11-2 『カニ』
施設を出てからというもの、空ばかり見ている。山村の細道を行きながら、佐々木ツカサはそんな自分に気付いていた。
少なくとも、施設で見飽きた無骨な造りのコンクリート天井よりは、鑑賞、観察する価値があった。
翔吾などはクソつまらん天気、と口汚く評するが、目まぐるしく変化に富み、夜には雷光が美しいこの空がツカサにとって鑑賞対象である以上に『未来を映す水晶玉』のような実用的役割を果たしていた。
そういえば、初めて翔吾と会話した日も、今日と似た雰囲気の空だった。これは吉兆か、あるいは凶兆か。
「おい、見ろよ。この家、入り口が開けっ放しだぜ。平和ボケだよなぁ、まったく」
翔吾のその言葉は、住人の不用心を諌めるような口調ではあったが、口元は好奇心が口角から溢れ落ちそうなほどニヤけている。
不用心といえば、たしかに不用心だ。限界まで開かれた引き戸は、むしろ家屋内に誰かが居るかのような印象すら与えてくる。
だが、もちろん人の気配はない。
「なんだか、怖いです。これ閉め忘れたんですかね」
「いや」翔吾は戸口から中を覗き込んで、「違うな。ほれ、見ろよ、あの台所」
中を覗いたまま翔吾が手招きするので、ツカサはヒョコヒョコと歩み寄り、翔吾の傍から家屋内を観察した。翔吾の指摘した台所。そこは酷く散らかっており、大きな鉄鍋やゴミ、袋などが散乱していた。
「わぁ……。ズボラな人だったんですね。だから引戸も開けっ放しに――」
そこまで所見を述べた瞬間、翔吾の拳がツカサの肩を叩いた。
「アホ。違うって。よく見ろ」
「見てますよ。すごく汚いです」
「ホント、お前は感受性ってか、野生の本能ってか、そういうのに欠けてんなぁ。そんなんじゃ、こんな時代を生き抜いていけねぇぜ?」
どこかで聞いたような台詞を吐いて、翔吾は「ついて来な」という類のジェスチャーを指先で見せた。そして、薄暗い家屋内へと踏み込んで行く。
「な、七井さぁん。暗くて、なんかいそうで、無理ですよー」
弱音を吐いて入口に立ち尽くしていると、薄暗闇のなかから、ワザとらしいほどのため息が聞こえる。
「お前、ヘタレが悪化してんじゃねぇのか。なんもいやしねぇよ。気配を読め、気配を。心の眼で見ろ」
「ど、努力します」
牛歩にも劣る鈍歩――摺足気味にツカサが家屋内に踏み入ると、唐突に室内の奥から光が差した。どうやら翔吾が勝手口を開けたらしい。
「おら。これなら怖くねぇだろ」
「少しはマシになりました」
「少しは、ってお前なぁ……」
翔吾は呆れ顔のまま台所まで戻って来て、そこにしゃがみ込むと、ゴミの一つ一つを観察し始めた。
「すごい散らかし方ですね。生活委員がいたら怒られますよね」
ツカサが翔吾の真横でしゃがみ込むと、翔吾が一つのゴミを指でつまんでツカサの眼前に持ってくる。
「な、なんです?」
「コレ。よく見ろ。見覚えあるだろ」
そう言われて呈示されたビニールゴミをまじまじと観察してみれば、たしかにそれはツカサにも見覚えがあるものだった。
「な、七井さん! これ、真空パックの!」
「ああ。間違いねぇな」
翔吾は真空パックのビニールをつぶさに観察し、やがて袋内部に残っていた残留物から、袋がハンバーグを包んでいたモノだと推定した。
「ということは、ケンタさんたちはこの家にいたんですね?!」
「いや、わかんね」
「でも、この袋、間違いなくウチの施設のですよ?」
「誰かに奪われた――って可能性もあるだろが」
これは、ツカサの心情的に、あまり歓迎したくない推測であった。
たしかにこれほど荒廃した地域では、食料品は貴重だろう。だが、奪う、奪われる、というのは余りにも野蛮な行為に思えてならない。
「まぁ、99%ぐらいは、ケンタたちが居たとは思うけどな」
遼が書き残した手紙に、憂理だけでなく翔吾も目を通していれば、もっと推測なり推察は簡単だっただろう。手紙は『獣』についても言及したからだ。
だが、『現場』には物語が残っており、読むものが読めば、それが一つの筋道を示す。幸いな事に七井翔吾はそれを読み解く――読解力を持っていた。
翔吾は冴えない表情でハンバーグ袋の切り口を指差して、言った。
「みろツカサ。このハンバーグ袋は綺麗に破られてる。水平にな」
「はい」
ツカサの返事と同時に、翔吾が散乱するゴミの中から、他の真空パックビニールを拾い上げた。
「で、コレみてみ?」
「ぐちゃぐちゃ、ですね。真ん中を破いてます」
「ああ。限界まで腹をすかせたケンタでも、もうちょっとはマシに開けるぞ」
二種類の『開封』――これはヒントと呼ぶより、解答と呼んだ方が適当だろう。ツカサはゴクリと喉を鳴らして、自分なりの解を呟いた。
「ハンバーグはケンタさんたちが。ビリビリのほうは……他の人が」
「ヒトってか、動物だろな。どう見ても」
菜瑠グループがここで夜を明かし、食事をとった。その後、動物がやって来て、真空パックを漁った。
そして、その時、菜瑠たちは家屋内――少なくとも村内にいた。
残されたゴミから、導き出された推理はほぼ事実をなぞるものだった。もちろん、現時点でツカサたちに答え合わせはできないが
「な、七井さん。その動物って……まだ」
「さぁな。でも、一つだけ言えるのは――」
「言えるのは?」
「追っ払うのは困難だ、って事だろな。『あの』ナル子がこんな散らかしたまま出て行くワケがねぇし。なんかがあって、慌てて逃げ出した――ってトコだろ」
「な、なるほどです。さすが七井さん」
「ロクが怪我してなけりゃ、襲ってきてもなんとかなる――かもだけどなぁ。肝心の俺はまだ腕が痛むし、ナオはガキだし、お前はツカサだし」
「はぁ、努力はしてるんですが」
「しっかしよ、アイツらもツイてないよなぁ。なんかに呪われてるんじゃね?」
自分のことを棚に上げて翔吾はこんな事を言った。
そしてゆっくりと立ち上がり、真空パックを指先で弾いてゴミの一部へと戻した。
「七井さん。動物はともかく、病気の方は大丈夫なんですかね?」
「さーな。俺はいまんとこ大丈夫だけど。お前は?」
「僕も、特には」
確認はしてみたものの、もし異変が起こったとしても対処法はわからない。
せめて病名でも判明していれば、なんらかの対策は打てるかも知れないが、ツカサがその対処法を把握している病気も決して多くはない。多くはないどころか、単数形、風邪だけだ。
「なぁ。ここって戸締りできるワケ?」
唐突に質問を浴びせられ、ツカサはキョロキョロと入り口や窓を確認した。
引き戸はまだ使用出来そうだ。窓も簡易的な鍵が付いている。
「できそうですよ。そんなに頑丈そうな感じじゃないですけど」
「ふうん。じゃあここでしばらく泊まるか。なんか小汚ねぇけど」
これは余りにも短絡的ではないか。ここは翔吾が推測した通り、野獣によって荒らされた場所。決して野生動物に詳しいワケではないツカサだったが、ここを『縄張り』と腹を空かせた野獣が再び舞い戻ってくる可能性は決して少なくないと思う。
そんな可能性を控え目に指摘すると、翔吾も「なーる。あるかも、だな」とアッサリと認めた。
そうして2人は戸口から外へ出ると、宿泊に適した家屋を探した。
山間に暮らす人々がそうであったかのように、家屋も寄り添い合い、軒を連ねている。一番広い道を中心に舗装もされていない細い路地が毛細血管の如く入り組んでいた。
これは、どこに宿を求めても同じではないか――。ツカサがそんな徒労を感じ始めた頃、ようやく翔吾が一件の家屋を指さした。
「おい、見ろよツカサ。あの家、すっげーオフェンシブじゃね?」
猫隊長が指さしたその先には、たしかに『攻撃的』な民家があった。
家の造り自体は、軒を連ねる他の家屋と変わらないが、戸口の前や二階の壁面に派手な横断幕がかかってる。
白を背景にして、いかにも攻撃的な赤字で、いかにも攻撃的な文章が書かれている。
『企業の横暴を許すな! 国とクラシカ・テネカは山村の静かな生活を保障せよ! 許すな環境破壊!』
いわゆるゲバ字で書かれた看板は、運動の熱、そして怒りをツカサに伝えてくる。たしか、山を下っている時に見た、斜面に打ち棄てられていた反メサイヤズ・フォーラムの看板も同じような『熱』を持っていた。
この家の家主は、活動家――ないし活動の中心人物だったのだろう。
「七井さん。すごい怒ってます」
「ああ。ブチ切れてんなぁ。きょうび、お化け屋敷でも、もうちょい穏やかな字で書く――って話だわ。クラシカ・テネカってアレか、ここまで来る途中にあった研究施設?」
「たぶん、そうですね。クラシカ・テネカ東海科学研究センターとかなんとか、って看板ありましたね」
「なんでこんなに嫌われてんの? 環境破壊ってなによ?」
「さぁ……。でも、住民の人たちがこんなに怒っているんですから、きっとよっぽどの事をしたんでしょうね」
「へへ。おっかねぇよな、まったく」翔吾は悪戯っぽく笑って、かつ嬉しそうに言った。「よし、ここにしようぜ。ある意味、この家ってパワースポットってやつ、だろ?」
たしかにパワーあるいはエネルギーには溢れているようには思える。だが、『宿泊』にあたって、重視すべきは『ディフェンシブ』であり、オフェンシブであること、アグレッシブであることは度外視すべきではないか――。
しかし、翔吾はツカサが諫めるよりも早く活動家宅の窓に駆け寄り、十字の木枠にハメ込まれた窓の一枚を肘で破った。
「ああっ、七井さん! そんな! 窓を壊して! 怒られますよ!」
「へへへ。俺も反対運動されっかな。窓破壊、許すな! 七井断固反対! ってよ」
そんな不敵、不遜な態度を見せ、翔吾はそのまま割った窓から内鍵を外した。
そうして乱暴に窓を開けるものだから、割れたガラスが外にも内にも四散した。
翔吾は自らの服についたガラス片を軽く払うと、そのままヒラリと窓を乗り越えて民家内に侵入した。
ツカサは左右を見回し、耳を澄まし、周囲に異変がない事を確認してからようやく窓際まで歩み寄った。
そうして、恐る恐るに家屋内を覗き込んでみると、翔吾は薄暗い部屋の中でタンスを開け、引き出しを引き――家探しを始めていた。
これではまるっきり空巣ではないか。
「七井さん、まずいですよ。なんだか泥棒みたいですよ」
「そだな」と否定もせず、翔吾は押し入れの中まで確認し、ツカサへ顔も向けずに言う。
「別に金目のモンを盗ろうってんじゃねえよ? 武器だよ武器。ヤバそうなケモノがいるってなら、なおさら、だろ? ナイフでもありゃあ素手よりマシだろが」
「そうですけど。ナイフで勝てるんですか?」
「勝てなくても、負けなきゃ良い。素手よりはマシだろ? お前もさっさと入ってこい。さっきの家より戸締りしやすそうだから、しばらく此処を拠点にすっぞ」
ツカサは渋々で窓枠に手をかけ、ぎこちなくそれを乗り越えた。
土足で畳の上に立つのは気が引けたが、ガラス片が散らばっている場所では仕方がない。実際に、靴底にパリッとガラスを感じる。
「うわー。なんだか古い家の匂いですねー。鼻がくすぐったいや。こういうのを歴史の臭いっていうんですかね」
「いや。ジジババ臭」
中央にちゃぶ台があり、その上には逆さに置かれた急須と湯飲みもあった。
いかにも旧家――といった印象であったが、その趣を壊すかのように『攻撃的』な横断幕が部屋の壁にかかっていた。
『徹底抗戦! 追い出す日まで!』
せわしなく家探しする翔吾と対照的に、ツカサは後手のまま横断幕に歩み寄り、ジッとそれを見つめた。
「なんだか、呪いでもかけてるみたい……。追い出せたんですかね?」
「さぁなー。でも追い出せたなら、こういうの外すんじゃね?」
なるほど、そうかも知れない。
ツカサは侵入した窓から光が届く範囲を移動し、掃き出し窓や採光窓を開いて回った。
差し込む陽光――などは望むべくもないが、それでも光を遮っていた雨戸や戸板が取り払われると、家屋内は闇が払拭され、いくらか明るくなった。
一階には侵入した部屋である部屋と台所、土間。そして急傾斜の階段などがあった。
土間を封鎖し、掃き出し窓も雨戸を閉めればケモノ対策は万全に思える。
台所には小型の手押しポンプがあり、ハンドルを上下させてみると、何度かの空振りのあと冷水が蛇口から噴き出した。外で見た井戸と同じ、地下水を汲み上げているのだろう。
1分ほど迷ったのち、ツカサが湯飲み2つに水を汲んで居間へ戻ると、翔吾がちゃぶ台の上に家主の物とおぼしきノートや紙束を広げていた。
「七井さん。水のみます?」
「おっ、気が効くねぇ、お前は。……って大丈夫なのかよ。病原菌がどうのって憂理が言ってたろ」
「でも、僕らさっき飲んじゃいましたから、今更じゃないですか?」
「そだな。毒を食らわばトレイまで、トレイ食らわばトイレまで」
ちゃぶ台に向かって座った翔吾に湯飲みの1つを渡すと、ツカサもその横に腰を下ろした。
「なんなんです? これ」
「家主の断固反対活動記録ってトコだろ。これ見てみ」
翔吾が指差したのは、ノートに貼り付けられた一枚の写真だ。
写真は山中で撮ったものらしいが、構図の中央には『山中』に似つかわしくないモノが写っている。
白い――防護服。それは頭部まで完全に覆うタイプのもので、見るからに物々しい。
「なんです? これ……」
「注意書き読め」
翔吾の横からノートの書き込みを覗き込むと、ギリギリ判読可能なレベルの文字が見て取れた。
――2月21日。
七曲付近の保安林にて、クラシカ・テネカが何らかの薬剤を大量散布している所に遭遇。
何の薬かと問い詰めるも、答えず。最近新しくやって来た職員2人。
片岡くんが麓の病院から戻り次第、通報する。
カニになる原因、クラシカ・テネカ。皆の回復待って集団訴訟。
――カニ?
2人肩を並べてノートの記述を読み終わると、ツカサは翔吾を、翔吾はツカサを見た。
「カニ?」
「カニ」
「七井さん。カニって、あのカニですか? タラバの?」
「ズワイだのマツバだのハナサキの?」
「カニになる原因、って書かれてます。カニになる薬を撒いてたんですかね?」
「人がカニになる薬なんてあるのかよ。ありゃあ甲殻類だぜ? 骨が殻じゃん。魚ならまだしもよ。ほら人魚とか御伽話で」
「あれって、人魚が人間になる薬じゃなかったですか? 魔女の――ですよね」
「そうそう魔女のな。人魚が人間になるんだから、その逆だってイケるだろよ」
「それを撒いてたんです?」
「人魚じゃなくて、カニのな」
2人して顔を見合わせて、いかにも自分たちが馬鹿馬鹿しい話をしている事に気がつくと、翔吾がごろりと畳に背中を倒した。
「アホらし。この家のやつ、マトモじゃなかったんだな」
「集団訴訟って書いてます。この写真が撮られた頃には、みんなカニになってたんですかね」
「だから、人間はカニにはならねぇよ。人魚ならともかくよ」
翔吾は寝転がったまま、大きく体を伸ばして、天井にアクビを吐き掛けた。目がトロンとしている所をみると、このまま昼寝に突入しそうな雰囲気だ。
ツカサがノートの前ページも確認してみると、そこにもやはり写真がいくつか貼ってあった。クラシカ・テネカの研究施設や、職員が撮影されているあたり、これは『反対闘争』の軌跡ノートに間違いないらしい。
「わぁ。綺麗な女のひと。この人もクラシカ・テネカの職員さんなんですかね」
「ほんと、お前はエロ小坊主だな。エイミはいいのかよ、エイミはよ」
「そんなんじゃないですよー。ただ目についたから……」
誤魔化しながらページをめくるが、どうにも字が汚く、『解読』するのが手間に思える。写真だけを見てページをめくっていると、自分が文盲にでもなった気分だ。
しかし、ささやかな発見はあった。
例の『防護服写真』付きの記載――それが最後の記述だった。この日を最後に、ノートは白紙が続いていた。
――書いてた人も、カニになっちゃったのかな。
ツカサはノートをパタリと閉じると、師匠に倣い、その横に寝転がった。
――僕らもカニに?
「おいツカサ。お前も寝る気かよ」
「なんだか、すごく疲れました。七井さんも寝るんでしょう?」
「お前は寝る前にロクを呼んでこいよな。んで窓と入り口を封鎖。俺は寝る」
ズルいなぁ、と思いつつもツカサは半身を起こし体を伸ばした。
そして湯飲みの水を一息に飲み干し、眠気を追い払う。
ツカサは窓の外に視線をなげて、ボンヤリと考える。
ジンロクを呼び、雨戸を閉め、畳のガラス片も片付けよう。それが終わったら、眠ろう。
久々に、安眠できる気がする。
願わくば――明日、目を覚ました時、指がハサミになっていませんように。
* * *