お姉様は怒らないから、って言われ続けたので
イーディトは、妹の代わりに二十二回、頭を下げた。
数えているのは、香の瓶が残るからだ。詫びに伺う先の好みを聞いて、その人のためだけに一瓶を調える。橙が好きだと言えば橙を、寝つきが悪いと言えば乳香を。卓に置いて、こう言う。妹が失礼をいたしました、と。
棚には二十二本が並んでいる。
二十三本目の空きも、もう見えている。
「お嬢様。棚がそろそろ埋まりますわね」
「もう一段、足していただこうかしら」
「大工を呼びますか」
「呼びましょう。この十年で二十二本ですもの。あと二十年で、この部屋がもうひとつ要りますわ」
「お部屋」
「ええ。壮観でしょう。そのころには香の店でも開けますわ」
「お嬢様が店主では、一本もお売りになりませんでしょう」
「あら。ぜんぶ差し上げてしまいますものね」
イーディトは笑って、瓶の並びを指で数え直した。数えなくても分かっている。
――ズザンネが今朝、ラウフェン侯爵夫人の茶器を割ったからだ。
イーディトが八つ、ズザンネが五つの年のことだ。
妹が姉の部屋に入って、机の上の小箱を落とした。中には母方の祖母がくれた硝子の鈴が入っていて、それが割れた。イーディトが一つだけ持っていた、自分のものだった。
ズザンネは泣いた。声を上げて、しゃくり上げて、床に座り込んで泣いた。
母が来て、妹を抱き上げた。それから、妹の背を撫でながら言った。
「大丈夫よ、ズザンネ。イーディトは怒らないから」
部屋の隅で、イーディトは硝子の破片を集めていた。指を切らないように、端のほうから拾っていた。
「イーディト、こっちへいらっしゃい」
「はい」
「妹に、いいのよと言ってあげて」
「……いいのよ」
ズザンネの泣き声が、少し小さくなった。
「ほらね」
母が笑った。
「大丈夫よ、ズザンネ。イーディトは怒らないから」
母の言葉を聞いて、破片を拾う指が止まった。
――怒らない子だと思われている。
嬉しかった。八つの子どもにとって、母が自分をそう言ったことは、認められたのと同じだった。姉として信じられている。妹より大きい者として扱われている。
だからイーディトは、その日から怒らない子でいた。
二十年、そうしていた。
九回目は、ハーゲン伯爵家の茶会だった。
ズザンネが、居合わせた男爵令嬢を泣かせた。悪気があったわけではない。彼女の着ていた衣裳を「去年のお仕立てね」と言っただけだ。ただ、その令嬢の家がこの春に商いを畳んだことを、この場で知らないのはズザンネだけだった。
令嬢が席を立ち、庭へ出ていった。
ズザンネはきょとんとして、それから困った顔をして、隣にいた友人に何か囁いた。三十を数えるほど経って、彼女は立ち上がった。
庭へ行くのかと思ったら、玄関のほうへ行った。
その晩、王都で夜会があった。ズザンネは招かれていた。
「お姉様。今夜、青いほうのお衣裳をお借りしてもよろしい?」
「どうぞ」
「ありがとう。……ねえ、今日のあれ、わたし何か悪いことを言った?」
「言ったわね」
「そう。じゃあ、明日お姉様が行ってくださる?」
「行くわ」
「よかった」
ズザンネは笑って、部屋を出ていった。
姉が行けば片がつくと、この子は知っている。二十年、実際にそうだったのだから、疑う理由がない。
翌朝、イーディトが香を持って伺った。
調えたのは橙だ。前の晩、家の帳面をめくって確かめた。オルデン男爵夫人は橙。三年前に一度、詫びに伺ったときにそう聞いている。
「妹が失礼をいたしました」
夫人は瓶を受け取って蓋を開け、匂いを嗅いだ。嗅ぎ終えて、少し困った顔をした。
「イーディト様。あなた、いつも謝りにいらっしゃるのね」
「ええ。よく走らせていただいておりますわ」
「走る、ですか」
「馬車が。うちのは車輪が古いものですから、この頃はどこの門をくぐっても『またあの音だ』と気づかれますの」
夫人が、ふっと笑った。
「まあ。それは困りましたわね」
「ええ、困りますの。忍んで参れませんもの」
帰りの馬車で、侍女が黙って膝掛けをかけた。
イーディトは窓の外を見ていた。橙の匂いが、指に残っている。
この言葉を、あと十三回言うことになる。
その夜、母に呼ばれた。
母は寝台に腰かけて、髪を梳かせていた。侍女を下がらせてから、鏡越しにイーディトを見た。
「オルデン様のところ、行ってくれたのね」
「ええ」
「助かるわ。あの子は弱いのよ」
二十年で、何度目だろうか。
イーディトは数えていない。瓶は数えているのに、この台詞は数えていない。数えたら、たぶんもっと多い。
「お母様」
「なあに」
「ズザンネは、自分が何をしたか分かっておりますでしょうか」
母は櫛を置いた。
「分かっていたら、あの子は立ち直れないでしょう」
「立ち直れないほどのことを、しておりますでしょうか」
「あなたはそう思うでしょうね」
「思いますわ」
「思えるのが、あなたの強いところなのよ」
母は櫛を取り直して、髪を梳かし始めた。話は終わった、という手つきだった。
「お母様」
「なあに」
「わたくしが謝りに参りますと、先様は妹に会わずに済みます」
「そうね。助かるわ」
「ズザンネも、会わずに済みますわ」
母の手が、一度だけ止まった。それから、また動いた。
「あなたは違うわ。あなたは怒らないから」
鏡の中で、母が微笑んだ。悪意はどこにもなかった。心配してもいた。ただ、心配している相手はイーディトではなかった。
言い返す言葉が、喉の途中まで来て、止まった。
言えば、この人は傷つく。傷つけたら、わたくしは怒った人になる。
イーディトは礼をして、部屋を出た。
その言葉は、その夜も出てこなかった。
十七回目は、ケラー子爵家だった。
ズザンネが婚礼の席で、新婦の母の名を間違えた。二度。三度目は誰かが止めた。
ケラー家は古い家で、格がある。詫びは当主の応接の間で受けると言われた。
その部屋の敷石は、よく磨かれていた。冬の朝で、火は入っていなかった。
「代理と伺ったが」
「はい」
「本人は」
「本日は、都合がつきませんでした」
「都合」
当主が、その言葉を一度、口の中で転がした。
「都合とは、どういうものかね」
イーディトは答えなかった。答えれば嘘になるし、答えなければ無礼になる。二十年で、どちらがましかは分かっている。
イーディトは膝をついた。
薄い絹の膝当てしかしていない。石の冷たさが、膝から腿へ、腰へと上がってくる。当主は何も言わなかった。ただ、顔を上げてよいとも言わなかった。
イーディトは十を数えた。もう一度、十を数えた。三度目の十を数え終わったところで、頭の上から声がした。
「顔を上げなさい」
上げると、当主は書き物机のほうを向いていた。もうこちらを見ていなかった。
その前の晩、ズザンネは王都の舞踏会にいた。招かれていたのは事実で、朝までは戻れないと言った。行ける者が行けばいい。母もそう言った。
帰りの馬車で、侍女が膝の白い粉を黙って払った。
「ありがとう。……ねえ、この粉、ケラー家の敷石のものですわ。あれだけ蝋を引いていらっしゃるのは、あのお宅だけですもの」
「お嬢様。お召し物の話をしております」
「あら。わたくしは次の香の話ですわ」
侍女が、ため息をついた。
「次があるとお思いですの」
「ありますでしょうねえ。……そういえば、ケラー様の奥様は白檀を厭われるのよ。喉が痛くなるとおっしゃって。ですから今日のは蜜蝋だけで調えましたの」
「よくお分かりで」
「憶えておりますもの」
馬車が揺れた。イーディトは膝の上で手を組んで、指の匂いを嗅いだ。蜜蝋は匂いが薄い。ほとんど何も残らない。
そういう香を選んだのは、自分だった。
調香室は、屋敷のいちばん奥にある。
棚に二十二本の瓶が並んでいる。渡したものと同じ配合を、一瓶ずつ控えに残してある。日付順ではなく、相手の家の格の順に並べ、右端だけを空けてある。そうしないと、次に伺うとき何を持っていくか迷うからだ。
棚の下段に、表紙の擦り切れた帳面が挿してある。
「オルデン男爵夫人は橙。ヴァイス伯爵様は乳香。ハーゲン伯爵夫人は、匂いの立つものを厭われますから薄く」
「お嬢様、そらで仰るのに、なぜ書き留めますの」
「忘れるからではありませんの。……この方たちを、ちゃんと憶えておきたいからですわ」
侍女が帳面を覗き込んだ。
「お嬢様。ここ、名前の欄が空いておりますが」
「どれかしら」
「いちばん最後の頁でございます」
「ああ。それはまだ、どなたにも使っておりませんの」
「ずいぶん前から空いておりますけれど」
「そうかしら」
イーディトは帳面を閉じた。閉じてから、なぜ閉じたのか自分でも分からなかった。
侍女が、瓶をひとつ手に取った。
「これで二十二本目でございますね」
「そうね。よく並びましたこと」
「並べて楽しいものではございませんでしょう」
「あら、そんなことは」
イーディトは棚を見上げた。並ぶと案外きれいだ。
「……この香は二度目ですわね。ラウフェン家の奥様、そろそろ飽きていらっしゃるかしら」
「飽きられる前に、お嬢様が飽きてくださいまし」
「まあ」
イーディトは笑った。それから蒸留器の口を布で拭いて、火を落とした。
二十三本目を調えることになるのは、それから六日後の朝だった。
ロッテルの卓に瓶を置いたのは、十一回だった。
二十二回のうち、半分。ズザンネがいちばん多く粗相をした相手が、この人だった。
最初の一度は、彼が何のことか分からない顔をしていた。二度目からは、玄関で待っていた。三度目には、椅子を勧められた。
橙。二度目からは、訊かなくても分かるようになっていた。
「イーディト嬢」
十一本目を置いて頭を下げたとき、彼が言った。
「毎回、お訊きしそびれて申し訳ないのですが」
「どうぞ」
「――なぜ」
彼はそこで止まった。
イーディトは待った。待ったが、続きは来なかった。
「なぜこの香を橙になさるのか、でございましょうか」
「……ええ。それです」
「南向きのお部屋でいらっしゃるでしょう。冬でも日が入ります。日の入る部屋に薔薇を置くと、匂いが立ちすぎますの」
「そこまで見ておいでですか」
「見るのが仕事ですもの」
「イーディト嬢」
「はい」
「妹御は、お元気ですか」
「ええ、たいそう。昨夜も遅くまで踊っておいででしたわ」
言ってから、少し言いすぎたと思った。ロッテルは何も言わなかった。責める顔もしなかった。
「……申し訳ございません。今のは」
「いえ」
「妹は、悪い子ではございませんの」
「存じています」
彼は即答した。
「十一回、あなたが一度も妹御を悪く言わなかったので」
イーディトは、顔を上げた。
ロッテルは瓶を手に取って、しばらく持っていた。何か言いかけては、やめていた。
その顔を、イーディトは十一回見ている。
訊きたいことがある人の顔だ、と思っていた。ただ、訊かれなかったから、こちらからも訊かなかった。
訊かれたら、答えられない気がしていた。
二十三回目は、朝のうちに来た。
ラウフェン侯爵夫人の茶会で、ズザンネが袖を引っかけて茶器を落とした。三代前から伝わる、青い釉薬の一揃い。落ちたのは一客だが、揃いのものは一客欠ければ揃いでなくなる。
知らせを持ってきたのは、母だった。イーディトは刺繍枠を膝に載せたまま、顔を上げた。
「イーディト。香を」
それだけ言った。ズザンネがどうしているかも、夫人が何と言ったかも、言わなかった。
言う必要がないと思っているのだ。二十年、この一言で用は足りてきた。
「ズザンネは、どちらに」
「部屋よ。泣いているわ」
「そうですか」
「あの子は繊細だから」
イーディトは針を置いた。針山に刺すとき、少しだけ強く刺した。
「奥様のお好みは、伺っておりますわ」
「なら、すぐに」
「ええ」
母が出ていった。廊下を歩く音が遠ざかる。
侍女が茶を持って入ってきた。
「お嬢様。お顔が」
「あら。どうかして」
「怖いお顔でございます」
「まさか。……朝からずいぶん立派なものを割ったと思ったら、青い釉薬でしたのね。あれは三代前のものですのよ。わたくしより年上ですわ」
「年上のものを割るとは」
「なかなかできませんでしょう。わたくしなど、生まれてこのかた茶器ひとつ割っておりませんもの」
「それは、お嬢様が持たないからでございます」
「あら。持っておりますわよ」
「持って歩いていらっしゃるのは、いつも瓶でございましょう」
イーディトは、そこで口をつぐんだ。
言ってから、笑わなかった。
自分でも珍しいと思った。
その晩、イーディトは調香室に行った。
棚の前に立って、二十二本を見た。二十三本目を置く場所は、いちばん右に空けてある。
蒸留器に火を入れた。橙の皮を刻んで、湯を沸かして、そこまでやって、手が止まった。
ラウフェン家の奥様は薔薇より柑橘だ。庭に橙が植わっている。三度目だから、少し配合を変えたほうがいい。前回より軽く、後に残らないように。
全部、頭の中にある。
手も憶えている。刻む厚みも、湯の温度も。
(……なぜ、憶えているのかしら)
イーディトは火を落とした。
蒸留器を洗って、布で拭いて、棚に戻した。橙の皮は捨てた。捨てるとき、指に匂いが移った。
「わたくし、今回は参りませんの」
誰もいない部屋で、そう言ってみた。
二十年、この一言を言うのに、これだけの音しか要らなかった。
もう一度言ってみた。二度目のほうが、少し楽だった。
棚の二十二本が、火の落ちた暗がりで並んでいる。琥珀、薄い黄、透きとおった白。どれも、誰かのために調えた色だ。
イーディトは、いちばん右の空きに手を伸ばして、何も置かずに手を戻した。
翌朝、母が来た。
「香は」
「調えておりません」
母の顔が止まった。
「イーディト」
「調えておりませんの」
「なにを言っているの。今日の午後よ。ラウフェン様のところは午後でしょう」
「ええ」
「なら、いま作りなさい。間に合うでしょう」
「間に合いますわ」
イーディトは、母を見た。
「作りませんの。……わたくし、今回は参りませんのよ、お母様」
母がしばらく黙った。次に出た声は、いつもの高さに戻っていた。
「あの子は弱いのよ。あなたが行かないと、あの子はどうなるの」
「どうなるのでしょう」
「イーディト」
「わたくしにも、分かりませんの。二十年、一度も試したことがございませんから」
母が息を吸った。
「そんな言い方をする子ではなかったでしょう」
「ええ。そうでしたわね」
イーディトは、鏡台の上の櫛を見た。母がいつも髪を梳かせているものだ。柄のところが、二十年ぶんすり減っている。
「お母様。ひとつだけ伺ってもよろしいかしら」
「なあに」
「八つの日に、わたくしに何かおっしゃいましたでしょうか」
母が、きょとんとした顔をした。
「なんの話」
「いえ。よろしいのです」
覚えていないのだ。
それはそうだろう。あの日、母が話しかけていたのは妹だった。
「お母様。行きますわ」
母の表情が緩んだ。
「そう。それなら」
「ただ、香は持ってまいりません」
母が何か言う前に、イーディトは部屋を出た。
廊下で侍女とすれ違った。侍女が何か言いたそうにしたので、イーディトは首を振った。
行く。ただし、詫びには行かない。
ラウフェン家が設けたのは、茶会ではなく詫びの席だった。ただ、人払いはなさっていない。昨日その場に居合わせた方々が、今日もそのまま招かれている。
――割ったご本人がいらっしゃるのなら、見ていた者のいる前で。夫人はそれだけ仰せだったと、迎えの侍女が言った。
広間の空気が変わったのが、イーディトにも分かった。
ズザンネが、ラウフェン侯爵夫人の椅子の前に立っている。夫人の膝には、割れた破片を包んだ布が置かれていた。
二十三回目だった。
いつもなら、その卓にはもう瓶が置かれている。
今日は、持ってきていない。
「ズザンネ様?」
夫人が促した。優しい声だった。
「……あの」
ズザンネの唇が動いた。
「あの、姉が」
誰かが小さく息を吸った。
「姉が、あとで、伺うと思いますので」
イーディトは目を伏せた。
「ズザンネ」
イーディトは立ち上がった。広間の視線が、いっせいに姉のほうへ動く。
ズザンネの顔が、ぱっと明るくなった。
「お姉様」
「ええ」
イーディトは妹の隣に立ち、夫人のほうを向いた。
そして、何も言わなかった。
誰かの茶杯が、受け皿に触れて鳴った。
「……お姉様?」
「わたくし、今回は参りませんの」
「そんな、だって」
「割ったのは、あなたですもの」
ズザンネの顔から、明るさが引いていった。
「わたし、なんて言えばいいか分かりません」
「ええ。わたくしも、二十年前は分かりませんでした」
イーディトは妹を見なかった。夫人のほうを向いたまま答えた。
「二十年、わたくしが代わりに申し上げてまいりましたから」
「お姉様が教えてくださらないと」
「教えませんわ」
「教えてしまえば、それもまたわたくしが謝ったことになりますもの」
ズザンネの目に、涙が溜まった。
「イーディト。あなたが謝れば済むことでしょう」
母だった。
いつから広間の後ろにいたのか。
「この子は弱いのよ。あなたは怒らないんだから」
母の声が、いつもの高さではなかった。二十年、この人がこの声を出すのを、イーディトは聞いたことがない。
「ええ」
イーディトは、初めて母のほうを見た。
「わたくし、怒っておりませんわ」
「ただ、もう代わりには参りません」
母の眉が、わずかに寄った。
「わたくしが間違っていたと、そう言いたいのね」
「いいえ。お母様は、見誤ってはおられませんわ」
母が、扇を持つ手を下ろした。
「……ええ。ズザンネは折れる。あなたは折れない。そう思って、ずっとまいりました。折れるほうへ手を回すのが、母親でしょう」
「わたくしは、折れませんでした。二十二回、折れませんでしたもの」
母が、口を開いたまま止まった。
イーディトは、手にしていた帳面を開いた。どなたが何をお好きか、それだけを十年ぶんの筆跡で書きつけた帳面だ。
いちばん最後の頁だけ、名前の欄が空いたままだった。ずいぶん前から、そうだった。
「みなさまのぶんは、書いてございます。……わたくしのは、書いてございません」
母が、帳面を見た。
「……ズザンネは、何が好きだったかしら」
「白粉花ですわ。十二の年から、ずっと」
「あなたは」
イーディトは、答えなかった。
母が広間を見回した。誰も、母のほうを見ていなかった。
「……あの一言で、二十年、済ませてしまったのね」
扇の鳴る音が、広間の隅でひとつだけした。
やがて妹は、頭を下げた。
「……ごめん、なさい」
ひどく小さな声だった。
夫人は、割れた破片の布をそっと閉じた。
「いま、どなたに謝りましたの」
「……奥様に」
「ええ。そう聞こえました」
夫人は、布を膝から下ろした。
「次のご案内は、ズザンネ様宛にお出しいたしますわ」
「……わたくしには」
母だった。
「お出しいたしません」
夫人は、目を伏せもしなかった。
「いま、ご自分の声で仰った方が、いらっしゃいましたから」
夫人は、イーディトのほうへ顔を向けた。
「イーディト様。わたくし、あなたに一度も伺ったことがございませんわね」
「なにを、でしょう」
「あなたが、どの香をお好きか」
イーディトは、答えられなかった。
橙の好きな方。乳香でようやく眠れる方。白檀を厭う方。どなたのぶんも、そらで申し上げられる。
自分の一本を、調えたことがなかった。
広間の端で、椅子が鳴った。
ロッテルが立っていた。十一本、橙を渡してきた相手だった。
「イーディト嬢」
「私は、席を外しましょうか」
どうぞ、と言えばいい。いつもそうしてきた。人が気を遣ってくれたら、こちらが下がる。妹のために、母のために、詫びに伺った先の方々のために。
「……いいえ」
声が、かすれた。
「ここにいてくださいませ」
ロッテルはうなずいて、その場に留まった。
「イーディト嬢。十一本、いただきました」
「……ええ」
「どれも、妹御のためのものでした」
「ロッテル様」
イーディトは、初めて自分から名を呼んだ。
「二十三本目は、わたくしのために調えますわ」
ロッテルが顔を上げた。
「ただ、どの香がよいのか、わたくし存じませんの」
瓶を持たない手を、どこに置けばよいのか分からなかった。
「お付き合いくださいませんこと」
ロッテルの口の端が、ゆるんだ。
「十一本ぶん伺いたかったのが、それでございます」
帰りの馬車に、ズザンネが乗ってきた。
母は別の馬車で先に帰った。姉妹二人だけになるのは、ずいぶん久しぶりだった。
馬車が動き出しても、どちらも喋らなかった。車輪が石を踏む音だけがしている。
「お姉様」
「なあに」
「あの、さっきの」
「ええ」
「……夫人が、もういいっておっしゃいました。破片は、うちで直しますからって」
「そう。ようございましたわね」
「うん」
それきり、また黙った。
ズザンネはしばらく窓の外を見ていた。膝の上で手を握って、言った。
「お姉様」
イーディトは、妹のほうを向いた。
「わたし、ずっと」
言葉が続かなかった。イーディトは待った。急がせなかった。
「お母様が、言ったんです。小さいころ。お姉様は怒らないから、大丈夫よって」
馬車の車輪が、石を踏んだ。
「だから、わたし。……お姉様は怒らないんだから、いいんだと思って」
ズザンネの声が、途中から震えた。
「ずっと、そう思ってました。今日まで」
イーディトは、妹の横顔を見た。
二十五になる妹の顔は、五つのころに硝子の鈴を割って泣いた顔と、あまり変わっていなかった。
「ズザンネ」
「はい」
「白粉花、まだお好き」
妹が、顔を上げた。
「……なんで、憶えてるんですか」
「憶えておりますもの」
イーディトは笑った。
「わたくし、そういう役でしたから」
ズザンネが、こらえきれずに泣き出した。今度は声を上げずに泣いた。イーディトは背を撫でなかった。撫でたら、また代わりにやってしまう気がした。
だから、隣に座っているだけにした。
それだけで、たぶん今日は足りている。
その夜、調香室の棚に、二十二本の瓶が並んでいた。
いちばん右の空きは、空いたままだった。
イーディトは帳面を開いて、最後の白い頁を見た。名前を書く欄と、好みを書く欄がある。
「お嬢様」
戸口に侍女が立っていた。
「大工を呼びますか。棚を足すとおっしゃっておいででしたが」
イーディトは、口の端をゆるめた。
「いえ。もう要りませんわ」
「二十三本目は」
「二十三本目は、ここに置きますの」
いちばん右の、空いたままの場所を指した。
「そこは、ずっと空けておありでしたね」
「ええ。空けておいたのではなくて、埋まらなかったのですけれど」
名前の欄に、自分の名を書いた。
好みの欄は、空けておいた。
(明日から、探せばよろしいわ)
窓を開けると、夜の匂いが入ってきた。庭のどこかで、白粉花が咲いている。あれは夕方に開いて、朝には閉じる花だ。
妹が十二の年から好きだと言っている花を、イーディトは一度も自分のために摘んだことがない。
摘んでみようか、と思った。
思ってから、それは妹の花だと気づいて、少し笑った。
「……明日、庭を見てまいりましょう」
庭には、まだ名前を知らない花がいくつもあるはずだった。
イーディトは、夜の匂いをもう一度、少しのあいだ嗅いでいた。
悪くない、と思った。




