1-2 ひどく、痩せた女
今、こちらへ向かって来ている『誰か』は、最初からこの階に居た。
だとしたら、一体誰だ。誰が、なんのために地下に?
もしかして、隠れるように暮らしているのか。少なくとも、憂理たち――この施設で生活している少年少女たちには、地下階が無人の倉庫という共通認識があった。
この足音の主は、おそらく生徒ではない。となると、学長や深川の他に憂理たちの知らない職員がいたということになる。誰が何故、何を――と疑問が脳裡を堂々巡りだ。
黙っていた翔吾が、ようやく沈黙をやぶった。
「良くわからない。ケド……なんかヤバいな。色々とよ」
ドアの開閉音は二人がじっとしている間も、着実に距離を詰めてきている。せめて、と武器になるような物を探すが、コンクリートばかりの通路にめぼしい物は見あたらない。
抵抗か、降伏か。その二つの選択肢から選ばねばならない。しかし、その選択肢に正解が含まれているとは限らない。
どちらの選択肢も間違い、もっと言えば正解はもとより、ベターな選択すら存在しないかも知れない。両拳に手汗がにじみ、ぬるぬると不快な感触がある。
唐突に、退くも進むもできぬまま、ただ数秒だか数十秒だかを浪費していた憂理の耳に聞き覚えのある声が飛び込んだ。今にも消えそうな囁き声が闇のどこかから囁きかけてくる。
「……ユーリ……」
ゾッとして、体を硬直させ、周囲の闇を見回すが、翔吾しかいない。その翔吾も怯えたように周囲を窺っている。
「……ユーリ、こっち。ドア……」
声に導かれるままドアへ目を向けると、郵便穴のような覗き窓から、二つの瞳が見えた。人なつっこく、緊張感のないタレ目――。
「……ケンタ!」
「……いま開けるから、こっちに来て」
そう言うと、覗き窓はカシャリと閉まり、ドアの金具をいじくる音が聞こえる。
「今のケンタだよな?」
「アイツどうしてこの部屋にいるんだ? あいつらフロアの反対側に行ったんじゃ?」
二人が顔を見合わせていると、静かにドアが開いた。やはりケンタだ。いささかに緊張感で強ばってはいるが、人を安心させる何かをもった少年の顔だ。
「はやく」
「見つかる」
翔吾が素早くドアをすり抜け、憂理もそれに続いた。そして慎重に、丁寧に、鉄のドアを閉め、頑丈そうなサムターンを回し施錠する。
そうして憂理は額をドアにつけ、長く深い溜め息をついた。安堵とともに吐き出された息が頬に温かい。
一息ついて振り返ると、ケンタが人差し指を唇にあてていた。
「し、ず、か、に」
その背後には、また緑色の通路が延びている。
「あれ? ここ部屋じゃ……なかったのか」
ポツリと翔吾が呟き、憂理は首を傾げた。
「なんか、連絡通路のようなものらしいな。ケンタ、ここを真っ直ぐ行ったら……フロアの向こう側、お前らの行った側に出るの?」
「途中に何カ所か曲がり角、丁字路があるけど……真っ直ぐ行ったらここと同じようなドアがあるよ。僕はそこから来た」
「なぁユーリ。この階は、もしかしたら俺たちが降りてきた階段を中心に、左右対称の造りになってるのかも、だな」
なるほど、そうかも知れない。
「ケンタ。ノボルは?」
「はぐれた」
「おま」翔吾がケンタの肩に拳をぶつけた。「なにやってんだよ! ヤバいじゃん! アホ!」
「だって、部屋の数が多いから手分けして調べてたら、急に誰か来るんだもん。びっくりしてノボルを呼んだけど、アイツどこの部屋にいるのかわかんないし」
手当たり次第にドアを開けたら、この連絡通路にでてしまったのだ、とケンタは言う。
「とりあえず。ノボルと合流しよう。見つかるとヤバそうだ」
翔吾に同意を求めるまでもなく、猫科の少年はすでに通路を進んでいた。その背中を追い、憂理が歩き始めるとケンタもノソノソとついてくる。
「途中に曲がり角があるって言ってたね?」
「うん。ここからは見えないケド、もう少し進んだらあるよ」
「ノボルはそこを曲がったのかな」
「さぁ……あいつ学長に目を付けられてるからなぁ。びびって奥まで……」
先行していた翔吾が振り返り、ケンタの言葉を遮った。
「あれは学長じゃない、だな? ユーリ」
ぽかんと口を開けたケンタに、憂理は端的な説明をした。その説明を最後まで聞いても、ケンタは相変わらずポカンとしている。
「じゃあさ、追ってきてるの誰なの?」
「さぁ……」
「拷問部屋の主かもよ」
そう言って翔吾は踵を返した。
憂理は着衣全体がうっすら湿ったかのような寒気を感じた。拷問部屋の存在はどうあれ、このフロアには得体の知れない『誰か』がいる。
上階の賑やかに混じることもなく、寒々とした場所で人知れず生活している。そして、少なくとも学長や深川といった大人は、その存在を知っているはずだ。
なぜ、どうして、なんのために。そんな掴みどころのない疑問ばかりが通路を進む憂理の脳裡に浮かんでは、消えた。
「おい、ユーリもケンタも早く歩けって。さっさとノボルと合流して上に戻らないとマズいんだぞ」
睨みつけてくる翔吾に、やはり緊張感なくケンタが肩をすくめた。
「心配性だなぁ。ハゲるよ?」
「心配性とか、ハゲとか、そういう問題じゃねぇって。曲がり角ってのはここだな?」
「うん」
早歩きに進む翔吾を追って、憂理とケンタも丁字路を曲がる。緑光の下、通路の先に目を凝らしてみれば、突き当たりにドアが見えた。
「翔吾、あのドア見える? ここに入る時のと同じタイプだ」
「ああ、覗き窓があるタイプだな。この突き当たりも連絡口なのか?」
「だとすると――この階はかなり広いな……。生活棟の二倍はある」
ようやくドアの前までやってくると、翔吾がドアレバーにそっと手を添え、ドアを開こうとする。が、開かない。
「ちくしょ。開かねえ」
翔吾がガタガタとレバーの遊び部分を鳴らした。見れば、こちら側から蝶番のような金具で施錠してある。それを外さないかぎりドアは開かないようだ。
「金具ある」憂理は横から手を伸ばし、ドアを固定している金具を指差した。
「開かないよ。でも、ここはコレでいい。今はノボルを探してるんだ。こっちから金具で施錠されてるなら、少なくともノボルもこの先にはいないだろ」
「そか……じゃあ急いで戻らない……」
ドアから振り返りつつあった翔吾の言葉は、遮られた。
遠くでドアが開かれた音がしたのだ。無機質な音が連絡通路のあちこちに反響する。
「やばい、アイツ、こっちに来たよ! 連絡通路に入ってきた!」
「やべ、逃げろ! 戻るしかない」
通路に音が反響して、丁字路の右から来ているのか、左から来ているのかまるでわからない。憂理は静かに、それでいて力強く囁いた。
「ケンタが最初に来たほうへ……!」
三人が頷きあった刹那、事態は急転する。
ドン、ドンドン、とすぐ背後のドアから激しい打撃音。音の発生源は――至近――1メートル以内。
憂理の体はビクリと反応し、全身の毛穴から汗が噴き出す。心臓がガラス製であったなら、この瞬間に、脆くも砕け散ったであろう。
憂理が反射的にドアへ振り返ると、鍵のかかったドアの向こう側で、誰かが扉を叩いている。状況が掴めず、唖然としていると、翔吾が叫んだ。
「ヤバい! 向こうから『アイツ』が来る!」
遠くから足音が近づいて来ている。それは疾走だ。全速力で走り寄って来ている足音、それがコンクリートに幾重にも反響して、憂理の心音とも重なる。
――気付かれた。
背後のドアを叩く音が、足音を引き寄せているのは明白だった。
「に、逃げろ!」
もはや翔吾の声は囁きではなく、悲鳴のようだ。翔吾とケンタが丁字路の中央に向かって走り出した。
――急がないと!
わかっている。そんなことはわかっている。だが、すぐ背後――ドアを挟んだ至近距離では誰かがドアを叩いているのだ。
――これがもし、ノボルなら!
翔吾が足をとめ、憂理に振り返ると腕をブンブンまわす。
「なにやってんだ、ユーリ! いくぞ! 急げ!」
――わかってる!
憂理は焦りながらも、ふとドアの覗き窓に目を向けた。そこには、薄暗い緑光のなかでもハッキリわかるほどギラギラとした二つの眼があった。
カッと見開かれた目が、細長い覗き窓にあり、黒点のような黒目が視線を憂理に投げかけていた。瞬間、目玉が飛び出るほど見開かれた二つの眼が、更なる拡大をみせた。
「助け……ッ、たすけテェェェェえェェェェッ!」
金属を擦り合わせたかのような叫び。高音がかすれている。
ガラスでなくとも心臓が破裂しそうになる驚きに、憂理が「ヒッ」と悲鳴を上げると、次の瞬間には、覗き窓から手が伸びてきた。
細く筋張った白い指が虚空を掻くようにして、覗き窓から溢れ出てくる。緑光に照らされ、細い腕がいよいよ白い。
指の先端は黒く変色し、腕全体には傷や痣が見て取れた。
――ノボルなんかじゃない! こいつ、女ッ!
「ユーリ! 逃げろ、なんだかヤバすぎる!」
憂理は夢中で翔吾の声を追って駆けだした。
恐怖に肺が酸素の吸入を拒否する。無我夢中でただ丁字路の出口へ向かい、逃走する。
叫びと足音が混ざり、混沌となってはコンクリートのあちこちに反響した。
先行する翔吾の背中が照明の真下を通るたびに緑の明暗を点滅させる。
――何か、居た。
何か。
覗き窓から伸びた腕。それは確かに人間の手であった。
だがそれは、憂理にとって『誰か』ではなく『何か』と表現するのが適切な印象をあたえた。
何かが、居たのだ。
* * *