4-4 伝道者の革命
夢を見る間もなく、目覚めはやってきた。
寝覚めの気分はこれまでになく最悪である。空腹感に、喉の渇き。足の裏は焼けるような熱を持ち、ふくらはぎには鈍痛が残っている。
許されるなら、あと10時間は眠っていたいところである。
だが脱走へのモチベーションが否応なしに高められている現状にあって、睡眠に『体力回復』以上の意味を持たせてはならない。
憂理は半身を起こし、医務室内をぐるりと見回した。ケンタに遼に翔吾がベッドと仲良くしている。エイミと菜瑠の姿は見えない。
憂理は体を伸ばし、全身に血液を循環させる。胃がキリキリと痛むのは、空腹のせいだろうか。
ベッドから足を下ろし、靴につま先を滑り込ませる。足裏は直立を拒むかのようにますます熱を発し、昨晩の苦行を思い起こさせる。
憂理は体全体を引きずるようにして洗面所へ歩み寄ると、水道の蛇口をひねった。
流れ出た水を両手に受け、それを口元に運ぶ。決して美味くはない。ぬるく、微かに薬剤の臭気。だが憂理は夢中で水道水を喉に通し続けた。空腹を忘れるためにも、今は水で腹を満たすべきか。
胃に重みを感じるほど水を飲むと、今度は顔を洗った。
洗面器に据え付けられている固形石鹸で洗うと、少しはリフレッシュできたように思う。
俺、臭うんじゃないか。
冗談抜きでそう思う。思えば入浴したのは遙か以前じゃないか。半村奴隷たちに『くさい』と言われるのも冗談でなくなっているかも知れない。
顔がサッパリすると、今度は全身の汚れに注意が向くのも道理。シャワーを浴びて、服を着替えて、サッパリしたい。
以前は当たり前だった行為。それが今となっては途轍もない障害に邪魔されて、清潔でいることすら困難である。一刻も早く脱走し、日向のにおいがする服と、こんがり焼かれた食パンにかじりつきたい。
「ユーリ」
呼ぶ声に洗面所から振り返ると、翔吾が首を枕から上げていた。
「起こしてくれ。喉が渇いた」
起きられるのか、と憂理が問うと翔吾は「たぶん」と答えた。ベッドに歩み寄り、包帯だらけの体をゆっくりと抱き起こす。
翔吾は苦痛を訴え、顔をゆがめたが、ほとんど自力で半身を起こした。
「大丈夫かよ……」
「ばっか。大丈夫なワケねーだろ。右腕がめちゃ痛い。背中も」
「寝てた方が良い」
「寝てたら脱走できねーだろがよー。んで寝ててもどうせ痛い。なら俺は行動するぜ。それが男の道だろ、オーライ?」
オーライ。
右腕はともかく、脳に損傷はなかったらしい。巻かれた包帯により腕は不格好で、表情は苦しげながら、これはいつもの七井翔吾だ。
しかし立ち上がってみると、猫科のしなやかさはすっかり失われ、びっこを引くような形でヨタヨタと歩く。こんなふうで脱走という大仕事ができるのだろうか。
翔吾は洗面器に歩み寄ると、片手で水をすくい何度も口に運んだ。そうして満足すると、医務室のトイレへヨタヨタと歩いてゆく。
時間は午後の2時。普段なら授業を受けている時間である。だが肝心の学長はケンタの隣のベッドで横たわっているし、深川は地下で暴れ回っている。これは自習と言うことか。
ケンタは喉をふるわせてイビキをかいており、遼は小さなノートを開き、ペンを握ったまま力尽きている。
そのノートにはびっしりと小さな文字が書き込まれていた。
憂理がそのペンを奪い、ノートの途切れた文末に『つまり、僕は変態なんだ。うんこ』と書き加えた瞬間、遼が目を覚ました。
ずれていた眼鏡を所定の位置に戻し、憂理を見上げてくる。
「あ……おはよう」
「おはよう。変態くん」
遼はノートを慌てて閉じ、内容を見たかと憂理に問うた。憂理が首を振り、見てないと答えると、眼鏡の少年は安堵のため息を漏らした。イタズラ書きには気がついていないらしい。
「勉強か?」
「日記だよ」
日記とはなんとも悠長なことに思えるが、遼らしいと言えば遼らしい。
* * *
ケンタもようやくで起き出してくると、早速脱走の段取りについての話し合いが始まった。翔吾の怪我について遼が言及する。
「その怪我じゃ無理だと思うんだ」
憂理も同感だ。片腕が使えないというハンデキャップをかかえて脱走するなど、羽の無い鳥が飛ぶことに等しい。
「エレベーターの穴を登るにしても降るにしても、片腕じゃ無理だな」
憂理の言葉に翔吾の表情は曇った。本人も認めざるを得ないのだろう。
「俺は……。お前らとは別の脱走方法を考える。なんもしないのは性にあわねぇしな」
建設的な意見だ。実際に地下から大区画を通り、ケンタの言う『外部へ繋がるシャッター』へとたどり着いたとしても、そこから外へ抜け出せる保証はないのだ。切り札はいくつあってもいい。
「じゃあ、俺とリョーとケンタで行く」
「そうだね。それがいい」
「ロープとかがあったほうがいいよ」とケンタが経験者の立場から述べた。
昇降路を降るに、なにか命綱のようなものがあれば早い。足場を探しながら時間をかけて降るよりも、ロープで吊り下げて一気に降下したほうが効率的だと言うのだ。これには全員が同意した。
「じゃあ手分けしてロープを探そう」
憂理と翔吾、ケンタと遼のチームに分かれ命綱となるロープを探索する事となった。
医務室から出て、その場で右と左に別れる。
憂理には命綱となるようなロープの心当たりがなく、どこから探すべきか見当もつかない。
チームを組んだ翔吾も似たり寄ったりの心境らしく、猫科の少年は通路をヨタヨタ歩きながら、うわごとのように呟いた。
「ロープなぁ……ロープなぁ……」
「なんかあるか?」
「まず、長くなくちゃ駄目だよな。んで体重を支えられるぐらい太いやつ、だろ?」
「ああ」
「全然わからね。手当たり次第に倉庫をあさるか」
ここ最近、倉庫には良い印象がなく、憂理は気乗りしない。だが、心当たりがない以上、倉庫や物置のたぐいを総当たりに探すしかない。
通路には人影もなく、憂理と翔吾の足音だけが響いていた。
以前は活気に満ちた場所も、今では半ば廃墟のように静まり返っている。半村の支配が及べば及ぶほど、皆が暴君を恐れほうぼうに身を隠すのだろう。
通路で半村に出会ってしまえば、予想だにしない不幸に見舞われるであろう事は共通認識に違いない。
「ここって物置だったよな?」
翔吾が無骨な鉄扉の前で立ち止まった。片手でノブを握り、そっと扉を開く。隙間から内部を覗いても真っ暗でよくわからない。カビ臭い臭気が通路へと殺到してくる。
憂理は壁際に手をすべらせ、電灯のスイッチを探り当てると照明をつけた。
パッと闇の世界が光に彩られる。
「倉庫……か?」
無造作に積み上げられたダンボールが部屋内の主要な構成要素だ。むしろソレだけしかない。部屋内に足を踏み入れ、ダンボールの一つを覗き込んで見るが、お目当てのロープとはホド遠い。
紙やら冊子やらばかりで、脱走に役立つものは一つもない。
「ハズレ」
考えれば、生活棟だけでもこうした物置部屋は多数に及ぶ。当てずっぽうに探すのは非効率に思えた。
「体育準備室に何かないかな? 上の階って結構物置もあったよな」
少なくとも、紙束よりは脱走に役立つものがあるんじゃないか。憂理の提案に翔吾は親指を立てた。
上階へ向かう間、誰一人ともすれ違わないことに翔吾も奇妙に思ったようで、自分が意識を失っている間に起こった出来事を詳しく聞きたがった。
ゆっくり歩く翔吾に、憂理はなるべく事細かに説明した。
菜瑠が暴行された一件に話が及ぶと、翔吾も半村支配の狂気を肌で感じたようだった。そしてユキエたちに感染した暴力という名の病には表情を苦くゆがめ、舌打ちをきかせる。
「なんで、こんな事になるんだよ。深川のやつもヒョーヘンしたし……」
「こんなトコに閉じこもってるから頭が変になるんだよ。たぶん」
自らの所感を言ってはみたものの、憂理自身もそれだけが原因とは思えない。
「なんか、ゾンビゲーみたいだな」
どこからかウイルスが生まれ、人々が次々に感染してゆく。感染者が感染者を作り、やがて世界が破滅するシナリオ。翔吾はそんなことを言う。
「信じられないけどさ……。一部のやつらは楽しんでる気がする」
憂理が言うと、翔吾は訝しげに片眉を上げた。
「人が死んでんのに、か?」
「ああ。なんか……良くわからないけど、そんな気がする。ゲーム感覚って言うか、遊び感覚って言うか、罪悪感が薄れてるっていうか」
憂理は続けた。半村奴隷になり、安全を確保した者にとって、『非奴隷』たちが不安定な状況、不安全な状態にあればあるほど都合が良いのではないか。
憂理たち非奴隷たちが虐待されている間は、少なくとも自らの身は安全なのだと考えているのではないか。つまりは他人ごとだと。
「半村は、立てこもる気か? ハイジャックみたいな……施設ジャック?」
翔吾の出した結論は、憂理の出したそれに等しい。
どう考えたところで、暴力によって施設内を支配した半村王国は永遠に続くものではない。
「警察が来りゃ終わりだろ?」
「そうだよな」
「じゃあ、終わらせてやろうぜ」
「ああ」
頷きながらも憂理は不安に思う。捉えどころのない不安。言いようのない不安。
なにか、パズルの大事なピースが欠けているような、大事な事を見落としているような、胸中に暗雲が垂れ込めたような心境だ。
だが、今はそれを忘れて、前向きに行動するしかない。
ようやく体育室へ到着すると、憂理は小走りに『開かずのドア』まで駆け寄った。
四季からの情報が正しければ、このアルミドアの向こうには水場があり、それはシャワー室であるとも言う。
憂理はポケットを探り、底の方にあった鍵を引っ張り出した。
「何してんだ」
歩み寄りながら問うてくる翔吾。憂理は答えない。指先に鍵をつまみ、そっと鍵穴に押し込んでみる。鍵はすんなりと吸い込まれてゆき、すんなりと回った。
「開いた」
間抜けにも呟いてしまう。
「ソコ、なんの部屋だ? 入ったことない」
「たぶん……シャワー室」
振り返らないままそう答え、憂理はノブを回す。簡易なドアなだけあって、開くのも軽かった。中から流れ出てくる空気を割って、体育室の光が小部屋内に差し込む。
リノリウムの床、木製のスノコ。闇に見たそれだけで確信できた。ここはシャワー室だ。
憂理は壁際を探り、照明をつけた。
パッと照らされた部屋内は、予想通りの更衣室だ。壁に簡易なロッカーがあり、床にスノコ。学校にあるプールの更衣室を連想する。
その奥には数枚のシャワーカーテンが垂れ、そのさらに奥には壁にシャワーヘッドだ。
「こんなんあったのか」
翔吾が憂理の脇からシャワー室を覗き込み、感心したように呟いた。運動して汗を流す。考えてみれば体育室にシャワー室が併設してあることは不思議でもなんでもない。当たり前とも言える事だ。
だが、今は何気ない設計に心から感謝したい。
それは取るに足らない事かも知れない。だが憂理は半村に逆らう武器を得たように思え、奇妙な感動に身を震わせた。そして感動のままに口走った。
「よし、浴びる」
「おい、今からかよ!」
「今からだよ。今しかない」
憂理は言うが早いかシャツを脱いだ。そしてそれをロッカーに放り込むと、パンツごとズボンを脱ぎ去った。全裸の憂理はシャワーヘッドへと歩み寄ってゆく。
全身を洗えると言うのは実のところ最高の喜びかも知れない。
「しゃあねぇな……。俺は包帯が邪魔だし後にする。今のうちにロープ探しとくわ」
「頼むよ」
フッと空気が動いてアルミドアが閉められた。憂理はコックをひねり、シャワーを放出させる。最初にサビ臭い水がタラタラと流れ出て、やがてそれは美しい人工の雨へと変わる。
人が死んで、虐待されて、食べ物もなく、正義もない。
だが、今はシャワーがある。その小さな幸福が憂理を感動させる。
「水、最高」
体を流れ落ちる水滴が、全身をむしばむ疲労を取り去ってくれるかのようだった。
* * *
濡れた体のまま着衣をはおい、憂理は御満悦だ。どうせなら服も着替えたいところであるが、ベッドルームのロッカーまで戻らないと着替えはない。
今は入浴だけで満足すべきだろう。
体の節々は痛むし、腹も減ったまま。だが身を清めただけで、気分はかなりマシになった。
他の者たちにもシャワー室のことを教えてやろう。濡れた髪をかきあげて、憂理はシャワー室を後にした。そして体育準備室をのぞいてみるが、そこに翔吾の姿はない。
準備室内を見回し、様々な器具を眺めるがロープに類するようなモノは見当たらなかった。
翔吾の姿を探して体育室を後にし、通路へと出る。この階はその面積のほとんどを体育室が占めており、他には物置やら空き部屋などが点在するのみだ。
好奇心をそそる何物もないこの階は、普段から人気が余りなかった。自然と、幽霊が出るとの噂が流れ、ますます生徒たちの足が遠のく。
憂理だって体育室以外には興味がなかった。ゆえにどの部屋から探せばお目当てのモノが見つかるか見当もつかない。
とりあえず翔吾を探して通路を歩いて行くと、猫科の少年はすぐに見つかった。一つの部屋の前で、身をかがめている。
憂理が近づく雰囲気を察した翔吾が、ドアに張り付いたまま憂理に顔を向ける。
そしてアヒル口に人差し指を当て、「シーッ」
何事か。憂理は足音を殺して、ゆっくりと翔吾に近づくと、猫科の少年はドアに張り付いたまま、その隙間を食い入るように見つめている。
「なに?」
「わかんね」
声を潜めたやりとりは、隙間からあふれてくる大きな声にかき消された。
「それが悟りだ! 物事に動かない心、真実を見通す眼!」
励ますような、それでいて扇動的にも思える声。聞き覚えがあるような、それでいて聞いたことの無いような声。
こんな人気のない場所で何をやっているのか。
「いたいって、ユーリ……! のしかかんな」
思わずドアの隙間に身を乗り出してしまう。翔吾の抗議に憂理は体制を直し、もう一度隙間へと意識を集中した。こうして2人が縦に重なって内部をうかがっていると、まるで覗き魔のようである。
「なんだ? これ」
翔吾が、囁きよりももっと小さな声で問うてくるが、憂理にだってわからないものは答えようがない。
部屋内の照明は落としてあるらしく、中は薄暗い。それでもおぼろげな光が漏れているところを見ると天井照明以外の光を使っているらしい。
おぼろげな光と、むせるような熱気。それと腹から出したような声。
「真実、真理、それらはどこにある? 松岡どうだ? わかるか? 探求すべき真実や真理はどこにある?」
――マツオカ? 憂理の脳内検索にアツシがヒットした。
「えっと、宇宙」
検索結果は正しかった。これは間違いなくアツシの声である。
「宇宙。そうか、田端はどうだ?」
――田端沙耶? あのサマンサ・タバタか?
憂理の連想と同じく、翔吾も同じあだ名をつぶやいた。
「……サマンサ・タバタ?」
部屋からは、予想に違わぬ田端沙耶の声がこぼれてくる。
「神様のところ……かな」
「うん。神のところ。ほかには? 堂島はどうだ? 真理や真実はどこにある?」
「音楽……とくにロックかな」
これには部屋内で笑い声が起きた。「音楽はねぇよ」だの「テキトー」だのと否定的な言葉も上がっている。和やかな雰囲気、だが緊張感のある空気。
――1人や2人じゃない。10人はいるんじゃないか。
「音楽、うん。近いかも知れない。」
部屋の内部では、こんなやりとりが続いてゆく。扇動者が次々に名前をあげ、名前を呼ばれた者が質問に答えている。
「なぁ、翔吾。真実はどこにあるんだ?」
「冷蔵庫の中。ベーコンの下ぐらいだろ」
「適当に言うなよ」
「だってわかんねーもん。ユーリ、この声って……あいつ……だろ?」
言うまでもないが、憂理はあえてその名を出した。
「タカユキだ」
「だよな。あの変態。何やってんだ?」
翔吾には見当もつかないらしいが、憂理には思い当たるフシがある。これは、T.E.O.Tの連中に違いない、黒腕章たちの会合らしいぞ、と。
熟練した教師や講師のごとくタカユキは言葉を操ってゆく。
「こんな話がある。ある時、神が『悟り』を隠そうとした。どんな神だっていい。君らがいま想像した神だ。その神が『悟り』を隠そうとする。それは物事に動かない心、真実を見通す眼、解脱した者が得られる悟りだ」
例の演技がかった話し方だ。部屋内の和やかさは消え、緊張感だけが漂ってくる。
「神は悟りをどこに隠すべきか考えた。わかるね、悟りは簡単に見つかっちゃいけないからだ。だから神は人間に見つからないよう、一生懸命隠さなきゃならない。そうして、隠し場所に困り果てた神は天使を呼びつける。『どこに隠せばいいだろうか』という相談をするわけだ。じゃあ、マツオカ。君が天使ならどこに悟りを隠すべきだと進言する?」
「悟りを……隠す場所ですか?」
「そう。簡単に見つからない場所だ」
「えっと、金庫の中」
「うん金庫内。タバタは?」
「海の底……かな?」
「うん海の底。海底なら簡単には見つからないね。でも、『絶対に見つからない場所』じゃ駄目なんだ。簡単に見つけられるはずなのに、人間には見つけられない場所じゃないとね。わかるか? 美木はどうだ? わかるか?」
「バラバラのパズルにするかな。ちゃんと組み合わさられたら見つかりますよね」
「いいね。パズルのピースにするか。他には? イツキはどうだ?」
「隠さない……。私ならあえて隠さないわ……。誰の目にもとまるような場所に置いて、さも価値のないように見せて」
「いい意見が出だしたね。良い傾向だ。探求が進んでる。だいぶ近いところまで来たね」
――なんだこれ。
T.E.O.Tのやっている事が憂理には理解できない。そもそも悟りとか探求とかって何だ。
「なぁユーリ、悟りはどこに隠せば良いんだ?」
「わからない。冷蔵庫のベーコンの上でいいんじゃね?」
「うん、ベーコン。イーネ、イー意見だね。ベーコンだね、豚肉だね。つまりはスライス・ケンタだね」
声を潜めながらも2人で茶化して、ヒヒヒと笑った。どうもこういう生真面目な議論は性に合わないのだ。しかしT.E.O.Tは真剣そのものだ。様々な意見を生み出してはタカユキの解説に耳を傾ける。
議論に参加したいとは思わないが、憂理はかすかな好奇心を胸中に芽生えさせていた。
それがタカユキの話術によるものか、あるいは自分の知性を証明したいという承認欲求のなせるわざか、憂理にはわからない。
だが、『悟り』はどこに隠すのだろうという興味ゆえ、タカユキの言葉に耳をすませてしまう。
翔吾だって無理な姿勢で「いてて」と怪我に苦しみながらも張り付いたドアから離れようとしない。
「天使はね、こう言ったんだ。『神様、人間のなかに隠してはどうでしょう』 神はゆっくり頷いた。そうして悟りは人々の中に隠されたんだ。悟りはね、各個人個人、みんなの中に最初からあるんだ」
部屋内でわき起こった感嘆の声。憂理もおもわず「へぇ」と呟いてしまう。
「自分の中にあるとはいえ、見つけ出すのは簡単じゃない。でも、こうして『自分の中にある』と知っていれば、探す手間が大きく省けるね。金庫の中や、海の底を探さなくてもいい。そうだろう? ユーリ」
ぞわっと、鳥肌が憂理の背中を駆け巡った。気付かれていたとは気付かなかった。憂理が慌てて隙間から身をよじると、憂理の腕が下にいた翔吾に当たり、猫少年はバランスを崩した。
「いてぇ!」
とたんにドアがふわりと開かれ、中から熱気があふれ出てくる。
「ユーリじゃん」きょとんとしてアツシが言った。
「よお」
情けなくも、姿勢を崩したまま冷静を装う。なんとも気まずい雰囲気だ。開かれたドアの向こうは暗い。照明にはロウソクを使っており、その燃焼が室内の熱気を否が応にも高めていた。
「マツオカ。ユーリと七井を中へ」
部屋の最奥にはタカユキの姿があった。
膝までの高さのダンボールに腰を下ろし、そのタカユキを前にして複数人が床に座っている。これは超小型の講堂だ。
よい学習場所とは言えず、よい集会場とも言えない。これは怪談を行うのに一番適しているんじゃないか。
「いや、俺たち急いでるんで」
ほとんど反射的な断り文句を翔吾が発したが、タカユキは暗闇に微笑したまま首を振った。
「急ぐ事なんて何もないだろう? 施設内の時間はもうずいぶんと止まって久しい」
腹が痛いだの、人を待たせてるだの憂理と翔吾が口々に逃げ口上を始めたが、それが耳に入らないかのようにアツシや他のT.E.O.Tが2人の腕をつかみ、強引に中へと引き込んだ。
そして、音もなくドアが閉ざされる。暗く、暑い。
「そこに座るといい。ゲスト席だ」
言葉は柔らかいが、これは『座ってもいいですよ』ではない『座れ』だ。
そうして無理矢理に壁際の場所に座らされた。
仕事が終わると、アツシや田端は列に戻り、床に腰を下ろして再び『聴く体勢』を作った。憂理や翔吾の居る位置からは、タカユキも、それを見つめるテオットたちもよく見える。
タカユキの背後の壁にはタペストリーのような旗がかけられ、大きくT.E.O.Tと眼を模したとおぼしきロゴが書いてある。あれは腕章と同じロゴだ。
「では、続けるよ」
タカユキは右手の中指と薬指を親指につけ、人差し指と小指をピンと伸ばしキツネの形を作った。
それを一度眼鏡のように眼に当てるとすぐに顔から離し、眼鏡の形のまま右から左へと動かした。
「それ、なんだ?」
こうなってはヤケクソである。気になったことは全て質問させてもらう。憂理はふてぶてしくキツネを作り、自分の目に当ててみた。
「言ったろう? 真実の眼さ。この眼は全てを見通す。いま、この眼は僕の顔から離れ、この部屋全体を見渡した」
なるほど、右から左に動かしたのはそういう意味らしい。翔吾もおもしろがって、両手でキツネを作ると双眼鏡のように眼窩に当てる。
「二倍みえるぜ」
タカユキはちゃらけた翔吾に微笑すると、何も言わずに正面を向いた。そして、もう一度キツネを右から左へ。
見れば、タカユキを見つめる『探求の同士』たちも同じようにキツネを作っていた。
キツネの輪っかを通してタカユキを見て、音もなく手を下ろす。
これは、こういう儀式らしい。
「いって。腕上げるといてぇ……」
ちゃらけていた翔吾が腕を下ろすと同時にタカユキの言葉が始まる。
「さて、悟りがどこにあるかはわかったね? 田端、どこだい?」
「私たちの中です」
「そうだ。みんなの中にある。僕の中にも田端の中にも、ユーリや七井。あの半村の中にだってある」
――あるかなぁ。などと憂理は懐疑的に考えてしまう。
自分はともかく、あの暴君の中にあるのは、多種多様な好まれざる欲だけじゃないだろうか。疑問に思う憂理に一瞥もくれず、タカユキは続ける。
「じゃあ、誰もが悟りをもっているのに、なぜ誰もが真理や真実に目を向けられないのか? どうして欲望や悪感情にばかり脳を使っているんだろう? ああ、ご飯をたべたいよ。ああ、もっと目立ちたいよ。ああ、もっとモテたいよ。どうして人間はこうなんだろう。どうしてだ、田端?」
「どう……してか?」
「そう。そうしてだろう? どうして人間は欲望のためにばかり能力を使っているのだろう?」
サマンサ・タバタ。一部の男子に熱狂的な人気がある女生徒は、タカユキの問い詰めるような言葉に困惑した様子だ。そうして数秒の後、彼女が導き出した結論はこうだった。
「それが人間だから? だって欲があるから発展できたんでしょ?」
「それは諦めている意見だね。ゲストの2人はどうだ?」
どうして人間は欲望のためにばかり能力を使っているのか。そんな事を急に問われても困惑してしまう。そして、その困惑していること自体が罪であるかのようなバツの悪さを感じる。
「わからない」憂理は答えた。「だって、俺には欲がないから」
軽口で応じた憂理に翔吾もうんうんと頷いている。「お前には欲がないもんな。実に正しい」
室内には微かな笑いと、和んだ雰囲気が満ちた。適当に答えたワリには、けっこうなヒットらしい。
質問したタカユキでさえ、微笑して唇をかんでいる。
「さすがだね」
「だろ?」
「これは、僕の方が教えをこうことになりそうだ。じゃあ、どうしてユーリには欲がないのだろう?」
「それは……」
言葉に詰まり、頭を掻くしかない。実は欲だらけの人間です、今すぐにでも飯を食って、テレビでも見たい……だなどと今更言い辛い雰囲気だ。
「実際のところ」タカユキはテオットの連中へと視線を戻した。「欲が人間の原動力だ。欲がなければ人間は生きてゆけない。食欲を否定できるか? 睡眠欲は? 欲は人間の根幹的な原動力で、根源的な原罪なんだ」
なんとも小難しいことを言う。言うことの半分も理解できやしない。演説のようなタカユキの言葉に憂理は不信感を覚えた。そんな気持ちを代弁するかのように翔吾が口をはさむ。
「罪ってわけじゃないだろ。生きるのが悪いことなのかよ。欲で人類が発展したって田端もいってたじゃんか」
「七井はパン屋だ」
タカユキは眼をつむって言った。
「朝起きて、七井はパンを作らなきゃいけない。パンを売って日々の糧を得なきゃならない」
タカユキは静かに仮定の話を続ける。
七井はどれほどパンを作ればいいかわからない。客がたくさん来るならば、パンはたくさん必要だ。だが、一日の客足なんてわからわけもない。
だから、七井はいつも多めにパンを焼く。
全く売れなければパンはゴミになる。それは罪なんじゃないだろうか?
それが『商品』でなければ、そのパンで何人かの命を繋ぐことができたかも知れない。だが、あくまでもそのパンは『商品』であって、無料で配布するために焼いたモノじゃない。七井は仕方なく、そのパンを処分するだろう。
夜になって、売れ残りを配布すれば無駄にならない?
そうかも知れない。だが、七井には経験があるんだ。
夜に売れ残りを配布するようにすると、みんな夜を待ってばかりでパンを買わなくなる。商売あがったりというやつさ。
つまり、七井のパン屋は商売という欲のために、世の中の救済を放棄したんだ。
すっかり固くなったパンでもすくえる命があったのに。
「じゃあ、パン屋は全部悪党なのかよ」
あぐらをかいた憂理は茶々を入れた。
「ユーリ。パン屋はたとえ話さ。肉屋でも新聞記者でも、なんでもいい。人間が決して豊かな存在じゃないという例えさ。欲で文明が発達したと言ったね? 発展ってなんだろう? 煌々と輝く街灯か、それとも自動車か?」
タカユキの言葉が熱を帯びるたび、憂理には理解しがたい言葉が生み出されてゆく。
自分の理解力が劣っているのかと心配にもなる。
「自動車は便利だ。雨の日も風の日も関係なく、遠くへゆける。人間は風を追って地平線の彼方までいけるようになった。すごく遠くまで」
「いいことじゃんか」
タカユキは強い視線を憂理に突き刺した。
「そうかな、ユーリ。本当にそうかな?」
「そうだよ。便利じゃんか。遠くまで行けるのは」
「なぜ、遠くへ行かなきゃいけない? 移動距離が広まった分、その移動距離に応じて各個人への要求が厳しくなっただけじゃないか? どうして隣町の学校へ通わなきゃならない? どうして違う土地へと仕事を探しに行く? 車がなければ人間らしい範囲で生活できたんじゃないか? これって本当に便利なのか?」
「……わからない」
「違和感を感じないか? こんな生活、どこかおかしい。そう思わないか?」
タカユキの言葉に、少女サマンサが立ち上がった。
「おかしいよ。私、ずっと思ってた! 違和感を感じてた!」
「そうだ、タバタ。君は間違っちゃいない」
「私、施設がこんな風になる前から……。前の学校に通ってた頃から思ってた! 作り笑いして、友達ごっこして、センスの悪いオシャレを褒めて、一生懸命勉強してるフリして……。こんな自分、自分じゃないと思ってた!」
「わたしも!」イツキもタバタにつられたように立ち上がった。
「わたしも違和感があった! 生きる意味とか、人生とか、みんなが言うほど綺麗なモノじゃない! みんな言葉ばっかり綺麗で、汚いモノに目を向けようともしない! 嘘つきばっかり!」
――イツキ。
心のどこかに引っかかりを作る名前。あのサイジョーが狙ってた女……。想起の光を楽しむ間もなく、次々にテオットたちが立ち上がる。
「俺も!」
「僕も!」
憂理は翔吾が「俺も」とやり出さないかと心配になり、横に座る猫科の少年へと視線を向けた。
すると、猫科の少年も同時に憂理を見た。そうして、憂理に指を指し『お前は?』というジェスチャーをする。
憂理は肩をすくめ、逆に翔吾へ指を指す『お前は?』
翔吾も肩をすくめた。
立ち上がって宣言するほど違和感は感じていない――。
「みんな、違和感を感じているのは素晴らしいことだよ」タカユキは言った。「そして、その違和感をこうして表明できる仲間を得たのはもっと素晴らしいことだ」
室内を静かな熱狂と感動が満たしていた。手を取り合って頷きあう者もいたし、腕を眼に当て泣き出す男子もいた。
「なんだ……こりゃ」
「ユーリ。俺らも泣き出す前に、そろそろ逃げようぜ」
「ああ……」
室内の熱狂はすさまじく、それを煽るかのようにタカユキの演説が続く。
「違和感を感じる心。それが真実の眼の片鱗だ! 君たちは間違っていない! 僕が全肯定する! 間違っているのは社会で、コミュニティーで、人間なんだッ!」
奇声、叫声、熱狂。人気バンドのライブ会場でもなかなかこうはなるまい。
だが、おかげで逃げ出す隙は生まれている。
憂理は翔吾とともにゆっくり立ち上がると、テオットたちの視線に入らないよう中腰の姿勢でドアへと向かう。
「間違いが不安と恐怖を生む! 僕はそれらを無視しない! 不安と恐怖に苛まれている人たちを絶対に見捨てない! みんな、勇気が少し足りないだけなんだ! でも僕たちは違う! そうだろ、アツシ!」
「違います!」
「タバタ!」
「違います! 私は誰も見捨てない!」
「イツキ!」
「違います! わたしには、勇気がある!」
ほとんど点呼のような呼びかけを背に、憂理と翔吾は部屋から脱出した。熱気を封印するかのようにドアを閉め、駆け足で部屋のそばから離れる。
――なんだ、ありゃ。
不可解なものを目の当たりにした事で、憂理の背中はじっとりと汗に濡れていた。
翔吾も右腕を庇いながら必死で走っている。
タカユキが何をやろうとしているのか2人には解らなかった。
現時点において、T.E.O.Tと自称する集団でさえ、自分たちの向かう先を知り得ない。
本当のところ憂理だって違和感を感じているのだ。自分が生きているという現実感に乏しく、自分がもしかしたら幽霊なんじゃないかと妄想する事もある。
ゆえに、タカユキの語る言葉に魅力を感じたのも事実。こんなことは翔吾には言えないが、もう少し話を聞いていたかったような気さえする。
『こんな生活、どこかおかしい』
タカユキの言葉が脳裡をよぎって反響し続ける。
――そんなこと、わかってる!
少なくとも、今は明らかにおかしい。この施設は明らかにおかしくなっている。半村や深川だけじゃない。T.E.O.Tの連中にだって憂理の感じる違和感の一因だ。
ようやく中央階段までやってくると、2人はぐったりと段差に腰を下ろした。
心臓の鼓動、上がった呼吸。洗い流したばかりの体に、新しい汗。
「あいつら……何がしたいんだ?」
呼吸の合間に憂理が問うと、翔吾はズレた包帯を直しながら答えた。
「目ん玉、を取っ替えたい。って話、だろ?」
違うだろ、と言いかけて憂理はゾッとした。想像すると気味が悪いではないか。あのタカユキの論理展開によっては、それも冗談で済まされなくなるのではないか。奇妙な、それでいてどこか現実味のある想像に憂理が黙り込むと、翔吾がスッと立ち上がった。
「なんにせよ……さっさと逃げちまおう。あんな変態とかアホの相手するぐらいなら違和感アリアリの世界のがマシ、だろ?」
* * *