4-2 ションベン女
梱包用のヒモが持ち込まれたのは、それから10分ほど経過した頃だった。ユキエはエイミを人質にとったまま、口を尖らせてはカネダとジンロクに指示を出し、憂理の両腕を後ろで縛らせた。
先ほど倉庫で縛られたばかりだというのに、つくづく運がない。第一級危険人物というわけだ。
「他の奴も! 他の奴も縛れ!」
そうやって指示を出し続けるユキエは、ここにいる誰よりも怯えて見える。これではどちらが弾圧している側かわかったモノではない。
「ト、トクラ! 壁へ向きなさい! 他の奴も!」
刺激しないよう、憂理は軽口を飲み込み、指示通り、壁際30センチの定位置に戻った。その直後、憂理の鼓膜に足音が届く。
走ってくる、こちらへ。それも凄い勢いで……。
気がついた瞬間はすでに遅い。憂理は背中に衝撃を背負った。痛みに、息が喉でせき止められ肺から逃げない。バランスを崩して倒れた憂理を第二撃が襲う。
上腕、腰、首。
次々に振り下ろされる棍棒に、憂理は体をよじって丸めようとする。
「やめろ!」
その声とともに攻撃は止まった。薄目に見上げてみれば、ジンロクがユキエを羽交い締めにして憂理から引き離してゆく。
――助かった……。
体中に痛みが染み込んでいるが、骨までは届いていないらしい。ジンロクに感謝して、ようやく憂理は息を吐いた。
「立てよ」
一難去ってまた一難。今度はカネダが憂理のそばに立ち、靴先で頭を小突いてくる。
「ほら、立てよ。またペナルティ食らいたいのか?」
憂理は痛みをおして芋虫のように体を転がし、膝を立て、ミジメったらしく立ち上がった。
「壁、30センチ」
端的な命令だ。見れば他の受刑者たちもすでに定位置に戻っていた。
「動くなよ。ずっと見てるからな。1ミリも動くなよ」
直後、背中を打たれた。
壁に激突する形で顔面をつけ、なんとか踏みとどまった。カネダは憂理の耳元に顔を寄せ、囁くように言う。
「動くなって言ったろ? いま5ミリは動いたぞ? ほら、なんで壁にもたれかかってんだ? ちゃんと立て、30センチをキープしろよ」
陰険なこと、このこの上ない。憂理は胸を悪くしながらも、体のバネを使い直立に戻った。
「なぁトクラ」カネダがさらに囁く。「お前、前に言ったよな? 警察に全部チクるって」
憂理は答えない。痛みからにじんだ脂汗が、こぼれ落ちる前に冷や汗へと変わる。肯定しようが否定しようが喋れば『ペナルティ』に違いないのだ。
「なぁ、あんとき俺は言ったよな。お前が死ねば俺は被害者。死人に口無しってさ」
これは殺害予告なのか。カネダの本心がどうであれ、この場にいる受刑者のなかで、一番目を付けられているのは確実らしい。憂理が押し黙っていると、ようやくカネダの気配が背後から消えた。
「……ユーリ。大丈夫?」
鼓膜にようやく触れるほどの囁き声。それは隣にいる遼が発したものらしい。
「……たぶん」
立っていられるのだから、深刻な怪我はしていないと信じたい。痛みは酷いが、徐々に弱まっているのもわかる。
「僕は縛られなかった」
「脱走できるか?」
「わからない」
背後に気配を感じて、2人は会話を中断した。誰かが後ろを通過して、やがて遠ざかってゆく。再び遼が囁いた。
「みんな、大丈夫かな。朝まで……もつかな?」
「わかんね」
また気配が近付いてくる。職務に忠実なことだ。何度となく会話を中断させられ、やがて2人は喋らなくなった。ベージュの壁を見つめながら打開策を考え、ひたすらに時間の経過を待った。
視界の全てが壁であると、目を開けている意味すらない。感覚がぼんやりとして、足全体に倦怠感が湧いてくる。
許されているのは考えることだけ。だがベージュの壁を見つめていると、その思考さえおぼろげになってゆく。
遼に時間を訊ねることすら面倒に思えた。体感で3時間は経過しているが、実際はその半分も過ぎていないに違いないのだ。全身の痛みも引いて、変わりに眠気がやってくる。
ぼんやりしていると、眠ってしまいそうだが、かといって眠気覚ましなど望める状況ではない。
憂理が何度目かのアクビを噛み殺した頃、誰かが言葉を発した。
「あの、ちょっと」
確実なのは女という事。眼球だけを動かして声のした方を探るが、横目の視界など知れたもの。誰が喋ったのか確認などできない。
「あの……ちょっと」
「喋るなって言わなかった?」
ユキエの対応は冷たい。すっかり落ち着きを取り戻したとみえる。
「あの……わたしトイレに行きたいんだけど……」
「喋るなと言ったし、動くなとも言ったわ」
それがユキエの返答だった。5秒だか10秒だかの間があった。ざわめきすらない静寂があった。
「あの……でも、わたし……」
「カネダくん。あの子喋ってない?」
「ホントか? みんなに迷惑かけるってのに、いまさら喋る奴なんているのか?」
底意地の悪い寸劇だ。カネダは「一応、確認してくるわ」とわざとらしく台詞を吐いて、受刑者の列へ近づいた。
「ここらへんかなぁ?」
ユキエたちがどうするつもりか、なにをしたいのか憂理にはわからない。難癖をつけて、さらなるペナルティを課すのか。
「喋って、動けば、2時間延長コースだよなぁ。まさかそんな馬鹿やる奴はいないと思うケド」
横目に見れば、カネダが視界の端にみえる。彼が立っている場所に、トイレへ行きたい女子がいるのだろう。
「やっぱ、ユキエの勘違いだよ。誰も喋ってない」
「トイレ……行かせてよ」
押し殺したような声だった。すでに限界が近いのかも知れない。
「トイレぐらい、いいだろ」
憂理の喉まで出掛かっていた言葉をジンロクが代弁した。
「行かせてやろう」
「半村さまは『一歩も動くな』って言ったわ」
「みんなが黙ってりゃいい。可哀想だ」
「オイオイ、あの人にバレたらタダじゃ済まないんだぜ? 死にたいのか?」
「カネダ。頼むよ」
「頼みたいなら、得意の土下座をしろよ」
カネダはどうしょうもない思いつきを、自分では名案だと思ったらしく、機嫌良く数度鼻を鳴らして続けた。
「人にものを頼むときって、礼儀とかそういうのが大事だぜ? なぁ、しろよジンロク。土下座」
「やめなさいよ」
「ユキエは黙ってろよ。ユキエだって、コイツらをトイレに行かせたら半村様への反逆になるんだぞ? わかってんのか? 壁際並ぶか? なぁ、しろよ土下座」
しばらくの間があった。
よほど憂理が割って入ろうかと思ったほどだ。しかし、壁をにらむ憂理の介入を前に、カネダの高笑いが食堂を満たした。
「ダッセー! ブザマってこういうかんじ!?」
壁を向いていて、一つでも良いことがあったとするならば、ジンロクがひれ伏す姿を見ずにすんだことかもしれない。不器用だけど、とんでもなく優しいやつだと思う。それがゆえに憂理は悲しく、憤らざるをえない。
唇をかんだ憂理の背中に、ユキエの声が染み入ってくる。
「もういい。ジンロクくん立って」
その声には苛立ちがうかがえたが、一方のカネダは違う。
「まてよ。勝手に立つな。まだ『お願い』が済んでないだろ? 土下座したまま、『あの女をトイレに行かせてやってください。お願いします』だろ」
「そんなことする必要ないわ。ジンロクくん立って」
「そうかよ。じゃあ、お前らは『あっち側』の人間だ。壁際に並べよ」
振り返って見なくとも、険悪な状況であることは明らかだった。不穏がよどんだ空気となって流れてくる。
カネダとは、こういう奴だったか?
憂理は『こうなる以前』の彼を深く知っていた訳じゃないが、おそらく『病』が進行しているに違いないと思う。
その病気はどうやら感染するらしく、その感染源の特定は専門知識がなくとも容易である。暴君によってもたらされた暴力という名の病である。
特効薬はない。
暴力を抑制できるのは、非暴力などではなく、さらなる暴力である。それは国家権力によって、あるいはアウトローによってもたらされる荒療治。
確実に、進行している。確実に。
「さぁ! 並べ!」
この空気。つけいる隙があるのではないか――と憂理は聴力にすべての神経を集中した。100メートル先で縫い針が落ちても聞き分けられるほどに。
「トイレに行かせてやってくれ」
くぐもったジンロクの声が床面を這うようにして聞こえてきた。何故か、憂理までもが敗北感に打ちのめされてしまう。
つい先日までは、こんな風じゃなかったのに。つい先日までは、肩を並べて飯を食っていたのに。それが今では違う。
命令する側とされる側に二分され、そのどちらにも階級のようなものが生まれつつある。感じるのだ、肌で、耳で、意識で。
命令する側、それも上層部に位置した少年が、大きくため息を吐いた。
「違うだろ?」
時があった。ゆっくり流れるでもなく、激しく流れるでもない時が。
「トイレに行かせてやって下さい。お願いします」
きっと。きっとカネダは恍惚とした表情を浮かべたに違いない。そんなことは見るまでもない。そうしてカネダは命令する側での自らの地位を確かめるかのようにユキエに問うた。
「ユキエはどうするんだ?」
「行かせてあげなさい」
「違うだろ? お願いするときってのは……」
「アンタにお願いする必要はないわ」
毅然としたユキエの対応に、カネダは勢いを削がれたらしく、小さく舌打ちを聞かせ、捨て台詞のような言葉を吐き出すにとどめた。
「なら、いいけどよ」
奴隷内での地位は、依然としてユキエの方が上であることをカネダは理屈ではなく、本能で察したのだろう。半村の信頼の厚いユキエを敵に回す気はないらしい。
そうして、カネダは憂理の背中に風を感じさせて例の女子に歩み寄ると、おもむろに問いただした。
「トイレに行きたいって?」
「行きたい……」
「どのくらい?」
この質問には彼女も困惑したと見えて、形にならない言葉をもごもごと発するのみだった。生理現象に明確な程度や基準があれば答えようもあろうが。
「どのくらいだよ?」
「わからないよ! そんなのわかるワケないじゃない! ヤバイくらい、すごくヤバいくらいよ! バカじゃない!?」
苛立ちがほとんど悲鳴のような形で壁に浴びせかけられた。実際に限界が近いらしい。
「バカとはなんだコラ! 口のききかたに気をつけろッ!」
カネダが悲鳴に対して、怒号で応じた瞬間、憂理は反射的に彼女の方を見た。彼女は目を見開いて、目の前の壁をにらみつけていた。
尿意に必死に耐えている苦しげな彼女と対照的に、カネダは鼻の付け根に無数のしわを寄せ、狂犬のような表情だった。
憂理は見た。
大きく後方にのけぞったカネダが、水平に角棒を振る瞬間を。
時間が滞ったかのようにゆっくりと流れ、細切れの時間のなかで棒が幾重もの残像を宙に残して美しい弧を描いてゆく。
振り切られた棒が彼女の腰を強打した。彼女は電撃にやられたかのようにビクリと体を萎縮させ、崩れ落ちてゆく。滞った時間の中で、ゆっくりと、確実に。
まず右膝が床に到達し、続いて左膝が床に落ちる。
腰をやられてのけぞった彼女は、床に両膝をつけて、まるで神に懺悔をするシスターのよう。両膝だけで立っている彼女のズボンが股間と太ももを中心に変色してゆく。
支給品の、決して品質が良いとは言えない紺色のカーゴパンツ。それが暗緑色に浸食されてゆく。
勢いやまぬ尿が、彼女のパンツからあふれ、床を汚してゆく。取るに足らぬ水たまりから池さながらに、そしてそれは池から湖、湖から海へ。
彼女は驚いたような、恐怖したような表情だった。震える唇が、小さく動いて何かを言った。きっと「いや」と言ったんだと憂理は思う。
誰もが禁を破り、彼女の方を見ていたし、彼女の犯した行為も理解した。何十もの瞳が、視線が、彼女に集まっていた。
「こいつッ! 漏らしやがったッ!」
カネダが大声で叫んだが、その暴露は意味をなさない。彼女が漏らしたことはすでに周知の事実であるからだ。
ただ、目で見て、耳で聞いて、この場にいる誰もが明確に彼女の行為を認知した。
彼女が、実際に叫んだ。
「いやぁぁぁぁぁぁッ」
悲痛な叫びだった。受け入れがたい現実と、避けがたい視線が彼女の細い体に降り注いでいた。
「こいつ! 漏らしたッ!」
彼女は両手で自らの顔を覆い、力尽きたかのように自らの『海』に尻を落とした。
なすすべもなく見守る者たち。その視覚で確認し、その聴覚で確認し、やがてその嗅覚にも『現実』が迫ってきた。かすかな尿臭が憂理の鼻先にも触れる。
ユキエは冷静にその様子を見つめるばかりで、ジンロクは目を細めて顔をそらしている。それらと対照的に、カネダは指を差しては彼女をなじった。
「き、汚ねぇッッ! コイツ!」
どうしたらいいか、憂理にはまるでわからない。
――なんてことを……。
ほとんど放心状態のまま、居心地の悪さだけが憂理の心を締め付ける。居心地の悪さ、あるいは雰囲気の息苦しさは誰もが感じているらしい。全員がピタリと口を閉じたまま、ピクリとも動こうとしない。
やがてその沈黙の潮流とも言うべき渦は、カネダをも飲み込んだ。声を発しているものは叫び、泣きわめいている女の子ひとりになった。重すぎる空気が、アンモニア臭と混ざり合って胸を焼く。
なぜこうなった。どうしてこうなった。なぜこんな事をして、なぜこんな事をさせた。
暴力の生み出した副産物が、副作用が、暴力そのものより人を傷つけた瞬間だった。
「お、お前!」
カネダはホームラン予告でもするかのように、棍棒の先端を遼に向けた。
「こいつを! このションベン女をトイレに連れていけ!」
指名された遼は、迷いなく彼女に駆け寄ると、尿溜まりを気にする様子もなく床に膝を落とし、彼女に囁いた。
「もう大丈夫だからね。トイレへ行こう。もう大丈夫だから……」
そうして優しく抱き起こし、顔を覆ったままの彼女をしずしずと歩かせ始めた。彼女が歩くたびに、彼女の失態が痕跡となって床を汚してゆく。
「さっさと歩かせろ!」
せかすカネダの声も余裕を失っている。怒りや焦り、失望が混ざり合って、当惑という名のカクテルを作り上げている。隠し味には恐怖を少々といったところか。
自らが作り出した状況に戸惑い、混乱という名の酔いが回り、恐れという名の後味が利いてきたと見える。
無論、憂理もそんなカネダの心境に気付けるほど冷静ではない。
「いいかな」
誰かが言った。
カネダでもジンロクでもない男の声。むろん、憂理でもない。だが憂理には声の主の見当がついており、壁際にその人物を探す。タカユキはすぐに見つかった。
アツシと並んで壁を向き、首だけ曲げてカネダをみつめている。
アツシ、タカユキ、その隣にもう2人、黒い腕章が4つ。T.E.O.Tの連中だ。
「いいかな」
カネダはカクテルの酔いが消えない表情のまま、タカユキを睨んだ。
「なんだよ。タカユキ」
「彼女に必要なのは、もうトイレじゃない」
「あぁ?」
「彼女に必要なのは、温かいシャワーと着替えだ」
これはもっともな意見であった。トイレはもう済ませてあるのだから。
「んな事、知るか!」
カネダは完全に他人事として扱うが、彼女を連れ立つ遼は違う。
立ち止まり、タカユキを見つめている。
「さっさと! さっさと連れてけよ!」
カネダの苛立ちが、言葉となって発せられた。
しかし、遼は動かない。待っているのだ。彼女のために状況が変わるのを。そんな遼の期待を一身に受けた聖者は、壁の列からスッと抜け出し、カネダの前を一瞥もせずに通り過ぎ、遼と彼女に歩み寄った。
「いこう。まず風呂に入ろう?」
その声は優しい。迷子を保護する警察官でもこうは優しくあるまい。
「待てよ! そんなこと許可するとでも思ってるのか!」
ほとんど意地なんじゃあないか。カネダの言動に憂理はそんな印象を受けた。この場の、この状況を収める能力もなく、最善の判断を下す冷静さもない。一番の問題は、その二つが欠けていることを本人が理解していないことに違いない。
形をなした『意固地』が言う。
「半村様はそんなこと許可してない。風呂も着替えもナシだッ! こんな事を許したら、罰を受けるのは俺たちだ!」
つまりは自己保身。半村のもとで『優等生』であろうとしているのか。
「罰なら、かわりに俺がうけるよ。彼女や、君たちのかわりに」
タカユキの言葉が本心であるのかどうか憂理にはわからない。ただ、有無を言わせぬ凄みがあった。
その聖者の言葉に感化されたのか、アツシに代表される腕章をつけた数人がタカユキへと駆け寄って、ほとんど壁のような形でカネダとタカユキの間に立ちはだかった。
「俺らも同罪で良いよ」
アツシの表情は真剣だ。他二人のT.E.O.Tにも、同様の覚悟なり意志なりが感じられる。いくらなんでも、カネダの罪まで引き受けるのはやり過ぎだろう、と憂理などは思う。
しかし、彼らは真剣そのものだ。
「あのさ」
危険人物として認定された杜倉憂理が口を挟むと、ユキエやカネダの視線が矢玉のように突き刺さってくる。なかなか嫌われたものだ。
「思うんだけど。この状況ってか、出来事がさ、ハンムラの耳に入ったら……お前らもただじゃ済まないんじゃね?」
憂理はタカユキのように自己犠牲の精神を見せるつもりはない。半村奴隷を精神的に揺さぶり、なんとか譲歩を引き出す狙いだ。突き刺さってくる視線に身じろぎもせず、危険人物は言葉を続ける。
「だって、そうだろ? 命令が命令が、っていうけどさ。半村からすれば『お前ら、その程度の判断もできんのか、あぁ?』ってなるんじゃねぇの? 少なくとも俺が半村なら、お前らにガッカリするぜ」
「……黙れッ! 全部お前らが悪いんだぞ!」
動揺を誘えた。
憂理の挙げた可能性をカネダも完全には否定できないのだろう。山の天候がごとく急変する暴君の機嫌を、予想なり把握なりできる者はこの中にはいないのだ。
勝手な指示で風呂へ行かせた、と殴られるかもしれない。
あるいは、勝手な判断でトイレを我慢させ、食堂を汚したと咎められるかも知れない。
「無かったことにしろよ?」
失禁も暴力も、風呂も着替えも。すべて無かったことにしろ。憂理が言うと、カネダは「は?」とバカにしたような表情に変わった。
「半村に気づかれる前に風呂に入らせて、着替えさせて、床を掃除して、全部を元通りにすればいい。ここでは何も起きなかった」
さもなくば、カネダも半村に責任を問われるハメになる。明日の朝から、仲良く『こっち側』に並びたいなら話は別だが。
これはなかば脅しであることを憂理は理解していた。
カネダがそれを脅迫と認知していたかはわからないが、その効果はテキメンだった。
焦りという酔いが覚め、恐怖という隠し味だけが残ったに違いない。
「全員が協力して、場を収めて……黙ってりゃ、いい」
カネダが不安げにユキエを見た。この行為はカネダ自身が自分の立場を表面上はともあれ深層心理で『ユキエの下』だと認識している現れだろう。『どうしましょう、ユキエさん』というワケだ。
ユキエは例のじっとりした視線でカネダを見つめると、腫れた頬をさすり、ようやく重々しく口を開いた。
「いいわ」
交渉成立だ。言葉は少ないが、ユキエ自身も半村に咎められるリスクに気後れしたと見える。
「早く。ここを片付けなさい」
ユキエの指示に遼とタカユキが動こうとすると、ユキエは続けて言う。
「私が行く。貴方たちはここを片付けなさい」
ユキエはズボンを濡らした彼女に歩み寄り、アゴで食堂の出口を指し示した。
「浴場へ行くのよ。速く歩きなさい」
これは連行と表現するのが正しい。ズボンを濡らした彼女に寄り添うでもなく、ただ背後で腕を組み移動をせかす。
二人が食堂から消えるまで、誰もがその二つの背中を見つめていた。
そうして、ユキエたちが行ってしまうと、俄然としてナンバースリーの少年が勢いを取り戻した。
「おい、掃除を始めろ」
偉そうにアゴだけで掃除用具のある食堂の隅を指し示す。
「痕跡を完璧に掃除しろよ」
言われなくともそのつもりである。だが憂理の両腕は拘束されたままだ。憂理は肩をすくめて、ナンバースリーに申し入れた。
「腕を自由にしてくれ。これじゃ掃除どころじゃない」
カネダは不愉快そうに憂理を睨みつけ、そのままでできるだろうなどと無理を言った。これにジンロクが反応し、拘束を解かんと憂理の背後に回った瞬間、カネダが止める。
「ロク。そいつはいい。縛ったままにしとけ。ユキエになんか言われちゃ面倒だからな」
なるほど3番手としての立場はわきまえているらしい。危険人物を解放して、ユキエがどう思うか気になるのだろう。保身のカネダは奴隷集団の中の、1人を指さして命じた。
「タカユキがやれ」
唐突に指名されたタカユキは、いやがる様子もなく、掃除用具のあるほうへ歩き始めた。どうにも掃除が似合うタイプではないように思えるが、本人はやる気らしい。
その聖者の歩みに、アツシたちT.E.O.Tはおろか遼までがついて行こうとした。
奇妙な連帯感が生まれつつあるのを憂理は感じる。
「待て。タカユキだけでやれ。一人で」
カネダの言葉の端に悪意がにじむ。命令されたタカユキはその場で立ち止まり、振り返らないまま返答した。
「それもいいが、時間がかかるよ。すごく」
「いい。一人でやれ。他の奴は壁に戻れ。どうせ、時間はたっぷりあるんだ」
遼やアツシたちは不安げに互いの表情を読み合い、戸惑いながらも『定位置』へ戻ってゆく。どうもカネダには加虐嗜好があるらしいぞ、と憂理は思う。それも半村ほど率直ではなく、どこかねじくれた加虐嗜好が。
タカユキは食堂の端に立てかけてあったモップとバケツを手に取り、尿だまりへと戻ってくる。しかし、これにもカネダのストップがかかった。
「違うだろ。タカユキ。モップなんて使うな。雑巾でやれ」
「おい、意味……あんのか?」
ほとんど反射的に憂理の口が動いた。わざわざ雑巾を使わずとも、モップがあるではないか。
素直な反応をしてしまった憂理と対照的に、タカユキは『やれやれ』といった表情に変わり、すぐに用具置場へ踵を返した。
「お前らは、まだ立場とかわかってねぇみたいだからな」カネダはニヤニヤと唇を歪め、肩をすくめる。「俺だって嫌なんだぜ? でもこれもお前らのためだ」
モップを置き、雑巾とバケツを手にして戻ってくるタカユキを見つめ、カネダはご満悦だ。ユキエの不在により、活発に動くようになった舌が高説をぶつ。
これは教育だ。お前らのためだ。へんに反抗心を持ち半村の機嫌を損ねてしまっては、お前らにも俺らにも不都合だ。
「お前らだって、生きていたいだろ? コレもお前らのためなんだよ」
あまりにも勝手な理屈である。これは自己弁護なり言い訳なり、詭弁の類でしかない。
「あと、見たいんだよ」カネダは言う。「かっこつけのタカユキくんが、這いつくばってションベンを拭くトコ」
――コイツ、終わってる。
憂理は胸を悪くした。もしかしたら、カネダの内面は半村より歪んでいるんじゃないか。
タカユキは尿だまりの前で立ち止まると、神秘的な眼差しでカネダを見つめ、やがて訊ねた。
「それで何が変わる?」
「は?」
「それで何が変わる? 俺が這いつくばって掃除する事で、何が変わる?」
――変わる?
憂理は例のごとく、タカユキが何を言わんとしているか理解できない。変化があるとすれば、少なくとも床はキレイになるハズだ。
憂理と同様に理解が追いつかないらしいカネダが、呆けたままでいると、タカユキの言葉が続く。
「何も変わらない。少なくともカネダは」
「は? 変わるトカ、なに?」
苛立ちがにじむカネダの言葉に、タカユキは微笑で応じた。
「もし鳥が地面に落ちたとしても、変わりに豚に羽が生えるワケじゃない」
「は?」
カネダよりは早く、憂理はタカユキの言わんとする所を理解した。同じく理解したアツシが、ケラケラ笑い、くだけた表現に直した。
「つまりさ、タカユキくんがモテなくなっても、変わりにカネダがモテるわけじゃないって事」
他者をおとしめて、相対的に自らの地位を上げる。それが可能なのは、相対するモノ同士が同じ土俵にいる時だけ。カネダが大空に翼を広げる鷹や、鷲とは言わなくとも、せめてニワトリだったなら、飛翔の可能性はあったかも知れない。
そこら中からクスクスと笑いが溢れだし、カネダの感情を逆撫でする。バカにするつもりがバカにされたのでは、格好もつかない。
「黙れ!」
誰をなじればいいか決めかねた様子で、カネダは角棒をほうぼうへ向ける。タカユキ、アツシ、憂理に遼。カナや四季にも棒先が向けられ、方位の定まらない方位磁石はやがてタカユキを北に決めた。
「モテたいとかじゃねぇよ! そんなんじゃねぇ!」
否定すれば否定するほど深みにはまり、滑稽に見える。同情する義理もないが、なんだか可哀想な気がしないでもない。
「もういい! やれ! さっさと拭け!」
タカユキは床に膝をつき、尿だまりの中央に乾いた雑巾を置いた。灰色だった雑巾が凄まじい勢いで尿を吸い上げ、暗灰色に変わってゆく。
食堂内に点在している目が、すべてタカユキへと集まっていた。無表情で見つめる者もいれば、顔をしかめている者もいる。
憂理自身、自分が一度の排泄でどれほどの量の尿をしているかわからない。だがこうして床を見ていると、人間は思ったより多くの尿を排泄するらしい。タカユキが両手でそっと雑巾を持ち上げると、水滴がしたたり複雑な波紋が尿だまりに生まれる。
その余韻が消えぬままにタカユキはバケツの上へ雑巾を移し、ゆっくりと絞った。
ボロ布から追い出された尿がタカユキの指の間をすり抜けて、次々にバケツへと振ってゆく。最初は柔らかく、今度はかたく雑巾を絞り、ふたたび尿の海へと雑巾を沈める。
同じ動作を一度、二度、三度。
何度も何度も繰り返すうちに、ようやく床の尿は痕跡を残すだけとなった。
バケツに集められた水は、床の汚れもふんだんに含んで、さながらドブ川の汚水に似ている。
タカユキの作業を見守りながら、しきりに「汚ねぇ」だの「くせぇ」だの呟き、しきりに楽しそうにしていたカネダも終盤には興味を失ってしまったらしく、アクビまで見せる始末だ。優越感も慣れるものらしい。
タカユキが汚水の処分のため水道の使用を要求した時には、完全に興味を失って、面倒をジンロクに押し付けた。
「トイレにでも連れて行ってやれ」
椅子にだらしなく座り、眠たそうに『さっさと行けよ』と手を振る。汚水バケツを持ち、食堂の出口へ向かうタカユキの背中からは少しも威厳が失われておらず、むしろ奇妙なオーラさえ憂理に感じさせた。
「タカユキくん……可哀想」
憂理の背後で女子の誰かが呟いた。
壁に向かっての整列はすっかり崩れ、皆が数人ごとの小さなグループに分かれて囁きあったり、耳打ちしたりしている。
「……あれってさ、フラれた腹いせでしょ?」
誰の口からこぼれた囁きかはわからないが、女子たちの会話が憂理の耳に届いた。
「えっ? ナナコがカネダくんを振ったせいなの?」
盗み聞きは良い心がけとは言えないが、勝手に耳に入ってくる。これは押し売りのようなものだ。
「タカユキくん関係ないじゃん?」
「違うんだって。菜々子がカネダくんを振った直後にタカユキくんに告ったらしいのよ」
「……えー。まじ? じゃあタカユキくんトバッチリってやつじゃん!」
それが事実であるかどうかは憂理にはわからない。ただ憂理の印象では、タカユキだって純粋に『トバッチリ』の被害者とは言えないような気がする。
「あんたアンテナ低すぎー。みんな知ってるよ」
――俺は知らないぞ。
女子の指す『みんな』とはどこまでを指すのか。しかしこの話が本当なら、嫉妬なり妬みなりがカネダの『歪み』に一つの方向性を与えたことになる。
「でも、あの人たち調子に乗りすぎじゃない?」
「マジで。ユキエなんてこないだまで誰にも相手されてなかったのに。それが偉そうに……」
「イジメられすぎて、頭おかしくなったんじゃない?」
「最下層だったのにね。あんなランク低い子が……」
なんとも好き勝手に言う。
たしかにユキエはこうなる以前、全体から見れば少数派に属する『イジメられる側』に身を置いていた。どこへ行くのも一人、食事の際も一人。誰かが彼女に話しかけるのは、本人を目の当たりにしての悪口ぐらいだった。
暗いだの、ウザいだの。それがイジメる側の本心だったかどうかは解らないが、少なくともストレス解消の矛先だったような印象がある。
暴言にさらされても、嫌がらせをされても、はにかんだような苦笑いを返していた。
「あの子、消しゴム食べて、頭おかしくなったんだよ。きっと」
どうやら、陰では様々なイジメが横行していたらしい。憂理自身、多少のイジメがあったことぐらいは知っているが、その全てを把握しているわけではない。
憂理の常識に照らし合わせれば、少なくとも消しゴムは食べ物ではない。
いつだったか、同級生が言っていた言葉が憂理の脳裡をよぎった。
『いじめられる奴は弱い奴。いじめられる方にも問題がある』
それが真理を突いているのかどうかは憂理にはわからない。ただ、『弱い』というのは事実に即しているようにも思える。『弱い』つまりはイジメる側にとって、イジメられる側が精神的にも肉体的にも立場的にも『貧弱』なほうがリスクが低いのだ。
一方的に攻撃できるがゆえに、加虐は歯止めがきかなくなる。
だが、イジメを呼んだ彼ら彼女らの『弱さ』、それそのものが罪であろうはずがない。弱さだけで人を計れば、憂理だって終身刑かも知れないのだ。
憂理自身だって、第三者だって傍観者だって、加害者だって被害者だって、みんな弱いじゃないか。
そうして、今。事態は奇妙な方向にゆがんでいる。『弱者』として迫害されてきたユキエが、絶対的な権力を握っている。
たった一人の暴君。半村の庇護を受けることにより、立場の逆転が起きている。それこそユキエにとって半村は暴君であろうが、名君でもあろう。
タカユキとジンロクが戻ると、カネダはタカユキを列に戻らせ、ジンロクに何か耳打ちした。そうして、テーブルを棍棒で数度叩き、衆目を集める。
「いいか。あの女がションベンを漏らしたことはここだけの話だぞ。半村さまにバレたら、お前らはタダじゃ済まないんだからな」
これが公式の箝口令というわけらしい。誰が罰せられるか予想などできないが、『誰か』ではなく『誰もが』という可能性が残る以上、話の隠匿性は高いだろう。
「つぎに誰かがトイレに行きたくなったらどうすんだ?」
憂理の素朴な疑問だ。まさか同じ状況を再現するつもりも無かろうが。
「ロクが連れて行く。トイレに行きたくなったら手を挙げて申告しろ」
すると、数人の女子が顔を見合わせ、やがて手を挙げた。
「トイレに……行きたい」
カネダは舌打ちで応じたが、つい数秒前に宣言したことを覆すわけにいかず、看守少年はアゴでジンロクに指示した。
「行かせてやれ」
3人ほどの女子が、壁際の集団から抜け出し、ジンロクの先導の元食堂から出て行く。カネダは椅子に腰を下ろすと、忌々しげに首を掻いた。
先ほどまでの上機嫌はどこへやら、人を支配する優越感は人を管理するわずらわしさに変化してしまったらしい。
「おい。何を見てる。お前らが見て良いのは壁だけだろ!」
誰に言った言葉かはわからないが、カネダを見つめていた者たちが1人、また1人と『定位置』に戻る。それらを確認してから、憂理も定位置に戻った。
1分。2分と時間が経過してゆき、じわじわと体力が消耗してゆく。
ふと、『なんでこんな事をしているんだろう』と今更の疑問が憂理の中にわいてきた。いくら考えても、その答えは見つからない。
断片的な考えが次々に脳裡に浮かんでは消えてゆく。
150名の名簿。あれは何なんだろう。過去にこの施設に滞在した者のリストなのだろうか。
そういえば、ケンタはどうなったんだろう。大区画のエレベーターで離ればなれになったままだ。あのエレベーターから外に出てくれていれば助かる。
ガクだってほったらかしはマズい。そのうちアイツを痩せ女部屋に監禁したことがバレれば、面倒だ。
あの車椅子も意味がわからない。なにもかも解らないことだらけだ。いま自分がこうしている意味すらわからない。
「ユーリ。今ってチャンスじゃない?」
その声に横目で見てみれば遼が強い眼差しを送ってきていた。
「ほら、ユキエもいないしジンロクもいない。カネダともう1人だけ。逃げるなら今じゃない?」
どうにも真面目な見た目に反して反骨精神の強い奴だと思う。
――たしかに逃げるなら今しかない。
浴場だのトイレだのは食堂から遠い場所にあるわけじゃない。ユキエだってもうそろそろ戻っても良さそうな頃合であり、決断の遅れは機会の損失を意味することを憂理だって理解している。しかし……。
憂理は遼に見えるように腕をヒョコヒョコ動かした。
「オレ、縛られちゃってる」
「情けないなぁ。そんなのすぐに取れるよ」
「取ってくれよ。血が止まって、気持ち悪い……」
「待って。カネダにバレないように……」
憂理の手に遼の指先が触れた瞬間、食堂に悲鳴が届いた。空気を切り裂くような女子の声だ。憂理に触れていた遼の指がスッと退く。
遠いようで近いような悲鳴。それも1人じゃない。複数の口から発せられる複数の悲鳴。
「なんだ?」
悲鳴がイコール『良くない出来事』を表しているのは明白に思える。壁際にならんだ頭が、それぞれにキョロキョロ動き情報を得ようとする。
リスだのネズミだのの齧歯動物がごとくヒョコヒョコと首が動くが、首が動く範囲で得られる情報などタカが知れている。
そうして、数十秒ののち無為なリスたちのもとへ、報告はもたらされた。
「誰か! ヤバイ! 大変!」
憂理が壁から視線を移して食堂の入り口を見ると、先ほどジンロクに連れ立たれてトイレにいった女子の1人がいた。
真っ青な顔色をして、困惑の表情。ここ数日で『大変!』を何度聞いたか。憂理の指だけでは足りやしない。
「騒ぐな! なんだってんだ!」
カネダが不快そうにその女子を睨みつけた。だがその少女はひるむ様子もなく、「はやく! 大変! 誰か!」そう叫んで、食堂の入り口から姿を消した。
これは実際にただ事ではないようだ。
憂理とおなじ所感をもったらしいカネダが、素早く椅子から腰を下ろすと、少女の消えた方向へ走っていった。影の薄いもう1人の看守少年は、どうすればよいか解らず、ただオロオロするばかりだ。
「遼、ほどいてくれ。今のうちに」
ざわめきが食堂に蘇った。
何があったか、なにが大変なのか。その疑問が様々な口から飛び出し、やりとりされるが、答えられる者などいない。
遼は憂理の緊縛を解くと、深く頷いた。解放された両手は急速に血液を循環させ始めるが、痺れは依然として残ったままだ。
「チャンスだよ」
「よし! エイミを起こして逃げよう」
見れば、各人が自分の判断で壁際から離れている。
2~3人の小さなグループに分かれ、「どうしよう、どうしよう」だ。例の黒腕章のT.E.O.Tたちもタカユキを囲み、なにやら話し合っている。
「逃げろ! こんな事につきあう義理はねぇ!」
憂理は迷える子羊たちに乱暴な指示を出すと、気絶したままのエイミに駆け寄った。肩を強く揺さぶり、額をパチパチ叩くと、エイミが薄目を開ける。
「起きろ!」
エイミは言葉に反応せず、ただ寝転んだまま腫れた頬に手を当てる。
「すごい、痛いんだけど……」
痛くないはずがない。片頬などは腫れ上がってまぶたを圧迫しているのだ。良くもまぁ派手にやり合ったものだ。
「エイミ、起きろ!」
もう一度憂理が言うと、エイミは「ううん」と唸りながら、ゆっくり半身を起こした。改めて見てみれば、頬の腫れはユキエなどより酷い。まるで熟れたトマトではないか。
「なにが……どうなってんの? ユキエ……は?」
「いま、あいつらが居ないんだ。このまま逃げるぞ。脱走しよう」
「でも……菜瑠が」
会話できたのはそこまでだった。
憂理の背後に広がる食堂の空間。そこにスッと静寂が戻ったのだ。ざわめきは囁き声すら残さず、どこか隅へと追いやられてしまった。
入り口にはユキエがいた。
彼女はいつもの無表情のまま立ち尽くし、やがて静寂の食堂に足を踏み入れた。その一歩一歩に一同の視線が集中するが、ユキエ自身はまるで誰もいない部屋に戻ったかのように無言に無表情を決め込んでいる。
食堂の中央へ戻り、倒れていた椅子をゆっくり起こし、だらりと腕を下げては腰を下ろした。
また、遠くから叫びが聞こえた。
カネダの声だった。
「死んでる! ションベン女が死んでるぞ!」