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13月の解放区  作者: まつかく
10章 百匹目のヒツジ
102/125

10-3 遠い夏の記憶


憂理が寝苦しさに目をさますと、目の前に女がいた。


横向けに寝ている自分の顔の正面に、女の顔があり、寝息を立てている。息苦しいのはこのためか。

突き合わせた2人の顔と顔の間だけ、酸素が薄くなっている。温かく、甘い息。

ぼんやりと、ボケたまま、憂理は混乱した。


――なんだ、これ。


自分はここで、なにをしているのか。そして、この少女は何者か。


そうして、10秒ほど少女の寝顔を眺め、ようやく憂理は状況の半分ほどを理解した。

ここは医務室。――翔吾にメシ食わされたあと、急に眠くなったんだっけ。

文字通り、『目の前』の少女。片耳を隠すような形で頭に包帯を巻き、自分に寄り添っている少女。これはイツキだ。


「なんで……お前、ここで寝てんだよ」


憂理は彼女を起こさない程度の小声で言うと、引き離すのも億劫でそのまま少女を眺めた。

肩の傷も、首の傷も、まだ痛みを残している。皮膚同士が引っ張られる感覚が、起き上がることを尚更億劫にさせる。


それでも、鎮痛剤のおかげか、幾分か痛み自体は薄まっているように思える。

イツキは目を覚まさず、何やら寝言らしき事をモゴモゴ言って、憂理に抱きついてくる。額と額が触れ合って、ますます近い。


イツキの包帯も痛々しいが、こうして他人のベッドに潜り込めるほどには元気であるらしい。それは喜ぶべきことだろう。

普段なら引き剥がす距離であるが、相手が眠っていると、拒絶する気にはなれない。


「なぁ、イツキ。お前、いっつも近いよなぁ」


小声で言うも、反応はない。それが少し可笑しい。こうして見ると、悪くないな、と思う。


「イツキ。男と女って不思議だよな。なんでこんなに近いのに……。不思議だよな」


返答を期待しない問いかけをして、憂理は目を閉じた。

自分はもう動ける。激しい運動をすれば、傷が開くかもしれないが、移動ぐらいはできよう。


菜瑠たちを追い。全てが終わったことを告げよう。そして菜瑠には学長の伝言を。

では、それからどうする?

この施設に戻るのか。それとも皆がそれぞれに実家を目指すのか。


「学長。やっぱ俺、帰るとこないや」


仲間たちはどうしたいのだろう。

翔吾やケンタ、遼は?

出来ることなら、仲間たちと一緒にいたいが、皆には帰る場所、帰らなきゃいけない場所があろう。みんな、どうするのだろう。


いつか見た夢を憂理は思い出す。

丘の向こうから仲間たちが呼ぶ、早く来いと憂理を呼ぶ、だが憂理は前に進めず、置いてけぼりにされる。あれは、正夢になるのだろうか。


憂理は薄目を開けて、イツキを見た。

なんの悩みも、なんの苦しみも感じさせない、安らかな寝顔だ。憂理はゆっくりと手をイツキの頭に当てると、その髪を撫でた。


「お前は、どうするんだ? なぁイツキ。どこへ向かってる?」


いままで、人生には向かうべき場所が自然と存在するように思っていた。

いい学校、いい会社、いい人生。そんな流れを目指して生きてゆくのだと思っていた。だが、自分は……。


『我々はどこから来て、我々は何者で、どこへ向かうのか』ゴーギャンはそう題した絵を描き上げた瞬間、自殺を決意したという。

自分にも絵がかけたなら、自分にも楽器が弾けたなら、なにか表現できるのだろうか。そのとき、自分はどんなものを創るだろう。

憂理はイツキの寝顔を眺めながら、そんなとりとめのない事を考えていた。


「だから、あとは威力なワケよ? オーライ?」


「数も欲しいですよね。一発撃って終わりって不安じゃないですか。連射とまではいかなくても」


「そだな。リロード問題な。そこら辺を改善した上で、次の兵器を開発しなきゃ、だわ」


「理想としては、重火器を仕込みたいですよね」


「おっ、お前もわかってきたなー。やっぱ火力を追い求めると、行き着く先はソレよな」


七井翔吾とその弟子たちが医務室に入ってきたのがわかる。どうにも物騒な話をしているが。

2人はその後、延々と武器開発についての意見交換をイキイキと繰り返し、怪我人たちの様子をうかがうそぶりもない。


「でも、どうやって火薬を手に入れるかが問題だわー」


「翔吾にいちゃん、服こげるぞ」


「アホ、そこを上手くやんのが『開発』だ。ツカサ言ってやれ」


「上手くやるのが開発です。あと、弾も、ですよね。ボウガンなら矢は回収できますけど、火砲となると弾は使い捨てになりますしね」


――こいつら、一体なにと戦うつもりでいるんだよ。


憂理がベッドのなかで黙って話を聞いていると、やがて別角度からの意見が入り込んだ。


「翔吾。ナオに飛び道具は持たせるなよ?」


――ロク。


憂理がイツキごしに隣のベッドを見ると、ジンロクが枕から頭をあげている。

翔吾は開発会議はどこへやら、ニヤリと笑って言う。


「よおロク、お前、寝すぎ」


「ああ、すまんが……トイレに行きたい。手伝ってくれ」


「ロク、お前動けんのか?」


「わからん。背中がひどいな、これは。だが歩くぐらいは」


「ジンロクさん」ツカサがペットボトルと薬のシートを持ってジンロクのベッドへ駆け寄った。「これ、鎮痛剤と化膿止めです。飲んでください」


――なんとか、全員揃った、か。


ジンロクが頭だけ起こした状態でツカサに薬を飲まされる。本当に歩けるのか、様子見が必要そうだ。憂理が頭を枕に戻し、そんな事を考えていると、イツキが目を覚ました。

20センチの至近で目と目が合う。


「おはよう、憂理くん」


ほとんど囁き声で言うので、思わず憂理も囁き声で返してしまう。


「あ、ああ。お前、近いよ」


「今近寄ったのは憂理くんだよ。私は動いてないもん」


そういって笑う。つられて憂理も笑ってしまう。これではまるで、恋人同士ではないか。

すると、イツキの目がトロンとして、唇が少し開いた。そして、憂理の唇に少しずつ近づいてくる。

憂理は慌て、布団ごと飛び起きた。


「なんだよ、ユーリ。お前、起きた……」


そこまで言って翔吾が絶句する。

数秒の沈黙が部屋にあって、数秒の混乱が目撃者の中にあった。

やがて驚愕の表情で翔吾が言う。


「お前、な、なにオンナ連れ込んでんだよ」


ツカサも言う。

「と、杜倉さん! そんな、みんながいる部屋で! いかがわしい!」


「違う、誤解だ。連れ込んでないし、いかがわしくもない」


憂理に遅れて、イツキも半身を起こした。翔吾が驚愕の表情のまま、T.E.O.Tの幹部を糾弾する。


「てめぇ、イツキ?! なに勝手に入って来てんだよ! てめぇ、スパイか!?」


ナオも師匠にならい、糾弾する。


「スパイ!」


イツキはグイと憂理に体を寄せ、憂理の腕を抱きながら言う。


「私、憂理くんが好き」


また、部屋の時が止まった。しばらくののち、間の抜けた翔吾の声。


「あ、ああ。そ、そう、なん?」


「離れたくないの。離れないって決めたの」


「えっと」イツキの勢いに気圧された翔吾が憂理に顔を向ける。「えっと、彼女、こう言ってるんだケド、杜倉さんの公式な見解を聞かせてもらえます?」


「……えっと。ワケがわからないけど、とにかくここは冷静に」


自分でも何を言っているのか、よくわからない。イツキは杜倉グループを見回し、言った。


「行くんでしょ? 私もいくから」


「えっ?」


「ついていくの」


予想外の言葉に、憂理などは言葉を失うが、翔吾は反発する。


「てめぇ、T.E.O.Tを連れてくワケねぇだろ! 足手まといはツカサだけで手一杯なんだよ!」


「そうですよ! 僕の立ち位置を奪わないで下さい!」


「七井くんについてくんじゃない! 憂理くんについていくの!」


「ユーリ! てめぇ! 恩を忘れて裏切る気か! 飼い犬でもな、恩は忘れねぇんだぞ!」


「待ってくれ、俺、なにがなんだか」


ジンロクも枕から頭を上げ、憂理を非難する、


「ユーリ。別に責めはせんが、男として責任は取らなきゃならんだろ」


「違うって!」


ツカサまで憂理を責める。

「杜倉さん、え、エロいですよ!」


「なんもしてねぇよ!」


「導師には許可とった。私の代わりにサトリが師長になって、私の班も引き継いだの。もう後戻りできない。だから、ね、憂理くん?」


「ね、じゃねぇよ。俺は知らないし、連れて行く気もない! 知らねぇよ!」


憂理が断言すると、急にイツキが勢いをなくした。

それに対して翔吾が追い打ちをかける。


「よく言った! やっぱ杜倉憂理はそうでないと! 男だな!」


「さすが杜倉さん! 僕は信じてましたよ!」


なんとも複雑な心境だ。

イツキは目のあたりを暗くして、そっと憂理の腕を離し、音もなくベッドから下り、一言もなく医務室から出て行った。


「いやー憂理、ありゃあスパイだぜ、スパイ。スパイ感ありありだもんな」


「いや、そういうのじゃないと思うけど……」


なにか、掴みようのない罪悪感が胸に重い。あそこまで言うことは無かったかもしれない。自分だって、完全に拒絶していないではないか、さっきまではほのかに甘い時間を共有したではないか。


仲間たちに対して体面を保つため、イツキを切り捨てた。そんな自分が卑怯者に思えて、気分が落ち込む。

そんな憂理を尻目に、翔吾は完全に切り替わっている。


「じゃあ、ロク。トイレ連れて行ってやるよ」


「ああ、頼む」


憂理もそっとベッドから足を下ろし、靴に爪先をねじ込む。


「翔吾。出発の準備はできてるのか?」


「ほとんどな。あとは……ツカサ、なんだっけか?」


「着替え、ですかね。地下のは使えないからT.E.O.Tの方から分けて貰わないと」


ツカサはそういって、ボケットからメモを取り出し、サイズやら、数量やらをブツブツ呟いている。

憂理はツカサに歩み寄ると、そのメモをひょいと奪い、言った。


「これは俺がやるよ。T.E.O.Tには貸しがある。これを機に返してもらう。ツカサはロクの移動を手伝ってやってくれ」


「はぁ、わかりました」



 *  *  *



憂理はメモを片手に上階へ向かった。

通路にはもう水はなく、ただその痕跡だけが残っている。

出かける前に、アツシにぐらいは挨拶しておきたい。そしてイツキにも一言声を掛けておきたい。


通路を歩くのはともかく階段にさしかかると、自分が怪我人であるという事が身につまされた。

一段あがるために、まるで通行料を徴収するかのように痛みが襲ってくる。こうして傷口に負担をかけることにより、また完治が遠のくのか。


そうして、最上階であるT.E.O.T階まで来ると、生活棟よりは活気にあふれていた。腕章をつけた者たちが、掃除をしたり、荷物を運んだり、笑い声もあり、話し声もあり、まさに『復興のさなか』にあった。


「杜倉」


名を呼ばれて、声の方を見れば、『新師長』がいた。サトリ・アヤカだ。

贅沢は言わないが、別の者が良かったと憂理は思う。このオンナは『借り』を借りと思わないタイプに違いないからだ。


他の者に頼む方がよかろう、と憂理が視界にアツシを探していると、アヤカが訝しげに聞いてくる。


「何の用だ?」


「いや、お前には用ないから」


「そんな事は聞いてない。何の用だ?」


高圧的な態度。この女の前世はライオンかサメに違いない。


「アツシに用があるんだよ。どこにいる?」


「松岡師長は忙しい。用件があるなら言え」


「お前みたいなザコに言っても仕方ないんだよ。アツシはどこだ。ノボルでもいい」


アヤカの表情の奥に、微かに苛立ちを見た。きっと、ザコ扱いされた自分を差し置いてノボルの名が出たことが面白くないのだろう。むろん、ワザとだ。


「私は、いま大きな権限を持っている。松岡師長に話を通しても、私が蹴ることが出来る」


なんとも挑発に乗りやすいことだ。これはむしろやり易いかも知れない。


「ふーん。じゃあ、服を分けて欲しいんだけど。お前の権限で出来るっての? 無理だろ?」


「服?」


「お前ら予備持ってるだろ? どうせお前の権限じゃ無理だろうから、さっさとアツシ呼んでくれよ」


憂理がメモをヒラヒラ見せると、アヤカはそれをパッと奪い、やがて言う。


「出来る。こんなこと……。松岡師長に話を通すまでもない。この程度、私の権限で、できる」


上手くいった。

自尊心をくすぐって利用するなど、あまり上品な手段とは言い難いが、通用する相手にも問題がある。


「待ってろ。用意する」


「頼むよ。新師長さん。俺、このへんウロウロしてっからさ」


「あまり動くな。作業の邪魔になる」


そう言ってアヤカはメモに目を落としながら去っていった。まだ幼いな、と憂理は思う。認められたくて背伸びしているのだろう。


そうして、憂理が通路の壁に背中を預けて休んでいると、そこで階下から上がってきたイツキとばったり出くわした。酷く暗い表情だ。


「イツキ……」


憂理に気がつくと、彼女の表情に一瞬明るさが戻った。だがイツキは唇を固く結んで露骨に憂理から目をそらし、近寄ることもなく、通り過ぎていった。


「なんだよ……」


自分が悪いと思うが、イツキだって悪い。あんな強引な手法で踏み込んで来られたら、一歩引いてしまうのが人情というモノではないか。


憂理は壁に背を預けたまま、ため息を吐いた。ひどく疲れる。

10分はそうしていただろうか。何も考えないように努め、ほとんど瞑想に近い脳波状態でいると、やがてアヤカが帰ってきた。

呼ばれて目を開けると、右手と背中に、容量の限界まで膨らんだバックパックを下げたアヤカが憂理を睨みつけている。


「ああ……多いな」


「メモにあったぶん、全部ある」


「じゃあ、ソレ、医務室まで運んでくれよ。俺、怪我人でさ」


「ふざけるな。私はパシリじゃない」


「アツシなら運んでくれるけどな。逆にザコだからそういう細かい事が気になるんだろ」


憂理が無意味な挑発をした瞬間、サトリ・アヤカはバックパックを床に叩きつけ、眉間のシワをより一層濃くした。


「ザコじゃない」


これ以上の挑発は、無意味であるばかりでなく、命まで危険にさらす行為になりそうだ。

――からかいすぎたかな。


アヤカは背中のバックパックも床に下ろし、言う。


「教えてやる。私が何者か」


そう言って、アヤカは通路の奥へと歩き始めた。

憂理が動かず、壁に背を預けたままでいると、アヤカは立ち止まり、凄味の増した顔に唇だけの笑みを見せて誘う。


「来い、杜倉」


「いや、いいよ」


アヤカはT.E.O.T槍を憂理に向け、言う。


「お前は私をブジョクした。来る義務がある。来ないなら、殺す」


「わかったよ……」


正直なところ、アヤカの名誉には興味がない。ただ自分の命と、彼女の『覆す何か』には興味がある。

憂理が壁から背中を離すと、アヤカはプイと背を見せて、T.E.O.T棟の奥へと歩みを進めて行った。


タカユキは新世界をエサに集団への帰属心を煽ったが、それが集団内の『競争』をも煽る結果となったのではないか。


ある軍人は言った。

ドイツ人は1人なら、立派な人間だ。ところが2人寄ると同盟を作り、3人寄れば戦争を始める。


イギリス人は1人ならアホな人間だ。2人寄るとクラブを作り、3人寄れば帝国を作り上げる。


イタリア人は1人ならテノールだ。2人寄ると二重奏をはじめ、3人寄れば退却する。


日本人についていえば、1人の日本人は神秘だ。2人寄っても神秘だが、3人寄れば、やっぱり日本人は神秘そのものだ――と。


このジョークに学ぶなら、T.E.O.Tは1人なら理想主義者で、2人で理想郷を作り始める。だが3人目が加わったところで作りかけの楽園が地獄に変わる。


そうして、憂理はアヤカに連れられて、実際に地獄を見る事になる。


廊下を塞ぐ机組みのバリケードが設置されていた。通路らしきバリケードの狭い隙間にはロープが張られ、ご丁寧なことにロープには『立ち入り禁止』と書かれた貼り紙が下げられている。

アヤカはそれをくぐり、バリケードの向こうへ行くと憂理を誘う。


「来い」


「いや、傷が開くからいいや」


するとアヤカは張ってあるロープを限界まで上にあげて、もう一度言う。


「来い」


憂理は仕方なくそれをくぐり、バリケードの向こうへ出た。


「なんだよこれ」


「『聖地』だ。ここに入れるのは、私と、導師だけ」


「俺、入ってるけど?」


「特別だ。導師には言うなよ」


「はぁ」


『聖地』には生活棟では見られないような古いドアが並んでいる。施設のドアの全てがこのようなタイプであれば、『遠隔施錠』される事もなかったろう。

憂理は奇妙な既視感を覚えてしまう。


――あの壊れたドア……どっかで。


憂理が既視感のソースを掴めないまま歩いていると、そこからさらに廊下を進んだ先で、アヤカがようやく歩みを止めた。


そして、取り出した金属鍵を鍵穴に差し込んで回した。だが解錠しても、アヤカはドアを開かない。


「杜倉。お前は見る権利があっていいと思う。だから見せてやる。誰にも――導師にも言うな。言ったら、殺す。本気で」


「なにがあんの?」


憂理が問うと、アヤカはドアノブをアゴで指した。開けて自分で確かめろ、という事らしい。

良い予感など、ひとつもしない。

だが、好奇心は胸の奥で騒ぎ立て、さっさと満たしてくれと鼓動を早くする。


憂理はドアノブに手を当て、それをゆっくりと回し、ドアを押し開けた。

軽い木製のドアが開くと同時に、内部からはヌルい空気とすえた臭いが憂理に向かって殺到してきた。その圧力たるや、思わず後ずさってしまいそうになる。


――なんだ。あれ。


目を細めて、8割ほど開いたドアの向こうを観察すると、なにかあった。

それがヌルい空気と、すえた臭いを作る元だとすぐにわかる。


それは、人だ。


通路を照らす照明の2割にも満たないであろう暗い照明。ほとんど何もない閑散とした狭い部屋。その部屋の一番奥に、人がいた。


全裸で床に倒れ、体をよじったり、くねったりしている。これは、死に損ないのイモムシのようだった。だが、イモムシではない。ヒトだ。イモムシはあんなに激しく痙攣したりしない。

そして、そのヒトは憂理も知る人物だった。


「は……半村」


間違いなく、暴君だ。

張り詰めた筋肉には、憂理たちが与えた傷が、乾きもせずに残っている。

ありし日の威厳も、威容も、貫禄も、風格も何もなく、ただ小刻みに体を痙攣させている。


限界まで見開かれた目が、何を見るでもなく虚空を追い、体から分泌されたであろう『様々な』液体がコンクリートの床に液だまりを生み出し、自らその液体に身を浸している。


「半村……」


憂理は半村を見つめながらも、自らの横顔にアヤカの視線を感じる。反応を観察されている。そんな視線だ。

憂理はその視線に顔を向けないまま、言う。


「お前、なにしたんだよ、コレ……」


聞くまでもない質問だと思う。だが聞かずにはいられない。確かめたいのだ。自分の想像が正しいのかどうか。

これは間違いなく、薬剤を投与されている。それも、おそらく尋常ではない分量を。

アヤカは答えるべき返答を省略し、言った。


「殺さない。ただ、生きる以上は役に立ってもらう」


「タカユキの……指示か」


「そんな事はどうでもいい。この『人殺し野郎』はこうする事でしか役に立てない」


――役に立つ?


憂理の感じた違和感は、少し考えただけですぐに解消された。これはリンチだの死刑だのという性質のモノではないらしい。

これは――実験だ。

憂理の横顔にまばたきしないアヤカの視線が注がれる。


「トクラ。コイツで色々試すことによって、多くの人が救われる」


「人体実験のつもりか」


これは、おそらく『例の薬』だ。タカユキは半村の体を使って、『底』を知ろうとしているに違いない。

憂理はここでようやく横顔を凝視するアヤカへ面を向けた。


「少し、半村と2人にしてくれないか」


「ダメに決まってる」


「5分でいい。お前の権限ならできるだろ?」


憂理はアヤカの自尊心をくすぐる言葉を吐くと、許可が下りる前に室内へと足を踏み入れると、後手にドアを閉めた。

薄暗い部屋の中、暴君は芋虫のごとく体をよじっている。

ミジメだとか、ブザマだとか、そんな事は少しも思わない。とはいえ不憫だとも思わない。


半村は死して地獄へ落ちる運命に違いなく、それがこうして生前に『地獄の責め苦』にあったところで、本人には文句を言える筋合いはない。

もっとも、この身のよじれが苦痛によるものか快感によるものかはわからず、もしかしたら半村本人は天国にいると錯覚しているかも知れないが。


「弟さんの事は心配すんな。T.E.O.T連中に話をつけとく」


聞いているのか、聞こえているのかもわからないが、憂理はそう伝言した。

だから、安心して死んでくれ。


半村の返事を期待したワケではないが、何気なく暴君の表情を観察すると、暴君の口元が不自然に動いていた。

何かを言おうとしているのか?


恐る恐るで近づいて、噛みつかれない程度の距離で耳を寄せると、確かに半村は言葉を発していた。


「……の……か、か、か」


身悶え、痙攣しているためか、言葉はひどく不明瞭で聞き取れない。


「か?」


「か、から……。せ、せ、せん」


「せん?」


「せ、せん、ひゃく、にじゅう億、だ」


「1120億?」


「そ、そうだ、尚志。せ、1120億、い、今まで、し、死んだ、人類の、か、数」


半村の見開かれた目は、憂理に向けられているが、そのじつ憂理を見てはいない。この部屋のどこにも彼の弟である半村尚志はいないのだから。


「な、尚志、いいか、な、ナメられるな、む、ムリして、合わせる、な。……わ、解って貰う必要、ない……。みんな、死ぬとき、ひとり……。みんな、ひとり、死ぬ。1120億、みんなひとり、ひとり」


弟へ向けての『遺言』かと憂理は訝ったが、そうじゃなかった。


「な、尚志、ま、また、い、イジメられたら、せんせいに言え、石なげられたら、すぐ。お、おれでもいい、そんな奴ら、仲良く、するな」


「半村……」


「あ、あの公園、だめ、アイツら、いる、遊び場。う、うら、裏山いこう、裏山に、せ、セミ、いる、デカイの、とりに」


半村の目は、何十年かの時間のネジレを見ていた。

過去視。過ぎ去りし何十年か前の夏の日を見ていた、きっと、半村兄弟の出発点を。周囲から孤立しはじめた頃の夏を。


憂理はいたたまれなくなり、ついつい半村の話に付き合った。


「ああ、兄ちゃん。セミ……とりに行こう」


「く、クマ、アブラ、ミンミン蝉も」


「ヒグラシはいるかな?」


「ゆ、夕方には。遠くで、キリ、キリと。で、でも暗くなる前に、か帰るぞ、みんな、しん、心配する」


「いつも、ありがとう。兄ちゃん。感謝してる」


半村はその言葉を聞くと、笑顔か泣き顔かも判然としない表情に変わり、身をよじった。

憂理はゆっくり立ち上がると、半村の独り言を背中に聞きながらドアから出た。

ドアの外ではアヤカが心の底までも見つめるような目で憂理を見てくる。


「なにしてた?」


「話を聞いてた」


「嘘つくな。アイツ、まともに喋れないハズだ」


「いや、マトモだったよ。むしろ……ようやくマトモな会話ができたかもな」


何か、アクションを起こすべきだろうか、憂理は内心に葛藤を抱え込んでいた。

半村は許されない。どれだけ同情すべき事情があろうとも、それで罪が帳消しになるワケではない。

だが、こんな扱いも――。


「話せたのか?」


「たぶんな。時空は越えたけど」


訝るアヤカの視線を受けながら、憂理は小さくため息を吐いた。胃の底に重いものが沈殿したかのように重い。ため息に継いで、批難の言葉も漏れる。


「お前こんな事、許されると思ってんのか」


まるでその言葉を待ち受けていたかのように、アヤカは薄い唇で嗤う。


「トクラ。何を言っている?」


「こんな……。非人道的ってか、クソみてーな扱い――」


憂理の言葉を遮って、アヤカが言う。

「可哀想だとでも?」


「そういうレベルの話じゃ――」


「トクラ。情に流されたのか? また正義ぶって『やめろ』とでも言うつもりか? だとしたら、お前は、ただのバカで、無責任な、単細胞の、ペテン師の、ガキだ」


人をケナす前に、正しい日本語の使い方を覚えたほうがよほどアヤカの今後の人生にプラスになるだろう。アヤカはその後も幾つかの罵倒を重ねて、最後に言った。


「可哀想なのか? あの半村が。あの人殺しが」


嘲りの色により、アヤカの言葉尻が上がる。ここにきてようやく憂理は言い返した。


「そうは言ってない。ただ、あんな扱いは――」


「トクラ。今のアイツは、お前が助ける事ができる。今すぐドアを開けて、連れ出して、どっかで、ずっと休ませればいい」


「何が言いたい」


「それで半村は助かるだろう。でも、カガミは生き返るのか? アイツの犠牲になった奴らは生き返るのか?」


「そういう問題じゃねぇだろ」


「いや、同じだ。半村は許されない。今のアイツに同情するのは、身勝手な、愚かな行為だ。半村は命乞いできる、弁明できる。でも、カガミはもう何もできない」


いまさら指摘されずとも、これは憂理自身も気が付いていることだ。アヤカはグイと憂理の至近に寄り、駄目押しのように言う。


「反人道的って、人権のことか? そうなのか? トクラ、アイツはカガミの人権を、生きる権利を無視して、殺した。なのに、アイツはその人権で助かるのか?」


「わかってる。言いたいことは」


「いや、わかってない。トクラ、お前はわかってない。もう、この世の誰も、カガミの声を聞いてやる事ができない。誰かが代弁してやらなきゃ、カガミは二重に踏みにじられる」


「代弁……」


「そうだ。『絶対に、許さない』って。半村は生きてる、カガミたちは死んだ。この差は半村が死ぬまで埋められない。生きる以上は代償を払い続けなきゃいけない」


明確でないにせよ、憂理は気付いていた。

このアヤカの言説は、『実験』の正当化のためにタカユキから吹き込まれたモノに違いない。そして、憂理は上手い反論を持ち合わせてはいなかった。


たしかに、カガミの死を――半村の罪を『赦す』ことができるのは、死したカガミしかいない。だが、第三者がそれを大義名分に利用するのは、あまりにも醜悪なことではないか――。


自分に出来ることが無いことを悟ると、憂理は中央階段の方へと歩き始めた。


胸の奥には、得体の知れない無常感があった。『ポッカリ穴が開く』とはこういう時に使うのかも知れない。半村、深川、そして学長。

大人とはなんだろう。憂理には良くわからない。


自分はいつになったら『大人』と自覚できるほど、成長するのだろう。




 * * *


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