3-7 性活委員
今、この施設にいる生徒は、憂理の知る限り68名。
カガミとサイジョーは数から除外だ。
そのうち、半村奴隷が25名前後であろう。誰が半村の軍門に下ったかの全ては把握できていないが、少なくとも40名はまだ奴隷ではない。その者たちに食糧を供給するにあたり、どのような手法を取るべきか憂理は悩んでいた。
半村にバレないよう、安全に、確実に供給するには……。通路を進みながらも脳をフル回転させる。
だが、ようやく悩んでも無駄な事に考えがおよぶと、憂理は唇を噛んだ。40名全員が、明日も『半村に従っていない』とは限らないのだ。
明日にはあおぐ旗を変え、半村奴隷になる者がいないとは到底言い切れない。ゆえにどれだけ目立たない手法を確立したところで、裏切り者の密告ひとつで全ては水の泡。
――これは、短期戦だ。
半村が『四季によるロック解除』に気が付けば、食糧供給は完全に断たれるだろう。そうなれば、飢えから奴隷になるものが増加するのは当然の道理。
ドアのパスワードだって大きく変更され、自由に施設内を移動できなくなる可能性もある。
殺人者の立て籠もりに付き合うつもりはなく、半村の奴隷ごっこに参加する気もない。
だから一刻も早く逃げ出さなければならない。全てが手遅れになる前に。なのに現状は残酷で、無駄とも思える足掻きに終始している。施設内を右に左に駆け回り、恐怖と失望ばかりが道を塞ぐ。
『次に死ぬのは自分かも知れない』という恐怖が、全員の心をよどませ、見たくもない誰かのどうしようもない暗黒面を露出させるのだ。
「ユーリ」
呼ばれた声に憂理は視線を床から上げる。そこにタカユキがいた。
堕落のキリスト様が、通路の壁面に背を預けて、例の涼しげな目で微笑んでいる。
「なんだよ」
なるべく素っ気なく、冷たい対応をする。
いまはトラブルメーカーに構っているヒマはない。この情勢下でタカユキに関わるのは地雷原でブレイクダンスするようなモノだ。
「いつ地下へいく?」
突然の言葉に、憂理は呆気に取られた。言葉が出ない憂理に、タカユキはより一層、唇に微笑を増やし、言葉を続ける。
「行くんだろう? 地下へ」
なにやら得体の知れない悪寒が憂理の全身を駆け巡った。目に見えない悪魔の舌が、皮膚という皮膚を這い回るような不快感。この悪寒は腹に隠した真空パックに起因するモノではなさそうだ。
「地下……」
ようやくコレだけは言った。
「地下には備蓄の食糧があって、ユーリはそれをアテにしているんだろう?」
やはりタカユキは地下に詳しいようだ。ジンロクや菜瑠には地下の説明をしたが、タカユキには一言だって説明していないのだ。
憂理は不穏なものを感じて、ほとんどタカユキを無視するような形で歩みを再開する。
――構ってる暇はない。
しかしタカユキもしつこいもので、憂理の真横にピタリと並んでのらりくらりと歩き始めた。無言のまま、2人の足音だけが一定のリズムをもって響く。
黙って付いてくるタカユキを、横目だけでチラリと見ると腕に『TEOT』の腕章が巻かれていた。アツシの着けていたものと同じやつだ。
通路の先を見据え、歩みも止めぬまま憂理はタカユキに訊いた。
「ひとつ、質問いいか?」
「なんでも」
「T.E.O.Tってなんだ?」
「気になる?」
「別に」
「なら、教える必要もないな」
どうせ、ニヤニヤ笑ってやがるんだろう。そう思うと、顔を突き合わせる気にもなれない。憂理が黙り込むと、タカユキが呟いた。
「真実の目、だよ」
「それはアツシから聞いた。ブランドか何かか?」
「違う。チームさ」
「チーム?」
「そう」
「腕章つけてる奴がチームメイトってことか?」
「チームメイトとは言わない。同士と言う。探求の兄弟」
タカユキは中指と薬指を親指につけ、人差し指と小指をピンと伸ばしキツネの形を作った。
――なんだ。
そのキツネの輪を、眼鏡のように顔に近づけると、輪っかの向こうから微笑みかけてきた。
「これが……真実の目だよ。ユーリ。全てを見通す神の目だ」
「……なんのチームなんだよ?」
「人間の本質を見つめ、それを受け入れ、形骸化した既存の正義を正す。そんなチームさ」
ケーガイカ?
正義を正す?
言葉の意味が分からず憂理が呆け顔でいると、タカユキはクスクス笑った。
「つまりは新秩序さ」
「はぁ」
どうにもマヌケな反応をしてしまう。このインチキ・キリストは何を言わんとしているのか。
「ユーリ。秩序とか正義とかと呼ばれるモノは、時代に応じて変わる。各時代に則した秩序があって、各時代に合った正義がある」
「秩序、秩序って学長かよ、お前は」
「学長も一面では間違っていないよ。ただ、あの人の理想はもう古いんだ。今の時代に則さない。そういう意味では半村は……無意識のうちに現状に最適な新秩序を創ろうとしているのかも知れない」
「はぁ」
「この施設内の……小さな世界なら半村の恐怖支配も効果的な統治方法だろう。でも、完全じゃない……アレは駄目だ。独裁じゃ駄目なんだ。支配すべきは、体ではなく魂でないと」
「はぁ」
「そのうち、ユーリも招待するよ。TEOTの会合に。……きっと気に入る」
「遠慮しとくよ」
どうにも、こうにも歯車が噛み合わない。
現状の憂理は、新秩序なり理想なりに興味が持てるほど心に余裕がない。今は食糧の確保と施設からの脱走が急務であるからだ。
もっとも、満腹かつ自由の身であっても、そんなものに興味はわかないだろうが……。
「お前、今日は変なしゃべり方しないのな。腹が減ってんのか?」
「変な?」
「ほら、食堂で半村にやったみたく……あと遼を蹴ったときも」
「ああ」タカユキは真実の目を下ろして肩をすくめた。「あれは、演技だよユーリ。ここだけの話、あれは指導者を演じているだけ」
「演技?」
「そう、演じる必要があってね」
「なんで?」
「真実の目のためさ」
なんだか、面倒くさい奴だ。
会話を続けるのも億劫に思え、憂理は周囲に誰もいないことを確認すると、腹から真空パックの袋をひとつ取り出した。
そして、それをおもむろにタカユキの胸の前へと押し付ける。
「食えよ」
このまま雑談する気にもサラサラなれず、さっさと追い払いたかった。しかしタカユキは受け取らない。
「これは?」
「食いもんだよ、調理室から借りてきた。半村に従わない奴ら全員の3食ぶんあるから、お前も食えよ。お前の分だ」
タカユキは何度か真空パックと憂理を見比べ、やがて微笑んだ。
「嬉しいよユーリ。実は自分の指を齧る一歩手前だったんだ」
「……見つかるなよ」
ズボンのウエストは真空パック一袋ぶん余裕ができた。憂理はベルトの穴をかけ直して、つれなく言った。「じゃあ俺、急ぐんで」
「ユーリは優しいな」
「俺の指をかじられないように、だ」
「そんなことはしないよ。俺はユーリが大好きなんだから」
その言葉が本音なら、なんとも薄気味悪い奴に気に入られたものだ。自分の何処を気に入ってくれているのか憂理には分からないが……。
タカユキに返事もせず、憂理はを小走りにその場を後にした。
秩序だの、正義だの、そんなものが『今』憂理たちの置かれている空腹や危機という状況を救ってくれるワケもない。
今は成すべき事を成すだけだ。
足は軽い。腹から真空パックがひとつ減るだけで、ずいぶんと身軽になった気がする。
全部をベルトから外せば、空も飛べるんじゃないか。そんな風に憂理は思う。
主を失った執務室にはどこか静謐な雰囲気があった。
もっとも『失った』とは言っても、たかだか一日ほどで主も亡くなったワケではない。
だが『失った』と表現するのが適当に思えるほど、この部屋は静かで生活感もない。
大きな机の上はキチンと整理整頓がなされており、書類やペンの一つ一つまでが計算されたかのような印象を受ける。
――チツジョね……。
タカユキの言う秩序がどんなものか憂理には分からないが、この片付いた執務室には確かに学長的な秩序を感じる事ができた。
翔吾はどこから鍵を『借りて』いたのだろうか。
こと鍵の入手に関して、あの快活な少年に頼りっきりであったため、どうにも勝手がわからない。
憂理は学長の机に歩み寄ると、とりあえず椅子に腰を下ろした。座る者の体勢にあわせて可動する背もたれが、ゆるりと体を包み込み心地よい。
腹に隠した真空パックの圧迫がなければ、そのまま眠ってしまいそうなほどだ。
学長はこの椅子に座して、何を考えていたのだろう。
何気なく引き出しを開けてみれば、そこにも『秩序』があった。
綺麗に仕分けされた文房具が静かに出番を待っており、幾重にも重なる紙の類でさえ折り目のひとつもない。
人柄が生活環境に現れる顕著な例であろう。
しかし鍵は見当たらない。
次の引き出しにも鍵はなく、その次の引き出しも同様であった。最後に、一番容量の大きい足元の引き出しを開いた。ここも違う。それらしき物はない。
だが、引き出しの奥に眠る小冊子が憂理の目に止まった。
「搬入日程表……回覧?」
何気なく冊子を取り出し、パラパラとページをめくる。どのページも格子で構成される表で埋め尽くされており、熟読するようなものではない。
ひとつの格子につき、数行の書き込みがなされていた。
――7/24 18:00 食料品、印刷物。パンフレット。ミチビキ10月。
――7/27 10:00~未定 食料品、衣料品、薬品。尚薬品はダンボールで到着、コンテナまでフォークリフト使用、納入コンテナは8W、管理課半村に連絡。
――7/30 13:00以降予定 食料品。コンテナにて到着。管理ロット番号1~4が埋まり次第、新ロットにて管理。ロットナンバー11A以降。
書かれてある内容はよく分からないが、どうやら荷物の搬入予定と、管理指示のようなものらしい。それもコンテナやフォークリフトというキーワードから察するに、例の大区画に関係している。
「管理課……半村」
この一文に憂理は唇を噛んだ。
――管理課。
半村の肩書きは教師などではなく、当然、代理教師でもない。管理課の半村と書かれている。
文脈から読み取れば、管理課半村は大区画で働いていたという事になる。搬入されたコンテナに番号を割り当て、フォークリフトにて整理する仕事に従事する倉庫番というワケだ。
他のページにもザラッと目を通すが、似たような内容が延々と繰り返されおり、目を引く内容ではない。
ただ数日おきに、大量の食料品が運び込まれている事には首をかしげざるを得ない。
コンテナ一つにどれほどの食料品が詰め込まれているのか憂理にはわからないが、それこそ腹と背中に隠して運ぼうと思えば、『宇宙の終わり』までかかろう分量であろう。
この施設にそれほどの食糧を搬入する目的は?
答えを探すかのようにページを進めてゆくと、やがて書き込みは途絶えた。
最後の書き込みは、半年ほど前になっており、それ以後の予定は白紙の状態である。
なにか重大な事を示唆しているような、掴みどころのない不安が憂理の胸中に渦巻く。
憂理は大きく深呼吸をして、冊子を引き出しへと戻した。
不安、不吉には慣れたものだ。いちいち一つ一つに心を砕いていては精神がヤられてしまう。
――今は、シャワールームの鍵だ。
憂理は椅子から腰を上げ、鍵を収納できそうな場所を探した。
ここは違う、ここも駄目。
そんな家捜しを繰り返していると、壁面に張り付く取っ手が目に入った。
壁に取っ手とは奇異なことであるが、よくよく見てみれば、50センチ四方の扉であるようだ。取っ手を握り、引いてみる。
動いた空気が鼻先に触れ、微かなサビの匂いがした。
「これか……」
そこには、フックに掛けられた鍵がズラリと並んでいた。銀の鍵もあれば銅の鍵もある。各フックの上部にテープが貼られ、どこの鍵かは一目でわかるようにしてあった。
憂理は体育室関係の分類を見つけるが、シャワールームと書かれた鍵はない。
体育室、準備室、音響室……。
――消去法でいけば、表示のないこの鍵が……。
憂理は銀色の鍵をフックから外し、ポケットにねじ込んだ。かすかな希望。半村を出し抜くスリル。反抗に高揚する脳。
それらの全てを混沌とさせた血液。憂理の心臓は休みなく働いていた。
執務室から抜け出すと、憂理の足は羽が生えたかのように軽くなった。短距離走者よりもスピーディーで、長距離走者よりもタフになった気分。
胃の中に放り込んだソーセージが、エネルギーへと変換されたのだろうか。
中央階段を目指して憂理が角を曲がると、そこにユキエがいた。使われていない部屋の前。奴隷長は壁に背を預けて俯いていた。
アスリートのごとく走ってくる憂理に気が付くと、ジトっとした視線を投げかけてくる。
憂理は思わず速度を遅め、何事もなかったかのように彼女の前を無言で通り過ぎようと……。
その瞬間、悲鳴が――女の声、悲痛な叫びが響いた。
その声は明らかに、ドアの向こうからのものだ。
倉庫のドアからユキエに視線を移すが、彼女は無反応であった。まるで、その悲鳴が憂理にだけ聞こえたかのような無関心だ。ただ視線を床に落とし、じっとしている。
また悲鳴だ。
確実に「やめて!」と聞こえた。だがユキエは動かない。
――あの声……。
聞き覚えのある声質だった。憂理の苦手意識を刺激する声質……。
「なかに、誰が?」
憂理は問うがユキエは目を伏せたまま答えない。次の悲鳴をきっかけに、憂理はドアに手をかけ踏み込んだ。
そこは掃除用具が収納された広く薄暗い物置だった。
ビニールをかぶった未使用のモップが壁際に並び、ワックスの大缶が積み上がっている。憂理とは縁もゆかりもない場所だ。
その中央に奴隷たちの主人がいた。
裸の上半身、その背中には暴れる少女の爪痕が赤く浮き、汗で皮膚が鈍く光る。大男に組み伏せられた少女は、男の下で必死にもがいていた。
それは菜瑠だ。
破かれた服の下から白い肌がのぞき、整った白面は鼻血と涙で濡れていた。服はほとんど残骸でしかない。残骸が体にまとわりついているだけだ。
「彼氏か! あぁ!? 邪魔すンな!」
憂理に向いた半村の顔。それは人間の獣性を全面に出したような表情だった。ギラつく2つの目に対し、笑みに歪んだ唇が白い歯を見せる。
憂理は素早くモップに手を伸ばし、上段に構えた。
言葉を吐く余裕など、まったく無い。しかし、先制攻撃とはいかない。
背後からユキエがまとわりついてきたのだ。
腕にすがられ、モップを握られ、思うように動けない。
「離せ、テメェ!」
ユキエの稼いだ数秒を、半村は有効に活用した。
憂理がユキエから半村に視線を戻した瞬間、憂理の見たモノは飛んでくる拳骨だった。コンマ以下の時間の中で、出来ることは歯を食いしばるぐらいの事しかない。
重い一撃が憂理の顔面をとらえた。
痛みに先行して光が知覚され、全てが白に染まる。圧倒的威力を支えきれず、憂理の体はユキエごと壁まで飛んだ。
遅れてやってきた痛みが、顔の筋肉を硬直させる。首がもげなかっただけ、幸いと言うべきか。
膝に力が入らず、立ち上がることが出来ない。
そんな憂理と対照的に、ユキエはスッと立ち上がり、ホコリまみれの服をはたいた。
憂理は立ち上がれない。だが、叫ぶ事はできる。
「ナル子ッ! 逃げろ! 早くッ!」
菜瑠は体を腕で隠しながら、素早く立ち上がった。
「逃げろ!」
だが遅い。
立ち上がった菜瑠の頬を半村の張り手が叩き、鈍い音が部屋中を満たし、菜瑠は倒された。
「ははッ」半村は目をむいて笑い、菜瑠に覆い被さる。「最高!」
脳震盪から回復できない憂理は、なんとか半村に近付こうと床面を這った。噛みついてでも止めさせなければ。
しかし、続く半村の指示が、残された反抗手段をも封じた。
「ユキエ! なにしてる! 彼氏を縛れ!」
ユキエは返事もなく頷くと、憂理の横腹に蹴りを入れた。
うめき、苦しむ憂理を数度に渡って蹴りつけると、ようやく憂理から離れ、紐を探して倉庫内を物色しはじめる。
腹が、腹に挟んだ真空パックが、今にも服からこぼれ落ちそうだ。
「ユキエ、よく見える位置で彼氏を縛れよ!」
半村の指示は興奮からか所々、声が裏返っている。
「目の前でヤってやるからよ! あぁ!? ハツモンだろ、ナルお嬢はよ!? あぁ!? ごめんなぁ彼氏、先に喰っちまってよ! 悔しいか!? 俺は上手いから、安心してボッキしてろよ!?」
解放された半村の獣性が、下品な笑い声となって憂理の耳を打つ。
獣は菜瑠に馬乗りの状態で、彼女が悲鳴を上げるたびに高い位置から平手打ちを振り下ろす。そのたびに菜瑠の髪が大きく宙に乱れ、美しい弧を描いた。
憂理は横倒しのまま後ろに両腕を縛られ、縛り終わったユキエはもう一度憂理を蹴った。
腹ではなく、頭だ。
「聞こえたでしょ? 半村様の命令よ。菜瑠が犯されるのをしっかり見るの」
「そうだッ! しっかり見とけ! アレがオッ立ったら、ユキエがヌいてくれるからよ!」
完全に、常軌を逸している。
半村の過剰な興奮と、ユキエの冷淡なまでの態度、それに泣き叫ぶ菜瑠の悲鳴が憂理から現実感を奪った。
これは、悪夢なのか。
縛られ、打つ手もない憂理は目を閉じた。悔しさが、怒りが、ヌルい涙となって憂理の目から溢れた。
――ナル子、ごめん。俺、弱すぎて、なんもできねぇ。
憂理の頭を再びユキエが蹴る。
「ちゃんと見ろ。目を閉じんな。命令されたでしょう」
憂理が目を開くと、菜瑠と目が合った。こんな表情の菜瑠を憂理は見た事がない。
高貴さや、憂理たちをなじる強さなど、微塵にも感じさせない。
ただの女の子がそこにいた。
両肩を上から床に押さえつけられ、乱れに乱れた髪が斜めに顔を横切っている。まだ未発達の身体、ピタリと合わさった彼女の膝を暴君の膝が割ってゆく。暴れれば暴れるほど半村の膝が菜瑠の膝を割り、腰と腰とが接近してゆく。
彼女が必死で抵抗するほど、半村の加虐心をくすぐるらしく、暴君は奇声を上げては菜瑠をはたき、殴る。
従えば楽になれる。そんなカネダの理屈は通用しない。したがえば地獄、あらがっても地獄。
「ははッ! ハツモンで中に出してやるよ!」
ヒーローは何処へ行ったのか。
こんな時に助けてくれるヒーローは。
自分は余りにも無力で、ヒーローを演じることさえ叶わない。
――誰か、誰でも良いから救ってくれ。ナル子を助けてやってくれ。ヒーローの座なんて、いくらでも譲ってやるから。
ユキエの爪先を後頭部に感じながら、憂理にできることと言えば自分の無力を呪うことだけ。
菜瑠の正確な年齢を憂理は知らない。
たしか憂理と同じ中学3年かその前後、初体験としてそれが早いのか遅いのかわからない。だが、この状況が、この初体験が、悲惨だという事だけはわかる。
こんな事、許されるはずがない。
誰か、誰か。
神がいるのかどうか、願いが通じたのかどうかはわからない。だが、少なくとも小さな救いが訪れた。
それは少年の姿をした救いで、それはドアを勢いよく開いた。
ドアを開けた少年に、後光などない。
神々しさなど微塵もなく、ただ室内の状況を理解できないまま、彼はそのまま固まった。半裸の暴君、半裸の少女。誰だって固まるし、彼は実際に固まった。
憂理は目をむいて、小さな救済者に叫んだ。
「助けてくれッ!」
この機を逃すことなく、目一杯おおきな声で。神でも仏でもなかろうが、彼こそがヒーローに違いない。
「助けて!」
菜瑠も必死だ。しかし、少年は動かない。
呆けたように口を開き、わなわなと唇を震わすだけで、むしろ誰よりも怯えているように見えた。
「なんだッ! 邪魔すんな!」
半村の恫喝によって、少年はようやく戸惑いから解放されたのか、ポカンと開けていた口を動かした。
「は、半村さん! アイツらが調理室に入ってます! いま手分けして食いもんを運び出してます」
――コイツ……!
二つの失望が憂理を包んだ。まず、登場したのがヒーローではない事実。これは奴隷だ。そして、食料の搬出が……露見した事実。
「あぁ!? 調理室だァ!? あそこはロックがかかってンだぞッ!」
半村は菜瑠を押さえつけたまま、獣の目で少年を睨んだ。
「で、でも」と、少年はアタフタしながら食堂での出来事を端的に説明し、服の下から真空パックを取り出した。氷漬けのハンバーグだ。
「あの、杜倉ユーリが指示を……」
そこまで言うと少年の目は憂理に止まる。
なんで、いる? なんで、杜倉憂理がここにいる?
そんな目だった。
奴隷少年は、ほぼ全裸となった菜瑠に注意をひかれ、床に転がる憂理に気が付かなかったと見える。食堂での出来事を報告する奴隷少年をみて、憂理はようやく理解した。
――こいつ、スパイ……。
この少年は、憂理たち不服従者たちに紛れ、逐一半村へ情報を流していたに違いない。
「……彼氏、どういう事だ!?」
半村はようやく半身を起こし、憂理を睨んだ。一難去って、また一難。逃げ出したくなるほど嫌な状況が続く。
憂理は半村の視線を跳ね返すかのように睨み返し、投げやりに言葉を吐いた。
「開いてたから……入っただけだ」
「開いてるワケないだろが!」
四季にクラックさせたなどとは口が裂けても言えない。
憂理は素っ気なく対応する。なるべくに無知を装い、露見した被害は最小限にとどめねばならない。
「知らないよ……。だいたいあのドアに鍵なんてないだろ」
「クソが! ネズミどもに食いモンを渡すなッ!」
サルだのネズミだの、いいように言ってくれる。半村は鼻筋にシワを寄せて忌々しく舌打ちすると、半裸のまま立ち上がった。
そして壁に立てかけてあった金属バットを手に取ると、ドアをくぐって走り去って行く。
倒れたままの菜瑠に一瞥もくれず。
スパイ少年とユキエも、猛り狂う暴君の背中を追って倉庫のドアの向こうへ姿を消した。
救われたのか、そうじゃないのか……まるでわからない。
しかし少なくとも、菜瑠への暴行は防げた。転がされたままの憂理は肺から熱い息を漏らして、冷たい床に頭を落とした。
――なんだってんだ、ちくしょう。
次から次へ、事態は悪化の一途を辿っているじゃないか。
地獄へと続く螺旋階段には踊り場はないのかも知れない。そんな気がした。
取り残された憂理と菜瑠は、去った嵐の余韻にただ身震いするしかない。
暴力的傾向をますます顕著にする半村。その暴虐は歯止めがきかないどころか周囲の人間を手ひどく痛めつけ始めている。
安堵のため息と共に憂理が天井を仰ぐと、横耳には菜瑠のすすり泣きが触れる。
気丈な菜瑠がさめざめと泣いている。こんな姿は想像した事もなかった。
ボロ切れになった着衣を体に押しつけ、両膝を折ってゆかにへたり込んで、弱々しく泣いているのだ。こういうとき、どんな風に励ませば? どんな風に慰めれば?
憂理は戸惑い、ただ唇を噛んだ。こんな菜瑠、見ていられない。
彼女はいつだって強気で、高貴だったじゃないか。それがこんな……。
憂理は寝転んだ状態のまま、モゾモゾと体を動かし、なんとか両腕の拘束を解こうともがいた。
しかし荒々しく結ばれたロープは深く皮膚に食い込み、思うようにほどけない。
引っ張り、ずらし、ひねって、ようやく諦めた憂理はなるべく落ち着いた声で菜瑠に助けを求めた。
「えっと……。ナル子……これ、ほどいてくれないか」
菜瑠は俯いた頭を少しだけ上げた。涙と、血と痣で、整った顔が台無しになっている。
「ユキエの奴、縛るのが上手いや。マジシャンでも解けないぜ、これは」
上っ滑りの冗談にも、菜瑠は笑わない。ただ小さくコクリ頷いて、ゆっくり立ち上がる。ボロ布をますます体に押しつけて、なるべく身体を晒さないよう気にしながら。
「えっと、俺……目をつむってるから……その間に」
憂理は菜瑠に対してゴロリと背を向け、両目を閉じた。なんともやりにくい。暴行に遭った少女に、どう気を遣えばいいのか。
なるべく、優しく接するべきであろう。ただ、どうすれば優しいのだろう?
背を向けた憂理の腕に、菜瑠の手が触れた。
ボロ布を傍らに置いて縄を解くのなら、いま菜瑠の身体を隠すモノはない。そう考えるだけで、なんだ緊張する。
憂理は浮かぶ妄想を振り払い、言葉を繰った。
「えっと……、叩かれたトコ……ダイジョブか?」
少しの間があった。馬乗りの状態から、半村の平手を何度も浴びたのだ。大丈夫なはずはない。
経験上、痛みは長引くことを憂理は知っている。半村に殴られる事に関していえば、憂理は菜瑠の大先輩にあたるのだ。
肉体的な痛みは数時間もすれば癒える。菜瑠の負った精神的外傷は、心に残された傷は、どうなのだろう。
癒えるのにどれぐらいかかるのだろう。憂理には想像もつかない。
言葉少ない菜瑠の返答には、重い含みが感じられた。菜瑠の指先は、休むことなくロープをほどいている。
「えっと……」
会話を途絶えさせないよう、憂理が努力していると、菜瑠のほうから質問してきた。
「ユーリは……大丈夫?」
なんだか、泣きそうになった。複雑な感情が胸で詰まって、閉じた眼の奥から溢れてしまいそうになる。
――ごめん。
その言葉が憂理に言える全てだった。
だが、情けないじゃないか。今ここで泣いて、自分より辛いめにあった少女に気遣われるなど、男らしくないじゃないか。憂理は言った。
「あんなの、ダメージゼロだ。殴られる瞬間に身体を反らして、衝撃を軽減したからな」
嘘をついて強がってみても、なんだか滑稽だ。口内は鉄味でいっぱいであるし、目を閉じた暗黒の世界にも目眩を感じる。
「……ごめんね」
謝る事などひとつもない。むしろ憂理が謝りたいぐらいなのだ。
『らしくない』、とか『そうだ、お前のせいだ、もっと謝れ』だの、冗談ぽくかわす言葉が無数に浮かんでくるが、喉から外にはでなかった。
憂理は、ただ「ああ」とだけ言った。
やがて拘束が解けると、憂理は目を閉じたまま半身を起こした。起きた反動で、腹から真空パックが転がり落ちた。手遅れではあるが、半村の目の前で転がり出ないでよかったと思う。
「それ……」
「調理室から盗んできた。半村の奴隷なんて死んでもゴメンだからな。ナル子の分もあるからやるよ」
言いながらも唇が虚しい。半村の暴虐がこれ以上の苛烈を極めれば、反抗だの反逆だのは不可能になるかも知れない。
やがて拘束は解かれた。
腕には奇妙な違和感が残り、微かな痺れを伴って血流の遅滞がじわじわ解消されてゆく。憂理は目を閉じたまま半身を起こした。
「えっと」継ぐ言葉を探しながら、ゆっくりと続ける。
「ナル子はここにいろ。誰かに……服を持ってこさせるから」
自分の着ている服を渡そうかとも考えたが、全裸で半村を追うワケにもいくまい。部屋の隅から「うん」とだけ、くぐもった声の返事だ。まだ泣いているらしい。
「俺、食堂に行かなきゃ。……一人で大丈夫か?」
「いまは……ひとりに……なりたい」
ショック状態から抜け出すには、いま少しの時間が必要になろう。
『気にするな』なんてとても言えないし、『頑張れ』も違うと思う。
憂理はただ「ごめんな」とだけ言った。なんだか、謝るしかない。
奇妙な罪悪感に目を開き、菜瑠の居るほうを見ないようにして床から立ち上がる。
こういう時の『男らしい振る舞い』がまるでわからず、ミジメな気分。だらしないったらない。
ゆっくり歩き、ドアに手をかけると、くぐもった声が憂理の足を止めた。
「ユキエ……友達だった」
何気なく、反射的に振り返りそうになってしまうが、憂理は意識的に首を固定した。
背中に触れた声に、どう返答したら良いかわからず、ただ呟いた。
「ああ」
イジメの被害者になりがちだったユキエを、菜瑠が何度となく助けていたのを憂理は知っている。
「わたし、臭いって言われて、ウザイって言われて、酷いことされて……助けてくれなくて……。友達だったのに、友達って言ったのに」
それは熱病にうなされたような独白だった。菜瑠の心の呟きが、血の乾ききらない唇から漏れている。
「おかしくなってんだ」
憂理はドアを見つめたまま言った。ユキエも半村も半村奴隷も深川も。おかしくなってしまった。
閉鎖空間が持つ不可解な魔力によって、過度に暴力的になり、過度に自己中心的になっている。
『生』への執着が彼らをそうさせたかどうか、憂理にはわからない。
ただ、レールを外れつつあるのはわかる。時間軸のはるか以前に線路は切り替えられたのだ。この線路の先に何が待つのか、憂理には想像もつかない。
『良かった』で終わるのか、あるいは最後の最後で『残念でした』かも知れない。
「ナル。俺は施設から逃げるよ。俺じゃあ半村に勝てないし止められない、誰も助けられない」
抗うより、逃げ、だ。戦わないのも勇気なんじゃないか。
「もっと早く脱走できてれば、痩せ女も死ななかったかもだし、カガミも死ななかったかも。ナル子だって……。今は警察への通報を最優先にしたい。それで全部が元通り……ってワケじゃないケドさ」
菜瑠は返事をしなかった。憂理は返事を待たなかった。
小さく開いたドアの隙間をスッとすり抜け、通路へ戻った。
胸を張って、歯を噛み合わせ、強い決意に足取りは軽い。迷いのなき心に導かれるまま憂理は進んだ。
やるべき事を、やるために。