11-8 合流
男子3日会わざれば刮目して見よ。そんな言葉がある。
3日もあれば男は大きく成長し、自分の知っている3日前の彼とは別人のようになっている――と。
その言葉を初めて耳にしたとき、3日じゃ無理だろ――と憂理はいぶかった。
日常を生きていて、3連休など1年に何度もある。だが休みが明けたその日、たいていは気怠い表情をしたマヌケ面がそこかしこに生まれるだけ。自分がそうであるように。
そうして少なくとも、目の前に居るケンタや遼も大きく成長したようには見えない。
最後に会ったのはいつだったか――。菜瑠グループと別行動をとったのはいつだったか――。3日どころではない期間顔を合わせずにいたが、施設で見たままのケンタや遼が目の前にいた。この2人よりも、幼いユキの方が成長している。内面はともかくも、少なくとも背丈は少し伸びたように思う。
ラブホテルの一室。開け放された窓の向こうには、代わり映えのしない鉛色の雲がよどみ、入り込んでくる風が少しばかり肌に冷たい。
部屋のテーブルには色とりどりの様々な資料が広げられて、雑然としている。これは地図か。これはパンフレットか。
「で、憂理」耳打ち――囁くような声でケンタが訊いてくる。「あのオジサンだれ?」
安田が席を外していることを確認してから、憂理は首をかしげ、言った。
「さあ?」
「じゃあ、憂理」今度は本格的に耳打ちする形でケンタが訊いてくる。「なんで、T.E.O.Tの幹部がいるの?」
自分について言及されたことを空気で察したイツキが、伏せ目がちになって居心地悪そうにする。それに気がついた憂理は、なるべく彼女の立場を気遣った上で肩をすくめる。
「ん。俺についてくるって言うから、ついてきた。翔吾の許可は得た」
その名前――反T.E.O.Tの急先鋒であった少年の名を出されると、『なんらかの自分には把握できていない事情』を察してケンタが黙り込んだ、すると今度は遼が質問してくる。
「その翔吾はどこに? 僕らは施設を出たあたりで別れたっきりだけど、結局会えたの?」
「いや、それだよ。一応合流はしたんだけどな。お前が手紙に書いてたろ。ほら、山の村入り口に貼ってたヤツ。病気がどうのって」
「うん。読んだんだね」
「読んだ読んだ。でも手紙読む前に翔吾のバカが村に入って水をたらふく飲んだんだわ。それこそ浴びるぐらいによ」
「うん」
「んで感染してるカモってんで、ロクとかと一緒に村に残った」
「もしかして、熱が出た?」
「さあ? 見た感じは無駄に元気だったけど。病気って何なんだよ」
憂理の反問に遼はアゴに指を当て、ケンタを見て、最後に頭をかいて応じた。
「さあ?」
「お前、テキトー書いたのかよ」
「いや、あの村で何かの集団感染があったのは事実なんだ。そのせいで『13月以前』に村は壊滅状態だったんだ――と思う」
この降灰が始まる前――。遼が交番で読んだ日報から推察できたことを淡々と語る間、憂理は窓の外に視線を向けていた。
村人が運び込まれた麓の病院、それはおそらくこの名守市の病院であること。村では感染源の特定どころか、その病気がなんなのかさえ判っていなかったこと。そして、それが収束したかどうかも判らないこと――。
「クラシカ・テネカの仕業だ」
唐突に響いた声が遼の説明を中断させた。見れば、いつの間にか部屋の入り口に安田が立っていた。
確信に満ちた目、まばらに生えた無精ヒゲの中央でカサついた唇が笑みを作る。
「ヤツらがやったんだ。板ヶ谷集落の事件だろう?」
うんうんと自分の言葉に頷き、安田は続けた「ナツカでも噂になってたよ。板ヶ谷から逃げてきた女の子がいてね。『カニ』になるって言ってたなぁ」
この言葉に遼が強く興味を示し、身を乗り出して食いついた。
「知ってるんですか? なにがあったのか」
「知ってるさ。知ってる。これ以上は言えないな。まだ確証がなくてね。君たちが信用できるかどうかも判らないわけだし? だいたい……おかしいな……君たちクラシカ・テネカを知らない? てっきり関係者かなにかだと――」
「えっ? なんでです?」
関係者であるはずがない。少なくとも憂理に関して言えば、施設を出る以前にそのような固有名詞を聞いたことがなかった。憂理による反射的な問いに、安田はカサついた唇を指先でなぞり、数秒の間を持たせてから応じた。
「いや、そう聞いた――というか、いや、まぁ、そんな気がしただけなんだけどね。違うのか。まぁいいよ。それより――。ここは危険だから、別の場所に移った方が良いな」
「何が危険?」
「色々ね、説明は長くなるから省くけど、ほら、こんな小さい子もいるんだし、えっとユキちゃんだっけ? ユキちゃんのためにも、もっと安全な場所に移った方が良いなァ」
たびたび安田が発する、奥歯にモノが挟まったような言い方――。これは憂理の猜疑心を少なからず刺激するモノであったし、安田の良くない心証につながっていた。
憂理の得た印象と似たようなモノを感じたのか、ケンタも訝しげに応じる。
「いや、ぼくたち友達を待ってるから、このままでいいよ。そういうのは菜瑠たちが帰ってきてから考える。ね、遼」
「駄目だッ!」
唐突に安田が怒鳴り、その怒声は室内をまんべんなく揺らすと窓から外へ抜けてゆく。
「危ないって言ってるだろッ! お前らは良くても、ユキちゃんが危ないって言ってるんだ! 今すぐに移動するんだ! わかったな!? 返事は!?」
なんと横暴なことだろうか。
大人に怒られる――この予想外の展開に、ケンタの横にちょこんと座っていたユキは当然、イツキまでもが身を小さくしてうつむいた。前触れなく、唐突に発せられる怒りという感情は、当事者のみならず第三者にまで不快感を与える事が多いが、少なくとも憂理やケンタにはそれほど新鮮なものとは言えなかった。
憂理は先ほど安田の『突発的な怒り』を浴び、安田の『瞬間湯沸かし器』具合を知っていたため、それほど驚きはなかった。かつ、それ以上に恐ろしい半村や深川の『怒り』経験していたのも大きい。
ケンタに関しては『怒られ慣れている』という以上に単純に鈍感だった。遼などは完全に他人事で、研究材料を得た科学者のように、静かに安田という生き物を観察しているのがわかる。
「やだよ」ケンタがわざとらしくゴロリと床に寝そべって、反抗する。「ここ居心地いいもん。それに変に移動しちゃったら、またエイミに飯抜きにされちゃう。ね、遼」
「僕に振らないでくれよ。でも、おおむね合意かな。入り口は封鎖すれば良いし、この窓から見張ってれば外の様子はだいたい把握できるし。別段ここで待ってても危険とも思えない。憂理はどう思う?」
「いやおれ、来たばっかだからわかんないけど。少なくとも屋根があるし、壁はあるし、文句はねぇなぁ。なにより、そのデカいベッドで寝てみたいし。イツキは?」
「わ、私も、お、大きいベッドで……」
恥ずかしそうなイツキが言葉を終える前に、安田は「もういい!」と怒鳴りつけ、顔の中心に向かって深いシワを作りながら早歩きで部屋の中央へ進み始めた。一目瞭然に向かう先は、ユキだ。
憂理が素早く立ち上がり、その進路に立ちふさがると、ケンタや遼も同じように安田の前にその身をさらす。
「どけ! お前らガキじゃ、話にならん!」
「『話』してないのは、アンタじゃないすか」
安田が小男であるため、いざ面と向かって対峙しても半村の時のような大きな体格差はない。もちろん体重差はあるのだろうが、それも3対1の状況ではおおきなイニシアチブとはなり得ない。そうこうしている間に、イツキまでもが立ち上がって、4対1の構図を作る。
「ぼくらはね」ケンタが普段と変わらぬ闘志を感じさせない態度のまま言う。「ロクから『ユキを頼む』って言われてるんだ。男の約束だよ」
「はぁ!? それがどうしたんだ! 危険かどうかの判断もできないガキが、え、偉そうなこと言うな!」
怒鳴る安田の大きな口。奥に見える虫歯と、ドブ水を濃縮したかのような強烈な臭気、飛んでくる唾液の飛沫。それが『攻撃』であるなら、ある一定の効果はあった。だが、趨勢を決めうる決戦兵器とはなりえない。
憂理は気後れしながらも安田と顔をつきあわせ、わざと高圧的に言った。
「アンタが一番『危険』じゃないスかね」
1秒か2秒。あるいはもっと長い睨み合いがあった。菜瑠やイツキなどと唇の届く距離で顔をつきあわせた時とは違う――中年男性特有の醜さがあった。開いた毛穴が黒ずみ、目頭には渇いた老廃物、剥き出された前歯は黄色い。
真っ向から対峙した敵。これが半村であったなら、苦笑とユーモアののち、鉄拳が飛んできただろう。だが安田は暴君とは違い、怒りの感情を表に出すばかりで行動に移そうとはしない。ただ呪詛《 じゅそ》じみた視線を投げかけてくるだけだ。
肩の怪我が治りきっていない憂理としては、正直なところ取っ組み合いは避けたい。だがそれは安田も同じことだろう。血の滲む状態を見れば、安田のソレは憂理のソレよりも新しく、深い傷に見える。
数秒の緊張が場にあって、やがて、安田が眼鏡の奥で垂れ目を作った。
「やだなぁ、喧嘩腰なんてサー。やめようよ杜倉くんー。ボクは君たちのことを思ってサ、アドバイスをしただけじゃないか、んー?」
「アドバイス? そうは思えなかったケド」
「いや、強制なんてしないんだよ? ただユキちゃんのためを思ってサ? ここ危ないんだよ、本当に」
「アンタの言う『危険』って?」
態度を軟化させてはいたが、敵意を消さずぶっきらぼうに対応する憂理に、安田は微かな不快感を滲ませた。だが先頃のように言葉遣いを指摘はしない。
「いやね、Tシャツ着たサルがいるんだヨ。サル。おっきいヤツね。変に凶暴でサ、見つかったら襲ってくるかも知れないヨ? この肩の怪我もそのサルにやられたんだ。危ないだろう? ユキちゃんがそんなのに襲われても、君たちだけで守り抜けるの?」
滔々《 とうとう》と語る安田だったが、自分の犯したミスに気付ける余裕もないらしい。そのミスにいち早く気がついたイツキが、安田から見えない角度で憂理の服を引っ張り合図する。
憂理もそのミスに引っかかりを感じており、イツキの『合図』によって、それを確信へと変える。
「安田さん。アンタ、さっきその怪我は『ナツカ自治区でタチバナ派のヤツらにやられた』って言ってたよな。サルじゃなく」
「いや、言葉のアヤってやつさ、それは。言うなれば、そう、サルがタチバナの兵士みたいなモノだからサ」
「本当に?」
「ああ、ホントウ。タチバナは動物使いなんだ。日本がこうなる前には動物園の飼育員をやっていたと言うしね」
――動物園の飼育員がサルを兵士のように使う?
憂理にはこの発言の真偽が判断できなかった。自分の記憶では、たしかに動物たちは飼育員たちに従順であるように見えたものだが、だからといって兵士のように操ることができるのだろうか。あまりにも荒唐無稽な話に思えてならない。
ぼんやりと、猿山に群れる大小のサルを連想していた憂理の服をまたイツキが引っ張った。しかし、憂理には突っ込みどころが判らない。数秒の後、言葉に詰まった憂理を見かねたか、イツキが直接安田の『ミス』を指摘する。
「さっき、『タチバナは役所の職員だった』って言ってましたよね? 動物園の飼育員じゃなく」
度重なる指摘に苛立ったのか、安田は熱っぽい小さなため息を横に吐いて、言う。
「公営の動物園だったんだろ。市が経営してるから、職員も飼育員も公務員なんだよ。もう、勘弁してヨー。揚げ足取りはお行儀よくないよ、イツキちゃん。ボクの言うことを疑ってるのかい? ええ?」
「そういうワケじゃないんですけど……」
「こんな時だからサ、みんなで力を合わせなきゃいけないよネ? なのにそうやって君たちは連帯を乱すようなことばかりする。よくないなァ。でもボクも反省すべき所はあるかもね。話を急ぎすぎた。びっくりしたよね?」
急に幼子を諭すような口調になったが、どうにも『悪い印象』がぬぐえない。憂理やイツキがそうであるように、ケンタや遼も訝しげな顔で互いの表情を読み合っていた。
「俺たち」憂理は無言のまま交わされた相談に方針を決め、安田へと向き直った。
「合流したばかりでみんな状況が把握できてない。だから、ちょっと話し合うことにするよ」
「ん、そうだネ。それがいい。みんな連帯しなきゃいけない時だしね。ね、ユキちゃん?」
そう言って、安田は満足げにウンウン頷き、憂理たちを刺激しない程度の緩慢な動作でベッドへ歩み寄り、腰を落とした。
「うん、さあ、話し合って」
「……いや、『俺たちだけで』なんだけど」
これが意外であったらしく、安田はメガネの奥でギョロリと眼球を動かした。こんなことで驚かれても困る。憂理にとっては『安田のことも踏まえての話し合い』なのだから、当事者がいてはやりにくいどころではない。
全員の視線をその体に浴びた安田は、平然を装ったまま再び腰を上げ、襟を正してから言った。
「うん、うん、そう。そうだネ。ちょうど、ボクも『やらなきゃいけないこと』があって、席を外さなきゃいけないんだ。うん。その間に話し合うと良いヨ。夜にはまた戻ってくるから。じゃあ、またねユキちゃん」
一気にまくし立てると、安田はそのまま部屋のドアへと進み、最後にウインクを見せて出て行った。
どうにも、やりにくい人物だと思う。彼の感性が古いのか、自分の感覚がおかしいのか――。もちろん、憂理は仲間たちの反応から、その答えが前者だと気がついてはいたが。
「気持ち悪いおっさん」
ケンタの言葉が過不足なく安田の人物を言い当てていた。
「変な人だね」
一方の遼による人物評は多少オブラートに包まれている。憂理などはケンタにも遼にも同意したい。
疲れを感じた憂理はベッドの方へと歩み寄ると、しわくちゃのシーツの上にドサッと体を投げ出し、波打つような反発をその身で楽しんだ。安田がどうであれ世界がどうであれ、ここで今晩眠れるというだけで、自分は幸福なのかも知れない。
「ちょっと、憂理! 話し合うんだろ? おっさん戻ってくるよ!」
「すこしだけ……。少しだけ休ませて。全身ボロボロ……」
施設から出てどれほど歩いたか。靴がすり切れるほど歩いて、ようやくたどり着いた先では、奇妙な中年とのくだらないやりとりがあっただけ。
酷く疲れて、このまま眠ってしまいたい。人間として、その程度の自由はあっても良いはずだ。
憂理が横たわるベッドに、ケンタと遼がやって来て、その縁に腰を下ろした。
「あの人の『やらなきゃいけないこと』ってなんだろ? もう戻ってこなくても良いのになぁ。憂理も戻ってきたと思ったら、変なの連れてくるよね。だいたいなんでスーツ……というかモーニングを着てるの遼?」
「んー。結婚式の帰りだったんじゃない?」
カラカラと脳天気に笑うケンタと遼。その声を近くで聞きながら、憂理の意識は遠く眠りの底へ落ちようとしていた。久々に聞く笑い声は、どんな子守歌よりも憂理を安心させてくれる。
戻ってきた――そんな気がする。