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13月の解放区  作者: まつかく
5章 豚の行進
41/125

5-1 半村高志の憎悪


夢中でコンクリートに向かい、憂理が没頭から覚めた頃には翔吾や四季は眠ってしまっていた。

翔吾はコンクリートに横臥して寝息を立て、四季は洗濯機の上で動作を停止している。

時刻はわからない。


洗濯室には壁掛け時計もなく、腕時計を所持する遼はすでになく、自らの腹時計などはアテにならない。作業に没頭していたのはつかの間かも知れないが、まる1日経過したようにも思える。


確実に作業の成果はあがっており、不安はいくらか解消されていた。このまま作業を続ければ確実に地下階へ到達できるだろう。憂理はゆっくり立ち上がると膝から太ももにかけて点在するコンクリート片を払った。

この掘り出したコンクリート片の処理もせねばならない。


ガレキ、と呼べるほど大層なしろものではないが、放置しておいて誰かのいらぬ推理力を刺激するのも得策とは言い難い。

憂理はスカーフほどの大きさの洗濯物を選び、それを地面に広げて砂礫をかき集めた。


「こんだけは掘ったって事だよなぁ……」


誰に言うでもなく言い、洗濯物に包まれたソフトボール大のキンチャクを指ではじいた。そうして忍び足でドアへと向かい、忍者よりも慎重な動きでドアを引く。


薄く開いた隙間の向こうに人の気配がないことを確認すると、憂理はそっと通路へ出た。洗濯物の湿っぽい空気と違い、乾いた、どこか寒々しい空気が鼻腔を刺激してくる。

右を見て、左を見て、ようやくトイレへ向かって歩き始めた。


なるべく存在を隠せるよう足音を殺して歩き、耳では気配を探る。

通路の先や、通り過ぎるドアの向こうに誰かいるかも知れない。たとえそれが大好きなロックスターであっても今は遠慮したい気分だ。


幸運にも、誰とも遭遇せずにトイレへとたどり着くと、憂理は個室の便器に砂礫を流し込んだ。

便器の水は泡を立ててざわめき、それが収まるまえに憂理は水を流す。渦を巻いて『証拠』は消えた。

ため息を長く吐きながら洗面台へ向かい、手を洗い、すくった水を顔にぶつけ、砂礫にザラつく口内もゆすぐ。


ひと心地。

顔を上げた正面には鏡に映った杜倉憂理がいた。唇の端は紫色に痣が。右目の上は少し腫れている。歴戦の勲章と呼ぶべきだろう。

「さっさと出ねぇと、原形なくなるな……」


睡眠不足や栄養不足も関係しているのかも知れない。酷く腫れぼったいし、血色もよくない。顔を両手でパチンと叩き、失われた活力を呼び覚まし、憂理はトイレから出た。


そこで、ばったりユキエと会った。

憂理と同じように女子トイレから出てきたユキエが、糸のような眼で憂理を見た。少し驚いたように見えるが、それは憂理とて同じ事。

お互いがお互いを危険人物と見なしているに違いなく、これはライオンと虎が遭遇したようなものだ。


「杜倉……」

ジトっとした視線に居心地が悪い。そしてハッとした憂理は周囲を見回した。

見越したようにユキエが言う。

「怖がらなくても、半村さまは……寝てるわ」


「別に怖いワケじゃねぇよ。めんどいだけだ」


ユキエは薄い唇を微かに歪め、「私もそんなだった」


「そんな?」


「イジメられてたとき、そんな風に考えてた。怖いんじゃなく、面倒だ、ってそう思うようにしてた」


とっさに出た強がりに、同調されても困る。

「だから怖がってねぇって。半村にもお前にもビビりゃしねぇよ」


「そう。じゃあ付いてきて」


試すようなユキエの口振りに嫌悪感すら覚える。

「いやだ」


「半村さまのトコへ行くんじゃないわ」

また見透かしたような言い方をする。


「いやだって言ったろ? 俺は忙しいんだ」


「来ないと酷い目にあわせるわ」


「そうかよ。やってみろよ」


「アナタじゃない。ナルを狙う」


言葉の矢が憂理の心臓を貫いた。その矢には電流も流れていたらしく、全身に震えが走る。

「オイ、やめろよ」


「部下の男にナルを襲わせるわ。命令を聞く奴はいくらでもいる。羽田の裸で興奮してるから、きっと喜んで……」


「やめろッて言ってんだろ!」


「どうしょうもないでしょう? 腹が立ったでしょう? 私はずっとこんな仕打ちに耐えてきた。本当にどうしょうもないやりかた……」


「狙うなら俺だろ」


「自分の事なら結構耐えられるもんね。でも好きな人が……」


「ふざけんな! 好きとか嫌いとか関係ねぇだろ」


「じゃあ来なさいよ。見せたいモノがあるだけだから」


ユキエはそれだけ言うと、憂理に背中を見せて歩き始めた。

華奢な、あるいは貧相とも言い換えるべき背中。あの身体の中には想像を絶する闇が閉じ込められている。


憂理は床に視線を落として幾らかの逡巡に唇を噛み、やがてユキエを追った。

大きく距離を取ってユキエの後について行くと、彼女はやがて学習室の前で立ち止まった。


「ここよ。入りなさい」

振り返らないままユキエはフロートドアを開き、中に入っていった。

罠を疑い、憂理が周囲を警戒しているうちにフロートドアは独りでに閉まってしまう。

疑念が払拭できないまま、憂理は懐かしき学習室のドアを開き、そこに非日常を見た。


そこはもはや『教室』と呼ばれる聖域ではない。

学習机のほとんどは大掃除でもやるかのように室内後方に積み上げられ、中央には広くスペースが取られている。


そこに数人がいる。憂理の背後でドアが閉まり、室内の熱気が憂理で止まる。見た顔が数人いる。

だらしなく机の上に座っている者。ただ立ち尽くしている者。

それらは一様に床を見下ろしていた。


それも当然、床にはコスガがいた。両手を後ろで縛られ、一糸まとわぬ姿で転がされている。


「なに……やってんだ?」


おそるおそるに憂理が問うと、ユキエが答えた。

「リンチ」


その三文字に感情はない。

――石井遥香の!


瞬発的に先ほどの出来事が憂理の頭をよぎる。襲われた石井がユキエに告げ口し――。憂理の推論は、憂理自身の視覚によって崩された。

コスガを見下ろす人物たちのなかに、ハマノがいたのだ。


『襲った罪』による罰ならば、なぜハマノも転がされていないのか?

憂理の思考は軽い混乱をきたし、再び問うしかない。


「襲ったから、じゃ……ない、のか?」


ユキエはピクリとも動かず、ただ唇だけを開いた。

「石井から話は聞いたわ。つまらない事ね。あの子もさせてあげればいいのよ。どうせ便所なんだから」


「意味……わかんねーよ。じゃあなんで……こんな」


「石井の口から名前があがって、思い出したの。わたしコイツ嫌いだった」


ユキエはコスガを見つめながら、説明した。いつだったか、ユキエが授業中シャーペンを床に落とした事があった。

シャーペンは転がって、近くに席のあるコスガの机の下に落ち着いた。


「コイツ、気付いたわ。机の横から顔をだしてシャーペンを見たの。……拾ってくれる――なんて期待したつもりは無かったけど。コイツの行動には失望させられたわ。コイツ、『汚ねぇ』って舌打ちして、遠くへ蹴り飛ばしたの」


「それ……」


「これが理由。コイツ、有罪よ」

ユキエはスッと受刑者に歩み寄ると、見下して言い放った。

「汚いのはアンタよ! ドリチンのホーケーがッ!」


そのまま体をひねり、靴の爪先でコスガの股間を蹴りつけた。

爪先がめり込んだ瞬間、コスガは体をミミズのようにしてのた打ち回る。その異形のミミズがあげた叫びは離れた憂理の鼓膜をも不快に刺激する。

コスガの体は至るところが紫色に変色し、憂理の痣など比較対象にもならない。


「うるせぇよ! わめくなッ!」


怒鳴ったハマノが蠢くコスガに蹴りを放つ。その勢いに『相棒』だった頃の情けは微塵にも残されていなかった。

コスガの腹を一度、二度、三度。連続で蹴りつける。


そしてハマノは上気した顔を憂理に向けてきた。暴力に脳内物質が分泌したらしく、息も荒い。

「杜倉、お前……さっきはよくも」


室内を見渡せば先ほどとは立場が逆転し、多勢に無勢となっている。憂理は高鳴る鼓動を意識しながら冷静を演じた。


「むしろ感謝して欲しいな。お前が人間のクズになる前に止めてやったんだから」


「そういうスカした態度がイラつくってんだ!」


「やめなさい。杜倉くんは私のゲストよ」


ユキエの鋭い仲裁が、ハマノの勢いを削いだ。

ゲストなどとは傷み入るが敵地にあって、敵の権力者に保護されるのは心強い。

憂理はできる限り強がって、肩をすくめた。


「見せたいモノって……コレかよ」


「そう」


無様な姿をさらして床に転がるコスガ。罪に対しての罰。

彼の罪はユキエのペンを蹴り飛ばしたこと。『その程度のこと』憂理にとってユキエの語った動機はその程度のことでしかなかった。

確かにコスガの行動は1人の人間として褒められたものではない。だがその行為がこれほど苛烈に応じられるほどの罪なのだろうか。


憂理自身、過去の時間軸のどこかでユキエの恨みを買った可能性を否定できず、自らの背中に冷ややかな汗を感じる。


「怖い?」ユキエが読心術をやるような目を突き刺してくる。「怖いんでしょ?」


「別に……」


強がる憂理にユキエは言った。

「ユーレイ子」


冷や汗に濡れていた全身の毛穴が一瞬で開くような感覚。ユキエの視線が憂理を逃がさない。

「わたし、ゆうれいみたい?」


――覚えてやがる。

明らかな反応を見せた憂理にユキエがニイと笑った。


「まだ『別に……』って言える?」


どう応じればこの場が丸く収まるか。『はい怖いです。ユキエさん、すいませんでした』こんな事は男としてとうてい言えない。


「でも……よくよく思い出してみれば、『ユーレイ子だが柳の下子』って言ったのは……七井くんだっけ?」


過去の記憶を思い出すときぐらい視線を外して欲しい。居心地の悪さに憂理はたまりかねて、言った。

「いや。……俺も言った」


またユキエがニイと笑う。

「覚えてるじゃない。嘘をつく気はないようね」

試されたらしい。


こちらを害する雰囲気はないが、憂理はカエルは蛇に睨まれたままだ。ユキエは入り口付近で立ち尽くす憂理に歩み寄り、口元に嗤いをたたえては囁いた。


「私、幸せなの。みんな、私の命令をきく。みんな、私の顔色をうかがう」


「……だろうな」


「カガミが死んだとき。なんか、つっかえが取れた気がする。暴力なんて許されない、誰かが傷つくところなんて見たくないと思ってた。でも違った。クズが死ぬとすごく気分がいい……。半村さまはそれを教えてくれた。暴力はひとつの解決だって」


「何がいいたい?」


「邪魔したら殺す」


糸のような目から放たれる眼光が憂理を凍りつかせた。唇まで凍った憂理に、ユキエはさらに言葉を浴びせてくる。

「反抗しても無意味」


「でもお前……警察がきたら俺たちは解放されるんだぜ?」


「解放なんて望んでないわ。外の世界なんて生きるに値しない。ここが私の世界……ここだけが。永遠に続けばいい……永遠に。元の世界なんて生きるに値しないわ。そのためなら……」


細い目は怪しい光をたたえている。

女帝の玉座を守るためなら、いかなる手段も躊躇しない。そんな決意がひしひしと伝わってきた。


「相手してらんねーよ」


ユキエに背中を向けて、ドアを開いた瞬間、憂理の背中に何かが当たった。

その感触、鋭利な何か、だ。


「忠告したからね。杜倉くん。邪魔したら殺す。ナルもタダじゃ済まない。……私、死刑とか怖くないから何でもできるよ。腐った元の世界に戻るぐらいなら……」


憂理は返事もせずにフロートドアをくぐり通路へと逃れた。背後でフロートドアが閉まりきると、どっと疲れが押し寄せてきた。

――怖えぇ。


安堵のため息をゆっくり、長く吐き出しながら、全身の汗を感じた。


小走りに駆け出し、洗濯室へ急ぎながら憂理は考えていた。


この施設にいる誰よりもユキエの立場は明確だ。

誰よりも半村を支持し、誰よりも利己的。


コスガに『罰』ではなく『リンチ』を加えていたことからしても、彼女の行動原理は秩序だの正義だのをかえりみない、『純粋な遺恨』だけに違いないのだ。


歪んでいる。救いがたいほどに。

コスガやハマノがそうであったように、ユキエ自身も今までとは違う自分を再発見した。

そしてそれに後ろめたさなど微塵も感じずに受け入れ、なおかつ好ましく思っているようにも見えた。それが憂理にはどうしようもなく恐ろしい。


走る憂理の背中を、コスガの悲鳴が追いかけてくる。

助けて。

許して。

ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさい。


彼はきっと許されない。



 *  *  *


周囲を見回してから洗濯室のドアを開けると、そこに遼がいた。

相変わらず眠っている翔吾や四季を尻目に、コンクリートに掘削具をふるっていた。ドアを閉め、遼の向かい合わせに腰を落とすと、憂理はようやく汗を拭いた。


「戻ってきてたのかよ」


「地下への脱出口が『最重要案件』だからね。少しでも掘り進めないと」


最重要案件もひとつの目的であろうが、それだけではあるまいと憂理は意地悪く考えてしまう。しかし、四季への感情を問いただすに今は憂理も心の余裕がなかった。


「ユキエの奴がよ……」


憂理の口から一連の出来事を聞いた遼に動揺の色はなかった。少し汚れの浮いた眼鏡の奥で悲しげに目を細めただけだ。

こうなることはわかっていたじゃないか――そんな眼だった。


「はやく、なんとかしないとね……」


「医務室の方は大丈夫なのかよ?」


学長の意識は戻らず、菜瑠とエイミによる看護が続いているのだと遼は言う。あの場にいても役に立てないから部屋のドアを塞ぐよう指示を出して戻ってきたのだと。

遼に聞けば時刻は午前3時。

生活のリズムが完全に狂っているせいか、憂理は眠くならない。


「ユキエたちもこんな時間までよくやる……」


「僕たちと一緒だよ。もう時間なんて意味がない。みんな眠くなったら寝てるんだ。やることもないだろうし……」

遼の言は正しい。


「ユキエ。あいつ『今のままが最高に幸せ』って言ってたよ……」


ドライバーをコンクリートに打ちつけながら憂理が呟くと、同じく遼も作業の手を休めずにかえす。

「だろうね」


その言葉尻には何やら冷ややかなものが感じられる。


「別に意外じゃない?」


「酷いイジメだったからね」


「いや、そうでもよ」


「憂理」遼の手は疲れ知らずに動き続ける。「あの子、他の場所でもイジメられてたって知ってる?」


「他の場所って、学校って事か?」


「そう。何度も転校を繰り返したらしい」


「ふうん」


「憂理がユキエなら、そんな自分の人生をどう思うかな?」


「だって俺、ユキエじゃないもん」


「同じ境遇に置かれてたら、ってこと」


「そりゃあ……」


「腹が立つよね。イジメてくるやつに、なにも手を打てない大人に。きっと自分自身や社会に対しても」


憂理にはわからない。そうなのだろうか、と想像力を働かせる憂理に遼はさらなる言葉を重ねた。

「そんな地獄の日々の終点は、『自殺』以外ない。ユキエはそう思ってたんだよ。きっと」


「死ぬことぁないだろ……」


「自分は生きていても仕方のない人間だ。生きていていい事なんて1つもない――。人生は生きるに値しない――。そういう視野になっても仕方がないよ。これは、こうなる前にユキエと話したときに言ってたことだけどね」


感慨もなく感傷もなく掘削を続ける遼。

その表情はどこか機械的ですらある。カツン、カツンとコンクリートが砕けてゆく。


「そのユキエが、ようやく自分が苦しまなくて良い世界が訪れたんだ。そりゃあ一生このままでいいと思うんじゃないかな」


「でもよ、それって」


突然に第三者の声が割り込んできた。

見ればコンクリート床に横たわった翔吾が寝覚めの悪い、気だるそうな顔で遼を見つめている。そうして、いままさに憂理が言わんとしたことを言う。

「ユキエの奴がイジメる側になったってだけじゃねぇかよ」


ようやく遼が手を止めた。

「そうだね。そうなんだ。そんな事を解決とか決着とか言うのが……なんだか悲しいね」


まるで空気が鉛になったかのように重い。憂理は肺からため息をはき出し、掘削を再開した。


「邪魔したら、殺す。って」


「本気だろうね」


詳しく事情を知らなかったとはいえ、ユキエが虐められる側であったとき、憂理は傍観者であった。あの頃になにかしていたなら、こうはなっていなかったのか。


「警察がやってきて、みんな解放されて、また学校なり元の生活に戻ったとき……。ユキエはまたイジメられるのか」


憂理の気分は晴れない。なにが正しくて、なにが間違っているのか。自分の意見は全て軽薄なんじゃないかという気にすらなってくる。

遼も重いため息で応じる。しかし、猫科の少年は違う。


「かー。めんどっちい奴らだな! もしそうなったら、ユキエの面倒を俺たちでみればいいんだよ! イジメられないよう目を光らせてよ!」


あまりにも軽薄すぎて、憂理は唖然とした。

生活圏も違う、学校も学年も違う、なにからなにまで。そんな高すぎるハードルを完全に無視した発言である。

そこに、合理性も論理もない。しかし、力はあった。


「なんとかすれば、なんとかなるんだよ。すっげぇメンドいけど、メンドくさがらずにやれば、世の中なんとかなる。だから、俺らがなんとかする。それでオーケー、それでオーライ?」


「オーライ」


「何事もやってみなくちゃわからないもんね」


自分たちを苦しめる相手を救うため、などというのは非合理きわまりない行動原理であるが、不思議と勇気がわいてくる。


軽薄で良いじゃないか。がんじがらめで動けないぐらいなら。

そうして、それから数時間はとりとめのない事を喋りながらの作業となった。

憂理のこと、翔吾のこと、遼のこと。


互いに知らなかったことが明るみになり、理解が深まってゆく。翔吾がサッカー選手になる夢を諦めかけている理由。遼が考古学者になりたがっているという事実。

憂理自身、自らの身の上話をしたのは久々のことだった。


「憂理って都会で育ったんだとおもってたよ」


「いんや。地下鉄とか見たことない」


「だせー。しっかしユーリが田舎モンだとすると、一番都会に住んでるのはケンタか。どうかしてるぜ世の中はよ、ええ?」


時間の経過と共に互いの身の上に詳しくなり、穴も広く深くなってゆく。


遼が午前6時を告げたとき、穴の深さは肘まですっぽり入るほどになっていた。

こう深くなってくると、作業も困難を極める。

「翔吾が掘りクズをあつめ……」


憂理が言いかけた瞬間、室外からパタパタと足音が聞こえた。

穴を隠そうと反射的に洗濯物を穴の上にかけるが、隠しきれない。大きくなりすぎたのだ。

瞬時の判断で遼が腹ばいに寝そべり、穴を庇った。刹那、ドアが唐突に開かれた。

ピリリと張った空気を裂いたのはエイミだった。


「ちょっと! またトラブってるよ! ……リョーなにやってんの?」


遼が咳払いをして起き上がると、憂理は安堵のため息を吐いてから訊ねた。


「トラブルって……またかよ……」


「半村が大騒ぎしてる! あいつ、ここにも来るよ!」


「なんで?」


エイミは説明しようと口を開きかけたが、すぐに口を閉じ、周囲を見回してから洗濯室に入り、閉め切ったドアに背中を預けて数回深呼吸した。

「えっと、情報によると、深川センセが上がってきたって話!」


その言葉に空気が凍る。特に翔吾の反応が顕著だ。

「深川……!?」


「エレベーターの見張りが半殺しにされて、命からがらで逃げてきて……」


憂理は乾いた唇を少し濡らしてから訊ねた。

「エレベーターから……上がってきたって事か?」


「たぶんそう!」


ケンタが上階に戻るために積み上げたという机や椅子。それに深川が気付いたと言うことだろう。


「あのイベリコ……マジでかよ」


ついつい呟いてしまうが、『ケンタのせい』だと非難する気にはなれない。だいいち非難している時間がない。

それは慌てているエイミを見ても明らかだ。ご自慢のお団子ヘヤーが少し崩れているにも関わらず、気にする様子もない。


「深川センセが上に来てから姿くらませてて、いま半村たちが必死で探してるの! いきなり医務室のドアドカドカ叩かれて、鉄パイプとか角棒もった奴らが来て! 部屋中探し回って! ここにも来るよ! 探しに来る!」


これはマズイ、なんてモンじゃない。

深川が上がってきて事だけでも脅威であるのに、さらに半村による強制捜査がはいるのだ。グズグズしている暇はない。とんだ厄介ごとだ。


なんのための見張りだろうか。憂理は自分本位の微かな憤りを感じたが、それは胸から外へ出ることはなかった。

見張りの2人にしてみれば、見張るべき対象は生活棟から来るもので地下階からの来訪者など想定すらしていなかったろう。


生活棟に深川が戻った事実。それよりも差し迫った危機は半村による捜索。


「順番に全部の部屋を探してるから、すぐ来るわ。はやく穴を隠さないと!」


焦るエイミとは対照的に翔吾は余裕しゃくしゃくといった調子だ。

「洗濯モンで隠しときゃ問題ねぇよ。それより深川のババア……」


翔吾は尻ポケットから小刀を取り出し、それを三角巾で吊られた左手の中に忍ばせた。

物騒なことだと思いつつも憂理は臨戦態勢に入った翔吾をとがめない。武器はあって困る事はないだろう。


「洗濯物で隠すだけじゃ駄目だ」


憂理が言うと、遼も同意し付け加えた。

「室内まで半村が入ってきて、もし穴の上を歩きでもしたら、すぐにバレるよね……!」


その可能性は決して低いものではない。

もっと言えば穴上に重ねられた洗濯物の山を見て『あの下に深川が?』と要らぬ想像力を発揮されても困るのだ。


「ねぇ、どうすんのッ!?」

エイミはほとんどパニック状態だ。


「また遼が寝転ぶか!?」


「僕はそれでもいいけど、『部屋から出ろ』って言われた時にフォローがきかないよ!」


「板だ」憂理は冷静を装って言った。「何か板のようなもんで穴を塞いで、軽く洗濯物をかけて、遼が寝る。それしかない」


「アタシ、探してくる!」


「おっしゃあ! 俺もいくぜ」


機動力高くエイミと翔吾が飛び出してゆくと、遅れて遼も「心当たりがある」と呟き、部屋から出て行った。


「俺が留守番かよ」


なんだかハズレくじを引かされた気分である。

いまこうしている間に半村が来たら? いまこうしている間に深川が来たら?

穴に積まれた洗濯物を、少し動かしたり、追加したり、憂理はソワソワと落ち着かない。


『待つ』と言うのは憂理の性に合わないのだ。

落ち着かないまま部屋内を見渡すと、四季と目が合った。この女、人間にしては気配が無さ過ぎる。


「深川先生が来て、何か問題が?」

そんな四季の質問は、今更の質問ではあったが、重大な質問ではあった。


「言わなかったか!? 深川、娘が殺されて正気じゃないんだよ。翔吾の腕もあのババアの仕業だ」


「娘……。殺されて?」


「ああ。地下で監禁されてたんだ。でも死んだ。誰がヤったのかはわかんねーけど、『みんな殺してやる』って鉄パイプぶん回して半村以上にアブねぇの」


四季は訝しげに片眉だけを上げ、ようやく洗濯機からスルリと下りた。


「手伝うことは?」


「よし、なんでもいいから洗濯機を回そう。さも『穴なんて知らないよ? 僕たちは洗濯してるだけ』っぽくな」


すこしだけ頷いて四季が近くの洗濯機を回し始める。少しでも地面から気をそらさねばならない。

「俺たちは、ナル子の指示で洗濯をさせられてる。それがここにいる理由だ。イヤイヤでやらされてる。いいな四季」


憂理は地面に飛散した砂礫をなるべく穴の方へと寄せて隠した。

――バレやしない、こんな穴、気付きゃしない。


そう思うしかない。



 *  *  * 


半村高志は自分の人生を憎んでいた。


スポーツに打ち込んだ学生時代。全ての『つきあい』に顔を出した社会人時代。

そのどれもが自分にプラスになると思っていた。

プラスでなくては、ならなかった。少なくとも本人はそう考えていたし、そうして耐えていれば淡くも明るい未来が開けると思っていた。


家事もやる、勉強もやる。その合間に恋愛のまねごとや弟の世話。

半村が高校に入学した年、母親が失踪した。

毎週通っていたパート先の男が相手だと聞かされた。淡くも明るい未来のためには、グレていても仕方がない。それぐらいの事はわかる。


作り笑顔を顔面に貼り付けて、半村は努力を続けた。

父親は失踪した母を『なかった事』として扱い、父子家庭にはさざ波の一つもたたなかった。父親は淡々と働き、半村少年も淡々と過ごした。


そうして三流大学に入学したはじめの年、父親が自殺した。


遺書も、言葉もなく、理由は判然としない。


きっと、疲れたんだろう。当時の半村はそう思ったし、今でもそう思っている。彼も父親と同じように疲れていたからだ。半村にとって、『疲れ』は充分な理由に思えた。だが、棺に入った父親に半村がかけた最後の言葉は「負け犬」だった。


『疲れ』を引き起こした要因の全ては、父親自らが招き入れたものに思えたからだ。そうして、半村青年は父親の『疲れ』を引き継がざるを得なかった。のしかかる借金に、弟の世話。


学生でいることもかなわず、半村は大学を中退し職についた。これまでの努力が無駄になったように思えた。

『大卒』という札を手にするために行った努力が、空しく消え去ったように思えた。


中堅企業の請負業務。つまらない仕事だと思った。だが、借金を返済し続けるには働き続けるしかなかった。


そうして、二十代半ばにさしかかった頃、半村青年の目標は『立身出世』になっていた。

出世することだけが、自分の明るい未来を保証してくれるものだと考えた。そう考えるしかなかった。


職場では好青年、休みの日は施設に預けた弟の介護。

当時の半村を知る人は、彼を大器晩成型だと言った。

君は大物になるかも知れない。若いうちの苦労は買ってでもしろと言うじゃないか――。

実際のところ、『買う』余力などなかった。


そもそも苦労を売りつけてくるのは、偉そうな格言ばかりを引用する『大人』たちだと気付いていた。誰かが苦労を背負い込んでくれないと、彼らの利益が損なわれるからだ。


ときに半村は考えることがある。

自分は、何になれただろう? 脳裡に蘇る懐かしき友人たちに問いかける。

俺はどうなってしまったんだろう? みんな遠くへ行ったのに、俺はずっと同じまま。

――もし、やり直せるなら……。


借金のほとんどを返済し終え、ようやく貯金らしい貯金が貯まりだした頃、ようやく人生のスタートラインに立った気がしていた。

コレまでの四半世紀は親のために存在した。だがこれからの何十年かは自分のために人生が動き出すのだ。

淡くも明るい未来が、ようやく手の届く位置にきたように思えた。


そんなある日、失踪していた母が半村の独身寮を訪ねてきた。

「あいたかったよ、たーくん。大きくなったね」


母親から漂ってくる安香水の匂いが、不快だった。彼女の目頭ににじむ涙は、自己陶酔の極みにしか思えなかった。

母親は現在自分が身を置いている施設について説明し、半村にも来るよう要請した。

そこで共生して働けば、少ないが給料もでる。何より世のため人のためになる。母親はそんな事を言った。


宗教に興味など無い。自分を救ってくれるのは、結局自分だけ。

宗教は『救われた感』を高値で売りつけるビジネスだと考えていた。値段が時価であるそれは、ドラッグよりもタチが悪いじゃないか。

首を縦に振らない半村青年に、母親は懇願し、取りすがった。


「アンタは母親じゃない。自分の幸福のために俺たち家族を捨てた。アンタは母親でも何でもない。帰って、二度と姿を見せないでくれ」


しかし母親は諦めなかった。何度も何度も半村の元を訪れ、毎度毎度同じような懇願をする。

母親の勧誘ノルマがあと2人である事を知っていれば、半村は最後まで断り続けていただろう。

だが半村は折れた。


本当に自分の幸福を願ってくれているなら……。

どうしょうもない人だけど、母親だから。ずっと憎み続けた人だけど、母親だから。

その日、半村は何年かぶりに泣いた。

「かーちゃん」


母親は、「やり直そう、また一からやり直そうね」と何度も言って、すがる半村の頭を撫でた。

慰めるように、なだめるように。


幼い頃、よくそうしていたように。



 *  *  *


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