7-1b 製造プラント
遼が戻った頃にはすっかり食事も終わり、気怠い雰囲気が小部屋を満たしていた。自分の不在時に食事を取られたことに遼は少しも気付いておらず、急かすようにPCのある部屋への移動を促した。
その部屋はさほど遠くない場所にあり、荷物を含めての移動が終わった頃には気怠い雰囲気は消え去っていた。
――ここはなんの部屋なのだろう。
菜瑠は疑問に部屋をグルリと見回す。教室ほどの空間に、何に使うかわからない機械が押し込められている。
それらの多くは透明のアクリル板によって覆われ、科学実験施設を連想させた。
部屋の奥にはお目当てのパソコンが二台鎮座してあり、アクリル板内の機器を制御するためのPCなのだと推測できた。
「なんの部屋?」
ケンタがぼんやりと遼に訊ねたが、遼だって首をかしげるのが精一杯だ。
「何かを作る部屋ってことは確かだけど……」
今更ながら、この施設には謎が多い。菜瑠が知り得たこれまでの情報を総合しても、まだ全体像がつかめない。
ただ、少なくともここにある機械群は戦時中のモノではないと思う。さまざまな照明、放置された薬品瓶、アクリル板の向こうには『いかにもな精密機械』。これらが戦中に存在しうるほどの国だったなら、この国はまだ戦時中だったかもしれない。
これらは間違いなく、メサイアズ・フォーラムの連中が運び込んだモノだ。
資材であろうダンボールの表面には『クラシカ・テネカ』と印刷してあるが、それがどういったモノなのかもわからない。ただ『よからぬくわだて』があったのは確実そうだ。
遼がPCデスクに歩み寄り、首をかしげた。
「ええっと、電源はどれなんだろう……」
「わからないの?」
「工業用機械の制御用だから……普通のじゃないんだ。少なくとも、僕の知ってる形じゃない」
すると、ケンタが歩み寄ってきて、無表情のまま、手当たり次第にスイッチを押し始めた。
「ちょっと! 壊れるわ!」
菜瑠がその暴挙を制すると、ケンタはアクビを一つ。
「電源が点いてる時ならともかく、切れてるなら簡単には壊れないよ」
コレは確かにそうなのかも知れない。だが、機械に疎い菜瑠としては、なるべく穏便に事が進んで欲しいのだ。ケンタの扱いでは、壊しても気付かないかも知れない。
PCの裏側に回り込んだ遼が、独り言を言う。
「これじゃないかな? ん。違う? じゃあ……」
唐突にファンが回転する音。PCの黒い本体に青い点滅が次々にともされてゆく。
「つ、ついたよ!」
BIOSが立ち上がり、黒かった液晶画面にプログラムが走り出す。
菜瑠はその1行ぐらい読んでみようと目をこらすが、凄まじい勢いでパスが流れ眼が追いつかない。
遼が戻った時、PCは完全に目を覚ましていた。
だが、遼は「うーん」とかんばしくない反応を聞かせる。
「デスクトップ……じゃないね。これ。起動と同時になにかが立ち上がるようになってる……。蔵書室の端末と同じだ……」
たしかに、見たことのない画面だ。
適量、総生産数、治具内完成数、配合処理、処理済みLOT……。様々な項目に、それぞれの数値窓が設けられ、現在の状況をモニターしている。
こんな時に、四季がいてくれれば――。
菜瑠は画面端に目を付けた。
「ここに、『戻る』ってボタンがあるよ」
「んー。じゃあ、マウスでクリックしてみて」
「ク、クリックね。ダ、ダブルクリック? マウスはどこ?」
少し慌てた菜瑠だったが、実際にマウスは見あたらない。PCモニターの前にある盤面も、見たことのあるキーボードではないのだ。特注であろう生産制御用の盤面だ。
遼は人差し指で盤面に触れる。
「多分、このトラックボールをコロコロするとカーソルが……。うん動くね。じゃあ、僕は隣のPCも起動してみる。こっちは普通のかも知れないし」
重責を押しつけられ、菜瑠は困惑した。できるのだろうか。
恐る恐るでトラックボールに触れ、動かしてみる。すると画面の矢印が生き返ったかのように画面内を泳いだ。
「ええっと、コロコロ、コロコロ、で、クリック、ダブル」
後で見ていたケンタがからかうように言う。
「なんか、ナル子。そうやってると、パソコン教室に通い始めたお婆ちゃんみたいだねー」
画面を見て、盤面を見て、画面を見て、盤面を見て。恐る恐るでそのサイクルを繰り返している。たしかに、不格好かも知れない。
菜瑠は咳払いを一つして、座った姿勢で背中をピンと伸ばし、さも『なんでもない、たいしたことない』風を装った。
「そんなこと、ないわ」
そうして『戻る』ボタン上までカーソルを移動させると、トラックボール横の決定ボタンに指を移動する。
――これで、良いのかしら?
不安になって、背後のケンタに向いてみる。だが、小太りの少年はニヤニヤするばかりだ。『どうしました、お婆ちゃん?』とでも言いたげに。
――馬鹿にして!
菜瑠はプイとモニターに向き直り、さも冷静であるかのように、ボタンを押した。
瞬間、部屋中からファンの音がうなりを上げ、菜瑠の心臓を縮み上がらせた。
ファンの音だけではない。プシュ、とシリンダーから空気が抜ける音、モーターが回転を上げる音。
素早くケンタを見れば、驚愕の表情だ。そしてその表情がますます菜瑠を慌てさせる。
見れば、アクリル板の中の機械がせわしなく動き始めていた。
菜瑠は叫んだ。
「アーッ!」
ケンタも叫んだ。
「アーッ!」
「どうしよう!」
「しらないよ!」
そして、2人同時に「アーッ!」
アクリル板の中は、消えていた照明が輝き、アームとシリンダーが一心不乱に稼働している。
「なにしてんの!」
気がついた遼も驚愕の表情だ。
「ナル子がやった!」
「わたしがやった!」
「とめて!」
「どうやって!?」
慌てる3人と対照的に、坂上兄弟たちは落ち着いたモノで、ほのぼのと精密機械を指さして何か話している。
「ナル子っ、停止ボタンない!?」
遼に言われるまま画面をさがすと、確かにそれはあった。画面の一番右上に『緊急停止』とある。赤い枠に囲まれて、黄色と黒の虎縞模様。それはどこかモノモノしい。
「お、押すね!」
菜瑠は必死でトラックボールを回し、迷い無く緊急停止ボタンを押した。
すると、唐突に機械は動作を止めた――が、今度は赤いパトランプと共に警告音が鳴り響いた。
「アァァァーッ!!」
「アァァァーッ!!」
「アァァァーッ!!」
同時に3人が叫ぶ、しかし遼はすぐに正気を取り戻して盤面に張り付き、トラックボールを乱暴に回して、『アラート解除』をクリックする。
瞬間、部屋に静寂が戻った。
「と、止まった……」
呆然とする菜瑠を、ケンタが批難した。
「ナル子、テロだよ、それは!」
「ケンタが手伝わないからよ!」
「まさか、動き出すとは……」
菜瑠の小さな胸に閉じ込められた心臓が、いまだに早い鼓動を聞かせている。
世の中の問題の多くはクリックによってもたらされている――菜瑠はそう思う。そしてそれはあながち間違いではない。
「でも」遼が深刻な表情に変わる。「大丈夫かな?」
「……何が?」
「前も同じような事があったんだよ。機械をいじったら警告音が鳴って……それに気付いた深川が……」
なるほど、たしかに近くにいれば感づかれたに違いない音量だった。深川は近くにいただろうか。罪悪感を感じる菜瑠と対照的に、ケンタは平然としている。
「大型エレベーターのときだよね。そういえば、あんときも遼の指示でボタンを押したんじゃなかった?」
「でも、押したのは僕じゃない」
なんとも苦しい自己弁護であったが、菜瑠は批難する気にはなれない。とりあえず、PCは起動したのだ。歩みは緩やかでも確実に前進している。
「カッコー」
なにか、聞き覚えのある音がした。3人が顔を見合わせてからモニターを見ると、モニターの端に小さなバルーンが点滅している。
「ナル子、クリックして」
ケンタが無責任に言う。
「あのね、世の中の問題の多くは……」
言い訳を繰る菜瑠に、遼が言う。
「今の音、四季の好きな音だよ! 鳥のサウンド! クリック、クリック」
急かされて、菜瑠は仕方なくトラックボールを回転させた。そして点滅するバルーンを……クリックする。
瞬間、バルーンが拡大して大きなウィンドウが表示させる。
画面にはこうあった。
『システムの更新26件があります。以下のボタンをクリックして更新を適用して下さい』
菜瑠にはよくわからないが、なんだかクリックしなければいけないらしい。
「押して良いの?」
「押しちゃえ、押しちゃえ」
ケンタに煽られ恐る恐るでクリックすると、新しいウィンドウが立ち上がり、オーディオのインジケータのようなモノが表示される。
ケンタが不安そうに言う。
「なんだろこれ? 押して良かったの?」
煽ったクセに無責任な事を言う。だが、その言葉に反応して、画面のインジケーターが波打つように動いた。菜瑠は少し面白くなる。
「いま、ケンタの声に反応したね。ほら、私の声にも!」
「これが更新?」
すると、遼がにっこり笑う。
「違うね。これは更新じゃない」そして、突如として大声を上げる。「おーい。四季。疑わなくても僕たちだよ! 聞こえる?」
意味のわからない菜瑠を察して、遼が簡単な説明をする。
このPCが起動したことに気付いた四季が、上階からシステムメッセージを模してコンタクトを取った。
起動したのが誰かを確認するために、音声を録音……。
すると、画面に文字が生み出される。
『確認した。聞こえてる』
「僕たちは今、地下階にいる。でも、深川に襲われて身動きが取れないんだ。今いる場所で待機してるから合流して欲しい」
『近くに深川が?』
「わからない。そもそも地下階に降りてきているかどうかもわからないんだ。早く合流して、シャッター出口へ移動を再開したい」
『了解。こちらも作業終了。合流の件、皆に伝えxr68ぐひおんmpう゛おいい「@pk@あpdfg8zうぇえxrcftgyふjんみおp』
「うわ!」ケンタが画面を見て呆然とした。「四季がバグった! またバグった!」
しばらくの間ののち、画面にメッセージが表示される。
『七井翔吾が横からキーボードをいじった。合流の件、把握。部屋も特定。30分以内に到着』
蔵書室での出来事が容易に推察できる。暇をもてあました七井翔吾は飢えた虎よりもタチが悪い。
菜瑠は画面に向かって語りかけた。
「じゃあ、待ってるわ。洗濯室に深川がいるかも知れないから、気をつけて」
『thx』
* * *
工業機械だらけの部屋で待機となると、嫌がおうにも機械に目がいく。菜瑠はPCデスクの椅子に座ったまま、ボンヤリと機械群を眺めていた。
これは、工作室などと言うレベルのものではない。いうなれば小規模なプラントだ。
施設の地下にこれほどの機械を持ち込んで、大人たちは何をやろうとしていたのか。
それほど想像力にたくましい菜瑠ではなかったが、なにか不穏なモノを想像せずにはいられない。
なにか、好ましくない目的のために作られた――そんな気がする。
そうしてじっと機械のアームを眺めていると、やがてそれが植物のツタように柔軟にしなり、うねり、菜瑠の方へと伸びてきた。
「え……?」
状況がつかめないまま呆然としていると、アームはどんどんアクリルの隙間から伸びてきて、菜瑠の方へと迫ってくる。
やがてそれらは菜瑠の手首に絡み、足首に絡み、胴体に巻き付き、首元を締め上げてくる。
「なッ……なに、どうなって!」
ピクリとも動けない菜瑠を機械のツタがどんどん締め上げて、やがてそれは足首の傷に触れた。
虫が触手でエサを探すかのように、ツタの先端が傷口を探り、触れられるたびに痛みが走る。
やがて、触手は傷口から菜瑠の体内に侵入した。細い血管を拡げながら、触手が体内を這い上がってくる。
菜瑠は叫んだ。
だが周囲は真っ暗で、誰にも声が届かない。
皮下をミミズが這っているかのように、白い肌が盛り上がる。次々に侵入する触手。不思議と痛みは感じない。それどころか、どこか恍惚として。
やがて触手が菜瑠の子宮に到達した。腹の一番低い場所を押し広げられてゆく感覚。次々に腹の底へ収まってゆく銀色の触手。
やがて胎動が始まる。
「きゃぁぁぁぁあぁぁ」
「ナル子!?」
ハッと気を取り戻したとき、そこで更に息をのむ。
椅子に座った菜瑠を揺り起こそうとする遼の顔が腐っている。皮膚がおぞましく紫色に変色して、ところどころが緑に。目玉なんてモノは乾ききってあらぬ方向を見ている。
ケンタもいた。口の周りを血みどろにして自分の腕を囓っていた。
ネズミのような黒目だけの無感情な眼で、カリカリカリカリただひたすらに自分の腕を囓っている。
「なるこぉぉ?」
空間が歪んで、音も歪んで、自分がどこにいるのかさえ把握できない。ただ叫び暴れる菜瑠をゾンビの遼とネズミのケンタが抑えにかかってくる。
――たすけて。誰か!
「ナル子!」
何度目かの呼びかけで、ようやく菜瑠は『普通の遼』と出会った。
「遼、くん?」
「どうしたんだい、ナル子。夢か!?」
「違う、寝てなんか……ないわ」
「いや、モゾモゾしだしたと思ったら、急に暴れ出すんだもん。ビックリだよ」
「なんだか……すごく、気分が悪いわ……。すごく」
これには遼がため息で応じる。
「うん。きっと疲れてるんだね……。みんな体調を崩してる。ケンタは幸せそうだけど」
見れば、ケンタはネズミ人間などにはなっておらず、行商バッグを枕にして眠っている。空腹を満たして、眠る。幸せそうだ。
しかし。ケンタの股間に、不自然な色を菜瑠は見た。
――あれ……。
「遼くん。ケンタ、あれって……」
菜瑠が指さすと、遼は指されたケンタの股間へ視線をやった。
「あれ……。漏らしてる? オネショってこと?」
「……たぶん」
ケンタの股間は濃いグレイになって、濡れているのがわかる。それは床を濡らすほどではないが、確実に股間を中心とした『お漏らし』を形作っている。
遼はすぐさまケンタの上半身を揺さぶり、無理やりに惰眠から引き起こす。
「ケンタ、起きて! 起きなって!」
大きく揺さぶられたケンタは、やがて目を開けた。だがその瞳は全開しない。
四季よりも開きの悪い半眼、虚ろな瞳で、遼を見上げる。
「りょうー」
その口元はヨダレで濡れ、笑みも浮いている。
「起きて!」
「すごい、幸せだぁ。真っ白な光が僕を包んで、全身が浄化されるんだ。凄く、気持ちいい。不思議な感じだけど、幸せを感じる。もうちょっと、寝させて……」
これは、なにやら妙なことになっている。だが、何が起こっているのかさっぱりわからない。
菜瑠はケンタの方へ行こうと、椅子から立ち上がった。だが足下がふらつく。
「じ、ジンロクくん……。ケンタを……」
だがジンロクも頭を抱えてピクリとも動かない。弟妹も放置された人形のように眠っている。
――なにか……。何かおかしい。
「ナル子! 無理しちゃ駄目だ!」
「なんか、おかしいよ、おかしいの」
立ち上がったものの、菜瑠はよろめき、近くにあったダンボールに腰を下ろす。足に力が入らない。
甘酸っぱい波のような感覚が血管を伝って全身に伝播してゆくのを感じる。
――やだ、怖い!
その波は快楽をともなって菜瑠の下半身を舐め尽くしてゆく。
恐怖と快楽の間で、菜瑠はただ目を閉じて体を丸める。圧倒的な力に、菜瑠は抗うすべを知らない。
――やだ、こわいよ、こわい。
だが、波はその周期を短くし、その快楽を高くしてゆく。
だんだん、自分の体が真っ白になってゆく感覚。溶けるような悦楽が自分の内側から湧いて出る。
――来る、来る!
次の瞬間には、波は絶頂に達する。
そうして、菜瑠は生まれて初めてのオーガズムを体験した。
一番高い波に身をさらわれた瞬間、菜瑠はダンボールから崩れ落ちて、床に倒れた。
弛緩した筋肉が小さな痙攣を不定期に伝える。
目を閉じた世界に幸福と、安らぎがあった。
「ナル子ッ!」
遼が駆け寄ってくる。強引に半身を起こされると、微かな不快感を感じる。
――いまは、いまは触らないで……。
薄目を開けた先でドアが開き、見知った顔が現れる。
エイミに四季に翔吾――。
3人が部屋内の状況を把握できず、唖然としている。それを菜瑠は可愛いと思う。ただ、ボンヤリとした世界で。ただ、甘美な時間の中で。
「手伝って!」遼が叫ぶ。「みんながおかしいんだ!」
「なにやってんだ?」
「わかんないんだよッ! 翔吾はケンタを起こして!」
「菜瑠っ!」エイミの声が心地良い。菜瑠は薄目のまま、駆け寄ってくるお団子少女を見つめる。
――エイミはかーいーなぁー。
遼に代わってエイミが介抱になると、菜瑠はその華奢な体に甘える。首に手を回し、エイミの首筋に唇を当てる。そして、キメの細かい首の皮膚に囁くように言う。
「エイミー。すごく可愛いよ。すごく可愛い」
「ちょっとーッ、菜瑠っ、そこ、だめだって! ちょっと!」
エイミは身を悶えて、首筋を逃がそうとするが、菜瑠は逃がさない。こんな可愛い女の子を他に渡すなんてできない。
「エイミー」
「ちょっとーッ、菜瑠っ、だめってー」
恥ずかしがるのが尚更かわいい。誰にも渡さない。さらに甘えようとする菜瑠の体に、再び小さな波がやってきた。
――きた……。くる……。
「エイミー。すきー。四季もおいでー」
呼ばれた四季も素直にやってくる。エイミは必死で言う。
「ちょっと四季、なんとかしてっ。菜瑠がなんか酔っぱらいみたく――」
近くに膝を落とした四季の首にも菜瑠は腕を回した。両手に花とはこのことか。
「四季すごいきれーだねー」
ロボット少女の首元は機械油の匂いなどではなく、シトラス系のさわやかな香り。菜瑠はなおさらうっとりして、唇をよせる。
「くすぐったいわ」
「んー。気持ちいい? かーいーいよ。エイミも四季も、全部わたしのもの」
どくん、と波がやってくる。
凄まじい快感が、果てしない多幸感が、菜瑠の全身を満たしてゆく。いま、死んでも良い――むしろ、殺してくれ。そう思う。
秘密の花園と化している菜瑠たちとは裏腹に、一方のケンタは悲惨な境遇にさらされている。
「起きろッ! ブタ怪人! お前、もらしてんだぞ! 何歳だよ、おい!」
翔吾は乱暴にケンタの頭をボカボカ叩く。こんな調子で叩いていては脳細胞が死滅するのも時間の問題だ。
だが、ケンタは半目のままヘラヘラしているばかりで正気を取り戻さない。
「コイツ、アホになったんと違うか! みろよ、このツラ! 腹立つ!」
「近くにトイレがある! 水場に行って、ブタ怪人に頭から水をかけよう!」
「どうやって運ぶんだよ! コイツ運ぶんならダンプカーがいるぞ!」
「でも、このままじゃ……」
「よし! こうだ! 転がせ!」
翔吾は言うが早いかケンタの側面に位置した。呼応した遼も同じ側からケンタの体を押す。
「いーち、にーっ。さんッ!」
かけ声とともに、ケンタの体がゴロリとうつぶせになる。どうにも死体を扱っているようで見目にもよろしくない。だがこれほどの重量物を扱うに、少年2人ではあまりにも非力であり、仕方のないことだった。
「もいっちょ! いーち、にーっ。さんッ!」
「翔吾ッ! ケンタの顔が潰れるって!」
「るせー! 最初から潰れてんだろ! 黙ってやれ!」
そうして、ヨダレやその他の体液にまみれたケンタが転がされてゆく間も、ジンロクたちは死んだように眠り、菜瑠には快楽の波が押し寄せていた。
――また、くるっ。
両腕の少女をグイと引き寄せて、菜瑠は最高潮に備える。
全てが好ましい白い世界。エイミの香りと四季の香りに包まれて、菜瑠はオーガズムの恐怖をすっかり克服していた。ただ、むさぼるように快楽の波に溺れる。
全てを忘れた瞬間だった。
菜瑠の人生で初めて、真っ白な瞬間だった。
そこには解放があった。積年の苦悩や心配事、葛藤や劣等感。すべてから解放された世界があった。
自分の全身を支配する感覚が好ましい。魂の入れ物でしかない肉体が、圧倒的快楽をもって魂を支配しようとしていた。
雲の上にいるかのような浮遊感、そして酩酊。押し寄せる快感の波は、凶悪な津波のように、菜瑠の内部を洗い流してゆく。
不安、罪悪感、悲しみや悔しさ、怒り、プレッシャー。それらを全て洗い流してゆく。
天国というモノがこんなふうなら、そして自分が立ち入る権利を有しているなら、いま死んでも良い。
いっそみんなで死のうよ。菜瑠はそう思う。
* * *