表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13月の解放区  作者: まつかく
7章 Evil and Flowers
61/125

7-2a 崩れゆく、何か


菜瑠が菜瑠に戻った時、初めて見たのは天井だった。


フックを通して天井中を張り巡らされる機械の配線。それをぼんやりと眺めた。

額に乗せられた濡れタオルがぬるい。


自分が意識を失っていたことは疑いない事実らしい。だがどれぐらいの時間を?

横耳に仲間たちの会話が飛び込んでくる。


「ゼッタイおかしいよ」エイミの声だ。

「『疲れ』だけであんな風になるなら、日本中のサラリーマンはエロエロになってるよ!」


次に遼の声。

「でも、それなら他に原因があるってことになるケド……」


「俺らがいない間に、何かあったんだろ? 頑丈なジンロクまで寝ゲロ吐いて寝こんでんだぜ?」


「わからない。ガス……とか?」


「とにかく今は回復が最優先よ」


――回復……。

菜瑠はおぼろげな意識の中で、自分の手を動かしてみた。すこし感覚が鈍いような気がするが、問題はなさそうだ。頭の中や全身に倦怠感が残って不快であるが、少し休めば大丈夫だと思う。


「エイミ……」


菜瑠が小さく声を上げると、快活な少女がまさに『すっ飛んで』やってきた。


「菜瑠、大丈夫? アタシにエロいことしたい? どう?」


菜瑠は少し笑って応じる。


「大丈夫だよ。さっきは……ゴメン」


おぼろげな意識のなかで、確かに記憶が残っている。自分はエイミや四季にとても恥ずかしい醜態をさらした。


「もー。大変だったんだからね! まとわりつくわ、エロいわ、死のう死のうってニヤけながら言うわで……」


「ごめん……」


「いや、別に、嫌じゃなかったから、いいけどね。ほら」


エイミに半身を起こされて、口元にペットボトルを寄せられる。

「ほら、水飲んで」


――水。


「駄目」菜瑠は不明瞭な意識を押しのけて、精一杯の声で言う。

「水飲んじゃ駄目!」


ぞろぞろと菜瑠の周囲に集まってきた仲間たち、彼らの顔に真剣な表情が張り付いている。

菜瑠は更に訴えた。


「きっと……水が原因……。多分食べ物も。私たち、遼くんがいない間に少し食べたの」


「いや、ナル子、何いってんの?」


「食べてからおかしくなった、食べちゃ駄目!」


遼と翔吾が顔を見合わせて、嫌悪感を表明する表情に代わる。『マジかよ』だ。


「T.E.O.Tの連中が何か入れてた……ってこと?」


「わからないけど、多分……。食べてすぐだったから……」


「調べてみよう」


遼と翔吾が行商バッグへ駆け寄り、それを逆さまにして内容物をぶちまける。

そうして、食糧の真空パックを手に取ると、それぞれに検分する。

遼が厳しい視線で真空パックを精査し、つぶやく。


「加工する前には混入できないはずだから、加工後……つまり真空にされた状態で入れるって事になるね。だとしたら……」


翔吾も怪訝そうにパックを光にさらす。


「なんか、微妙にヌメるよなぁ。袋がよ」


「注射器の穴あるかな?」


「あったらソコから、ちょっとずつ空気はいるだろー」


遼がパックの一部分を指さして、翔吾に差し出した。


「それをこうして透明なテープでふさいだら?」


「おいおい……。マジかよ。アイツら……」


菜瑠はエイミの介助を受けながらようやく立ち上がった。


「薬……だよね?」


その質問は愚問だとも言える。問題は『何の薬か』だ。

エイミも翔吾も憤慨して、口々にT.E.O.Tの事を罵る。遼などは「僕の責任だ」と表情を暗くする。食糧の供給を求めたのは畑中遼その人で、自責の念が強いとみえる。

菜瑠は頭を振った。


「遼くんは悪くないわ……。みんな疑ってたけど『まさか』のこと……。問題は……」


言いかけた菜瑠の言葉を、だんまりだった四季が補足する。


「なんの薬か」


だが、これも永遠の謎にはなりえなかった。

遼が床に目を落としながら菜瑠に訊ねる。


「ナル子は、どんな感じだった?」


問われて、菜瑠は自分を襲った症状を思い出せる限りで述べる。

まず、嘔気を伴わない気分の悪さ、そして悪夢のような非現実の出来事。だが快感を伴う幸福感と高揚感については、どうも口を濁してしまう。


「なんだかね、ちょっと、へんな気持ちになって……」


急に言葉を選び出した菜瑠に代わって、質問者であるはずの遼が続けた。


「多幸感、性的興奮と異常なオーガズム体験。たぶん……FF」


「エフエフ……?」


「合成麻薬」


床を見たままアッサリと遼が言った。

誰もが唖然としてはき出す言葉もない。シンとした室内に、遼の独白が続く。


「ある新興宗教が使っていた薬だよ。僕が読んだことのある症状とそっくりだ。たぶんLSDと他の麻薬成分を合成させた強烈なドラッグ」


ようやく、エイミが口を挟んだ。


「嘘……でしょ?」


「宗教では珍しいことじゃないよ。原始宗教でも幻覚は神に触れる行為だと考えられていたし、摂取自体を儀式に取り入れたシャーマニズムもある」


ここでようやく遼は顔を上げた。


「神秘体験が強烈な帰依を生み出す。従属も。薬の影響じゃなく、宗教的な神秘体験だと思い込まされれば、誰もが神の存在を身近に感じる」


「マジかよ……」翔吾の声にも勢いがない。


「経口摂取……。血管に直接入れるワケじゃないから、薬物として効果が薄まるけど、それに改良を加えられたのがFF。フリー・フォーミュラってわけ。画期的な薬だったんだよ。血管に注射されれば誰だって薬の影響を疑うからね」


菜瑠は自分の両肘を抱いた。

あの体験が薬の影響だというのなら、たしかに全てに説明がつくように思えた。あの奇妙な幻覚も、身を焦がすような性的興奮も。

遼は大きくため息をついて続けた。


「『伝説の薬』だと思ってたケド……。実際に使う人たちがいたんだね。ケンタや菜瑠はキマって、ジンロクたちには合わなかったみたいだね。そして、たぶん……」


遼は部屋中の機器を見回した。


「ここがプラントじゃないかな」


菜瑠も思わず機械群を見回してしまう。無機質な精密機械。それらの用途なり目的なりを知ってしまうと、どこか印象がかわってしまう。

菜瑠は怖くなる。不安が口から割って出た。


「私……、私たち大丈夫かな!?」


これには遼も、頭を掻いて『参ったな』だ。駆けだし学者然とした少年の表情が冴えない。


「わからない。確実に言えるのは依存性は高いってコト。アッサリとは抜けられないようにしてあるんだ。あと……」

遼はそこまで言うと口をつぐんで、「いや、これはいい」

しかしそんな『言いかけ』はエイミが許さない。


「なによ、言いなさいよね!」


翔吾もエイミに加勢する。

「そうだよ、言えよ。俺も聞きたい」


遼は罰が悪そうに額に手を当て、ぽつりと言う。


「この手のクスリにありがちなんだけど……。特にこの合成麻薬は精神衛生に悪いんだ」


どこかぼやかしたような遼の答えが納得できず、菜瑠は追求した。


「具体的には?」


「常用すれば、様々な精神疾患を起こすことになる。統合失調症からうつ病まで。たとえ微量でもね。かかる可能性が格段にあがっちゃうんだ。深川がああなったのも、FFのせいかも」


「クスリのせいでおかしくなったってコト?」


「うん。下手したら、深川も気付かないうちに少しずつ盛られてたのかも。それでマレに起こる神秘体験によって信仰心を強めていった……って推測は言い過ぎかな」


菜瑠は驚きや怒りより先に、恐怖を感じた。遼の言うことが事実であったなら、メサイアズ・フォーラムという団体はもはや宗教などとは言い難い。これは反社会組織、暴力団、マフィアだ。

不安を抱えたまま四季を見れば、機械少女は動じる様子もなく、相変わらずの無表情だ。


「四季は……どう思う?」


菜瑠が問うと、四季は首を菜瑠へ向け2度のまばたきをしてから答えた。


「新鮮な話じゃない。神の声を聞いた、神を見た。そう主張する人たちは皆、精神疾患か薬物中毒だとおもうわ」


「おま!」翔吾が怒る。「なんちゅうコトを言うか! マザーテレサに謝れ!」


「謝る必要がないわ」


「お前はーッ」


「仮に精神疾患でもマザー・テレサが偉大なことに変わりはないわ。むしろ、偉大な人は完全無欠なんだというレッテルこそ批判されるべきよ」


「んー。まぁ、偉大って認めるならいい」


菜瑠は小さなため息を吐いて、遼へ視線を戻した。眼鏡の少年は落ち込んだ様子ながら、その瞳の奥に回転する知性を感じさせる。

菜瑠一つの疑問を投げかけた。


「どうしてT.E.O.Tの人たちは私たちに薬物入りの食糧を渡したの?」


「『T.E.O.Tの人たちが』なのか、『タカユキが』か、だね。あれだけの効果を出すにはそれなりの分量のFFを入れたはずで、そうなると足止め……かな?」


「どうして足止めするの?」


「さあね」


自分たちがトランプの組み札ならば、数枚欠けることは許されない。だが、菜瑠たちはトランプなどではなかったし、仮にトランプであったとしても施設がこの状況では……。


菜瑠は自分の思考能力が低下していると感じた。頭の奥で何かがグルグル回って、考えがまとまらない。

これもクスリの影響。菜瑠はそう思う。

今まで、このような経験がなかったことから、『それなりの分量』を投与されたのは疑いない。


「頭がクラクラする……」


「効果がまだ続いてるのかもね。ともかく、やることが1つ増えた。食糧を全部捨てて、水を入れ替えよう」


「ああ、それがいいな。俺は幸福戦隊ブタ怪人みたくなるのはゴメンだ。ほら、見てみ、あのツラ。腹立つ」


「でも」菜瑠は脳裡をよぎった疑問をそのまま言葉にする。「入れ替えた水は安全なの?」


誰も答えない。誰も答えることができない。

そうだ、最初から飲料水に混入されていたとすれば? その仮定は仲間たちの口から言葉を奪い、代わりに考える機会を与えた。


水源そのものが汚染されていては、打てる手立てがない。当たり前に使っていた水道水が、使えない――それは少なからぬ衝撃を少年少女たちの胸に与えた。


安全な水が必要だ。それこそ保存用、非常用の飲料水が必要。水なしで人間がどれほど生きて行けるのか、菜瑠は考えたくもない。

一番に静寂を破ったのはエイミだった。泣きそうな顔で菜瑠の手を握る。


「菜瑠ぅー。やめてよー。怖くなるじゃんー」


しかし、気休めなどは言えない。大丈夫、などとその場しのぎに元気付けるなど、犯罪的楽天家の言うことだ。


「ごめん。でも、可能性はゼロじゃないから……」


そして、菜瑠が一番気にしているのが杜倉憂理だった。

自分たちはクスリの存在を知った。だが憂理は知らない。自分たちはこのまま薬効が消えるのを待って、水などに目もくれず一気に施設外へ出てしまえばいい。だが杜倉憂理は?


そして、菜瑠の中に生まれていたひとつの不確かな憶測が菜瑠自身の心をざわめかせる。それは勘と言い換えてもいい根拠のないモノであるが、無視できる程度のモノでもない。


テオットは杜倉グループではなく、杜倉憂理その人を足止めしたいのではないか。

もっと言えば、タカユキが憂理に執着している。菜瑠の勘がそう告げている。

理由があれば根拠になるが、その理由が菜瑠にはわからない。ただ、ぼんやりとそう思う。


――憂理。もどってきて。きっと今に大変なことが起きる……。


「菜瑠は大丈夫なのかよ?」


唐突に翔吾に問われ、菜瑠は思索の世界から強引に引き戻された。

「えっ? なにが?」


「なにが、ってお前、人の話を聞いてないだろ。薬の影響だよ」


「まだちょっと頭がクラクラするけど」


「なんだか頼りねーな」


「失礼ね。大丈夫よ」


「で、どうすんだ? くるか?」


「どこへ?」


「お前、まじで話きいてなかったろー」


「ちょっと考えごとしてて」


するとエイミが細かく説明してくれた。

ケンタやサカモト兄弟が復活するまでの間に、先遣隊が大区画まで行き行商バックの食糧と非常用飲料水を詰め直す。その先遣隊に加わるか、否か。

説明の最期にエイミが個人的な意見を付け加えた。


「菜瑠は休んでた方がいいよ。安静にしてた方がいい」


遼が補足する。

行商バックはそのまま大区画に置いておき、数本の水分だけを持ち帰ってくる計画だと。それほど人数はいらないと。


「休んでていいなら、そうさせてもらおうかな……」


翔吾が空いている椅子に腰を下ろして、アゴ指示する。


「じゃ、実行部隊は遼とエーミな。しっかりやれな。あと、俺ノドが乾いてるから早くな」


「何よ! アンタも来るんでしょ!」


「そうしたいケドなー。俺、ケガ人なんだよ。安静にしてたほうがいい、だろ?」


まったく都合のいいことだ。菜瑠は呆れる。本当の悪者とはこういう奴なのではないか。


「エイミ、気をつけてね?」


「うん、すぐ帰るから大丈夫よ。菜瑠もいい子にしてるのよ?」


「うん。たぶん」


「よしッ、行くわよリョー!」

そう言って胸を張り、ニカッとVサインを見せた。「行ってきます!」


エイミと遼が部屋から去ると、菜瑠は仲間たちを見回した。

翔吾は椅子のキャスターをカラカラ回してPCデスクへ接近すると、四季の作業を覗き込む。

その四季は翔吾の存在をまるで気にする様子もなく、モニターを注視していた。


薬物患者たちはどうだろうか。

ジンロクは大の字で床に寝かされ、まさにノックダウン。その両脇にナオとユキが子犬と子猫のごとく丸まってうなされていた。


菜瑠はフラつきながらもユキに歩み寄り、位置のずれた濡れタオルを直す。同じようにナオのタオルもキレイに折りたたんで乗せ直した。

体が小さいぶん、クスリの影響が大きくなる可能性が否定できず、胸が苦しくなる。

こんな子供が、なぜこんな仕打ちを受けているのか。早く良くなるといいけれど――。


そうして最後の患者に目をやると、ケンタの濡れタオルも大きくズレていた。

だが、余りにもズレすぎている。

眉の上に置かれるべきものが、なぜか股間に……。


――こんなにズレるものなのかしら……。


どのような寝相を経ればタオルがこの位置に来るのか。菜瑠は簡単なシミュレーションを脳内で描き、やがて一つの結論に達する。


「翔吾、あなたね?」


翔吾は座った椅子をクルクル回しながら「ヒヒヒ」と笑う。


「だってよ、股間が濡れてて恥ずかしいだろ? 本人も見てる俺たちもよ? 濡れタオルで隠す、誤魔化す、コレが優しさだよ、優しさ」


「着替えさせてあげなさいよ」


「ジョーダン! 3人がかりでも無理だぜ。だいたい、着替えがないだろ?」


――たしかに。

菜瑠は食糧や水に加えて、着替えも必要だと気がついた。街へ下りるのに何日かかるかわからない以上、数着の着替えは用意したほうがいい。


「大区画って……」


「ああ」


「着替えとかあるの?」


「さーなー。何でもありそうだけどな。コンテナだらけだし」


「そんなに広いの?」


「そりゃあ、アレだ。憂理が『ロボいるんじゃねーか、ロボ。なぁ翔吾、ロボがよぅ』ってテンション上げてたぐらいだからな。超広い」


意外と杜倉憂理も幼稚なのだなと、菜瑠は思う。しかし、それほど広いならある程度のものは手に入りそうだ。そこで最低限必要なものを調達しておくべきだろう。

今度は翔吾から質問がよせられる。


「で、憂理の奴はどこ行ったんだ? 用事とか遼に聞いたケド」


「テオットのとこ」


「なんで?」


「テオット内部にスパイがいたの。それを伝えに」


「かー。アホくさ! あんな奴らほっとけばいーんだよ。大体、真実の目トカでなんでも見通せるとか言ってたクセにスパイも見抜けないのか!」


菜瑠の脳細胞が輝き、上手い返しを閃かせる。――これだ!

菜瑠は言った。


「し、真実の目がド近眼だから、でしょ?」


――やった!

なんだか、してやったり、だ。

高い自己評価ながら、とても杜倉憂理っぽい返しができたと満足する。だが、そんなご満悦の菜瑠に対し翔吾はサラリと返す。


「いや、乱視だな」


ウワ手だ、と内心に感心する。あの狂信的な態度と行動、そして世界のとらえ方が『乱』の字にしっくり来る。『狂乱』という単語がまさに妥当だ。

ユーモアとは難しい。

エイミたちが帰ってくるまでの間、菜瑠は休むよりも学習に時間を費やす事に決めた。


「冗談って……。どんな風に考えるの?」


翔吾はクルクル回していた椅子をピタリと止め、真剣な表情で菜瑠を見つめた。


「それ、冗談……だろ?」


「別に……。ただ、軽口ってどうやって考え出してるのかな、って」


「考えるとか。ナル子よ、反射だよ、反射!」


「反射?」


「普通そうだろ? パンチが来たらかわす、ゴール前でパスを受けたらシュート。考えてからじゃ遅い。アクション、即、リアクションが鉄則だ」


これは、かなり高度な事ではないか。

自分に可能なのだろうか。菜瑠は『苦学タイプ』『秀才タイプ』であり、コツコツと積み上げる努力を得意とする。閃きや反射などを得意とする『天才タイプ』ではない。自分には無理なのだろうか。


考え込んだ菜瑠に翔吾が片眉を上げた。


「なんだよ、お前。お笑いキャラになりてーの?」


――そうなのだろうか。

菜瑠自身もわからない。ただ、人間関係においてユーモアは重要な要素だと思う。

せめて杜倉憂理のような軽口をマスターしたい。


「お笑いキャラなー。そーならな、アレだ、太れ。それだけでネタになる。見ろ、あの幸福戦隊ブタ怪人を。ネタの広辞苑だ。戦隊なのに1人なんだぜ? 戦隊なのに怪人なんだぜ?」


「笑われたいワケじゃないの!」


「ナル子、お前な、自分が笑われるのを嫌がる奴の笑いなんて、底が浅い三流以下だ。 笑って、笑われて、誰も傷付けずに笑いが取れればようやく二流だ。そこを忘れんなよ」


不覚にも菜瑠は翔吾の言葉に感銘を受けた。何の気なしに交わされる軽口やジョークにも、意外な哲学があるのではないか。


「じゃあ、じゃあ、一流の条件は?」


「二流で居続けること、だな。成長過程に身を置くこと。なんでもそうだろ?」


これは、思っていたよりも、はるかに深いものかも知れない。菜瑠はそう思う。




 *  *  *



瞳孔がおかしいのか、菜瑠は部屋の照明を直視できない。

これも恐らくはクスリの影響であろう。妙な幻覚や異常な興奮は収まっているが、今後のことを考えると少し怖くなる。


もし、あのクスリを今まで気付かないうちに服用させられていたら?

自分たちは施設から出た後に、禁断症状に苦しむのではないか。

もし、遼が指摘したような精神への影響が出始めたら?

もしかしたら、自分もすでに深川のような『自分だけの世界』に行ってしまっているとしたら?


――私は……正気なの?


誰かに聞いて、安心したい所ではあるが、その『誰か』も妄想世界の住人かも知れないと思うと聞く気にもなれない。

思い出せば、凄まじい快楽だった。それだけが身体に覚えこまされている。

何度も、何度も真っ白になって、軟体動物よりも身体がよじれて。


――エッチって、あんな感じなのかな。


経験のない菜瑠にはわからない。半村に襲われた時は恐怖と絶望で痛みしか感じなかった。

だが、あのクスリによってもたらされた快楽が暴力の忌まわしい記憶を薄れさせ、性への興味をかきたてる。

あの感じ、あの快感、もう一度……。


そこまで考えて、菜瑠はハッと我に返る。

自分は今、恐ろしい道に進もうとしていた。もう一度、もう一度だけ、クスリに身を任せてもいいと――そんな恐ろしい事を考えていた。

あり得ない。あってはいけない。麻薬は『ルール違反』などというレベルではない。『違法』だ。許されるはずがない。


――だけど……。


菜瑠は部屋の隅を見る。

そこには無数の真空パックとペットボトルが打ち捨てられている。あれは行商バックを空にした残骸だ。

菜瑠は身を横たえた状態からゆっくりと起き上がり、その残骸へと歩み寄った。


そして、それらを整理するふうを装いながら、一つの真空バックをズボンのポケットに押し込んだ。

――ミートボールなら大丈夫。一つ一つが小さいもの。だいいち、この一粒一粒に注入されてるワケじゃないでしょう。大丈夫、一度だけ、ほんの一回。


「ただいまーっ」


ドアが開かれて、エイミがニカっと笑う。

その手には行商バックではない袋が下がっている。


「おかえり」


「水、あったよ!」


その報告を受けて、翔吾が大喜びだ。


「でかした! 一本くれ」


「あいよー」


エイミは袋からペットボトルを取り出し、投げた。透明の容器に入ったソレは天井近くまでのアーチを描きながら翔吾へと届けられる。翔吾は受け取るが早いか、素早く蓋を開け、流し込む。

遅れてやってきた遼が、部屋の入り口付近にドサッと2つの袋を置いた。


「ハードだ……」


エイミより、かなり多めに持たされたようだ。ケンタの着替えまで持たされて、男に生まれたぶん余分に過酷さを背負わされている。


「はい、菜瑠にも水っ」


屈託のない笑顔を向けてくるエイミが眩しく感じる。自分に後ろめたい事があるから、そう思えるのか。

ズボンの後ろポケットに、罪が詰まっている。それが尻と心を圧迫してくる。


「どったの? 菜瑠? まだ調子悪い?」


水を受け取りながら、菜瑠は苦笑いだ。


「うん、そうかも」


「もう少し休んだ方がいいよ。ほら、立ってないで」


「ありがと」


エイミによってダンボールの簡易寝床に導かれ、寝かされる。菜瑠はポケットのミートボールを潰さないよう腰を下ろすと、慎重に体を倒した。


「おい、遼。クスリの効果はいつ消えるんだ? これじゃ身動きとれねぇぞ」


「最大でも12時間ぐらいだと思うよ。個人差は大きいだろうけど」


少なくとも、全員の回復にはまだしばらくの時間がかかりそうだ。男女でも効果差があるのだろうか――。

エイミは菜瑠のすぐ近くに腰を下ろし、明るい声で言う。


「でも、回復さえすれば早いわよ。しっかり偵察もしてきたから」


「あとは、出るだけだもんなぁ」


「楽勝、楽勝。ね、菜瑠?」


――そうだ。私には使命がある。みんなと脱出するという大事な使命が。


「うん。でも気を抜かないで。何があるかわからないから」


ポケットのミートボールを忘れようと、菜瑠は思考の空白を作らないようにした。

回復後の段取りを組み立て、頭の中でまとめる。

心や思考に隙間が出来れば、また良からぬ事を考えてしまう。

忘れよう、そしてチャンスを見つけてミートボールを捨ててしまおう。それがいい。そうしよう。


「しばらくは待機だな。それでいいよな、ナル子?」


「うん。今のうちに全員体を休めて」


こんな、偉そうに発言する自分にほとほと嫌気がさす。本当は快楽ばかりに意識が向いてしまう駄目人間なのに。今、自分は演じているのだ。ナル子という人物を。

エイミが菜瑠の横にダンボールを敷きながら、遼に尋ねた。


「シャワーとか、近くにある?」


「トイレの近くにあるよ。小さいけどタオルもある」


「やた! ロケーション最高!」


好ましいとはいえないダンボールの寝床もロケーションに含まれるはずだが、エイミはこの境遇にすっかり慣れたのか。

小さな幸福に喜ぶことは大事であるが、菜瑠などは少しわびしい気もする。


「菜瑠、シャワー浴びにいこ?」


エイミが嬉嬉として誘ってくるが、菜瑠は乗り気になれない。無気力、とまではいかないが、今はいい。そう思う。


「んー。私は後にする。ぼーっとしとく」


「調子わるいもんね。じゃあたし行ってくるね。四季は?」


呼ばれてようやく四季がモニターから向き直る。


「行く」


「女ってのはなんで群れたがるのかねー。なぁ遼よ」


「『君は羊』と書いて群れる……。シャワーなら僕もついていきたいケド」


「やだ、まじヘンタイ!」


「冗談だよ、冗談」


遼のこういう冗談も良いかもしれない。ボンヤリとした自己嫌悪のなかで人によってユーモアの種類も違うものだと、菜瑠は気づく。


「シャワー浴びるのは良いけど、なるべく口に入らないようにして。用心に越したことはない」


仲間たちの会話をモヤがかった思考の中で聞きながら、菜瑠は考える。

自分には足りないものが多い。こんな事態になって、今さら多く気づかされている。

これは劣等感か。あるいは引け目か。菜瑠にはわからない。


数時間、菜瑠はこんなとりとめのない事を考え続けていた。


自分は遠くない過去に杜倉憂理と敵対していた。あの少年を目のカタキにしていた。

それが今や自分は杜倉憂理のように振る舞おう、軽口を言おうと努力し、極端に言えば杜倉憂理になろうとしている。


杜倉憂理、ルール違反の常習犯。

規範やルール、法の遵守を貴ぶ菜瑠にとって、憂理は許しがたい存在だった。

だが、今、施設でのルールはなくなったに等しい。

第一、そのルールを定めたのは大人たち。怪しげな施設を運営し、違法に属する薬物を密造していた大人たちだ。


彼らが制定したルールなどに価値があるのか。もっと言えば法律だって、権力擁護の道具になり下がっているのではないか。

――ルールって……。


ルール違反の常習犯の杜倉憂理のとる行動の一つ一つ。それがいまや正義思える。自分の目は今まで曇っていたのか。あるいは正義の定義が変わったのか。

菜瑠は自身のアイデンティティが崩壊しつつあるのを止めることができない。

正しくありたい。だけど、正しさは誰が決める?


『君が正しい』と肯定してくれる大人はおらず、かといって多数決の愚はこれまでに散々見せられてきた――T.E.O.Tにも半村奴隷たちにも。

弱き子羊たる人間を導くのが、必ずしも善良な羊飼いとは限らず、群れを守る番犬が狼でないという保証はない。だが、それでも人は過ちかも知れないと薄々感じつつ過ちを犯す。


考えたくない、なにも。何者にもなれない、誰にも。

死にたい、などとは思わない。ただ、消え去ってしまいたいと思う。

あるいは逃げ出したい。全てを投げ出して、何のしがらみも、何の軋轢も、何の苦悩も悩みもない世界へ。


――あの、白い世界へ……。


どれほどの時間そうしていただろう。

菜瑠が思索の世界から戻った時、部屋の照明は落とされていた。

真っ暗な部屋――PCモニターからの淡い光だけが頼りない照明となっている。


菜瑠はゆっくりと寝床から起き上がった。

――今……何時だろう。


隣でエイミが寝息をたて、翔吾も遼も眠っている。モニター前には四季。これは起きているのか眠っているのか判然としない。ただモニターから放たれる光が四季の輪郭を影絵にしている。


菜瑠は立ち上がった。

そして、心のざわめきを自覚する。体の芯から染み出してくる黒い感情のまま、ポケットのミートボールを触って確認する。

そうして、菜瑠は足音を殺して部屋から抜け出した。


右へ左へ緑光に照らされた通路が伸びている。

壁に手を添えながら、菜瑠はトイレを探し、そしてトイレを見つけるとその付近にシャワールームをみつけた。


思ったより広く、寒々しい。菜瑠はドアを閉め、設置のタオルを一枚拝借して、脱衣所へ行く。

そこで着衣をスルリと脱ぎ捨てて、ズボンポケットからミートボールの真空パックを取り出した。

エイミや四季がいたのでは、堪能できない。誰にも言えない秘め事、その背徳的な興奮が菜瑠の鼓動を早めた。


――駄目だ。わたし、だめ。我慢できないよ。


忘れようとするが、考えないよう努力するが、菜瑠の肉体よりも、精神がFFを欲している。これは、渇きに近い。


壊れかけのアイデンティティ。仲間たちに感じる劣等感。自分の二面性への自己嫌悪。

逃げたい。この場所から、自分から、自分の肉体から。もう、何も考えたくない。考えても、ますます自分が嫌いになるだけだから。


――おかあさん。私、ダメかも知れない。


きっと、今の瞬間も母は頑張っている。

菜瑠が何処にいようと、世界がどうなろうと、母は自分のために頑張ってくれている。そして、きっと世界の誰より気高く美しい。

離れていてもわかる。目を閉じればわかる。

そして、それがますます菜瑠の自己嫌悪を加速させる。


――私みたいなクズのために、母が頑張っている。わかってるのに、わかってるのに。


菜瑠はシャワーの下に立ち、カーテンを閉めた。そして、おもむろに冷水のコックをひねった。

シャワーヘッドから放射される冷水が、一瞬にして菜瑠の体温を奪う。

冷たさが痛い。全身の筋肉が硬直し、まさに凍るかのよう。目を見開いて、菜瑠は自らに宣告する。


――これは、罰だ! 自分への、こんな、弱い自分への罰だ!


そして、手に持っていた真空パックをカーテンの向こうに力一杯に投げ捨てた。

自分を罰することで、まだギリギリの場所で『自分』の存在価値が見出せる気がした。ギリギリで踏みとどまれる気がした。

自分の手の甲の皮膚を、爪を立ててはつねる。それこそ、皮膚が破れてしまうほどに。


――もっと罰を。もっと痛みを。もっと、壊れるぐらいに。全部忘れるぐらいに!


――足りない! もっと!


菜瑠は流れ落ちる冷水の下で目を開け、罰を探す。


そして、閃きを得た。菜瑠は自らの乳首を親指と人差し指でつまんだ。両手で、両方を。そして、一気に爪を立て、力一杯でつねりあげた。

歯を食いしばり、膝をピンと伸ばし、悲鳴を上げる寸前まで。


――痛い! 痛い! 痛い!


だが、やがて自分の性器に熱を感じる。下半身に甘い感覚が広がってゆくのがわかる。


――わたし……。どうなって。痛いのに、痛いのに! なんで!


自分が性的興奮を覚えている事に気付くと、菜瑠は膝から崩れ落ちた。

そして、どうしょうもない自分が情けなくて、泣いた。


流水に熱い涙が混じるが、それは氷のような冷たさで床まで落ちる。

――私……。私……。


――私、へんたいだ。


声を出して、菜瑠は泣いた。

なにかが、壊れた。




 * * *

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ