
そして、思わず四季に飛びついて抱きつく。
ギュッっと抱きついて、菜瑠よりも少し高い位置にある四季の顔を見上げれば、四季の唇に微かな変化があった。少しだけ、ほんの少しだけ四季が微笑んでいた。
「四季、凄いね!」
「私も驚いてるわ」
翔吾や遼もお祭り騒ぎだ。翔吾が遼をヘッドロックで締め上げて、そんな2人にエイミが抱きつく。
「き、きみは、しってた!」
尚志は四季を指差して、大声を上げる。
「き、きみは救世主だ!」
「馬ッ鹿」翔吾が上機嫌に言う。「救施設主だよ!」
エイミも上がったテンションのまま叫ぶ。
「四季をなめんなよー!」
しかし、そんなお祭り騒ぎに水をさすように部屋の天井から電子音が響いた。
プププ、プププとリズム良く音が鳴る。
「よ、呼んでる」
尚志は車椅子を器用に転回させると、ひときわ大きなモニターへと近づいた。
そして、点滅するボタンのひとつを押す。
すると、そのモニターの表示が切り替わり、見覚えのある人物が姿を現した。
「おい! 尚志ッ! なんだ、今のは! どうなってる!」
画面いっぱいに現れた人物。それは菜瑠もよく知っている男だ。希代の暴君、『悪いほう』の半村――。