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13月の解放区  作者: まつかく
3章 夜明けなき朝に
29/125

3-8 適者生存

大代ガクは気付いていない。自分が臆病であることに。

世の中にはいつもルールがあって、彼はそれを頑なに守ってきた。


どんなルールにもそう決められた経緯があり、そう決めた権力が存在する。

少なくとも、決められたルールを遵守すれば『後ろめたい』思いをせずにすむ。誰からも非難されるいわれはない。

自分はルールを守っているのだ、自分は正しいのだ。

ルールに従えば、社会あるいは権力が後ろ盾になってくれる。


それは保護膜。

保護膜にさえしっかり包まれていれば、理不尽な恐怖や危機から守られる。

大人が決めたルールなら、それを守る限り大人は自分の味方なのだ。それが警察であれ、学長であれ。権力側にいることこそが、安全と安心の必須条件なのだ。


自分が嫌われているのは知っている。ウザイだの、細かいだの、病気だの。そんな陰口を叩かれているのは百も承知だ。

陰口を叩かれるぐらいなら良い。この仕打ちはなんだ?


大代ガクにとって、この部屋は心地の良い空間ではない。

この部屋は、薄暗いし、何か妙なにおいがする。


『あの』杜倉憂理のグループ。脱走を画策した上に、自分をこんなところに監禁するなど……。


ここに監禁され、死んだ女が居るなどと言われ、その時は鼻で笑ったが、こうして一人で居るとどうにも怖くなってくる。ルールを遵守していた自分が、こんな思いをさせられる道理はない。


――タダじゃすまさないぞ。ここから出たら、杜倉グループにはそれ相応の思いをさせてやる。罰掃除や夕食抜きじゃ済まないほどの……。


ガクは爪先に怨念を集中し、それをドアの下部にぶつけた。

もう何度もそんな事を続けているが、重厚な鉄のドアは『怨念の一撃』程度では破れそうにない。


「誰か! 誰か居ないのか!」


恐怖心を誤魔化すように大声を上げる。

自分が何を恐怖しているのか理解できないが、弱気な所を隠したい、そんな心理が働く。

恐怖は、薄暗い部屋のどこかから……弱気になった瞬間に丸呑みしてやろうと、じっと様子をうかがっているんじゃないか。


「誰かッ! 閉じ込められた! 開けてくれ!」


この言葉を何度繰り返しただろう。ノドはヒリヒリ痛み、口内が乾く。


「クソっ! 誰か! 誰もいないのか!」


靴先に溜まる怨念と怒り。

それを再び鉄扉にぶつけようとした瞬間、ドアがスッと動いた。まさに音もなく。

とたんに部屋内にわだかまっていた空気が、急いでその隙間から逃れてゆく。


やがて大きく開かれたドアが、痩せ女の部屋と通路とを一つの空間とし、新鮮な空気をやりとりする。ポカンと開いたガクの口が、ようやく言葉を生み出した。


「深川先生」


脂でテカる髪が、落ちくぼんだ眼窩にかかっている。

洞穴のような二つの眼の奥で、闇よりも沼よりも淀んだ二つの黒目がじっとりとガクを見つめた。


「よかった!」


反応はない。

じっと見つめられているが、その一方で自分を透かして他のどこかを見つめているような……。自分が空気に、透明人間になったかのような錯覚を覚える。

ガクは奇妙な焦りを感じながらも、言葉をはしらせた。


「閉じ込められたんです! ほら、あのトクラとかナナイの奴らが……」


やはり、反応はない。だらりと垂れた髪、だらりと下がった両腕。

その無気力な腕の片方には、いびつに曲がった鉄パイプが握られている。


「深川先生?」


ようやく、反応があった。

彼女の無気力だった腕が、明確な意志をもって、動いた。



 * * *


憂理が息を切らせて医務室に駆け込んだ時、エイミは学長の氷袋を換えていた。


「エイミ! 服をくれ!」


突然にドアの向こうから現れた少年に、女医は目を丸くするばかりだ。


「服だ! 服を!」


エイミは自分の服を見て、憂理を見て、もう一度自分の服を見て、自らの着ている服を指さした。

『コレのこと? 脱げっての?』と言わんがばかりの表情。


「違う、いや、そうだ! そうじゃなくて、服が欲しい!」


「あたま、だいじょぶ?」


憂理に一瞬の錯綜があった。どう説明すればいいのか、説明すべき事柄が無数のイメージとなって脳裏を駆け巡る。


「ナル子が、半村に服を破られて、ええと……。裸で! いや全部じゃない、全部が裸じゃないけど、ほとんど裸で、殴られて、とにかくヤバイんだ!」


酷い説明ではあった。だが、火急の事態である事は十分すぎるほど伝わった。

事態を察したエイミは顔を真っ青にして、憂理に駆け寄ると水滴だらけの氷袋を押しつけた。


「どこ!?」


大階段の近くにある倉庫、曲がり角のすぐそばの部屋である事を告げると、エイミは風のように医務室から消えた。憂理は氷袋を床に捨て、自らも医務室のドアをくぐった。

菜瑠はエイミに任せておけば大丈夫だろう。自分は食堂に行かねばならない。


切れた息を整える余裕もなく、憂理は再び通路を走った。

自分が食堂へ行って、なにが変わるわけではない。だが、少なくともドアのロックを解除し、食料を運び出す指示を出したのは自分だ。

この一件で誰かが死ぬなどという事があってはならない。


憂理は食堂のドアをくぐり、そこで既視感を覚えた。立ちすくむヒト。戦慄に凍り付いた空気。つい、何十時間か以前、この光景を目の当たりにした。

凶器が振るわれ、カガミが殺され……。

食堂はいつだって楽しい場所だった。美味くもない食事に、愚にもつかない冗談。空気は明るく、耳には笑い声。

それが、今では恐怖や抑圧の象徴のように感じられる。


血を欲する生け贄の祭壇であってもこれほど不吉な場所には感じまい。


「誰のモンだ!? コレは誰のモンだ!? あぁ!」


暴力という名の祭壇の、暴君という名の祭司が、暴虐という名の儀式を始めていた。

片手にバットを、片手に食料品の入った真空パックを持ち、少年少女たちを恫喝している。


「言えねぇってのか、ああ!? お前のモンか!? 腹に隠したら、なんでも自分のモンになるってのか!?」


そんなふうに考えている者は一人もいまい。

かといって、それを否定するにも肯定するにも、目の前に凶器をチラつかされていては弁解の言葉も吐けない。

凶器の脅威にさらされていないユキエが、暴君の側でボソリとつぶやいた。


「それは、半村様のモノです」


「聞いたか!? やっぱそうだよなぁ! こりゃあ全部俺のモンだ」


半村は目の前で俯いている少年の顔を覗き込んで、訊ねた。


「俺のモンだ。そうだろ?」


少年は半村と目を合わさず、ただ震えながら床を見つめて「はい」と答えた。小さく、震える声だった。


「じゃあ、なんでお前が俺のモンを持ってる? なぁ? なんで俺の食いモンをお前が持ってンだ? どうしてだ? 俺にゃあサッパリわからねぇ」


「……ぬ」


「ぬ?」


「ぬすんだ……からです」


刹那、半村は手にしていた金属バットを水平に振り、少年の腹を一撃した。

重く響く打撃音。人は楽器ではないというのに。打楽器となった少年は糸が切れたかのように床に倒れ、腹を押さえて身もだえた。


「お前!」半村はバットを肩に乗せ、次の被告人である近くの少女をアゴで差した。「お前は? なんで俺のモノを持ってる?」


その少女は先の少年と同じように怯えて床を見つめるだけだ。よくよく見れば、あれはカナではないか。


「なんで、俺の食い物を?」


カナは答えない。

正直に答えれば、手痛い一撃をもらうのは確実。答えようがないではないか。

彼女のすぐ側の床には、『反面教師』が身もだえているのだ。


検察官であり、裁判官であり、執行人でもある半村は、加虐的に唇を歪ませ、少女の顔を覗き込み尋問を続ける。


「さて、なんでだろうなぁ? まさか、お前も泥棒ってワケじゃないだろう? まさか、この世の中、右も左も泥棒だらけってほど腐っちゃいないだろ?」


悪趣味な質問に、憂理は吐き気を催した。あの暴君は他者を怯えさせ、虐待する事に喜びを得ているのではないか。

胸焼けにヘドを吐く前にと、憂理は言葉を吐いた。


「俺だよ。俺が指示した」


慈悲のない裁判長は首だけを憂理に向け、嫌みいっぱいの、わざとらしい笑顔を作った。


「彼氏には聞いてねぇよ? この女に聞いてる」


そうして、またカナを覗き込むと、幼子に質問するかのように優しく問うた。「どうしてだろう? どうしたモンかな? これは」


暴君の手がわざとらしいほど優しくカナの腹に触れる。

そうして嫌らしい動きの指を彼女の腹で遊ばせ、服の下に隠された真空パックを指先になぞる。証拠品は被告の服の下。逃げも隠れもできない。

カナは慌て、怯えながらもなんとか弁明を試みる。


「え、えっと……」


「ン?」


「ひ……拾ったん……」


「んなワケあるかッ!」


半村は素早く半歩、立ち位置をずらし、少女に拳を見舞った。

憂理が殴られたときより、タカユキが殴られたときより、カナは大きく吹き飛んで、テーブルと椅子を派手に四散させた。


「やめろッ!」


憂理が叫んだと同時に、遼や他の女子が倒れたカナに集まった。そのカナと半村の間に割り込むように立ち、憂理は拳を握った。

その握り拳が全く意味を成さない事ぐらいは理解している。この数日で何度も繰り返した事であり、さすがに勝てない事ぐらいは学習している。


「彼氏なぁ。お前、さっき『俺が指示した』って言った?」


そうだ、と言う勇気が湧かない。

だが、いまさら引き下がるのは男としてのプライドが許さない。憂理が腹を据えて半村を睨むと、半村が続けた。


「お前、面白いから泳がせてやってたけどよ、なんだか、面倒な奴だな。ヒーロー気取りか知らんがな、邪魔だよ。ハッキリ言って」


「女を……殴るなよ」


「オンナ? そこらのはオンナじゃねぇから。メスだろ、メス。ただのメス。お前、メスの豚なら屠殺しないのか? メスの犬ならシツケしないのか? それなら、酷ぇサベツ主義者だわ。――ワタシは、差別主義者と黒人が大嫌いだ……ってジョーク知ってるか? ははッ」


半村はこういう茶化すようなレトリックを多用する。これに付き合っていたのでは泥沼だ。どうせ、こと論戦においても半村には勝てやしない。

憂理は会話の矛先を変えた。


「そもそも……食料はアンタのモノじゃないだろ。みんなの……いや学長のじゃないのか」


「いいや、俺のモノだね。ユキエだってそう言ってる。このガキだって……」


半村は腹を抱えて転がったままの少年を足で転がした。


「さっき『俺のモノを盗んだ』と罪を告白したじゃあないか」


俺自身も知らない間に、どうやら俺のモノになったらしい、などと半村は白々しく笑う。


「俺は、甘やかしすぎたのかも知れンなぁ。身の程も知らん阿呆どもには、ちゃんとした管理が必要なンだわ、きっと」


「管理なんて必要ない。アンタが管理するのは倉庫だけだ。管理課の半村ッ」


内心の恐怖を面に出さないよう、思いっきり強がってみた。

すると、半村はきょとんと憂理を見つめ、そのまま数秒を過ごし、そこからジワジワと笑みを漏らし、やがて声を出して笑い出した。


「は、ははッ、こりゃあ、なんともナツい呼ばれ方だ! お前、事情を知ってるのか!?」


憂理は答えない。

半村が執務室のメモに管理課だと書かれていたのは知っているが、それ以上でもそれ以下でもないのだ。


「なんで知ってる? なんだかお前。面白いなぁ。やっぱ彼氏、好きだわ。俺はたしかに管理課の半村だ」


途端に機嫌を良くした半村は、しきりに頷き、ニヤニヤと笑う。


「だけどな。管理課の半村クンは死んだよ」


言葉の意味がわからない。目の前にいる半村は、管理課の半村だと認めたばかりではないか。

憂理が訝っていると、半村は肩をすくめて言った。


「あの日から……。あの日に、死んだんだ。誰からも愛される好青年の半村クンは」


半村はバットを握ったまま、鳥のように大きく両手を広げた。


「死んで、生まれ変わった!」


もう愛想笑いも、低脳に合わせた程度の低い冗談も必要ない。頬の筋肉に負担をかけるばかりの人間関係とはオサラバだ。バカに頭を下げる必要もなく、権力者にスリ寄る必要もない。


「俺は、帝王でも独裁者でもない。ただ半村だ。半村であることが、権力だ。半村にあらずば人間にあらず、ってな!」


暴君は満面の笑顔で演説を終えると、上機嫌のままに『泥棒』たちへの処遇を下知した。


「壁に向かって一列に並べ」


意味もわからずざわめきが生まれる。

被告人である『泥棒』同士で不安げに顔を見合わせたり、周囲をうかがったりする。

それで皆の心にさざ波を立てた疑問が解けるわけではないが、なぜか皆がそうした。


「早くしろ。立ちションするみたく、壁に並ぶんだ」


憂理たち男子にとっては端的な指示であった。なるほど、とすぐにイメージが湧く。意味を解した少年たちは、ゾロゾロと壁に向かって並び始めた。

女子も躊躇いがちではあったが、やがて男子のソレにならい、同じように一人、一人と壁に並んだ。


「壁を見つめて反省しろ。頭と壁の距離は30センチだ。それ以上離れても、それ以上近付いても許さん。座ったり、逃げたりしたら……」


半村はユキエや他の奴隷たちに視線を移す。


「お前らが罰を与えろ」


そう言って、半村は近くのテーブルに歩み寄り、それを乱暴にひっくり返した。

女子たちの肩がビクリと上がる。

半村は裏返しになったテーブルの脚を、勢いよく蹴り、折った。


無言でその作業を数度繰り返し、やがて4本の棍棒が生み出された。


「痛めつけるにゃあ、コレで充分だろ。ヘタすりゃ死ぬケドな。はは」


まず君主から武器を賜ったのは、忠実なる部下の代表であるユキエだった。細腕に似合わぬ太い棍棒を、確かめるように手のひらで触っている。

次に受け取ったのはカネダだった。

野蛮人が如く受け取った棍棒を高く掲げ、誇らしげな笑顔まで浮かべている。


次は憂理の知らない男子が恐る恐るに棍棒を拾い上げたが、最後の一本は引き受け手がいない。

半村は君主みずからそれを拾い上げ、棍棒奴隷たちを一瞥した。


「なんだ。ヒョロイ奴らばっかりだな」


その意見には憂理も異論はない。

ユキエは言うまでもなく、カネダも、もう一人の男子も細身の体だ。

屈強なり頑強なりとはかけ離れている。


半村は肩をすくめて、奴隷の一人に指示を飛ばした。


「おい。土下座マンを連れて来い。あれぐらいがちょうどいい」


――土下座マン。


それがサカモト・ジンロクを指すことを憂理は知っている。幼い弟妹のために、仕方なく従っている優しい少年……。

苦い感情が憂理の胸中を満たす。良くも悪くも、ジンロクは土下座によって半村に強い印象を残したらしい。

指示を賜った奴隷が走り去ると、半村は壁際に並ぶ反逆者たちをグルリと睥睨した。


「さぁ、馬鹿ども、反省の時間だ。今から朝の……7時まで」


半村は壁掛け時計を見やり、処罰の説明を始めた。

約10時間。その場を動く事は一切許可しない。誰か一人でも動けば、そのたびに1時間延長する。

半村は明言しなかったが、『罰』に棍棒を使用しての暴力が認められるのは明白である。

つまりは体罰だ。


「この程度じゃ、甘いかもだが、まぁ、いい。自分たちが人間だっていうならよ、人間らしく、2本の足でしっかり立てよ?」


半村の機嫌が良かったゆえに、この程度の罰で済んだのか。実際、処罰の説明を受けて憂理は『楽勝だ』とタカをくくっていた。

そりゃあ、10時間立ちっぱなしなのは面倒であるし、ダルかろう。

だが、無理難題というほどでもない。


「まぁ、たまには優しくしないとな? アメとムチだ。じゃあ、後はユキエが仕切れ。俺は……」


「アンタ!」


突然に響いた甲高い声が食堂の空気を切り裂いた。

反逆者たちも奴隷たちも、暴君も。みなが声のした方へと視線を向ける。憂理だってそうだ。

そこには、食堂の入り口にはエイミがいた。


マレに見る厳めしい表情で半村を睨み、肩で空気を割って歩み寄ってゆく。


「許せない!」


エイミの目。

その2つの目には怒りの色がありありと浮かんでいる。

食いしばった歯からは、今にも歯軋りの音が聞こえてきそうだ。憂理は強烈な既視感を覚えた。食堂に半村に、勢いある乱入者……。姿形は違えど、今のエイミは死の直前のカガミに重なるものがある。

その勢いから、あらぬ危惧を覚えたのか、ユキエがエイミの前に立ちはだかった。


エイミの歩みを止める事には成功したが、ユキエが手にした棍棒はエイミの勢いを萎縮させるだけの脅威がなかった。


「どきなさいよ!」


ユキエをどかして、何をする気なんだ、と憂理は思う。怒り心頭で、見境がなくなっているのか。むしろ、エイミの歩みを止めてくれたユキエに感謝すべきなのかも知れない。


――マズいぞ。


憂理がエイミの暴挙を止めようと、一歩踏み出した瞬間、事態はあらぬ方向へ転んだ。

突如として空を切ったユキエの手のひらが、エイミの頬を叩いた。

乾いた音が食堂の隅々まで響き、場にいた者たちを硬直させる。張り手の威力に負け、傾いたエイミの頭。その頭は数秒ののち、ゆっくりと定位置へ戻った。

激情に火照っていたエイミの頬は、はたかれた事により、ますます紅く彩られている。


エイミの眼に、驚きの色があり、困惑の色があり、やがてそれらは怒りの色へ変わった。

エイミは、すぐさま張り手を返した。

二の腕から肘、前腕から手首。その全てをムチのようにしならせた強烈な一撃がユキエの頬を打った。あれは、『倍返し』なんてものじゃないぞ、と憂理などは思う。


ユキエはフラつきながらも堪え、キッとエイミを睨んだ。その表情。ユーレイ子などというアダ名は似合わない。あれはハンニャ子だ。そして、か細い般若は間髪いれず張り手を繰り出した。


遠目に見る憂理が、思わず目を細めてしまう。あれは……痛い。エイミも堪え、負けじと張り手を返す。張り手の応酬だ。


「はは、ははッ!」半村が笑った。「すげぇ! キャット・ファイトだ! ガチなやつは初めて見たぞ!」


ユキエが一瞬、敬愛する主君のほうへ顔を向けた。

大喜びする君主に戸惑ったように見えたが、彼女はすぐにエイミへと視線を戻す。そして、頼りなく片手に持っていた『棍棒』をガッチリと両手で握り締めた。


――そりゃ、マズいって!


思わず憂理が壁際から離れようとした刹那、大声が響いた。


「使うな!」


ユキエを制止したのは半村だ。


「せっかく面白いのに、棒はやめろ。シケるだろ、あぁ!? 張り手だけで続けろ! 最後までやれ!」


これは命令だ。

ユキエにとって、まったく意味のない命令。

彼女の暴君は、身体を張って自分を守ろうとした部下をエンターテイメントの対象としてしか見ていない。不憫なことこの上ない。


「続けろ!」


怒鳴り声で継続をうながされ、ユキエは奇声をあげた。身の毛のよだつような叫び。まさに般若だ。

奇声とともに棍棒を傍らに投げ捨て、身震いしてから凄まじい勢いでエイミの頬を張る。

エイミは大きくバランスを崩し、あやうく倒れそうになりながらも、しぶとく体勢を立て直し、鬼女のような表情で叫んだ。


「ふざけんなッ! ブス!」


次にエイミによって繰り出された張り手は、ほとんど掌底だ。その一撃には、衝撃や重さが乗る。


「なに……これ!?」


憂理のそばで唖然と呟いた遼。その反応は正しい。見物人のほぼ全てが同じ感想を共有しているに違いない。

なぜ、目の前で少女同士がキャット・ファイトに臨んでいるのか。そもそも、なぜエイミが激怒モードで食堂に殴り込んで来たのか。

皆が知るはずもない。把握しているのは憂理だけなのだ。


「死ねよ!」


「ゲロブスが!」


お互いに、張り手を回避しようとも防御しようともしない。甲高い声でお互いを罵倒し、一歩も譲らない。

意地の張り合いだ。

憂理は恐怖した。キーキーわめき、我を忘れて張り手を繰り出すエイミ。あんなエイミは見たことがない。

『女は怖い』というのはこういう事なのだろうか。


十数回に及ぶ応酬に、2人の顔は腫れ上がっている。腫れた頬が、内面を焼く激情の炎を表しているかのように赤い。

それでも2人は倒れず、半村だけが嬉々として声援を送っていた。


「ははッ、沈めろ! 負けんな!」


2人がなかなか倒れないのは男子の喧嘩に比べ、一撃の威力が低いためか。憂理はそんなふうに分析するが、正しいかどうかはわからない。

ただ、一撃、二撃ほどで勝敗が決するほうが結果として両者の被害は小さく、合理的なのではないか。などと憂理は思う。


――もう、やめろよ。


その言葉が喉まで出かかるが、憂理は2人を止める事が出来なかった。顔が腫れ上がっても覚めやらぬエイミの怒り。それが十分に理解できる。

エイミは自分のためではなく、菜瑠のために戦っているのだ。それを止めてよいものか。

親友のために自らが傷付くのをいとわぬ精神に、憂理は感動すら覚える。

『女に友情とか団結とかねぇよ』と翔吾などが言っていたが、それは間違いなんじゃないか。


少なくとも今目の前で戦っている少女には団結があり、もしかしたら、自分たち以上に『男らしい』。やがて、意地の張り合いは終わった。

力尽きたのか、あるいは心折れたのか、エイミの華奢な身体は糸が切れたかのように床に倒れた。

顔の片側が大きく腫れ上がり、その目は涙に濡れている。


敗者が生まれれば、それに伴って勝者も生まれる。だが、その勝者も無傷ではない。倒れたエイミを見つめるユキエも、敗者と同じかそれ以上に顔を腫らしている。


「ははッ! すげえ! 良くやったぞユキエ!」争いをはやし立てた彼女の暴君は、その健闘を幼稚なまでに褒めそやした。「こういうのは根性がモノを言うよなぁ! 最高! ユキエが勝ち星イチだ!」


ユキエは半村の方へトマトのような顔を向け、小さくお辞儀をする。憂理が駆け寄って、エイミの状況を確認すると、彼女は憂理の服を破れるぐらいに強く握った。

腫れ上がった頬により、幾分か小さく見える唇が、震えながら言葉を吐いた。


「ユーリ……許せないよ……アイツ、アイツ、菜瑠を、くやしいよ、くやしいよ」


わかってる、わかってるから。言葉には出来ず、憂理はただ頷いて、首を左右に振った。


「だからって、お前」


エイミの頬に触れてみると、指先に灼けるような熱が伝わってくる。冷やした方が良さそうだ。

ユキエだってエイミとさほど変わらぬ状況であるが、彼女の主はそんな事を気にとめる様子もない。


「いやぁ、いいモン見せてもらったわ。退屈しのぎにゃちょうどいいなコレは。またやってくれよな。――じゃあ、俺は寝るから、後は任せるぞ」


そう言って、半村は機嫌良く手のひらをヒラヒラさせ、食堂のドアへと歩き始める。


「あ、あの」


カネダの一言が、暴君の足を止めた。


「……なんだ?」


「僕たちも……朝までずっとここに?」


「当然だろ? 見張りなんだからよ。元はといえば、お前らがコイツらをちゃんと監視してないからこういう事になったんだぞ? 連帯責任だ。こんな面倒が嫌なら、ちゃんと言う事を聞かせろ。いいな」


「は、はぁ……」


カネダの顔には媚びの笑顔が浮かんでいるが、内心は不服なのであろう。言葉のキレがどうにも悪い。

そんな部下の不満を当然のように無視して、半村は一人の奴隷を指さした。


「おい。お前」


それはスパイとして食堂に紛れ込んでいた少年だ。突然の指名に不意を突かれたらしく、少年は数秒遅れて「はい」と返事する。


「オンナを寝所に連れてこい。さっきはヤリそこねたからな。余計ムラムラするわ。寝るに寝られねぇ」


凄まじい悪寒が憂理の背中を駆け回った。まさか『さっき』の出来事を再現するつもりなのか。

スパイ少年が、「えっと」だの「あの」だの要領を得ない言葉を吐き、最後に核心を突いた。


「その……さっきの子を連れてこればいいんですか?」


さっきの子、それが菜瑠を指すのは明白だった。しかし、半村は軽く首を回し、腹を掻きながら興味なさげに言った。


「なんでもいい。ブサイクじゃなけりゃ」


それだけ指示を出し、半村が食堂のドアに歩み寄ると、入れ違いでジンロクが入ってきた。


「お、ドゲザーマンか。飯にあたりたきゃしっかりやれよ」


何をしっかりやればいいのか。その説明もしないで、半村はアクビをしながら食堂から出て行った。

暴君が去った食堂には、何とも言いがたい険悪な空気が漂っていた。


単純な引き算だ。食堂を満たしていた恐怖と不穏が無くなれば、険悪だけが残る。憂理たち反抗者、奴隷。その誰もが戸惑っていた。

看守ともいうべき奴隷たちだって、どうすればいいのか分からないのだ。


この時点では、奴隷たちはあるいは被害者だったのかも知れない。


半村の力に従う事で自らの身を守っていた被害者。それは誰にも非難されるいわれのない立場だったかも知れない。

文明を発展させた理知的な人類もしょせんは動物にすぎず、極限状態にあっては、知性も理性も闇から立ち上がる本能に、あっけなく食われてしまう。


人間の誇る個性などただの彩りでしかなく、圧倒的『生存本能』の前にあっては、理屈や論理を超越して没個性的な行動に終始する。

積極的ではないにしろ、半村の作った潮流に奴隷たちが参加したのも本能のなせる没個性化だったと言えなくもない。


ギリギリで本能に理性が勝っていた――反抗に徹した者に言わせれば、彼ら半村奴隷も半村と同じ存在だと、邪悪だと非難される対象であろう。

だが少なくとも、この瞬間までは、彼らは被害者だった。


この食堂での一夜が始まるまでは。


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