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13月の解放区  作者: まつかく
3章 夜明けなき朝に
22/125

3-2 覚悟無き死


クスクスとにじむ笑い。立ち尽くす菜瑠に指を指している者もいる。入浴の権利を得ただけで優越感が生まれたのか。

憂理は酷い胸焼けを覚えた。


見てはならぬ物を見せられたような気がする。憂理にとって、菜瑠はいつも敵だった。憂理たちの行動をいつも邪魔した敵だ。

その敵が妬まれ、冷笑されている。

――なのに。


憂理は気分が良いどころか、反吐が出そうな不快感を覚えていた。敵の敵は味方。それは間違った真理のように思える。敵の敵は、許しがたい敵なんじゃないか。

憂理が覚えているかぎり、菜瑠はほとんどの場合において正しかった。

正しいがゆえに反論、反駁できず、それが苦手意識に繋がっていた。

しかし、菜瑠の背中に舌を出すことはあっても、彼女を蔑むことは無かった。


――コレは、なんだ?


臭うのは菜瑠ではない。菜瑠を笑う女子たちから立ち込める精神の腐臭だ。

今、この場所でひとつぎの呼吸もしたくはない。


「聞いたか」半村は大げさに両手を開いては周囲にアピールした。「みんなの前でカッコつけたいなら、風呂ぐらい入るべきだよなぁッ! 臭うってよ、ナルちゃん! ああ!?」


これ以上、見ていられない。いたたまれない気持ちに憂理は声を張った。


「やめろ!」


思っていたより大声になってしまい、周囲よりも憂理本人が驚いた。菜瑠に集中していた視線が全て憂理に矛先を変える。

自らが招いたとはいえ、突発的なピンチだ。

尋常ではない焦りが脳の奥を白く焼き、息が気道でわだかまっている。

――な、何か、言わないと!


「臭うのはッ!」憂理は叫んだ。「臭うのはッ、ナル子じゃない! ケン……」


ケンタだ、と言おうとした瞬間、憂理は小太りの少年の不在を思い出した。


思えば、こういう場合にケンタでオトすのが癖になっている。彼で落とせば場の雰囲気は和やかになり、だいたいの事が丸く収まるのだ。

その存在の大きさ、代えの効かないキャラクターである事にケンタの不在で初めて気がつかされる。

しかし、今はソレどころではない。


突き刺さってくる視線が、憂理の二の句を待っているのだ。 焦り、慌てて、憂理は叫んだ。


「臭うのは、俺だ!」


空気の張り詰めていた空間に、憂理の澄んだ声がスッと通っていった。なにか、とんでもない失敗をしたような気がする。

唖然とした目、嫌悪感を滲ませた目、憐れむような目。どの目も憂理を見つめていた。

水を打ったように静まり返った食堂内。立つ瀬なき静寂。


『静寂には聞くべき価値がある』と何処かの音楽家が言っていたが、憂理はこの静寂から生まれる何物も聞きたくはなかった。


「は……は、ははッ」半村が笑った。「ははッ。こりゃあ予想外だ! 彼氏も臭うのか! こりゃあケッサクだ」


半村が腹を抱えて笑い出した。高らかな笑い声が食堂の壁に反響し、やがてその笑いは隷属する女子たちにも伝染する。

ある女子など、憂理と菜瑠を指して「お似合いですよね」と半村の機嫌取りまで始める始末だ。


一方的な誹謗中傷。

それは客観的事実も、証拠に基づいた誠実も必要としない。ただひたすらにセンセーショナルで、より深く人を傷つけられれば目的は果たされる。

そうして祝われざる悪感情と優越感の癒着は、負の大衆心理を生む。


まるで、言われ無き非難こそが正しく、菜瑠も憂理も非難されて当然の人格であるような錯覚を生むのだ。弁明も弁解も更なる非難の燃料に過ぎず、もがけばもがくほど蟻地獄の底へと滑落する。


「私はッ!」菜瑠が叫んだ。「私はッ!」


しかし開いた口はそれ以上の言葉を生み出さない。彼女の薄い唇がわなわなと震えたが、二の句を継げぬまま閉じられた。

悔しさ、怒り、悲しみ。あるいはその全部か。菜瑠の感情が目尻に滲むのを憂理は見た。

そして、青ざめた白面を両手で覆い、菜瑠は食堂の出口へ駆けて行った。満足げにな半村の唇がニィと三日月を作り、言葉を漏らした。


「彼氏くん、行ってやんなよ。行って悪臭カップルらしく、『クサい』慰めの言葉でもかけてやんな」


悪趣味が形をなすと、半村になるに違いない。隷属の女子たちがケラケラと笑い、半村に似た言葉を投げかけてきた。


「ユーリくん。ここ食堂だよ? クサいから出てってよ。食欲が失せちゃう」


一瞬で全身の血が燃え上がり、激情が憂理の拳を固くした。


「なんだとッ!」


一歩踏み出した憂理に、「きゃあ」だの「怖ぁい」だのの冷笑じみた台詞が浴びせかけられる。彼女たちはスッと身を引き、半村の後方に移動したが、茶化す言葉は収まるどころか苛烈を極めた。


「お前らッ!」


憂理が怒りに任せて怒鳴ると、隷属の彼女たちを庇うように半村が前へ出た。


「おいおい。サルの分際で俺の奴隷ベイビーたちを威嚇すんじゃねぇよ。それに、ずいぶん腹を立ててるみたいだが、全部事実じゃないか」


――事実なものか!

一瞬で怒りは沸点に達し、憂理は体を傾けた。

強く、石のように拳を固め、床面を蹴るようにして半村に殴りかかった。

ニヤケた唇に一発、ただ一発だけでいい。


しかし、固めた拳はインパクトの寸前でかわされ虚しく宙を進んだ。半村はかわした動作から素早く、ガラ空きになった憂理の腹に膝を突き刺した。


内臓のすべてが破裂したような痛み。時が限りなく緩慢に流れ、追加で飛んでくる大きな拳がスローに見える。

しかしスローに見えはするが、それだけだ。かわす動作はとても間に合わない。


重量級の一撃によって、憂理は跳ね飛ばされ、椅子やテーブルに埋もれた。世界が歪んだかのように回転し、遅れて痛みがやってくる。


「彼氏! 弱ぇな!」


半村と隷属たちの笑いがうずくまる憂理に降り注いだ。『弱い』だの『ダサい』だの『クサイ』だの好き勝手に言ってくれる。

痛みに耐えながら起き上がろうとすると、聞き覚えのある声が憂理のそばで囁かれた。


「大丈夫か、ユーリ。アレはやめとけ、喧嘩慣れしてる」


ぐいと無理やりに引き起こされ、近くの椅子にそのまま座らされる。

ジンロクだ。


「やるだけ無駄だ」


椅子にもたれかかり、傷を検分され……まるで、ラウンド間のボクサーになった気分だ。もっともこんな試合は投げ出したいが。


「他は!」半村がこれみよがしに大声を出した。「他に、挑戦する奴はいないか! もしくは奴隷希望の奴は!?」


数人の男女が申し訳なさそうに手を上げ、奴隷の列に加わった。集まった者たち全体が半村を肯定したような空気になっている。『奴隷』の列に加わった者は今や20を超えている。


「ちょっと、いいかな」


見ればタカユキがいつの間にやら食堂内の椅子に腰をかけていた。緊張した雰囲気を楽しむかのように微笑し、ゆるりと挙手している。


「ちょっと、いいかな」


堕落のキリストがもう一度言うと、半村は怪訝な表情でアゴを動かした。返事をするのも面倒な様子だ。


「アナタは独裁者になりたいのか?」


意表を突かれたのか、半村は怪訝な表情をより一層険しくする。


「独裁者だと?」


「そう。アナタは独裁者になりたいのか?」


「そうだと言ったら?」


「アナタが計画的に事を運べる人物なら、それは正解だと思うよ。でもアナタがただの悪党――力任せで人の上に立とうと思っているなら、愚かだ」


『愚か』などという言葉は久々に聞いた。タカユキが何を言わんとしているのか憂理には良くわからない。


「はぁ? アホか? お前は」


半村の反応は正しい。顔をしかめ、鼻の頭を指先で掻いている。正しい反応だと憂理は思う。しかし、タカユキは微笑をたたえたまま、さらに言葉を続けた。


「アナタは力で強引に状況を変えているだけだ。力によって得た物は、また力によって奪われる。人を征服するのは力ではなく、心でなければならない」


周囲の反応をモノともせず、タカユキは椅子から立ち上がった。優雅な動作に彼の髪が揺れ、どこか神々しい。

そうして堕落の聖職者は半村の前へ立つと、その鼻先に人差し指をさした。


「予言するよ。アナタは残酷な死を迎えるだろう。力によって得た物は、また力によって灰になり、アナタは自分の愚かさを呪いながら、死ぬ。人心を軽んじた報いだ。愚かな獣を……真実の眼は許さない」


――アホなのか。


憂理だってそう思う。

いささかに演技がかった言葉。自分の理解力に問題があるのか、タカユキが何を言わんとしているのか判然としない。


「俺が死ぬ? ああ、そうだろうよ。人はいつか死ぬもんだ。けどなッ!」


刹那、半村が半身をそらして拳を振り上げた。高い位置から固い拳がタカユキを目指した。空気が大きく動き、時間がゆっくりと流れる。


一瞬の出来事であったが、憂理は見た。

タカユキが一切、回避の仕草を見せず、ただ涼しい目で飛んでくる拳を見つめていたのを。そして直撃。

タカユキの長い髪が狂ったように宙を舞い、もてあまされた圧倒的な力が聖職者の体を大きく吹き飛ばした。


「チカラがなんだって? ああ? お前はチカラを嫌うようだがな、こうやって気にくわない奴を痛めつけるには重宝するんだよ」


憂理と同様に倒れた椅子にまみれたタカユキは、ゆっくりと半身を起こした。

さすがに痛むと見えて、涼しげだった眼が細められている。口の中を切ったのだろう。口角には血が滲んでいた。


「無理だっていうのに……」


憂理のそばでジンロクがつぶやいた。困ったようにヤレヤレと吐き捨て、ジンロクがタカユキに走り寄った。きっと、憂理にかけたのと同じような言葉が繰り返されるのだろう。


「半村ッ!」


忙しいことに、入り口の人混みを割って現れたのは、カガミだ。敵意むき出しの二つの瞳が暴虐の独裁者を見つめている。


「チカラが全てなら、俺がお前をぶっ殺してやるよ! そしたら俺がトップだろ!」


その手には金属バットが握られている。運動室から引っ張り出してきたのか。素手ではかなわないと考えたのだろうが、賢明な判断である。

しかし半村は怯む素振りを一切見せず、嫌みったらしく笑う。


「サルが道具を覚えたか。いいねぇ。早く火の使い方を覚えられると良いなぁ。――おい、そこのロン毛。よく見てろよ、『力』ってのの正しい使い方をよ。ここにあって、俺の力はタダのチカラじゃない。『圧倒的な』チカラだ」


自分をなかば無視して、タカユキに話しかけた半村にカガミは酷く逆上した。カガミのプライドがゆくべき場所を失って、バットを床に強打させる。


「よくもッ……! 教室で不意打ちみたいに殴りやがってッ! なにが力だ! ガチなら負けねぇ!」


「じゃあ、ガチだ。こいよ」


半村が両手を開いて挑発するようにヒラヒラさせる。地面を蹴ったカガミが、飛ぶようにして半村へと駆け寄った。

上段に構えた金属バットが鈍く光り、その破壊力をほのめかせる。

初撃。

大上段から繰り出されたカガミの一撃は、空気を切るにとどまった。


身軽にかわした半村に余裕が感じられる。単純な腕力だけではない、しなやかな素早さも持ち合わせている。カガミは汚い言葉を叫んで、もう一度横なぎにバットを振るった。

その横なぎは正解だ。

油断した半村の上腕をとらえた。鈍い音とともに半村がよろめき、一撃の重みを周囲に伝える。


――いける!


憂理と同じ事をカガミも考えたのか、よろめいた半村に向かって再び上段にバットを構えた。頭部、いや上半身のどこかに一撃を加えれば、勝利は決定的になる。


だが、間違いだった。

その攻撃には慎重さを欠いたと言わざるを得ない。そして、先の一撃によって闘争心を煽られた半村は、カガミ以上に感情的になっていた。

大ざっぱな上段からの振り下ろしを、身をよじってかわすと、床を強打したバットを半村が素早く上から踏みつけた。


急に加えられた上からの圧力に耐えきれず、カガミの手がバットから離れ、頼みの綱が床を転がってゆく。


「ガキ……」


唯一の武器を失ったカガミは、ほとんど戦意を喪失したように見えた。

半村は怒りに顔を紅潮させ、歯は剥き出しに、眉間にはシワ。出来の悪い般若面のようになっている。

「ガキ……」


半村が確かめるように、もう一度言った。刹那、近接したゼロ距離から拳が放たれた。かわす動作は間に合わず、カガミは弾丸のような拳の洗礼を受ける。

斜め下からアッパー気味に放たれた拳が下あごを貫き、遅れてカガミが床に倒れる。


当たり所が悪かったのか、倒れたカガミはかすかな痙攣を見せている。一方の半村も無傷ではない。一撃を受けた左上腕を右手でさすり、歯を剥き出しにしている。

そこから自然な動作で前のめりになると、半村はゆったりと金属バットを拾い上げた。


左手をだらりと垂らし、痙攣するカガミに緩慢な動作で歩み寄る。


『ヤバさ』それを憂理は感じた。全身を巡る血液が液体窒素であってもこうは凍えまい。肌という肌が産毛立ち、背筋が冷たい。

床にうつぶせで倒れるカガミは、自分の置かれている状況に気がついていないに違いない。


気絶しているのかどうか、憂理には分からないが、いくらプライドの高いカガミであっても今の状況に気がつけば、土下座して詫びる事だろう。

しかし、彼はかすかな痙攣を見せるばかりで、土下座はおろか、逃げ出そうともしない。


「カガミ!」


叫んだ瞬間、憂理は口内に痛みを感じた。切れた場所から血の味がする。痛みをおして憂理はもう一度叫んだ。「カガミッ!」

しかしカガミは動かない。


半村が片手で大きくバットを振りかぶった。狙いを定めるかのように、暴君の眼が血走り、荒い呼吸に合わせてバットが右へ左へ。

そして、一番高い位置から独裁者のバットは振り下ろされた。ヒュッと空気が切れた音。

直後の鈍い音。

カガミの頭を中心として、パッと、床面に紅い華が咲いた。男も女も、悲鳴を上げた。


憂理は声も出なかった。

遼は曇った眼鏡の奥で眼を見開いていた。ジンロクはぽかんと口を開けて、タカユキはただ眼を細めた。


施設生活者児童70名が、69名になった瞬間だった。





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