表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13月の解放区  作者: まつかく
2章 獣性の解放区
17/125

2-6 芹沢エイミの孤独

芹沢嬰美は確信している。自分は羊であると。


自分は何らかの集団に属していたい。群れでいたい。凶暴な狼や猛禽に襲われたとき、弱者にとって数は安全を意味する。

そしてそれ以上に、数には安定があり安心がある。


1人より2人、2人より3人でいたい。だからこの施設、嫌いではない。


朝起きて、夜眠るまで、誰かしらが側にいて、何かしらの話をしている。寂しがり屋を自覚する自分には心地よい空間だと。

集団が生み出す醜悪は、少なくとも過去に通っていた学校よりはマシであったし、共働きの両親が空けっぱなしにしている家よりも賑わいに満ちている。


周りの生徒の話を聞けば、ほとんどが機能不全に陥った家庭に育っており、相対的に自分が恵まれた環境で暮らしてきたのだと理解できた。

父親も母親も、それぞれの仕事で忙しくしてはいたが、そのぶんエイミのワガママを笑って聞いてくれた。


しかし、モノで心の隙間は埋まらなかった。『寂しい』と『孤独』の違いを考える年頃になってから、エイミはこの施設にやってきた。

そして賑やかさの中で孤独を忘れた。


むろん人が集まっても良いことばかりではない。

陰では悪口やイジメが横行しているし、ルールや規則が日に日に増えるのには不満がある。どうせなら、イジメが無くなるようなルールを作ればいいのに、服装規定なんてクソくらえだわ。エイミはそんな風に考える。


ファッションは本当にいただけない。

『パジャマ』と称して、入所の際に持ち込んだ服を着てはいるが、それも選択肢が少なすぎるのだ。ボロは着てても心は錦、などと古人は言うが、ニシキを着るためなら心がボロでもいいとエイミなどは思う。


しかし施設に対する不満はそれぐらいのもの。

本音のところ、エイミ自身にとって施設からの脱走そのものより、脱走に関わるという事のほうが重要なのだ。

憂理やケンタ、遼。それに翔吾。彼らに仲間として扱われることが何よりも嬉しい。


そして、少なくとも正義のために危険をおかしているという自負が勇気となって、本来臆病な自分を後押ししている。そして今、高揚と恐れと期待。

不安と高鳴る胸、かすかな眠気を細い体に押し込めて、エイミは洗濯室のドアを開く。


廊下へ逃げ出す湿っぽい空気を頬に感じ、ドアの隙間に身を滑り込ませた。

そうして大きく深呼吸して、後ろ手にドアをそっと閉めて、ふたたび芹沢嬰美が始まるのだ。


「アンタたち! なに寝てんのよ!」



 *  *  *



先立って医務室で睡眠をとっていたため、憂理は比較的眠りが浅く、すぐに目覚めることができた。

しかし、翔吾は蓋をした洗濯機の上で『目覚まし役』の声に迷惑そうに寝返りをうち、ケンタは床でイビキをかいたまま。壁にもたれた姿勢で眠る遼だって身じろぎ一つしない。


対照的なものでシロナマコは奥でモゾモゾやっていたが……。これは気味が悪いので見なかった事にする。

エイミはまず床に横臥するケンタの尻を蹴飛ばし、座って眠る遼の頭を揺さぶり、王様のごとき堂々たる寝姿である翔吾の耳元で叫んだ。


「コラぁ、起きんか!」


そうして全員を無理やりに叩き起こすと、菜瑠のごとく高く腕を組む。


「あんたらね、たるんでるんじゃないの!? 仮にも今夜脱走するってのに! 完全爆睡体制じゃない。だいたいね……」


それから数分間はクドクドと説教が続いた。

意識が低いだの気合いが足りんだの。ここぞとばかりに言いたい放題である。しかし、その高説も遼の一言により台無しになった。


「でも……もう3時だ。就寝時間からかなり経ってる。起こすにしても、もうちょっと……」


「え。なんだよエイミ、お前も寝坊したのかよ」


憂理の言葉に翔吾も乗っかかる。


「ふーん。それなのにエーミちゃん偉そうに……説教までしてな。俺らをゴミ虫みたく言ってな」


「たるんでるよね」


こうした批判に反論も否定もせず、エイミはわざとらしくエヘヘと笑うと肩をすくめた。


「アタシもたるんでましたー」


軽口と皮肉と悪意ない罵倒を交わし、ようやく全員が起床モードに。それぞれが立ち上がり、それぞれのやり方で眠気を追い出そうとする。

エイミはリュックサックへ歩み寄り、その細い体に不釣り合いな量の荷物を掛け声とともに背負った。


「おい。そりゃあ女には無理だって」


翔吾がその無謀をとがめ、ケンタが頷く。

「僕が背負うよ」


しかしエイミは首を左右にブンブン振り、顔を歪めて言う。


「アンタたちはアレよ。あの人を担がないと、でしょ?」


言われてはじめて重要な仕事を思い出す。ガクを地下まで運ばねばならない。重いだろうな、キツいだろうな、と皆が同じ気持ちを共有した瞬間であった。


「仕方ない」


憂理が溜め息まじりに諦めの意志を示す。自分たちの為にも、ガクのためにもやらねばならないのだ。

四人でほとんどスマキ状態のガクへ歩み寄り、呼吸を合わせて持ち上げる。


「ぐわ、重っ!」


「ケンタ、サボってるだろ! 傾いてるぞ! ちゃんと持てよ!」


「違うよユーリ! 遼が楽してるんだ!」


「待って、違うよ! 持つトコロが見つからないんだ。ずりおちる!」


担がれるガクもガクでムームー唸りながら暴れるものだから、余計に体力を使わせてくれる。


「担げ、担げ!」


「肩に乗せなさいよ」


「わかってるよ! エイミはドアを開けてくれ! 痩せ女部屋まで一気に行くぞ」


かくして、逃避行は始まった。眠りの国となった生活棟の廊下をそそくさと、それでいて静かに移動し、大階段を目指す。


「ハード……だ」


荒い呼吸の合間を縫って遼が珍しくぼやき、エイミは「ワッショイ、ワッショイ」と他人事の囃し声。

憂理のすぐ後ろでケンタが苦しそうに呼吸を続け、その息が憂理の首筋に生暖かい。


「大階段だぞ。一気に降りよう。地下のドア前までいったら休憩」


端的な憂理の指揮。誰も返答しない。それどころではないのだろう。

「足元に気をつけて……!」


エイミが注意喚起し、移動速度は落とされた。誰か一人が足を滑らせれば、全員道連れで転がり落ちる事になる。

先頭を歩む憂理は、いまだに無為な反抗をするガクに苛立ちを覚えて囁いた。


「おいガク。死にたくなかったら暴れるな。俺たちはまだしも、お前……その格好で落ちたら『痛い』どころじゃ済まないぜ?」


ありがたい事に、ガクはパタリと抵抗をやめた。これで少しは運びやすい。

途中、何度か転倒しかけ、何度か『荷物』を落としそうになりながらも、なんとか地下ドアの前までやってきた。

ミイラのごときガクはすぐさま床に転がされ、ひと仕事終えた運び手たちも同様に床に転がる。


エイミは背負っていたリュックサックを下ろすと、その上にちょこんと腰を乗せ、手団扇で顔をあおいでいる。


「ナメてたケド……こりゃあヘヴィだね」


「キツいよ……」


「痩せ女部屋までって……無理、だろ?」


翔吾の弱音に少年たちがウンウンと頷く。大階段という峠は越えたかも知れないが、全体の距離にすればまだ二割ほどしか進んでいない。

にも関わらず、体力は九割近く消耗したような体感がある。


もともとの睡眠不足と疲労にたたられ、スタミナが一瞬にして奪われると誰であれ弱気になろうものだ。すると、休憩の倦怠感を割って、おもむろにケンタが半身を起こした。


「ねぇ翔吾、鍵を貸してよ。良いこと思いついた」


「なんだよ?」


「秘密」


問答するのも面倒そうに翔吾がポケットから鍵を取り出しケンタに投げた。

ケンタは両手で皿を作って鍵をキャッチする。そうして小太りの少年は立ち上がり、よろめきながらもドアへ歩み寄り鍵をあてがった。


「待ってて」


誰に言うでもなく言葉を置き、誰の返事を待つでもなく、ケンタはドアの向こうへ消えた。


数分の後にドアの向こうから現れたケンタはコレ以上がないほど得意げな表情だった。それもそのはず。全開に開かれたドアの向こうには緑光に照らされた台車があったのだ。


「真空パックの倉庫にあったのを思い出したんだ」


これは大手柄である。

業務用とおぼしき大型台車は、シングルベッド半分ほどの荷台になっており、ガクを乗せるに充分な大きさを有している。

一行は俄然テンションをあげてガクを荷台に乗せ地下の通路を急ぐ。


憂理が陣頭に立って先導し、ケンタと翔吾は二人で台車を押し、遼がエイミの荷物をかついだ。台車の車両がキリキリと不快な音をたて、緑の廊下のあちこちに反響する。


「車椅子が……居るかも」


荷物から解放されたエイミは自らの肘を抱き、不安げにつぶやいた。


「『いるかも』じゃない」憂理は振り向かないまま応える。「いるんだ」


思えば、あの車椅子の男も何者かわかっていない。痩せ女に半村に、車椅子。

地下には生活棟にその存在を知られていなかった者が三人もいたのだ。他に誰か居たところで憂理は驚かない。

だが、今は『謎解き』をしている場合ではなかったし、するつもりもない。


一刻も早く脱走して、警察へ――。

そうすれば警察の捜査によって全ては明らかになるのだ。


まっすぐ進んで、右へ左。方向感を狂わせる迷宮のような緑世界。

エイミ作の拙い地図を片手に憂理は先頭を進んでゆく。ようやく痩せ女部屋まで来ると、憂理はドア前にて立ち止まった。

覗き穴から伸びた手。わずか数日前の事が懐かしく感じられる。


あの時は、まだ痩せ女は生きていた。このドアを挟んでの緊張があった。


だが、もう痩せ女が助けを求めて来ることは永遠にない。

生者と死者の間にある壁は、こんな鉄扉よりはるかに頑丈で、覗き穴すらないのだ。

――このドアの向こうに……。


「ガク。今からお前の縛りをゆるめて、お前を地下の……とある部屋に入れる」


翔吾の手によって白いシーツから頭だけ露出したガクが猿ぐつわに歯を突き立てて憂理を睨む。


「この部屋で監禁されてた女の子がいて……中にはまだ死体がある……。他殺だよ」


ガクの表情には一瞬の動揺も見られない。やれやれ、と憂理は溜め息だ。どうにも嫌われたもので、信じて貰えないらしい。


「監禁されて、殺されて、だ。すぐ上の階で俺たちが普通に生活してるにも関わらず……。俺は、事実を隠してる学長や深川が許せない。あいつらを警察に突き出してやるつもりだ。……これが脱走の理由だよ」


説明する義理もないが、説明しないワケにもいかない。


「縄はゆるめて……。15分もあれば抜けるようにしとく。この部屋にはトイレも食い物もあるから、助けが来るまでここにいろ」


返事はない。かわりに翔吾がボヤいた。


「ユーリ。さっさとぶち込んで行っちまおうぜ。俺、ここ好きじゃない」


「ああ」


憂理がドアをそっと開け、台車から担ぎ上げられたガクが部屋内に連れ込まれる。シーツは全て剥がされ、過剰に巻かれた縄が解かれた。

残すは手首の束縛だけである。


「こんなモンだろ」


「じゃあな。ガク」


子孫末代まで呪ってきそうなガクの視線は、鉄扉によって完全に遮蔽された。三部屋にトイレ、ベッド付き。

憎らしいガクにはすぎた処遇に思えたが、敵にも礼節を持ってあたるのも男らしい姿勢かも知れない。憂理は閉じたドアを眺めながらそんなことを考えた。


「うん。これで良し……ね」


台車を通路の脇に寄せ、ほとんど同時に全員が安堵の息を吐いた。

警察に駆け込んだ際にガクの所在も伝えておけば、今日、遅くとも明日中には救助されるはずだ。


「急ごう」


憂理は一人一人全員と順に目を合わせ、頷いた。問題が一つ解決したとはいえ、気を抜いてはいられない。一番の目的は脱走であり、今は計画の半ばであるのだ。

エイミが原本の図面をポケットから取り出した。


「エーミ。ここからデカエレベーターまでの最短ルートは?」


タイミングを合わせた憂理の質問に、エイミは首をひねり、手首をひねり、図面を横にしたり縦にしたりして、ようやく答えた。


「わからないわ。そもそも……今、アタシたち何処にいるの?」


なんとも頼りないナビゲーターである。憂理は溜め息と共にエイミの広げる図面を覗き込んだ。

たしかに複雑ではある。簡略化されたエイミの地図とは違い、綿密な線と線が重なり合っている。

以前に色分けした部位から管理室を見つけ、そこからさらに現在地まで指でたどる。


「こっち……だろ」


憂理は図面に目を落としたまま、大型エレベーターのある区画を目指して歩き始めた。


「どれくらいで着くの?」


ケンタの質問には答えがたい。憂理だって手探りなのだ。


「さあ……。15分もあれば着くんじゃないか?」



広大な地下を右へ左へ。

方向感はとうに失われ、図面が無ければ確実に迷ってしまう。

愚痴や文句が小さく繰り返され、ほとんど会話のていを成さない会話が通路に反響する。

さすがに図面に集中する憂理は無駄口を叩かなかったが、それでも『気が散るから黙っててくれ』などとは言わない。不安や焦りを誤魔化す方法が他にはないからだ。

何気ない会話でも、それが横耳にあれば少しは気がまぎれる。


「でね、でね、最後だからさ、お別れ替わりにアタシ寝てる菜瑠のほっぺにキスしたワケ」


「うげぇ。レズかよ」


図面を見たままでも翔吾の表情が憂理にはわかる。同じく言い返すエイミの表情も見る必要はない。


「そんなんじゃナイって。んでさ、チュッってやったらさ、菜瑠ったら寝言で言ったのよ。『おかぁちゃん』って!」


「おかぁちゃん!?」


「めちゃ意外でしょ!?」


コレには少年たちも驚きを隠せない。

勝手なイメージの押し付けではあるが、菜瑠なら母親を呼ぶときは『母上』だろう。

百歩譲っても『かあさま』が限度だ。それを『おかあちゃん』とは……。


「そりゃあ、ナル子らしくねぇなー。貴族の振る舞いを忘れてる」


憂理の言葉に遼が反応した。


「貴族って……? 菜瑠が?」


「そうだよ」と翔吾。「アイツ、大金持ちの娘かなんかだろ? だから俺たち下々の人間を見下してるんだ。特にケンタをな」


「えっ!? 僕が? なんで!?」


「お前んちは貧乏だからな。貧乏なくせに飯は人の倍喰うからよけい貧乏になっちまって……」


「貧乏じゃないよ! 普通だよ! ね、ユーリ?」


「わからんけど……ナル子ぐらいの上流階級からすれば、俺らは愚民の集団に見えるんだろうなぁ。下品で汚くてうるさくて、さ。特にケンタは」


「アンタらねぇ……」エイミは呆れ切った様子で首を振る。「アンタらがそうやって無責任な線引きするから菜瑠は――」


「待って……!」エイミの言葉が遼に遮られた。


潜めるような、それでいて鋭い遼の声に思わず憂理の足も止まる。皆の視線を集めた遼が、ゆっくりと右から左へ黒目を流し、やがて眼鏡の奥で目を閉じた。


「……なんだよ?」


翔吾が問うが、その声は遼のソレより静かである。


「今……。声が……聞こえた」


皆が一斉に聴覚に意識を集中した。無意識に姿勢が低くなるのは本能のなせるところか。

「誰か……いるの?」誰に言うでもなく呟くエイミの声に、不安の色が濃い。


車椅子か。あるいは第三の大人……。


「また聞こえた……!」遼が目を見開いた。「女の人……」


憂理だって特別に耳が悪いワケではない。だがその耳に遼の言う女の声など届かなかった。訝しさが消えない憂理を差し置いて、翔吾が肩をすくめる。


「気のせい、だろ?」


「気のせいなんかじゃない、今たしかに……」


「静かにして!」エイミが薄い唇に指を当て、目を閉じた。「私にも聞こえた。なにか……」


刹那、その声は憂理の耳にも届いた。

腹の底から溢れ、漏れ出すような嗚咽。悲鳴でも、叫びでもない。猛獣が強烈な苦痛に耐えているような……。


「なんだよ……これ……」


遼もエイミも憂理の呟きに、わからないと言わんばかりに首を振る。すると、ケンタが怖じ気まじりに言った。


「痩せ女……じゃないよね?」


「バッカ、おまえ。痩せ女は死んだだろ!」


幽霊。などとは誰も言わない。憂理自身、そんな事を言ってしまえば、それが現実になりそうな不吉さを感じていた。


「こっちから……聞こえる」


遼が通路の先を指し示し、ゆっくりと足音を殺して進み始めた。

肺の底に重圧を感じ、自然と憂理の呼吸は浅くなった。地下では何があっても驚かない自信があったが、恐怖感や緊張感だけは薄まらない。

遼はその外見と相反して意外と豪胆なもので、嗚咽の聞こえる方向へどんどん歩みを進めてゆく。


最前列に遼。少し遅れて憂理と翔吾。最後尾にケンタとエイミ。


この並びが総身に詰まった『勇気』の総量を表すとするならば、憂理は否定できない。最後尾の最後尾。エイミにも遅れる太った少年が声を震わせた。


「拷問部屋……ほんとにあったんじゃない?」


よくもまぁ、次から次へと不安要素を挙げられるものだ。憂理は呆れを通り越して感嘆せざるを得なかった。人間は臆病であるほど想像力が働くものであるのかも知れない。


「バカ言うなよ」


憂理は小さく否定した。だが、ケンタは自説を曲げない。


「きっと、誰かが拷問されているんだよ」


こんな苦しみかた普通じゃない。ケンタがそんな事を言うが、それには憂理も頷くしかない。たしかに……苦しんでいる。それもかなり。普通じゃなく。

遼の背中を追うたびに声はハッキリと聞こえるようになり、ハッキリと聞こえれば聞こえるほど、常軌を逸した嗚咽が背筋を凍らせる。


嗚咽が一段と大きくなったとき、魔物に魅入られたがごとく歩いていた遼がピタリと足を止めた。

そうして、前方を指差して言う。


「……あの部屋。あの部屋じゃないかな」


見れば通路の先にドアから漏れる一筋の光が見えた。閉まりきらないドアの隙間から、室内の光と嗚咽が漏れ出しているのだ。


「見てみる。気になる」


あっさりと遼が言う。

そりゃあ気になるだろうさ。だけど……。憂理は言葉にならない言葉を脳内で繰り返した。


遼の、コイツの豪胆さや勇気は、好奇心によって支えられているに違いないぞ。憂理がそう確信した時には、眼鏡の少年はドアのすぐ側まで歩み寄っていた。

一同が固唾を飲んで見守るなか、『好奇心の塊』は漏れ出す光に半身をさらし、隙間から部屋を覗いた。


今にもドアが爆発するように開いて、中から得体の知れないバケモノが――。

憂理も想像力過多になってしまう。だが、次の瞬間には遼がこちらへ向きなおり、手招きした。

『中を見てみろ』ということらしい。

憂理が翔吾を見やると、ちょうどアヒル口をキュッと結んだ少年と目が合った。


『どうぞお先に』憂理が眼で訴えかけると、翔吾は『いえいえ遠慮しときます』と眼で返す。

『じゃあ、ここはひとつ最後尾の二人に……』と無言のうちに二者間の合意が得られた瞬間、憂理の背中を誰かが押した。

振り返るとエイミが睨んでいる。


『行きなさいよ。アンタら男でしょう』そんな眼だ。憂理は、『無謀と勇気を履き違えてはいけないよ。冷静な判断は時として臆病者と非難される事があるが、戦わないのも勇気なんだ。エイミ』


と、そのような趣旨の自己弁護を眼で訴えた。が、その一割も伝わらず、ますます大きく背中が押される。嗚咽はいよいよ大きく聞こえ、遼はいよいよ大きく手招く。


憂理は摺り足のような遅々たる歩みで遼の元へ向かった。人目が無ければ隣にいる翔吾と手を繋ぎたい気分である。

亀の歩みでドアまですり寄ると、遼が『中を見て』と指差した。


一呼吸、二呼吸を置いてから憂理は勇気を振り絞った。そうして、そっと隙間から内部をうかがう。

白い電灯が照らす部屋。狭くはない。奥には書棚があり、机も見える。壁に面した場所にベッドが置かれているところからして、誰か個人の部屋なのか。

そして、床に膝をつき、ベッドにすがりついて呻く人物がその部屋の主か。


疑問符ばかりで何の確信も得られないが、ただ一つ断言できる事がある。少なくとも、ここはベッドで横になっている人物の部屋ではない。憂理はそう確信する。

ベッドに横たわる人物は、見覚えのある――痩せ女だったからだ。色素が抜け落ちたかのように真っ白な遺骸ではあったが、痩せ女に間違いない。


そんな、すっかり血色の悪くなった痩せ女に……すがりついている人物。

むせび泣き、嗚咽を大にする人物。

彼女に憂理は目を見張った。


――深川。


後頭部でまとめていた髪はすっかりバラけ乱れ、床に投げ出された眼鏡はひしゃげて、割れたレンズが白色照明にキラキラ光っている。

トレードマークを失っても、彼女が確実に深川であることは服装から判断できた。その服装も、乱れに乱れてはいたが――。


気付けば、ドアの隙間には5人の頭が縦に並び、さながらトーテムポールとなっていた。憂理が頭を引くと遼や翔吾も隙間から離れ、最後にエイミとケンタも姿勢を直した。

無言のまま憂理が通路の先を指差して移動を促すと、全員が忍び足でその場を離れた。

1メートル、5メートル、10メートル。もっと遠く。


そういえば、ガクを閉じ込めた際に痩せ女の死体を確認していない。憂理は足音を気にしながらも考える。いつの間にか深川が運び出したのか。


ひとつの角を曲がり、深川の嗚咽が遠ざかると足音よりも速度を重視して移動を続けた。ようやくの事で深川の声が聞こえない場所まで来ると、憂理は壁に背中を預けた。

緊張からにじんだ汗が頭髪を濡らし、壁の冷ややかさが心地よい。


「深川だった、よな?」


翔吾が確認するように言うと、誰もが無言で頷いた。さらに翔吾は確認する。

「痩せ女だった、よな?」


全員が頷き、認識は共通になった。

問題は、『なぜ』だ。なぜ、痩せ女に深川がすがって泣いていたのか。話は自然とその疑問へと集約してゆき、拙い推理が披露されてゆく。


「痩せ女は深川の娘だったに違いないわ」

だから死んだことを知って、授業どころじゃなくなって……。そんなエイミの言葉に遼が首をかしげた。


「そう考えるのが自然だけど……でも」


でも、そうであるならば、どうして深川は娘を生活棟に招き入れず人知れず地下に監禁していたのか。解答はない。

誰もが疑問符を感嘆符に替えたい欲求を抱えているのであろうが、その方程式を解くにはあまりに情報が不足していた。


このまま無理に推論を重ねたところで間違った解が得られるだけであろう。

「行こう」憂理は壁から背中を離して言った。

自分たちが出来る事などたかが知れていて、決して多くはない。ならば今は、やるべき事をやるだけだ。


「行こう」もう一度、様々な感情を押し殺して言った。

ほとんど無言のまま一同は通路の先を目指し、歩きはじめた。

後方から微かに聞こえる深川の嗚咽は、何度も通路に反響して空気に溶けていた。

それは、長く、長く尾を引いて、憂理の耳に残った。




 * * *


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ