2-9 追う者の嗅覚
疲れからか、恐怖からかはわからない。髪はじっとりと額に張り付き、背中には熱を感じる。
通路を曲がって、直進して、200メートルほど移動するたびに憂理は足を止めて耳を澄ます。意味があるのかはわからないが、憂理はそうせざるを得なかった。
「追って……くる?」
不安げにエイミが尋ねてくる。
「わからない……」
ぼやかしてて返答したものの、憂理はほとんど確信していた。
――追ってくる、確実に。
あの闇の中では、誰が誰だかわからなかったハズだ。パトライトの赤のなかで近接したケンタは面が割れたかも知れない。だが、翔吾や憂理は懐中電灯の頼りない光の中での邂逅であったし、遼やエイミに至っては存在すら認知されていないに違いない。
少なくとも、自分が深川なら……追う。追って、とどめをさす。
それは口封じも兼ねた復讐だ。
いま取り逃せば、自分たち『地下の散歩者』の特定が困難になるのは必然で、そうなる前に決着をつけるハズだ。しかし同時に、生活棟まで逃げ切れば自分たちの勝ちだという算段もあった。
生活棟へ戻れば……。戻らなきゃ……。
駆けても駆けても生活棟が遠い。
『だからってどうすればいいの? 後戻りなんて出来ない。こぼれた水は二度と元には戻らないの』
深川の言葉が憂理の耳の奥で何度も繰り返され離れない。
「ユーリ」おもむろに遼が立ち止まった。「来た……みたい」
覚悟はできていたが、やはり恐怖に膝が笑う。はるか後方から、カッカッとコンクリートの床を駆ける音。通路のあちこちに反響して距離は掴めないが、確かに近づいて来ている。
「ど……どこか適当な所に隠れようよ」
エイミが泣きそうな表情で提案した。しかし憂理にはそれが良案には思えなかった。
生活棟へ戻れば『勝ち』なのだ。他の人間もいるし、特定も困難となると手出しも容易にはできまい。
憂理はその旨を簡単に説明すると、憔悴しきった翔吾を背中におぶさった。
「いくぞ! 一気に戻る!」
自分でも不思議に思えるくらい力が湧いてくる。翔吾だって軽くはないし、疲労だって限界だ。
だが、ほぼ全速力を維持して憂理は走る。遼やエイミのほうが遅れているくらいだ。
追う者と追われる者。通路にはそれらの発する複数の足音だけがに反響し、余韻が絶え間なく尾を引いていた。
ようやく生活棟へと続くドアへとたどり着き、素早く、無言で遼がドアを開く。翔吾を背負った憂理がくぐり、エイミもそれに続く。
「ベッドに!」
階段を二段飛ばしで駆け上がり、踊場のたびにずり落ちそうになる翔吾を背負い直す。翔吾はいつの間にやら気絶していたらしく、ぐったりとして、重い。
生活棟の通路へ出ると、憂理は泣き出したくなるほどの安堵感を覚えた。
好きになれなかった殺風景なコンクリートの通路が妙に懐かしく、妙に頼もしく感じる。刹那、階段を駆け上ってくる足音。
これには本当に泣き出してしまいそうだ。まさか、生活棟まで追ってくるとは正直、考えていなかった。足音は二段飛ばしどころか三段飛ばしなんじゃないか。
「はやくね!」エイミが女子の寝所に逃げ込み、憂理と遼も自分たちの寝所へ走る。
フロートドアを遼が引き、緑の世界から黒の世界へと逃げ戻った。
三段ベッドの二段目、憂理のすぐ下が翔吾のベッドだ。遼がフォローし、憂理は翔吾をベッドへ押し込む。
毛布だか布団だかを翔吾にかぶせ、二人は頷き合った。
「遼、寝てるフリを!」
梯子を慌てて昇ったせいで、足の小指をしたたかに打ったが不思議と痛みを感じない。今なら体中をナイフで刺されても痛みを感じないのかも知れない。
憂理はベッドに体を倒し、頭まで布団をかぶった。
痛覚が休業しているが、視覚も嗅覚も触覚も働かなくていい。いまは聴覚だけあればいい。憂理は布団のなかで限界まで聴覚を研ぎ澄まし、呼吸までとめて深川の足音を探った。
聞こえる。
走るのをやめ……歩いている。一歩ずつ、ゆっくりと。確かな足取り……ではない。不規則なリズム、カラカラと『凶器』を引きずる金属音。
憂理が祈るようにして嵐が過ぎ去るのを待っていると、嵐はすぐ近くでパタリと止まった。
寝所のドアの前。そこで深川が立ち止まった。
フロートドアがゆっくりと開かれる音。
床面に擦れる鉄パイプの音。
カラカラ。カラカラ。足音なく、ただ鉄パイプが鳴る。
特定は……容易ではない。容易ではないが、あるひとつの危惧はあった。
翔吾はもちろん、遼にも、エイミにも言わなかった危惧。あのエレベーター前での混乱と狂騒によって『なかった事』になっていると憂理は信じている。
信じるしかない。
カラカラ、カラカラと音は続く。陳列棚を漫然と見て回るショッピングのように。ゆっくりと、散策するかのように。
――大丈夫、大丈夫だ。深川のヤツ、気付いてない。聞こえてないハズだ。大丈夫。大丈夫。
無論、それは憂理の希望的観測でしかない。もっと言えば、甘い考えだとも言えよう。そろそろ遼のベッドを通り過ぎた頃だ。
音は徐々に近づき、やがて憂理や翔吾のベッドに差し掛かる。
――大丈夫。わかりゃしない。大丈夫。
――頭がどうかした異常者だ。あんな些細な事に気付きゃしない。大丈夫。
危惧は、些細な、本当に些細な事だった。
赤い回転灯の光のなか、深川の鉄パイプに襲われた猫科の少年を呼んだ声。
少女の叫び。『ショウゴ!』
聞いてない。聞こえてない。大丈夫、きっと大丈夫。
確かに、エイミは『大丈夫』である。深川だって女子の声、その特徴の全てを覚えてはいなかった。
だが不幸な事は、八十名を数える生活者の中に、ファーストネームが『ショウゴ』である者がただ一人であった事だ。
七井翔吾――彼、ただ一人であった事だ。
そして、更に不運は重なる。
暗闇で叫ばれた固有名詞。ソレには平時とは比較にならないほどの存在感があった。少なくとも、復讐に我を忘れた中年女にも、しっかり記憶されるほどの。
憂理は息を止めた。
100メートル先で針が落ちても気付けるぐらい聴覚を過敏にして、ひたすらに布団の外へ意識を向ける。耳の奥でシャク、シャクと鳴る心音を聞き、間延びした時間を感じる。
一秒が一分に思える反面、鼓動だけが異常に早い。
――行けよ! 行け! 行っちまえ!
だが突如として鼓膜に届いた予想外の物音が憂理を混乱させた。ドサッと、何か重いモノが床に落ち……。
それに続く、小さな呻き声。
そして、鈍い打撃音。
続く、打撃音、打撃音、打撃音、打撃音。重い、打撃音。
布団を蹴って、憂理は跳ね起きた。開け放された通路から緑色の光が寝所に差し込み、不吉な影絵が見える。
片手に持った鉄パイプを一心不乱に振り下ろす影。髪が神々しく闇に舞い、美しくも儚い曲線を描く。振り下ろされる凶器の下には、猫科の少年がいた。
おかしな方向に曲がった腕。意志を感じさせない床に投げ出された二本の足。
憂理は叫んで三段ベッドから飛び降りた。
無我夢中だった。着地に失敗してバランスを崩し、派手にこける。が、痛みなど感じない。
憂理が体勢を立て直した瞬間、寝所の闇から声がする。
「なんだ!? 何してる!」
ジンロクの声。それを皮きりに誰かしらの声が次々にあがり、ざわめきが暗中にある寝所を満たした。
深川はフワリと出口へ一足飛びし、笑った。
「あは、あははははは、ははは」
突き抜けたような笑い声だった。迷いもなく、臆することもなく、ただわき上がる爽快感に任せたような笑いだった。
「ショーゴ!」
憂理は床に横たわる翔吾に駆け寄り、うつ伏せから仰向けにひっくり返した。手応えがまるでない。
「ショーゴ!」
深川が寝所の出入り口から影絵のままフッと姿を消し、あははという例の笑い声だけが通路に反響して遠ざかってゆく。
――ぶっ殺してやる!
憂理がバネのごとく寝所から飛び出そうとすると、その肩を誰かが掴んだ。
「おい、ユーリ! なんだコレは! あの女は」
困惑を隠せないジンロクだ。通路からの光に顔を緑に染めている。憂理はジンロクの大きな手を振りほどき、怒鳴るようにして言う。
「ロク! ショーゴを! 医務室へ! 頼む!」
面食らったようなジンロクの表情だけ確認すると、返事を待たず憂理は飛び出した。緑の通路。その先に影。深川が角を曲がった。髪だけが余韻のような残像を残す。
――地下か! 逃がすか!
激情に取り憑かれた憂理は、猟犬のごとき低い姿勢で全力疾走した。冷え切った空気に笑い声が漂い、流れてくる。
「ユーリ!」
背後から誰かが呼ぶ。だがそれを無視して憂理は深川を追った。
「ユーリ!」
もう一度、絶叫が届く。タン、と床を踏みしめ急ブレーキをかけると、憂理は振り返った。瞬間、腰にタックルを食らう。
肉弾が憂理の足を拾い上げ、タックルを仕掛けた遼ともども床に転ぶ。
憂理が反射的に横転し、怒鳴りつけようとした瞬間、遼が鬼のように顔を赤くして先手をとった。
「ユーリ! なにやってるんだよ!」
「止めんな! アイツをぶっ殺すんだ! アイツ、ショーゴを……!」
「バカ言うな!」
これほど張った遼の大声は聞いた事がない。戸惑った憂理の胸ぐらを掴み、遼が乱暴に揺らした。
「暴力じゃ、なにも解決しないから『逃げた』んだろ!? なのに、追いかけて『殺す』だなんて無茶苦茶じゃないか! 今は翔吾を医務室へ運ぶのが先決だろ!」
遼は言う。
「冷静になってよユーリ! いま追いかけても返り討ちにされるだけだよ! どこかで待ち伏せて、ガツンだ!」
遼に言葉を重ねられるたび、憂理は冷静を少しずつ取り戻した。たしかに誘い出すつもりかも知れないし、なにより翔吾の安否すら確認できていない。
憂理は深呼吸を何度か繰り返し、ゆっくり立ち上がると遼に手を差し伸べた。
「ごめんな。戻ろう」
「うん」
「ありがとうな。俺もやられるトコだったかも」
「もう被害者は増やしたくないから……ね」
寝所へ向かって二人は走り出した。翔吾の安否が気にかかり、無言のまま、ただ駆ける。
憂理は深川の気持ちがわからぬでもなくなっていた。もし、翔吾が死んでいたなら……。想像すらしたくもない仮定。
もし最悪の事態になったなら……。
憂理は奥歯を鳴らし、不吉な考えを振り払った。そうして――翔吾、頼む。その言葉だけを胸中で繰り返した。
憂理の耳の奥に不快な余韻だけを残して、深川の笑い声はいつの間にか消えていた。
憂理と遼が駆け戻った時には、寝所に翔吾の姿はなかった。知った顔が雁首をならべ、不穏げに囁きあっているだけだ。
「翔吾は!?」
憂理が知った顔の一つに問いかけると、アツシは困ったような表情のまま首を動かした。
「ええっと、ロクが担いで、すげー勢いで走っていったぞ。医務室じゃないか?」
その言葉を最後まで聞かず、憂理と遼は寝所から飛び出した。床を蹴る2人の足音が、通路の方々に反響し、先へ先へと先行した。憂理の胃は重金属を溜め込んだがごとく重くなり、とめどない汗は緑色の貴金属がごとく輝いた。
――俺のせいだ。
自分を呪う。自らの小賢しい判断で翔吾がやられた。正義感の皮を被ったどうしようもない臆病さが、こんな事態を招いた。
――殺しておくべきだった。
生活棟までは追ってこないという楽観的な予測。『犯人』ではないと判明した者へ殺意を向け続けはしないだろうとタカをくくった犯罪的楽天。
甘すぎた見通し、醜悪なる脳天気。どれほど自分を責めても足りない。
角を曲がって、まっすぐ。また角を曲がって、また直線。ようやく医務室の引き戸を開いたとき、息はすっかりあがっていた。
蛍光灯の白い光に、ベッドを囲むカーテンが青白く染まり、駆け込んだ二人の少年が巻き起こした風にゆっくり揺れる。
ベッドに寝かされた翔吾は、赤黒い顔をしてピクリとも動かない。
「……翔吾」
木像のごとく静止した翔吾に憂理はゆっくり歩み寄った。
――まさか……。
「触るな!」
背後から怒鳴られ、憂理は電流にさらされたかのように体をビクリと萎縮させた。振り向く暇もなくベッド脇から押しのけられ、視界は大きな背中に遮られる。
「学長……せんせい」
学長は横顔から厳しい視線だけを憂理に注いた。
「杜倉くん、下がってなさい!」
学長の言葉とともに後方から腕を引っ張られ、憂理は後ずさる。呆然として腕を引く人物を見れば、ジンロクだった。
「ロク……」
ジンロクは口をへの字に結び、ゆっくりと頷いた。
「大丈夫……かはわからんのだが。今俺にできる最善はつくした」
ジンロクに叩き起こされたであろう学長は、寝起きの気だるさを一切感じさせぬ慣れた手つきで、手際よく翔吾の着衣を脱がせている。
憂理はジンロクの腕を握りかえして問うた。
「翔吾、大丈夫だよな!? 生きてんだよな!?」
ジンロクはアゴを掻いて答えた。
「今のところは」
無骨で、サービス精神の欠片も感じさせない返答。だが生きている。それだけで、その事実だけで膝から力が抜けそうになる。
「……はは、遼。翔吾いきてる。生きてるって、遼」
泣きそうで、笑いそう、奇妙な感動のまま憂理が眼鏡の少年をみやると、遼も同じように情けない顔をしていた。
「良かった……」そして大きく深呼吸をした遼が学長に尋ねた。「学長先生。翔吾は……大丈夫でしょうか?」
着衣の下。まさに豹のような翔吾の裸体には、大小様々なアザがあった。紫のアザ、黒いアザ。そのどれもが深刻な打撲であることは明白だ。
「一見して……複数の骨折……打撲……挫傷。重傷だよ。危険な状態だ。カーテンを閉めるから、君たちは外に出なさい。あと誰でもいいから生活委員を呼んできなさい」
素早くカーテンが締め切られ、憂理や遼だけでなくジンロクも蚊帳の外に置かれた。
「学長先生! 翔吾は……翔吾は大丈夫ですよね!?」
憂理がカーテンに声を張ると、冷静な受け答えが返ってきた。
「コレは……何があったかは後で聞きますが、これは酷い状態だ。脊髄に損傷があれば……下手をすれば二度と目覚めないだろうし、目覚めても障害が残るだろう……。今は自発呼吸をしているようだから、運がよければ……あるいは」
独り言なのか返答なのか判然としない。ただ『障害が残る』というフレーズが憂理の心胆を寒からしめた。サラリと触れられた『障害』とはどの様な状態を指すのか。
想像もしたくない、と憂理は唇を噛んだ。今は生きてさえくれれば……。
震えを押し殺す憂理の耳にジンロクの呟きが届いた。
「生活委員なぁ……。まぁ、ガクでいいか。こういう時にコキ使わんといかんよな」
一瞬で全身が凍り付くような事を言う。しかし、これは遼がフォローした。
「ガクじゃ、治る怪我も治らなくなる。翔吾とガクは特に仲が悪いから」
火事から住民を救おうと、濃硫酸をぶっかけるようなモノ。とまで言う。
いつまでも誤魔化しきれるものでもないだろうが、この非常事態にあってガクの不在が騒がれても面倒だ。いまは少しでも時間を稼ぐのが正解と思われる。
ジンロクは遼の言葉になるほど、と素直に納得したようだった。
「じゃあ、他だな」
すると、突如として医務室のフロートドアが乱暴に開かれ、顔を真っ青ににしたエイミが現れた。
「ユーリ、リョー! 翔吾は!?」
この時、閃きが憂理に訪れた。
「エイミ! 今すぐにナル子を連れて来てくれ! 今すぐに!」
突然の要求にエイミは状況が掴めないらしく、不安げに眉を寄せ唖然としていた。
「学長が生活委員を呼んでる! 翔吾が大変なんだ! 早く!」
エイミは返事もせず、ただ大きく頷くと闇雲に走り去った。
起床時間まで残すところ一時間と三十分。
大きな流れの中に身を置いているという自覚もないまま、憂理は焦燥感だけを胸に医務室の壁掛け時計を眺めていた。
大河にも似た雄大な流れに、ただ流されてゆく。
伏流から主流へ、支流から主流へ。様々な要素が合流しては混ざり合う。一つ一つの要素がどのような結果を生むのか憂理には想像もつかない。
流されて流れて、水はただ低きへ流れてゆく。
大河の流れに逆らう事はできる。小魚であっても下流から上流を目指す事が出来る。だが、それはそれだけの話だ。
小魚であろうが、大魚であろうが流れそのものを変える事は出来ない。
好む好まざる、本意、不本意を問わず、ただ人は流されてゆく。
気づいても気づかずとも。
望む者、望まざる者。
こうして変化の朝が始まった。