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13月の解放区  作者: まつかく
6章 エデンの地下で 
58/125

6-7c ある別れ


蔵書室のドアまで辿り着いた頃には背中がじっとりと汗で湿り、疲労の蓄積を感じる。

ユキエは相変わらずつかず離れずの距離を保ってついてきており、会話は一つもなかった。


スライドドアを少しだけ開き、ケンタが肩をすくめた。


「開いてるケド……」


途切れた言葉の続きはこうだろう。

――けど、ユキエはどうする?


『ついてこい』などと格好良い事を言ったのはいいが、いざ本当に合流するとなると様々な危惧が脳裡をよぎる。

蔵書室からリモートロックを操作していることがユキエに知られてはマズいのではないか。


――本当に……いいのか。

憂理は数秒の逡巡を経て、ようやく判断を下した。


「ケンタ。ちょっと、ユキエ見ててくれ。みんなと話をしてくる」


ケンタは返事をかえさず、ただ肩をすくめるだけだ。どうぞ、ご自由に、ということらしい。

憂理は通路にケンタとユキエを待たせ、自らは蔵書室のスライドドアをくぐった。


蔵書の放つ重厚な香りが嗅覚を刺激し、視覚には『懐かしき』仲間たち。

PCの前には四季が陣取り、その両脇に菜瑠とエイミ。その他の者たちは近くのテーブルで退屈そうにしている。


頬杖をついた翔吾が、眉間にしわを寄せて言う。


「おせーぞ」


「お前らが早すぎるんだよ。俺らは荷物背負ってんだから……」


そう。そしてさらに『大きすぎる荷物』を抱え込んでしまった。

憂理は頭を掻いて、背中の重荷を床に下ろし、全員を見回す。


「えっと、さ。ユキエが……」


好まれざる固有名詞を耳にして、その場にいた半数以上が眉や唇に反応を見せる。

小さな逡巡に胸を焼き、床へ視線を落とし、ようやく憂理は言葉を続けた。


「ユキエが……。……違うな。えっと、ユキエを連れてっても良いか?」


頬杖の先、頬にあてられた翔吾の手のひらが、猫科の表情を歪めさせた。


「どこに?」


「どこに、ってか……脱走に」


翔吾と遼が顔を見合わせ、菜瑠とエイミが顔を見合わせ、ジンロクが真っ直ぐに憂理を見つめてくる。その表情のどれもに、例外なく深刻な危惧の色がある。


「おまえ……。何いってんだ?」


翔吾の視線が冷たい。

憂理は気まずさにまた頭を掻いて、事の経緯を丁寧に説明した。仲間たちの誰もが口を挟まず、ただ四季の叩くキーボードの音だけが歪な時を刻む。


「……反対」


説明を最後まで聞いて、一番に反論したのはエイミだった。いつかの菜瑠のように固く腕を組み、敵意丸出しの視線を憂理に突き刺してくる。


「アンタね。菜瑠の気持ち考えた? あの子が半村に協力して……何をしたか忘れたの?」


これには返す言葉がない。半村が菜瑠を暴行しようとした時、ユキエは止めるどころか『優秀な共犯者』であった。彼女こそ、良き友人などではなく、良き下僕だった。

――わかるよ。わかるけど……。


自分の反論が仲間たちの批難にさらされる事が明白で、憂理は言葉を継げない。ただ唇を噛んで、床を見つめるだけ。

ジンロクも厳しい。


「アイツは半村の支配を喜んでただろ。それが急に脱走なんて、おかしな話だ」


刑務官が刑務所を脱獄、そんなたとえを遼が持ち出す。憂理は強情をはるでもなく、言い負かされるでもなく、ただ正直に心情を吐露した。


「アイツがしたこと……。許せない。それは俺も一緒なんだよ。でもさ、もし本当にアイツがやり直したいって、自分を変えたいって思った時、たった一本の道も無いのって凄く悲惨じゃないか?」


更正の道を断たれれば、今、自分が断っている道を進むしかない。それはこの小さな社会にとっても、ユキエ本人にとっても悲劇と言える事じゃないのか。

憂理は続ける。


「俺さ。自分がユキエの立場だったら、どうなんだろうって考えてた。死んだ方がマシって思える人生って、どんなんだろうって。アイツさ、すがってたんだと思うんだ。イジメ被害者っていう自分の進んできた道に新しい分岐点ができてさ、その新しい道の善し悪しを考えずに、迷わず飛び込んだんだと思うんだ。そんで、その道に一生懸命、それこそ人生を賭けてすがりついたんだって。そんなふうに思うんだよ」


過酷な被害者から、苛烈な加害者。その進路変更は必ずしも褒められたモノではない。だが、自分が同じ立場にいたなら、同じように進路切り替えを行ったのではないか。


「俺たちはさ、なんか、なんとなく生きていけてるケド。生きてるって事にすら無感覚だけど、そうじゃないヤツもいたんだよ。だから、少しでもマシな道を用意してやれんなら、用意だけでもしてやるべきじゃないかって。その道を進むも進まないもユキエの自由だけど……」


憂理はようやく顔を上げて、全員の顔を順番に見た。

「犯した罪を消そうってんじゃない。全部許そうってんじゃない。ただ本当に変わりたいヤツがいるなら、俺はチャンスを与えてやりたい」


憂理が心情をはき出し終わると、場には重苦しい沈黙があった。

暴行された菜瑠は目を伏せたまま。キャットファイトを繰り広げたエイミは眉間にシワを寄せたまま。

遼は眼鏡の奥で思慮深い視線をたたえ、翔吾は頬杖で頬肉を上げて。

ジンロクは唇をへの字に曲げ、幼い弟妹たちはそんな兄を不安げに見上げている。


そして、キーボードの打音をとめ、四季が言った。


「殺すしかないわ」


思わず、耳を疑う。

その意見に意表を突かれた者たちが、PC前に座る四季に視線を移した。

集まった視線を気にする様子もなく、四季は首の角度を少しだけ動かし、半開きの眼で憂理を見やり、言った。


「私たちに更正させることが出来ないなら、殺すしかない。更正させると言うことは互いに過去を受け入れ、共に歩むと言うこと。私たちにも覚悟がいること。それができないならいずれ邪魔に――」


「いや、四季さん。極端すぎるぞ、それは」


ジンロクがへの字の口を開いた。


「うん。永良は過激すぎるな。そりゃあ、ケジメはだな、つけなきゃならんが……。殺すなんて極端すぎる。遼はどう考えてるんだ?」


話を振られた遼は、眼鏡の位置を直し、腕を組む。


「いいんじゃないかな。受け入れても」


全員の視線を一身に浴びながら、駆け出しの学者が言う。


「なにも、難しく考えることはないと思うんだ。深い井戸にはまり込んだ人間が自分1人だけの力で這い上がれるとも思わない。誰かの力が必要なんだと思う。そして、自分がその『誰か』に選ばれたなら、僕は喜んで手を貸したい」


「だーかーらッ!」エイミの声がひときわ大きい。


「更正できる、できないとか、そんなんじゃなく、無視ればいいのよ! だいたい、施設がこうなったのもあの子のせいじゃない! 相手にする方がオカシイのよ!」


エイミの心情も理解できる。

憂理は自らの無力を感じ始めた。やはり、1人の人間を救うに、自分の手のひらは、自分の背中は小さすぎるのか。

すると、フロートドアがスルリと開き、ケンタが中に入ってきた。

小太りの少年は後ろ手でドアを閉め、小さなため息を吐いてから言った。


「ユキエ、もう行っちゃったよ」


そうして、心境のニガミを表明するような表情で続ける。


「通路にみんなの声が……筒抜けで」


顔に顔、視線に視線をつき合わせて、誰もが気まずさを感じた。いっそ誰かのせいにしたいほどの居心地の悪さ。

だが、憂理は肩の重荷が下りたような気がしてホッとした。そしてすぐさま自分の軽薄を嫌悪する。

自分が世界で一番卑怯な人間になったような気がして、落ち込む。


菜瑠は両肘を抱いて目を伏せたまま、最後まで一言も発しなかった。



 * * *



ただでさえ重厚な蔵書室の空気がなおさら重苦しくなり、ようやく吸った酸素が肺の中で溜息へと化学変化を起こす。しかし感傷的に立ち止まっているワケにもいかない。

憂理は遼に問うた。


「状況は?」


遼は鼻先まで下がっていた眼鏡をクイと指で押し上げ、憂理を見る。


「いま四季がプログラムを書き換えてくれてる」


聞けば、半村側で操作されているリモートロックのシステムにこちらから干渉しているらしい。

その後に続く詳しい話を聞いても憂理の頭はこんがらがるばかりで、少しも理解が追いつかない。

憂理の様子を察して、遼が端的な説明をする。


「ゲームでいえば、ルール変更だよ。半村たちに気付かれない程度の」


「ふうん」


「ユーリ」おとなしかった翔吾がようやく言葉を発した。珍しく神妙な顔つきで首を振る。「地下階のドアぁダメだ。見張りがどっさり、だわ」


これも深川包囲の一環だろう。逃げ道になりそうな場所は全て押さえてあるに違いない。

しかし、これはある程度想定できていた。

半村の意向が『脱走ヲ禁ズ』であることを知った今、別段驚く事でもない。


「『穴』がある」


洗濯室に掘りかけの穴。あれを完成させれば地下階へ直通だ。


「洗濯室はロックされてるか?」


四季の指がひときわ早く動いた。


「まだ。今のうちにパスワードを割っておくわ」


「よし、急ぐぞ。手の空いてる奴は洗濯室だ。穴を完成させよう」


蔵書室に四季が残り、護衛にケンタとエイミ、そしてジンロク弟妹がつくことになった。彼らは穴が開通し次第呼び寄せる事にする。

護衛などとは言うが、ナオとユキは幼く、ケンタは息が上がっている。実際のお目付役はエイミだけだ。


「エイミ。ヤバそうだったら、さっさと洗濯室に撤収してこいよ?」


エイミはいつになく、神妙な表情で応じる。


「うん、そうする」


「ここは多分安全だと思うケド、ナオとユキも、ヤバさを感じたらすぐ逃げろよ。俺もロクも洗濯室にいるからな」


ナオは真っ直ぐな瞳で憂理を見つめ、への字の口を開く。


「ユーリ兄ちゃんも、気をつけろよな」


「ああ。四季も、作業が終わったらさっさと撤収な」


「まだかかる。《《お土産》》も残しておきたいわ」



 *  *  *


久々にやってきた洗濯室は、時間の流れから取り残されたかのように以前憂理たちが放置した状況のままだ。

積み重なる洗濯物を掻き分けてみれば、そこに穴はあった。


「これ、お前らが掘ったのか?」


ジンロクが驚くのも無理はない。憂理自身、時間を置いて穴を見てみれば『よく掘ったな』と、いささか第三者的な驚きがあったからだ。


「あと、30センチぐらいで地下階のハズだ。急ごう」


荷物を下ろし、ドライバーとハンマーを手に取る。憂理と遼とジンロクが掘りに従事し、菜瑠と翔吾が見張りとサポートに回る

掘り出された砂礫を集め、洗濯物に包む。


作業を再開して、あまりにも進捗が早いことに憂理は内心に驚かされた。

作業効率を一気に押し上げているのは、言うまでもなくジンロクだ。

凄まじい威力をもってコンクリートを砕いてゆく。憂理や遼と比べ、インパクトの音から違う。


「すごいね、ロクは」


遼がしきりに感心するが、ジンロクは得意になることもなく、黙々と作業する。

菜瑠は白い手肌を汚しつつも砂礫を集める。


「ユーリもちゃんと作業しなさい」


「してるよ。でも、姿勢が……」


穴が深くなればなるほど、作業しづらくなり、ほとんどジンロクの独壇場だ。

憂理はペタリと座り込み、だらしなく膝を立てた。


「やっぱり、サボってる!」


菜瑠に糾弾されるが、作業スペースが限られている以上しかたがない。

憂理は菜瑠にボンヤリと言う。


「ナル子。宇都宮だけど」


「宇都宮? あのエレベーターの昇降路を覗いてたひと? ユーリがアホだ、って言った?」


「ああ。あいつ、スパイだ」


これは、推論や憶測でしかない。だが、憂理のなかではその結論がある程度の整合性をもってまとまっていた。


「スパイ……って、半村の?」


「ああ。たぶんな。ユキエが誰かを『上階に潜り込ませてる』って言ってたんだ。あれ宇都宮のことだと思う。んで昇降路を使って情報のやりとりをしてたんじゃねーかな」


「やっぱり……。怪しかったもん。『アホ』じゃなかったんだね」


「いや、アホなもんはアホだ。そこは変わらん」


「なにをスパイしてたの?」


「警備、食糧、居場所、そんなトコだろ。んでチャンスが来たら、上階に攻め込むつもりなんじゃねーかな」


菜瑠は不安そうに眉を寄せる。


「タカユキくんたちに知らせた方が良いんじゃない?」


「いや、遅かれ早かれだろ。半村が復活したんだし……」


均衡していたパワーバランスは、半村が復帰した事により完全に崩れた。もとより、テオットは女子の比率が高く、男子比率の高い半村派に腕力で対抗するのは始めから無理があったのだ。

襲撃の危機を知らせたところで、防ぎようもないのではないか。


深川の存在によって、テオットはようやく延命しているに過ぎない。憂理はそう考える。

だからといって、彼らの危機に知らぬ顔を決め込んで良いのだろうか。そんな逡巡を胸の奥から掻き消すように憂理は作業に集中した。


「あいたぞ」


感慨無く、ジンロクが言った。「貫通した」

見れば、穴の一番底に黒点のような小さな穴があいていた。

――いった。


「よし、広げろ、広げろ! ケンタが通り抜けられるぐらいまで広げるんだ」


憂理も素早く作業体勢となって、穴の底へドライバーの一撃を加える。すると、ハンマーに打たれたドライバーの先端がわずかな抵抗だけを感じさせ、一気にコンクリートへ突き刺さった。


いける。

こうなったら、もう砂礫を回収するサポートは必要ない。生み出されたコンクリート片は下階の部屋へ降るだけなのだから。


「翔吾! 蔵書室の奴らを呼んできてくれ! 穴が開き次第地下へ行くぞ」


「よっしゃぁぁあ」


威勢良く翔吾が応じ、背中を預けていたドアを開き通路へ飛び出していった。指示を出すまでもなく手の空いた菜瑠が見張りを引き継ぐ。


一度瓦解が始まれば後は早い。ジンロクにとどかない腕力の憂理でもどんどんコンクリートを壊してゆける。

ピンホールほどの大きさだった穴が、やがてピンボールほどの大きさになり、それもやがて広がってゆく。


憂理とジンロクが貫通した穴を広げる間に、遼は穴の側面を削り、その直径をSでもMでもLでもない、サイズKにまで拡大させる。


「すごいね……」菜瑠が感心して言う。「ホントに……穴あけちゃった」


「俺は杜倉憂理だぞ。世の中、俺に壊せないモンはないんだよ」


手柄を主張する憂理に遼が水を差す。

「ほとんど、ロクのおかげだけどね」


菜瑠もフォローはしない。

「発案も四季だし……」


――最近、コイツら俺に少し冷たいんじゃないか。

なんだか、いたたまれない気持ちになりながらも、作業の手は休めない。


最初はSだった穴が、やがてMとなり、Lへ。

ドライバーとハンマーによって穿たれるコンクリートのカケラが黒い穴へと次々に吸い込まれてゆく。さながら、ブラックホールに吸い寄せられる星屑のように。


ようやく穴のサイズがKになったことを確認すると、憂理は遼と菜瑠を順に見やり、立ち上がった。


「よし。ナル子。いくんだ」


ポカンとした菜瑠は。指で自分を指した。『え? わたし?』と言葉にならない反応を見て取ると憂理は真っ直ぐな視線で言う。


「レディーファースト」


「そ……そう? じゃあ……」


と菜瑠がなんだか恐縮しながら穴へと向くと、遼のストップが入る。


「騙されちゃダメだよ! こう言うのは男が先に行くべきだ。あぶないよ」


「そ……そう?」


「憂理が行きなよ。こう言うのは憂理か翔吾って相場が決まってるんだし」


――嫌な相場だな。まったく。

だが、たしかに切り込みはいつも憂理か翔吾だ。たしかに翔吾なら喜んで飛び込んでゆくだろう。


「わかったよ。しゃあねぇ。俺が死んだら、妻と子を頼む。『あなたの夫は勇敢な人でした。仲間のために死にました。いやどっちかというと、無理やり危険な任務を押しつけられて殺されました』と伝えてくれ」


軽く腕を組んだ菜瑠が眉を上げた。


「こうも言うわ。『そんな危険なことを女にやらせようとしました。卑怯者でもありました』って」


「冗談だよ、冗談。じゃあ、俺が行く」


遼と菜瑠が無言で頷き、微かな緊張が狭い洗濯室に漂った。

客観的に穴をのぞき込めば少し怖くなる。湿った空気が侵入者を拒むかのように溢れ出て、それと相反して光は吸い込まれてゆく。


憂理は穴の側に腰を下ろし、まず両足を穴に入れる。

そしてゆっくりと腰をスライドさせ、両腕で床を押さえながら少しずつ穴に侵入してゆく。


胸から下がすっぽり穴に収まったところで、再び2人を順に見やり、頷いた。


――いくぞ。


大きく息を吸い込んで、憂理は両腕のつっかえを外した。

重力が無数の手となって憂理を暗闇へと引きずり込む。そして、一瞬にして憂理は地下階へ到達した。


真っ暗で周囲の状況はつかめない。ひっくり返ったカエルのような姿勢で、我ながらマヌケだと思う。上階の穴から漏れてくる光を見上げれば、砂礫が粉雪のように降り注いでくる。


「大丈夫!?」

穴には菜瑠と遼の顔が見える。


「たぶん」


――机の上……か。

自分が腰を落としている場所を手で探れば、無数の紙があるのがわかる。バラけて、砂にまみれて、それでも紙の束だということはわかる。


「懐中電灯って……。どこへやったっけ?」


憂理が上へ問いかけると、遼の返答があった。


「最初に用意したバックの中だと思う。大区画で深川に襲われた時に置きっぱなし……かな」



「憂理、気をつけて」


「お前らがのぞくせいで、穴がふさがれて、暗いんだけれども」


「あ、ごめん」


2人が穴から身を引くと、少しだけ光量が増す。しかし、それでも暗い。


憂理は手探りに机の端を見つけ、まず足を下ろしてみる。書類が羽ばたくような音を立てて暗闇に舞った。

まずは照明のスイッチを探すべきなのだろうが、完全に手探りでの作業になりそうだ。


「ちくしょー。お先まっくら」


憂理の軽口に、上階から反応が返ってくる。


「もう、バカね。縁起でもないこと、言わないでよ」


「暗中模索って言う方が適当じゃないかな」


「とりあえず、照明つけっから、まってろ」


憂理はそろりそろりと机から下りて、両手を大きく前方につきだして、一歩、また一歩と前進する。どうにもマヌケなパントマイムであるが、幸い暗いために誰にも見とがめられないで済む。


――とりあえず、壁。


憂理の経験上、照明のスイッチというモノは壁に貼り付いているものである。壁にさえ到達すれば勝ったも同然。


すり足で前進し、指先、手先に感覚を集中させる。目は見開いているが、こう暗くては閉じていても同じであろう。翔吾のように猫科であれば夜目も利くのかも知れないが……。


「ちくしょー。ライターでもあれば格好つくのに」


しかしライターなど持ち合わせてはいない。こうなると、誰がなんと言おうとも煙草を吸っておくべきだったと思う。探検家なり、冒険家なりというモノは優雅かつタフにタバコを吸うものなのだ。


そんな事を考えながら前進してゆくと、やがて指先に何かが触れた。

それは、固く、冷たい何か、だ。

両手でそれを探ると、それが棚だということがわかる。金属製の書棚か。経験上、本棚というモノは壁際に設置されることが多い。これはもう、勝ったも同然。


本の背表紙に触れ、横歩きで立ち位置を変えてゆくと、やがて本棚は途切れ、コンクリートに変わる。体温を吸い取る無機質な冷たさ。


「壁に来た、壁に」


首だけで振り返って、穴に向かって報告すると、部屋の全体像がおぼろげに把握できた。闇に目が慣れたらしい。


「気をつけて」


「ちょっと目が慣れたみたいだ」


そう広くはない部屋だ。壁に手を添えながら進み、やがてドアへと辿り着くと、憂理はその辺りの壁をつぶさに調べる。

予想通り、そこにスイッチはあった。

指先で電源に触れ、切り替える。パッと部屋が明るくなる。


「あ、点いたね!」


立ちくらみを起こしそうな白光に眼を細めながら憂理は返す。


「点いた、じゃなく、点けたんだよ」


――ここは。

遠くない過去の記憶が憂理の脳内で蘇る。

机に、書棚、山積する書類。

ここは以前に訪れた場所だ。翔吾が『リスト』を入手した部屋。図面を入手した部屋。


「管理室だ」


憂理が穴に報告すると、穴からは二本の足がぶら下がっていた。遼が降りてきているらしい。

足から、胴体、胸、やがて眼鏡をかけた少年の顔。

そしてドサッと落ちてきた。

憂理は穴の下に移動し、上階を見上げた。


「ナル子、俺、ちょっと上に戻りたいんで、引っ張り上げてくれ」


「戻る?」


「ああ、ロープでも縄でも、蜘蛛の糸でも、何でも良いから下ろしてくれ」


しばらくの沈黙ののち、菜瑠が応じた。

「……ちょっと待ってね」


降りてきた遼は、鼻先までずれた眼鏡を指で直し、部屋内をぐるりと見回した。


「たしかに、懐かしい場所だね。ここに繋がるなんて、ちょっと意外だけど」


「おかげで大体の位置がわかる。大区画まですぐの場所だろ」


「うん、なんだかホッとしたよ」


「ユーリ」上階から菜瑠の声。「できたよ」


見れば、穴から白い布が垂れてきている。なるほどシーツを結んでロープ状ににしたモノらしい。


「よし、いいぞ。どっかに結んで固定してくれ」


憂理は指示を出しながらシーツの端を掴み、それに結び目を追加してゆく。結び目を足がかりにすれば、簡易的な梯子となる。


「いいよ。結んだ」


「よし。途中まで上がったら、手を貸してくれ」


実のところ、上階に戻る必要などない。

多くのハードルを越えてしまった今、脱出は目前だと言っていい。だが、後ろ髪を引くような感情が憂理の前進を躊躇させていた。


――杜倉憂理は杜倉憂理である事を裏切らない。

タカユキによる憂理人物評の言葉が胸の奥底で再生される。これは、確かにそうなのかも知れない。

だが、一つ違う。『裏切らない』のではなく、『裏切れない』のだ。裏切れないまま積み重なった行動が、思考が、杜倉憂理そのものなのだから。


――T.E.O.Tの連中に一言だけ。

危険を伝える義理も、義務もない。半村が施設全体を支配するのは自明の理というもの。


上階へよじ登った憂理は、菜瑠に告げる。


「ちょっと、俺、用事があって、遅れていくよ。みんなは先に行かせといて欲しい」


「用事?」


「ああ、ヤボい用事。マジ馬鹿らしいケド。とにかく、お前が主導してみんなを外に連れ出してくれ」


「でも……」


「いいか、外までの道はケンタが知ってるはずだ。アイツがお前の言うこと聞かなかったら、食い物で釣れ。『ハンバーガーおごってやる』が一番効く。翔吾は『男』って概念を引き合いに出せば、上手く操れる。遼は四季を上手く使えばガンガン働く。ジンロクは頼って問題ないし、エイミはお前の味方だし大丈夫。四季には逆らうな」


突然にまくし立ててきた憂理に、菜瑠は呆気にとられ、まともな返答が出来ないでいた。


憂理は、拳で菜瑠の肩を軽く叩き、言う。


「しっかりしろよ。お前がリーダーだ。お前しかいない。みんなを外に連れ出してくれ」


「え……。憂理は?」


「言ったろ? 用事があるんだよ。俺は用事を済ませてから行くから、ちょっと遅れそうだ」


「用事って、どんな?」


「たいしたことじゃない。ケド大事なこと」


「……T.E.O.Tのことね?」


「んーまぁ、そうかも。すぐ済むかもだけど、すぐ済まないかもだし、あとはナル子に頼むよ」


菜瑠は両肘を抱いて、床を見て、唇を固く結んで、やがて憂理を見た。


「わかった。引き受ける。ちゃんとやる」


「頼む」憂理はもう一度菜瑠の肩を軽く拳で押し、軽口を叩く。

「まったく、電話でもあれば楽が出来るんだけどな。でも、タカユキにメアドや番号知られるよりはマシ、かもだよ。明日から伝書鳩飼おうかな」


「出口で待ってるから……。すぐ来てね」


「待ち合わせには、ちょっと遅れて行くぐらいが格好いいとか……思わない?」


「思わない。すぐ来て。待ってるから。来なかったら、許さないからね」


「大丈夫。罰掃除はゴメンだ。じゃあ、あとで」


「……うん。あとで」


かくして、憂理は『杜倉グループ』から離脱した。

この行動が後に大きな意味を持つことに今の憂理は気付いていない。しかし、気付いていたとしても行動の変更はなかっただろう。


もし、歴史にIFが許されるならこの瞬間が大きな転換点とされるだろう。だがどれだけIFがあろうとも、杜倉憂理は杜倉憂理であることから逃れられない。


T.E.O.Tの灯火など、今は小さくそれこそロウソクの火よりも弱々しく、小さい。まさに風前の灯火と比喩される類のモノだ。


それが消えてしまった世界軸、あるいは灯り続けた世界軸。そのどちらが正しかろうが憂理には関係ない、少なくとも本人はそう考えていた。

ただ『知人』たちの危機を見過ごすことを、自らの矜持が許さなかった。それだけのこと、それだけが今の行動原理だった。


のちにロウソクの火が、山火事へ変わろうとも。消えかけていたはずの灯火が炎となって、世界を包もうとも。

その火のもつ危険性に、憂理は気がつくべきだったのかも知れない。


消えかけの熾火でも、燃えさかる業火でも、人は等しく火傷をするものだから。





 * * *


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