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13月の解放区  作者: まつかく
11章 箱庭の散歩者
112/125

11-1b ゴモラの民


「じゃ、行こうか、菜瑠ちゃん」


そう言って安田は菜瑠に歩み寄り――菜瑠には予想外な事に――手足を拘束したまま菜瑠を抱え上げた。


そして菜瑠の腹をそのまま自らの肩に乗せる。


「いやー重労働だなァ、これは。そのうち台車を用意しなくちゃ、ね」


安田の肩が腹を圧迫し、内臓が捻転を起こしそうな感覚が菜瑠を襲う。目の前にある安田の背中が、慈悲なき壁に見えた。


「ま、待って!」


「苦しいかい? 少しの我慢だよ」


安田が入り口へ移動し、ドアを開けた。

部屋の中ではエイミと四季が目を見開いて、連れ去られる菜瑠を見つめていた。


予定と、違う。


薄暗い通路へ出ると、安田はそこで反転し、ドアを閉め、鍵をかけた。ドアに向けて尻を向けた形になっていた菜瑠には薄汚れた通路しか見えない。

だが、安田が胸元の鍵を使ったのは感覚でわかる。


「さ、じゃあ行こうか菜瑠ちゃん。キレイキレイにしなきゃね。じっくり洗ってあげる」


ドアに遮られ、視界からエイミや四季が消えると菜瑠は途端に泣きたくなった。

なぜ自分はこんな所にいるのだろう。なぜこんな状況にあるのだろう。


こんなこと、施設にいた頃には想像だにしなかった。強がって、前を向いて、正しさを信じて、ここまでやってきた。

だけど、今はただ泣きたい。本当は怖くて仕方がない。


「ここねぇ、スパ施設だったんだよ」


安田がそんな事を言う。

「菜瑠ちゃん、スパ施設ってわかる? 健康ランドってヤツだよ。『在りし日』には天然ラドン温泉をうたってた」


安田から漏れた情報を菜瑠は必死で分析した。

あの部屋――エイミや四季が閉じ込められている部屋は客室と呼ぶには殺風景すぎるが――。


「でも、温泉なんて何処にもありゃしない。酷いもんだろう、インチキさ。地下水を汲み上げて、沸かして、『温泉の素』を混ぜてたんだよ。やだねぇ」


安田は微かに息を切らせながら続ける。


「まぁ、それがバレて廃業したんだなぁ。でもそのお陰で地下水はたっぷり利用できる。お湯も燃料で沸かせる。食糧さえあれば、かっこうの住処ってワケ」


だからずっと此処にいろ――と、あからさまでない程度に安田の説得が入った。


「僕はね、この街の王だ。この街にあるものは全て僕のものだ。もちろん君たちも、ね。あの外資の連中の好きにはさせない」


「クラシカ……テネカ」


「そうだ。君らがあいつらとどういう関係かは知らないけど、どうせバイトみたいなモンだろう? でも、もう手を切ってもらう。君たちはもう僕のモノになったんだからね」


菜瑠自身、クラシカ・テネカがどういった組織なのか把握しておらず返答に困ってしまう。だが、あえてこのまま身分を偽ったままの方が何かしら都合がよいように思えた。


「手を切るなんて無理。あなたクラシカ・テネカが何をしてるか、知ってるの?」


「知ってるさ。名束自治区でも噂になってたからね。カルトと繋がってさ」


「カルト?」


「はぁ、菜瑠ちゃんは何も知らされてないのか? やっぱり騙されてるな。カルトだよ、山の上のメサイアなんたらトカいう。さぁここだ」


男湯と白抜きされた古びた暖簾をくぐり、閑散とした脱衣所を通って行く。

男湯など足を踏み入れた事はなかったが、その様子は施設の浴場とさほど変わるものではなかった。


やがて細かいタイル張りの風呂場へ入ると、鼻先に湿気とカビ臭さを感じた。

天井近くに並ぶ窓から外部の光が入り、ぼんやりと明るい。


安田はゆっくりと菜瑠を床に下ろすと、広めの浴槽の中を確認し、なにやらブツブツと呟きながら出口の方へと歩いて行った。


安田の監視は外れたが――手足の拘束で身動きが取れない。もがけばもがくほど手錠が手首に食い込んで、自分の無力を痛感させる。

――なんとかしないと!


見回して観察すれば、ここが20人ほどが同時に体を洗える広めの浴場であること、そして安田の生活が透けて見えた。

床にデッキブラシが転がっていたが、ある一角を除いて埃が積もっている。これはおそらく全体を掃除しようとして挫折――そして特定の蛇口近くしか使用しなくなったのだろう。


やがて、唐突に湯船の方から水が流れ出す音が響き、すぐに小脇に荷物を抱えた安田が戻ってきた。


「よしよし。出てる出てる。菜瑠ちゃん。お湯だよー」


みるみるうちに湯船から湯気が立ち上り、水量の増加が音で認知できるようになった。


「凄い……こんなに……」


自分たちが求め、苦労して手に入れようとした温水がさも当たり前かのように放出されている。これは菜瑠を呆然とさせた。


「さて、お湯がたまるまでに用意しとかなきゃだね」


安田はそう言って、タイル床に転がる菜瑠の眼前で腰を下ろした。

背中を丸めてあぐらをかき、小脇に抱えていた袋から中身を取り出しにかかる。


「スポンジ」


「石鹸」


遠足の準備をする児童のように、ひとつ取り出しては床に置き、言葉で確認する。


「ん、これはシャンプー」


「T字カミソリ」


「ハサミ」


目の前に並べられる品々を見て、菜瑠はなにか抵抗に使える物はないかと冷静に分析したが、どうもおかしなモノが増えてくる。


「シェービングクリーム」


「バケツ」


「バタフライ……ナイフ」


「ん、ベルト・ボンデージ衣装」


「イチジク浣腸、っと」


最後に床に置かれたモノが、救いがたいほど安田の感性だった。

バケツなどを見て、湯を汲む手桶代わりに使うのかと思った自分がいかにノーマルであったか菜瑠は思い知った。


「そ……それ」


菜瑠の引きつった表情に気付いた安田は、悪徳の集大成のような笑顔を見せた。


「全部キレイに、っていったろ? ん? 生えてるなら毛も剃るし、中身も出してキレイキレイ、ね、菜瑠ちゃん」


「やだ……ぜったい……やだ」


「大丈夫だよ。ほらエイミーも四季ちゃんもいないんだから、恥ずかしがる事はないんだよ? 見てるのは僕だけ。二人だけの内緒って事で」


「あなた、頭おかしい」


「いやーぜんぜんスカトロ趣味はないんだけど。そっちの穴も使う予定だからさァ」


安田はヘラヘラと笑って、機嫌よく続ける。


「名束自治区でもさぁ、可愛い子がいてさァ。でもその子、全然言うこと聞かなかったんだよね。そう、エイミーちゃんみたいな感じだよ。殴られなきゃわからないタイプ? ヤるにはヤったけど、やれ警察に言うとか、リーダーに言うとか、ホント生意気で」


「レイプ……したの?」


「人聞きが悪いなァ。警察が機能してない今、誰が身体しか取り柄のないガキに食物与えて守ってやってると思ってるんだ、ってねェ。感謝の気持ちを忘れず、気持ちよくしてくれれば良いだけの話なのに」


甚だしい性の乱れによって神の怒りを買いとされる街があった。


その街の名はソドムと言った。

創世記において、その名は滅びの象徴であり、堕落の象徴であり、退廃の象徴であった。そして異常性愛を指す『ソドミー』という名詞となり後世に名を残した。


きっと、ソドムの民は目の前にいるこの男のようだったに違いない。

そして、菜瑠は思う。今ならタカユキが目指した『新しい世界』が理解できる気がすると。


自意識ばかりを肥大化させ、ドブ川の汚泥にも劣る欲望を原動力とし、歯茎の腐った口からエゴイズムを垂れ流す。


万人の幸福があればいい。万人に安寧があればいい。菜瑠はそう思うし、そうあって欲しい。

地上に天国はなくとも、いつか楽園は作れるかも知れない。


だが駄目だ。

この男。この安田のような男が『万人』に含まれてはならない。

きっと、この男の幸福と、万人の幸福は共存しえない。


この存在は人知れず、社会に、誰かに、害をなす。


みんな仲良く――などと言うものは理想主義者ですらその糖度に苦笑いする『甘い夢』でしかない。

排除すべきものは確かに存在する。


菜瑠は心中に渦巻くドス黒い感情を隠し、なるべく無感情を演じて言った。


「わかった……。とりあえず体を洗いたいの。『ソレ』はあとで……」


「うんうん。そうだね。『コレ』は後でしようね。バケツ見ててあげるからね。話が早くて助かるなァ。いい娘だなァ、菜瑠ちゃんは」


「服を脱ぎたいから、手錠と足のガムテープを外して」


「いやァ、両方同時は駄目だよ。片方ずつだね。上を脱ぎ終わったら手錠をかけ直して、下のガムテープを取ってあげる。そしたら下を脱げばいい。手伝ってあげるから」


「うん。それでいい」


人を更生させるには、殺すしかない。

ある殺人犯はそう言った。人は変わらない、クズは永遠にクズなのだと。


悪を行う者は、死によって救わねばならない。

ある宗教家はそう言った。

このまま生き続けることで悪業が積まれ、来世で地獄の苦しみを味わう事になると。

一刻も早く止めてやる、つまり殺してあげる事が本人の救済となる。そして、その者を殺害する行為は決して罪でなく、むしろ善行であると。


むろん前者も後者も、殺人を正当化する身勝手な理屈に過ぎない。

だが今の菜瑠の中に、それらの詭弁に近しい『裁く理屈』が生まれようとしていた。


社会のため、誰かのため、そして仲間たち、もちろん自分のためにも、この醜悪な男を抹殺せねばならない。それが正義だ。菜瑠はそう思う。


これは身勝手な理屈ではあったし、『裁く権利』など菜瑠にはない。だがこの男が適正に裁かれないなら、その社会にこそ問題がある、と。


菜瑠は心中に生まれつつある『鬼』を隠し、柔らかい表情で――幼子を諭すような口調で、言った。


「じゃあ、上から脱ぎたいから、手錠外してくれる?」


安田は確信した勝利を口元に滲ませて、小さく何度も頷いたあと胸元の鍵束に触れた。


「うんうん。上からね」


薄明かりの中で、その不格好な『ネックレス』を首から外し、安田は菜瑠の目の前でいくつも連なった鍵束から小さな鍵を選りだした。

あの、他の鍵より幾分か小さな鍵が手錠の鍵か。


――目を狙う。


菜瑠は表には女神の微笑を見せ、内には悪魔の思考を持っていた。

あの鍵で手が開放された瞬間、自由を得た両手で安田の視覚を奪う。――眼鏡を剥ぎ取り、眼窩に指を突っ込んでやる、失明したって構わない。潰す、あるいはえぐり出す、そのどちらでも構わない。


その目から光を失おうが、色を失おうが、安田の余生は長くて数分なのだから。


鍵を奪い。苦しみ悶えているであろう安田を――そのまま――。


「じゃァ、外すからね。エイミーみたく暴れないでくれよ? 綺麗な顔が腫れ上がってるのを見るのは僕だってツラいんだからサ」


安田が菜瑠の背中側にまわり、手錠に触れたのを感じる。自らの柔肌の表層、産毛の先端、それらが高感度センサーのように視野外の状況を菜瑠に伝えてくる。


手錠が少し持ち上げられ――鍵穴に――小さな鍵が差し込まれ――金属が擦れあい――解錠、された。それを感覚で察した瞬間、菜瑠は後手に回されていた両手を激しく動かし、手錠を剥ぎ取ろうとした。


しかし手首を拘束するそれは、窮屈だった内径を少し拡めただけで、手錠としての役割を固守した。


「こらッ! お前ッ」


金属の擦れ合う音に安田の怒号。菜瑠は獣のように歯を食いしばり、必死に手錠を左右上下にこねくり回した。だが、外れない。


「このガキ! やめろッ!」


気が触れたかのように後手を動かす菜瑠に、安田も気が触れたかのように怒鳴り、やがて菜瑠は後頭部に激しい衝撃を感じた。


一瞬、視界が真っ白にかすれ、遅れて痛みがやってくる。

菜瑠は浴場の床に転がり、その頬に擦り傷と、埃を感じた。


「暴れるなって言ったろ!」


倒れた姿勢から安田を見上げると、怒りに顔を紅潮させているのが判る。それはエイミを殴りつけた時と同じ顔だった。

そして、脂に汚れた眼鏡の向こうには血走った小さな眼があった。


「お、お前、僕を騙そうとしたな! と、とんだクソガキだ! お前も、エイミーも、アレと一緒だ、クソガキだ!」


その吃音ふくみの怒声が菜瑠の鼓膜を不快な振動を伝えてくる。失望と、軽蔑と、怒り、そんな負の感情が安田の中に生まれ、それが口腔から漏れ出していた。


「私はッ!」


菜瑠は倒れたままキッと安田を睨みつけ、毅然とした態度で言い放った。


「絶対に負けない! 絶対に従わない! 絶対に貴方の思い通りにはならない! 絶対に……」


そこまで言って、急に菜瑠は喉を詰まらせた。言葉が出ず、その代りに眼から涙が溢れ出した。


「絶対に……」


怖くて仕方がなかった。

ここまで抑えつけてきた――無視してきた感情が、一気に臨界点を超えて、路乃後菜瑠をただの年相応の少女に変えた。


鼻の奥だか眉間だかに弱い痛みが走り、溢れる涙に眼を開けていられない。


「クソガキ!」


安田はそんな少女を前にしても、激情のままに怒鳴り、おろしたての革靴で思いっきり菜瑠の腹を蹴りつけた。


後手に両手を拘束されたまま、菜瑠はなすすべもなくその一撃を腹に受ける。

黒い――ピカピカの革靴。そのキザに尖った靴先が下腹部にめり込むたび、内臓が口から飛び出すかのような感覚を覚えた。



安田はほとんど言葉としての体裁をなさない奇声を発しながら、何度も何度も菜瑠を蹴りつけ、そのたびに菜瑠はただ腰から『くの字』に曲げて痛みを声に変換するだけだ。


口から内臓は出ない。だが悲鳴と、胃液は出た。先ごろ食べたラーメンが粥状になって逆流した。


防御すら許されない、一方的な暴行。

世の中に暴力は多くあれど、これほどシンプルで明白な暴力も珍しいほどだ。


「この! ガキ!」


安田は菜瑠が床面に吐いた吐瀉物と、その分量にして引けを取らないほどの汗で顔面を濡らし、やがて疲労に暴行を中断した。


菜瑠の顔は3つの液体の混合物で汚れた。擦り傷から滲む血液、目から溢れた涙、口から吐き出した胃液。

もう、無理なんだと、もう駄目なんだと、そう思う。


やがて、あがった呼吸を整えた安田が、倒れたままの菜瑠に覆いかぶさってきた。

強引に仰向けに転がされ、安田という名の肉塊が菜瑠の上に重なる。


安田は汗まみれの顔を菜瑠の胸に沈め、そのささやかな膨らみに顔面を擦り付けてくる。


菜瑠は天井を見つめたまま、ほとんど人形のごとく無抵抗だった。

感じるものは、重く残る腹の痛み、口内の酸味、手首を拘束する金属、胸元に押し付けられる安田の顔、そして虚しさだ。


「菜瑠ちゃん! い、いいよね?! ここで、いいよね?!」


返事など、する気にもなれない。ただ全てが朧げで、意識が深い濃霧に包まれたように曖昧だった。


安田が自らの下半身に手を伸ばし、カチャカチャと慌ただしくベルトを外した。


ここにきて、菜瑠は目の前で起こっている出来事に現実味を感じなくなっていた。どこか、客観的で、第三者として立ち会っているような――そんな静かな諦観があった。


ただ浴場の高い天井を見上げ、窓辺からの弱い光を頼りに、建材のマス目を目で追っていた。それは生まれて初めての虚脱状態だった。


強くあろう、気高くあろう、正しくあろう。ずっとそうありたくて、努力してきた。だが、努力すればするほど、それがみずからを縛る抑圧となった。周囲との軋轢も生んだ。


そして、その努力も報われなかった。


美しい言葉を好む者は『努力すれば報われる』と言う。

だが、万人が報われるはずがない。そしてそんな前提からは目を背け、『努力する事、それ自体が美しい』などと巧妙に言い換えたりする。

失敗の責任は、結局本人に帰する類のもので、美しい言葉も、美しい人たちも、バッドエンドの責任を取ってはくれない。


あまつさえ『努力が足りなかった』と非難さえする者もいる。


自分は努力が足りなかっただろうか?

天井を見上げ、服に入り込んできた安田の汗ばんだ手を皮膚に感じながら、菜瑠はそんな事を考えていた。


――卑怯だ。

『努力しても報われないかも知れない。膨大な時間を、人生を無駄にする事になるだろう。でもやれ。お前はやらなきゃならない。でなきゃクズのままだ』


そう言ってくれ。美しく飾らないで、そう切り捨ててくれ。なら、駄目になっても誰も非難せず、誰も恨まず、笑っていられるから。




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