6-2 処女の捧げ物
いざ採決の段となると食堂全体に緊張が生まれる。
菜瑠と翔吾は憮然として、憂理と遼は毅然として、涙の乾ききらないエイミ、表情に疲れが浮かぶケンタ、表情のない四季。どの目も壇上のタカユキに見据えられていた。
「採決の前に、誰かアシスタントが必要だ。イツキとタバタ、頼めるかな?」
タカユキに指名された2人の少女は、示し合わせたかのように2人とも自らの顔に指を指し『わたし?』だ。
「ああ、2人に頼みたい。書記を」
2人が小走りに壇上へ上がると、タカユキはそれぞれにバインダーとペンを手渡した。そして2人になにやら指示を出すと群集へと視線を戻した。
「採決だ」タカユキはそう言って、スッと自らの手を挙げた。「半村の排除に賛同する者は挙手を」
1秒か2秒。
誰もがすぐには反応しなかった。赤信号はみんなで渡れば怖くないと言う。だが誰かが最初に渡らねば誰も後には続かない。
憂理が全体を見回すと、ようやく『誰か』が現れた。
壇上のイツキだ。肘から手首まで、まるで関節が無いかのようにピンと真っ直ぐのばしている。
次にサマンサ・タバタ。そこからは堰を切ったかのようにTEOTたちの手が天井へ向けられた。
アツシの手、イシイサヤカの手、ノボルの手。
TEOTが全員挙手したが、この時点では過半数に届かない。
やがて、流行病が感染するかのように半村奴隷たちの手もTEOTに近い場所にいる者からポツポツと挙がり始める。
そして、数えるまでもなく過半数を超えた事を憂理は確認した。
「過半数を越えたね」
タカユキは感慨を感じさせない冷淡な口調で続けた。
「では、半村の排除に反対する者は挙手を」
言いようのない不安が憂理の心拍に影響を与える。嫌な予感というやつだ。『排除』が過半数を占めたならば、反対意見の採決は必要なく思えるが――。
それでも手は挙がる。無論、反対に票を投じたのは半村奴隷の一部だ。
これにはカネダも含まれていた。
「確認した」
タカユキの横でイツキとタバタがバインダーに向かってペンを走らせている。群集を見て、バインダーを見て、群集を見て、バインダーを見て……。
「メモってやがる」
憂理が呟くと、横にいた菜瑠が訊いてきた。
「反対した人を?」
「わかんね。わかんねぇケド、ヤな感じだ」
タカユキはイツキとタバタに何か確認して、再び前に向き直った。
「カネダ。なぜ排除に反対した?」
指名されたカネダに衆目が集まる。
「なんでって、反対しちゃいけねぇのかよ?」
「なぜ反対したのか聞かせて欲しいんだ」
カヤの外ではあるが、憂理は胸騒ぎがする。次の採択は『反対した者の排除』なのではないか。カネダは憂理の心配をよそに、不遜な態度を改めようとしない。
「気にくわないんだよ。お前。カッコばっかりつけてよ? 半村様はデキた人間じゃねーけど、お前みたいな偽善者よりはマシかも知れねぇって思うワケ」
個人的な感情が反対票の理由であるらしかった。しかし目の前で非難されようとタカユキはビクともしない。
「そうか、わかった」
それだけだ。今の対応は『相手にしない』の良い見本と言えるかも知れない。憂理には挑発をほとんど無視されたカネダが滑稽に見えた。
タカユキは続ける。
「続いて、深川を排除する採決を取る」
自然すぎる流れだった。当たり前のような、最初から決まっていたかのような。
「おい、リョー」
不安になった憂理が軍師に伺いをたてると、遼は噛んでいた唇をパッとはなした。
「大丈夫。これも参加しない。『賛成』したヒト、『反対』したヒト、両方が紙に控えられてる。両方とも付け入る隙をタカユキに与えた。次も僕たちは不参加でいい」
菜瑠が憂理よりも不安そうに問う。
「でも……不参加をなじられたりしない?」
「不参加は逃げ道があるんだ。『僕たちには排除するしない』以外の第三の意見があったから挙げるに挙げれなかったって」
四季がボソッと付け足す。
「正しい」
「なーる。それを尋ねなかったのはタカユキ側の過失だもんな。意見があったのに無視された、ちゅうスタイルでオーケーだな」
「たぶん」
憂理の周りで交わされる相談はタカユキの声で中断された。
「深川排除に賛成の者、挙手を!」
投票者たちに先ほどの躊躇は見られなかった。今度は半村排除を超えた票が投じられる。深川という存在が話し合いに応じる相手ではないという事を多くの者が肌や経験で感じているからだろう。
憂理だって手を挙げたい。
「深川排除に反対の者、挙手を!」
それでもパラパラと手が挙がるのが憂理には不思議だ。実際に深川を体験していないと理解しえないのか。
「決まった。半村と深川は施設から排除する。そして、この重大な採決に参加しなかった者ッ!」
タカユキの厳しい声が憂理の鼓膜を刺激した。壇上からの視線が突き刺さる。氷でできたナイフでもこうは冷たくあるまい。
「君たちは重要な採決に参加しなかった!」
――なんか、やべぇ!
憂理がうろたえたのと同じか、それ以上に翔吾やエイミがうろたえた。
「ちょ! リョー! 全然大丈夫じゃねぇぞ!」
「ヤバいよ! みんな見てる」
遼は苦情じみた仲間の声に、苦笑いして、こめかみの辺りを掻いた。
「早いね。まいったね。はは」
壇上からタカユキの鋭い声が飛んだ。
「何をコソコソ話してる! 君たちは協議に参加しなかった。それは今後造られる新世界に君たちの居場所が無いことを意味する!」
憂理は一歩踏み出して、反論した。
「俺らは排除にイエスとかノーとかクソ単純な意見じゃねーっての! 第3の意見を無視して勝手に話を進めたのはお前だろ!」
憂理の言葉が終わる絶妙のタイミングで翔吾も一歩踏み出し、大声を上げた。
「トクラ君の言う通り! お前、声なき者の声を無視しやがって! さっきは声なきモノの味方とか弱者の味方とか言ってたクセに! 俺たちは傷ついた! もう世界中のロン毛が信用できねぇ!」
よくもまぁ、と憂理は思う。
だが食堂にいる者たちの視線はタカユキへ戻った。反論への返答を期待した目。タカユキは少し目を細めてから期待に応じて返答を始める。
「そうかも知れない。謝るよ。じゃあ『第3』の意見を訊かせてくれないか? 七井。排除でも共存でもない第3の意見を」
ピンチを察した遼が一歩踏み出した瞬間、壇上から静止の声が飛ぶ。
「畑山遼じゃない! 七井翔吾に訊いている! あるんだろう、意見が?」
先手を打たれた形になってしまい、翔吾に焦りが見えた。
第3の意見など考えてはいない。遼の構想内には存在するのかも知れないが、少なくとも憂理や翔吾の構想には存在していない。言ってしまえばそもそも構想自体がない。
衆目が集まるにつれて、翔吾の焦りが目に見えてわかる。
「どうした? 訊かせてくれ、第3の意見を」
タカユキの催促が意地悪い。
『頭脳』である遼を封じ、おそらく第3の意見が存在しないことを看破した上で揺さぶりをかけているに違いない。
「さぁ、七井。声なき者の声を訊かせてくれ」
「俺の意見は――アレだ!」
「アレとは?」
「排除にみせかけて、そうじゃないような、それでいて最終的には上手くいくような、だいたいそんな感じだッ!」
――ダメだコイツ!
まるで頭が回転していない。
「全然わからないよ七井。排除し……」
タカユキの追撃を察した憂理は素早く声をあげた。
「俺に訊け!」
タカユキは少し驚いたように目を開き、微笑で応じた。
「じゃあユーリの意見を拝聴するよ。どうぞ」
「えっと……いいかな」
遼が意見を言おうとするも、タカユキは厳しい視線を投げる。
「畑山には訊いていない! 何度も言わせないでくれ」
やってしまった感が重くのしかかる。この場を上手く収めるアイデアを……。
「えっとだな。アレだよ。ほら、いわゆる一つのアレだ」
「アレ、とは?」
なんだか翔吾の二の舞になりつつあるのを感じる。頭が真っ白の状態で食堂じゅうの視線を集めると、尋常ならざる重圧がのしかかる。
「アレってのは、アレだ。排除とかじゃなくて、アレ、逃げるんだよ! そう、逃げるんだ! この施設から、みんなして!」
――上手くやったか!
しかし、タカユキは音のないため息とともに首を左右に振る。
「言ったろう。外には出られない。残念だけど世界は終わったんだ」
「ロン毛は信じない、って翔吾が言ったろ?」
「危険なんだ、外は」
「どう危険なんだよ」
「人類が滅んだとする。その原因は? 災害か、核戦争か? あるいは生物災害なら? ウイルスの突然変異で、本来人間に無害だったはずの細菌が毒素となって猛威を振るっていたら? 破局的バイオハザード。その可能性、畑山ならわかるんじゃないか?」
ようやく指名された遼は噛んでいた唇を解放し、メガネを上げた。
「不本意だけど……。起こっていなかったとしても、いずれ……」
「ウイルス変異じゃなくとも、世界が荒廃すれば疫病が蔓延する。薬で簡単に治る病気だったとしても、残念ながら病院は無期限で休診中だ」
言われっぱなしでは男がすたる。憂理は無理矢理に抗弁した。
「マスクつけりゃいい! ウイルスなんて!」
「マスクか。それもいい。だけど放射能ならどう防ぐ? 飢えた大人が、欲望に走った大人が、昼夜を問わず襲ってくるかも知れない。獰猛な動物だってきっと飢えてる。巨大隕石、有害落下物、グレイ・グー、スーパーボルケーノの破局噴火。あるいは……憂理の好きな宇宙人が攻めてきたのかも知れない。エンバウーラって。逃げる場所なんてないんだユーリ。帰る場所なんて、もうない。残念だけど」
信じない。
タカユキの言う全ては、『外界と連絡が途絶えた』という事実を最大限に悲劇化した妄想でしかなく、それは依然として事実として証明されていない。
深川の狂乱、半村の自暴自棄、それらも状況証拠のようなもの。
「ユーリ。聞き分けてくれないか。脱走すれば、みんな死ぬ。きっと、多くの者が君を慕ってついて行くだろう。でもみんな死ぬ。七井が死に、畑山が死に……」
エイミが死に……ケンタが死に、四季が死に、ナル子……。いずれ自分も。
憂理は脳内に作られた惨状に胸を悪くした。もし、タカユキの言うことが事実なら、脱走は形を変えた集団自殺でしかない。
黙り込んだ憂理に変わり、菜瑠が抗弁した。
「それでも出るわ! 外には大事な人がいる! 外が酷い状況なら、よけいに! 私には、助けなきゃいけない人がいる! 帰らなきゃいけない場所がある!」
そうだよ。
憂理は菜瑠の横顔を見つめながら奇妙な納得を感じていた。
――そうだよ。俺はこんなトコで死にたくはない。死なせたくはない。
菜瑠の言葉が終わるのを待って、タカユキは諦めたかのように「わかった」と頷いた。「少し、時間をくれないか。少しだけ」
そう言うと、2人の侍女を伴って壇上から降りるとTEOTの集団へと合流した。
「ナル子。言うじゃん。ジューダイな規則違反だぜ、脱走はよ」
「規則も大事だけど、それ以上に大事なものがあるから」
「ようやく気付いたか。俺はいままでソレを我が身をもってお前に教えようとしてたのだ。それをお前は罰、罰、罰って」
憂理の軽口に菜瑠は珍しく軽口で応じた。
「マルバツゲームならユーリの圧勝ね」
「ダブルスコアでな」
軽口を応酬しながらTEOTの方を見るが、まだ『時間』ではないらしい。すぐ側にいた遼を見れば、ぼんやり頭などを掻いている。
「遼。お前、シテヤラレてないか?」
「危なかったね。まいったな。まぁ、なんとか乗り切れてやれやれだよ。」
乗り切れた、に翔吾が鋭く反応し、一息ついた遼に肩パンチだ。
「まだ、だろ」
ケンタはめんどくさそうにしている。
「ほっといてくれたらいいのにねー。危なかろうが危なくなかろうがさ」
「なんか」エイミが肘を抱く。「逃がしたくない、って感じだわ……。逃げられたら困るーてきな」
「ああ……。なんでだろな」
タカユキの腹の内など憂理にはわからない。だが執拗に食い下がってくるのには何かしらの意図を感じる。
ことさら強く肘を抱いたエイミが小さなアゴでTEOTを指した。見れば、たしかにタカユキを先頭にした黒腕章の群れがこちらへ向かってきていた。
胃のあたりに重みを感じるのは空腹のためか、あるいはストレスのためか。その判断を憂理がつける前に、憂理たちはTEOTに囲まれた。
「な、なんだよ」
情けなくも、こんな強がりめいた事しか言えない。
しかし黒腕章の導師は、憂理ではなくエイミの前に立ちこんな事を言った。
「芹沢エイミ。少し話をしたいんだ。いいかな?」
「えっ?」
エイミ自身も意外だったらしく、挙動不審にキョロキョロして「アタシ?」
「そう。少し話をしたい」
「えっと、あのアタシは」
「すぐ済むんだ。少しだけ」
「えーっとー」
これがナンパであるなら8割は成功したように見える。憂理はよろしくない状況だと判断し、素早くカットに入った。
「困るね。パーナンはジャーマネを通してもらわないと」
「憂理。口を挟まないでくれ。これは個人と個人の話なんだ。芹沢エイミと降家孝之の」
これにはどう返せばよいかわからない。わからないまま憂理は訊いた。
「えっと、個人的な?」
「そう、個人的な」
「聞いちゃいけない系?」
タカユキは微笑して「そうかも知れない。2人きりで話がしたいんだ」
憂理の背中を遼が突っつき、囁いた。
「……だめ」
憂理は拡張機となって言う。
「ダメ!」
「芹沢はどうだ? イヤ……かな?」
「いや、イヤってワケじゃあなくてアタシは」
慌てるエイミにタカユキが言う。
「この話し合いが終わったら、脱走を止めない。約束するよ」
「よし、いいわ。アタシいく!」
「おい! お前な!」
憂理はエイミの腕を引っ張り、耳元で囁いた。
「罠だって! 遼がダメって言ってんだぞ!」
「……アタシ、アイツを説き伏せてみせるわ。アタシはみんなに流されて脱走するんじゃない、自分の意志で脱走するの。それをちゃんと証明したいの。アイツらに対して、……自分自身に対して」
「証明なんかいらないだろ」
「いるの。アタシ、ずっと自分が『羊』だと思ってた。群れて、周りに誰かいて、安心して……ぼんやりと。でもさっき気付いた。羊だって群れを守るために努力するの。アタシが守りたいのは『自分』じゃなくて『群れ』だったの」
「でも」
「信用して」それだけ言うとエイミはタカユキへと向き直った。「いくわ。レディなんだからちゃんとエスコートしてよね」
「それはそれは。じゃあ別の部屋へ行こう」
食堂の出口へとタカユキが向かい、エイミがその後を追う。
すぐさま憂理に翔吾からクレームがついた。ぎりぎりで囁きに分類される声で憂理をなじる。
「お前! 正気か!? 行かせんのか!?」
「ん。もう行かせた」
「罠だろ罠! 俺でもわかんのに!」
「なんか……エイミなら大丈夫な気がした。俺らエイミを誤解してたカモなぁ」
「カモじゃねーよ、アホ! ケンタも言ってやれ!」
促されたケンタはマイペースを崩さず言った。
「アホは翔吾だよ。たぶんエイミにだって考えがあるんだよ。で、それはいつもみたくみんなのための行動だ」
意外にケンタがエイミを一番正確に捉えていたのかも知れない。
眉間に深いシワを刻む翔吾をよそに憂理は遼へ近寄った。周囲は依然としてTEOTに囲まれており、公然と会話もできない。
「リョー。どんな罠?」
「洗脳……するにしては気軽すぎるし……監禁かなぁ」
どうも看破はしていないらしい。すると美少女で知られるサマンサ・タバタがケンタに歩み寄った。
「ケンタくん。二人きりで話がしたいんだけど……いい?」
憂理と遼、菜瑠に翔吾。おそらく食堂じゅうが呆気にとられた。『あの』サマンサ・タバタとケンタが絡むなど意外すぎるカップリングだ。
しかし当の本人は意外とは思わないらしい。ケンタは早かった。
「別室!? 行く行く! すぐ行っちゃう」
「イベリコーっ! 行くなーッ!」
翔吾の引き止めも虚しく、タバタと共にケンタがそそくさと去って行く。
「分断する気だね」遼が言う。
分断してどうするのか、問われる前に続ける。「1人1人を説得して脱走を阻止、あるいは人質……」
「個別面談だよ」
囁きを聞いたかのようにアツシが言った。
「杜倉グループ全体じゃなく、ちゃんと『個』の意見を聞く」
「聞いてどうすんだ?」
「どうしても脱走する気なら引き止めない。むしろ協力する」
「じゃあ、どうしても脱走するよ。協力してくれ」
「それは面談しないとな。個別に」
「必要ねぇよ」
「ユーリはそうかもな。だけど他はわかんねえよな」
「私は出るわ。外がどうであろうと」
菜瑠が高い位置で腕を組み断言した
「じゃあ、さっさと面談を終わらせよう。ナル子は俺が担当するよ」
「要らないわ」
「協力ってのはタカユキ君が持ってるドアノブを渡す事も含まれるよ。いるだろ? ドアノブ」
嫌らしい言い方であったが、アツシらしい人懐っこい笑顔で言われると悪感情は湧かない。
――ドアノブ。
先ほど半村への面会の時もドアノブに釣られたことを憂理は思い出した。あの約束は無かった事になったのか。――つくづく信用の置けない導師さまだ。
「わかったよ」憂理は言った。「さっさと終わらせてくれ。俺の担任は誰だ?」
これにはイツキが名乗り出た。
「わたし」
「じゃあ行こうぜ。別室だろ?」
憂理がイツキより先に食堂の出口へ向かうと、背後で翔吾がわめき立てた。
「アホーッ! お前はアホー!」
アホは承知の上。――ドアノブはお前のためでもあるんだよ。
憂理は食堂の扉を出る時、他のカップリングを確認した。
どうも男子には女子、女子には男子をあてがうらしく、菜瑠にはアツシ、四季には堂島、遼にはイシイがついている。さすがに手ごわいと見たのか翔吾には女子が三人ほどついていた。
――さすがモテモテだな、翔吾さんは。
廊下に出た憂理にイツキが言った。
「トクラくん。倉庫に行こう。そこで……大事な話があるの」
* * *
そろそろ、倉庫で一つぐらい『いいこと』があっても良さそうなモノだが、そんな憂理の期待が報われないことは本人が一番良く理解している。
今回も嫌な思い出が増えるに違いない。
イツキは閉めたドアに背中を預け、憂理をじっと見つめてくる。
「なぁ。さっさと面談してくれねぇかな。最近忙しいんで」
軽口を叩きながらも、憂理の頭は脱走に向けて回転を早めていた。
ドアノブを得られれば良し。地下を経由して外部へ逃れる。もしドアノブが得られなくとも、半村が手負いとなった今、エレベーターの主電源を入れて稼働させれば地上へ直通だ。
――世界は破滅した? 外は終わってる? そうかもな。でも終わってんのは最初からだろ。
「杜倉くん」
「なんだよ」
「好きな人……いるの?」
伏し目がちに、それでいてチラチラとイツキが憂理を見る。予想外の質問に一瞬動揺してしまうが、憂理は平常心であろうと努める。
「好きな人?」
「うん。好きな人……いる?」
なにやら、ただごとではない雰囲気だ。過去に数度体験した事のある奇妙な緊張感。
これが罠に違いない。告白を装う意図をはかりかねるが、これはタカユキの指示に違いない。
憂理はなるべく自然に答えた。
「いるよ」
イツキの目が床から憂理に上がる。依然として奇妙な緊張が続いている。澄んだ二つの黒い瞳。次の言葉をイツキが待っている。
だが憂理は続けない。
長いような、短いような静寂があった。きっと、仲間たちが連れ込まれた他の部屋でも似たような緊張があるに違いない。
「好きな人……それが誰か……訊いていい?」
「いいよ」
「……誰?」
「オレ」
「えっ?」
「オレ、自分が世界一好き。俺、最高」
――決まった! これでドッカンドッカン笑いが――。
とはならなかった。イツキはキョトンとしてやがて首を傾げた。
「杜倉くんが?」
「ああ。俺、自分が好き。自分が一番かわいいんだよ」
「そうだよね。杜倉くん格好いいもんね。私も杜倉くん好きだな」
笑いを取るはずが、なにやら妙な方向へズレた気がする。それに地味にイツキが告白してきたような気もする。
こうなると、今さら冗談だとも言いづらい雰囲気となる。何か言わなければ間が持たない。
「いや、お前より俺のほうが俺を好きだ」
ほとんど混乱している。憂理自身、自分が何を主張したいのかわからなくなってきた。
「そんなことないよ? 私、ヤバいくらい杜倉くんのこと好きだよ?」
「いや! お前は何もわかってない! 俺は俺が俺を一番好きな事を俺が一番わかってる!」
イツキが、また首を傾げて、また伏し目で、また言う。
「じゃあ、私がきっと世界で2番目に杜倉くんの事を好きな人だね」
「違う! 2番目は……!」
「2番目は?」
「えーっと、かぁちゃんだろ。愛してるって言ってた。めっちゃ昔に」
「じゃあ3番目は私でいいかな?」
「いや、さん……」言いかけて憂理はとどまった。これはいずれ負ける戦いだ。なぜ最初の時点から普通に対応しなかったのか今更ながらに悔やまれる。
すると、止まった憂理を見てすぐさまイツキが訊いてくる。
「1番目は杜倉くん。2番目はお母さん。どっちも杜倉くんの『カノジョ』にはなれないよね?」
訴えかけてくるようなイツキの眼。蛇に睨まれたカエルのごとく憂理は固まる。
「杜倉くん。私のことキライ?」
「待て! 待ってくれ!」
「私じゃ、だめかな? 杜倉くんのカノジョになれないかな?」
「疑問符ラッシュはやめてくれ。俺はそういうのじゃない!」
「私、ずっと杜倉くんのこと好きだった! ずっと見てた! 菜瑠よりずっと前に!」
「いやナル子は関係ねぇだろ」
「菜瑠のこと、どう思ってるの? 私、ぜんぶ言ったよ? だから杜倉くんも答えて」
憂理は手のひらで自分の目を覆い、冷静を取り戻さんと深呼吸した。
顔から放射される熱が凄まじく、今なら卵ぐらいなら焼けそうだ。むろん焼いてるヒマはなさそうだが。
どう対処すればよいのかわからず、杜倉憂理は混乱の極みにあった。誰もいない倉庫に2人、つめよられて逃げ場もない。
「えっと、だな。ちょっと聞いてくれ」
「聞く」
「君は、罠だ。タカユキの罠だ」
「違う! 私は導師から……チャンスをもらっただけ! 好きな人と2人っきりになる、告白するチャンスを!」
イツキの話はどこまでが本当かわからない。タカユキの手の者など到底信用できない。
だが、もし本当に『タカユキからチャンスをもらっただけ』ならば、自分は彼女に酷い対応をしている事になる。
罠か本気か。あるいはイツキの個人的感情を利用したタカユキの足止め策……。結局は罠だ。
憂理は大きく深呼吸して、なんとか平静を装って、紳士然とした対応を取ることに決めた。
「聞きなさい」
「聞く」
じっと見つめてくるイツキの瞳に、吸い込まれそうだ。罠だと、演技と思えない。だが憂理は心を鬼にした。
「お前は、騙されてんだよ」
「誰に?」
「ドーシ」
「今は導師は関係ないよ。私と、ユーリ君の問題。……ユーリ君って呼んで良い?」
「だめだ。ユーリ君なんて駄目だ。決して」
イツキが悲しそうにするので、どうにもやりにくい。
「じゃあ、トクラ君……」
「いやユーリでいいよ」
「でも『くん』をつけたいよ」
「待て、待ってくれ。話したいのはそういう事じゃない。聞け」
「うん」
「お前な、今はこんな状況だけど、ちょっと異常事態なだけなんだ。普通じゃない状況だし、深川はイッてるし、ケンタは痩せないし、タカユキは無茶苦茶言うけど、でもな、こういう時にこそ心をしっかり持ってだな、自分を大切にしなきゃならん。まわりに振り回されてちゃ、お前こんな時代を生き抜いていけないぜ?」
「『こんな時』だから言わなきゃって思ったの」
女という生き物はどうしてこうなのか。憂理は頭を掻くしかない。ヒトが死んで、殺されて、狂乱した大人がいて、世界が終わったなどと断言するヤカラもいて……。
「そういう時じゃないと思うんだけど」
「ううん。こういう事になって良くわかったの。ユーリ君は強くって、優しくって、でもどっか捻くれてて。こうなってはじめて好きなんだ、って再確認できたの」
「お前はオレを誤解してるよ。そりゃあ俺だって石とか木じゃないんだから好きって言われるのは嬉しいよ? ケドな、オレはお前の考えてるような男じゃない。規則破りの常習犯で、ソボーで、冷酷な悪党、地獄の皇太子なんだなぁ。あと地下鉄を見たことがない田舎モノでもある。ダサかろう?」
「それでもいいよ。ユーリ君なら」
もう相手していられない。
憂理は一方的に面談を打ち切ろうと、反論をやめた。だがドアの前にはイツキがいる。これでは出るに出られない。
テオットは男子に対して女子を、女子に対して男子をあてがった。この事実から他の部屋でも似たような『告白』が行われているであろう事は容易に推察できる。
ケンタなどはサマンサ・タバタに告白されてのぼせ上がっているんじゃないか。のぼせ上がって、施設にとどまるなどと言い出すのではないか。
エイミにはタカユキがついた。しかし先ほどのエイミを思い出せば心配は無用のような気がする。
菜瑠などは告白されてもきっと『ごめんなさい』と礼儀正しく断るに違いない。そして直後に『じゃあ、面談を始めましょう』
翔吾は『罠だろ! ワナ、ワナ。ワナ女だ、お前はよ! オレはケンタと違って騙されんぞ! タカユキの手下め!』
遼はきっとこうだ。
『エンエキ的に考えると、これは仕組まれてた告白だよね。だいたい僕に告白する女の子なんて居ないと思うんだ。だって僕、本臭いだろう? ほら、かいでごらん? すごく本臭いだろう? ほら、ちゃんと嗅ぐんだ! 臭いの微粒子をあますところなく嗅ぐんだ! ともかく、告白とか冗談だよね? 本臭くなくて変態じゃない格好いい男子は他にも沢山いるしね。たとえばユーリとか』
だが四季はどうなのだろう? 憂理は告白役を仰せつかった男子に少し同情してしまう。
好きです、などと言おうモノなら……。
『それだけを私に告げられても困るわ。私はアナタの内容を1バイトも知らないもの。バイトというのは情報の単位よ。ひとつ上はキロバイトよ。もっと上にはヨタバイトというのもあるわ。このヨタバナシの情報量はヨタバイトね。さすが上手く言うわね、トクラ君にはかなわないわ。トクラ君グッジョブよ』
などと想像の中の四季が言う。
こうしてつるんでいる面々のことを思い出すと、不思議と笑えて不思議と冷静が戻ってきた。
――なんだよ。全然大丈夫じゃん。
憂理は一段落に深呼吸すると、見つめてくるイツキに言った。
「俺さ。行くわ。そろそろみんな戻って来てるだろうし」
憂理は間隔にして半メートルにも満たない距離でイツキと顔を突き合わせた。有無を言わせぬ圧力でイツキを押しのけるのが、どんな説明よりも意味があるように思えた。
間近で見れば、イツキの顔には抜け切らぬ少女らしさが、髪には濡れたような艶がある。完璧な美形とまでは言えないが、抜け切らぬあどけなさがイツキの魅力のように思える。
もったいない事をしたかな、という後悔。
あどけない少女は、ドアの前でたたずんだまま言った。
「しても、いいよ」
見上げてくる視線。
「えっ?」
「しても、いいよ。トクラ君がしたいなら」
言葉の意味を理解して、イツキの意図を理解して、憂理は自らの頬肉が痙攣するのを感じた。
「いや、お前……」
イツキはかすかに紅潮した顔をパッと横に逸らし、いささかぶっきらぼうに言い放った。
「私、はじめてだけど、いいよ。トクラ君がしたいなら」
唐突なイツキの言葉に、憂理の頬肉がさらに刺激される。
「私の事、信用してないんでしょ? 悲しいよ。勇気出して告白したのに、こんなのヒドいよ」
イツキの声に震えがあった。抑制が弱まっている声だ。ほとんど涙声でイツキは続ける。
「だから、してもいいよ。それで信じてもらえるなら」
イツキはシャツの腹部に手をやると、それを半分ほどたくし上げた。薄暗い倉庫の中、現れた肌が鮮烈に白く……。
「待て! 聞け!」
単純な2つの命令に、イツキは手を止めて憂理を見つめてきた。
――この女、本気か!?
聞け、とは言ってみたけれど、聞かせる言葉が出てこない。
『沈黙は金なり』などとよく言うが、今イツキが求めているのは金でも銀でも貨幣でもない。想い人、杜倉憂理の言葉だ。
「本気……か?」
ようやく言えたのはこの程度のことだった。値千金などとは到底いえない。
イツキは憂理の言葉をゆっくり飲み込むとコクリと頷いて、パッとヘンリーネックを脱ぎ去った。
それが憂理にはたまらなく優雅な動作に見えた。床に投げ捨てられた灰色のシャツが複雑に形を変えながらスローモーションで床に落ちた。
シャツから戻した視線の先には、上半身に白いブラだけを身につけたイツキがいる。
下着に負けない白さの肌。
かすかに、自分が興奮している事に憂理は気が付いた。
胸が暴走ぎみに鼓動しはじめ、肺が大量の酸素を欲しがっている。
今の今まで自分と何の関わり合いの無かった女子が、目の前で自分に裸体をさらそうとしている。
そう――自分が止めなければ彼女は全部脱ぐ。
自分に嗜虐心があるのかどうか憂理はわからない。だが、興奮していた。
この場を支配している自分に、支配されているイツキに、あるいはその支配関係が行き着く先を想像して。
「タカユキが……」
憂理がつぶやくと、ズボンに手をかけていたイツキが止まった。
「タカユキが……そうしろって言ったのか?」
ほとんど自分の欲望に対しての抵抗だった。何か言葉を喋らないと自分が野生に戻る気がする。
だが自らが必死に絞り出した質問が、愚問である事は憂理が一番よく解っている。
イツキがタカユキにどれほど心酔していたとしても、このような行為が人による強制であるとは思えない。『初めて』ならなおさら。
「違うよ」やはりイツキは言った。「そんなわけ、ないよ」
否定したイツキは少し寂しそうだった。
ベルトの束縛から解放されたズボンがスッと落ちて、金具が床で冷たい音を立てた。
「トクラ君に……信じて欲しいから」
そして彼女は一歩、二歩と憂理へと歩み寄り、憂理の懐にスッと入ってくる。
憂理の顎のすぐ下にイツキの頭がある。理性を失わせるような香りがして、憂理の顎先をくすぐる髪。
「全部……外していいよ」
理性が支配を弱めると、俄然、本能が権勢を強める。
腰に手を回したら、終わり。
そう思う。
そんな事をすれば、きっと理性なんて、吹き飛んでしまうに違いない。
吹き飛んで、消し飛んで、本能のまま、思うまま、求めるまま。わかっている。わかっていた。
だが、憂理はイツキの腰に手を回した。
腰のあたりの素肌に触れると、イツキの身体がピクリと反応する。
指先に温かさを感じる。
絹のような肌から伝わってくる女子の体温。裏を返せば憂理の手が冷たいという事だ。頭には熱を感じるが、その熱はまだ指先まで届いていないらしい。
「冷たかった?」
気遣って訊ねると、イツキは憂理の胸の中で首を左右に振った。
「いいの。トクラ君の心臓の音が聞こえる……」
胸に耳を当てたら、鼓動が聞こえるのは当然のこと。だが今の状況ではそれすら憂理を興奮させる。
「少なくとも、まだ生きてる。ゾンビじゃない」
「ゾンビでもいいよ。私を食べちゃって」
憂理が切り返しの軽口を口にする前に、イツキが憂理の耳元に唇を寄せた。
そして発せられる小さな小さな囁き声。
「しよ?」
理性は吹き飛んだ。
仲間たちの事も、脱走の事も、罠の事もタカユキの事も、全てが消し飛んた。
今、部屋には若い二人しかいない。
今、この部屋の中だけが『世界』だった。
* * *