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13月の解放区  作者: まつかく
2章 獣性の解放区
12/125

2-1 遺体安置所

挿絵(By みてみん)


憂理はこみ上げる嘔吐感を必死で飲み込んだ。


ようやくトイレの入り口近くまで来ていたエイミが、甲高い悲鳴を上げ、膝から崩れ落ちる。翔吾やケンタ、彼らの唇も受け入れがたい眼前の情景に、軽口を封じられている。


「なんだよ……なにがあったんだよ、これ」


そんな憂理の呟きに、誰も答えることはできない。憂理は後ずさり、トイレから出ると、開け放されていた引き戸をゆっくり閉めきった。


「死んでる」


「ああ……」


死体から少しでも離れようと、丁字の中央まで引き返そうとするが、エイミは膝を震わせまともには立てない。遼も、ケンタも、翔吾ですら不安げに体を小さくしている。


「自殺……か?」

翔吾が悲痛な表情で問う。


「……わからない」

しかし、便器の水で自殺などできるのだろうか。かといって自然死はもっと考え難い。

――他殺。

なんにせよ、どうするべきか早急に決めねばならない。


「誰かに言わないと」


エイミが震える声で言うが、遼が目を伏せたまま首を左右に振った。


「誰に言うの? 電話はないから通報はできないし、大人は学長か深川しかいない……」


つまり、頼るにしても、疑惑のつきまとう大人2人ということ。もし、学長なり深川なりが痩せ女の死に関与していたならば、次にこの隔離エリアに幽閉されるのは自分たちかも知れない。


寄る辺ない不安。頼るべき大人が信用できぬ今、頼れるものは自分たちだけだ。乏しい知識と、震える膝でしっかりと立たねばならない。


「ケンタ。入り口を見張ってくれ」


憂理は錠のついた入り口を指差した。ここまで来た以上、もう引き返せない。ここを徹底的に調べなきゃならない。憂理は落ち着きを取り戻すため、意識的にゆっくりと話す。

「いま……向こう側から鍵をかけられたら、オシマイだ。閉じこめられて、俺たちが第二の痩せ女になる。連絡通路側で見張っててくれ」


ケンタは深刻な表情で頷き、素直に入り口ドアへと向かった。


「俺たちは、ここを調べて、できるだけ情報を集めよう。手がかりになりそうなモノならなんでもいい」


「ハッキリ言って」遼が伏せていた視線をあげた。「僕らはなにもわかってない。痩せ女のことも、この施設のことも」


遼は言う。学長や深川に悪意があるなら、その証拠を見つける必要がある。証拠さえ見つければ、なんとか施設から抜け出して、警察に駆け込めばいい。

できるだけ、早く。できれば、今晩中に。

憂理はこめかみに指をあて、深呼吸をした。頭に熱を感じる。自分は混乱しているのではないか、冷静を失ってるのではないか。


「とにかく、急ごう」


憂理の言葉を合図に、全員が散らばる。なにをどう探せばよいのかわからないまま、自然なかたちで二手にわかれる。憂理は遼とともに手近の部屋へ向かった。

フロート式のドアを開けると、内部からすえた臭いが溢れてきた。


壁を探って照明をつけると、ここはどうやら寝室らしい。薄い暖色に汚れたシーツに形の崩れた枕。

ほうぼうに散乱しているのは紙だけではない。衣服や下着だ。

あまりにも生活感に溢れている。


「違う」


直感的に憂理は踵を返した。この部屋にはなんの情報もない。消灯し、次の部屋へ向かうと、別部屋から出てきた翔吾と鉢合わせた。


「翔吾、こっちはベッドルームだ」


「こっちは倉庫らしい。保存食が大量だわ」


床に散らばるビニールを指先につまみ、翔吾は唇を歪めた。

「これ、全部保存食のパックだぜ。行儀のわりぃ……女だな」


なるほど。監禁状態とはいえ、食事は自由だったらしい。好きな時間に好きなだけ、好きな場所で食べて……。

あるいはケンタならば、監禁とはいえこんな処遇も喜ぶかも知れない。

だが、痩せ女の体格を思えば、少なくとも食欲をそそる環境とは言えなかったようだ。


次の部屋に入ると照明が点灯したままになっていた。とはいえ上部の主照明は消えており、書架の脇に設置された卓上照明の心もとない光だ。壁のスイッチを切り替えるが、主照明は点灯しない。

――切れてる。


薄明かりの薄暗い部屋を見回す。書斎、といえば語弊があるかも知れないが、少なくとも書棚と机はある。

――ここならば、なんか情報が……。


痩せ女が何者で、なぜここにいたのか、その手がかりになるような情報が得られるかも知れない。憂理が書斎に一歩踏み入れた刹那、短い悲鳴が上がった。

悲鳴に続いて、嗚咽。汁っぽい音。

低めた姿勢で憂理が振り返ると、トイレ前の通路でエイミが吐いていた。


「遼、ここ頼む」


端的に言うと、憂理は素早くエイミの様子を見に戻った。


「おいエイミ、大丈夫か」


トイレの引き戸が開かれ、痩せ女の遺体が見える。


「ユーリ、死んでる、そのヒト、ほんとに死んでるよ」


憂理は取り乱すエイミの横に膝をつき、腕を肩に回させ、ゆっくり立ち上がらせた。顔は吐き戻した反吐と涙でぐちゃぐちゃになっており、普段の飄々としたエイミは見る影もない。


「まったく、バカだな、言ったろ……」


ゆっくりとケンタのいる入り口のほうへ歩かせ、ドアのそばに座らせた。

「エイミはちょっと休んでな。ケンタ、頼む」


半開きのドアから半身をのぞかせたケンタが、無言で親指を立てた。エイミは、壁を背にして三角座りをしているが、吐き気は収まったようだ。


三角座りで、立てた膝に顔を埋め、小刻みに肩を震わせておりショックの大きさがうかがえる。これ以上探索に参加させるのは酷であろう。

憂理が立ち上がろうとすると、膝を抱いていたエイミの手がスッと伸び、憂理の服を掴んだ。

そして顔を伏せたまま、エイミが言う。


「ユーリ、ごめん」


同じような言葉を涙声で何度も繰り返した。

――女には刺激が強すぎたのかも知れない。

自分ですら身震いと嘔吐感を抑えるのに精一杯だった。今こうして自分を突き動かしているのは使命感だけで、それがなければ死体を見た瞬間に飛んで逃げているところだ。憂理はそんな事を考えつつ、なるべく穏やかに慰めた。


「いいって、別に。でも、死んでるって言ったろ? なにも確かめなくても……」


「ほっとけないよ」


「ほっとけない?」


涙声で顔を伏せたまま、エイミは首を振った。

「女の子だよ? どんな境遇にあっても、どんな姿になっても女の子だよ? あんな、トイレに……便器に顔を埋めたまま……ほっとけないよ!」


エイミは遺体の確認をしたわけではなく、痩せ女を便器から出そうとしたのか。憂理は発見したままで放置していた自分を恥じた。

死者への敬意を忘れ、恐怖の対象としてだけ見ていたなんて、人間として最低だ。そうだ彼女は女の子だった。


「……そうだな。そうだよな。あとは……俺が何とかしとくよ。えっと、ありがとうな。エイミ」


涙でぐちゃぐちゃになった顔でエイミが見上げてくる。憂理は何だか照れくさくなって、エイミの手をほどくと、足早にトイレへと戻った。

謎を追いかけるばかりで、自分は大切なことを疎かにしていた。

――こんなの男じゃないな。


気味が悪いのは確かだ。恐怖を感じているのも確かだ。だが、痩せ女が救いを求めてきたのも確かだ。それを救わず、化け物のように扱い、死してなお辱めるようなマネを……。


「そうだよ男じゃねぇよ」


自戒のように呟き、憂理はトイレに足を踏み入れた。

じっとりと湿った空気の奥に、痩せ女がいる。天井から降りてくる白い光が主の死に気がつかないまま室内を寒々しく照らしていた。

ゆっくりと遺体に近づくが、臭いはない。死んでからそれほど時間は経過していないらしい。


頭部の半分が便器にはまり込んでおり、便器の中は黒髪で満たされている。

憂理は痩せ女の脇に立ち、その細い肩を掴んだ。薄いワンピースを通して、遺体の冷たさが伝わってくる。


「水なら、倉庫にあったのに」


まさか喉が渇いていたワケでもなかろうが、そんな軽口でも飛ばさないと、恐怖でおかしくなってしまいそうだ。肩を掴み、引きずるようにして便器から引っ張り出す。その身体は思いのほか、軽い。


死後硬直のためか、頭部がガクリと動いた以外は、マネキンのように固まったままだ。

1メートルほど便器から離すと、そこで体の側面に手をかけて、ゴロリと仰向けにする。濡れた髪がスダレのように顔面を覆い隠し、表情はうかがえない。


憂理はスッと立ち上がり、ベッドルームまで戻った。そうして散乱する着衣のなかから、一番汚れの目立たないものを選ぶと、拾い上げてトイレへと戻った。

憂理は仰向けの痩せ女のそばで膝をつけ、手にした着衣をなるべく綺麗に四角に折ると彼女の顔にかけた。

中空に上がっている彼女の腕も、できるだけ自然になるよう曲げて、苦しみの表現を消す。


「なにがあったのか、まるでわからないケド……。助けられなくて、ごめんな」


返事はない。

お祈りの正しい作法など知りはしないが、憂理は手を合わせ、自分なりの祈りを捧げた。せめて、安らかに、と祈りを締めくくり、憂理が閉じた目を開くと、彼女の首元に目がとられた。


それこそ触れれば折れるほどの細い首。その白い首回りに、なにか黒い模様が見てとれる。何だろうか、と近づいて観察してみると、それはどうやらアザらしい。内出血、鬱血した部位が黒く変色している。


そして、それはぼんやりと指の形をなしており、柔肌に突き立てた爪の痕跡もうかがえる。これは彼女が、自らの両手ではつけられない痕跡。拙くも、率直な推理が働く。

単純な話だ。誰かが、彼女を便器に押し付けて、溺死させた。つまり、これは殺人だ。


――人殺し。

――誰かに伝えないと!


憂理は素早く立ち上がると、駆け足気味にトイレから出た。

誰とも知れぬ女が、誰とも知れぬ誰かに殺された。それを誰かに伝えねばならない。


怖気をまとった憂理が通路にでると、緑の世界にはすでに遼と翔吾がいた。2人で怪訝な顔を向かい合わせ、なにか話し合っている。

憂理が足元のゴミを蹴散らかしながら駆けより、痩せ女は何者かに殺害されたらしい、と伝えると、2人は緊張の表情を一層強くする。


緊張が沈黙を呼び、沈黙が焦燥を煽る。つかの間の静寂に、翔吾が呟いた。

「誰がやったってんだよ……」


沈痛な面持ちで遼が応える。

「警察に行こう」


誰の反抗にせよ、殺人の証拠となる痕跡があるならば迅速に通報せねばならない。警察ならば、痩せ女の素性も犯人の特定も容易に終わらせるであろう。

遼の言の正しさを認め、憂理は頷いた。


「だけど……どうやって通報するんだ?」


生活棟には電話は無く、外へ出ることも叶わない。かといって、学長や深川に相談など、次の犠牲者を決定させるような愚行になりえないか。考えてみれば、自分たちにできる事など何もないではないか。


改めて自分の境遇を思い起こせば、自分の置かれている環境の異常性ばかりが際だつ。外部と完全に隔絶され、連絡もとれず、大規模な監禁、あるいは隔離されていると言っても過言ではない。

一部の女子たちが、親にむけて手紙を書いていたが、それも本当に届いているかどうか……。


「どうするよ、ユーリ」


翔吾が強い視線を憂理に投げかけてくる。どうするか、決まってるよな? とでも言いたげだ。


「どうするって?」


「言わせるなよ。脱走するのかどうか」


「脱走……」


突飛な発想ではない。理屈が煮詰まると、全ての選択肢が潰れ、ひとつの解答につながるのだ。翔吾は険しい表情で続ける。

学長や深川は信用できない、外部とも連絡できない。ならば、脱走し、直接警察へ駆け込めばいい――。

単純な話だ。即答を躊躇した憂理と対象的に、遼が目を伏せて頷いた。


「僕らの身の安全を考えれば……。すぐに行動に移すべきだね」


「遼は脱走に賛成か?」


「賛成だよ。一刻も早く逃げよう。学長が痩せ女を殺ってなくても、誰かが殺したんだ。……僕らは、殺人者とひとつの施設のなかに閉じこめられてる」


遼の言葉に憂理はどきりとした。学長であるなら、むしろ安全だったかも知れない。学長を危険人物と認識し、警戒や用心を怠らなければ最悪の事態は回避できるからだ。

だが、それ以外の誰かとなると、警戒の範囲を大幅に広げなければ……。

悪寒を伴う閃きが、憂理の脳を焼いた。


「翔吾、遼、上階に戻るぞ!」


突如として声を上げた憂理に、2人は驚いた様子で目を見開いた。


「いますぐ脱走か!?」


「とりあえず! とりあえず上階に戻るんだ! この階には『大人』がいる! 犯人は『大人』かも知れない!」


学長と深川を除けば、『大人』が殺人者の最右翼に思えてならない。仮にそうでなくとも、危険であることには変わりない。

いまは身の安全を最優先に考え、すぐに安全圏へ避難すべきだ。脱走の算段は、勝手知ったる上階に戻ってからでも遅くはない。


憂理の意見に反射神経抜群の翔吾が走り出すと、すぐに遼もその後を追った。入り口ではエイミが依然として座り込んでおり、それを半開きのドアから半身を出したケンタが、困惑の表情で見守っている。


「ケンタ! 撤収だ!」


突然の事態の展開に、ケンタは唖然とした様子だ。しかし、すぐに頷き、太い腕でドアを全開に開いた。翔吾と憂理が素早くエイミの左右にポジションをとり、引っこ抜くようにして強引に立ち上がらせる。

「戻るぞ! ここは危険だ!」


エイミの返事を待たず、全開のドアの前へ歩み寄る。そうして、なだれ込むようにドアをくぐり抜けようとした瞬間、ケンタが手を伸ばし、全員の動きを制した。

「なんだよ!」


「ユーリ……あれ。あそこ……誰かいるよ」


大蛇の腹に飲まれたような緑色の直線通路。

その遥か先に誰かがいた。全員の緊張が空気を凍らせ、静寂が耳に痛い。


30メートルほど先、誰かが居ることはわかる。だが、余りにも小さい。5人の中で一番背丈のない翔吾より身長が低い。

小さくも横幅のある人影は、まんじりともせず、じっとこちらをうかがっていた。憂理たちは動けず、ただ息を飲むばかりだ。


鼓膜に心音が届き、肺が空気を拒絶する。憂理は最良の選択を探すが、どの選択肢にも決断を下す勇気が沸き上がらなかった。

『痩せ女部屋』に逃げ込んでも、しょせんは袋小路であり、立ち向かうには自力に自信がもてない。


数秒、あるいは数十秒が間延びしたように感じられる。憂理が決断の先送りに終始していると、事態は相手によって動いた。小さな人影が、その場で影の形を変えたのだ。

憂理たちは本能的とも言える反応で姿勢を低めたが、視線は人影から離せない。ゆっくりと形を変えた影は、丁字路の左方向へとゆっくり移動してゆく。


「……車椅子だ」


憂理は呟いた。車輪が廻るたびに、影が進んでゆくのだ。キイキイと金属音を聞かせては、滑るようにして緑の世界を移動し、やがてそれは視界から消えた。


「こっちを、見てた」


誰もが押し黙り、ただ安全が確認されるのを待っていた。湿気の高い地下の空気に、どこか物悲しい音が尾を引いている。

キイキイと小動物が泣くような金属音だった。やがて、どこか遠くで扉が開かれ、そして閉じる。

憂理は聴覚を研ぎ澄ませて音を探っていたが、それを機に、車椅子の泣き声は聞こえなくなった。

浮き上がった汗がすっかり冷えて、不快感を煽る。


「あれ……ノボルの言ってた車椅子……か?」


翔吾の声にも緊張が残っている。

誰もが自らの命には真摯なように、恐怖に対しては素直である。遼も例外ではない。


「確実に、こっちに気付いていたよね……。じっと、見てた」


敵意は無かったのだろうか。憂理は考える。こちらを発見、目撃していながら、ただ観察しているだけだった。それが余計に気味悪く、胃をもたれさせる。


「少なくとも、2人は地下にいる」


あれこれ詮索するには、あまりにも余裕がなかった。今は少しでも安全な階上に戻って、乱れた心を落ち着かせるべきだ。


「行くぞ、急げ」


「ごめん、ユーリ、あたし……」


エイミが泣きそうな表情で、憂理にすがった。

「足が……膝が、言うこときかない……」


阿吽の呼吸とも言うべき無言の動作で、憂理が左、翔吾が右に回り込み、エイミの腕を首に回す。

「いくぞ!」


ほとんど引き摺るような形で、エイミを走らせ、一同は通路を駆け抜けた。通り過ぎる照明の一つ、また一つが、無機質な目になって見つめてくるように感じられる。


「どうなってんだ! ここはよ!」


誰に言うでもない翔吾の憤慨が、不可解な状況の全てを言い表していた。

だがそんな問いかけに答えられる者はいない。





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