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13月の解放区  作者: まつかく
11章 箱庭の散歩者
115/125

11-3 おしゃれなアイちゃん


暴力を統制するには、『より強力な暴力』が必要だとある学者は言った。

事実、人類はそうする事でしか暴力を打倒しえなかった。

菜瑠もそうだ。


安田より腕力も体格も劣るが、武力では圧倒し、今、この場を支配している。


尖った長棒を突き立て、奪った刃物をチラつかせ、完全に安田を統制していた。


もちろんこれも暴力ではあるのだが、少なくとも現時点では『正義』と呼び変える事はできる。

菜瑠の内心に加虐の興奮があったとしても、『まだ』紙一重で正当防衛の範疇――正義の行使だと言えた。


「ねぇ。こんな変なとこに肉のついた……ブヨブヨした体して恥ずかしくないの? ねぇ? 変態」


無表情に罵倒しながらも、安田の反応をつぶさにうかがう。

哀れな中年男性は、怯えたまま黒目で刃物の所在を追い、ヒュウヒュウと前歯から息を漏らしている。


「恥ずかしくないか、って聞いてるの」


「は、恥ずかしいです! ごめんなさい、ごめんなさい、だらしない体でごめんなさい」


行き過ぎた正義の行使は、菜瑠の倒錯した悦びを喚起させる。

仄暗い、心の奥底で眠っていた怪物が目を覚ましたのか。あるいは異常分泌された脳内物質のせいか。


いずれにせよ、この興奮状態が菜瑠に過集中を起こさせたのは事実だった。


普段なら気づけていた物音、気配、そして殺気のような、皮膚の一番浅い部分で感じとる『危険の接近』に鈍感になっていた。


ようやくその危険に気がついた時、『それ』は菜瑠と安田まで5メートルの至近距離まで接近していた。

突然、急ブレーキにタイヤが鳴いたような、甲高い野性の叫びが上がり、倒錯の世界にいた菜瑠を現実の世界へと引き戻した。


耳障りな高音、その発生源は振り返った菜瑠の眼前で、菜瑠と安田を見ていた。

それはチンパンジーだ。


コンクリートの床にダラリと両手をたらし、首を低くしてはキイだがキーイだか長短織り交ぜた高音を発する。


「ち……チンパンジー」


硬直した菜瑠と対照的に、チンパンジーは落ち着きなく右に左に顔をむけ、右に左に体を揺すっている。


落ちくぼんだ眼窩の奥に、白目のない二つの瞳。叫ぶ口腔の奥に、白い歯。そのチンパンジーが叫ぶたび、生み出される口角の泡が糸を引いてコンクリートの床へと落ちてゆく。


菜瑠は理屈でなく、感覚で理解した。これは、危険な状態だ、と。

獣と対峙したとき、目を合わせてはいけない。そんな言葉が菜瑠の脳裡をよぎるが、手遅れだ。

感情の読めない真っ黒な目に魅入られたが如く硬直し、菜瑠は目を逸らせない。


チンパンジーが日本の野山に生息しているわけもなく、これはどこぞの動物園なり一般家庭なりで飼育されていたモノが逃げ出したに違いなかった。


野生動物に似つかわしくない――酷く汚れたTシャツを身につけている事からもその推測は正しく思われた。

過去にはピンク色であったであろうTシャツには『AI』とプリントされているが、それは人間から授かった名前であろうか。


『AI』は一秒、また一秒と経過するたび叫び声を大きくし、それにあわせて動作も落ち着きをなくし始めた。

800万年前。道を別れて違う生き物へと進化したチンパンジーとヒト。そのDNAが99%一致しようとしまいと、菜瑠は800年前、否、もっと以前から両者の間に存在したであろうコミュニケーションを体験していた。


――威嚇、している!


だがそれ以上の意思の疎通はできない。


人間に似た生物として愛玩動物扱いされるチンパンジーだが、成長に従って地上でも指折りの猛獣となる。一般的にも現状的にも、『威嚇以外』の意思の疎通など幻想に過ぎず、成獣となった彼らは理由もなく人を襲う。


そして、目の前にいるアイちゃんは、まさに成獣だった。

肌は黒く、頭は禿げあがり、人間とは比較にならないほどの強力な膂力を得た成獣。娯楽で他動物や同種を殺す、危険極まりない猛獣だ。


威嚇行動ますます強くするチンパンジーに菜瑠は動けなかった。どう対処すればこの類人猿の怒りをなだめる事ができるのか。そもそもなぜ威嚇されているのか。


そんな、動けない菜瑠に隙が生まれていた。

もう一方の『猛獣』は、自分から注意をそらした菜瑠の手落ちを見逃さなかった。チンパンジーを注視し、菜瑠がカッターナイフを少し下げた瞬間――安田が動いた。


自分を壁へと追いつめている菜瑠を、ありったけの力で押した。もちろん、チンパンジーのいる方へ。



油断していた菜瑠はあっさりとバランスを崩し、足をもつれさせたまま、ふわりとチンパンジーの眼前に倒れた。


菜瑠自身、自分に何が起こったのか、理解できなかった。唐突に押され、仰向けに倒れ、目の前には歯茎を剥き出したチンパンジー。


過剰に分泌された脳内物質が、すべてを停滞させた。


威嚇していたチンパンジーの手が、ゆるりと菜瑠に伸びてくる。

安田がチンパンジーに負けないぐらいの奇声を上げながら、一目散に階段を駆け上がってゆく。菜瑠を囮にして自分は逃げる、安田にとっては二つの災厄を同時に処理できる一挙両得のアイデアだったろう。


――アイツ! 殺してやる!


秒にも満たない時間の中で、迫り来る猿人の手を見た。

まばらに毛の生えたソレは、凶器としてのある種の威厳をすでに感じさせる。人間の耳や指、鼻などは難なく――感慨なく、ちぎり取ってしまう。そんな説得力があった。


だが、倒れた姿勢では逃げることもできない。

ステップ・アウトできない菜瑠は、本能的な動きで手にしていた木棒で手の接近を防ごうとした。


断片のような時間、コマ送りのような時間。1秒がでたらめに長く、脳は視覚から得られた膨大な情報を怒涛の勢いで処理していた。

スローモーションの世界、菜瑠の顔面に向かって伸びてきた黒い掌は、その接近をガードしようとした木棒を握った。


そして、それをあっさりと折った。まるで小枝でも折るかのように。桁外れの握力の前に、菜瑠の長棒は『二本の短棒』へと変わった。

そして次の瞬間にはまた黒い手が迫ってくる。

驚く暇はなかったし、考える暇もなかった。


菜瑠は折れた短棒をそのまま猿の手に突き立てた。大小に尖った木片が、黒い掌に突き刺さる。

安田に倒されてからここまで何秒も経過していない。


菜瑠の額に、チンパンジーの液体が飛んでくる、その液体が血なのかヨダレなのかはわからない。

次の瞬間にはチンパンジーは威嚇とは別種の叫びを上げ、後方に飛びのいた。


その機を逃さず菜瑠は跳ね起きた。

見ればチンパンジーは刺された手を胸のあたりに添え、歯茎も歯も剥き出しにして落ち着きなく叫んでいる。DNAの近似は伊達じゃなさそうだ。なんとも人間臭い反応をするじゃないか。


しかし、『殺意』も人間臭い。

自分に危害を加えた菜瑠を明確に『敵』と認識したらしく、明らかな殺意を臭わせてくる。正当防衛という概念は通用しないらしい。


次は先ほどより早い動作、先ほどより強い力、そして先ほどより明確な急所を狙ってくる。それを六感で感じる。

菜瑠は短棒の片方をチンパンジーへと投げつけ、素早く階段へ駆けた。


背後を気にしている暇などない。気配を感じたら、残った短棒でもう一度刺すだけだ。

菜瑠は二段飛ばしで階段を駆け上がり、踊り場を抜け、さらに上階を目指した。


戦っても勝てない。それが本能でわかる。そして菜瑠が感じ取っている優劣は、あのうすら寒いTシャツを着た類人猿も感じ取っているはずだ。もちろん菜瑠とは全く逆の立場で。


そしてその『戦い』は戦いなどと呼べるものではなく、一方的な『戯れ』となるだろう。チンパンジーに襲われた被害者たちがそうであったように、耳をちぎりとられ、鼻をもぎ取られ、指をかじり取られ、唇は引き裂かれる。

きっと戯れに、殺される。運良く生き残っても、今の自分の『形』は失われているに違いない。


2フロア分ほど階段を駆け上がると、そこは見覚えのあるフロアだ。安田に連れ込まれたヘアのあるフロア――散乱したゴミや備品の配置、そして何より聞き覚えのある声がした。


「ほどけこらぁぁー! アタシだけおいてくなぁ!」


まごうことなき芹沢エイミの声だ。

菜瑠は背後を気にしながら記憶と、エイミの声を頼りにフロアを駆け、やがて自分たちが捕らわれていた部屋へと辿り着いた。


鍵が開いているらしく、ほんのわずかな隙間からエイミの声が漏れだしていた。


菜瑠はドアの前で今一度『追っ手』を確認したが、まだ通路にチンパンジーの姿は見えない。

諦めてくれた、あるいは逃げてくれた、忘れてくれた、全てが夢だった――襲ってこないならそのどれでも良い。


菜瑠は素早くドアを開け、ふわりと巻き起こった風圧に身をさらしながら侵入し、すぐにドアを閉めた。


だが、鍵がない。サムターンのあるべきトコロにはただ鍵穴があるだけだ。舌打ちを飲み込んで振り向くと、そこにエイミがいた。

相変わらずの芋虫姿で、口に貼られたガムテープをアゴの辺りにまでずらし、待ちわびたヒーローの登場を見たかのごとく安堵の表情を向けてくる。


だが――四季がいない。


「エイミ! 四季は!?」


「いま安田が来て、かついで連れて行った! 風呂場に行ったんじゃないの?!」


「違う! チンパンジーが襲ってきたの! すっごい凶暴なやつ!」


唐突に挙げられた類人猿の名にエイミは困惑した表情を浮かべた。これは当然の反応だ。菜瑠だってそうなのだから。やがて、エイミは『なぜ』の解決を後回しにしたらしく、毅然として言った。


「菜瑠! 早くほどいて! 四季助けなきゃ! 助けて、逃げよう!」


言われるまでもなく菜瑠はエイミに駆け寄って、彼女を拘束するガムテープに手をかけた。


一枚や二枚のテープならば、指先で軽く破れるだろう。だが手首や足首何重にも巻き付けられたソレは、一枚一枚が頑強に固着しあい、手におえない強度となっていた。


「なるッ! ハサミ、ハサミ! そこ、さっきオッサンが使ったやつ!」


言われてはじめて菜瑠はその文明の利器の存在を思い出した。山と積まれた安田のSMグッズの片隅にハサミが転がっている。

すぐさま駆け寄って、ハサミを拾い上げ、エイミの拘束を解く作業に戻る。


あのサルは。あの黒い眼をした類人猿は、どうなった?

追いかけてきているのか? もしかしたらもうドアの向こうまで? そんな焦りばかりが菜瑠を支配して、ガムテープが上手く切れない。


ようやくのことでエイミの手首と足首に巻かれていたガムテープを切り終わると、菜瑠は素早くドアまで駆け戻った。

そうしてそっとドアに耳を寄せ、外部の様子をうかがう。

あのチンパンジーが追いついて来るに充分な時間があったはずだ。


目を閉じて、聴覚だけに意識を集中する。自らの呼吸音、心音、そしてエイミの立てる音、それらのノイズを排除して、ただ厚いドアの向こうに気配を探る。


ガムテープを完全に剥がし切ったエイミがそっと寄り添ってきたのがわかる。


「菜瑠、四季を助けに行かないと!」


「待って、静かに……! わかってるから」


次はあのチンパンジーと対峙すれば、『オモチャ』でなく『敵』として襲ってくる。それを正面から撃退できると考えるほど菜瑠は楽天家ではなかったし、自信家でもなかった。


「エイミ……!」


微かな音を聞き取った瞬間、菜瑠はエイミを引っ張って、ドア横の壁まで身を引いた。

それは些細な音だった。だがそれは確実な気配でもあった。


ドアの横に二人。壁を背にしてじっと気配を殺す。

菜瑠の様子から深刻な事態を感じ取ったエイミも壁にピタリと背をつけて呼吸さえも浅くしていた。


――来てる。すぐ近くまで。


先ほどのように、キイキイ喚いてくれたなら明白であるのだが、チンパンジーもほとんど音を立てない。

これは『狩り』か。


やがて、ドアノブが動いた。

蛍光灯の薄明かりを鈍く反射していたそれが、じわじわと動くのがわかる。

誰に仕込まれたか定かでないが、チンパンジーはドアの開け方を知っていた。


ドアノブはゆっくりと回され、やがて少しずつ開き始めた。

どうするべきか、どうしたら良いのか、まるでわからない。


ただ菜瑠は下唇を噛んで、ドアが開かれてゆく様子を見つめるしかない。

幸い、菜瑠とエイミのいる場所は、ドアが開かれたところで、ドア自体が遮蔽物となり通路側からは死角となる。


まだやり過ごせる可能性はあった。

チンパンジーが部屋にさえ入ってこなければ――。


だが1秒、また1秒とドアはゆっくり開き続け、やがて縁に黒い指がかかったのが見えた。室内をよどませていた空気がフワリと動き菜瑠の汗ばんだ肌を撫でてゆく。


次の瞬間、部屋に溜まっていた『生き物の臭い』を感じ取ったのか、それまでじわじわと動いていたドアが一気に開かれた。

そして覚悟を決める暇もないまま菜瑠の視界にピンクのシャツを着たチンパンジーが飛び込んでいた。


黒とピンクの際立ったコントラスト。その生物の黒い毛並みに不似合いな人工色。その奇妙なファッションに身を包んだ生物が、菜瑠に飛びかかってきた。


内臓まで見えるんじゃないか――と思えるほどに大口を開けて、汚れた牙をむき出しにして、秒未満の時間の中で菜瑠に迫ってくる。


菜瑠には考える時間も、祈る時間も、走馬灯を見る時間もなかった。

その唾液まみれの牙が近接30㎝まで迫った時には、菜瑠の大脳でなく本能が菜瑠の体の『操縦権』を奪取した。


思考も思慮もないままに腕が動き、向かってくる奇怪な猿の顔面に握っていたハサミを突き立てていた。


滞った時間の中で、切っ先は手応えのほとんどないまま、チンパンジーの剥き出しの歯茎を入り口にして貫通し、鼻の横から黒く血濡れた先端が露出する。


トップモードの世界なら、これをボディピアスの一種だと――前衛的なストレートバーベルだのロングバーベルだのと持てはやすのかも知れない。

だが少なくとも、この類人猿にとっては望まざるピアッシングだった。


エイミが叫び、チンパンジーはもっと叫んだ。


ピアス、ハサミの持ち手がまるで歯茎から生えているようだった。だが殺すには足りない。

菜瑠は――チンパンジーの手が菜瑠の手を捉えるより早く――パッとハサミを離し、目測でしっかりと狙いをつけた。


顔面に両手を当てる類人猿。どうして痛いのか、何が刺さったのか、それを理解できないまま、ハサミの持ち手を指先に触りキイキイ唸っている類人猿。

菜瑠は手を引いた瞬間から、その顔面をしっかりと見据えて、少しだけ空気を吸い、小さく足を浮かせて、構えた。


そして心と体の調和がとれたタイミングをはかり、チンパンジーの顔面に向けて――鋭い蹴りを放った。


二の腕から腰までをしなやかに使い、充分な『タメ』を効かせた蹴りが、チンパンジーの黒い手の上から顔面に直撃する。伸びた足の裏に一点の硬い場所を感じる。これはハサミだ。


顔面への直撃を受けてチンパンジーがひるんだが、類人猿が後方に倒れるよりも早く――コンマ以下の秒の中で、菜瑠は『足の裏に感じたハサミ』を一気に類人猿の顔面に押し込んだ。


縫い針が布を這うように、頬のあたりから露出していたハサミの先端が再び猿の肉に刺さり込む。『泣きっ面に蜂』でなく、『吠え面に鋏』だ。

人間の赤ん坊のそれにも似た甲高い泣き声を聞かせながらチンパンジーが後方へ倒れると、菜瑠は宙に浮いていた足をスッと引いた。

クリーンヒット――空手家なら残心を取って「押忍」と締めるシーンだが、菜瑠にそんな余裕はない。


「エイミ! 行こう!」


隣にいたエイミの手を取り、叫声をあげる猿の脇をすり抜けドアの外へ。


急いで通路へ飛び出したはいいが、薄暗い通路を何処へ向かえば?

四季は何処へ? 安田は何処へ?


落ち着いて考える暇などない。菜瑠はエイミの手を引いて、階段の方へと駆けだした。

危うく踏み外しそうになりながら階段を下り、また下り、さらに下る。

そうしてやがて一階へとたどり着くと、エイミが通路の先を指差した。


「菜瑠、あっち! あっちから連れ込まれたから、あっちが出口のはず!」


返事すら省略して二人してそちらへ駆けて行くと、背後から奇声が聞こえた。

悲鳴だか雄叫びだか判然ともしないそれは、建物の硬いコンクリートに幾重にも反響して菜瑠たちの鼓膜へ届いた。


――来る。


ピアスモンキーが部屋から外に出たのは明白だった。あの類人猿に犬がごとき嗅覚があるのかはわからない。だがもし菜瑠たちを追跡できる程度に嗅覚が発達していたなら、追ってくる。間違いなく。


全身を覆う冷や汗、激しい運動にあがった息。それら、生き物のニオイを撒き散らす菜瑠とエイミを追ってくる。


「なる! 外!」


飛び跳ねるように駆けるエイミが指差した先には、光があった。薄暗い通路に差し込んでくる――鈍くも確かな光が見えた。

白く汚れたガラス仕立てのドア。入り口だ。


外の世界が天国だなんて、とうてい言えやしない。だが、凶暴化したチンパンジーに乗っ取られた変態中年男の『城』よりは遥かに健全な世界に思えた。


広くもない玄関ホールを駆け抜けて、菜瑠とエイミは光の世界に飛びこんだ。


相変わらずの曇天。しかし誰の所有物でもない空だ。少なくとも、今はその空の下に出られただけで全てが好ましく思える。

菜瑠は感慨にふける前に、チンパンジーの追跡に備えて素早くガラスドアを閉めた。もっとも、大した効果はないだろうが。


「エイミ! 四季は!?」


「わ、わかんないわよ! いきなりオッサンが戻ってきて、肩に担いで――」


そこまで言ってエイミは悲壮な表情で周囲を見回した。そして震える唇を見せて首を振る。


「菜瑠……! アタシたちを運んできたダイハチ車がない……! 四季、また何処かに連れて行かれた」


「車輪の跡を追おう! あんなのを曳いて逃げたなら、すぐ追いつける!」


「無理だよ!」ほとんど泣き出しそうな声でエイミが首を振り、地面を指差した。

「ワダチが多すぎて、どれが『今』のかわからないよ……!」


地面に積もった灰の上にはワダチが残っていた。

だが、多すぎた。あまりにも。


安田が行ったり来たりした軌跡が全て残されており、どれを辿れば四季に行き着くのか――もはや運に任せるしかない有様だ。

そして、もちろん自分たちがどの方向から連れて来られたのかすら判然としない。


なのに1秒ごとに四季は遠ざかり、1秒ごとに類人猿が迫ってくる。

菜瑠は地面に錯綜するワダチに意識を集中して、一番新しいと思えるモノを指差した。


「これ! 新しいっぽい!」


「駄目! ちょっと先で他のワダチが上書きしてる!」


「じゃあ――」


別のワダチを指定しようとした瞬間、菜瑠とエイミの背後で大きな音がした。ドンッ、と重く突き抜けるような音だ。


慌ててそちらを見やれば、そこに血濡れたチンパンジーがいた。

雨垢だか降灰だかで白く汚れたガラスドアの向こうに、ピンクのシャツに黒い血液の筋をつけた『アイちゃん』がいた。


血まみれの手で触れるものだから、曇ったガラスがかすれた紅に上塗りされている。

深く刺さった『ピアス』をつけたまま、菜瑠とエイミに向けて泡まみれの歯茎を見せていた。


ガラス戸を閉めていなければ、殺されていたかな? と、焦る心と裏腹にどこか客観的な視点で菜瑠は血塗れの猛獣を見ていた。


四季が気がかりで、だからといってどこへ向かえばわからず、自分が冷静を欠いているのもわかる。

だが、逃げなければ。いまは。

どこへ? どこかへ。




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