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お姉様は怒らないから、って言われ続けたので

作者: 相川ことね
掲載日:2026/07/31

 イーディトは、妹の代わりに二十二回、頭を下げた。


 数えているのは、香の瓶が残るからだ。詫びに伺う先の好みを聞いて、その人のためだけに一瓶を調える。橙が好きだと言えば橙を、寝つきが悪いと言えば乳香を。卓に置いて、こう言う。妹が失礼をいたしました、と。


 棚には二十二本が並んでいる。


 二十三本目の空きも、もう見えている。


「お嬢様。棚がそろそろ埋まりますわね」


「もう一段、足していただこうかしら」


「大工を呼びますか」


「呼びましょう。この十年で二十二本ですもの。あと二十年で、この部屋がもうひとつ要りますわ」


「お部屋」


「ええ。壮観でしょう。そのころには香の店でも開けますわ」


「お嬢様が店主では、一本もお売りになりませんでしょう」


「あら。ぜんぶ差し上げてしまいますものね」


 イーディトは笑って、瓶の並びを指で数え直した。数えなくても分かっている。


 ――ズザンネが今朝、ラウフェン侯爵夫人の茶器を割ったからだ。




 イーディトが八つ、ズザンネが五つの年のことだ。


 妹が姉の部屋に入って、机の上の小箱を落とした。中には母方の祖母がくれた硝子の鈴が入っていて、それが割れた。イーディトが一つだけ持っていた、自分のものだった。


 ズザンネは泣いた。声を上げて、しゃくり上げて、床に座り込んで泣いた。


 母が来て、妹を抱き上げた。それから、妹の背を撫でながら言った。


「大丈夫よ、ズザンネ。イーディトは怒らないから」


 部屋の隅で、イーディトは硝子の破片を集めていた。指を切らないように、端のほうから拾っていた。


「イーディト、こっちへいらっしゃい」


「はい」


「妹に、いいのよと言ってあげて」


「……いいのよ」


 ズザンネの泣き声が、少し小さくなった。


「ほらね」


 母が笑った。


「大丈夫よ、ズザンネ。イーディトは怒らないから」


 母の言葉を聞いて、破片を拾う指が止まった。


 ――怒らない子だと思われている。


 嬉しかった。八つの子どもにとって、母が自分をそう言ったことは、認められたのと同じだった。姉として信じられている。妹より大きい者として扱われている。


 だからイーディトは、その日から怒らない子でいた。


 二十年、そうしていた。




 九回目は、ハーゲン伯爵家の茶会だった。


 ズザンネが、居合わせた男爵令嬢を泣かせた。悪気があったわけではない。彼女の着ていた衣裳を「去年のお仕立てね」と言っただけだ。ただ、その令嬢の家がこの春に商いを畳んだことを、この場で知らないのはズザンネだけだった。


 令嬢が席を立ち、庭へ出ていった。


 ズザンネはきょとんとして、それから困った顔をして、隣にいた友人に何か囁いた。三十を数えるほど経って、彼女は立ち上がった。


 庭へ行くのかと思ったら、玄関のほうへ行った。


 その晩、王都で夜会があった。ズザンネは招かれていた。


「お姉様。今夜、青いほうのお衣裳をお借りしてもよろしい?」


「どうぞ」


「ありがとう。……ねえ、今日のあれ、わたし何か悪いことを言った?」


「言ったわね」


「そう。じゃあ、明日お姉様が行ってくださる?」


「行くわ」


「よかった」


 ズザンネは笑って、部屋を出ていった。


 姉が行けば片がつくと、この子は知っている。二十年、実際にそうだったのだから、疑う理由がない。


 翌朝、イーディトが香を持って伺った。


 調えたのは橙だ。前の晩、家の帳面をめくって確かめた。オルデン男爵夫人は橙。三年前に一度、詫びに伺ったときにそう聞いている。


「妹が失礼をいたしました」


 夫人は瓶を受け取って蓋を開け、匂いを嗅いだ。嗅ぎ終えて、少し困った顔をした。


「イーディト様。あなた、いつも謝りにいらっしゃるのね」


「ええ。よく走らせていただいておりますわ」


「走る、ですか」


「馬車が。うちのは車輪が古いものですから、この頃はどこの門をくぐっても『またあの音だ』と気づかれますの」


 夫人が、ふっと笑った。


「まあ。それは困りましたわね」


「ええ、困りますの。忍んで参れませんもの」


 帰りの馬車で、侍女が黙って膝掛けをかけた。


 イーディトは窓の外を見ていた。橙の匂いが、指に残っている。


 この言葉を、あと十三回言うことになる。




 その夜、母に呼ばれた。


 母は寝台に腰かけて、髪を梳かせていた。侍女を下がらせてから、鏡越しにイーディトを見た。


「オルデン様のところ、行ってくれたのね」


「ええ」


「助かるわ。あの子は弱いのよ」


 二十年で、何度目だろうか。


 イーディトは数えていない。瓶は数えているのに、この台詞は数えていない。数えたら、たぶんもっと多い。


「お母様」


「なあに」


「ズザンネは、自分が何をしたか分かっておりますでしょうか」


 母は櫛を置いた。


「分かっていたら、あの子は立ち直れないでしょう」


「立ち直れないほどのことを、しておりますでしょうか」


「あなたはそう思うでしょうね」


「思いますわ」


「思えるのが、あなたの強いところなのよ」


 母は櫛を取り直して、髪を梳かし始めた。話は終わった、という手つきだった。


「お母様」


「なあに」


「わたくしが謝りに参りますと、先様は妹に会わずに済みます」


「そうね。助かるわ」


「ズザンネも、会わずに済みますわ」


 母の手が、一度だけ止まった。それから、また動いた。


「あなたは違うわ。あなたは怒らないから」


 鏡の中で、母が微笑んだ。悪意はどこにもなかった。心配してもいた。ただ、心配している相手はイーディトではなかった。


 言い返す言葉が、喉の途中まで来て、止まった。


 言えば、この人は傷つく。傷つけたら、わたくしは怒った人になる。


 イーディトは礼をして、部屋を出た。


 その言葉は、その夜も出てこなかった。




 十七回目は、ケラー子爵家だった。


 ズザンネが婚礼の席で、新婦の母の名を間違えた。二度。三度目は誰かが止めた。


 ケラー家は古い家で、格がある。詫びは当主の応接の間で受けると言われた。


 その部屋の敷石は、よく磨かれていた。冬の朝で、火は入っていなかった。


「代理と伺ったが」


「はい」


「本人は」


「本日は、都合がつきませんでした」


「都合」


 当主が、その言葉を一度、口の中で転がした。


「都合とは、どういうものかね」


 イーディトは答えなかった。答えれば嘘になるし、答えなければ無礼になる。二十年で、どちらがましかは分かっている。


 イーディトは膝をついた。


 薄い絹の膝当てしかしていない。石の冷たさが、膝から腿へ、腰へと上がってくる。当主は何も言わなかった。ただ、顔を上げてよいとも言わなかった。


 イーディトは十を数えた。もう一度、十を数えた。三度目の十を数え終わったところで、頭の上から声がした。


「顔を上げなさい」


 上げると、当主は書き物机のほうを向いていた。もうこちらを見ていなかった。


 その前の晩、ズザンネは王都の舞踏会にいた。招かれていたのは事実で、朝までは戻れないと言った。行ける者が行けばいい。母もそう言った。


 帰りの馬車で、侍女が膝の白い粉を黙って払った。


「ありがとう。……ねえ、この粉、ケラー家の敷石のものですわ。あれだけ蝋を引いていらっしゃるのは、あのお宅だけですもの」


「お嬢様。お召し物の話をしております」


「あら。わたくしは次の香の話ですわ」


 侍女が、ため息をついた。


「次があるとお思いですの」


「ありますでしょうねえ。……そういえば、ケラー様の奥様は白檀を厭われるのよ。喉が痛くなるとおっしゃって。ですから今日のは蜜蝋だけで調えましたの」


「よくお分かりで」


「憶えておりますもの」


 馬車が揺れた。イーディトは膝の上で手を組んで、指の匂いを嗅いだ。蜜蝋は匂いが薄い。ほとんど何も残らない。


 そういう香を選んだのは、自分だった。




 調香室は、屋敷のいちばん奥にある。


 棚に二十二本の瓶が並んでいる。渡したものと同じ配合を、一瓶ずつ控えに残してある。日付順ではなく、相手の家の格の順に並べ、右端だけを空けてある。そうしないと、次に伺うとき何を持っていくか迷うからだ。


 棚の下段に、表紙の擦り切れた帳面が挿してある。


「オルデン男爵夫人は橙。ヴァイス伯爵様は乳香。ハーゲン伯爵夫人は、匂いの立つものを厭われますから薄く」


「お嬢様、そらで仰るのに、なぜ書き留めますの」


「忘れるからではありませんの。……この方たちを、ちゃんと憶えておきたいからですわ」


 侍女が帳面を覗き込んだ。


「お嬢様。ここ、名前の欄が空いておりますが」


「どれかしら」


「いちばん最後の頁でございます」


「ああ。それはまだ、どなたにも使っておりませんの」


「ずいぶん前から空いておりますけれど」


「そうかしら」


 イーディトは帳面を閉じた。閉じてから、なぜ閉じたのか自分でも分からなかった。


 侍女が、瓶をひとつ手に取った。


「これで二十二本目でございますね」


「そうね。よく並びましたこと」


「並べて楽しいものではございませんでしょう」


「あら、そんなことは」


 イーディトは棚を見上げた。並ぶと案外きれいだ。


「……この香は二度目ですわね。ラウフェン家の奥様、そろそろ飽きていらっしゃるかしら」


「飽きられる前に、お嬢様が飽きてくださいまし」


「まあ」


 イーディトは笑った。それから蒸留器の口を布で拭いて、火を落とした。


 二十三本目を調えることになるのは、それから六日後の朝だった。




 ロッテルの卓に瓶を置いたのは、十一回だった。


 二十二回のうち、半分。ズザンネがいちばん多く粗相をした相手が、この人だった。


 最初の一度は、彼が何のことか分からない顔をしていた。二度目からは、玄関で待っていた。三度目には、椅子を勧められた。


 橙。二度目からは、訊かなくても分かるようになっていた。


「イーディト嬢」


 十一本目を置いて頭を下げたとき、彼が言った。


「毎回、お訊きしそびれて申し訳ないのですが」


「どうぞ」


「――なぜ」


 彼はそこで止まった。


 イーディトは待った。待ったが、続きは来なかった。


「なぜこの香を橙になさるのか、でございましょうか」


「……ええ。それです」


「南向きのお部屋でいらっしゃるでしょう。冬でも日が入ります。日の入る部屋に薔薇を置くと、匂いが立ちすぎますの」


「そこまで見ておいでですか」


「見るのが仕事ですもの」


「イーディト嬢」


「はい」


「妹御は、お元気ですか」


「ええ、たいそう。昨夜も遅くまで踊っておいででしたわ」


 言ってから、少し言いすぎたと思った。ロッテルは何も言わなかった。責める顔もしなかった。


「……申し訳ございません。今のは」


「いえ」


「妹は、悪い子ではございませんの」


「存じています」


 彼は即答した。


「十一回、あなたが一度も妹御を悪く言わなかったので」


 イーディトは、顔を上げた。


 ロッテルは瓶を手に取って、しばらく持っていた。何か言いかけては、やめていた。


 その顔を、イーディトは十一回見ている。


 訊きたいことがある人の顔だ、と思っていた。ただ、訊かれなかったから、こちらからも訊かなかった。


 訊かれたら、答えられない気がしていた。




 二十三回目は、朝のうちに来た。


 ラウフェン侯爵夫人の茶会で、ズザンネが袖を引っかけて茶器を落とした。三代前から伝わる、青い釉薬の一揃い。落ちたのは一客だが、揃いのものは一客欠ければ揃いでなくなる。


 知らせを持ってきたのは、母だった。イーディトは刺繍枠を膝に載せたまま、顔を上げた。


「イーディト。香を」


 それだけ言った。ズザンネがどうしているかも、夫人が何と言ったかも、言わなかった。


 言う必要がないと思っているのだ。二十年、この一言で用は足りてきた。


「ズザンネは、どちらに」


「部屋よ。泣いているわ」


「そうですか」


「あの子は繊細だから」


 イーディトは針を置いた。針山に刺すとき、少しだけ強く刺した。


「奥様のお好みは、伺っておりますわ」


「なら、すぐに」


「ええ」


 母が出ていった。廊下を歩く音が遠ざかる。


 侍女が茶を持って入ってきた。


「お嬢様。お顔が」


「あら。どうかして」


「怖いお顔でございます」


「まさか。……朝からずいぶん立派なものを割ったと思ったら、青い釉薬でしたのね。あれは三代前のものですのよ。わたくしより年上ですわ」


「年上のものを割るとは」


「なかなかできませんでしょう。わたくしなど、生まれてこのかた茶器ひとつ割っておりませんもの」


「それは、お嬢様が持たないからでございます」


「あら。持っておりますわよ」


「持って歩いていらっしゃるのは、いつも瓶でございましょう」


 イーディトは、そこで口をつぐんだ。


 言ってから、笑わなかった。


 自分でも珍しいと思った。




 その晩、イーディトは調香室に行った。


 棚の前に立って、二十二本を見た。二十三本目を置く場所は、いちばん右に空けてある。


 蒸留器に火を入れた。橙の皮を刻んで、湯を沸かして、そこまでやって、手が止まった。


 ラウフェン家の奥様は薔薇より柑橘だ。庭に橙が植わっている。三度目だから、少し配合を変えたほうがいい。前回より軽く、後に残らないように。


 全部、頭の中にある。


 手も憶えている。刻む厚みも、湯の温度も。


(……なぜ、憶えているのかしら)


 イーディトは火を落とした。


 蒸留器を洗って、布で拭いて、棚に戻した。橙の皮は捨てた。捨てるとき、指に匂いが移った。


「わたくし、今回は参りませんの」


 誰もいない部屋で、そう言ってみた。


 二十年、この一言を言うのに、これだけの音しか要らなかった。


 もう一度言ってみた。二度目のほうが、少し楽だった。


 棚の二十二本が、火の落ちた暗がりで並んでいる。琥珀、薄い黄、透きとおった白。どれも、誰かのために調えた色だ。


 イーディトは、いちばん右の空きに手を伸ばして、何も置かずに手を戻した。




 翌朝、母が来た。


「香は」


「調えておりません」


 母の顔が止まった。


「イーディト」


「調えておりませんの」


「なにを言っているの。今日の午後よ。ラウフェン様のところは午後でしょう」


「ええ」


「なら、いま作りなさい。間に合うでしょう」


「間に合いますわ」


 イーディトは、母を見た。


「作りませんの。……わたくし、今回は参りませんのよ、お母様」


 母がしばらく黙った。次に出た声は、いつもの高さに戻っていた。


「あの子は弱いのよ。あなたが行かないと、あの子はどうなるの」


「どうなるのでしょう」


「イーディト」


「わたくしにも、分かりませんの。二十年、一度も試したことがございませんから」


 母が息を吸った。


「そんな言い方をする子ではなかったでしょう」


「ええ。そうでしたわね」


 イーディトは、鏡台の上の櫛を見た。母がいつも髪を梳かせているものだ。柄のところが、二十年ぶんすり減っている。


「お母様。ひとつだけ伺ってもよろしいかしら」


「なあに」


「八つの日に、わたくしに何かおっしゃいましたでしょうか」


 母が、きょとんとした顔をした。


「なんの話」


「いえ。よろしいのです」


 覚えていないのだ。


 それはそうだろう。あの日、母が話しかけていたのは妹だった。


「お母様。行きますわ」


 母の表情が緩んだ。


「そう。それなら」


「ただ、香は持ってまいりません」


 母が何か言う前に、イーディトは部屋を出た。


 廊下で侍女とすれ違った。侍女が何か言いたそうにしたので、イーディトは首を振った。


 行く。ただし、詫びには行かない。




 ラウフェン家が設けたのは、茶会ではなく詫びの席だった。ただ、人払いはなさっていない。昨日その場に居合わせた方々が、今日もそのまま招かれている。


 ――割ったご本人がいらっしゃるのなら、見ていた者のいる前で。夫人はそれだけ仰せだったと、迎えの侍女が言った。


 広間の空気が変わったのが、イーディトにも分かった。


 ズザンネが、ラウフェン侯爵夫人の椅子の前に立っている。夫人の膝には、割れた破片を包んだ布が置かれていた。


 二十三回目だった。


 いつもなら、その卓にはもう瓶が置かれている。


 今日は、持ってきていない。


「ズザンネ様?」


 夫人が促した。優しい声だった。


「……あの」


 ズザンネの唇が動いた。


「あの、姉が」


 誰かが小さく息を吸った。


「姉が、あとで、伺うと思いますので」


 イーディトは目を伏せた。


「ズザンネ」


 イーディトは立ち上がった。広間の視線が、いっせいに姉のほうへ動く。


 ズザンネの顔が、ぱっと明るくなった。


「お姉様」


「ええ」


 イーディトは妹の隣に立ち、夫人のほうを向いた。


 そして、何も言わなかった。


 誰かの茶杯が、受け皿に触れて鳴った。


「……お姉様?」


「わたくし、今回は参りませんの」


「そんな、だって」


「割ったのは、あなたですもの」


 ズザンネの顔から、明るさが引いていった。


「わたし、なんて言えばいいか分かりません」


「ええ。わたくしも、二十年前は分かりませんでした」


 イーディトは妹を見なかった。夫人のほうを向いたまま答えた。


「二十年、わたくしが代わりに申し上げてまいりましたから」


「お姉様が教えてくださらないと」


「教えませんわ」


「教えてしまえば、それもまたわたくしが謝ったことになりますもの」


 ズザンネの目に、涙が溜まった。


「イーディト。あなたが謝れば済むことでしょう」


 母だった。


 いつから広間の後ろにいたのか。


「この子は弱いのよ。あなたは怒らないんだから」


 母の声が、いつもの高さではなかった。二十年、この人がこの声を出すのを、イーディトは聞いたことがない。


「ええ」


 イーディトは、初めて母のほうを見た。


「わたくし、怒っておりませんわ」


「ただ、もう代わりには参りません」


 母の眉が、わずかに寄った。


「わたくしが間違っていたと、そう言いたいのね」


「いいえ。お母様は、見誤ってはおられませんわ」


 母が、扇を持つ手を下ろした。


「……ええ。ズザンネは折れる。あなたは折れない。そう思って、ずっとまいりました。折れるほうへ手を回すのが、母親でしょう」


「わたくしは、折れませんでした。二十二回、折れませんでしたもの」


 母が、口を開いたまま止まった。


 イーディトは、手にしていた帳面を開いた。どなたが何をお好きか、それだけを十年ぶんの筆跡で書きつけた帳面だ。


 いちばん最後の頁だけ、名前の欄が空いたままだった。ずいぶん前から、そうだった。


「みなさまのぶんは、書いてございます。……わたくしのは、書いてございません」


 母が、帳面を見た。


「……ズザンネは、何が好きだったかしら」


白粉花おしろいばなですわ。十二の年から、ずっと」


「あなたは」


 イーディトは、答えなかった。


 母が広間を見回した。誰も、母のほうを見ていなかった。


「……あの一言で、二十年、済ませてしまったのね」


 扇の鳴る音が、広間の隅でひとつだけした。


 やがて妹は、頭を下げた。


「……ごめん、なさい」


 ひどく小さな声だった。


 夫人は、割れた破片の布をそっと閉じた。


「いま、どなたに謝りましたの」


「……奥様に」


「ええ。そう聞こえました」


 夫人は、布を膝から下ろした。


「次のご案内は、ズザンネ様宛にお出しいたしますわ」


「……わたくしには」


 母だった。


「お出しいたしません」


 夫人は、目を伏せもしなかった。


「いま、ご自分の声で仰った方が、いらっしゃいましたから」


 夫人は、イーディトのほうへ顔を向けた。


「イーディト様。わたくし、あなたに一度も伺ったことがございませんわね」


「なにを、でしょう」


「あなたが、どの香をお好きか」


 イーディトは、答えられなかった。


 橙の好きな方。乳香でようやく眠れる方。白檀を厭う方。どなたのぶんも、そらで申し上げられる。


 自分の一本を、調えたことがなかった。


 広間の端で、椅子が鳴った。


 ロッテルが立っていた。十一本、橙を渡してきた相手だった。


「イーディト嬢」


「私は、席を外しましょうか」


 どうぞ、と言えばいい。いつもそうしてきた。人が気を遣ってくれたら、こちらが下がる。妹のために、母のために、詫びに伺った先の方々のために。


「……いいえ」


 声が、かすれた。


「ここにいてくださいませ」


 ロッテルはうなずいて、その場に留まった。


「イーディト嬢。十一本、いただきました」


「……ええ」


「どれも、妹御のためのものでした」


「ロッテル様」


 イーディトは、初めて自分から名を呼んだ。


「二十三本目は、わたくしのために調えますわ」


 ロッテルが顔を上げた。


「ただ、どの香がよいのか、わたくし存じませんの」


 瓶を持たない手を、どこに置けばよいのか分からなかった。


「お付き合いくださいませんこと」


 ロッテルの口の端が、ゆるんだ。


「十一本ぶん伺いたかったのが、それでございます」




 帰りの馬車に、ズザンネが乗ってきた。


 母は別の馬車で先に帰った。姉妹二人だけになるのは、ずいぶん久しぶりだった。


 馬車が動き出しても、どちらも喋らなかった。車輪が石を踏む音だけがしている。


「お姉様」


「なあに」


「あの、さっきの」


「ええ」


「……夫人が、もういいっておっしゃいました。破片は、うちで直しますからって」


「そう。ようございましたわね」


「うん」


 それきり、また黙った。


 ズザンネはしばらく窓の外を見ていた。膝の上で手を握って、言った。


「お姉様」


 イーディトは、妹のほうを向いた。


「わたし、ずっと」


 言葉が続かなかった。イーディトは待った。急がせなかった。


「お母様が、言ったんです。小さいころ。お姉様は怒らないから、大丈夫よって」


 馬車の車輪が、石を踏んだ。


「だから、わたし。……お姉様は怒らないんだから、いいんだと思って」


 ズザンネの声が、途中から震えた。


「ずっと、そう思ってました。今日まで」


 イーディトは、妹の横顔を見た。


 二十五になる妹の顔は、五つのころに硝子の鈴を割って泣いた顔と、あまり変わっていなかった。


「ズザンネ」


「はい」


「白粉花、まだお好き」


 妹が、顔を上げた。


「……なんで、憶えてるんですか」


「憶えておりますもの」


 イーディトは笑った。


「わたくし、そういう役でしたから」


 ズザンネが、こらえきれずに泣き出した。今度は声を上げずに泣いた。イーディトは背を撫でなかった。撫でたら、また代わりにやってしまう気がした。


 だから、隣に座っているだけにした。


 それだけで、たぶん今日は足りている。




 その夜、調香室の棚に、二十二本の瓶が並んでいた。


 いちばん右の空きは、空いたままだった。


 イーディトは帳面を開いて、最後の白い頁を見た。名前を書く欄と、好みを書く欄がある。


「お嬢様」


 戸口に侍女が立っていた。


「大工を呼びますか。棚を足すとおっしゃっておいででしたが」


 イーディトは、口の端をゆるめた。


「いえ。もう要りませんわ」


「二十三本目は」


「二十三本目は、ここに置きますの」


 いちばん右の、空いたままの場所を指した。


「そこは、ずっと空けておありでしたね」


「ええ。空けておいたのではなくて、埋まらなかったのですけれど」


 名前の欄に、自分の名を書いた。


 好みの欄は、空けておいた。


(明日から、探せばよろしいわ)


 窓を開けると、夜の匂いが入ってきた。庭のどこかで、白粉花が咲いている。あれは夕方に開いて、朝には閉じる花だ。


 妹が十二の年から好きだと言っている花を、イーディトは一度も自分のために摘んだことがない。


 摘んでみようか、と思った。


 思ってから、それは妹の花だと気づいて、少し笑った。


「……明日、庭を見てまいりましょう」


 庭には、まだ名前を知らない花がいくつもあるはずだった。


 イーディトは、夜の匂いをもう一度、少しのあいだ嗅いでいた。


 悪くない、と思った。

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― 新着の感想 ―
妹はあれだ、根は悪くないって言われながら行動が無責任だから同性に遠巻きにされるタイプ。 妹は多分母似で、妹も母も我慢させやすい子に押し付ける楽に長年流されてきたんだろうなー。
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