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13月の解放区  作者: まつかく
1章 拷問部屋を探して
1/125

1-1 地下の地下へ

自分が生きているかどうか知りたかったら、手首を囓ってみるといい。

出血すれば生きてるし、出血がなく、痛みだけならば死んで幽霊になっている――。


消灯後、オレンジ色の非常灯に照らされる天井を眺めながら、誰かが言ったそんな言葉を憂理ゆうりは思い出していた。


三段ベッドの最上段にごろりと身を横たえ、近すぎる天井に手のひらをあてる。

幽霊は悲惨だ、憂理は思う。

もしも、その話が本当ならば、少なくとも幽霊には『痛み』がある。殺されたときや死んだときの痛みが永遠に続く。その痛みが癒えることはあるのだろうか。


死んでしまおうにも、すでに死んでいるし、病院で治療というわけにもいくまい。なんとも不憫(ふびん)な存在ではないか。


現時点では――自分は生きている。憂理はそう思う。そして、少なくとも、幽霊であっても痛みはない。今はそれだけでも十分かも知れない。


両親に連れられ、この施設にやってきてから、おそらく1年は経過している。

歳の頃の近い少年少女が多く、遊びには不自由しないが、毎日こうして灰色のコンクリートに囲まれていると、いささか現実感が失われる。

自分が生きているという現実さえも。


「おい、ユーリ。起きてんのか」


囁き声とともに、ベッドの裏から軽い衝撃が伝わってくる。

「おい、下から蹴るなって言ったろ」


憂理のすぐ下は翔吾(しょうご)のベッドだ。

サッカーで鍛えられた足腰で蹴り上げられては、寝る子どころかそれこそ死者さえも目を覚ますに違いない。だが憂理の非難を気にする様子もなく、ベッドの下から翔吾が続ける。


「あのさ、地下の噂は聞いたか?」


「地下の噂?」


「え、知らねぇのかよ、お前は」


「ここも地下じゃないか」


すぐにベッドの側面がきしみ、下段から翔吾がぬっと顔を覗かせる。薄暗い部屋の中、非常灯のオレンジを背に、毛先の遊ぶ髪が浮き上がっている。


「ヤバイんだって」


「だから何が」


「サイジョーって覚えてるか?」


「ええっと。背の低い……目つきの悪いサイジョー?」


「ああ、それそれ。チビのサイジョー。あいつ、最近見ないだろ?」


そういえば、と憂理は記憶を手繰(たぐ)る。

最後に見たのはいつだったろう?


半年前のような気もするし、つい最近だったような気もする。どうにも記憶が曖昧(あいまい)だ。だがそれもやむなし。

施設内には70人からの生徒がおり、いちいち全員の近況など把握していられない。


「サイジョーがどうした?」


「あいつ、学長に殺されたらしい」


一瞬、ユーリは耳を疑う。あまりにも突飛な話で、『ああそうなんだ』と納得する方がどうかしてる。


「バカいうなよ」


すると、ベッドに立てかけられたハシゴを(きし)ませて小太りの少年が上がってきた。

丸く、福々しい顔が翔吾と並んで、憂理のベッドをのぞき込んでくる。ケンタだ。

声をひそめて、太った少年は言う。


「ぼくも、その噂聞いたよ。学長、ソコーの悪い奴を……地下で拷問するって。何人かそれで死んだらしい」


「な? いったろ? いやーやばいわ」


確かに、サイジョーという少年は素行(そこう)が良くなかった。

精神的に不安定で、食堂や通路で頻繁(ひんぱん)に叫んだり、暴れたりしていた。


当然、積極的に彼と関わる者がおらず、友人は少ない。彼の友達を捜そうと思えば自分と同じ誕生日の人を探す方が楽な作業であろう。急に暴れたりわめき散らしたりする……翔吾の言を借りれば『クレイジー』な少年だ。


しかし、いくら『クレイジー』であるからといって、少しばかり姿が見えないだけで『学長が殺した』というのは余りにも乱暴な話であるし、とてもじゃないが信じがたい。


それに、その話が真実であるならば、翔吾やケンタが殺されていないのはどういうワケか。理屈に合わないではないか。

憂理は自分を棚に上げて、そういぶかった。


「家に帰ったんじゃないのか?」


「んなワケあるかよ。絶対違うって、な?」


翔吾が隣にいるケンタに同意を促すと、ケンタは黙って頷く。


「じゃあさ、深川先生に聞いてみなよ。『サイジョーはどこへ行ったんですか?』ってさ」


「ばっか。あのオバサンもグルなんだって。ここにいる大人はあの二人だけなんだぜ? 学長の悪行を知らないわけがないだろ。ぜってーグルだよ。聞いたら俺が次の被害者だ」


翔吾はさらに声をひそめ、続けた。


「でさ、でさ。この殺人事件の証拠を探したいわけよ。真実を明るみに出したいワケよ。俺とケンタとユーリでさ」


「証拠……って?」


「地下に行くんだ」


「地下って……ここも地下だけど」


「だから、最下層に行くんだよ。きっとそこに拷問部屋があるはずだ」


「うんうん、へたしたら、サイジョーの死体があるかも」


「でもな……」


憂理の返事を薄闇のなかから誰かが遮った。


「おい! 就寝時間だろ、静かにしろよな! 眠れないじゃないか、うるさくて!」


ガクの声だ。その甲高い声が響いたとたん、慌てて翔吾とケンタが下へと引っ込んだ。

神経質で密告ばかりするガクのことだ。下手をすれば、この程度のこと――就寝時間内のおしゃべり――でも学長や深川を呼ぶかも知れない。


ようやく罰掃除の苦役(くえき)から解放されたばかりなのに、再び罰を食らうわけにはいかない。

翔吾やケンタも同じ事を考えたようで、まるで忍者のごとき動きで自らのベッドへ戻っていった。


「静かにしろよな! 寝られないんだよ! うるさくて!」

ガクの言葉を最後にシンと静まり返った部屋の中――誰かが言った。


「お前もな」


忍び笑いが闇のそこかしこから生まれ、やがて消えた。



 * * *


次の日は学習のない休日だ。この日ばかりは生徒たちも思う存分眠っていられる。

さすがに施設外への外出は許可されないが、各自が自由に時間を使える。


憂理はいつもそうしているように、昼過ぎまでベッドで過ごす予定だった。

どうせ早起きしたって、出来ることなど知れている。ならば睡眠こそが最良の選択だと憂理は考える。


しかし、誰かが『最良の選択』を邪魔した。

布団の防御壁ごと乱暴に肩を掴まれ、右へ左へ。憂理の夢の世界に地震が引き起こされる。


「ユーリ、ユーリってば。起きろよ、なぁ。なあって、なぁ! ユーリ、なぁ!」


布団から顔を出してみれば、翔吾とケンタが就寝前と同じようにベッドの脇に顔を並べている。薄目に時間を確認するが、午前3時を回ったところだった。


これは、早起きにしたって余りに早すぎるではないか。

ニワトリだってこんな時間に起こされたら怒り出すに違いない。翌日が休日である憂理はなおさらだ。

ムッとして妨害者を非難しようとすると、翔吾は逆に非難してくる。


「いつまで寝てんだ、おい、起きたか? 起きたな? 行こうぜ」


「……どこに?」


「決まってんじゃん。地下だよ!」


(ひそ)めた声の翔吾の横で、さらに声を(ひそ)めたケンタが言う。


「拷問部屋を探すんだ」


「やだよ」憂理は布団に頭を潜らせた。「眠いもん」


「眠いのはみんな一緒だろ」


憂理は布団の中から何度も抗議したが、翔吾は受け入れない。やれ任務だの、使命だの捜査だの、ちょっとした探偵気分らしい。


憂理だって、この施設には興味がある。生活必需品に事欠くことがなく、不自由を感じたこともない。教室もあれば、体育館となるホールも大量の蔵書を誇る図書室ある。正規の学校でもなかろうに、学校としての(てい)をなす――不思議な施設だと思う。


ここに身柄を預けられた当初は、憂理などは修学旅行のような気分で、毎日が新鮮に思われた。が、自然と慣れ、日常となった今では何も感じない。


不満があるとすれば、『外に出られない』という一点だけだった。とはいえ、施設が山奥に位置しているだけに、目的もなく外出したところで出来ることといえば『遭難』ぐらいのものだが。


――それを、今さら地下だなんて。ド派手に脱走ならともかく……。


憂理は仕方なく起き上がり、三段ベッドの梯子(はしご)を下り、翔吾に導かれるまま廊下へと出た。

廊下は非常用の緑光ミニランプだけが点灯しており、見渡す限りが緑色だ。


学長や深川はまだ眠っているに違いない。彼等が朝一番にする仕事は、廊下の照明を点けることだからだ。緑色の闇の中で、翔吾が声をひそめて名を呼ぶ。


「よし、点呼をするぜ。ユーリ。いるな」


「……目の前に」


「ケンタ」


「押忍」


「ノボル」


見ると、メンバーは四人だった。ノボルが無言のまま頷く。ノボルは普段から無口でほとんど喋らない。その小さな体に似合わないダミ声が特徴的で、そのダミ声を恥じて無口になった――といつかケンタが言っていた。


「よし。全員いるな。じゃあまず、階段へ行くぞ」


隊長気取りの翔吾が先頭に立ち、ケンタ、ノボルが続く。憂理はアクビをしながら最後尾についた。教室の前を通り過ぎ、女子の部屋の前も通る。

どの部屋にも覗き窓はなく、内部は伺い知れない。


女子のベッドルームも、三段ベッドなのだろうか?

ふと、そんなことが気になるが、そんな憂理を気にも留めず、翔吾はぐんぐん通路を進んでゆく。


やがて中央階段まで到着すると、翔吾は隊員たちへと向きなおり、ひとつ頷いた。


「じゃ、いくぞ」


ケンタとノボルは真剣な面もちで頷いたが、憂理は上階へ続く階段を指さした。


「なぁ翔吾。おれ、地下よりも上に行ってみたいんだけど」


「上は体育館と空き部屋ばっかだろ」


「いや、その上だよ」憂理は肩をすくめる。「地下よりも……外に出てみたい」


その提案に翔吾は目を丸くした。そして薄いアヒル口をさらに(とが)らせる。


「脱走か?」


――脱走。それは大げさな表現じゃないか。

「いや、そんなんじゃなくて……ただ……」


――ただ、久しぶりに、外の空気を吸ってみたい。夜の散歩をしてみたい。


考えてみれば、この施設に来てから一年にもなろうが、憂理は一度だって外へ出た事がない。


外出は学長や深川にかたく禁止されていたし、ここへ来た一年前はエレベーターで直接、生活棟に降りてきた。

エレベーターは操作パネルの鍵がなければ動かないが、この階段を幾階か上がれば外にでられるはず。


「この階段を上がって行けば、出口があるの?」


ケンタも興味津々で上階を見上げた。憂理自身、確証(かくしょう)があるワケではなかったので肩をすくめるばかりだ。

それぞれの視線が階上を見上げ、それぞれの思惑(おもわく)が沈黙を生む。そして、そんなわずかな沈黙を破ったのはノボルだった。


「ない」ノボルはぶっきらぼうにダミ声で言う。「体育館の階から上は、行けん」


「行き止まりって事か?」


「机とか積んで、通れんようにしてある」


「積んで、って、バリケードみたく?」


尋ねてもノボルは返答せず、ケンタと共に上を見上げている。

翔吾は髪を手櫛で撫でつけて、なにか考えこんでいたが、やがて口を開いた。


「気になるケド、今日は地下へ行かなきゃ、だ。学長の執務室からパクってきた鍵を、朝までに帰さなきゃ、だからな」


そう言って、人差し指で金属鍵をクルクルまわす。


「鍵の持ち出しがバレたら……今日は飯抜きだよね」

心配そうなケンタに、翔吾はアヒル口の片方だけを上げた。


「今日は、じゃない。3日は、だな」


そして4人はのらりくらりと階段を下りた。

憂理だって出口だけに興味があるワケではない。他の生徒と同様に地下に対して少なからず関心を持っていた。


一年のほとんどを生活棟と運動棟と呼ばれる上下二階で過ごしており、その二つの階以外の構造はよく把握していない。

この施設が地下に存在しているのは明白であったが、どれほど地下なのかはわからないのだ。10メートル、20メートル。あるいは地表から100メートル下かも知れない。


階段を下りきったところには地下階を(ふう)ずる鉄製のドアがあった。見るからに頑丈な造りで、これが『侵入者対策』なのか『脱走者対策』なのかわからなくなる。


「じゃあ、いくぜ? 物音をたてるなよ?」


翔吾がゆっくりと鍵穴に金属鍵を差し込み、回す。

金属の触れあう無機質な音が鉄製のドアに伝播(でんぱ)し、周囲のコンクリートに反響しては緑色の暗闇に消えていった。


そうして、翔吾は隊員たちの方を向いてコクリと頷くと、慎重にドアを開いた。


「……よし、拷問部屋を探すんだ」


鉄でできたドアの向こうは、上階である生活棟と同じような構造になっていた。翔吾に続きケンタ。ケンタに続きノボル。そしてノボルに続いて憂理。最後尾の憂理は音を立てないよう――後ろ手にドアをゆっくり閉める。

すると、翔吾がすぐさま鍵をかけた。


「これでオーケー。追っ手をシャットアウツ」


「追われてたのかよ」


右から左へ通路を見回すが、この階も緑色の非常灯が長い廊下を照らしている。5メートルごとに、規則正しく鉄製ドアが並び、湿気ったコンクリートの臭いが充満していた。


憂理と翔吾。ケンタとノボル。その2チームに別れ、探索は開始される。

憂理は微かな興奮を感じていた。鼓動が早まり、血液が全身を循環してゆくのを感じる。


死体があるとは思わない。拷問部屋の噂も馬鹿らしい。

だが、立ち入り禁止とされている場所に自分はいるのだ。


「なんか、こう……ドキドキする」


「ああ、探検だ」


まるで猫科の獣のように翔吾はしなやかな動作で通路を音もなく進んでゆく。そして最寄りのドアに体を寄せ……そっと開いた。緑光の届かない闇が、ドアの向こうに広がっている。


通路から差し込む頼りない緑光だけでは、室内の様子がうかがい知れない。


「ここは……?」


「電気をつけよう」


翔吾がドアを半開きにしたまま、室内灯のスイッチを探っていると、唐突(とうとつ)に奇声があがった。

翔吾の肩と憂理の肩が同時にビクリと固まる。


「ふぁー」間の抜けた声。「ノボル、みて。食い物が沢山ある。ほら、このダンボール、全部そうだ。真空パックだ、ほら」


ケンタの声だ。どうやら彼らは食料の貯蔵庫を見つけたらしい。憂理は声をひそめ、通路の奥に向かってたしなめる。


「ケンタ。おい、ケンタ。開けちゃ駄目だぞ。バレたらヤバいんだから」


すると、奇声とは打って変わって、ヒソメ声が返ってくる。


「え、やばい? 隠せ、やぶった袋。ヤバいらしい。ヤバい」


どうやら、手遅れだったらしい。緊張感のない奴らだと思う。


「点けるぜ」言うが早いか翔吾が部屋の電灯を灯した。


闇に慣れた目に、白光が眩しく思わず目を細めてしまう。それでもどうにか見てみると、教室と同じぐらいの広さの部屋にダンボールが規則正しく山積みにされていた。


「これも食料かな?」


憂理の問いかけに、翔吾は肩をすくめた。そして開いているダンボールの一つに歩み寄ると、猫少年おもむろに中を覗いた。


「ん、違うな。少なくとも、食料じゃないな。……ヤギ人間なら別だけど、だ」


そんな軽口と共に、翔吾が一冊の小冊子をダンボールから取り出した。紫の装丁に『ミチビキ』と黄色で文字が書かれている。これは、施設が発行する書誌だ。どうやら余分なバックナンバーなどが保管されているらしい。


「この部屋はハズレ」


「つぎは隣」


翔吾が脇をすり抜けたのを確認すると、憂理は電灯を消し、そっとドアを閉めた。両手を添え、慎重に。音を立てないようにとの配慮だったのだが、ケンタ・ノボルチームの方からはガシャリ、とドアを閉める大きな音が響いてくる。


「ケンタ、ノボル! 静かに閉めろよな。学長に見つかったら、終わりなんだぞ」


「わかたよー」


ケンタの返事は、やはり緊張感に欠ける。ケンタとノボルを組ませたのは失敗かも知れない。


「ここは、生活用品の貯蔵庫みたいだな」


真剣な表情で翔吾が探索を続けている。数個のダンボールを開いては、中を検分し、表情を曇らせては、また憂理の脇をすり抜ける。

――衣料品。

――工具類。

――嗜好品。


この階は、やはり倉庫棟なのだろう。こうやって各部屋を見回り、探したところで、拷問部屋など……。


「もう一つ……下の階かも、だな」


翔吾が苛立たしげに言う。


「ここが一番下の階だろ? そもそも、拷問部屋ってのが想像の産物じゃないか。サイジョーは脱走しただけかも知れないぞ」


「誰かがさ」翔吾は真剣な眼差しを憂理に向けた。


「見たらしいんだよ。学長とサイジョーが一緒に中央階段を降りるとこ。それ以来、サイジョーは行方知れず」


なるほど、拷問部屋の噂はそこから発生したらしい。学長と階下に降りて以来、サイジョーの姿が見えないならば、『学長がなにかした』と考えるのも仕方がない。憂理は合点がいった。

とはいえ拷問されたというのはいささか考えすぎだろう。


「ふうん。じゃあ……ここに居るのかな……サイジョー」


「少なくとも、脱走なんかじゃない、だろ? だいたいよ、たかが倉庫代わりに使ってるフロアなら、ここまで徹底して俺たちを遠ざけるのもおかしな話だろ」


「まぁ、こんだけ部屋が余ってるなら、そろそろ個人部屋も欲しい。おれ学長に言ってみようかな」


「アホ。殺されるぞ。それこそお前にあてがわれるんが拷問部屋になるわ」


「しっかし無駄だよな……。こんだけ広いのに無人の廃墟ってさ」


いくつめかの物置部屋から出ようと電灯を消す。そして二人が通路に出たのと同時に、大きな物音が通路に反響した。

ガシャン、と鉄製のドアが閉ざされる硬質の音。


二人は反射的に身を低め、音のした方へ視線を向けた。しかし、緑光の暗い廊下は直角の曲がり角のせいで見通しが悪い。


「ユーリ」翔吾が声をひそめ、言う。「今の音……こっちから聞こえた、よな?」


憂理は頷いた。

「ああ、俺たちの来た方だ。……ケンタかな?」


顔を見合わせた二人の耳に、さらなる物音が届く。カツ、カツとリノリウムの床に靴が鳴っている。それは運動靴をはいているケンタやノボルには出せない音だ。


ケンタかノボルが物置で、靴でも見つけたのだろうか。嬉しがってそれを履いて? 憂理は自らのそんな閃きをすぐに否定した。

――歩幅が、広すぎる!


音によって計れる歩幅。これはケンタなりノボルなりの少年が出せる足音ではない。もちろん『チビ』のサイジョーでもない。その何者かがどんどん近づいてきている。


「……やべ! 学長か?」


「こっちに来るぞ」


二人は今出てきたばかりの物置部屋へと、そっと戻った。焦ってドアを閉めたせいで、鉄の留め具がキィと悲鳴を上げた。

途端に、何者かの足音はハタと止まった。


冷たいドアに耳を寄せ、二人は呼吸さえ満足にできない。心音が鼓膜に、しゃく、しゃくと伝わる。気づかれていないワケがない。


コンクリートに塗り固められた地下施設は小さな音すら幾重に反響させ隅々へ届かせるのだ。


「もし、気付かれてたら」憂理は声を押し殺し、ゆっくりと囁いた。「このままここに隠れて、学長をやりすごしてから生活棟へ戻ろう」


「ああ、今日のところは引き上げだ。でもノボルとケンタは……」


彼らの状況など憂理にわかるはずもない。おそらく自分たちと同じように、どこかの部屋に隠れ、じっと息を潜めているに違いないが、確証などない。


一秒が極端に短いような、長いような。それでいて濃密な時間が静寂を支配していた。

やがて途絶えていた足音が再び耳に届いた。ようやく学長が歩き始めたらしい。

大きな歩幅は二人のいる部屋へ向かい、通路を進んできている。


――気付かれなかったか。あとは通り過ぎてくれれば……。


憂理が安堵の息を漏らしたその時、足音はピタリと止まる。そして突然の金属音が響いた。ガシャリ、とドアのレバーノブを下げる音……。そして直ぐにスイッチの切り換え音がパチリ。


数秒後、再び足音がカツカツと始まり、また止まる。

そして、ガシャリ。パチリ。

憂理はゾッとした。

――部屋を、一つずつ確認している!


ガシャリ。パチ。ガシャリ。パチ。


肺の底に鉛がたまったような重圧を感じる。聞き耳をたてて距離を探ってみるが、ハッキリ把握できるのは危機の確実な接近だけだ。


――どうすれば。

鉄製のドアが、触れた場所から憂理の体温を奪ってゆく。刻一刻、じっとしていれば確実に状況は悪くなり、選択肢は少なくなってゆく。


身を隠すにしてもこの部屋には中身の詰まった段ボールしかなく、その段ボールは物陰になるようなスペースを作っていない。


「翔吾、この部屋を出よう。学長はまだ角を曲がってきてない」


視界が塞がれているうちに部屋から逃げ出し、奥へと逃げれば……やり過ごす手立てが見つかるかも知れない。


「ああ、このままじゃ……、だな」


レバーをゆっくりと下げ、憂理はそっとドアを開いた。通路の冷ややかな空気が頬を撫でてゆくのを感じる。

目配せで合図すると、翔吾は例の猫科の動きで小さく頷き隙間をすり抜けた。

憂理もその後を追い、通路に出ると慎重にドアを閉める。


「はやく」


「まてって」


音を立てないようドアを閉め、レバーノブを元の位置まで戻すと、奥へと逃げ出す。小柄な翔吾の背中を追い、スリ足気味に通路を進んだ。

背後からはドアの開閉音と、スイッチを切り替える音が追ってくる。しかし、20メートルほど進んだところで道は途絶えた。


無機質なコンクリートの壁が緑光に照らされている。行き止まりだ。

これでは発見されるのは時間の問題ではないか。


「ユーリ、こっちだ。小道がある」


翔吾の囁きに周囲を見回すと、通路の左面に幅にして1メートルほどの細い通路がポッカリ空いている。歩み寄ってのぞき込んでみるが、その細い通路は天井に緑光がない。

外から染みこんでくる緑光をしっとりとした闇が飲み込んでいた。


「奥に、続いてるのか?」


憂理の問いかけに翔吾は応えず、無言でその細通路の闇に身を沈めた。

一瞬の逡巡(しゅんじゅん)が憂理の脳裡を駆け巡るが、接近者がたてる背後からの音に、あわてて翔吾の後を追う。


壁に手を当て、慎重に闇を進んでゆくと、すぐに細通路の終着点にたどり着いた。

細通路もどこかへ通じているワケではなかったのだ。

ただ、行き止まりの向かって左方向にドアがあった。


「この部屋に入るしかないな」


それは、今までの倉庫部屋のドアとは異質のドアだった。闇に慣れきっていない目でもわかる。

鉄製の各部位に補強材が張り付き、ドアの下部には長方形ののぞき穴があった。

穴とはいえ、蓋のようなモノが被さっており、安アパートの郵便受けのような印象を憂理に与えた。


「仕方ない、この部屋でやりすごそう」


憂理はレバー型のドアノブを下に引いた。しかし、ドアレバーは水平に固定されたままピクリとも動かない。


力を変え、角度を変え何度か試してみるが、レバーは凍り付いたように水平を保っている。

「鍵がかかってる……」


「なんだよ、畜生」


翔吾は悪態をつくと壁に背を預けて床までずり落ちた。だらしなく床面に足を投げ出し降参の構えだ。

憂理もその場に腰を下ろし、今後、自分に下るであろう処遇を考え始めた。激怒され、なじられ、殴られる。

3日間は食事抜きだと翔吾が言っていたが、実際はどうなのか解らない。


立ち入り禁止区画に入った生徒への処罰など、過去になかったからだ。ぼんやりとした頭に、小太りの少年と、険しい顔をした少年の顔が浮かぶ。


「ケンタとノボルはどうなったかなぁ」


「学長がこっちに来てるんだ。あいつらはもう生活棟に戻ってるさ」


「だといいけど……」


「くそ、学長の奴、丹念に調べすぎだろ……」


ドアの開閉音は、地道ではあるが確実に二人のいる行き止まりまで近づいてきている。

――学長か。


ふと、憂理の脳裡に疑問が湧き上がった。

「なぁ……翔吾?」


「……なんだよ」

降参を決め込んだ翔吾は気怠そうで、元気も覇気もない。憂理は暗闇の中で天井を見上げて言った。


「この階に降りてきた時さ……。お前、中から鍵をかけてたよな?」


「ああ、そだな」


「この時間、エレベーターは動かさないよな?」


「そりゃあ、そうだ。就寝時間だもん、ポーンって到着音で誰かが起きちまう」


「じゃあさ、俺たちが入ってきたドアの方から……いまこっちに向かって来てるのは……誰だ?」


ガシャリ。パチリ。


「誰って、学長に決まって――」そこまで言って、思考が追いついたのか、翔吾の表情が固まる。「そか……俺が鍵を持ってるから、学長はこの階に入れない――」


「……『学長は』じゃない。深川も、生徒も……俺たち以外は誰だって入れない」


「つまり……」


ガシャリ。パチリ。


「今、向かって来てる奴は……。最初から、この階にいたんだよ」




 * * *

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