11-13 分断
私は夢を見た。
空の暗い農園の丘に山羊がいた。
その山羊は草木を揺らす強風に体を晒しながら、「鳥になって農場の束縛から逃げたいのだ」と言った。だが嗄れた声のせいで、農園の動物たちの誰も自分の話を聞いてくれないのだと。
鳥になりたくとも羽もなかった。
山羊は嗚咽を漏らしながら自分の体を齧り、干し草を食べるかのように身も血も骨も粉にして、やがてそれを吐いた。その粉は強風に乗って、南から西、西から東へと遠く飛んで行った。
粉を浴び、粉を吸い、皆の声が山羊と同じように、嗄れた。山羊はもういなくなっていた。
――――マギーの見た夢、声のない山羊
道中、ナツカ自治区――『壁の中』をつぶさに観察するも、降灰が処理されているという以上には『外』との差は感じられない。自分たちが拠点としたラブホテル周辺と同じく、さほど高くもないいくつかのビルに薄汚れたアパート、二階建てや平屋の民家――せめて、通りに人の往来でもあれば街らしくもあろうが、人影は頼りなく三つ。トキムネと、エイミ、そして菜瑠だけだ。
先頭を行く人影に菜瑠は訊く。
「あの、ここは『復興』してる――んですか?」
「復興?」
振り向かないままに――歩みを止めないままに発せられたトキムネの言葉には、その心中から泡立った微かな苛立ちがありありと感じとれた。
「えっと、ほら、さっきのタチバナさん。あの人、コーヒーを飲んでたし、ほら、新聞紙も読んでたから……。新聞が刷られるぐらいには機能してるのかな、って」
トキムネはようやく立ち止まり、菜瑠をじっと見て、次にエイミを見つめた。その眼光には質問者を非難する色こそ無かったが、まるで、目の前で解答用紙の採点をされているかのような居心地の悪さを菜瑠に感じさせる。
これは、どこかで見た眼だ。菜瑠は思う。そう、いつか、遠くない過去――同じ眼をした誰かを自分は知っている。
『同じ眼光』の持ち主を菜瑠が思い出す前に、トキムネはその視線を二人から遠方の建物に移した。そうして指差す。
「お前ら、アレが見えるか。あのカマボコみたいなアレ」
トキムネが指差した先にあるのは、たしかにカマボコのような半月形の屋根をした建築物――近くまで行かなくともわかる。あれは『体育館』だ。他の建物に隠れ、校舎全体は見えないが、小学校ないし中学校、あるいは高校のものだろう。
エイミが半開きの口を使って、感じたままを言葉にする。
「体育館? でしょ?」
あの中に人々が避難しているのだろうか。菜瑠の脳裡に、ゴザや布団が一面に敷かれた体育館の床が想起された。災害が起こり、家や居場所を失った者たちの『避難所』――これは想像に難くない。
だが違った。
「あそこでな。野菜を作ってる」
「野菜? 体育館で?」
「ああ。水耕栽培ちゅうやつだ。土を使わんと、水と光だけで野菜を育てとる」
菜瑠とエイミは顔を向き合わせて、首をかしげあったが、それで何が解決するワケもない。
エイミが首だけでなく、肩まですくめたのを合図に、菜瑠はトキムネに訊いた。
「えっと、なぜわざわざ体育館で?」
外の畑――いわゆる露地栽培で良いのではないか。菜瑠の常識では、体育館は運動をする場所であり、罰則者に掃除をさせる場所であり、時には避難所とすべき場所だ。
「もうな、外はダメだ。昼間もずっと厚い雲がかかって、雨にはガラス質のモンが混じっとる。ビニールハウスも灰が積もってダメになる」
「そんなに」
「お前ら、あのドロ雨知らんのか? あれで水も土もダメになる。もちろん作物もな。せめてお日様が照ってりゃ何とかなるだろうが、ただでさえドロ雨にやられがちなのに、この日照じゃソバも育たん」
忌々しげに空を見上げるトキムネにエイミが問う。
「電気は? さっきのタチバナのビル、照明あったよね? ってことは発電所は動いてるの?」
「さあな。ナツカの外の事は知らん。でも、ここで使われてる電気は全て水力ってやつで賄われとる。農業用のな、用水路にな、ズラッと並べてな」
理路整然、ではないトキムネの説明によれば、何重かの――灰を除去するためフィルターをかけた用水を流入させることでようやくタービンを回し、電力を得ているということだった。なるほど、太陽光発電もトキムネが評すところの『ドロの雨』の前には無力だろうし、日照量も推して知るべし、だ。
一定の水量さえ確保できるなら、水力発電こそ昼夜を問わない安定した電力の供給源となろう。
「もうな、もうオシマイかも知らん、ってことだ。みながもてはやしとる水力発電だって、磨耗する部品の予備が無くなれば終わり。水耕栽培も電力が無ければ終わり。もうな、国が立ち直らんかぎり、ゆっくり終わっていく。それでも、こうしてみんな誤魔化し誤魔化しやっとるが、復興などとはほど遠い。ジワジワと死んでいっとる。ワシらも土地もな。それでも『外』よりかは、はるかにマシな暮らしができとるとは思うが……」
緩やかな死。ここに居るのは菜瑠たちを――山の上の施設に残った者たちを救ってくれる『救済者』たる大人たちではない。
ようやく菜瑠は思い出した。この眼、空を、街を見つめるトキムネの眼は、自分のよく知っている大人の眼と同じだと。菜瑠が慕った篠田学長と同じ眼なのだと。
「あんたらをな、あんたらの友達をな『助けない』ワケじゃないんだ。『助けられない』んだ。そこらじゅうから――近隣の店や工場からかき集めた保存食もな、いつまで持つかわからん。飼っとる家畜らに食わせる飼料も勝手に湧いてくるワケじゃない」
もしかすると、ここは――ナツカ自治区は、自分たちのいた施設よりも危機的状況にあるのではないか。
栽培による生産があるとはいえ、養う人数が多いだけに大量生産・大量消費が前提となろう。
「タチバナ君はな」ようやく最初の質問に立ち返り、トキムネは首を振る。「タチバナ君は、過去から何かヒントを得ようとしとる。古新聞だよ、彼が読んどったのは。図書館に収められてた新聞や書籍の片っ端――隅から隅まで目を通して、なにか現状を打開する何かを探しとる」
「……どうにかなるんですか?」
「ワシよりふた回りも若い男が、ここに住む全員のために何とかしようと毎日、毎日、寝る間を惜しんで頭を悩ませとる。それを『無駄だ』と言うなんてこと、ワシにはできんよ。結果がどうなろうともな」
沈黙が続いた。
自分たち――菜瑠やエイミ、が暗中に探し求めていた『光』はここには無かった。そしてまた、ナツカの人々も暗中に『光』を探しているのだろう。隣人に灯火を求めるか、あるいは自ら灯火をつけようとするか、その違いはあるにせよ。誰かの『光』になれる可能性があるぶん、後者のほうが建設的とはいえそうだ。
「あのさ、おじさん」エイミが久々に口を開いた。「『神奈川海』ってホントなの? そういうの困るんだけど、神奈川全域が海になったってマジ?」
「たぶんな。ワシ自身が見てきたわけじゃないが……『アッチ方面』から避難して来たヤツらはみんな口を揃えて言いよる。どうも本州は割れてしもうたようだ。須藤やら口の悪いモンは日本列島じゃなく『日本群島』『日本諸島』と言いよるし、村ぁなくしたマキエなんかは『いまさら幾つか島が増えても興味ない』とヘソ曲げとるがな」
「ふ、船で渡れたりするのかな? 橋とか架けられる!?」
「さあなぁ。国が機能せんことにはなぁ。この有様じゃあ、復興につかう金も資材も集まらん。期待せんほうがいい。だいいち……」
「だいいち、なに?」
「まだ広がっとるかも知れん」
離れて行っているのか、あるいは沈んでいるのか――は、わからんが、とトキムネはボンヤリとした口調で付けくわえた。
東京には戻れないエイミ。母親の住む実家が神奈川県は横浜市にある菜瑠。この二人にとって、『神奈川海』の話は到底受け入れられない。身内の安否に気を揉むより、『神奈川海』を否定するほうが精神的負担が少なく、確認もできない現状ではより建設的に思えた。
海など、パッと生まれるハズがない。馬鹿馬鹿しい――噂話だ。
* * *
犬は人につき、猫は家につく、と古人は言った。これが正しいか――真理をかすめているかどうかはツカサにはわからない。だが、七井翔吾という個性は人にも家にもつかなそうだ、とは思う。
少なくとも、誰もいない山村の、誰もいない家屋で待機して、もう4日は経った。
『探検』と称して村に点在する家屋へ無断で侵入し、家捜しを行い、漬物や乾物を発見した。不法であり違法であり、無法でもある行いではあったが、一緒に回った立場上、ツカサにそれを非難する権利はない。
それにも飽きて、いまは『本拠地』家屋の畳の上で二人、大の字に横たわっている。
「ねぇ、七井さん。なんで昔の家って天井が高いんですかね? これじゃ、暖房とか全然効かなくないですか? 」
「お前はホントなんも知らないんだなー。昔、一部の日本人は身長が2メートル50はあったんだぞ? 巨人族の伝説とかはその名残。この村は巨人族の末裔が暮らしてたんだよ」
「またそんな。じゃあ、その巨人族の村人たちは、村を捨ててどこに行っちゃったんです?」
「NBAにスカウトされた。今はアメリカでバスケやってる。レイカーズとかブルズでプレイしてチームを引っ張ってる」
「全員?」
「9割はな。サッカーに行ったやつもいる。ゴルフも」
「ゴルフって巨人のほうが有利なんですか?」
「でかいほうが遠くまで見えるじゃん」
「そっかー」
退屈を紛らわせるために愚にもつかない会話を半日以上続けているが、施設にいるよりは居心地はいい。
幸い、まだ『カニ』はもちろん『エビ』にもなっておらず、ツカサ自身、体になんら異変は感じられない。水も空気も汚染されてはいないようだ。
昨日、ナオが腹痛を訴えジンロクがひどく狼狽したが、一夜明けてその症状も寛解した。これは納屋で見つけた梅干しの食べすぎだろうと推定される。
「なぁロク」天井を仰ぎ見たまま、翔吾がジンロクを呼ぶ。
ひときわ大きな柱に背中を預けて座っていたジンロクが呼ばれてようやく目を開く。
「どうした? トイレか?」
「バカ、おれはナオと違って一人でできる」
巻きぞえで名誉を貶められたナオが発言の撤回を求めるも、翔吾は意に介せずジンロクと会話を続ける。
「もう充分だろ? こんだけ居て症状もでないんだから、そろそろ俺らも山ぁ下ろうぜ? このままここに居たら、日本語も忘れちまうよ。ツカサと喋っててもつまんねぇしよ」
悪態にはいささかムッとするが、これには正直なところツカサも同意だった。あまりにも退屈――居心地は良いが、この村にはあまりにも刺激がない。
だいいち、村をでれば――山を下れば――いままで想像すらできなかった経験ができるに違いない。ツカサを形作る全ての細胞がそう告げている。好奇心は猫を殺すと言うが、どのみち生には死がつきものなのは、今に始まった事ではない。
ジンロクは幾らかの間を持たせてから、ようやく「そうだな」と短く返事した。全員の合意――だがこうも言った。
「状況次第では、おれはナオとユキを連れてここか――施設に戻る。外が酷い状況なのは覚悟してきたつもりだが、食い物がなけりゃ病気以前に死ぬだけだしな」
食糧――これに関して、ツカサは楽観的だった。この村で見つけた漬け物だの、芋だか茎だかわからない『野菜』も、栄養の摂取という観点からは心許ないモノであったが、この遺棄された寒村でも食いつなげたのだから、大丈夫なはず――と。
どのみち、自衛隊なり、しかるべき機関が、救援物資を運び込んできているはず。もしかしたら先行した杜倉グループなどは既に温かい毛布と、湯気の立ったココアなどを振る舞われているのではないか。
考え込んだツカサ。天井を見上げたままの翔吾。それぞれの反応をうかがう様子もなく、ジンロクは腕を組んで続ける。
「『ただごと』じゃないのは明らかだろう。この村がなんで無人になった? この空はなんだ? この灰はなんだ? もし、日本全体が同じような状況にあったとしたら、街はおれたちのいた施設より酷い状況かもしれん」
「ロクは心配しすぎなんだって。もしな、仮に、あるいは酷い状況だったとしてもよ、タカユキとか――半村、深川クラスはそうそういねぇよ。げんに俺らはマトモなワケだし」
「あいつらが妙な『暴走』を始めて、それぞれ――でもそろって口にした言葉がその答えなんじゃないのか? 『世界は終わった』――と。それを現実として、こう、受け止めたとき、俺だって今まで通りの『俺』でいられるか……」
誰しも我が身が可愛い、きっとそれだけは確実な事実で、現実で、真実である。ツカサだってそれぐらい知っているし、実際に見てきた。どれだけ美しい衣をまとっていようと、多くの人は外部環境の変化でそれを脱ぎ捨てる。
――ジンロクさんも、人が変わるんだろうか。
「自分でもよくわからんが、俺が言いたいのは――。武装すべき、ってことだ。少なくとも、こう、パッと見て、襲いたくなくなる程度には……な」
襲いたくなくなる程度――それは、警察官が補導したくなる程度とも言えるだろう。
もちろん、いまの情勢下にあって警察に補導される、というのはゴールに他ならないが。