1-10 対立
菜瑠が夕食をとるために席を外した以外、憂理たちは入浴まで休み無く働かされた。おかげで両手は疲れきってしまったが、床のほとんどはモップ掛けが終了した。
ケンタは終始「腹が減った」とこぼし、カガミは文句ばかりだった。体育室を離れ、大浴場へ移動するさなか、ケンタが憂理を肘で突いてきた。
「ねぇユーリ。今日は……地下へ行かないの?」
憂理はすぐに肘で突き返し、潜めた声でたしなめる。
「地下の話題はやめろ」
不思議そうな顔をしたケンタから、そっとタカユキへ目をやると、堕落の聖人はすでにこちらを見つめていた。千年先をも見通すような澄んだ瞳、それでいて虚無感をも感じさせる目。
「ケンタ……あとで話すから、今日は飯を我慢してくれ」
「……良くわかったね!」
食べる機会を失った夕食のかわりに地下の保存食を狙っている事ぐらいお見通しだ。
憂理はケンタの腕をつかむと少し大股に歩き、大浴場へと足を踏み入れた。
浴場の使用は午後9時から10時半までの1時間30分と決められている。
その1時間半の間なら、いつでも自由に入ってよいのだ。
早い時間に入浴を済ませたほうが湯が汚れていない。ゆえに、だいたいの場合、早い時間の方が混み合う道理だ。
脱衣所でいつもの脱衣棚に上着を放りこむ。
さっさと汗を流して、サッパリしたい。それに……。
ズボンを下ろそうとした憂理の視界に、ふと見慣れぬ光景が映った。
大浴場への入り口となるガラス戸前に多数の人だかりだ。どの児童も全裸で、情けなく前だけ隠している。
憂理はズボンを履いたまま、人だかりへ歩み寄り、なにかあったのかと誰に訊くでもなく訊いた。
「まだ入れないんだと」誰かが言う。
「まだって……もう9時は過ぎてるだろ」
「いや、アレだよ。罰掃除の奴らがまだ掃除してるんだ」
「まだやってるのか」
「ああ」
「まったく段取り悪ぃな。よし、さっさと追い出そう。おい通るぞ、道を開けてくれ」
憂理は裸の人ごみを押しのけて、ガラス戸の前までやって来た。一面が白く曇っており、内部はうかがい知れない。
そうして一呼吸おくと、引き戸を一気に開いた。湯気が浴場から脱衣所へ殺到し、憂理の肌を濡らす。
内部では、5人の男子がデッキブラシを床にこすりつけており、シャワーが全開で放射されていた。湯船に湯は張っておらず、湯気はシャワーのものらしい。
「おい、お前ら。風呂の時間だ。掃除はオシマイ、オシマイ」
憂理の要求に、デッキブラシのひとりが疲れた様子で首を振った。
「さっきも言ったけど……駄目だ」
「駄目なことあるか。早くやめろよ」
憂理が食い下がると、湯気の奥から甲高い声が返ってきた。
「今は掃除中だ! 使用はできないぞ」
ゆっくりと湯気の向こうから現れたのはガクだった。
見張り役か。
「でも風呂時間だぞ」
「こっちも罰の時間中だ」
「そんなこと知るか!」
「今日じゅうに男風呂を半分以上終わらせないと、3日以内に女風呂まで掃除できないんだ。仕方ないだろ」
「仕方ないもクソもあるか。もう充分キレイじゃないか」
憂理が浴場を見回すと、ガクは床面を指差した。
「ぜんぜんだ。ほら、まだそこに黒ずみが残ってる」
見ればタイルとタイルの間が微かに黒ずんでいる。憂理が物を言う前に、デッキブラシのひとりが首を振った。
「それ、擦っても取れないんだって」
「擦っても、取れない? ちがうな、取れるまで擦るんだ」
――コイツ、どうかしてるんじゃないか。
「おい、ガク。そんなこと気にしてたら、一生掃除なんて終わらないぞ」
「だから終わらせるために一所懸命にやってるんだよ。邪魔するな」
憂理はウンザリして、権力に頼る事にした。いつもはガクが使う手であるが……。
「おい、誰か。学長よんでこい」
憂理のすぐ隣にいた痩せっぽちの男子が、返答する。
「さっき誰かが呼びに行ったよ。もう来るんじゃ……」
言い終わる前に、脱衣所の入り口に学長が現れた。
「なんの騒ぎか」
痩せっぽちの男子が、すがるように告発する。
「ガクが風呂時間なのに、掃除をやめないんです」
これは、ガクも罰を食らうのではないか。憂理は胸のすく思いだ。罰掃除も、人手が増えたなら3日で終わるかもな、と。
「大代くん。いまは入浴時間じゃないか。なぜ掃除を続けてる」
学長の問いかけに、ガクは怯む様子もなく、自信満々に応えた。
「罰則者の働きが悪くて、掃除が終わらないからです」
夕食を抜いたせいで、気が立っているのか、憂理は無性に腹立たしくなった。
「学長は飯抜きは指示したけど、風呂抜きとは言ってないぞ」
ガクは眉一つ動かさずに言い返す。
「風呂に入っていいとも言ってない」
「屁理屈だ! クソ野郎!」
「クソ野郎と言うのはルールを破った君らのことか? 罰則者が偉そうに」
思わず身を乗り出した憂理の肩に学長の大きな手が乗せられた。湯気で曇りがちになったメガネを指で押し上げ、初老の男は言う。
「大代君も杜倉君も汚い言葉は控えるように。大代君は今すぐに浴室をあけて、皆がすみやかに入浴出来るようにしなさい」
「でも掃除は終わってません」
ガクの反駁に学長はため息をひとつして、言った。掃除をさせるために罰を与えたのではない。秩序を守らせるためだ。
罰掃除のために全体の秩序が乱れては、本末転倒というものだ。
今すぐに掃除をやめ、皆が入浴できるようにするように。
「わかったね」
それだけ言うと、学長は男子たちの群れを割って脱衣所から去って行った。
憂理が壁の時計で時刻を確認すると、まだ9時半を回ったところだ。入浴には充分間に合った。
学長が引き戸の向こうに姿を消すと、裸の男子たちは、自分たちの勝利に喜び、奇声を発したり、ガクをヤジったり、にわかに騒がしくなった。宙で手を叩き合わせたり、踊り出す者までいたのはさすがの憂理にも悪ノリに思えたが――。
この過剰な熱狂こそ、皆がガクへと向ける反感を表しているのかも知れない。
しかし、一方のガクはまるで表情を崩さず、ただ軽蔑の眼差しを裸の集団に向けているだけだ。
憂理は勝利者らしく肩肘を張って、堂々と要求した。
「さあ。風呂場を空けろよ。俺たちは風呂に入りたいんだ。汗をかいて、疲れてるんでね」
ガクは凍るような視線を憂理に突き刺してくるばかりで、返事をしない。憂理は肩をすくめ、デッキブラシ部隊に言った。
「お前らも、撤収していいよ。脱衣所で服ぬいで、そのまま風呂に入っちまえよ」
安堵のため息が口々に漏れ、彼らが仕事道具を片付けようとした時、ようやくガクが動いた。さっと開いた右手を肩のあたりまで上げ、制止をうながした。
「待てよ」
デッキブラシ部隊がピタリと動きを止め、かすかな緊張が全体に伝播する。
「学長がああ言うなら、掃除は終わりだ」
「じゃあ、さっさと……」
「待てったら。掃除は終わったケド、入浴の段取りができてない」
疑問符つきの言葉が右から左から湧き上がる。
「段取り?」
ガクはそんな疑問符にうっすらと笑い、時計へと視線を動かした。なんだか嫌な予感。きっとこの場にいるほぼ全員が同じ感情を共有したに違いない。
「段取り、つまりは準備さ」
「……じゃあ、さっさと準備しろよ」
「するさ」
「ああ、早くしろ」
「じゃあ出ていってくれ」
不穏な雰囲気に、裸の男子たちは顔を見合わせた。皆の訊きたい事はひとつ。憂理が代弁する。
「時間がかかるのか?」
ガクは口角をゆがめ勝利を確信したかのように笑う。
「ああ。だって今から湯を入れるんだ。たっぷり1時間はかかるな」
激しいブーイングと罵声が、ガクの一身に注がれた。しかし、ガクは涼しい顔だ。
「仕方ないだろ? 湯がないんだ。でも湯が張る頃には入浴時間が過ぎてるな」
稲妻が発光するような速さで、憂理は言葉を発した。
「学長を呼べ! 入浴時間の延長だ!」
本音を言えばシャワーでもいい。だがガクの思惑にハマるのはプライドが許さない。痩せっぽちの男子が頼りなく言う。
「駄目だよユーリ。学長時間にはうるさいし……」
他の男子たちも諦めから力なく言う。
「諦めて、シャワーだけにしよう……」
ノズルが4つしかないシャワーでは、全員浴びるのにどれほどの時間がかかるのだろう。
――無様に、シャワーを並んで浴びるのか! 認めねぇ!
憂理は上半身裸のまま素早く踵をかえすと、脱衣所を出て隣に位置する女子脱衣所の引き戸を叩いた。
「おい! 誰か」
数度叩くと、数センチ引き戸が開かれた。隙間からまつげの濡れた瞳が覗く。
「……なに?」
「男湯に湯がない!」
「……だから?」
夢中だった。
ガクに負けたくない。その一心だった。
「湯を分けてくれ! アレだ、別に汚くてもいいから!」
「死ね!」
突き刺すような言葉とともに、引き戸はパタリと閉じられた。愕然として、風が吹けば飛ばされてしまいそうなほど全身から力が抜けた。
「おい!」
すぐ側で呼びかけられ、呆然と憂理が声の方を見やると、憂理の倍は呆然とした翔吾が立っていた。
「えっと、お前……なにやってんの?」
半裸で女風呂の前。
どこから説明すれば良いか、わからなかった。
* * *