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13月の解放区  作者: まつかく
5章 豚の行進
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5-2 狂乱の天国

洗濯室のドアを開けて現れた半村に、一同の視線が突き刺さった。


いやがうえにも緊張が高まる。暴君の手には相変わらず金属バットが握られており、ぞろぞろと従える奴隷たちの手にもそれぞれの武器がぶら下がっている。


「……ふん。彼氏か。ここで何をやってる」


暴君の目には猜疑の色があり、ひとつのミスも見逃してくれそうにない。


「……ナル子に命令されて、洗濯してる」


「はん。ご苦労なこったな。お前ら……深川サンを見てないか?」


憂理に翔吾、遼にエイミ。それぞれの口から、それぞれの「見てない」が返される。

しかし、半村はそれをほとんど無視するかのように、首をクイと曲げた。


「カネダ、宇都宮。調べろ」


その指示がくだると、そそくさとカネダと宇都宮と呼ばれたもう1人の少年が半村の脇をすり抜けて洗濯室に入ってきた。


「深川先生がどうか……したのか? なんで探してる?」


半村の気をそらすために憂理は白々しく問うた。半村はぐるりと室内を見回したあと、ようやく黒目を憂理に固定した。


「あのババァ、ちょっとストレスでブッ飛んじまってな。ストレス解消にお前らを皆殺しにするんだと」


サラリと言う。

半村は『お前ら』と生徒たちを一括りにしたが、自身も標的にされている可能性を否定できないのであろう。表情に浮かぶ緊張がそれを如実に伝えている。

しかし、これは半村から情報を引き出すチャンスかも知れない。


「なんで……殺されなきゃいけないんだ?」


「羽美ちゃんだ」


「ウミちゃん?」


「娘だ。一人娘を殺された復讐だよ。大事な大事な愛娘が殺されて、夢も希望も失った、ってトコだろな。くだらねぇ。そもそも自分の子供に夢だの希望だの託すのが良い迷惑ってもんだ。そんなモンはテメェで背負えってな……」


――深川の娘。

つまりは痩せ女。

ここにきて初めて憂理は彼女の名を知った。深川羽美。


半村はいくらか感傷的な表情を浮かべたように見えた。洗濯物を踏み荒らしながら洗濯機の蓋を次々に開けてゆく奴隷。その足が穴に近づいてゆく。

穴に敷き詰められた大小さまざまな書籍。踏まれたぐらいでどうにかなるモノでない。だが、踏んだ瞬間に違和感はあろう。

抜け目のない奴ならその違和感の元を確認するに違いなく――。


「不憫な子だよ」


見た事もない半村の表情だった。

寄った眉間のシワに憂いがあり、さながら壁の向こうを透かして見ているかのように遠い視線。

「子は親を選べねぇよな。ケド、それを『選ぶ必要がないからだ』って胸を張れる親がどんだけいるんだろうな」


「深川は……悪い親なのか?」


憂理が問うと、半村は嗤った。

「さあな。試しに養子にでもなったらどうだ? 今なら鈍器による『厳しいシツケ』がもれなくオプションだ」


「親は間に合ってるんで」


「ははッ、そうだろうよ。大体みんなそうだ。良くも悪くも間に合ってる」


半村と憂理が言葉を交わしている間も、カネダによる捜索は行われている。洗濯機の蓋をひとつずつ開き、内部を確認している。

幼子ならいざ知らず、深川ほどの大人が洗濯槽の中に隠れられるハズがない。――にも関わらず、カネダは丁寧にひとつひとつの洗濯槽を確認してゆく。


ひとつ洗濯槽がクリアされるたび、穴の開いた床へとカネダの足が近づいた。洗濯物を踏みわけて一歩、また一歩。


翔吾や遼、エイミは壁に背中を預け、四季は洗濯機の上に座ったまま、四者四様によそよそしく事の成り行きを見守っている。

――踏まれたら。

憂理の視線はカネダの足元に固定されてしまう。


――踏まれたら……。


あと一歩の距離にカネダがいる。憂理の鼓膜に、シャク、シャク、と自らの心音が響く。停滞したような時間の中、スッと上がったカネダの足が穴の上に乗った。

――踏ん……だ!


刹那、半村の声でカネダの動きが止まる。

「オイ! んな中にババアがいるわきゃあねぇだろ? アホか、お前は。カボチャより能無しか、あぁ?」


カネダの足は穴にのせられたまま動かない。主君に叱られてもどう動けばよいのか理解できない様子だ。

「さっさとしろ。時間を無駄にすんな! 次に行くぞ」


「はぁ」


もし、最初のアイデアのままに『板』を敷いていたなら……。そう考えて憂理は背筋を凍らせる。

翔吾が見つけてきた薄いベニヤ板。その大きさはLサイズのピザ箱ほどで、穴を隠すにうってつけに思われた。

だが、もしそれを敷いただけならば、いまこうして穴に足を置くカネダの体重に、それはもろく踏み抜かれていたに違いない。


「もうここはいい。次だ」


不機嫌を隠そうともせず半村は言い捨て、そのままドアから通路へ出た。

入り口付近に立っていた奴隷少年もそれに続き、やがてカネダと宇都宮も捜索を中断してすごすごと通路へ向かう。

――助かった。


カネダが力任せにドアを閉めた瞬間、それぞれ4つの口から4つのため息が漏れた。


「アブねぇ……。俺のベニヤ板だったらアウトだったか?」


「あたし、すっっっごいドキドキした!」


憂理が洗濯物を足でどけると、そこには分厚い本が床面スレスレまで平積みに収められている。

「本を踏ませる、なんて気分良くはないけどね」


照れくさそうに遼が笑った。憂理は脱力した体を洗濯機に預け、天井にため息を吐いた。

「俺の人生で初めて本が役に立った。こうやって使うんだな」


一難は去った。

しかし安堵してもいられない。危険の接近を、近しい激変を肌の一番浅い場所で感じる。

「おれ行くわ」翔吾が眉間にシワを寄せて言う。「深川のババァ、ぶっ殺してやる」


憂理の感情をかき乱すような言葉だ。腕の借りを返したい翔吾の心情は憂理にも理解できる。しかし、行かせるワケにもいかない。

「今はやめとけよ。脱走が優先だろ。それに……」


「それに?」


「刃物が武器って、殺す気か?」


翔吾の腕を吊る三角巾にはハマノから没収した小刀が忍ばせてあることを憂理は知っている。翔吾は一瞬だけ三角巾に目を落とし、すぐに視線を憂理に戻した。


「あっちはアタマ狂って、俺らを殺す気、だぜ?」


つまり、翔吾としても『殺すつもり』ということか。余りにも物騒であり、到底受け入れられるコトではない。エイミとて同感らしく、頭の上で両手をぶんぶん振る。

「駄目駄目。駄目よ。絶対駄目! 穴よ穴、掘ろう穴」


「エイミの言うとおりだ。いまは脱走が優先だ」


翔吾の逡巡が場の張り詰めた空気をさらに緊張させる。翔吾の鋭い視線が全員をぐるりと見回し、やがて床の穴に止まった。

「しゃあねぇ……」


しぶしぶといった形で翔吾がため息を吐くと、ことさら明るくエイミが指示を与える。

「ほら、みんな座りなさいよ。ほら、穴囲んで! ユーリはここ、遼はここ、翔吾はここ。四季は見張りに戻っ……」


エイミが言い終わる前。翔吾が動いた。

例の猫科の圧倒的俊敏さを見せて、素早くドアへ駆け寄るとスルリと最小限の隙間ですり抜けてゆく。

「まッ、待ちなさい!」


「待てッ!」


慌ててエイミがドアに向かい、憂理もそれに続く。

「遼と四季は作業を続けろ!」


返事も待たずに憂理は通路へ躍り出た。

素早く右を見て、左を見る。翔吾の姿はないが、エイミの背中が角に消えるのを確認した。

考える暇もなく憂理は駆け出し、エイミに続く。そうして走りながらようやく思考を巡らせた。

この復讐は、勝つとか負けるの話ではなく、殺るか殺られるかの話。


翔吾自身がそこまで深刻に考えているかはわからないが、命のやり取りなどいくらなんでも常軌を逸している。

殺す必要も、殺される必要もみとめられない。


いくつかの角を曲がったところで、事態は更なる悪化を見せた。エイミを見失ってしまったのだ。

どこかの部屋に入ったのか、あるいは遥か先にいるのか憂理にはわからない。

この施設の情勢下にあって女子ひとりで行動させるなど、あってはならない。予想外の出来事が当たり前のように起こるのだ。それも、歓迎すべきでない類の事ばかりが――。


「エイミッ!」

大声を張り、返事を期待して周囲を見回す。


「クソっ!」


半村もいる、半村奴隷もいる、深川もいる。翔吾を止めるつもりでエイミが犠牲になったのでは、ミイラ取りがミイラとなる良い見本ではないか。

焦りばかりが先行し、あてもなく憂理は走る、右を左をつぶさに探す。しかし、ようやく目についた存在はエイミでも翔吾でもなかった。


ぞろぞろと5人ほどが連れ立って憂理の正面から通路をこちらへ歩いてきている。

――ユキエ!


ユキエは食堂で半村から授かったテーブル材の棍棒を持ち、その他の者たち――例えばハマノは角材を手にしている。

5人全員が武装しており、これは明らかに深川を捜索している。

無視してその脇を走り抜けようとした憂理を、ユキエが大声で呼び止めた。


「トクラくん!」


瞬間、数本の棒が水平にされ憂理の進路を塞ぎ、簡易なバリケードを形作る。進路を妨害され慌てて立ち止まった憂理にユキエの細い目が突き刺さる。


「深川先生を見なかった?」


いつもの冷静とも冷酷ともとれる表情ではあったが、いくらか緊張のオモモチもうかがえる。


「知らねえよ!」


「そう……。見たら、殺して」


しれっと、とんでもない事を頼む女だ。

「あのヒト、頭がおかしくなったらしいの。ヤらなきゃヤられるわよ」


「ンなこと、半村から聞いたって! でもマジでこの階にいんのかよ!?」


「いると思うわ。見かけたら、すぐに殺して。これは私たち全員の問題よ」


「殺す、とか簡単に言うな! おかしくなってんのはお前らも一緒だろ!」


「見張りの子が言ってたわ。『言葉が通じない』って」


ユキエの言ったことの意味は憂理にも少なからず理解できた。地下の大区画で対峙した深川はほとんど『自分の世界』に生きていた。

こちら側からの問いかけにほとんど反応を見せず、ただ折れ曲がった鉄パイプをスイングする。

その目に生気はなく憂理などは『殺人マシーン』などと陳腐な連想をしたものだ。


「殺さなきゃ、殺されるわよ」

くしくも、あの時の翔吾と同じ台詞をユキエが吐いた。


「知るかよ!」


憂理が通路を塞ぐ角棒を押しのけ先を急ごうとすると、数歩駆け出した所でユキエの声が背中に浴びせられた。


「用心しなさいよ」


それが皮肉をきかせた言葉か、それとも本心からなのか――憂理にはわからない。



 * * *


右へ左へ、東へ西へ。

必死で走り回れど通路の後にも先にも見失った仲間の姿はなく、ただ息だけがあがる。緊張が肺の底を締め上げ、空気が薄く感じた。

中央エレベーター近くにきて、ようやく憂理は足をとめた。


――んなコトしてる場合かよ!

復讐せんがために飛び出した翔吾への怒りがフツフツと湧き上がってくる。


腕を壊された怒りは充分に理解できていたし、許せないのもわかる。だが、殺す気で報復などというのは理解できない。

それは一時の感情でしかない。そんなことは憂理にだって解る。


「どうせ殺せやしないんだよ! ブッ殺すとかって簡単に言うもんじゃねぇんだよ!」

居もしない翔吾を独り言で非難し、憂理は天井へとため息を吐き出した。


「ユーリ!」


通路の空気を切り裂くような声だった。

驚いて天井へ向けていた顔面を水平へ戻すと、通路の先にエイミがいた。

――こんなところに。

微かな安堵。緊張が息となって肺から抜けてゆく。エイミは落ち着いた憂理を遠くから指差し、凄まじい形相で叫んだ。


「うしろッ!」

その三文字は杜倉憂理の思考ではなく、本能に訴えかけるものだった。


うしろ。

それだけで充分だった。憂理は全身のバネをきかせて思いっきり前方へと跳んだ。

直後、背後で耳障りな金属音が響く。


夢中で跳びのいたせいで、無様にも腹ばいの姿勢での着地となり両肘、両膝に痛みが走る。憂理は痛みをこらえ、床に転がったままゴロリと横転した。

そこに深川がいた。


乱れた長い髪。斜めにゆがんだ眼鏡。いびつに曲がった凶器。先頃大区画で見た時より、確実に『程度』が悪くなっている。

床に尻をついた情けない姿勢のまま、憂理は変わり果てた教師をポカンとみつめた。


光の下で見る深川に対し、憂理は『汚い』という印象を持った。

タイトなベージュのスーツは至る所に大小のシミが浮かび、涙の跡を辿った先には脂で曇った眼鏡。目が大きく見開かれたせいで、白目に対して黒目が小さく見える。病んだ精神が本人の外見にまで影響する顕著な例であろう。


「ユーリっ!」


エイミの叫びと共に深川が大上段に鉄パイプを振り上げた。

乱れ髪がフワリと宙を舞い、一瞬だけ中年女の顔を隠す。髪の隙間から、黒目が憂理を見ている。刺してくる視線、見て、捕らえて、離さない。

真っ黒な目だ。瞳孔もなにもない真っ黒な目。


「なにシてんのよッ!」


通路に幾重も反響しながらエイミの声が近づいてくるのがわかる。鉄パイプが振り下ろされた瞬間、憂理は尻を浮かせて横転した。

不愉快な金属音がグワンと憂理の鼓膜を刺激する。


回避。そして素早く深川を確認すれば、早くも次の一撃を繰り出していた。

再び転がり、回避する。横転、深川を見れば次の一撃。

起き上がるヒマもない。


ひっくり返ったカエルのごとく無様に腹を見せ、憂理は踵で床を押し尻をすって逃れようとする。

どれほど情けない格好でも死ぬよりはマシ。一瞬でも深川から目を離せば、次々に振り下ろされる凶器を回避できない。


深川は目を見開き、モグラ叩きに興じるがごとく楽しげに鉄パイプを振り下ろしてくる。口元に微かな笑みまで見えた。

右、左、右、憂理はすんでのところで回避し続ける。


「エイミッ! 逃げろ!」


憂理は深川を見上げつつもやって来るであろうエイミに指示をだした。

だが、遅い。

叫んだ次の瞬間には憂理の横をスッと通り過ぎ、華奢な影が深川に体当たりした。

――エイミ!


パイプを振り上げていた深川はその威力によろめきはした。だが成果はそれだけだった。エイミによる決死のタックルは深川を床に沈めるほどではない。

中年女は耳障りな奇声をあげて、まとわり付いてきた少女に肘打ちの洗礼を浴びせた。


ゆっくりと流れる時間のなか、尖った深川のヒジがエイミの下顎をとらえ、少女を壁近くまで払い退けた。

――女を殴るなんて!

憂理の怒りは一瞬にして沸点に達した。深川も女であるがそんな事は脳裏をかすめもしない。


尻餅の姿勢から四肢を、全身をバネにして跳ね起き、エイミの作った僅かな時間を有効に活用した。逃げる、という選択肢はない。

助けてくれたエイミを置いて、どこへ逃げるというのか。

憂理のなかの『男のプライド』が、アドレナリンと化学変化を起こして勇気を量産した。


憂理のほうへと向き直ろうとする深川の間合いに素早く踏み込み、獣のような咆哮とともに拳を硬く握る。一瞬のハズの時間が滞ったかのようにゆっくりと流れた。

スローモーションの世界で、深川は反射的に鉄パイプを横なぎに振った。

いびつに折れ曲がったそれはヒュウと空気を切り裂き憂理の上腕を捉えた。


硬く、重い金属。それは少年の反撃を殺すに充分なエネルギーを有していた。腕に被弾した憂理は一瞬で床へと墜ち、熱をもった痛みが痺れとともに伝わってくる。


そして、深川が両手に握った鉄パイプを頭上高くに掲げた。

うずくまった憂理に対して、大上段の構え――もし振り下ろせばこれがとどめの一撃となる事は明白だ。


命を奪う一撃。

なのに、なぜそんな真っ黒な目で、なんの感情もなく見下ろすのか。激痛のなか、深川を見上げた憂理は真底打ちのめされた。


人殺しとはこういうことか。恐怖とはこういうことか。

深川の唇がぶつぶつと言葉を生み出している。

しかし、その呟きを聞き取る余裕も冷静も憂理にはなかった。ただ心の底から絶望した。鉄パイプを握る手がキュッと締まり、いよいよ引導が渡されようとした瞬間、まさかの救いが訪れた。


「いたぞッ! いましたッ!」


声のしたほうへ顔を向ければ、見た顔の半村奴隷たちが深川を指差しワラワラと走り寄って来るのが見えた。カネダを先頭に7人はいる。ジンロクも、半村も。

深川は例の真っ黒な目で彼らを見やり、ぼんやりとしている。

半村たちに半包囲され、彼女はようやく鉄パイプを腰のあたりまで下ろした。ゆっくりと、脱力したように。


――助かった、のか?

細切れに息を吐き、憂理は痛む腕をかばいながら半村奴隷たちの包囲外へと這う。


「深川サン。あんたヤりすぎだわ。体罰は良くないスよ」


半村は肩に愛用のバットを乗せ、そんな事を言った。皮肉たっぷりな発言ではあったが、その表情に余裕はない。焦りと嫌悪と怒り。あとわずかに恐怖の色もあるように憂理には見えた。


「悪いスけど、ここは俺のナワバリになったんで、波風たてるような真似は慎んでもらいたいんスけどねぇ」


憂理は四つん這いで包囲網の外周を移動し、横たわるエイミに近づいた。

「エーミっ、大丈夫か!? おい!?」


揺らされたエイミは顔の中央にシワを寄せ――「えはい。しらかんら」


「頭うったのか!?」


「ひはう、しらかんらろ」


――駄目だコイツ!

これは脳を少なからず損傷したに違いないぞ。あるいは一時的な錯乱か。

憂理は意思疎通を諦め、エイミの頭のほうから胴に腕を回し、痛みをこらえながら騒ぎの外へと引きずって行った。

軽い、がジタバタ暴れる。


「あんあ、むえ、はわってる!」


ああ、ちくしょう、すっかりオカしくなっちまって。可哀想な事だ、こうはなりたくないモノだ。憂理は悲痛な思いでエイミを見つめ、なるべく優しい表情を作った。


「そうだな。その気持ちわかるから。つらいよな。くやしいよな。お前の親には俺がちゃんと言ってやるから……」


「ひはうーあんら、むえ、はわへる!」


なんだか、助けようとする憂理から逃れようと暴れ気味のエイミにまごついていると、憂理の顔のすぐ横からヌウと白面が現れた。

ビクッと体を萎縮させた憂理をよそに白面の主は平然とエイミを見つめている。

――タカユキ。


さすがの嗅覚だと感心する余裕もなく憂理は怒鳴った。

「手伝え! 引きずってくれ!」


「むえ! はわうな」


「コイツあたま打って混乱してんだ! 暴れる!」


タカユキはしゃがみこんだまま、じっとエイミを見つめ、やがて言った。

「胸、触ってる。と言ってるよ」


「は?」


「ほおよ、むへはわへる! おはい! ひはをはんらろいはいろ」


さらにタカユキが訳した。

「そうよ。胸触ってる。おっぱい。舌を噛んだの、痛いの――って言ってる」


憂理が自分の腕を見ると、エイミの肩口から回した自分の手が彼女の胸を鷲掴みにしていた。これは失礼なことをしている。無我夢中で気付かなかった。

憂理が胸からパッと手を離した途端、エイミは暴れるのをパタリとやめた。


「遠くへ」


タカユキがクスクス笑い、エイミの腕を取った。

憂理もそれに倣い、二人してエイミを騒ぎから遠ざけてゆく。ほとんどバンザイの格好で床を引きずられるエイミはすっかり大人しい。


そのころ深川を取り巻く状況は半包囲から全包囲に変わっていた。深川に不利な状況であるのは明らかだ。それは憂理にとって好ましい状況ではあったが、深川の存在感は包囲の中にあっても絶対的なモノがあった。それが憂理の本能的な不安をくすぐる。

軽口を叩く半村が小者に見えるほど深川の存在感は圧倒的である。


彼女は威嚇するでもなく、挑発するでもなく、ただぼんやりとした表情で、真っ黒な目で、取り巻くハンムラーズを見つめている。


「深川サン。悪ぃが身柄を監禁させてもらうわ。言いにくいケドさ、アンタすっかりイッちまってる。おい、ドゲザ、縄かなんか持って来い」


半村の指示にジンロクが返事なく頷き、包囲網から抜け出した。


「悪ぃが、アンタにゃあ羽美ちゃんの部屋に入ってもらう。あそこの居心地の悪さはアンタが一番わかってると思うが」


「うみ……」


ようやく深川が反応した。

「うみ」


「ああ、羽美ちゃんの部屋だ。今のアンタはロックンロールしすぎなん……」


半村の言葉が終わる前に、深川は天井を見上げ肩を震わせた。

「うみーごめんねーうみーごめんねー」


――泣いてる。

髪を乱した中年女が、さめざめと泣いている。


離れた場所にいる憂理にも深川の涙が見えた。

正気を失った深川が天井を見上げさめざめと泣いている。顔面に残る涙の痕跡を、新しい涙がなぞってゆく。

「ごめんねーうみー」


深川の事情を知る者も知らない者も、ただ呆然と立ち尽くすしかない。

しわがれた声で深川が亡き娘への謝罪を繰り返すうち、構えられた角棒やバットがひとつひとつ警戒を解いていった。

憂理は思う。

目の前にいるのはタダのオバサンだ、と。


娘を失い、取り乱した、ミジメな中年女だ。先ほど自分に殺意を向けていた女という事を忘れ、憂理は哀れみに心を痛めた。

愛し方は歪んでいたかも知れない。育て方は間違っていたかも知れない。だが彼女なりに愛していたに違いない。


「うみーごめんね、うみー」


不憫というのは、こういう事を――。


「うみー、母さんを許してね」深川の嗚咽がガラリと色を変えた。

「いま、友達を、送ってあげるからッ!」


刹那、彼女の鉄パイプが水平に振り抜かれた。

一番近い場所にいた少年――宇都宮――がその一撃を無防備のまま受けた。どこに直撃したかはわからない。それを判別する間もない。


宇都宮少年が床に崩れ落ちるより前に、鉄パイプは返す刀で次の一撃にかかる。つぎに誰がやられたか、それも憂理にはわからない。

誰でもいい、誰もが狙われている。


「ババァッ!」


反応した半村が金属バットを構えたが、鉄パイプによって蹴散らされた被害者の一人が半村の前に倒れ込み、行動を制限する。

「邪魔だッ! ボケが!」


倒れこんできた少年を蹴り飛ばしたとき、事はすでに手遅れだった。

深川の鉄パイプが半村を目指して振り抜かれ、半村のできた事はそれを反射的に金属バットで受け止めることだけ。

ガキン、と鼓膜を破らんがばかりの金属音が響き、暴君の武器はその手から離れ空しく床に転がった。


「うみー沢山よー」


逃げようとしたカネダの背中を打ち据え、次は怯えて棒立ちになった少年に鉄パイプを大上段に構える。あの角度から振り下ろされれば、頭部は間違いなく『ザクロ破裂』というもの。

だが少年は動かない、動けない。


「沢山よートモダチ沢山」


泣きながら、叫びながら、深川の体に力が入るのが見えた。殺す気の予備動作。渾身の一撃を加えんとする凶悪な予備動作だ。

――逃げろよ! マヌケがッ!


憂理もエイミもタカユキだって動けない。たかだか10メートルの距離が永遠に長い。

「ババァ!」


半村の長い手が深川の背後から彼女の後ろ髪を掴んだ。

そのままグイッと引き寄せ、弓ぞりとなった深川の背中に鉄拳を叩きつけた。

深川の悲鳴、あるいは奇声が通路を満たし、場に居合わせた全ての者の心を凍てつかせる。

そして髪を掴まれたまま深川は手にした鉄パイプをデタラメに振り回した。


右から左、左から右。鉄パイプは幻、あるいは幽霊を斬らんとするかのようなデタラメな動きを見せる。さすがの半村もこれにはたまらず、深川の後ろ髪を握りしめたまま必死で顔を背けた。


「ユーリ。ここは危ない」


タカユキが珍しく深刻な表情で言う。「逃げたほうがいい」

憂理は深川と半村を恐れの目で見やったまま、エイミを立ちあがらせ、じりじりと後ずさる。

「なんだよ……コレ」


憂理はそんな曖昧な所感しか言葉にできなかった。いい大人が二人、奇声と罵声をあげて本気の殺し合いをしている。意味がわからない。わかりたくもない。


半村の握っていた『命綱』がブチ、と音を立てて切れた。

正確に言えば、千切れた。

激しく暴れたせいで深川の髪が抜け落ちたのだ。その一部は毛根から丸ごとだ。これは頭から髪が剥がれたようにも見えた。


自由を得た深川が、素早く半村へと向き直り、鉄パイプを振る。

半村はなんとか初撃を回避したものの、真っ黒な髪を手に握ったまま慌てるばかりだ。

さすがの暴君もパニック気味に叫ぶ。


「なンだ! なンで抜けんだ! ヅラか、あぁ!?」


「ユーリ。逃げよう!」


「エイミッ! 走れッ! 殺されるぞ!」


風のごとく駆け出したタカユキの背を憂理は無心で追いかけた。本気で殺す気だ。

深川は本気で自分たちを殺す気だ。少しでも多く、少しでも早く、娘のもとへトモダチを送り込むつもりだ。


必死で駆けながら、心の何処かで半村に期待している――そんな自分に憂理は失望せざるをえない。





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