11-7 大人たちの国
壁は中にあるモノを守るために造られる。
それが高く、厚く、頑強であればあるほど、建造した者が『内』にどれほどの価値を見いだしているかがわかる。
守るべきそれは財産か。それは身内や仲間の安全か。あるいは自らの地位であったり、あるいは囲った土地そのもので、それらを総称して宝というのかも知れない。
ナツカ自治区と外を区切る壁の前に菜瑠はいた。
少なくとも、眼前にそびえるこの壁は自分を拒絶している。そう思う。
この壁は何を守ろうとして築かれたのだろう。
遠くから眺めたときは、民家の塀に使用されるようなコンクリートブロックを積み上げたモノだと菜瑠は思っていたが、近くでよくよく観察してみれば、壁を構成する物質は多様を極めていた。
建築廃材や巨大な岩。木材に家電。そして打ち棄てられたままの民家の外壁も壁の一部に取り込まれている。
世界中に文化的遺産となった壁は多いが、この――粗雑な造りのナツカの壁は100年後に遺跡として残ってはいないだろう。言ってみればコンクリートで固め、壁の形を形成させたゴミの山でしかない。
しかし現状、ナツカ壁は壁として充分に機能しており、少なくとも菜瑠とエイミの侵入は阻止していた。
「菜瑠。だめだ。登れない」
垂直に切り立った壁の前でエイミが言う。いまいましげに壁を小突き、ついでに蹴る。
粗雑な造りなくせに、外部に向かって傾斜がかけられているため並大抵の腕力では登れそうにない。
「エイミ、どこか壁が低い場所ないかな? そこから、こう、よじ登って……」
「でもさ、こっちに向かって傾いてきてるし、壁の上の方、有刺鉄線が張ってあるよ? ほら刑務所みたい」
エイミが指さした壁の上辺には、枯れたバラの茎のような針まみれの鉄線が見え隠れする。
『侵入』という好まれざる行為を行う招かれざる客。それらの一切は拒絶する――。そんな作成者の意思が明確に感じ取られた。
「うーん……登って怪我するのもアレだし……壁伝いに移動して、どこか入口を捜そうよ。さすがに出入りする場所はあるとおもうし」
「うぇー。まだ歩くの……。アタシもう足がパンパンだよ。そのうちケンタの丸太みたいな足になりそう」
稲上ケンタや七井翔吾がいなくなったことで、エイミが愚痴吐き役になっている。その役は誰かが自然に引き受けるもので、エイミがいなければ菜瑠自身がその任につくのは言うまでもない。
菜瑠自身、体力も気力もほとんど限界に達しており、弱音が吐けるなら弱音を吐いていたいのが本音だ。
菜瑠は心中の疲労を表情に漏らさないよう、ささやかな笑顔を作り、エイミの背中を押す。
「もしかしたら、ここがゴールになるかも、だからあと少し頑張って」
「ゴール?」
「これだけ大がかりな壁を作れるぐらいだから、中には沢山の人がいるはずだよ。ようやく『救援』を送ってもらえるかも。『マトモ』な人たちだったら……だけど」
キスミなり安田なり、地下施設を出てから出会ったあまりマトモでない大人たちの言葉を信じるなら、このナツカ自治区には近頃見なくなって久しい法と秩序がある。おそらくそれは、自分たちを害するモノではない。
施設への救援要請を済ませた後、四季の捜索も手伝ってもらえたなら、ここがゴールだ。
壁の外周を移動しながらそんな説明をすると、エイミは心なしか元気を取り戻したようだった。
「しっかしさ、菜瑠さ……。コレって凄い規模じゃない? 避難民が集まったにしても、敷地がデカすぎるっていうか……やりすぎっていうか。どのくらいの広さがあるんだろ」
「うーん。さっきマンションの屋上から見た感じでは……」
「見た感じでは?」
「少なくとも5km2以上はありそうな感じ?」
「5平方キロメートルって、どんぐらい? 東京ドーム何個分?」
「わたし東京ドームいったことないもん。わからないよ。ともかく、壁のずっと先が霞んで見えなかったから、凄く広い」
「ふうん。ま、アタシはちゃんとしたお風呂があったらそれでいいや。もう、ホントに限界。いま『満員電車に乗れ』って言われたら、全身に香水100本ぐらいかけなきゃ無理」
この意見には菜瑠も、そして行方不明中の四季も同意であることだろう。
そもそも『風呂に入る』という目的をもってホテルを出て、結局自分たちは汚れたまま今もこうして灰色世界を彷徨っている。熱いシャワーと、日なたの匂いがするバスタオルがあると言うだけで、そこを天国だと認定しても良い。そんなふうに菜瑠は思う。
かくして壁際を歩きはじめて30分は経過した。
壁に沿って道路を横切り、ドブ川にかかった橋も横断する。ドブ川は微かなせせらぎを聴かせながら、死んだ街を流れ、それは壁の中まで流れ込んでいた。この川から壁の中に侵入できるのでは――と川下を確認してみれば、しっかりと鉄格子によって封鎖されている。
古い――歴史を感じさせる石橋の上に壁があり、その下を流れる川には鉄格子。これは城塞都市でも創る気なのだろうか。
そのまま壁沿いに進み、民家の庭を横切っているとき――エイミの元気が切れた。
民家の庭に置かれていた大きな庭石にヘナヘナと腰を下ろし、マンションの建築現場から持ち出してきたお茶をポケットから引っ張り出して首筋を見せてぬるい飲料を飲み下す。
そうして、何度か喉を鳴らしてプハと大きく息を吐いてから、エイミは壁に向かって大声を上げた。
「ふざけんな! 壁! 長けりゃイイってもんじゃないのよ! 万里の長城のつもり!? だいたい、民家の壁とか勝手に取り込んでるんじゃないわよ! アタシが持ち主なら訴えてやる!」
そんなエイミの悲痛な罵倒が灰色の空の下に響いた。その声は微かな木霊を聞かせながら遠くへ、もっと遠くへ響き渡ると、やがてむなしく消えてゆく。
菜瑠もエイミに倣って庭石に腰を下ろし、ぬるくなった茶を少しだけ飲んだ。
そうして休憩がてら、漫然と『壁の一部』と化している民家を観察した。
侵入口になりそうな一階は、すべて金属製の雨戸、ないしベニヤ板で封鎖されており、小さな窓も格子枠がハメ込まれている。
――雨戸を壊して入れないかな。
侵入の糸口をさぐるべく菜瑠はゆらりと雨戸の近くへ歩み寄って、引いて、押してを何度か試してみた。だが駄目だ。雨戸はガタガタ音を立てるばかりで外れそうにない。意外と頑丈な造りであるようだった。
――こう、隙間にバールとか差し込んで、強引に。
ほとんど空き巣に手を染めようとする犯罪者の発想ではあるが、もちろん『道具』は用意していない。
菜瑠は周囲を見回して、庭先に落ちていた木片を見つけると、ソレを雨戸の隙間に無理やり差し込んでみる。グリグリと押し込む作業を続けると、木片は形を崩しながらも少しずつ雨戸の隙間を大きくしてゆく。
「なるぅ。入れそう? いけるの?」
エイミが庭石の上で三角座りしながら聞いてくる。これは他力本願を形にしたような女だ。
「ちょっと待ってね、もうすこし」
木片によって生まれた数センチの隙間から、菜瑠は民家の内部を覗いてみた。
そして、そこに文明をみた。
薄暗い室内。そこは過去には台所であった場所らしく、奥にシンクと棚が見えた。そして中央にあるテーブルの上には台所らしい料理――ではなく、幾つかの機械が置いてあった。
その機械が――動作している。
いくつかのLEDランプが暗い室内に赤く点滅し、機械に電力が供給されていることがわかる。
そして、その配線まみれの機械が、もとから台所に設置されていたモノではないことも推察できる。これは、この民家が『壁』になって以降に持ち込まれたものに違いない。
「これって……センサー」
菜瑠がつぶやくと、すぐさまエイミが飛んできて、体をすりあわせて隙間を覗く。
「これ、センサー?」
「わかんないね。でも動いてる」
少なくとも――機械を動かすに必要な電源が供給されている。となれば安田の『城』のように、ある一定の生活インフラは期待できそうだ。
「菜瑠。入れそう?」
「隙間はできたけど、これ開いたらあのセンサーが反応するんじゃない……かな。わかんないけど」
「よし、反応させよう」そう言うと、唐突にエイミが雨戸の隙間に指をあてがい、両手で前後に力を加え始めた。壁面に足をあて、力任せにぐいぐいと雨戸を引っ張る。
「ちょっと! エイミ! センサーが反応するって!」
菜瑠がエイミに取りすがって、その蛮行を諫めようとすると、エイミは雨戸を引っ張りながら首を振る。
「反応させるの! 無理矢理! そしたら警備員が飛んでくるんでしょ! こうやって呼ぶのよ! 呼び鈴代わりに! 菜瑠も手伝って!」
なるほど、これは正しい。
菜瑠もエイミと同じように隙間に指を差し入れ、同じように壁面に足がかりを得て、ぐいぐいと雨戸を引っ張った。
「なにこれッ! ぜんぜんッ! うごかないッ! 開けーッ! たのもーッ! 芹沢嬰美が来たわよーッ!」
「もっとッ! 全身全霊ッ!」
うごぉ、だの、ぐおお、だの、うら若き女子として人には聞かせられない唸り声をあげながら、二人は雨戸にすがりついた。
やがて頑強きわまる金属製のそれも、二人の少女による息を合わせた破壊行為に陥落の兆しを見せ始めた。
少し、ほんのすこしずつ隙間が広くなってゆく。
垂直だった雨戸が緩やかな『くの字』に曲がり、菜瑠の頭一つは通り抜けられそうになった頃、二人の快進撃は止まった。
唸っても喚いても、それ以上は寸分も曲がらない。なにか頑丈な金属が引っかかりを作っているような印象があった。
攻城の失敗を悟ったエイミがその場に尻餅をつき、赤くなった手のひらを菜瑠に見せつける。
「ダメ……アタシ限界。手のひら痛い。もうやだ」
「金具が引っかかったのかな……」
「菜瑠。その隙間から忍びこめる?」
「無理だよ。頭がギリギリ入るだけ」
雨戸など、雨風を防ぐことができれば用をなす。なのにこの頑丈さは何か。無駄であるばかりか、害悪ですらある――といった要旨の言葉をエイミがまくしたて、最後に「菜瑠も言ってやりな!」と煽る。
冷静に考えれば、雨戸が風防以外に防犯なり遮光なりの役割があることにエイミだって気付くはずだ。実際に『防犯』の役割りを身をもって体感できたではないか。
「もうね、菜瑠。重機で突っ込もう。ショベルカーで家ごと壁ごと更地にしてやりたいわ」
「うーん」
そこまでせずとも、何かバールのようなモノがあれば――。
使えそうな道具を探して周囲を見回し、やがて菜瑠の視線は民家の二階に止まった。
「動くな」
開いた二階の窓。四角く落ち窪んだ薄暗い闇の向こうから腕が伸びてきていた。
その腕の先端――手には、黒い物体が握られ、それが庭先にいる菜瑠とエイミに向けられている。
「動くな」
もう一度、闇の向こうから声がした。
闇から伸びた手が微かに揺れて、照門と照星を結んだ直線が菜瑠に繋がる。銃と正対すると、黒いシリンダーの中きっちりと装弾された鉛が鈍く光って見えた。
菜瑠が雨戸から後ずさると、その動きを追うように銃口が角度を変える。
「何度も言わせるな。動くな。両手を頭の後ろに当てて、その場で膝をつけ」
銃を向けられた経験などないが、これは本物に違いない。銃を向けてくる――指示を出してくる男の深く落ち着いた声が、本物であると暗に示していた。
疲れを知らない心臓が、活発に動悸を聞かせ、汚れた肌に冷や汗がにじむ。
菜瑠は指示に半分だけ従い、両手を頭の後ろに回し、そこで二階の窓に語りかけた。
「あの! わたし――」
「口を開くな。膝をつけ。もう一人の女。お前も頭の後ろに手を回して、膝をつけ。早くしろ」
淡々と、事務的。少なくとも、指示に従わねば、こちらの弁解に耳を貸してもらえないらしい。
尻餅をついたまま、呆気に取られていたエイミがぽっかり開けていた口をへの字に結び、眉間にシワを寄せた。少なくとも、この程度の『表情の動き』には発砲しないらしい。
しかし、エイミは男の指示に従わず、あろうことか挑発するような言葉を返した。
「なによ、拳銃とかあるワケないじゃん! どーせモデルガンでしょ! そんなのでアタシたちが――」
言えたのはそこまでだった。
エイミの言葉の途中――『モデルガン』という単語を口にするよりも前に、銃口が向きを変え、庭石に乗った緑茶のペットボトルに新しい飲み口を開けた。
脳髄の奥にまで響くような銃声がエイミの言葉を掻き消し、遠く灰色の空へ拡散していった。
エイミは口を閉じ、菜瑠は目を見開いた。
モデルガンでも、改造を施されたガスガンでもない。これは間違いなく本物だ。銃声の静まった周辺に、倒れたペットボトルが水を吐き出す音がコポコポと聞こえる。
「早くしろ」
相変わらず淡々とした指示だった。完全に毒気を抜かれたエイミが、相手の警戒心を刺激しない程度に素早く頭の上に手を置き、地面に膝をついた。
上方を見上げ、一秒先の未来もわからないまま菜瑠は自分が死刑囚になったような錯覚を覚えてしまう。
雨戸を壊そうとしたのは事実、だが少しぐらい事情を訊いてくれても良いではないか――。
二階の窓の奥でなにやら囁き声がした。男が誰かと話した――それぐらいはわかるが、それ以上はわからない。
ただ銃口は相変わらず菜瑠に向けられたままだ。菜瑠と姿勢を同じくするエイミが唇を動かさない程度に話しかけてくる。
「……なる……! なんかヤバいって……! 逃げよう……!」
「……まず……話さなきゃ……話せば、きっと、わかってもらえるから。誤解されてるだけだから……!」
そうして動けないまま固まっていると、唐突に一階の雨戸が片面開いた。菜瑠たちが曲げた逆側の戸が開き、そこに数人の男が見える。二人、三人、四人。
彼らは一様にカーキ色の地味な服を着ており、またエイミが小さく囁く。
「自衛隊……!?」
たしかに装いだけ見ればそんな印象があった。決められた制服のように同じ格好――それも『小粋』とは対等の位置に属する『無粋』――軍人だと言われれば身分証の提示も省略できそうなほどに。ただ少し違和感はある。表現しがたい違和感。それは彼らの容姿からくるものか、あるいは醸し出す雰囲気によるものか。
家の中から出てくるそんな男たちに緊張しながらも、菜瑠はどこか安堵感も覚えていた。
これほどの多くの大人を見たのはいつぶりだろうか。ようやく頼るべき対象を見つけた――。
エイミの横に『軍人』が立つと、ゴテゴテとしたエイミの装いと、無粋なカーキ色の対比が美しい。男は初老――学長よりも若そうだ。
「立て」男が言った。「頭に手を載せたままだ」
エイミが訝しげな表情でゆっくり立ち上がると、菜瑠の横にいた若い男が菜瑠の横腹を靴先で軽く蹴ってくる。
「お前もだ」
菜瑠は指示に従いながらも、言うべきことを言う。
「あの、私たち――」
「黙れ。口を開けとは言ってない」
目の前にいて『なしのつぶて』と言うやつだ。若い男のへの字口の上にある二つの目が、『これ以上何か言ったら叩きのめすぞ』と物言わぬまま言っていた。辞書が改訂されるなら、目は口ほどにものを言うという諺に今の状況が付け加えられるかも知れない。
「前の女と一列になって歩け。モタモタするな。下等生物が」
若い男が口にした最後の侮蔑的センテンスに菜瑠やエイミよりも先に、初老の男が反応した。
「須藤。口を慎め」
厳しい口調でたしなめられた若い男は、悪びれる様子もなく、フンと鼻で笑って応じ、菜瑠にアゴで指示する。
「おい。モタモタすんなって言ったろ。お前、言葉わかってんのか? 日本人か? チャイニーズか?」
「私――」
「おいー。しゃべんなって言ったろー。さっさと歩け」
男が顔を近づけて凄んできたので、菜瑠は言葉を飲み込んでうつむいた。
そうして、先行するエイミに追いつこうと早足で歩き始めた瞬間――なにかが体に触れた。
『なにか』は明らかだ。それは手だ。広げられた手が、菜瑠の尻を包み込むようにして触れている。
反射的に身をそらし、反射的に男の方を見やると、若い男は軽薄そうな笑みを浮かべて、フンと嗤った。
「貧弱な尻だな。なんだ、何を見てる? さっさと歩け」
自分は――もしかしたら、大きな読み違いをしていたのではないか。菜瑠はそう思う。
もしかしたら、血の池地獄から助かるために、針山地獄に逃げ込んだのではないか――。
そうだとしても、もう手遅れだった。
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