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13月の解放区  作者: まつかく
1章 拷問部屋を探して
3/125

1-3 つたない計画

破れぬ悪夢に捕らわれたように、さまよい、逃げ続ける。


無我夢中で緑の世界から抜け出し、憂理たちはちりじりバラバラに階上へと戻った。悪夢から逃れるにまるでそれしか手段がないかのように、憂理は勢いよくベッドのハシゴを登り、自分だけの布団へと身を滑り込ませた。


慌てたままの心で地下での出来事を思い返し、その不可解さに見合う合理的説明をあれこれ考える。なんなんだ、アレは。なにが起きたんだ。


何度反芻(はんすう)しても、納得できる回答を思いつくワケもなく、ただ思考の堂々巡りを繰り返しているうちに、やがて憂理は浅い眠りに落ちていった。

そうして浅い眠りに夢を見る間もなく、通路の照明が点灯してゆくと、かぶった毛布の外に朝が来て、就寝室に活気が蘇る。


起き出した生徒たちが様々な音をたて、はちきれんばかりの生命が派手に動き回り始める。そんな外部の様子を憂理は布団の中で胎児のごとく身を丸め、瞼を重く閉ざて聞いていた。

――今日は昼までこうしていよう。


地下での出来事。あれは夢だったのかも知れない。なら違う夢を見ればいい。

何か楽しい夢でも見れば、あんな不可解な夢は上書きされ、忘れてしまうに違いない。

しかし、そんな淡い希望は強引な力によって打ち消された。


「おいユーリ、起きろ」


潜めた声とは裏腹に、丸めた体を力強く揺らされ、かぶった布団は引きはがされる。翔吾だ。

「起きろ、マズいことになった」


そっと布団から頭を出すと、眉をひそめた翔吾の顔が目の前にあった。


「なんだよ……近いなぁ」


「お前、寝てる場合じゃないって。マズいんだ」


「……なにが?」


「ノボルの奴が帰ってない」


ぼんやりとした思考で色々考えてみるが、うまく言葉がでない。

「ノボルが?」


「ああ、ヤバい。緊急会議だ。洗濯室に来い。先に行ってるからな」


それだけ言うと、翔吾はパッとハシゴから飛び降りた。

――ああ、確かにヤバい。

憂理は鈍い感覚のまま半身を起こし、ゆっくりとハシゴを下った。



 *  *  *



洗濯室と言うだけあって、長方形の部屋にはズラリと洗濯機が並んでいる。数にして8台だ。

部屋の一番奥では洗濯機の上にちょこんと腰を下ろした翔吾が足をブラブラさせており、そのすぐ正面にはケンタがパイプ椅子に座していた。


「ちゃんとドア閉めろよ」


翔吾の言葉に頷き、憂理が後ろ手にドアを閉めると、ケンタがため息を吐いた。

「ノボル。きっと地下で迷子になったんだよ」


「バッカ、お前のせいだろ」


翔吾がブラつかせていた足で、ケンタの膝を蹴る。憂理は二人に近づくと、洗濯機にもたれた。


「なんだよ。ノボル……帰ってなかったのか。なんでアイツのベッドを確認しなかったんだよ」


ケンタは唇を尖らせ、自分は悪くない、自己責任だ、と非難をかわす構えだ。翔吾がまたケンタの膝を軽く蹴る。


「やべーって」


「やばいよなぁ」


「やばいか」


三者三様に困惑し、顔の真ん中にシワを集めるが、そうしたところで解決にはホド遠い。

「一番ヤバいのはさ」翔吾が太ももに頬杖をついて言う。「学長んとこに、鍵を返しちまったコト。助けに行こうにも、鍵がない」


「大丈夫だよ。地下は中から鍵開けられる」


緊張感なく言うケンタに、憂理はため息を吐くしかない。


「それじゃ困るだろ。ノボルが出てきたら、鍵が開けっ放しになる」


「結果、バレる、だな」


はぁなるほど、と頷いたケンタに、また蹴りが入った。翔吾はそのままケンタの膝に足をのせ、憂理へとアヒル口を向ける。


「明日の朝まで、だぜ? 点呼の時にノボルがいなけりゃ、いろいろ大変だ」


「夜になれば鍵は取れるんだろうけど……それまでに学長が地下へ行ったら……」


「なぁユーリ。こうなりゃヤケだ。もう一回、地下に行くしかない。んでノボル見つけ出して、奪還する」


「ヤケ起こすには早くないか? なんか他に手が……」


「あるか?」


突き刺すような翔吾の視線。ケンタは眉を上げて憎らしくもお手上げのポーズをとる。


「ないか」


「ないな」


「ないよ」


「実際」憂理は爪先で床面をコツコツ蹴った。「なんだか地下はヤバいと思う。第三の大人に、痩せこけた女。なんだか普通じゃない。わかがわからん」


「だな。だからこそ、侵入したことがバレたらヤバい。学長やら深川マダムは、俺たちに何か隠してる。だからこそ……もう一度、地下へいかないと、だよな」


ケンタはウンウンと丸い頭を上下させる。

「じゃあ、ショーゴが鍵取ってきてよ」


「バっカ、今は無理だろ。学長、鍵のある部屋にいるんだぜ?」


「なら、罠を張ろう」湧き上がる奇妙な興奮に憂理は口角を上げた。「おびき出せばいい」


学長を部屋から誘い出して、その隙に鍵を盗みだせばいい。

憂理を見つめていた二人が目を見開き、ケンタは翔吾、翔吾はケンタの顔を順に見やった。

そうして悪戯っぽくニヤリと笑い、翔吾が白い歯を見せる。


「そう来なくっちゃ、だな」



  *  *  *



学長をいずこかへおびき出し、その隙に地下の鍵を奪取――。単純な話だ。

しかし、いざ計画を立てる段となると、様々な問題に直面する。


有史以来、問題こそが人間を成長させ、文明を発展させてきた。学長の歴史の授業で憂理はそんな事を聞いた記憶があったが、今は成長も発展も不必要だ。

そんなものより、ただ手っ取り早く幸運だけが欲しい。そんなふうに憂理は思う。


どれだけ綿密な計画を練ったところで、それは憶測と予測、推測を積み重ねた、いわば砂上の楼閣ろうかくでしかない。要は運に頼るところ大であった。


計画ではまず、ケンタと憂理が面談室前の通路でケンカをする。これが第一段階。

とにかく派手にやり合うこと。

そうして『手に負えぬ』と翔吾が学長に仲裁を求める。学長が執務室を出るのと入れ違いに翔吾が執務室へ侵入、鍵を拝借する。

その間、憂理とケンタは出来るだけ学長の手をわずらわせる。


翔吾は地下へ行き、鍵を開けて侵入。頃合いを見て、喧嘩を止め、ケンタは学長に泣きすがる。『うちに帰りたい』と。ホームシックに(かか)る生徒は決して少数派などでなく、2週間に1度はホームシックに起因するトラブルが起こっている。


今までの傾向から、生徒に泣きすがられた学長は、その生徒を面談室へ連れて行き、時間をかけてなだめる。ケンカを《《起こす》》のが面談室前なのだから、わざわざ執務室へ連れ帰っての面談になる可能性は低い。


なるべくケンタが学長を面談室に釘付けし、その隙を見て憂理も地下へ。翔吾と憂理が手分けしてノボルを探し、見つかり次第、地下から脱出。扉に施錠し、執務室に鍵を返す。


とても完璧とは言い難い、不完全な計画だ。不安要素を挙げればキリがない。

しかし、あれこれ悩んでいる時間などなかったし、悩んだところで良いアイデアが浮かびそうにもなかった。


「ケンタ次第、だな」

翔吾が腕を組んで、ケンタを見つめる。


「まかせてよ。学長なんてチョロいチョロい」


「翔吾だって重要なんだ。俺が行くまで独りきりで地下を調べるんだから。第三の大人と痩せっぽちの女に気をつけないと……」


「そうだな……」


「大丈夫だよ」ケンタの笑顔が福々しい。施設内有数の脳天気も、こういう事態にあっては妙に頼もしく思える。「学長を半日ぐらい拘束できればいいんだろ? ぐだぐた泣きわめいて、手を焼かせるなんて簡単さ。学長なんて簡単に騙せる。げんに……」


「『学長を騙す』って?」


良く通る、高音域の声がコンクリートの壁に反響した。正義感を音に変換したかのような女子の声。

悪だくみの三人が声のしたほうへと顔を向けると、開いた鉄のドアに菜瑠がもたれていた。半袖から伸びた白い腕を胸の前に組み、軽蔑の色を大きな瞳に滲ませて三人を睨んでいる。


「やば」翔吾が小さく呟いた。「ナル子かよ」


菜瑠は首までのラフなボブヘアーを揺らし、首をかしげる。斜めに流れた短い前髪の下では依然として疑念の光が宿っていた。


「何が『ヤバい』の?」


憂理は肩をすくめ、何気なく返答した。


「……べつに。ケンタが『太りすぎてヤバい』んだよ。糖尿で小便にアリが寄ってくるんだと」


「ダンゴ虫も寄ってくるよ」


「ダンゴムシ!? それマジかよ、すげぇ!」

翔吾が嬉しそうに手を叩いたが、菜瑠の眼はいっそう厳しさを増す。


「汚い! やめてよね!」


「うるせー。聞きたくないならアッチ行けよ。なぁユーリ」


「ああ。勝手に盗み聞きしたのはナル子だろ。汚いってのはケンタに失礼だ。謝れよな」


「そうだよ。ナル子だって小便するくせに」


「人の名前に、勝手に『子』を付けないでよ! それに、さっきはオシッコの話じゃなかったわ、『学長を騙す』って言ってたじゃない!」


「言ってねーよ」


「言ってない」


「言わないね」


三人が肩をすくめて否定を決め込むと、菜瑠は柔らかそうな下唇を噛み悔しそうな表情に変わった。


「ナル、なにやってんの」


ドアに陣取る菜瑠の横から、なだめるような女子の声がした。その直後、ナルの脇から栗色の髪が覗く。


「ちょっと! エイミ!」


エイミと呼ばれた少女は洗濯室を覗きこみ、憂理たちを確認するとニコっと笑う。

「あ、馬鹿軍団じゃん。おはヨーグルト」


「ナル子も茶髪も、あっち行けよ」翔吾が手のひらを跳ね、菜瑠とエイミを追い払おうとする。「バカ女に構ってる暇はねぇよ」


しかし、茶色い髪をお団子にまとめた少女は翔吾の拒絶をモノともせず、ニヤニヤと笑った。

「冷たいねー。アンタだって髪染めてるじゃん」


「俺のは天然だよ」


「ウソだぁ。医務室のオキシドール使ってんでしょ? アタシの眼は誤魔化せないわよ」


「使わねーよ」


「んで、こんなトコで何を話してんの? せっかくの休みなのに」


三人組が肩をすくめて黙り込むと、エイミは不思議そうに菜瑠へと視線を向けた。菜瑠は不機嫌そうに眉を下げ、首を振る。


「ケンタの糖尿で、アリを殺す算段だって」


「うえぇ、せっかくの休みの日にソレ? せっかくの休みの日にマジでソレ? 可哀想すぎて、目からゲロでそう」


大きな瞳を糸のように細くしてエイミが引っ込むと、菜瑠はドアノブを握りながら言った。

「つまらない事で騒ぎにしないでよ。なんかあったら、すぐ学長に言うから」


吐き捨てるようにそれだけ言うと、菜瑠はドアを閉ざした。一呼吸、二呼吸を置いたところで、翔吾がようやく口を開く。


「よし、邪魔者は去った」


「あいつ……」憂理はいささか不安になり、唇を噛んだ。「学長にチクるんじゃないか」


これには翔吾もケンタも腕を組むしかない。ただでさえ不安の残る計画であるのに、邪魔が入っては面倒だ。


「でも、何が起こるかわからない状態で、学長にチクるなんて無理じゃない?」


このケンタの言は正しい。

しかし、『三人組が何か企んでる』という告発があれば、学長は警戒するかも知れず、少なくとも迅速な行動が計画の正否を分ける事は明白だ。

順に視線を合わせ、頷き合い、三人は洗濯室を後にした。



娯楽室の周辺は他の生徒たちの往来も激しく、活気に満ちている。興味を引く言葉、あるいはまったく興味を持てない言葉が飛び交っていた。


立ち止まった憂理とケンタ、その二人から10メートルほど離れた場所には翔吾が待機している。翔吾は『いつでもいいぞ』と言わんばかりに壁に背を預け、憂理やケンタの様子をうかがっている。

憂理は大きく深呼吸したあと、打ち合わせ通りにケンタの肩を押し、そして怒鳴った。


「ふざけんな! イベリコ豚!」


ケンタも負けじと憂理の肩を押し返した。


「なにすんだ! このウンコマンが!」


ケンタの演技力、その勢いに憂理は思わず気圧されてしまいそうになる。ケンタが普段温厚であるがゆえに、その怒声が演技と理解しているとはいえ、ギャップが効果を高める。


「豚が喋んな! トリュフ探してドングリでも喰っとけ!」


刹那、ケンタの太い腕が伸び、丸めた拳が憂理に襲いかかる。これも打ち合わせ通り。まったく早さがなく、憂理には余裕でかわせる拳であったが、台本に従い、これを頬で受け止めなければならない。

余裕ある時間のなかで憂理は覚悟を決め、歯を食いしばった。


直撃の瞬間、世界がひっくり返ったような衝撃が憂理を襲った。重い一撃で頭が揺れ、軽い脳震盪(のうしんとう)を経験した。多少『演出』は入っているものの、憂理は通路の壁まで吹っ飛び、情けなくも尻餅をついて倒れた。


想定していたより幾分か威力が高く、面食らうものの、まだ終幕ではない。劇は続くのだ。

体全体を持ち上げるように膝を立て、憂理は立ち上がった。足元がふらつき、おぼつかない。口内は出血したらしく錆味で、頬が熱い。

まさに世界チャンピオン相手に13ラウンドやったかの如くだ。


劇の盛り上がりにあわせて周囲には観客があつまり、叫んだり、わめいたりしている。衆目は十分に集めた。


見ると、人垣の向こうに翔吾の姿はない。すでに猫科の少年が行動を開始したことを確認すると、憂理はケンタに肉弾となって向かう。

タックルの要領でケンタの下腹部に突っ込み、片足をすくって押し倒した。ウォーターベッドのようなケンタに抱きつく形で床に転がる。


「翔吾が行ったぞ」


ケンタの耳元で憂理が囁くと、ケンタも「見た」とだけ返答する。


「殴るぞ」


「軽くね」


「よく言うよ、お前は」


憂理は素早く上半身を起こし、拳を握りこむと、ケンタの頬に振り下ろした。豊満な肉の向こうに骨の感触。ケンタは顔を歪め、でたらめに引っ掻いてくる。


――まだか。

演技とはいえ、痛みは本物だ。長く続ければ、お互いタダでは済まないだろう。

憂理は再度、拳を振り上げ、劇への出演を後悔しはじめた。

次からは台本はもう少し選ぼう――そう思う。



「おい、やめろよ!」


演技の舞台に投げかけられた言葉。それは、期待していた言葉ではあったが、期待していた声ではない。

その声は学長の発する深みのある声質ではなく、明らかに少年の声だったからだ。ケンタにまたがったまま憂理が声の方を向くと、そこには遼が立っていた。


「もういいだろ。怪我するよ」


メガネの奥から、心配そうな瞳が憂理を見つめる。


「うるせー! 引っ込んでろ!」


悪いなリョー、などと考えながら憂理が拳を一段と振り上げると、すぐに遼が飛びついてきた。背中から羽交い締めだ。


「やめろったら、ユーリ!」


普段、本ばかり読んでいるくせに、その力は思いのほか強い。もがく憂理の下ではケンタが微妙な表情だ。これは『どうすんの、ユーリ』だ。


――パンパンの顔しやがって……。まぁ時間稼ぎにはなるか……。


喧嘩の仲裁に入った遼に対し、騒ぎを囲む生徒の間からはブーイングに近い罵声があがった。無責任な観客たちはリアリティーショーの続きを熱望している。おもしろいイベントを台無しにするな、と言うわけだ。

しかし、罵声やブーイングは切り裂くような女子の声でパタリとやむ。


「アンタたち何みてるのよ! 止めなさいよ! 男でしょ!」


――あぁ、ナル子。面倒な奴。


高い位置で腕を組み、世界のすべてを見下したかのような貫禄。その横でキョトンとしているばかりのエイミが、なぜか可笑しい。エイミは右を見て、左を見て、菜瑠を見てから言った。


「ええっと、そうよ! やめなさいよ、血が出てるじゃない! 血!」


遼に触発された、あるいは菜瑠とエイミに急かされた男子の数人が人ごみからワラワラと飛び出し、憂理の腕やら肩やらを掴む。

股の下にいるケンタから、奇妙な振動が伝わってきた。見ると、口を必死でつぐみ、パンパンな上に間抜けな顔になっている。

笑いをこらえているのだ。


緊張が高まると、腹の底から笑いがこみ上げる人種がいる。どうやらケンタはその手合いで、そして多くの場合がそうであるように、その笑いは憂理にも伝染した。周囲が真剣であれば真剣であるほど笑えてしまう。


――マズい。ウケる。笑ってるのがバレたらマズい。

憂理はごまかすためにさらに暴れ、ケンタもそれに倣った。


――やべえ、ウケる! なんで!

抑えられたまま、もがき、身をよじる。


「ちゃんと押さえるんだ!」


羽交い締めをしたままの遼が叫んだ。

憂理の腕を掴んでいた男子が、バランスを崩して倒れ。その際に彼の肘が別の男子の頬に直撃した。すぐさま被害少年が抗議する。


「なにすんだ! いてぇだろ」


「うるさい! お前がちゃんと肩を押さえないからだ! ザコ!」


「なんだと!」


口論はイサカイとなり、やがて暴力を生む。肘を食らった少年が憂理から手を離し、加害者に反撃したのだ。人垣まで吹っ飛んだ加害少年は、その瞬間には被害少年になった。


「やりやがったな! クソ!」


そうして第二の火種は、あっさりと燃え上がり業火の火事となった。


「おい!」遼が叫ぶ。「やめろったら! 喧嘩しても仕方ない……」


瞬間、憂理を羽交い締めにしたまま遼の体が揺れた。散弾銃に撃たれたような衝撃。

「善人ぶるモンじゃないよ、メガネくん」


背中に強蹴を受けた遼は、軽くむせて捕らえていた憂理を解放した。自由になった憂理が素早く遼を確認すると、遼は床に四つん這いになって苦しげに咳を吐いていた。

その遼を見下ろすようにして立つ人物。


――タカユキ。


肩まであるストレートヘアーを野暮ったくセンターに分け、毛先は肩口で遊んでいる。薄い唇の上には奇妙な力を感じさせる――それでいて生気のない二つの瞳が並んでいる。


『キリストの抜け殻』だの『堕落のキリスト』だのとあだ名される年長の少年だ。


「そいつら、モメてるんだろう? 問題があってモメてるんだろう? だったら気の済むまでやらせてやろう。いま争いをやめても、それはうわべだけの解決じゃないか。やれよ、やるべきだ、徹底的に」


抜け殻の聖者はそんなことを言う。騒ぎを囲み、囃し立てたり、罵声なりを飛ばしていた少年たちはシンとして黙り込んだ。誰もがバツの悪さを感じ、苦い感情を感じている。

それを嘲笑うようにして、聖者が煽った。


「どうした? 続けよう。殴り合えよ。感情をオモテに出せよ」


不思議な緊張感だった。


「さあッ!」


肘打ちに腹を立てていた少年が、重圧に耐えきれず、叫び、止めていた拳を振り上げる。

「うわああああああ」


その雄叫びを呼び水にして、関係ない者までが叫声を上げ、暴力の祭典が始まった。タカユキの冷たい視線には奇妙な力があるのではないか。なぜ関係のない生徒までが殴り合いをはじめるのか。


見れば一組や二組の話ではない。これは乱闘と呼ぶにふさわしい状態だ。片手の指では数え切れないほどのケンカがそこらじゅうで勃発(ぼっぱつ)した。

狂乱に、押され弾かれ、菜瑠とエーミが揉みくちゃになっている。


「ちょっと、やめなさい、やめて!」


「危ないって! 怪我するよ! やめてよ!」


しかし、二人の懇願(こんがん)は騒ぎの熱狂に飲み込まれ意味をなさない。憂理はケンタに馬乗りになったまま、キョトンとしていたが、ようやく事態を飲み込むと、体を前倒しにしてケンタの耳元に唇を寄せた。


「聞け、ケンタ。なんだか、マズいことになった」


「なんで、みんなケンカしてるの? 僕らのせい?」


「知るかよ」


「どうする?」


「どうしよう?」


こんな事態は予想だにしていない。計画の誤差の範疇などと言えない状況なのだ。


「こんな大騒ぎになるなんて……。ここにいる奴らぁ、まとめてメシ抜きだな」


「やばいね。翔吾の誘導で、もうすぐ学長が来るんだろう? だったら僕たちはさっさとズラかろうよ。学長もしばらくは手こずるだろうし。ケンカに巻き込まれるなんてまっぴらゴメンだ」


「そうだな……。じゅうぶん時間は稼いだしな……」


ケンタに伏せかかったままの状態で、ふと憂理が床に目をやると、眼鏡が落ちていた。動き回る無数の足、その雑踏に今にも踏み潰されてしまいそうだ。


――リョーの馬鹿、さっさと拾えよ。

微かな苛立ちを感じて人混みに遼の姿を探すと、読書家の少年はいまだ四つん這いの姿勢のままでむせていた。タカユキの蹴りがよほど強烈だったと見える。


「よし、ケンタ。撤退だ。計画は変更された」


「どうするの?」


「とりあえずこの場を離れよう。お前も学長と面談室に行く必要はない。こんだけモメてりゃ、教室でまとめて説教だろ」


「かもね」


「1、2、3で起き上がって、行くぞ。いいな?」


返事の代わりにケンタが囁く。


「1」


憂理が続く。


「2」


二人同時に最後の数字を呟いた。


「3ッ!」


憂理が横にころがると、ケンタは半身を起こし立ち上がる。憂理は腹ばいの姿勢のまま素早く手を伸ばし、遼の眼鏡を手中に収めた。そして片膝をたてて、うずくまっている遼の肩を掴む。


「立て!」


半ば無理矢理引き起こす形で遼を立ち上がらせると、憂理は彼の腕を自らの首に回した。状況を察したケンタも遼に寄り添い、ほとんど憂理とケンタで遼を抱える形になった。そうして狂乱の波を割って外を目指す。


水平に振り回される肘や、肉弾をすんでの所で避け、荒波のごとき人混みを進んでゆく。

やがて混雑から抜けると、3人は振り返りもせず、その場を後にした。


タカユキのとろりとした瞳が、その3つの背中を見つめていた。




 * * *

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