表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13月の解放区  作者: まつかく
5章 豚の行進
44/125

5-4 降家孝之の冷めた世界

降家孝之はさめている。

世の中では何が起ころうと驚くに値しない。どうしようもない人間たちが目まぐるしく動く世界にあって、どんな希望もどんな絶望も絶対の物ではないと考えている。常識だってそうだ。


もちろん、それは生来の性分ではない。

悩みに悩み、苦しみに苦しみ、考えに考えているうち、彼の心は固い外殻に覆われてしまった。それはちょうど傷口をカサブタが覆うような物。

傷つくたびに心は出血し、流れ出た血が固まる。その傷は生身の皮膚のように癒えることはない。


次々に傷つき、やがて心の表皮はすべてかさぶたで覆われてしまった。その固い外殻が彼に『さめた世界』を見せていた。


生来の性分は、きっと1つだけ。

その1つに気付いたのは小学校高学年に上がった頃だった。


自分が世界から切り離されたように感じた瞬間を、いまもタカユキは覚えている。


「タカユキは誰が好きなんだよ」


他愛のない質問ではあったが、重大な質問でもあった。くすぐったいような、締め付けられるような感覚を覚えている。タカユキは照れながらも、正直に答えた。


「ケイゴ」


周囲が冗談だろうとからかった。ちゃんと言えよ。みんな言ったんだから。皆がそんなふうに言った。

だがタカユキは反駁した。自分は真剣なのに、なぜ笑うのか。なぜ冗談だというのか。


反駁すればするほど、仲間の目は急激に熱を失っていった。やがてそれは凍り付くような視線に変わった。

自分はおかしな事を言ったのだろうか。



都内でバーを複数経営する母親は息子の変化に気付かなかった。彼女にとって、経営する店の全てが『子供』であり、働いているホステス全てが『娘』だった。

若いながらも女帝として君臨する経営者は、息子と向き合うヒマがなかった。


タカユキは『告白』以降、からかいの対象となった。疎外される対象にもなった。

あれは冗談だった。うそだよ。

後ろめたくも自分を欺いて、そう弁明すると、仲間たちは安心したようだった。だが見えない壁や見えない溝は確実に感じ取れた。以前のような『仲間』ではなくなっていた。


中学に上がった頃、タカユキは担任の教師に関心を寄せた。彼は野村という、30手前の社会科教師だった。


周囲の子供たちとは違い、深みがあって、優しさがあって、包容力もあった。

タカユキはいっぺんに参ってしまう。

野村が顧問をつとめる陸上部に入り、教室外でも彼との時間を増やした。観察すれば観察するほど、彼はタカユキにとって魅力的に映った。


自分は同性愛者なのだ、とタカユキは自覚した。

母親の周囲にいる女性たちを見てきたせいで、女性への偏見が生まれていたのだろうか。

ホステスたちに中性的な肩まで髪、整った顔立ちを褒められ「女の子よりカワイイ」と言われ続けたせいか。それとも……。タカユキは考えるが結論はでなかった。あるのは結果だけだった。


野村に褒められるため、タカユキは社会科を必死で勉強し、陸上でも好成績を残した。いま思えば、一番幸せな時期だった。

野村に褒められ、優しく肩を叩かれ、学校帰りにラーメンを奢ってくれたこともある。


「この店、美味いだろ?」と野村は言ったが、ラーメンの味なんてまったく分からなかった。野村となら、なにを食べても美味く感じるのではないか。

「うまいです。また来たいです」控え目に、次を期待する言葉を選んだ。いくらでも頑張れる、そう思った。


女性にはモテた。

放課後、どこかに呼び出されるたびタカユキは謝らざるを得なかった。何度「ごめんね」を言ったか指折り数えたら、足の指まで使うことになりそうだ。

そして告白を受けながら、タカユキは悲しく思った。彼女たちが羨ましくも思えた。


こんな風に、面と向かって好きだと言えたら、どれほどいいだろう。

疎外されること、凍り付くような目が怖かった。勇気だけで行動できたら、どれほどいいだろう。

学年末、野村との面談のとき、タカユキは胸の内を明かした。


「おかしいでしょうか!」

うつむきながら、強い口調になってしまう。

野村は言った。

「いいんじゃないか。自由だし」

そう言ったが、『告白』には触れず、野村は事務的に面談を終わらせた。『ごめんね』すら言われなかった。彼の目は最後までタカユキを直視しなかった。そしてまた、見えない壁と堀が2人の間に築かれた。



それでも終業式まで学校へ通った。

かすかに、野村だけでなく他の生徒からも蔑視の視線を受けたように思えた。被害妄想だと考えようとした。

終業式が終わった放課後。よく澄んだ晴れの日だった。ごったがえす昇降口で誰かが「じゃあな、オカマ」と言った。


振り返ったが、誰が言ったのかわからなかった。靴を履き替えたり、上履きをカバンに入れたり、誰もが自分のことに没頭していた。

その日以来、タカユキは学校へ通っていない。


自室に閉じこもり、様々な本にのめり込んだ。

生きるだけで、なぜこんなに辛いのか。自然に生きることがどうしてこんなに困難なのか。救いを求めて母親の蔵書から聖書を取り出した。


しかしそこにも救いはなかった。

同性愛は神に対する冒涜であり、神の国を汚す行為だと書かれていた。大罪だと書かれていた。自身のアイデンティティーが確立するより前に、降家孝之は否定された。


盗みも、騙しもしない、誰かを傷つけもしない。だが持って生まれた性質のために、タカユキは罪人とされた。天国は受け入れてくれないのだと。美しき愛。崇高な愛。世界を救うはずの愛。その愛に殉じようとすることが罪。愛することが大罪だと。


『赦されるには、今すぐその行為をやめ、神の意志に恭順せよ』

無意識に同性を好きになってしまう自分が、赦されるはずもない。


大人になりきっていないにも関わらず、降家孝之は社会的にも宗教的にも、否定された。少なくとも本人はそう感じた。ならば、いますぐ死刑にしてくれ。そう考えふさぎこんだ。

彼の暗黒時代、唯一タカユキの胸に響いたのは、聖書における『伝道者の書』だった。その箴言しんげんのほとんどを暗記してしまうほど読み込んだ。


空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。

日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。


一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。

日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。


風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。

川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる。


すべての事はものうい。人は語ることさえできない。目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。


私は、日の下で行なわれたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。


曲がっているものを、まっすぐにはできない。なくなっているものを、数えることはできない。

実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。


人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ。


みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る。


神が富と財宝と誉れとを与え、彼の望むもので何一つ欠けたもののない人がいる。しかし、神は、この人がそれを楽しむことを許さず、外国人がそれを楽しむようにされる。これはむなしいことで、それは悪い病だ。


もし人が百人の子どもを持ち、多くの年月を生き、彼の年が多くなっても、彼が幸いで満たされることなく、墓にも葬られなかったなら、私は言う、死産の子のほうが彼よりはましだと。


死産の子はむなしく生まれて来て、やみの中に去り、その名はやみの中に消される。


太陽も見ず、何も知らずに。しかし、この子のほうが彼よりは安らかである。

彼が千年の倍も生きても、――しあわせな目に会わなければ、――両者とも同じ所に行くのではないか。


多く語れば、それだけむなしさを増す。それは、人にとって何の益になるだろう。

だれが知ろうか。影のように過ごすむなしいつかのまの人生で、何が人のために善であるかを。だれが人に告げることができようか。彼の後に、日の下で何が起こるかを――。



そんな、自分の殻に閉じこもる息子に手を焼いたのか、母親は新興宗教の合宿に息子を送った。それは厄介払いだったのではないかとタカユキは思う。


そして、杜倉憂理と出会った。そして再び罪と罰の狭間に魂を焼くこととなる。

悪いのは自分か? 彼に触れたいと思う自分は異常者なのか?

自己否定はやがて精神的安定を求めて、肯定のための理屈を組み立ててゆく。

間違っているのは常に社会だ。


どうしようもない人間が擦り寄って作り上げた、よりどうしょうもない常識。それが間違っている。

法律も、秩序も、教義も、すべてが間違っている。下らない常識が、下らない偏見を生み、ルールを作る。そして、それがさも正しいかのような錯覚すら覚えている。

権力側に立つ人間が、自分のいいように作り上げた社会規範が力のない人たちを苦しめる。


タカユキのそんな思想は、ほとんど怨念ともいえるものになっていた。全ての常識を疑え。全ての規則を疑え。そして、全ての法も。

この考えは、民主主義に相反するものであることもタカユキは気付いている。

民主主義の標榜する『多数決』に嫌悪すら覚えている。


多数決によって選ばれた先導者が間違っていた場合、その独裁を崩すのは容易ではなくなる。選挙によって選出された独裁者が『選挙』というルールを無くしてしまえばどうなるか。

ルールなど、常識などその程度のものでしかない。


ならば、自分で今の世界を変えてみればどうか。

下らない価値観を全て一掃できるような。常識の縛りをなくしてしまうような。そんな新世界を。

タカユキの目に杜倉憂理が映る。1つか2つほど年下のあまりにも頼りない少年。頼りなくも、どこか凛として……。


神は、7日間で世界を造ったという。

それはどうしようもない、『やっつけ仕事』だったとタカユキは考えている。そして、そのやっつけ仕事の負債である未完成な世界を再構築させようと考えた。


――ちょうどいい。今の状況はそのためにある。舞台は整っている。脚本も仕上がっている。配役も済ませた。あとは上演するだけ――。


タカユキの目に杜倉憂理が映る。

すべては、彼のために。



 * * *


洗濯室へ戻り、その足で仲間たちと脱走しようと憂理は考えていた。


だが菜瑠とエイミによりその段取りに多少の変更が加えられる事となった。

『自分たちだけではなく、全員で逃げるべき』それはもっともな意見に思えたし、反論すべき根拠もない。《《全員》》にどこまでが含まれるのかは考える余地はあったが――。


そして今、憂理は食堂にいる。半村の暴挙が始まった場所にいる。菜瑠とエイミが2人して飛び回り、『集合』を呼びかけたのだ。

最初にやってきたのは黒腕章T.E.O.Tの連中で、その次にどこにも属さなかった者たち。最後には半村奴隷たちもパラパラとやってきた。


憂理の居る壇上前から見て、むかって右翼に半村奴隷、左翼にT.E.O.T、中央に『アザーズ』という棲み分けが自然に、それでいて整然となされた。


「当たり前のコトだけど……。こんなにいたんだね」

感心したようにエイミが言うと、同じく遼も頷いた。


「なんだか、『国連』って感じだね」

見回せば、オールスターというやつだ。

カネダを筆頭とする半村奴隷。その一群にはハマノやコスガ、ジンロクの姿もあり並ぶ顔のどれもにどこか『申し訳なさそう』な表情が張り付いている。


タカユキを指導者とするT.E.O.Tはどこか威厳に満ちて見える。

憂理を見つめるタカユキの後ろにはアツシ。さらにその後ろにイツキやサマンサ・タバタ。カナや元奴隷である石井“ヤリマン”遥香もいる。

その一群を見渡したとき、ノボルの姿も確認できた。T.E.O.Tが勢力を拡大しているのは明らかに見えたが、それは食糧のおかげであろうと憂理は思う。


中央の『その他』には見知った顔ばかり。

一番先頭に菜瑠とエイミが仲良く横並びに座り、その後ろには翔吾と遼、ケンタ。少し離れて四季がいる。


これで全員、ではない。

すべての生徒を知っているわけではなかったが、単純に人数が少ないように思われる。むろん、ユキエやらガクは席を外しており、カガミとハラダ・ユカは食堂うんぬんではなく、この世界にいない。


それらの欠席者を差し引いてもまだ人数の帳尻が合わないように思われた。だが姿を隠したり、人の気配から逃れようとしている者もいると考えば、むしろ充分に集まったといえるだろう。


様々な顔に、様々な態度があった。

訝しそうに周囲を見回す者、早々に椅子に座る者。椅子ではなくテーブルに座る者。その中でも特に特徴的であったのは半村奴隷たちの態度であった。

申し訳なさそうな彼らは、まるで人目をはばかるかのように集まり寄り添い、以前の傲慢な態度を完全に消し去っていた。それは『ナンバースリー』であるカネダとて例外ではない。


拠り所になった暴君が消え、圧倒的な優位性が失われ、裏切り者という汚名だけが残ったのである。彼らの荷担したことを考えれば、その汚名は当然の報いと呼ばれる類のものであった。

講壇の縁に腰を掛けて全体を見渡していた憂理にヤジが飛んだ。


「さっさと始めろよ」


このヤジは翔吾が発したものであるが、その声でようやく憂理は感慨の世界から帰還できた。

こうして全員を集めたのは感慨に耽る同窓会のためでなく、会議のためなのだ。ボンヤリしている時間が惜しい。


憂理はステージに立つと、ざわめく会場に声を通した。


「静かに! 聞いてくれ!」


スッとざわめきが引いたことを確認すると、憂理はガラにもなく咳払いを1つしてから、端的に本題を提示した。


「あのさ。脱走する!」


あまり上手い演説とは言えないが、言葉は確実に衝撃を生んだ。

どのグループに属する者もしばしの衝撃を全身に受けて、やがてそれの共有を確認しようとヒソヒソ話を始める。

感情の共有はたしかなもので、大別すれば「マジかよ」「本気!?」、その2つしかなかった。


憂理は内心、馬鹿馬鹿しいと思う。

なにも全員に脱走を告知する必要はない。逃げたい者が勝手に逃げればいい話なのだ。

だが菜瑠やエイミ、果ては遼にまで説得されこうして壇上に立っている。引き受けた以上、始まった以上、邪念を振り払って言葉を続けるしかない。


「だから、逃げたい奴は俺らと逃げよう」


学長なり深川なりが健在であれば、『罰則事項の教唆』に問われる内容だ。だが2人とも健在ではない。


「どうだ?」


憂理はまず、ジンロクを見た。幼い弟妹のいるジンロクは半村グループとはいえ被害者だと考えていたからだ。


ジンロク――。責任感の強い兄は、真っ直ぐな瞳で憂理を見つめ、ぴくりとも動かない。わかってるよ、と憂理は思う。――気にしてんだろ。色々あったケド、怒っちゃいねぇよ。

返す視線にそんな気持ちを込めて頷くと、ジンロクも、やがて小さく頷いた。


「脱走する奴は中央に集まってくれ」


憂理がそう指示を出すと、半村奴隷の一群からまずジンロクが動いた。幼い弟妹の手を引き、申し訳なさそうに中央の群に加わる。


合流直後、ケンタが右から、翔吾が左から、ジンロクの肩にパンチを見舞った。2人がイタズラっぽく笑うと、ジンロクも照れくさそうな、ハニかんだような笑みを見せた。


これをきっかけに、半村奴隷の一群から1人また1人と中央に移動し、脱走組が大きく膨れあがってゆく。

コスガやハマノのような『半村色』だったものが動いたとき、憂理が不快感を感じたのは事実だ。だが、「お前らはダメ」などとは言えない。

そんな事をすれば、半村やユキエと同じ――そんな菜瑠の言葉を思い出し嫌悪感を飲み込んだ。


カネダと数人が動かない。ナンバースリーは腕を組み、いかめしい顔で憂理を睨み付けてくる。やがてへの字に歪んでいた口が動いた。


「どうやって逃げんだよ」


「どうやっても、だよ」


「コントロールパネルの鍵はあんのかよ」


半村が鍵を持っていることをカネダは知っているようだった。


「ない」


「大階段は封鎖されてるだろ」


「そうだ」


「だから聞いてんだ。どうやって逃げんだよ?」


地下階を経由して、大型エレベータで外へ。思わずその計画が口から漏れそうになるが、憂理は思いとどまった。まだ明かすべきじゃない。そう思う。

脱出に賛同した半村奴隷も、カネダのような半村奴隷も、まだ信用できない。邪魔をされては面倒だ。


「トップ・シークレッツ」


言葉控え目にそう返すと、カネダは『そらみたことか』という侮蔑の表情を浮かべた。


「《《あの人》》が鍵を持ってる限り、脱走なんて無理なんだよ。鍵を奪うチャンスがなかった今、俺らは閉じ込められたも同然だ」


「お前、めんどくさい奴だな。俺が逃げれる、って言ったら逃げられるんだ。男に二言はない」


「だからどうやって逃げるか説明しろと言ってる」


堂々巡りで意味の無い会話。水を差したのは翔吾だった。


「地底人に助けてもらうんだよ。地底人によ! 知ってっか? 地底人デロって。あのさ、逃げたくないなら残りゃいい。お前みたいなボケに丁寧に説明するギムはねーんだよ」


「翔吾の言うとおり、説明する気はない。邪魔されたら面倒なんで」


苛立ちをかみ殺しながら、憂理は壇上から向かって左翼に位置するT.E.O.Tたちに視線を向けた。不思議なことに、彼ら彼女らは一歩も動こうとしない。

しきりにタカユキの挙動を気にしてはいるが、首から下は微動だにしていない。


動かないT.E.O.T。これは憂理にとっても意外なことであった。

どちらかと言えばすぐに脱走に賛同、協力してくれると思っていたからだ。

だがタカユキは澄んだ瞳で見つめてくるばかり。


「えっと、テオッターズはどうすんだ?」


憂理が判断を促すと、ようやくタカユキが動いた。憂理を見つめたまま壇上近くまでやってくると、控え目に言葉をかけてくる。


「時間あるかな? ユーリ」


あると言えばあり、ないと言えばない。そんな憂理の考えを表情から読んだのか、カユキは返答を待たず続けた。


「話があるんだ」


「話」


「ああ、話したいことがある」


「脱走しない?」


タカユキはやれやれ、といった調子で微笑の唇からため息を吐き、もう一度言った。


「話をしたい」


「じゃあ、どうぞ」


憂理が聖者を壇上に迎えようとしたところ、タカユキはゆっくり首を振り、言った。


「違うんだ。二人っきりで話がしたい」


これはつまり、誰かに聞かれては困る、という事らしい。

――タカユキに構ってるヒマなんて……。と憂理は断りたい。


だが、T.E.O.Tの有する食糧を少なからずアテにしている部分がありムゲにするのも気が引ける。

脱走に際して、まず目一杯に食事を食らい、数日分の食べ物を持ち出そうと考えていたからだ。脱げだした山中で餓死など、マヌケにも程がある。


「ええと……。今じゃなきゃ、ダメか?」


「今、言っておきたいんだ。ユーリ。今」


どうするべきか。

憂理が判断に困り、助け船を期待して菜瑠を見ると、彼女は大きな目を瞬きさせるばかり。『なに? なんの話?』だろう。

エイミはぽかんとしている。特に何も考えていないようだ。

翔吾は訝しげに肩をすくめ、ケンタはアクビを見せた。

こういうときは軍師に……と憂理が遼へ視線を移すと、頭脳派の少年は少し離れた位置にいる四季をチラチラ見るばかりで事態を把握していない。


「話しておきたいんだ」


タカユキの言葉はほとんど懇願のようになっている。

こうなられては憂理も居心地が悪い。ここで断ったら、なんだか自分が冷酷な人間になるような気がする。


「わかったよ……」

憂理は頭を掻いて応じ、代わりに菜瑠を呼んだ。

「おい、ナル子。言い出しっぺはお前なんだから、あとは任せたぞ」


菜瑠はまたパチクリ、パチクリと数度の瞬きをして、やがて生活委員の表情に戻った。スッと立ち上がり、憂理の代わりに壇上へと登る。

「脱走するひとは、中央に並んで下さい。ほら、ちゃんと」


憂理はバトンタッチを済ませると、壇上から飛び降りタカユキの前に立った。

「で、どうすれば?」


「他の部屋へ行こう」


「ほかの?」


「ここじゃ、まずいんだ」


それだけ言うと、タカユキは食堂の出入り口へと歩き始めた。T.E.O.Tたちの視線を全身に浴びながら、憂理はその後を追う。

――こりゃ、いい話じゃないな。


そんな根拠のない不定形の不安が憂理の唇を微かに歪めた。



 * * *


やはり倉庫という場所は好きになれない。憂理の脳裡には好ましくない思い出ばかりが想起される。


憂理を先に入らせると、タカユキは音もなくドアを閉めた。

かくして密室が完成すると、憂理は訝りながらも一番奥まで進み、手頃な段ボールに腰を下ろした。

一方のタカユキは閉めたドアに背中を預けてなにやら神妙なオモモチで憂理を凝視していた。


「……で、話ってなんだよ。告白なら間にあってんだけど」


憂理が軽口を吐くと、タカユキの整った顔に微かなシワが寄る。そして、その一瞬の後、聖者はまた涼しげな微笑を戻した。

「だったら、どうする」


「どうするも、こうするもねぇよ。で、なんの話だ」


「ユーリはせっかちだね」


「時間がないから急いでんだよ。半村が復活したらまた振り出しなんだからよ」


半村が弱っている内に脱走しておかねば、面倒なことになる。

もし暴君が復帰したら、次に起こる事態を予測することは予言者でも困難であろう。ただひとつ言えることは、死者の数が増える――それだけは予言者でない憂理にも想像できるものであるが。


「ユーリ」

タカユキはどこか厳かに、その名を呼んだ。真っ直ぐな眼差しが憂理を硬直させた。

「脱走しちゃいけない」


その言葉に憂理は疑問符を持って応じるしかない。

「……なんで?」


しかしタカユキは答えない。彼はただ、例の涼しげな目にいささかの強さを光らせて見つめてくるだけだ。


「なんでだよ? このまま此処ここに居る意味なんてないだろ。学長はあんなだし、深川も半村も……カネダたちだって」


「なんとかしないとね」


「いや、そう言うのじゃなくて、なんつうか、もう限界だろ? 俺らメシにだって不自由してる。さっさと逃げ出して警察なり自衛隊なりSATなりを呼ぶべきだろ」


「そんなことをしても、意味がないんだユーリ。本当に、残念なことだけど。灰は灰に、塵は塵に戻ってしまった」


懐疑から転じた苛立ちが、憂理に大きなため息を吐かせた。

こんな禅問答に付き合っているヒマはない。『時間が惜しい』と釘を刺した上でのこのような要領を得ない会話は、ストレス以外の何物でもないのだ。


「お前は宇宙人か。言いたいことがサッパリだよ。遠回りしすぎ」


「宇宙人?」


「そーだよ。娯楽室でテレビ見なかったのかよ。テレビ。ミステリーサークルは宇宙人からのメッセージとかいう」


苛立ちを隠さない憂理と対照的に、タカユキは「アハハ」と小さく笑った。

「見てないね。そんなものは。メッセージなのか。知らなかったよ」


「だからお前は宇宙人だ。メッセージだの言いたいことがあるなら、ハッキリ言えよ、わかりやすく! 大体、宇宙人の奴らメッセージがあるなら麦畑じゃなく、サッカースタジアムなり野球場なり、ホワイトハウスの庭にサークルを残すべきなんだよ。あんな人気ひとけのないトコに残すから話がこんがらがるんだ」


双方はさらに対称的になる。憂理は憤り、タカユキは機嫌良く笑う。そうしたタカユキの態度がさらに対称比を大きくするのだが。ムッとして腕を組んだ憂理に、タカユキはすっと真顔に戻って、言った。


「エンバウーラ!」


「エ? エンバ?」


「エンバウーラ」


「エンバ、ウーラ? なんだ? なんだよそれ?」


すると、タカユキが再びアハハと笑い首を振った。


「宇宙人、とかいうから言ってみたんだよ。宇宙人語」


「お、おまえ! ふざけんなよ! 時間がないって言ったろ! 逃げる気がないってならもういい。ここに残って永遠に宇宙語のレッスンでもしてろ」


語気を荒めた憂理に、ようやくタカユキはシュンとして叱られた小学生のような顔を作った。しかし、これも演技かも知れない。

憂理が部屋から出て行こうとすると、スッと伸びたタカユキの手が憂理の腕を掴んだ。


「待って、ユーリ。行っちゃいけない」


「だから!」


「ちゃんと話をするから、もう少しだけ、もう少しだけ時間を、ほんの少しで良いんだ」


懇願するようにすがってこられると、憂理は弱い。非情になれない自分を呪いたくもなる。


「じゃあ、早くしろよ」


「逃げる意味がないんだ」


「それは聞いた」


「じゃあ、半村に会いに行こう。僕も確証が欲しい」


思わず混乱をきたすことをいう。何がどうなって半村に会いに行くのか。数秒の思考ののち、憂理は複雑なロジックの解法を長髪の少年に求めた。


「意味わかんないんだけど、お前、なんか隠してる……なんか知ってるのか?」


タカユキは答えない。ただ真摯な眼差しを突き刺してくるだけだ。それは菜瑠のように、強い信念に突き動かされている者の目だった。


「なんか知ってんなら、言えよ」


「この施設……。――いや、やめておくよ。確証がないんだ」


「カクショーなくても言えよ。だいたいお前は秘密が多すぎる。そんなんだから変人扱いされるんだ」


「ユーリもそう思ってる?」


思わず言葉に詰まるような事を聞く。『ああ、お前は変人の変態だ。頭の中がカエルとウサギのGIGAワンダーランドなんじゃないのか』などと言いたい。だが、言える雰囲気ではなかったし、言う勇気もなかった。

勇気のない杜倉憂理は、ズルい回避法を選んだ。


「みんな――そう言ってる」


「秘密を持っていない人なんていないよ、ユーリ。みんな自分の秘密を内に秘めている。ユーリだって」


「俺には秘密なんてないよ? 俺は、見られてる全部がまるごと杜倉憂理だ」


「怖いんだユーリ」


珍しく殊勝な顔でタカユキが言う。いつもの余裕だの涼しさを感じさせない。


「怖いんだ。自分をさらけ出すことが。どうしょうもなく怖い。秘密を明かしたとたん、全ての魔法が解けるような気がして……。僕の周りの小さな世界がひっくり返ってしまうような気がして。手にした物が全て砂に変わって指をすり抜けてゆくような気がして」


「んなこたぁない」憂理は馬鹿馬鹿しいというジェスチャーで手を振った。「お前はすぐに大げさに言う。ネガティブなんだよなぁ。男ならタフに構えてなくちゃダメだぜ。そんなんじゃお前、こんな時代を生き抜いていけないぜ? 指からすり抜ける、ってんなら指を閉じろ。魔法が解けるってんならもう一度魔法をかけろ。男なら死ぬときも前のめりに死なないとな」


「ユーリは強いね」


「お前も強くなるために全部言え。秘密主義はよくない。飯の調達だってウヤムヤのままじゃないか」


「あれは単純な話だよ。地下階から持ってきた」

その暴露に憂理は耳を疑った。地下階から持ってきた?


「どうやって? ちゃんと全部言ってくれ」


「階段を下りて、ドアを開けて、ドアを閉めて、食糧のある部屋へ行って、ドアを開けて、閉めて、食糧を持って、ドアを開けて……」


「まてまて、待ってくれ、ドアは通れないだろ?」


「通れたから通ったんだ」


「ノブがあったのか?」


「そういうことだね」


「いまも?」


「今はない」


落胆がため息となって胸から抜けてゆく。期待した自分が悪いのか、そうじゃないのか。

「なんだよ。じゃあ、もう地下から食い物の調達はできないわけ?」


「できる」


「なんで?」


「ノブを持っているから」


「え?」


「あそこのドアノブを持ってる」


これには胸が躍った。どこかタカユキに感情をもてあそばれているような気がしないでもないが、地下への直通通路が使えるとなると多くの問題が解決するのは明白だ。


「どうして持ってるんだ?」


「外して、自分の物にした。それだけのことだよ」


「なんだよ、てっきり半村が持ってるモンだと……。でもこれで脱走が楽になるな」


ハードルをひとつ越えたつもりでいる憂理にタカユキは首を振った。

「だから、脱走なんてさせない。ノブも使わせないよ。意味がないから……」


これは、途轍もなく面倒なヤツである。登っては消える幻の梯子を登らされているような気分だ。物事の解決は次の問題の発生を意味するのか。

いっそのこと、強奪してやろうかと穏やかならぬ閃きに、憂理はタカユキの全身を盗み見るが――。


「持ち歩いてはいないよ。隠してある」


「ふうん。どこに?」


「秘密」


「お前は面倒なヤツだ」


「ユーリ。食糧は食べきれないほどある。ここから逃げる必要なんてない。ここにいればいい」


「半村だの深川だのがいて、そんなことがよく言えるな。だいたい死人が出てるんだぞ? 学長だって医者に診せないと」


「僕がすべて何とかするよ」


「無理だって。お前は警察官でもないし自衛隊でもないし、ましてや医者でもない、ただの宇宙人だろ」


タカユキはクスクスと小さく笑い、『エンバウーラ』と呟いた。

「なんだって、できるさ。ユーリ。なんだって」


憂理を見つめる二つの眼は、自信に満ちあふれている。ほんとうに地球外技術でも有しているのか――そんな気にさえさせる怪しい力があった。


「できやしない。なにも」


「できるさ。僕は神になるんだ。この世界を、そっくり新しく造り替える。全てを」


――神。

これは、こいつは、とんでもないアホに違いない。憂理は急に脱力と徒労感を感じた。こんな妄想症の人間と話していてもらちが明かない――。


「いや、わかった。あの、おれ行くわ」


しかし掴まれたままの腕が少しも緩まらない。

「正気だよ、ユーリ。僕はおかしくなってない」


「酔っぱらいは自分が酔っぱらってないって言う」


「違う。僕は酒にも自分にも酔ってはいないよ。考えて欲しい、外界と隔絶されたこの場所は、もう独立した世界だと言っていい。いままで押しつけられてきた常識も、したり顔で語られた定説も、懐古主義者たちのカビくさい思想からも、全てから自由になれるんだ。ここで新しい世界を創造するんだ。ここはエデンの園なんだよ。神のいないエデンだ」


エデンの園ぐらいなら宗教にうとい憂理でも知っている。

そこは神の楽園。労働も苦しみも悲しみもない世界。蛇によってそそのかされた人間が――アダムとイブが追い出された場所。


「エデンだなんてよく言うよ。暴力で支配するヤツがいて、それに従う奴隷が居て、腹を空かせたヤツばっかりで、みんな怯えてばかりで……何人も死んで。これのどこが楽園だよ。こういうのは地獄って言うんだよ」


「たしかに今はそうかも知れない。ソドムのいちよりも醜悪な……」


「ソドムがどうとか知らんけどよ。お前の救世主ごっこに付き合ってるヒマはないんだよ。これ以上だれかが死ぬのを見たくない」


「すべて解決するよ。僕が」


「できゃしねぇって」


押し問答の手本のようになってしまっている。なぜタカユキがここまで脱走させまいとするのか理解できず、憂理の胸中に苛立ちが鬱積うっせきする。


「ユーリ。半村に会いに行こう。彼は全て知っているから。真実を知ればユーリだって僕の考えを理解してくれると、脱走が無意味である以上に罪悪であるとすら思うよ、きっと」


「思わないと思うよ、きっと」


「そのときはドアノブをユーリにあげよう。半村に会いに行く交換条件だ」


憂理は思慮深く考え、哲学者のように悩み、やがてぶっきらぼうに頭を掻いた。

ゾロゾロと大人数で穴なり、昇降路を伝って地下階へ行くより、やはり階段経由で行く方がスマートであろう。

あわよくば、半死半生の半村からエレベーターの鍵を奪取し、直通で地上へ……。


タカユキはその結論を見越したように言葉を繰ってきた。


「あれだけの人数だ。脱走の行列は……凄いことになるんだろうね。混乱もあるだろうし、内心で敵対しあってる人たちもいる。『自分のため』なら暴力だって辞さなかった連中だ。ちょっとしたストレスで問題行動を起こすに違いない。半村は僕たちのことを『サル』だって言ったけど、違う。ブタだよ。自ら生み出した汚物にまみれ、それでも欲望を追求して」


タカユキの眼が怪しく光った。


「豚の行進。その先頭に憂理がいる。どこへ導けばいいのか、わからないまま……。途方に暮れたまま……。ストレスは少ない方が良い、ハードルは低い方が良い。道は近い方がよく、食糧は多い方がいい」


これは至極まっとうな意見であり、これには『んなこたぁない』と反論することもできない。地下階へのシンプルな連絡通路があれば、多くの問題は解消されるような気がしてくる。


「わかったよ」

渋々で憂理が応じると、タカユキは例の涼しげな微笑で応じた。


「よし、じゃあ半村を探しに行こう」


「いや、俺居場所知ってる。まだ居るかはわかんねぇけど」


少し意外そうなタカユキの表情を尻目に、憂理は倉庫内の様々な物品を見回した。

――武器がいる。


「半村がさ。深川に半殺しの目にあわされてたんだ。とりあえずそこへ行こうぜ」


憂理は棚に立てかけられていた角材を二本とりあげた。そして、一本をタカユキにヒョイと投げる。

半村が復活していたら、深川が襲ってきたら、他にも、他にも。

身を守るにあまり頼りがいのある武器とは言い難いが、徒手空拳で外敵に備えるよりは幾分かマシであろう。


「いこう」



 * * *


手にした角材を肩に立てかける憂理と対照的に、タカユキはそれを床について歩いている。

これでは杖だ。聖人らしいといえば聖人らしい振る舞いであるが、なんだか頼りなく感じてしまう。

ほとんど言葉を交わさないまま通路を進み、やがて2人は目的の場所までやってきた。


「ここだ。こんなかに半村の野郎とユキエが居るはずだ」


野獣の檻――。そう表現したくなるような不穏な空気がドアの隙間から流れ出ているように思える。このままドアの前に机なり椅子なりを積み上げて、野獣とその庇護者を閉じ込めてしまうべきなんじゃないか。


憂理の考えをよそにタカユキはほとんど何の感傷も見せずにスッとドアを開いた。

ワケも分からず憂理は息を止めてしまう。緊張のためか、あるいは血の臭いを忌避するためか。本人にもわからない。

そうして、まるで自室にでも入るかのようなタカユキの背を追って憂理も野獣の檻に足を踏み入れた。


そこは数十分前と変わらない光景があった。

床に倒れた半村。それを甲斐甲斐しく看護するユキエ。

以前と違うものの1つをあげれば、それはユキエの眼に浮かぶ敵意であろう。木製の得物を手にした檻への侵入者2名に対し、明らかな警戒心を見せていた。『何の用?』という質問が口ではなく、眼で語られていた。


ユキエがそうであるように、タカユキの口も開かれず、憂理の口だって動かない。

気まずさと緊張の空気だけが場に沈黙を生み出した。


そうした中で、静寂を破ったのは《《野獣》》であった。


「はは、そうだよなぁ……。ヤるなら今しかないもンなぁ……。お前らは正しい」


薄く開いた瞳がタカユキと憂理に弱々しい視線を配る。意識を取り戻しているのは少々驚きを禁じ得ないが、これぐらいタフでないと暴君は勤まらないのかも知れない。

半村の言葉と同時にユキエが動いた。


手にしていた濡れタオル――血で茶色く染まったそれを、ほとんどノーモーションで投げつけてきたのだ。

タカユキが避け、憂理がはたき落とした瞬間、ユキエは金属バットを握りしめ、立ち上がっていた。


過去にはカガミの命を奪ったそれは、いまや唯一の配下となった少女の唯一の武器だった。


睨み付けてくる凶暴な2つの目。幅のない肩。華奢な細い腕。その細い腕には無数の白い痕があった。まるで白肌の上をナメクジが這ったかのような傷。無数に刻み込まれた傷。

それが自傷行為によるものか、あるいは他者による虐待の痕跡か、憂理には分からない。ただどちらにせよ、イジメが起因となっていることは疑いないように思われた。


一触即発の1秒。耳の奥に心音がシャクシャクと鳴る。


憂理自身、自分の手にした角材で、ユキエを殴ることになるとは信じがたい。だが数秒ののちには、彼女を叩きのめしているかも知れない。自分がイジメに荷担するかのような後ろめたさが、肺の底を焼く。


トラブルを回避するため、憂理は腕力でなく口頭を持って事に当たった。


「あのさ。そんな奴……守る意味ないって。たぶん」


ユキエは応えない。ナイフよりも鋭い目でただ憎悪を投げかけてくるだけだ。


「お前もヒデぇ目にあわされたろ? その何て言うか、無理やり、欲望の、なんていうか」


「アンタにわかるワケない」


心情のことか、あるいは行為についてか。たしかに憂理には分からない。


「いや、良くわかんねぇケド。わかるよ。なんか、いたたまれねぇつうか、どうしょうもない、つうか……」


「わかるわけない! アタシの気持ちが分かるわけない!」


憂理は肩にのせた角材をゆっくりと下ろし、幼子に諭すように言った。


「いや、わかるよ。お前が半村に頼る気持ち、わかるよ。頼るしかないって気持ちもわかる。お前が俺らの顔なんて見たくないって言うなら、どっか行けって言うなら、その気持ちも分かるよ。だから……」


「僕たちは半村を殺しにきたワケじゃない。少し話をしたいだけだよ」


タカユキがそう言うと、ユキエは若干ではあるが警戒心を緩めたようで構えたバットを少し下げた。だが目には根強い懐疑心をありありと残している。


「殺されないのは有り難いがね」半村が仰向けに倒れたまま言う。「会話を楽しみたい気分じゃあないな……」


玉のような汗が顔面を濡らしているところを見ると、かなりの傷みに耐えているらしい。


「聞きたい事がある」


黒目だけを動かして半村がタカユキを見た。唇は動かないが『なんだロン毛』だ。


「外はどうなってる?」


半村は答えない。やはり黒目だけでタカユキを見つめている。応答のないまま質問が被せられた。

「外で何があった?」


半村は黒目を天井へと移し、痛みに顔を歪めてからようやく言葉を漏らした。

「さあな」


「知っている事を全部話して欲しい」


「俺が知ってるのは、お前らがアホだって事だけだ」


――外。

憂理はケンタから聞いた『暗い外』を思い出していた。ケンタは『夜じゃない暗さ』と表現したが、それが今ここで行われている質疑応答と関係するのかはわからない。


「戦争か?」


タカユキの言葉に憂理は耳を疑ってしまう。外で戦争? 半村は答えない。


「大災害か?」


やはり半村は口を閉ざしたままだ。


「テロ、あるいは異常気象、急激な気候変動」


ようやく半村の口角が『ニヤリ』の形を作った。

「すげぇ想像力だな、ロン毛。お前、オナニーも目を閉じて妄想でやる系だろ?」


「外で何かがあったのはわかってる」


「そうだろうよ」


「外で何があった」


再三の質問だが半村は答えない。

置いてけぼりを食った憂理はようやく質問を口に出した。半村にではなくタカユキに訊く。


「外がなんかヤバいことになってんのか?」


「おそらく。平時じゃない事は確かだ」


「ロン毛、ヘイジとか賢こぶった単語を知ってるじゃないか、あぁ?」胸のあたりをヒクヒク動かして半村がクククと笑った。

「平時な。対義語は、非常時……戦時……。『平時じゃない』ってんならそのどちらかって事になるなぁ」


「そうなんだろう?」


「知らんよ。俺が知ってるのは『ここ半年で外部との連絡が一切つかなくなった』って事だ。外は暗ぇし、定期の搬入もパッタリ止まった」


半村の証言。それは憂理の胸中にさざ波を引き起こした。これは半村らしい誤魔化し、レトリックではない。これは真実だ。

学長の執務室で見た貨物搬入予定帳は、たしかに半年前でパタリと途切れていた。

タカユキの質問が続く。


「学長も深川も現状を知っているんだろう?」


「そりゃあ、そうだ。統合監督部がいない現状じゃあ、篠田学長ドノが現時点での最高責任者だからな。深川のババァだって知らんワケがないだろ」


黙ったバットを構えていたユキエがようやく構えを解いた。そして呆けた様子で暴君に尋ねる。

「外……どうなってるんですか」


フン、と鼻で嗤い、暴君が答える。


「滅んじまったのかもなぁ、世界。電話も電波も死んでる。深川さんに言わせりゃ、世界終末予言の成就らしいがね。まったくアホなババアだわ」


「世界終末……」

憂理のつぶやきに呼応するように半村の黒目が憂理に向けられた。


「なぁ彼氏。マジカヨ、だろ? アリエネー、だろ?」


「えっと、俺たち以外は滅んだ……っての?」


「フン……。あり得ねえよ、ンな事はよ。深川のババアはそう決めつけてたがね。『予言の通りよ、今こそ救世主による救済の時よー!』ってよ。あの人、ババアってだけならともかく、アホだから救えねぇ」


「救世主……」憂理がチラリとタカユキを見やるがタカユキは『僕が救世主だ』などとは言い出さない。

「あのババア、自分の娘を救世主だと断定してたんだわ。英才教育だの悟りのためだの、イニシエーションだの言って閉じ込めてよ」


「あの人がおかしくなったの……そのせいなんですか?」


ユキエが控え目に訊ねると、半村は顔の汗をぬぐってから応えた。


「『救世主の作り方』ってマニュアル本があったとしても、あのババアのやり方は載ってねぇだろうな。聖者になるための修行、仮にそれでマジに聖者になれるんだとしても、それを強制すんのは虐待でしかないだろうよ。痩せッぽちになっちまって、最後には死んじまって、報われん。しまいにゃ、あの発狂だ。羽美ちゃんが死んだことが解りやすいキッカケだったとしても、あのババアはビョーキだったんだよ。最初から、最後までな」


タカユキは冷静に訊いた。

「すくなくとも、深川は『世界が終わった』と判断していた?」


「すくなくとも、じゃない。大いに世界の終わりを確信してたよ。羽美ちゃんが死んだ今、この世界に救世主はいない、真の絶望、ってわけさ。くだらん価値観だ」


なんだか、酷く突飛な話を聞かされているように思えてならない。憂理は訝り、確かめるように訊いた。

「外と連絡がつかないってのはホントなんだよな?」


「そうだカレシ。半年も放置されてる。ロン毛の言うように外で何かが起こってんのは確実だ。もうどうでもいい事だがな」


憂理は抜け目なく、素早く、半村に向かって掌を伸ばした。

「じゃあ、エレベーターの鍵くれよ。外、確かめてくるんで」


ああ、わかったよ、と鍵を手渡してくれれば楽なのであるが、それが楽観的すぎることぐらい憂理にもわかっている。

やはり半村は反応しない。汗まみれの顔に張り付く2つの瞳で見つめてくるだけだ。

代わりにユキエが言った。


「でてってよ。半村様は怪我人なの」


「話は終わってない」


「半村様は休みたがってる。こんなに苦しそうなの、見て分からないの?」


この看護師には逆らえそうにない。半村と憂理たちの間に立つと、醜くひしゃげた金属バットを構え、一戦も辞さない覚悟をうかがわせる。出て行かないなら、出て行かすわよ、という事らしい。


「面会時間は終わりみたいだね。行こうよユーリ」


お大事に、なんて到底いえない。




 * * *

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ