4-7 深川恭子の道
深川恭子は神の道を歩んでいた。
信仰こそが暗い世界に光明をもたらす救いだと信じていた。
それは挫折によってもたらされた道。あるいは他の生き方もあったかも知れない。だが、数度の挫折により連結器が切り替えられ、彼女の道は絞られた。
一つ目の挫折は『愛』だ。彼女がまだ『愛』を信じていた頃、彼女は将来の夫となる男と出会った。彼は同じ学校の教員で、熱意ある、教養に溢れた数学教師だった。
彼は聖職者として満点をつけてもよい教師で、授業にも生徒にも誠実だった。
少なくとも当時の恭子にはそう思えた。
恭子自身が熱心な教師で彼と教育のありかたについて語り合うたび、2人の仲は親密を増していった。
『子供は物心つくまでは、神の子供』そんな彼の何気ない一言に恭子は魂が響くのを感じた。ガラスの容器に氷が放り込まれたような芯までの響きだった。
あるとき2人に良いニュースと悪いニュースが訪れた。
公立学校には宿命があって、彼は転勤を余儀なくされる。これは悪いニュースだった。だがその一方で、この時を境に、2人は交際を始めた。これは良いニュースだった。
そうして、転勤から3年後に2人は結婚した。
光と、祝福に満ちた道。恭子が聴く鐘は至福の世界に響く鐘。空は永遠に青いのだと思っていた。
何気なく、何もなくも、満たされた生活。愛と神こそが彼女の信仰対象だった
しかし羽美が生まれてから、急速に2人の関係は悪化してゆく。
恭子にとって性交渉は子供を作る以外のなにものでもなく、夫が求めてくる『欲望を満たすための性交渉』は嫌悪感の対象となるだけでなく罪悪ですらあった。
忘れた頃に体を求めてくる夫が煩わしく思え、果てには汚らわしいとまで感じた。
そんな恭子の悪感情は、初めは表情へ現れ、次に態度に現れ、果てには言葉となって夫にぶつけられた。性欲を持て余した夫が、愛人を持った事が終わりの始まりとなる。
羽美が小学生に上がる年、2人は合意のもとに離婚届を提出した。
恭子は自分の信仰を『下らない』と切り捨てる夫が我慢ならなかったし、信仰を曲げない杓子定規な妻に夫はうんざりしていた。
2人の『愛』は冷蔵庫のスープより冷め切って、互いへの憎しみだけがポットの湯のごとく沸騰していた。
こうして深川恭子は最初で最後の恋愛に挫折した。
二つ目の挫折は教育だった。
夫が『杓子定規』と評した恭子の性格は、教師としての仕事にも遺憾なく発揮された。
計算された緻密な授業。彼女の国語は生徒たちには『冷たい授業』と評された。その根底に流れるマグマのような熱気は、生徒たちには伝わらなかった。恭子の表情が断熱材の役割をしたのかも知れない。
鉄仮面とあだ名される恭子が生徒から好まれるわけもなく、自然な流れで保護者たちにも敬遠される存在となる。生徒の成績を巡っての争いは、彼女を何度も校長室へ足を運ばせた。
彼女の率直や純粋は、この際、頑固や強情と言いかえられる。
職員室で孤立した。教室でも孤立した。恭子は周囲が軽薄に思えた。
人気取りに走れない教師は、ただの『世間知らずの、嫌な大人』という烙印を押される。
恭子はニ度目の挫折を味わった。
信仰が彼女を作り、彼女を育てた。
彼女がメサイアズ・フォーラムの存在を知ったのは娘の羽美が中学へ上がる前だった。
その頃に通い詰めていたキリスト教系の宗教法人マギー・シープルシップは、教祖の預言をありがたがるばかりで、彼女の心に響かず、その一方で『原理主義的』とも評されるメサイアズ・フォーラムの教義は恭子には心地よく染みこんだ。
痒いところに手が届く、とはこの事だ。
信仰に生きる彼女が、より信心深く生きるに申し分ない場所。
教育者として、娘の羽美とともにこの施設、メサイアズ・ファームに入居した。
救世主が生まれる場所。それがメサイアズ・ファーム。ここは新しい聖地、それは新しい信仰。
信心深い自分の娘こそが神の庇護の元、修行を積んでメサイアとなる。自分が救世主の母。
どこか聖母マリアと自分を重ねて、恭子は自己陶酔の極みにあった。
羽美が殺されるまでは。
救世主の卵を育成するという仕事は、恭子の陶酔を醒めやらぬものにしたし、義務感や責任感を存分に刺激するものであった。
新しい世界に新しい秩序をもたらす神の子たち、彼や彼女らに注がれる恭子の熱意はいささか偏執的であれ、純粋ではあった。
子供たちを天使見習いだと信じて疑わなかった。
だが、違った。
俗世の抜けきらない子供たちは、神の子でも天使でもない。――悪魔だった。
三度目の挫折は、彼女の価値観を根底から変えてしまった。
この世界に住むものがキリストを殺したように、この世界に住むものが、羽美を殺した。
救世主を、殺した。
* * *
地下へ直通となる穴を掘る――。
あまりにもシンプルすぎるそのアイデアはその場にいる者たちの言葉を奪った。
憂理と遼は唖然として、エイミとケンタは呆然として、菜瑠と翔吾は憮然としてその意味を咀嚼していた。発案者の四季は平然として、モニターの図面を動かした。
「このフロアの床の厚さは平均で1メートル50。さっき言った三カ所の一部は平均よりも50センチ薄いわ。配管もほとんど通ってない」
ほらね、とばかりに図面をグリグリ動かしてみせるが、線と線が複雑に交差するばかりで憂理には良くわからない。一番最初に反応したのは翔吾だった。
「くっは、おもしれ! それ最高!」
猫科の少年は嬉しそうに笑顔を浮かべ、唇を噛んではモニターをのぞき込む。
次に反応したのはケンタだ。
これも嬉しそうに皆の顔を見回し、『これで問題解決だね』とばかりにグーサインをばらまく。遼は突飛な発想に懐疑したのか、笑顔は作らずに眼鏡を上げ、モニターに顔を近づける。
たしかに地下へ直通する穴を作れば、ドアやエレベーターなどを経由せずに地下へゆける。
それは侵入口周辺に居るであろう事が予測される深川の裏をかけることも意味しており、地下への移動を制限する半村を出し抜くという利点もあった。
これはまさに『突破口』と呼ぶにふさわしいアイデアであった。
しかし、可能か。
憂理はついつい懐疑的に考えてしまう。
奇抜なアイデアに対し、皆が積極的に飛びついた時こそ自分が一歩退いて慎重にならねばならない――。憂理はそんな気がするのだ。
あのいかにも頑丈そうな灰色のコンクリートを、掘る。そんなことが本当にできるのだろうか。
憂理は思いついた疑念をそのまま口にした。
「どうやって掘るんだよ?」
自分たちには専用の工具も知識もない。あるのは脱走への情熱と恐怖心と、わずかばかりの正義感。
施設の床に縦穴を掘るという大事業が成し得るのか。そんな疑問に対し半開きの瞳が動いた。
「できないの?」
「訊いてんのはこっちだろ。ここにツルハシでもありゃあ話は別だけど」
この施設、生活棟にある物でコンクリートを掘り進められるのか。これには遼が応じた。
「モンテ・クリスト伯はスプーンで牢獄に穴を掘ったよ。他にもそんな話が沢山ある」
「クリストハク? 誰?」
「岩窟王だよ。無実の罪で投獄されて……脱走して、自分をハメた敵に復讐するんだ。……小説だけど」
つまりは創作上での前例ではないか。憂理はそう非難した。空想での脱走話なら今の憂理にだって考えられるのだ。
「でもよ」翔吾の目に疑念の色はない。「どうせ、やれる事なんてないんだからよ、やれるだけやってみればいいじゃん? なぁケンタ」
「そうだよ。施設に穴をあけるチャンスなんて滅多にない。生活委員公認でさ」
なんだかモチベーションの方向性がズレている気がしないでもないが、『縦穴をあける』という行為自体が翔吾やケンタの心をくすぐるようだ。
名指しされた生活委員の少女は眉を寄せるばかりだ。
「駄目……って言いたいけど。通報するのが最優先だと思う」
それだけ言って肘を抱くと、伏せていた目をエイミに向けた。「これが正しい事……だよね?」
肯定を懇願するような菜瑠。エイミは大げさに微笑みかけ、菜瑠の肩を叩いた。
「アタシが保証するって! 神様が菜瑠に苦情言ってきたら、アタシが追い返してあげる! アンタがちゃんと仕事しないからだろ、って」
なんとも頼もしい事である。自分が神の立場であるなら、恐れ多くてこの少女に苦情など言えないなと憂理は思う。
「決まりだね」
遼が言う。もとよりパンク精神が旺盛な遼は四季のアイデアを全肯定なのだろう。
憂理は肩をすくめ、決意を固めた。
溺れる者は藁をも掴み、追い詰められたネズミは猫に噛みつく。
追い詰めてくる『猫』が半村でも深川でも、あるいは神であっても、今は全てに噛みついてやる。憂理は全員を見回して言った。
「あけるか。穴」
* * *
事が決まると行動は早い。
掘る場所は満場一致で洗濯室に決まり、掘削に必要となる道具は施設内で探すことになった。
道具を調達する者、洗濯室にて掘削の段取りをする者の2グループにメンバーを割り当てる。
憂理、翔吾にケンタ、エイミ。以上の4名が道具捜索。
遼と四季、そして菜瑠が洗濯室の前段取りを手掛ける事となった。
メンバー分けに、なんら思惑が働いたワケではないが何とも秩序的な者と無秩序な者に分かれたものだ。
かといって、バランスを取るために『洗濯室の前段取り』組に移籍しろ――と言われても憂理は困る。
秩序が失われてからの洗濯室が、まさに『無秩序』状態に陥っているであろう事は想像にかたくない。
放り込まれた洗濯物の整理など男の仕事ではない――と憂理などは思う。
捜索組はそそくさと通路へ逃れ、何処へ向かうでもなく進んでゆく。
「スコップ? だろユーリ」
なんだか、先頃から翔吾と捜し物ばかりしている気がする。
「別にスコップじゃなくても掘れるものなら何でも」
どんなモノがあるだろう。
遙か過去に工事関係者が置き忘れた作業用具を期待するほど楽天的ではなかったし、かといってすぐに思いつくほど創造的でもない。
コンクリートを砕くには金属であることが前提であるが、だからといって食堂へスプーンを取りに行くほど短絡的でも……。
「スプーン取りに行こうよ」
ケンタが言う。
この際、楽天的である事は罪悪ですらあると憂理は思う。
当然のごとく、脳天気すぎる小太りの少年はエイミの砲火を食らった。
「あきれる! ほんとバカねー。スプーンで掘れるわけ無いじゃない」
しかしコレには翔吾のフォローが入る。
「エイミ、許してやれ。コイツ腹が減りすぎて、コンクリートを食べ物だって勘違いしてんだよ。スプーンですくえるモノは全部食べモンだって、な、ベーブ?」
「違うよ! 掘るためだよ! 遼も言ってたじゃないか! ね、ユーリ!?」
――肩を持てと言うのか。
憂理は歩きながら眉間のあたりを掻いた。
「そりゃ掘ろうと思えば掘れるんだろうけど。いちおう金属だしなぁ。でも……」
「でも?」
食いついてくるケンタの顔が近い。憂理は顔を背けながら続ける。
「何年かかるんだ? 俺らには時間がないんだぞ? だいいち……」
「だいいち?」
「生き方を否定するワケじゃないけど、コンクリートは食べ物じゃない」
「違うって!」
雑談を続けながら、中央階段の近くまで来たが、半村やその奴隷たちの姿はない。
考えたくはないが、依然として公開脱衣ショーが続いているのだろうか。エイミが周囲をキョロキョロ見回して言う。
「なんか……へんに静かなのが気持ち悪いわ」
半村奴隷、特に男子奴隷の熱狂が思い出され憂理は胸を悪くした。不愉快な奇声や囃し声が脳裡に蘇っては消える。
「全員で手分けして探すのが最速。だよな?」
翔吾の提案は正しい。いつもの憂理ならばその意見に賛同しただろうが、今は漠然とした不安に首肯できないでいた。
「どうした? スプーンか?」
スプーンか、の意味がわからない。憂理は首を振って応じた。
「バラけるのはやめよう」
「なんで?」とケンタ。
「ハネダのこと思い出しちゃってさ。エイミを1人にしたらやばいような気がする」
暴虐の徒となった半村奴隷に襲われる……などというのは考えすぎだろうか。憂理は自分が臆病になったような気さえする。
だが、これまでの傾向を見れば、それが杞憂だと断じる事は誰にもできない事であった。半村の暴力に屈し、それを受け入れ、さらには拡散、そして発信者になりつつある半村奴隷。
半村奴隷のなかから、プチ半村ともいうべき存在が生まれつつあるのではないか。
拙く説明する憂理の言葉に、翔吾やケンタはムウと唇を歪めるにとどまったが、紅一点の反応は顕著であった。
眉を寄せ、唇を噛み、不安げなまなざしを憂理たちに配り始めた。
「アタシも……ハネダみたいに?」
「わかんねーけどさ」
どうやらエイミは自分が被害者になる可能性を想像だにしていなかったらしい。
施設内の状況を鑑みれば、いまは『万がイチ』などという悠長な確率ではなく『十がイチ』程度であろう。慎重に事を運んでおいて損はない。
全員で行動する事に誰も異論を挟まず、掘削道具の探索は始まった。
娯楽室での収穫はゼロ。
食堂では金属製のヘラを3つ。
調理室に入ることができれば、もう少しマシな道具を入手することもできたろうが、リスクとリターンの折り合いを考えて深追いはしない。
生活棟で最も好ましい収穫は、学習室に備え付けられていたプラスドライバーとマイナスドライバー。あとハンマー2本だ。
どれも学習机の応急修理用のものだ。
これらでコンクリートとやり合うのは心もとないが、スプーンで掘るよりは現実的というものであろう。
「使えそうなのはこんなモンか」
ため息を隠しながら憂理がつぶやくと、猫科の少年がヘラを憂理に向けた。
「おまえ、本を忘れてるだろ。俺の本!」
「あ、忘れてた。……でも、もうどうでもいいだろ?」
問い返すと猫科の少年も先ほどの執着が嘘だったかのようにそれを認めた。ヘラを手に馴染んだ武器のようにクルクル回して言う。
「もうドアなんて意味ないしな。時代は穴だぜ、穴」
これは正しい。しかし、エイミは認めない。
「その本を誰かに見られたらマズいでしょ。脱走するのがバレる前に、ちゃんと回収するべきよ」
これはもっと正しい。
ならば、公開ストリップの現場へ戻らねばならないが、これには互いにしかめっ面を向き合わせた。
「まだ……やってるかな?」
「わかんね」
あの乱痴気騒ぎにあっては、本の存在など気付かれないように思えるが、地雷原に手榴弾を投げ置くようなマネは避けるに越したことはない。
憂理が先頭に立ち、4つの個性は中央エレベーターへ向かった。
ありがたい事に、中央エレベーター前は『祭りの後』だった。
公開ストリップに参加していた軽薄な観客は姿を消しており、熱狂の片鱗も残されてはいない。
残されていたものは、裸に剥かれた一組の男女だけだ。
少年は中央エレベーターの脇で、股間を手で隠して正座しており、少女は壁に向く形で胎児のごとく小さく丸まっている。
言いようのない重いモノが憂理の肺や胃に不快感を与えて、思わず目をそらしてしまう。
「マジで……裸で見張りしてんのかよ……」
暴君による酷薄な命令。なんの合理性も、なんの利便性も、なんの意味もない脱衣。5メートルほど離れた位置から観察し、憂理たちは囁きあう。
「なんか……着るもの持ってきてあげようよ」
ケンタが言うが、これはお節介というものだ。彼らの衣服はエレベーター脇にあるのだから。
「せめてバスタオルとか……体を隠せるものを」
エイミの親切心もいささか的外れだと憂理は思う。
「可哀想だけど……。ほっといた方がいい。変に体を隠すモンを渡したら、アイツらが酷い目にあう」
半村は認めないはずだ。
全裸で見張りをする事に意義があるとすれば、それは半村の意志だけなのだ。それが『みせしめ』に属するのか『教育』に属するのかはわからないが――。
通路の端、壁の近くに残されていた『建築用語の基礎知識』を憂理が拾い上げると、裸少年が顔を上げた。通称『小指クン』だ。
百年の恨みを熟成させたような視線が憂理に突き刺さる。なぜ敵視されているのか皆目見当がつかない。小指くんが言う。
「笑いに来たのかよ」
ある種の呪いの言葉にも聞こえる。憂理は首を横に振った。
「違うよ」
「ブザマだと思ってんだろ……!」
卑屈なことこの上ない。だがすぐさま否定する事もできなかった。嘲笑するつもりはないが、慰める義理もないように思えるのだ。
憂理に代わって、翔吾が返事した。
「ああ、ブザマだね! 見てらんねぇ」
小指少年の目に殺意にも近しい激情の闇があった。全裸で正座したまま、カタカタと体を震わせている。
彼の口から呪いの言葉が吐かれる前に、翔吾の追撃が加えられた。
「半村みたいのに従うから、だろ? 今お前がマッパなことより、マッパなのに服を着ようともしないのがブザマだ」
辛辣な意見だった。
『裸にされた』事実より『全裸を受け入れる』ほうが軽蔑に値する。男のプライドだの矜持だのにこだわる、翔吾の価値観が見え隠れした。
自業自得と言えばそれまでの話だが、その一方で全裸を強要されるほどの落ち度が小指少年にあったのだろうか、と憂理は思う。
この懲罰は、ほとんど半村の思いつきや気まぐれの類でしかないのだ。
今回がたまたま小指少年だっただけで、一歩間違えば全裸で正座していたのはカネダだったかも知れないし、ジンロクだったかも知れない、あるいは憂理や翔吾であった可能性もゼロではないのだ。
小指少年はますます敵意を増した視線で翔吾を睨みつけ、唇をゆがめた。
「覚えてろよ……」
意味のない対立が生まれつつあるのを感じる。
本来、1つの存在であった泥水が時間をかけて泥と上澄みに分離するかのように半村に従う者、それをよしとしない者の対立が明確になってきている。
「バカみたい」
腕を組み、明らかな嫌悪を滲ませてエイミが言った。
「流されて流されて……私たちを恨む意味がわからないわ」
エイミが腹を立てているのもわかる。
半村奴隷たちが立たされている苦境は彼ら彼女らが自らで選んだ道なのだ。これで憂理たちに反感を覚えるなど『逆恨み』の典型ではないか。
これ以上この場にいても対立の溝が深くなるだけだ。
「行こうよ」
もうウンザリという調子でエイミが言った。翔吾も不快感を隠さない。
「そうだな。『仕事』の邪魔しちゃ悪い」
エイミが踵を返し、翔吾が背を向けたとき通路を曲がって誰かがやってきた。
T.E.O.Tの連中だ。
虚ろな目をしたタカユキを先頭に、見覚えのある顔が並んでいる。
アツシが怪訝な表情で2つの裸体を見た。
「なにやってんだ、これ」
「仕事、だってよ」
これだけの会話で良かった。誰の指示かは明白で、暴君の名を出すまでもない。
タカユキは虚ろな目のままで小指くんの側に歩み寄ると、その脇にたたんであった服を彼の体に掛けた。しかし、小指はそれをはねのける。
「やめろ! 同情とか!」
はね除けられた衣服がタカユキの顔に掛かり、やがてハラリと床に落ちる。タカユキは虚ろだった目を幾分か大きく開き、すこし驚いたように見えた。
「ほっといてやれよ」
憂理の言葉にタカユキは振り向き、例の微笑を見せ、ゆっくりと立ち上がる。そして今度はハネダ少女の方へ歩み寄った。そうして、背を向ける彼女に着衣を掛ける。
「もう泣かないで。大丈夫だから」
幼子をなだめるかのような物言いだ。
「タバタ、イツキ。この子を頼む。服を着せてやってくれないか」
タカユキの指示に返事も返さず、2人の少女はハネダに歩み寄り、その裸体を隠しながら服を着せ始めた。
「おい、いいのかよ。半村に見つかったら……」
「みんな、余裕を失ってるよ、ユーリ。自分以外の誰かの事なんてどうでもよくなってる。ユーリは違うだろうけど」
そう言って、クスクスわらう。見透かされたワケではないが憂理自身、余裕がないのは確かだ。タカユキがうつむき加減に下がった憂理の顔をのぞき込んでくる。
「誰かが、誰かのために立ち上がらなきゃ駄目だ。僕がみんなを救ってみせるよ」
「救世主ごっこもいいけどよ。みんなを救いたいなら……脱走に協力しろ」
「脱走?」
「『意外だ』って顔すんなよ。知ってるクセに」
しかしタカユキの表情に変化はない。唇に微笑をたたえたまま、じっと憂理を見つめるのだ。
「そうだ。ユーリ。お腹が減ったんじゃないか?」
突然に話題を変えられて、憂理の方が慌ててしまう。
「いや、腹の話はいいだろ」
「食事を用意したんだ。上で一緒に食べないか?」
「食事?」
「ああ。それほど量があるワケじゃないけど、一時はしのげる」
「どこから出してきた? 調理室のか?」
「来ればわかるさ」
憂理が振り向いて翔吾を見ると、会話を聞いていた猫科の少年は疑念を露骨に表現していた。一方のケンタは黙って頷く。『行こう』だ。
エイミはケンタを見てから、翔吾を見て、憂理を見て、やがてタカユキに問いかけた。
「あと3人いるんだけど……。余分ある?」
タカユキの微笑は崩れない。
「みんなおいで」
どうにも怪しい。どこから入手した食料か憂理には想像もつかない。
正直に言えば、憂理自身も『指をかじる一歩手前』であったのは紛れもない事実であった。
しかし憂理にとってタカユキの誘いというだけで、警戒するに充分な要素であり、無邪気に『やったね』などとは思えない。
訝る憂理にケンタが耳打ちしてきた。
「やったね! とりあえず、行こう。食うだけ食って、それから脱走でも遅くない」
「あたし、菜瑠たち呼んでくるね!」
根源的な欲望は、途轍もないモチベーションを生み出すものらしい。エイミが洗濯室の方へ走り去ってからも、憂理の疑念は消えなかった。
先のTEOT会合を目撃した翔吾も憂理と同感らしく、眉間にシワを寄せたままだ。
「さぁユーリ、おいで。話なら上でしよう」
食虫植物に捕らわれる虫は、今の自分のような心境なのかも知れない。
きっと、どの虫もマヌケなんじゃなくて、実のところ罠だと理解していて食虫植物のくわだてにハマり込むんじゃないか。
欲望に負け、どうしょうもなく、危険を心のどこかで認めながら罠に足を踏み入れるんじゃないか。
自分だけは大丈夫、自分はこれが罠だと認識しているから――。きっと、そう考えて……そして。そして、身を溶かされながらはじめて、自分の愚かさを自ら嗤うのだろう。
憂理は考えるのをやめ、タカユキの誘いを受け入れた。
人類の敵はおのが欲望であろう。有史以来、人類はその『タチの悪い悪友』に苦しめられてきた。悪友は常として人間たちに『都合の良い正当化』を教唆し、時には戸惑う背中さえ押す。
人間はマリオネットであり、その操り糸は人の外部ではなく、内に存在するのだ。
人類を操ってきた根源的欲望。
それに打ち勝つに、憂理はあまりにも空腹で、あまりにも未熟であった。
* * *