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13月の解放区  作者: まつかく
3章 夜明けなき朝に
21/125

3-1 変化の朝

挿絵(By みてみん)

到着した菜瑠がカーテンの向こうに消えると、憂理や遼は気をもんで医務室内をウロウロした。エイミは事務机に伏せて震えるばかりだ。

その中にあってジンロクだけは落ち着いた様子で漫然と腕を組み、ただ憂理たちを眺めている。


「ユーリよ。あの女は誰だ? なにがあった?」


どこから説明すべきか見当もつかない。ここまでに起こった様々な出来事が今回の事件の起因であるのは明白であるが……。

カーテンの向こうには学長がいる。

地下での一連の出来事、そのほとんどに学長の関与が疑われる。少なくとも憂理はそう考えていたし、なかば確信があった。

その学長の耳に届く場所で事の次第を説明するのは自殺行為にも思えた。


「あとで……説明するよ。今は……翔吾のことで頭がいっぱいだ」


嘘ではない。

ジンロクは「そうか」とだけ返し、また無言で三人を見つめた。

カーテンをくぐって菜瑠が現れ、そそくさと洗面器に水を汲んだり医療品を探したりして、またカーテンの向こうに消える。

おそらく、いや間違いなく今回の件に関して学長に説明を迫られる。どう答えればよいか。


濃密な時間のなかで憂理が様々な考えを巡らせていると、やがてカーテンの隙間を学長がすり抜けてきた。

菜瑠もその後に続いてきたところを見ると、治療は終了したらしい。


「何があったんだね?」


学長がジンロクに向かって尋ねた。翔吾を医務室へ運び込み、学長を呼んだのはジンロクである。だが当の本人は事態のほとんどを把握していない。

答えないジンロクに学長は言葉を重ねた。


「酷い状態だ。ケンカにしてはやり過ぎだ。死ななかったのが不幸中の幸いだが」


憂理は一歩踏み出し、頭一つ高い学長を見上げた。


「深川先生がやりました」


学長の眼に、ジンロクの眼に、菜瑠の眼に光が宿った。学長の目には懸念の色があり、ジンロクには驚きの色。菜瑠には疑念の色があった。

確かめるように学長が憂理に訊く。


「深川先生が?」


「はい。深川先生です。間違いありません」


憂理は毅然として答えた。

責任転嫁かも知れないが、学長にも責任の一端はあるように思える。翔吾を治療してくれた恩はあるが、あえて憂理は攻めることにした。


「わからないんです。どうして翔吾は深川先生に襲われなきゃいけなかったんですか? 翔吾は何か悪いことしたんですか? あの人……普通の状態じゃなかった」


学長は眼を伏せて、首を引いた。答えに窮している。当然だ。

今しがた地下で起こった出来事を学長が把握しているハズがない。憂理は白々しく質問を重ねる。


「深川先生は体調不良で寝込んでるんですよね? いま何処にいるんですか?」


「自室にいるとは思うが……。本当に深川先生がやったと言うのか?」


遼も一歩踏み出した。


「僕も見ました。深川先生、鉄パイプを振り回して、大声で笑って……」


エイミも机に伏せたままくぐもった声で証言する。


「笑い声……私たち女子のベッドルームにも聞こえた……。凄い楽しそうに笑って……ね、菜瑠?」


「……うん。深川先生の声かはわからないけど」


菜瑠も笑い声を認めはするが、流されて『深川だった』とは断定しない。


「あー」ジンロクは天井を見つめた。「言われてみれば、深川先生か。身長も大人言われれば確かにそうか。普通じゃなかったよように見えたな、あれは」


証言が出揃うと、学長は唇をへの字に曲げて静かに息を吐いた。


「学長先生」憂理はゆっくりと冷静に言葉を選んだ。「翔吾は俺のダチです。ダチをあんな風にされて黙ってられない。深川先生と話をつけたい。警察にも……通報したい」


これはハッタリの類であった。次に深川と会うときは、殺される時か、殺すときのような気がしてならない。

ゆえに狙って会いたくはないし、会うつもりもなかった。

ただ、学長がどう反応するのか、それを知りたかった。


「深川先生は療養中だ。私が……話をする。杜倉くんの気持ちもわかるが、いまは抑えなさい。深川先生から話を訊いてから、しかるべき処置をとる」


想定内の返答だ。深川の所在を明らかにせず、警察という単語は濁した。

憂理としても我ながら性格が悪いなと思わぬでもないが、学長の立ち位置がわからない以上、探り合いは仕方がない。敵か味方かと二元化するなら、学長はおそらく敵であろう。


「私は深川先生の所へ行ってくる。路乃後くん、七井くんを頼む」


頼まれた菜瑠はコクリと素直に頷いた。

それを確認すると学長は踵を返してドアへ向かい、フロートの引き戸を半分ほど開くと動きを止めた。そして振り向かないまま言う。


「杜倉くん……。確かに、深川先生だったんだね?」


「間違いありません」


憂理がハッキリ断ずると、学長は「そうか」とだけ残して通路へ消えた。

引き戸がゆっくりと閉まってゆく様を全員が見守り、やがて閉まりきってからも視線は固定されていた。気まずいような、やるせないような奇妙な空気が漂い、誰もが誰かの言葉を待っているようだった。


「深川がなぁ」


ジンロクが呟く。「女は怖いって言うが、こういう事なのかな。俺も気をつけよう」

どこかズレたような納得をしているジンロク。一方の菜瑠は疑いの目で憂理を見つめてくる。


例のメデューサの眼だ。魂を石にするような澄んだ瞳が憂理を見て、遼を見て、最後にエイミを見た。


「エイミ……」


先ほどから事務机に伏せたまま、顔も上げないエイミ。明るさだの溌剌さだのは微塵にも感じられない。菜瑠がそっとエイミに歩み寄ると、机に伏せたままでエイミが呟いた。


「アタシのせい……だよね」


事態を飲み込めない菜瑠は訝しそうに首をかしげ、同じくジンロクも片眉をあげた。


「ねぇ……ユーリ。アタシのせいだよね?」


「違う」


『そうだ』と言って何が変わるわけでもない。だいいち、憂理は自分の判断ミスが一番の原因だと考えていた。しかし、エイミは泣き出しそうな声のまま言う。


「違わないよ。私が地下エレベーター前で名前呼んだから……。あたし、呼んでから……ハッとして……」


「地下って、どういう事」


高い位置で腕を組んだ菜瑠の視線が、切れ味鋭く憂理や遼に突き刺さる。


「ユーリ……菜瑠に言って。危ないよここ、普通じゃないよ……」


ほとんど懇願に近いエイミの声に、憂理はうつむき、迷いながらもなるべく冷静に言葉を始めた。

地下の探索。

痩せ女の発見とその死。

脱走の画策と実行。

豹変した深川による暴力。


その全てが正確かどうかはわからない。だが憂理は自身の眼で見た事実を伝えた。

唖然としたジンロクは言う。


「そりゃ、ホントか?」


疑いの目ではない、ジンロクが疑ったのは自らの耳であろう。憂理と遼が頷いて、エイミが伏せたまま応えた。


「全部ホントよ。ここ……普通じゃない」


「なんで」菜瑠が腕を組んで憂理に向き直った。「なんで深川先生が暴力を?」


「あたしが! あたしが地下で名前を呼んだから!」


「違うって言ってんだろ!」


反射的にあげた憂理の怒鳴り声にエイミは黙り込んだ。


気まずい空気というのは何処から湧き出すのか。

目に見えるようで見えないそれは、瞬く間に部屋中を満たし、眼からは光を、胸からは落ち着きを、口からは言葉を失わせる。

沈黙。


まるでその沈黙が、エイミの責任を肯定しているように思え、憂理はゆっくり頭を振った。

「……違う」


エイミの耳には届いたが、心までは届かないだろうな、と憂理は思う。

きっと自分がエイミの立場でも同じように考え、同じように感じるはずだ。

たしかにエイミの呼び声が起因であるかも知れない。しかし、このような結果を招いたのは自らの甘い考えからだ。


立ち込めたままの気まずい空気に、ジンロクは頭を掻き、菜瑠は腕を組み直し、遼は眼鏡を外して言葉を始めた。


「えっと補足って言うのかな。さっき憂理が説明した『死んだ痩せ女』が……どうも深川先生の娘らしいんだ」


指先でカチャカチャと遊ばせる眼鏡に視線を落とし、ゆっくり言葉を選ぶ遼はどこか駆け出し学者のような風情を感じさせる。


「ロクもナル子も『なんで娘を地下に置いていた?』って思ったろ? 僕だってそうさ。なんであんな環境に……ほとんど監禁のような形で……」


「ん、なんでだ?」


率直なジンロクが素直に尋ねるが、遼は眼を伏せたまま左右に頭を振る。


「わからないよ。わかってるのは、あの子が監禁されて、殺されたってこと」


今度は菜瑠が尋ねた。


「……誰に?」


「僕たち以外の誰か……」


「信じられない」


菜瑠が冷たく言い放った。だろうな。と憂理などは思う。

憂理に翔吾、ケンタ。目の敵にしていたその三人をすんなり受け入れる菜瑠ではないだろう。

しかし菜瑠に切り捨てられる事に慣れていない遼は面食らった様子だ。


「で……でも事実だよ?」


「その痩せた女が深川先生の娘というのも事実?」


「それは推測だけど……」


情けない顔をして、駆け出し学者が憂理に視線を送った。憂理は目を閉じ、大きく一つ深呼吸をして、呟いた。


「ロクは? お前も信じられないか?」


「どうだかなぁ。ユーリはイイ奴と言うほどイイ奴じゃあないが、俺の知る限り決して悪い奴じゃあないし、リョーは頭の良い素直な奴だ。深川がキレたのも事実だし、ショーゴがヤられたのも事実……なわけだ」


本来、脳内で発すべき言語をそのまま口頭にする。俺は悪い奴じゃなくて、遼は素直な奴だけど、ロクは不器用な奴だ。と憂理は思う。


「うーん。信じるよ、俺は。なんか良くわからんが、良くわからんまま信じるよ」


不器用だがイイ奴だと思う。

救われた気分で憂理が菜瑠を見やるが、ボブヘアーの少女は厳しい視線を返してくる。

私は騙されないわ。とでも言いたげだ。必ずしも信じてもらう必要はないが……。


「菜瑠……。アタシも……見たんだよ? ユーリたちの言うこと全部ホントだよ?」


菜瑠は一瞬口を開きかけ、何かを言おうとした。しかし言葉はない。唇から漏れそうになった何かを胸に押し込み、華奢な白首を小さく左右に振るにとどまった。


「エイミを疑うワケじゃない……ケド」


なんとも不平等な事である。憂理や遼をバッサリと切り捨てたものの、仲の良いエイミには厳しい言葉はかけがたいのか。

しかし、にわかには信じがたいという菜瑠の気持ちも理解できる。


「信じたくないならソレでいいよ」


あえて冷たく憂理が言い放つと、菜瑠は眉間にシワを寄せた。鋭い視線が憂理を突き刺し、居心地を悪くする。ほとんど非難のまなざしであったそれは、やがて床に向けられた。


「学長は……いい人だわ」


「表向きは、な」


「違う」


「違わない」


「違う!」


これ以上話し合ってなんになろう。憂理がうんざりとしてため息を吐くと、ジンロクが鷹揚に頭をかき、腕を組んだ。同じ人間が、同じように腕を組むのに、なぜ菜瑠とロクでこれほど印象が違うのか。


「まぁ、俺はユーリの言う事を信じる事にした。ナル子は信じない。今のところはソレでイイじゃないか」


納得いかない様子の菜瑠は、くるりと踵を返すと空いているベッドに腰をおろした。

そこからはジンロクによる質問の時間だ。

地下での出来事をひとつ、またひとつと質問し、憂理と遼が身振り手振りを踏まえて説明し、時にはエイミが補足する、納得するとジンロクが噛み砕くようにつぶやいて頷く。


「なるほどなぁ」


何度目かのその言葉が引き出された瞬間、ぴったりと閉まっていたフロートタイプの引き戸が開いた。

憂理が開いた隙間に視線を向けると、小さな隙間から幼稚園児にも見える児童が顔をのぞかせ、大きな目をくりくり動かして部屋内を窺ってきていた。

幼く、性別が分かりがたいが、どうも少年らしい。


「にいちゃん」


やがて上がったその声に、ジンロクが引き戸へ振り向いた。


「ああ、ナオ」


「にいちゃん。なんでこんなトコにいるの? 病気か」


ジンロクは人差し指で頬を掻いて、「友達がな」とだけ言った。


「大丈夫なの?」


「きっとな」


「もう朝だよ」


「そうだな。飯の時間だな。兄ちゃんは後で行くから、お前は、ユキと一緒に食堂へ行っときな」


大きく歳の差のある兄弟だな、などと考えながら憂理はそのやりとりを見つめていた。


「でも、にいちゃん。今日はご飯ないって」


「ん? なんだそれ。誰がそんな事言った?」


「みんな言ってる。新しい先生がご飯はないって」


「新しい先生?」


ジンロクが憂理たちへと顔を向け直すが、その眉は片方だけ上がっている。説明を求められても困るところではあるが、憂理にはすぐに連想できる人物がいた。


「ハンムラ……だろ」


優しくジンロクの弟に尋ねかける。小ジンロクはじっと憂理を見つめ、「知らない。新しい先生」


遼が小さくため息をつき、かすかに首を振る。


「ハンムラだろう、ね」


ジンロクはまた頬を人差し指で掻いて、小首をかしげた。まったく状況が掴めない様子だ。


「なんで飯がないんだ? お前、なんか怒られるような事やったか?」


しかし弟はブンブンと首を振るばかり。


「みんな、だよ。みんなご飯なしなんだ」


嫌な予感とでも言うべき不快感が憂理の胸を焼いた。

どうやらただ事ではなさそうだ。半村という人物の底は知れないが、少なくとも彼が関与しているなら『良い』状況にはなり得ない。

悪い事は重なると言うが、ネガティブな事象というものは次の負への呼び水となるものに違いない。


ジンロクは頭をガシガシとかき回し、鼻をスンと鳴らしてから言った。


「なんだか、よくわからんが……。飯抜きは困るか」


いささか危機感に欠ける反応ではあるが、ジンロクなりに危機感はあるのかも知れない。すると突如として半開きの引き戸から新しい顔が現れた。

低い位置にあるナオの顔の上に、女の顔。

見たことはある。だが名を知らぬ顔。

彼女は酷く不安そうに眉を寄せ、唇を尖らせては叫んだ。


「ナル、エイミ! こんなトコでなにしてんの!」


呼ばれたエイミはピクリと反応したが返事はしない。一方の菜瑠はポカンと唇を開き、反応した。


「加奈……。どうしたの?」


「半村が生活委員を探してるよ! ガクもアンタも居ないから、関係ない人が殴られてる!」


「殴られ……てる?」


状況がまるで掴めない様子の菜瑠は呆けたままだ。


「あの人、朝ゴハン抜きだとか言い出して、男子が反抗して、いやゴハンの準備してた人たちなんだけど、権利がなんたらで殴られて、生活委員のせいだとか、なんとかで、なんていうかヤバいんだって! カオスってる!」


混乱が口を割って次々に溢れている。菜瑠はスッとベッドから立ち上がり、小走りに出口へと向かった。

しかし、すぐに立ち止まり、翔吾のベッドあるカーテンへ白面を向ける。

促成の看護師ながらも責任感は一人前にあるのか、『七井君を頼む』という学長の一言が彼女の後ろ髪を引くらしい。


「菜瑠……行って。よくわかんないケド、アタシ……翔吾看てるから……」


いつの間にか机に伏せた姿勢から体を起こしていたエイミが力なく言う。その目に光は無く、誰に看病が必要なのかを迷わせる。

菜瑠はじっとエイミを見て、不安げな表情を晴らさないまま出口へと駆け出した。

隙間から覗いていたナオや加奈がスッと通路に身を引き、生まれたてのドアの隙間にボブの少女が消えた。


「まぁ、飯抜きは困るか」


誰に言うでもなく呟いて、のそのそとジンロクも出口へ向かい、ゆっくり閉まりつつある引き戸をくぐった。


「……ユーリ、僕たちは行かなくていいのかな?」


遼も菜瑠に負けず劣らずの不安げな表情になっている。

憂理は額に手を当て、浅く呼吸を繰り返した。いまは半村の暴挙に付き合っている場合ではない。問題は山積しているのだ。

翔吾の容態だけでなく、ケンタの状況も気がかりであり、他のトラブルに首を突っ込んでいる場合では――。

「エイミ」憂理は音もなく閉まったフロートドアを凝視し、エイミを一瞥もせずに呼んだ。

「エイミ、ここ頼むよ」


ほとんど本能的にその言葉が口から出た。

――厄介事に決まっている。

――きっと面倒な事になる。

――だけど……。


奇妙な責任感が憂理の胸の奥で灯った。

実直な菜瑠のこと、きっと半村の不興を買うに決まっている。そうなれば、また躊躇ない暴力が彼女に向けられるに違いない。


「ああ……ナル子。面倒な奴」


すぐ隣にいる遼にすら聞こえない程の声で、憂理はそう呟いた。




 * * *



憂理と遼が駆けつけた時、食堂の入り口には人だかりができていた。

両開きのドアを目一杯に広げ、少年少女が殺到している。


これでは中に入れたものではない。苛立ちが舌打ちとなって音を立て、憂理の眉間に力が入る。しかし、よくよく見てみれば混んでいるのは入り口だけで、食堂内部はすいている。

野次馬たちが度胸なく、遠くから見物しているだけなのだ。


「通してくれ、ちょっと!」


鬼気迫る憂理の表情を見てか、見物人たちはスッと道を空けた。割れた人海を早足で進み、ようやくのことで食堂内へたどり着いた。

壇上の方に10人ほどが列を作っているのが見える。


綺麗に一列、こちらに背を向けて男女混合で整列している。どうやら半村に並ばされているらしい。

ピンと伸ばされた背中が緊張を伝えてくる。

軍隊でもこれほどキチンと整列できないのではないか。憂理はそんな印象を受けた。

彼らが兵隊なら、部隊長は半村。彼らの視線を一身に集める鬼軍曹だ。


「なにやってるの? あれ……」


付いて来た遼が眼鏡の奥でしきりに目を細めている。説明など憂理にできるハズもないが、少なくともただ事ではない。

整列している者の他に、床に倒れている者もいたし、半村に突っかかっている者も……あれは菜瑠だ。


ようやくジャンヌダルクを見つけた憂理は、小走りで騒ぎの渦中へと近づいた。近づくたびに、半村と菜瑠の間で交わされる会話が鮮明となる。


「そんなの! おかしい!」


「お嬢ちゃん。ルールってのはな、必要に応じて作られるモノなんだよ」


「そんなルール、誰も望んでないし、認めないし、許さない」


「俺は望んでる。権力者である俺が望んでる。お前らがどう感じようと関係なく理由はそれで充分なんだよ」


幸い、まだ殴られてはいないようだ。だが、それも時間の問題であろう。憂理が菜瑠の横にスッと立つと、半村が唇を半分だけゆがめて嗤った。


「なんだ、彼氏の登場か。また俺が殴るとでも?」


「だろうと思ってね」


精一杯、気丈に振る舞ってみる。膝のあたりに恐怖が溜まり、かすかな震えが止まらない。半村は憂理の痩せ我慢を見透かしたかのようにニヤニヤ笑い、肩をすくめた。


「お嬢ちゃんはイイなぁ。言いたい事を言って、殴られるのは何もしてない彼氏ってワケだ。こりゃあ社会の縮図かもしれんな」


菜瑠は少し唇を噛んで、より一層の敵意を滲ませては半村を睨んだ。


「彼氏じゃない! 殴りたいなら私を殴ればいい!」


――おいおい、菜瑠、勘弁してくれよ。


一度、本当に殴られた方が菜瑠のためなのかも知れない、などと憂理はついつい思ってしまう。どうにかして加熱した会話をさまそうと、憂理は話の矛先を変えた。


「飯抜きって聞いたんだけど……」


「そうだ。今日から朝飯は抜きだ」


「どうして? みんな腹を空かせてるのに」


「どうしてって、俺がそう決めたからさ。篠田さんが……学長先生ドノが、さっき俺に『しばらく任せる』っておっしゃったんでね。今や俺が最高権力者ってワケだ」


「そんな理由で従えるかよ」


「従う従わない、に興味なんてない。お前ら檻の中のサルは、エサを与えられなきゃ食べられない。全ては飼育員の俺次第ってワケ。それだけの話だ。俺はしっかり頂くがね」


半村の意図するところがまるで分からない。急に食事抜きなど反発を受けて当然ではないか。

すると菜瑠が大声で反論した。


「貴方だってサルなのに?」


――勘弁してくれ。

憂理は一触即発に備え、拳を固く握った。


――なんで挑発するような真似を……。


だが半村はケラケラと笑い、ただ首を振った。


「犬だって、猫だって、人間ばかりの環境で暮らすと自分を人間だと錯覚するって知ってるか? どうやらサルにも同じ事がいえるらしいなぁ」


「私は、サルなんかじゃない! みんな……お腹をすかせてるの、罰則で夕食を抜かれてる人は、二食も抜く事になるの」


言われてみれば、他人事ではない。目下の罰則者の名簿には自分の名が綴られている事を憂理は思い出した。まさか自分を気遣った発言ではないと思うが、なにやら菜瑠に肩を持たれたようでくすぐったい気持ちになる。


「罰則? 二食抜き? そりゃあ酷い罰則だ。反ヒューマニズムだわ。じゃあ、優しく寛容な俺は、制限をつけてやることにする。――ルール。俺に従う……俺の奴隷になった者にはちゃんと朝食を与える」


「そんなの! おかしい!」


堂々巡りというのはこういう事を言うのかも知れない。

この場を収めるにはどうすればいいのか。憂理が考えを巡らせていると、列に並ばされていた一人の女子がか細い声で割って入ってきた。


「それでいい……です。あなたに……従います」


「ユキエ!」


菜瑠に名を呼ばれた少女は、酷く怯えた顔つきで恐る恐るに菜瑠へ視線を返した。喋った事はない。だが顔は知っている。貧弱に痩せた体、気弱さを表明するかのように伏せがちにされた二つの眼。


ユーレイ子だったか、亡霊子だったか。

過去に彼女をからかった記憶が憂理の脳裏をよぎった。


あの時、翔吾たちと即席でつけたあだ名が思い出せない。


――あの時も確か、からかってる途中で菜瑠に見つかって酷く怒られて……。


――ユキエっていうのか。


考えてみれば、本名も知らないのにあだ名をつけてからかったのは、いささかに残酷だった。


「だって。この人に従えば……少なくとも安全なんだし」


「そんな事ない! この人は暴力で無理矢理に……」


「やめてよ……」菜瑠の言葉を遮って、少女ユキエが呟いた。


「押しつけは……やめてよ。従う従わないは人の自由じゃない……。私はこの人に従う! もう殴られるのも、殴られるのを見るのも嫌!」


言葉を失った菜瑠が呆然としている。それを尻目に半村が機嫌良く笑った。


「ははッ。そうだよなぁ。従えば楽だもんなぁ。痛い思いも怖い思いもせずに済むもんなぁ。いや、いいねぇ、実にイイ! こういうのを『賢明な選択』って言うんだよ、菜瑠お嬢ちゃん」


睨み付けてくる菜瑠に余程優越感を感じたのか、半村はほとんど挑発するような態度で、手のひらをヒラヒラさせている。


「いやぁ、イイわ。ユキエくんと言ったか? 君は賢いよ。そして君よりも遙かに賢い俺は、すばらしいアイデアを閃いたわ。今日から朝食と同じように、風呂も許可制にするよ。俺に従う奴だけが入浴できる。これは良いアイデアだ」


震えるユキエに機嫌良く歩み寄ると、半村はその小さな肩に無骨な手のひらを乗せた。


「君は、俺の奴隷。ハンムラ隷属一号だから、当然入浴してイイ。君は『秩序』のなんたるかも知らないサルどもとは違うんだからな」


ユキエは泣いてるような、笑っているような情けない顔で半村を見上げ、「ええ、まぁ」


入浴禁止。

これはその場に居合わせたほぼ全ての女子に不快な衝撃を与えた。

入り口の人だかりにいる女子、列に並ばされている女子、むろん菜瑠だって表情を引きつらせている。


「だいたい、サルの分際で文化的な生活を望むほうがおかしいと思わないか? サルならサルらしく、少し臭うぐらいがちょうどいい。それでこそ野生ってもんだ」


「野生のサルだって、温泉に入るよ!」


高らかに響いた遼の抗議。それは正しくも、少し間が抜けて聞こえた。言っている事は客観的事実であったが――。

半村はチラリと遼を一瞥し、見下したように片眉を上げた。


「じゃあ、お前らはソレ以下ってだけだ。つまらん反論をするな」


冷徹にバッサリと切り捨て、半村はユキエの側に立った。はにかんだような、照れくさそうなユキエの笑み。それを見た憂理にようやく閃きが訪れた。


――柳の下子。


あの時、翔吾にからかわれていたユキエは今と同じような表情をしていた。

いや、その時だけではない。


他の男子にイジメられていた時だって、食堂で他の女子に「アンタの席ここじゃないから」と言われていた時も。憂理の知る限り、いつも菜瑠に助けられ、今と同じような顔をしていた。


ユーレイ子だか柳下子だかの華奢な肩をポンポンとやりながら、半村が周囲を遠く、あるいは近く見回した。


「他には? 他に賢明な判断ができる聡明な奴はいないのか?」


すると列に並んでいた女子が一人、また一人と手を上げ一歩踏み出した。


「従い……ます」


「私も……」


それをキッカケに、入り口の人だかりから次々に女子が飛び出してきて、ユキエの後ろに並び始めた。


「ちょっと! みんな!」


菜瑠は信じられないといった様子で集まりゆく半村支持者に頭を振った。次々に列に加わり、膨れ上がる女子の数、不安げに顔を寄せ合う者もいれば、周囲をうかがってばかりの者もいる。


「この人、奴隷って言ったんだよ! この人の、こんな人の奴隷なっちゃうんだよ!?」


「……うるさい」


誰かが言った。集まった女子の群れから、誰かが言った。


「イイ子ぶらないでよ」


違う誰かも言った。

呆気にとられたままの菜瑠に女子たちの視線が無数の矢になって突き刺さる。凍えるような氷の矢だ。


隷属一号であるユキエが、まるで代表であるかのように歩み出た。


「……迷惑、よ。……いい加減にして。菜瑠ちゃんが従いたくないなら勝手にすればイイじゃない。私たちは半村さんに従う」


「でも!」


「……ウザいよ。菜瑠。マジで」


白い目、冷たい目、見下した目。菜瑠への攻撃が口々に囁かれ、気高きジャンヌダルクの口を塞がせる。


「菜瑠、あんた臭うよ」


誰かが言って、誰かが笑った。





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