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13月の解放区  作者: まつかく
3章 夜明けなき朝に
23/125

3-3 新たなる秩序

「ははッ」

半村が引き笑いを漏らした。

ひしゃげたカガミの頭から流れ出す血液をじっと見つめ、もう一度笑う。


「は……ははッ。やっちまった」


誰に言った言葉かも判然としない。ほとんどの男子は棒立ちで、ほとんどの女子は抱き合ったり膝を床について震えている。


「仕方ないよな? 正当防衛だもんな?」


誰も返事をしない。


「言えよ! 正当防衛だってッ! 俺は悪くないって!」


ほとんど恫喝に近い口調で半村が自分の奴隷に怒鳴った。片手に血ぬれたバットを持っていては、脅迫という方が近いかも知れない。


「悪く……ないです。半村さんは、悪くない」


ユキエがじっと半村を見つめ、言った。意外な事に、他の女子が見せているような怯えや、驚きは見受けられない。

それは落ち着いた口調で、まるで本当にこの殺人が正当防衛であったかのように錯覚させる。


「だろ? コイツが最初にバットで殴りかかってきたんだ! 殺されるトコだった!」


「……はい、その人は悪い人です。ワタシ、その人に虐められた事あります」


「そうか、そうだよな! コイツは悪党だったんだ! ゴミだったんだ! 俺は良い事をしたんだよな!?」


「はい。半村さんは悪くないです。こんな奴、死んで当然だったと思います」


ユキエは奇妙な姿勢で死んでいるカガミに歩み寄り、じっと見つめた。まるで、その無様な姿をしっかり記憶しようとしているような……。

憂理は吐き気を催す。

――あの女、なんだってんだ!


ユキエが半村を肯定したのは、自らの私怨もあったのではないか。

そう考えてしまうほどユキエは落ち着いており、あまりにも冷淡に見えた。


そのユキエのおかげと言うべきかどうかはわからないが、半村はようやく落ち着きを取り戻したようで、フウと深呼吸をしてからバットを自らの肩に乗せた。


「ははッ。行儀の悪いサルはしつけないとな」そういって、半村は金属バットの先端を周囲の男女に向けた。「どうだ? まだしつけて欲しい奴はいるか!? ああッ!?」


その脅しは、ある者には効果を見せ、ある者には逆効果だった。挙手して、奴隷宣言をする者、怯え、駆け足で食堂を去ってゆく者。

憂理が前者にも後者にもなれずにいると、足早にジンロクがやってきた。


「ユーリよ。立てるか?」


「ああ」


「ひとまず、だ。食堂から出よう」


「ロク……でも……」


「アイツ、殺したぞ」ジンロクは言った。「殺した。本当にやっちまった。もう後戻りできない」


飾りっけのないジンロクの言葉が憂理の恐怖心を煽った。一人やるのも二人やるのも変わらない――。ジンロクの言外にそんな意味がにじむ。


「立て、行くぞ。……アイツも……連れて行く」


フラつきながらも憂理が立ち上がると、ジンロクは床に腰を下ろしたままのタカユキへ駆け寄った。ジンロクが何か言って手を差し伸べると、タカユキは素直にその手を取り、ゆっくり立ち上がる。

その間も半村は大声でガナリ立てていた。半村自身も今の状況を恐れているに違いない。

浮き足立ち、不安そうに並ぶ奴隷たちにバットを向け、指示を出した。


「おい! なにをボサッとしてんだ!? 仕事があるだろ、あぁ? 仕事がよ!」


――仕事?

奴隷たちも憂理と同じ疑問を抱いたに違いない。

仕事とは何をさすのか。

奴隷たちの勘の悪さに腹を立てた半村が、手近な椅子にバットを叩きつけた。木製のそれは背もたれが脆く砕け、破片を四方へ飛び散らせる。


「仕事だよ! 仕事! お前らサル以下か!? あぁ!?」


半村は、ほとんど激情の塊だ。つのる怒りが言葉となって口から、視線となって目から溢れている。それでも奴隷たちは気づかず、ただ顔を向け合ったり、うつむいたりしてオロオロうろたえるだけだ。

彼ら、彼女らは後悔してるんじゃないか。憂理はそんなふうに邪推する。

とんだ暴君に仕えた。判断を誤った……と。

しかし、ざわつく奴隷たちの中にあって、彼女だけは違った。

ユキエの眼には光があった。


怯えながらも、必死に活路を見いだそうとする眼。その眼が眼球だけで周囲を見回し、やがて彼女は列から一歩踏み出した。


「ゴミ……よ」


「あぁ!?」


半村の反応が遠く離れた憂理にも恐ろしい。しかしユキエはひるまず、奴隷たちの列に振り返って――怒鳴った。


「ゴミよ! はやくゴミを片付けなさいよ!」


大声を張り、おもむろにユキエがカガミの死体を蹴りつけた。ほとんど全力といった蹴りだ。だが死体は少し揺れただけで動かない。


「このゴミっ! ゴミを! 臭う! 汚いゴミッ!」


「そうだッ!」半村も大声だ。「早く片付けろッ! お前らもゴミになりたいのか!」


なるほど、ゴミね、などと背筋を凍らせながら憂理は納得した。

奴隷たちは戸惑いながらも小走りにカガミへと近寄り周囲をかこんだ。そうして男子も女子もそれぞれに顔を歪めながら、カガミの死体を引っ張り上げる。


「ユキエ、お前は使える奴だ」


半村がユキエのアゴに指を添え、強引に頭の角度を変えた。高さの違う頭どうしで面をつき合わせると、暴君が薄気味悪くニヤリと笑う。


「お前を、奴隷の指示役に抜擢してやる。奴隷長だ。コイツらを俺の命令に従わせ、管理するんだ。いいな?」


貧相な顔、幽霊よりも生気のない顔でユキエは「はい」とだけ言った。

そんな、ささやかな昇進をよそに、他の奴隷たちはカガミを持ち上げようとしている。


顔をそむけ、顔をゆがめ、眼前のグロテスクに耐えようと必死だ。

しかし、やらねば自分が次のグロテスクとなる。確かに表情と態度だけ見れば、『ゴミ』の扱いであった。死者への敬意など微塵にも感じられない。

手に手、足に手、胴体に手。頭にだけは誰も手を添えず、持ち上がると同時に、首がダラリと曲がる。

陥没した頭部から粘性の高い液体が垂れ、床に糸を引いた。


慣れるものじゃない。人の死は。痩せ女の死体にせよ、カガミの死体にせよ、どちらも憂理の肺を等しく締め上げた。何度目の前にしても慣れるものではない。


「調理室に置いときなさい」


さっそく奴隷長が指示を出した。カガミを持ち上げている者たちは不満げにユキエへと視線を投げかけるが、言い返す者はいない。


「……ユーリ、逃げよう」小人が発したような囁き声は、遼のものだ。「みんな、おかしくなってる。人が……人が死んだのに」


もっともな事を言う。奴隷以外、いや奴隷であっても身の危険を感じているに違いない。このまま食堂にいて、良さそうな事はひとつもない。

憂理も声をひそめた。


「ああ……逃げよう……。半村も深川も狂ってる……。こんなのどうかしてる」


一刻もはやく、この施設から抜け出して、警察に駆け込まなければ。地下を経由し、外部へ逃れ……。途中でケンタも探さなければ……。

憂理と同じ思考をたどったのか、遼がポツリともらした。


「ケンタが警察に行ってくれていれば……」


そうであれば、どれだけ助かるか。だが、決して高くはない可能性に期待して、じっと待っているワケにもいかない。


「地下……無理にでも地下を突っ切るしかない」


「はやく……逃げよう」


君子、危うきに近寄らず。などと言うが、危ういものが向こうから近づいてきたら、どうすればよいのか。『危うき』が憂理を見つめて、怒鳴った。


「おい! 彼氏とメガネ! なにをコソコソ喋ってる!」


半村の血走った眼とユキエの細く冷たい眼。どちらの眼にも恐怖してしまう。

憂理と遼が黙り込んだことで、半村の機嫌を著しく損ねたらしく、暴君はバットで床をノックした。


「なにコソコソしてんだ!? あぁ?」


脱走を画策してました。などと正直に言えるはずもない。

今の状況にあって正直者は寿命を縮めるのだ。それも極端に短く、余命、数秒先まで。


「コソコソ話は悪いことって相場が決まってます」


ユキエがいらぬ事を言う。


「きっと、半村さまの悪口か、反抗の相談か……。その両方かも」


『さん』が『さま』になっても憂理に驚きはなかった。ユキエが凄まじい適応力をみせただけのことだ。

そして本人はそれを受け入れ、なおかつ好んでいるように見える。


「そうだよなぁッ! 人様に言えないような事だから声を殺すんだよなぁ!? こりゃあ、シツケが必要かなッ!? シツケがよう!」


床を叩く音がますます強くなり、憂理の膝が笑う。憂理の怯えを見越したかのようにユキエがニィと笑い、言った。


「誰が支配者かわかってないんだと思います。頭の悪い、サルですから。だから……」


半村もニィと笑った。


「だから?」


「だから、キツいシツケが必要です。体に教えこまないと」


「だよなぁ!」


半村が床ノックをやめ、憂理たちの方へと近づいてきた。


「遼! ヤバい! 食堂の出口へ……」


言いながら憂理が脱出口となる食堂のドアへ視線を向けると、機敏に状況を察したユキエが叫んだ。


「入り口を封鎖しなさい!」


ピクリと体を反応させた奴隷たちに、さらにユキエから声がとぶ。「早く!」

ドアの最寄りにいた奴隷が素早く脱出口へ向かう。

――武器を!


せめて、戦えるものを。憂理は慌てて周囲を見回すが、金属バットとやりあえる物など見当たらない。

ただでさえ圧倒的な強さである半村に、抗う武器は拳のみ。それは自殺行為とも呼べない、ただの自殺だ。

しかし。憂理が覚悟を決めた瞬間、空中を何かが舞った。


それはガラスのコップだ。


複雑な回転を見せながら、コップは一直線に半村へ飛んでゆく。

一秒を細切れにしたような時間のなかで、ガラスは半村の頭部に衝突し、暴君の歩みを止めさせた。

内容物の水がオーロラのように広がり、複数に砕けたコップが輝きながら床へ散らばる。それに遅れて半村も崩れ落ちた。


救いの手。それが飛んできた先にはタカユキがいた。

投げた瞬間の姿勢、まるでピッチャーが投球を見守るような、前のめりの姿勢のまま髪を揺らしていた。

倒れた半村がキッとタカユキへ顔を向けると、タカユキはようやく姿勢を戻し、涼しい表情で言った。


「怒鳴ると……ノドがかわくだろうな、って思ってね」


半村はガラスの破片や、水まみれの髪をそのままに、ゆっくり立ち上がった。


「……ガキ」

悲劇が再現される予感が心臓を締め付ける。


「……ガキ」


半村がゆっくりとタカユキへ近づいてゆく。

それでも涼しい顔をしているのは何かしらの自信のためか。あるいはどこか壊れているのか。


「ハンムラ!」やむにやまれず、憂理は叫んだ。「俺をシツケるんじゃなかったのか! 数秒前の事を忘れるなんて、ニワトリ以下かよ!」


上手く挑発できたかどうかは分からない。

半村は一瞬足を止め、ギラついた目で憂理を見やり、歪んだ唇の隙間から歯を見せた。


「黙れガキ……。お前もやってやる。時間は腐るほどあるんだ」


「順序を守れって言ってんだ!」


なんで俺がタカユキを――。

自分でも何故カバーに入っているかわからない。だが、少なくともピンチを救われた義理がある。


「黙れと言った」


言葉を惜しむように半村が言うと、じっと固まっていた遼も騒ぎはじめた。


「だ、黙らない! たしかに僕たちはサルかもだけど、あ、あんたはニワトリだ! め、目先の事しか見えないニワトリだ!」


頑張ったな、と思う。

どもりながらも何とか半村の気を引こうと精一杯だ。

しかし怒りの総量ではやはりタカユキの方が上であるらしく、半村はタカユキに向かって歩き始めた。


涼しい顔のタカユキ。

すぐ側にいたジンロクは、いい迷惑だろう。面倒見の良さが災いし、聖職者の前に踏み出し、その身を暴君の前にさらす。

複雑な表情を見れば、今のジンロクから漏れる呼吸は全てため息なのに違いない。


「暴力は、良くないすよ」


「……どけ」


一瞬の緊張。しかし今なら半村の背中に……。

憂理は手近にあった椅子に手を伸ばした。椅子であの広い背中を一撃し、バットさえ奪うことができれば……。刹那、大声が上がった。


「なんだこれは! どうなってる!」


憂理は椅子に伸ばしかけた手をビクリとさせて引っ込めた。


「なんだ! どうなってる!」


見れば、奴隷たちによって封鎖されかかっていたドアが、人だかりが、見事に割れている。少年少女の背丈より、一つも二つも頭がぬけた人物。

――学長!


どれだけ疑惑の人であっても、どれだけ信用できない人であっても、今は初老の学長がどんなヒーローより輝いて見える。

学長は人ごみを抜け出し、椅子の散らばる食堂内を不愉快そうに見回しながら半村の側までやってきた。


「半村くん! なんだコレは! どうなってる!」


半村は答えない。床に広がる血の痕跡を見咎めた学長が、さらに怒気を強めた。


「説明しなさい! 半村くん! コレは……」


「シツケですよ。篠田サン。これはシツケだ」


「こんなに血が……怪我をした者はどこだ!?」


「矯正が困難だったんでね、生まれ変わってもらう事にしたんですよ。一度、死んでからね。スゴロクで言うところの『ふりだしに戻る』ってね」


「なっ……君はなんて事を……」


「アンタ『任せる』って言ったじゃないスか。これが俺なりの秩序維持だ」


そして、半村はバットの先端を学長の顔面に向け、言った。


「怖い顔をせんで下さいよ。コレはねアンタのせいだ。アンタの責任だよ。一人死んだのは、アンタのせいだ。あの娘……羽美ちゃんと同じにね」


学長は目を剥いて、なにか言おうとした。だが言葉は出ない。


「俺はね、気付いたんだ。アンタや深川サンがつくづく馬鹿だって事にさ! やれ秩序、やれ道徳、やれ未来だのって、んなもん今更だ。今更なにをしたって悪あがきでしかないのによ」


学長をなじる半村の言葉。その半分も憂理には理解できなかった。ただ絶体絶命のピンチから逃れた事はわかる。


「逃げよう」


憂理が囁くと遼は無言で小さく頷いた。ジンロクも憂理の考えを察したらしく、遠くで首を動かした。

半村の言葉はますます苛烈になり、バットを持つ手が震えている。


「なぁにが新秩序だッ! なぁにが新世界だッ! アンタらの馬鹿さ加減にゃうんざりなんだよ!」


「君が……そんな奴とは思わなかった」


「そんな奴? これが俺さ! アンタの知ってる好青年だった半村クンは、変わったのさ! 今日から、この施設は俺が仕切らせてもらう、誰にも文句はいわせねぇ。ガキどもにも、深川サンにも、アンタにもな!」


「勝手を言うな!」


「勝手!? 勝手と言ったか!? 違うね、コレは勝手じゃない! コレが俺の創造する新秩序さ!」


「いい加減にしろ!」


「なぁアンタ、ウザいわ。デカい面しないでくれる?」


どうにも穏やかな雰囲気ではないぞ、と憂理が二人を見比べていると、学長が自分に向けられていたバットを握った。

学長なりに素早く奪おうとしたのだろう。だが遅い。

半村はそれよりも遥かに素早くバットを引っ込めると、肩に乗せる。


「今はね、コイツらをシツケてる段階だ。だから暴力も必要悪ってもんさ。誰が支配者か身にしみて分かれば、俺だって暴力なんて振るわないで済む。早く秩序を回復したいモンだよ。心が痛むんでね、暴力ってやつは」


「君は支配者じゃない! 責任者は私だ!」


「なら、こうするさ」


言うが早いか、半村は肩に乗せていたバットを、横なぎに振るった。スイングの弧が水平に描かれ、それは学長の側頭部を直撃した。

宙を舞った学長のメガネが放物線を描いて床に落ち、砕けたレンズが光を放った。ひしゃげたフレームが、床の上で狂ったように踊る。


衝撃を受け流すかのように学長の首が曲がり、老体が散らばるレンズの上に崩れ落ちた。


「これで、解決だ。俺が支配者だ」


即死か、と思われたが、学長は『まだ』生きている。半村が銀髪の頭を軽く蹴るたびに、小さなうめき声を上げるのだ。


「おい。仕事だ」


唖然としていた奴隷たちは、その言葉をうけて動きはじめた。まるで半村の命令が魔法の呪文であるかのように、機敏な動作で学長に駆け寄ると、周囲を囲む。

しかし、仕事にかかろうとしても学長はまだ生きている。

『ゴミ』として処理するのかどうか、奴隷たちが暴君の顔色をうかがうと、察したユキエがアゴで調理室を指して言う。


「どうせ、死ぬわ。汚い汁が出るまえに運びなさい」


「遼ッ!」憂理は眼鏡の少年を一瞥もせずに叫んだ。「行くぞ!」


憂理は助走の勢いを殺さないまま学長を囲む奴隷たちを押しのけ、うつぶせになった学長の左腕に自らの首を回した。


だが、持ち上がらない。


すぐに遼がやってきて、同じように右腕を首に回す。だが同じ事。

軟体動物がごとくグッタリとした学長はことのほか重く、持ち上がる気配がない。遅れて駆けつけたジンロクも手伝おうとするが、ラチがあかない。

――急がないと!


医療の心得など憂理にはなかったが、このままではマズい事ぐらいは素人目にも明らかだ。医務室に運び、せめて冷やさねば……。

しかし、どれだけ力を入れても上手く持ち上がらない。人の体というのはこれほど持ち運びにくいものだったのか。

そんな焦る憂理たちの様子を暴君が見つめていた。薄笑いの唇から言葉が漏れる。


「そら、早くしないと死んじまうぞ。そら、ワッショイ、ワッショイ。ほれ、ワッショイ、ワッショイ」


馬鹿にしたような声で、煽るように手をヒラヒラ上下させる。


「ほら、お前らも掛け声を! ワッショイ、ワッショイ」


半村が奴隷たちをも煽ると、一人、また一人と掛け声に参加する。手のひらが無数に上下し、掛け声のタイミングが少しずつ合致してゆく。

ワッショイ、ワッショイ。

ワッショイ、ワッショイ。


異様な雰囲気だった。怪我人を助けようとする三人に、無機質な手拍子、無感情な囃し言葉。誰も手を貸そうとせず、ただ遠巻きに囲み、ワッショイ、ワッショイ。


「ほれ、早くしないと死んじまうぞ」


――わかってる! 黙れよ!

憂理がどれだけ焦ったところで学長が軽く、持ちやすくなるわけではない。すると、憂理たちを囲む掛け声の壁の向こうから何か大きな音がした。

ガシャ、ガシャと鼓膜を刺激する金属音だ。


ワッショイの掛け声は止まり、その場にいたほぼ全員。ただ一人を除いた全員が音のした方向へ視線を集中させた。


そこにはただ一人、タカユキがいた。

タカユキが調理室から配膳台を引っ張り出してきて、その上に載っていた大鍋や食器類を片っ端から床へ落としていた。配膳用のトングやフォーク、アルミの皿にステンレスのトレイ。それらが床へと押しのけられ、金属音のオーケストラとなっている。


やがて配膳台の上からなにも無くなると、タカユキは素早く配膳台を押した。

下部に取り付けられたキャスターが回転し、床の上を配膳台が滑るようにして移動してくる。

ここにきて、ようやくタカユキの思惑を察した憂理は、呆然とする奴隷たちを押しのけ、包囲に通行スペースを作った。


「どけ!」


憂理が作ったスペースにタカユキが配膳台を滑り込ませ、横たわる学長に横付けした。


「いくぞ! 配膳台に載せろ!」


素早く四人が四方に散り、学長の右肩、左肩、左右下半身にすがりつく。


「いちッ!」憂理が掛け声を発した。


「にィーッ!」ジンロクが続いた。


「さん!」遼が叫んだ。


りきんだ瞬間、腕と腰に激痛が走る。憂理だって無傷ではない。だが、自分ひとりが力を抜けば、せっかく持ち上がった学長を床に落としてしまう。

憂理は歯を食いしばっては奥歯を鳴らし、痛みに耐えた。苦痛など後回しだ。

四人は、ほとんど無理やりに学長を持ち上げ、多少乱暴に学長を配膳台へ載せた。

即席にしては充分な担架だ。


「いくぞ! 医務室だ!」


長方形の四方にわかれ、四人は配膳台を押した。キャスターの車輪がガリガリと悲鳴を上げ、規格外の重量に耐えている。


「道を開けてくれ!」


憂理が食堂入り口付近の人混みに叫ぶと、見物人たちは右へ左へ道をあける。その無数の目は一様に配膳台に乗せられた学長へと向けられていた。


素早く入り口をくぐり抜け、廊下へ。しかし、そこにも人の群れ。騒ぎを嗅ぎつけた者たちが、遅れがちにも駆けつけつつあるらしい。

人と人の間を縫うようにして配膳台を押す。


ようやくのことで人混みを抜け出すと、全身全霊をもって通路を駆け抜けた。

配膳台のローラーがキリキリとヒステリックな音を響かせ、憂理たちよりも早く通路を先行してゆく。


――なんだってんだ!


今、自らの置かれている状況にまるで現実感がない。覚めやらぬ夢の中にいるような不快な浮遊感。――それも、飛びっきりの悪夢の中。

昨日? 一昨日?

それとも、もっと前か。


憂理は自分の『日常』がどこで終わったのか思いだせずにいた。自分は、こんなちょっとした事で人が死ぬような世界に、日常に生きてはいなかった。

むしろ、人の死などというものはニュースやドラマの中だけに存在する概念のような気さえしていた。


だが、痩せ女は死に、カガミも死に、いまは目の前で学長が生死の境をさまよっている。もし学長がこのまま死んでしまえば、あの『日常』が二度と戻って来ないような恐怖感があった。


面倒な授業。旨くもない食事。

笑いに満ちた娯楽室。風呂場の喧騒に洗濯室での悪だくみ。

退屈に感じていた何気ない日常が、いまでは遠く、帰らざる過去に思えてならない。


配膳台が滑るようにして進む通路。通り過ぎる教室。いつも眺めていた風景が無機質に後方へと流れてゆく。

取りすがるように配膳台を押す憂理の体力や精神力は限界に近づいていた。

いつから眠っていないのかすら思い出せない。


「医務室だよ!」


遼が叫んだ。

そして素早く配膳台から離れると、医務室の入り口へ駆け寄り、引き戸を開いた。「はやく!」


憂理が押し、ジンロクが押し、タカユキが押す。入り口をくぐってすぐに、憂理は叫んだ。


「エイミ! 学長がやられた! 何とかしないと死んじまう!」


あまりの大声。エイミは雷に打たれたかのように机に伏せていた上半身をビクリとさせた。そして反射的に憂理を見やると、怯えたようにいう。


「やられ……た? また……深川センセーに?」


「違う! やったのは半村だ! カガミも死んだ! 殺されたんだ!」


「……死んだ!? カガミが!? なんで」


憂理とエイミの問答をよそに、ジンロクと遼が配膳台を押し、空いているベッドに横付けさせた。


「とにかく! 学長、頭をバットで殴られたんだ! なんとかしてくれ!」


一瞬、エイミは呆気にとられたような表情をみせ、口をパクパクさせた。

なんとかしてくれ、などと言われても、医療の心得があるわけでもないエイミがなんとかできる道理がない。

しかし、彼女が呆けたのはほんの一瞬だけだった。

エイミの眼が鋭く光り、何かしらの底知れぬ活力に満ちた。


「まかせて!」


飛び跳ねるようにして椅子から立ち上がり、配膳台へ駆け寄る。入り口ではタカユキがそっと引き戸を閉めた。


「はやくベッドに移しなさいよ!」


憂理と遼、ジンロクとエイミで学長を横から転がすようにしてベッドへ移した。


「氷!」


エイミが叫ぶと、遼が返事もせずに医務室の奥へ向かう。


「ユーリは包帯!」


もはやエイミの独壇場だ。しかし包帯がどこにあるかわからない。まごついた憂理に怒声が浴びせられる。


「なんでもいいの! 氷袋を固定できれば!」


次から次へと指示が飛び、そのたびに男たちが右へ左へ走り回った。

「誰も!」エイミが氷を入れた袋を結びながら叫んだ。「誰も死なせない! アタシに無断で死ぬなんて、許さないッ!」


隣のベッドで寝かされている翔吾が飛び起きるんじゃないかと思うほどの大声だ。

翔吾に言っているのか、学長に言っているのかはわからない。


「アタシはね! エイミちゃんよ! 誰よりもワガママに育ったの! アタシ以上の好き勝手は許さない! 勝手に死ぬな!」



  *  *  *


不格好ではあるが、学長の頭部には氷袋が固定され、救命処置は一段落した。

男たちを手足のように使ったワガママ女医は、氷袋の位置を変えたり、翔吾の様子をうかがったりと精力的に動き回っている。


「学長……助かるかな?」


遼がポツリと言った。


「助ける、の!」


憂理が通訳ならば『弱音を吐くならぶん殴るわよ』と訳すところである。

しかし、その意訳はこの場に居合わせる者たち全てがすでに解しているに違いなく、憂理は何も言わずに空きベッドに腰を下ろした。限度を超えた疲労に、生ぬるい汗が滲み出ている。

ジンロクはベッドの脇から学長を見下ろし、口をへの字に曲げては腕を組んだ。


「まぁ、やれるだけはやった。……けどなぁ」


「ケド、なによ?」


「このままじゃあ、ベッドが足りなくなるわな。半村があれじゃあな」


「ねぇユーリ。あんたさっき『カガミが殺された』って……」


「ああ」


床にうつ伏せになったカガミ。放射線状に広がった血。脳裡に蘇った映像が、憂理の言葉を少なくした。憂理が返事だけで黙り込むと、エイミは遼やジンロクへ視線を配り、説明を求めた。


――聞きたくもない。


憂理はベッドに体を投げ出し、目から額にかけてを手で覆う。眼球の奥に疲労を感じ、ぼやけた始めた意識が思考にモヤをかける。

ポツリポツリと食堂での出来事を語る遼の言葉。

その一つ一つを憂理は噛み砕いて聞いていた。


聞けば聞くほど半村の異常さが再確認され、それ以上に暴君に投降した者たちの醜さばかりが際立つ。


「ホントに……。カガミ……死んだの?」


エイミが確認するが、説明を引き受けていた遼は黙り込んだ。

遼だけではなく、ジンロクは腕を組んだまま床に視線を落とし、タカユキはフロートドアに背中を預けたまま全員に視線を配っているだけで言葉を発しようとはしない。

その沈黙が何よりの答えだった。


「ご飯も……半村の『奴隷』にならなきゃ許可されない……のね?」


「ああ」


「……ユーリはどうするの?」


突然の質問だ。憂理は顔を覆った手の下で目を見開いた。


「どうする……って?」


「あんた、従わないんでしょ?」


どうだろうな、と憂理は曖昧に濁しておきたい気分だ。唸っただけの憂理をパスして、エイミの質問は他に振られた。


「遼は?」


「僕は……暴力は嫌いだ。あんな奴には従いたくないよ」


「ロクは?」


「俺には弟妹がいる。あいつらはまだ小さいし、飯は食わせてやりたい。だから……方法がなけりゃ……従うしかないな」


「フルヤくんは?」


名字で呼ぶのか、と憂理は意外に思った。タカユキと呼ぶのが当たり前だと思っていたが、接点の少ない者同士なら当然なのかも知れない。


「僕は……」


答えるタカユキの声が近い。ハッとして憂理が覆った手を除けると、いつの間にかタカユキが憂理の寝ているベッドに腰を下ろしていた。「好きにやらせてもらうよ」


「『好きに』ってアンタ。好きにできるワケないじゃない。ご飯も食べられないし、お風呂も入れないんでしょ?」


「人間は、魚じゃない。水に浸からなくても死にはしないし、腹が減ったなら自分の指や手足を齧るさ」


エイミが返答に窮しているのがわかる。タカユキの毒にあてられたのは初体験だと見える。表現は違えど、憂理もタカユキと同じような所感であった。

地下があるのだ。


地下に食糧の備蓄があるのは確認しており、ノボルの言が正しく半村が地下からやってきたのなら、少なくともシャワー室ぐらいはあろう。

それに、ますます強くなる脱走の必要性が、『今後』に対しての危機感を薄めていた。すぐに会話の矛先を変え、エイミが遼とジンロクに質問を続ける。


「さっきユキエって言ったけど……。ユキエってあの……イジメられてた……」


エイミの言葉の半分も憂理の耳には届かなくなっている。強烈な睡魔に意識が朦朧とし、全身の感覚が鈍い。

憂理が半醒半睡のまま周囲を見回すと、じっと見つめてくるタカユキと目が合った。

そのまま視線を逸らすのも気が引けて、憂理は寝言のようにつぶやいた。


「さっき……なんで助けた?」


「さっき?」


「お前、半村にコップ投げた」


「ああ」


思わせぶりに笑い、タカユキは唇を動かした。


「ユーリが大好きだから、だよ」


――コイツは、一筋縄ではいかない奴だ。

憂理はため息を一つして寝返りをうち、タカユキに背を向けた。


「ありがとうよ。俺もお前が大好きだよ」


「知ってるさユーリ。そんなことは」


背中にぶつかるタカユキの声。表情を見ずとも、タカユキが微笑しているのがわかる。食えない奴。返事もせずに憂理はただ目を閉じた。


ベッドの柔らかさに体が溶けてゆくようだ。雲の上で眠ると……きっとこんな感じに違いない。




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