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男女逆転の世界で、ドアマットヒーローになりました

作者: こはく
掲載日:2026/06/08

「君に、事前に伝えておかなければならないことがある」


 結婚式を終えた夜、私は妻となったばかりの女性を前にして、そう切り出した。


 私の名はリオネル・クレイン。

 クレイン侯爵家を継いだばかりの男だ。相手はエルザ・レーヴェン伯爵令嬢。


 母が選び、家同士が決め、私は受け入れただけの妻だった。お仕着せの妻。言葉にすればひどいが、その時の私は本気でそう思っていた。


 貴族同士の政略結婚など、そんなものだ。愛などなくても家は続く。衣食住を保証し、苦労をさせず、体面を守る。それで夫としての責任は十分に果たしている。


 初夜に告げるには酷かもしれない。だが、期待させてから傷つけるより、最初に線を引いておく方が誠実だろう。


 そう思っていた。


 この時の私は、誠実と無神経の区別がついていなかった。


「私は君を――」


 愛することはない。


 そう続けようとした瞬間、世界が反転した。


 椅子も、机も、燭台の灯りも、エルザの青い瞳も、すべてがぐにゃりと歪んだ。


 次に目を開けた時、私は教会にいた。


 見覚えがあった。つい今日、エルザと式を挙げたばかりの教会だ。


 ただ、様子がおかしい。


 今までいた世界とは違う。それだけは、なぜかすぐに分かった。異常事態なのに、まったく焦りはない。むしろこの状況を、なぜか当たり前に受け入れている。


 正面には司祭。隣には、銀の盆に載せられた白い手袋。


 花嫁はいなかった。


「……待て」


 思わず声が漏れた。


「何か?」


「いや、何か、ではなく。これは結婚式では?」


「左様でございます」


「花嫁は。エルザはどこだ」


 侍女の眉が、わずかに動いた。


「旦那様。奥様とお呼びください」


「……奥様」


「奥様はお忙しいとのことです」


 お忙しい。結婚式よりも。


 私は銀の盆に載った手袋を見た。


「つまり私は今から、手袋と結婚するのか」


「奥様の代理でございます」


「手袋が?」


「はい」


 司祭は厳かに頷いた。


 花嫁が結婚式に来ず、代理が手袋など、聞いたことがない。おかしい。何もかもおかしい。


 そう思うのに、同時に私はなぜだか知っていた。


 この世界では、男が女の家へ嫁ぐこと。夫は妻の色を身につけること。妻は外で働き、夫は屋敷を差配し、帰りを待つこと。離縁された男の行き場が少ないこと。夫は、美しく、慎ましく、妻の隣で微笑むものだということ。


 知らないはずの常識が、最初から自分の中にあった。


 まるで、誰かの人生を雑に縫いつけられたようだった。


「では、誓いを」


 司祭が言った。


 私は手袋を見た。


 手袋は何も言わない。

 当然だ。

 手袋だ。


 誓いの言葉は、私だけが口にした。

 相手からの返事はない。


 続いて、指輪の交換が行われた。


 私は自分の指輪を、自分の手で嵌めた。

 もうひとつの指輪は、銀の盆の上に置かれた白い手袋の薬指に、そっと通された。


 屈辱的だった。


 それなのに、胸の奥が寂しかった。


 いくらお仕着せの夫とはいえ、せめて指輪を交換する時くらい、奥様の顔を見たかった。


 いや、待て。


 私は今、手袋だけを寄越した花嫁に憤るのではなく、顔を見たかったなどと、悲劇の夫めいたことを考えているのか。


 この世界の夫マインドか。

 そうなら、かなりやばい。


 さらに司祭は、何ひとつ疑問に思っていない顔で続けた。


「では、誓いの口づけを」


 待て。


 私は銀の盆の上の白い手袋を見た。


 まさか、手袋にか。


 誰も止めてくれなかった。


 こうして私は、人生で最も静かな相手との誓いの口づけを終え、誰よりも静かに、誰よりも実感なく、手袋と結婚した。


 その夜、初夜を迎えるため、私は侍女たちに磨かれた。


 湯を使わされ、香油を塗られ、髪を整えられ、胸元の開いた薄手の、丈の短い夜着を着せられた。


「これは、少し露出が多くないか」


「奥様のお目に触れるのですから」


「だが、少々恥ずかしい」


「旦那様。せめて初夜くらいは、奥様の目を楽しませなさいませ」


 侍女は淡々と言った。


「殿方にできることは、それくらいでしょう」


 なるほど。


 私は夫になったのではない。たぶん、余興になったのだ。


 部屋で待つ間、私は心もとない夜着の胸元を押さえていた。来なくてもいい。来ないなら来ないで、どうせ政略結婚だ。そう思う一方で、扉の向こうに足音がするたび、胸が跳ねた。


 やめろ。期待するな。


 そう思うのに、期待してしまう。


 やがて扉が開き、奥様が入ってきた。


 エルザ・レーヴェン女侯爵。


 先ほどまで、私が「愛することはない」と告げかけた人物と、同じ顔、同じ声、同じ青い瞳、同じ名前だった。ただし、こちらのエルザはレーヴェン家の当主である。私を迎える側で、私は彼女に嫁いだ夫だった。


 彼女は寝台の端に腰かけることもなく、扉のそばに立ったまま、腕を組んでいた。


 そして、言った。


「あなたを愛することはない」


 胸の奥が冷えた。


 いやいやいや、待て。冷えるな。これは政略結婚だ。私だって、つい前の世界で同じことを彼女に言おうとしていたではないか。


 そう思ったはずなのに、目の奥が熱い。


「これは家同士の婚姻です。あなたを夫として遇しはしますが、私の心まで求めないでください」


「……はい」


「生活に必要なものは用意いたします。けれど、贅沢は慎みなさい」


「はい」


「外でどなたと親しくなっても構いません。ただし、子だけは作ってこないでくださいませ。私の家名に、余計な火種を持ち込まれては困ります」


「はい」


「夜会では、着飾って私の隣で微笑んでいれば結構です。難しい話に口を挟む必要はございません」


「はい」


「寝室は別にいたしましょう。必要があれば、こちらから呼びます」


 必要があれば。


 私は夫なのか。それとも、呼び出し式の置物なのか。


「以上です。何か質問は?」


 山ほどあった。まず、結婚式にはなぜ手袋だけ寄越したのですか。次に、初夜に扉の前から規約を読み上げる妻は、この世界では一般的なのですか。最後に、私は人間ですか。


 だが、声に出たのは一言だけだった。


「ございません、奥様」


「よろしい」


 奥様は満足げに頷いた。


「それと、くれぐれも離縁などとは考えないことです」


「離縁、ですか」


「あなたはもう、レーヴェン家に嫁いだ身です。私のもとを離れても、次にあなたを迎えるのは、悪趣味な女主人か、年老いた未亡人くらいでしょう」


 私は言葉を失った。


 二十四歳で、もう薹が立っている扱いなのか。


「生活は保証します。ですから、分をわきまえなさい」


「……はい」


「分かれば結構です」


 奥様はそれだけ言うと、そのまま部屋を出ていった。


 初夜は五分で終わった。大変、事務的だった。


 私はしくしくと枕に顔を押しつけた。涙で濡れた枕は冷たかった。


 翌朝。


「旦那様。いつまでお休みでいらっしゃるのですか。奥様はもう、大奥様とお仕事に行かれましたよ」


 侍女に、容赦なく叩き起こされた。


 目を開けると、侍女が寝台の横に立っていた。


「昨夜は奥様をお引き留めできなかったのですね」


 できるわけがない。あの方は規約を読み上げて、すぐに出ていったのである。


「申し訳ありません」


 なぜ謝った。


 私の中の夫マインドが、勝手に頭を下げた。


「初夜くらいは、もう少し頑張っていただかないと」


「何をですか」


「殿方の務めでございます」


 務め。


 私には愛されないと宣言された直後に、何かを成し遂げる務めがあったらしい。この世界の夫、難易度が高い。


 そして、渡されたのは、粗悪な古い雑巾かと思うような仕事着だった。布は薄く、袖口はぼろぼろだった。


「これは」


「旦那様用でございます」


「昨夜の夜着との差が激しくないか」


「奥様のお目に触れない時は、実用で十分かと」


 なるほど。


 奥様の前では余興。それ以外では、ぼろ雑巾。


「お食事はご用意できております」


 案内された食卓には、硬いパンと、野菜くずの浮いた薄いスープが置かれていた。


 すでに席には、ひとりの男性がいた。白髪まじりの穏やかな男性で、姿勢よく椅子に座り、硬いパンを何の感情もなくスープに浸している。


「おはようございます、リオネル殿」


「お、おはようございます」


「大旦那様でございます」


 侍女が言った。


 大旦那様。つまり、奥様の父君である。この家に婿入りした、先輩の夫。


 大旦那様は、スープに沈めたパンを静かに見つめていた。まるで長年の戦友を見る目だった。


「最初は皆、パンの硬さに負けます」


「パンに」


「ええ。ですが、スープによく浸せば勝てます」


 助言が実用的すぎる。


 野菜くずは、スープの底で最後の底力を見せている。私はパンを少しちぎった。


 硬い。


 私は今すでに、パンに負けそうになった。


「焦ってはいけません」


 大旦那様は静かに言った。


「この家で生きるには、まずパンを柔らかくするところからです」


「そこからなのですか」


「そこからです」


 大旦那様は悟りきった顔で頷いた。


「女主人が不在の朝は、パンが硬い。女主人が在宅の日は、柔らかい。覚えておくとよろしい」


「その違いは何なのです」


「使用人も、女主人の目がある時は気を張ります」


 奥様がいないと、パンが硬くなる。


 この世界、怖い。


「エルザのことは、すまなかった」


「奥様のこと、ですか」


「結婚式のことです。夫となる者に、手袋だけを寄越すのはよくない」


 大旦那様は、硬いパンをスープに沈めながら言った。


「せめて私が、あの子の代わりに誓いのキスだけでも受け取ればよかった」


「大旦那様が、ですか」


 想像してしまった。


 白い手袋の代わりに、大旦那様が厳かに立ち、私の口づけを受け取る構えでいる光景を。


 だめだ。

 手袋でよかった。


 大旦那様は何事もなかったように、またパンをスープに沈めた。 私も黙って、硬いパンをスープに浸した。しばらく置くと、ようやく歯が通る。パンは強い。私よりもずっと強い。


 そのパンをなんとか食べ終えたころ、仕事が待っていた。


「奥様が戻られたら、書斎をお使いになります。花瓶の水を替え、暖炉まわりを整え、銀器を磨き、窓辺の埃を払っておいてくださいませ」


「私が?」


「奥様をお迎えする場所を整えるのも、旦那様の務めでございます」


 旦那様の務め。


 その言葉に、少しだけ背筋が伸びた。悔しい。今、明らかに雑用を押しつけられているのに。


「それから、書斎の古い灰もお願いします。奥様は灰の匂いを好まれませんので。あと、こちらの豆を分けておいてくださいませ」


 侍女は小さな籠を差し出した。中には、白い豆と黒い豆が混ざっている。


「厨房で混ざってしまいましたので」


「厨房で混ざったものを、なぜ私が」


「旦那様、お暇でいらっしゃいますでしょう?」


 侍女はにこりと笑った。


「それに、初夜ではお役に立たなかったではありませんか」


 息が止まった。


「旦那様にも、少しはお役に立っていただきませんと」


 何も言い返せない。


 私さえ我慢すれば済む。少しでも奥様のお役に立てるなら。そう思ってしまう自分が、情けなかった。


 こうして私は、灰を片づけ、銀器を磨き、豆を分けることになった。


 暖炉の灰は、思ったよりもしつこかった。

 払えば舞い、拭けば伸び、避けようとすれば袖につく。


 気づけば、髪にも、頬にも、仕事着の袖にも灰がついていた。

 私は灰色の男になっていた。


 夫というより、燃え尽きた何かである。


 灰をかぶった男が、妻の帰りを待っている。


 ……いや、待て。

 これでは某童話のヒロインではないか。


 このあと私がガラスの靴でも落とし、奥様が白馬に乗って迎えに来てくださるのだろうか。


 ⋯⋯絵面がひどい。


 白馬にも奥様にも申し訳ない。

 せっかく迎えに来た先にいるのが、灰まみれの二十四歳男である。


 恋ではなく、事件である。


 それでも、書斎だけは整えた。


 奥様が使う部屋だ。

 奥様が戻ってきた時、少しでも気持ちよく過ごせるように。


 そう思ってしまった自分に気づき、私は灰まみれの手で顔を覆いかけた。危ない。顔を覆ったら、さらに灰がつくところだった。


 その時、廊下から足音がした。


 先ほどの侍女だった。


 私は床に膝をつき、這いつくばるようにして暖炉まわりを拭いていた。侍女は私の横を通り過ぎようとして、わざとらしく仕事着の裾を踏んだ。


 動けない。


 布が引かれ、私はその場に縫いとめられたようになる。侍女は私を見下ろし、口元を押さえた。


「失礼。灰色でしたので、ドアマットかと思いました」


 ドアマット。


 私はドアマット。


 いや、違う。だが、ドアマットと言われて妙に納得してしまった。


 この屋敷での私は、夫というより敷物に近い。奥様の帰る場所を保ち、奥様の邪魔にならぬよう端に寄り、奥様の機嫌をうかがい、使用人にはこき使われ、あげく踏まれる。


 私はドアマット。人に踏まれる灰色のドアマット。


 いや、待て。


 ドアマットなら、奥様が帰宅するたびに踏んでくださる。それはそれで、ひとつの幸せの形なのでは――。


 そこまで考えた瞬間、私は両手で顔を覆った。


 イヤイヤッ、と小さく顔を左右に振ってしまう。


 ……振ってしまった。


 今、私は何をした。いい歳した男が、灰まみれで、両手で顔を覆って、イヤイヤッと顔を振った。


 違う。これは私ではない。この世界の夫マインドが悪い。


 惨めすぎて、涙が出てきた。


「何をしているのです」


 低い声がした。


 廊下の空気が、ぴたりと止まる。


 振り向くと、奥様が立っていた。


 青い瞳が、少しも笑っていなかった。


「奥様。お早いお帰りで」


 侍女の顔色が変わった。


「これは、その、旦那様が自ら」


「私の夫が、自ら灰をかぶって敷物になると?」


 静かな声だった。静かすぎて、怖かった。


「いえ、奥様のお部屋を整えるのも旦那様の務めかと」


「誰が言いました」


「それは」


 侍女が黙る。


 奥様は私の髪についた灰を見て、眉を寄せた。次に、机に置かれた豆の籠を見る。


「これは何です」


「厨房で混ざりまして」


「厨房で混ざったものを、なぜ夫が分けているのです」


「その、旦那様にも少しはお役に」


「私の夫を、厨房の豆より下に置いたのですか」


 侍女の肩が震えた。


 奥様は声を荒らさなかった。ただ、冷たく言った。


「荷物をまとめなさい」


「奥様」


「今すぐ」


「ですが」


「私の夫を勝手に使い、勝手に汚し、勝手に侮る者を、この屋敷に置くつもりはない」


 私は息を止めた。


 私の夫。


 その言葉だけで、胸が鳴った。単純すぎる。自分でも分かっている。


 侍女は慌てて頭を下げ、部屋を出ていった。


 廊下が静かになる。


 奥様は私の前に立った。


「あなたも」


「はい」


「なぜ黙っていたのです」


「私が耐えれば済むかと」


「馬鹿ですか」


 叱られた。叱られたのに、少し嬉しい。


 これはもう、かなり重症である。


 奥様は近くにあった布を取った。そして、私の頬に触れる。


 灰を拭われた。


 少し乱暴だった。けれど、目元に近いところだけは、妙に丁寧だった。


「ひどい顔」


「申し訳ありません」


「泣いていたのですか?」


「泣いておりません」


「男の人は、すぐ泣くのですね」


 からかうような声ではなかった。ただ、少しだけ目を細めて、私の頬の灰を拭う。


「でも、あなたの泣き顔は綺麗です」


 胸が、変な音を立てた。


「その顔は、私の前だけにしなさい」


「……はい」


「よろしい」


 奥様は私の前髪を上げ、額の灰も拭う。


 近い。灰まみれの顔を、妻の手で拭われている。ただそれだけなのに、心が落ち着かない。


「ドアマットと間違われるほど灰をかぶる夫がどこにいます」


「ここに」


「返事をしなくてよろしい」


「はい」


 奥様は小さく息を吐いた。


「嫌なことをされたなら、言いなさい。黙って耐えたところで、あなたが汚れるだけです」


 嬉しかった。


 情けないほど嬉しかった。


 けれど、奥様は続けた。


「あなたは私のものなのですから。私の許可なく、他人に踏まれてよいものではありません」


 胸の奥が、少しだけ引っかかった。


 私が傷ついたから怒っているのではない。

 私が悲しかったから拭ってくれたのでもない。


 私が、奥様のものだから庇ってくださった。


 それでも、その時の私はまだ、その言葉にすがってしまった。

 ものでもいい。

 奥様が、私を自分のものだと言ってくださるなら。


 その日から屋敷の空気は少し変わった。


 硬いパンは、少しだけ柔らかくなった。スープには、くずではない野菜が浮かぶようになった。豆の籠は二度と私の前に置かれなかった。


 嫌な侍女はいなくなり、私を見る使用人たちの目も、ほんの少しだけ慎重になった。


 私は灰色のドアマットから、せめて室内用の敷物くらいには昇格したのかもしれない。


 いや、昇格先が敷物でいいのか。


 よくはない。よくはないが。


 奥様に灰を拭われた頬だけが、いつまでも熱かった。


 朝食のあと、別の侍女が厚い帳簿を持ってきた。


「旦那様、お暇でいらっしゃいますか?」


 侍女はにこりと笑った。


 前の侍女よりは、少しだけ角がない。だが、その言葉にはまだ、旦那様にならこの程度は許される、という空気が残っていた。


 渡されたのは、帳簿だった。


 帳簿。


 それなら分かる。前の世界でも、屋敷の収支や領地の管理は一通り見ていた。収入と支出、備品の購入、使用人の賃金、季節ごとの支出。細かな数字に強いとまでは言わないが、少なくとも読める自信はある。


 夫だからと甘く見るな。少しは見返してやる。


 そう思って帳面を開いた。


 三呼吸後、私は静かに帳面を閉じた。


「旦那様?」


「これは帳簿ではない」


「帳簿でございます」


「違う。これは呪文書だ」


 もう一度、恐る恐る開く。


 収入。支出。繰越。


 そこまでは分かる。


 問題はその先だった。


 月別支出表。品目別集計。在庫一覧。発注点管理。前年差異表。支出割合の円グラフ。


 帳簿のはずなのに、丸い図まで描かれている。


 誰だ。数字を丸くした者は。


 そして欄外には、見慣れない異国式の算定記号が並んでいた。


『=IF(在庫数<発注点, 発注, 保留)』

『=SUMIF(品目, 小麦, 金額)』

『=VLOOKUP(品名, 単価表, 三列目, FALSE)』

※FALSE=偽


 偽?


 帳簿は嘘をつかないのではないのか。数字は正直だと聞いていた。


 なのに、帳簿が堂々と「偽」と名乗っている。しかも三列目で。


 三列目に何がある。嘘か。嘘が三列目にあるのか。


『=IFERROR(索引照合, 該当なし)』


 いこーる。いふ。さむいふ。ぶい、るっく、あっぷ。いふえらー。


 やはりこれは帳簿ではない。異国語で書かれた呪文書だ。


 おかしい。この世界はおかしい。


 この手の立場の者は、普通、帳簿が読めるものではないのか。使用人には侮られ、夫としては軽んじられ、食事は硬いパンと薄いスープ。それでも、実は帳簿に強い。こっそり不正を見抜き、屋敷の無駄を正し、使用人たちを青ざめさせる。


 そういう場面ではないのか。


 なのに、現実の私はどうだ。帳簿を開いて三呼吸で閉じた。


 円が数字を丸めてくる。 偽が堂々と居座っている。ぶい、るっく、あっぷに至っては、どこを見上げればいいのかも分からない。


「こちら、奥様が昨夜まとめられた来期分の試算でございます」


「昨夜?」


「はい」


「これを?」


「はい」


「一晩で?」


「奥様は有能ですので」


 ふと、隣室から、ぱちぱちぱち、と音が聞こえた。


 のぞいてみると、奥様だった。


 ぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱち。


 雨音どころではない。もはや、何かの演武だった。


 ものすごい速さでそろばんを弾いている。目は帳簿から離れない。指だけが、勝手に数字を追っている。


 速い。鋭い。無駄がない。


 あれはもう計算ではない。格闘技である。


 素晴らしい。エクセレント、である。


 ならば、この奥様が作った謎の帳簿も、やはりただの帳簿ではない。


 えくせれんとな帳簿。略して、えくせる。


 私は心の中で、そっとそう名づけた。


「では、旦那様には、こちらの空欄に品目名を書き写していただければ十分です」


「計算は」


「奥様がなさいます」


「……そうか」


「旦那様は、字がお綺麗ですから」


 褒められた。たぶん。


 私は羽根ペンを握った。


 せめて綺麗な字で書こう。夫として。いや、清書係として。


 こうして、日々を過ごすたび、この世界の常識は、少しずつ私の感じ方まで塗り替えていった。


 奥様に放っておかれれば寂しい。奥様の色を身につければ胸が弾む。奥様に見られるなら、少しでも綺麗でいたい。奥様に気まぐれに誘われれば眠れず、奥様に忘れられれば枕に顔を埋めたくなる。


 前の世界の私が、少しずつ薄れていくようだった。


 その日の午後、屋外の小さなパーティーが開かれた。


 奥様は私に、彼女の瞳と同じ青の礼服を用意した。


 形は紳士服だ。ただし、襟元はレース。袖口もレース。胸元には、控えめとは言いがたい飾りリボン。


「……これは」


「私の色です」


 奥様は当然のように言った。


「夫が妻の色を身につけるのは、当然でしょう?」


 私は奥様の色を身につけた。所有物の札を首に下げられたようなものだ。


 所有物。


 そう思ったのに、鏡の中の私は少し頬を赤くしていた。


 似合っている。


 青いリボンが、胸元でかわいらしく揺れている。


 庭園では、奥様が女性貴族たちに囲まれていた。


 奥様の隣に立つために着せられたはずなのに、気づけば私は少し離れた壁際にいた。

 妻の色をまとった、たいそう見栄えのする壁の花である。


 手元には焼き菓子。

 できることといえば、奥様の方を見て、邪魔にならないように微笑むことくらいだった。


 飾りなら飾りで、せめて役に立つ飾りでありたい。


 やがて、話題は小麦の輸送になった。  

 帳簿では、異国語の呪文に負けた。

 けれど、小麦は呪文を唱えない。


 収穫量。倉庫。馬車の数。

 そのくらいなら、私にも分かる。

 前の世界でも、やっていたことだ。


 だが、奥様たちの口から出てきたのは、私の知っている小麦ではなかった。


「今年の小麦輸送に関しては、南部街道のロジスティクスにおけるボトルネックが、倉庫側のリードタイムですわ」


「ええ。現場のオペレーションが属人化しておりますもの」


「ステークホルダーへの説明には、まずエビデンスが必要ですわね」


 唱えてきた。


 小麦が、呪文を唱えてきた。


 ⋯⋯すてーくほるだー。


 私はその言葉を、頭の中でそっと繰り返した。


 ガンホルダーのようなものだろうか。ならば、ステーキを入れて腰に下げる非常食のための道具か。


 いや、待て。


 小麦の話ではなかったか。いつから肉の話になった。


「サステナビリティの観点からも、今の仕入れスキームは見直すべきでしょう」


「領民へのベネフィットも、数字で見える化しませんと」


 私は焼き菓子を持ったまま固まった。


 小麦はどこへ行った。せめて一粒でいいから、姿を見せてほしい。


 そこへ一人の男が、何でもない顔で会話に入った。


 アルノーというらしい。


 背が高い。姿勢がいい。微笑み方まで、むしゃくしゃするほど洗練されている。


「その件なら、北部倉庫を中継させればリードタイムを二日削れます。ステークホルダーへの説明もつくかと」


 分かるのか。

 あの男には、ステークホルダーが何か分かるのか。


 私には、肉袋にしか思えなかった。

 しかも、それに説明をするらしい。


 小麦の話ではなかったのか。


「エルザ、こちらの試算も見てくれ」


 私は焼き菓子を持つ手を止めた。


 エルザ。


 奥様を、エルザ。


 私はまだ一度も呼んでいない。呼ぶどころか、心の中でもだいたい奥様である。


 奥様は、アルノーには少しだけ柔らかく笑った。


 その笑顔を見た瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。


 これは嫉妬ではない。焼き菓子が喉に詰まっただけだ。


 そう思って、私はもう一つ焼き菓子を食べた。


 なぜ食べた。


 甘いはずなのに、味がしなかった。


 私はお飾り夫。会話ができるのは彼。役割分担が、あまりに残酷だった。


 その時、見知らぬ女貴族が近づいてきた。


「あら、エルザ様の旦那様ですわね」


 彼女は私を上から下まで眺め、にこりと笑った。


「まあ、本当にお綺麗なお顔をしていらっしゃる」


「恐れ入ります」


「結婚式にエルザ様がいらっしゃらず、手袋と誓いを交わしたというのは、本当ですの?」


 私は笑顔を貼りつけた。


「奥様はご多忙ですから」


「まあ。健気ですこと」


 健気。


 その言葉は、褒め言葉の形をした針だった。


 女は一歩近づいてきた。


「でも、少しくらい寂しいでしょう?」


「そのようなことは」


「私がお相手いたしましょうか?」


 白い手袋の指が、私の顎に触れた。


 くい、と持ち上げられる。


 近い。


 私は固まった。この世界では、男はこういう時、下手に騒ぐものではない。そういう常識が、頭のどこかにある。


 だが、近い。近いし、怖いし、何より奥様に見られたら困る。


「顔を赤くして。可愛らしい方」


「お、おやめください」


「まあ。その顔。そそられるわ」


 その時だった。


「私の夫に、何をしているのです」


 低い声が落ちた。


 女の指が、私の顎から離れる。振り向くと、奥様が立っていた。


 青い瞳が、ひどく冷たい。


「エルザ様、これはただのご挨拶ですわ」


「顎を持ち上げる挨拶を、私は知りません」


 奥様は私の前に立った。


 背中で遮られる。 その姿が、あまりにかっこよくて。 胸が鳴った。


 女貴族は笑みを引きつらせ、「失礼いたしましたわ」と早々に身を引いた。


 逃げ足が速い。


「リオネル」


「は、はい」


 奥様が、冷えた目でこちらを見た。


「おまえは、ほかの女に色目を使うのか?」


 違う。断じて違う。私は今、被害者側だったはずだ。


「使っておりません」


「顔が赤い」


「それは、驚いたからで」


「顎を触られて、大人しくしていた」


「固まっていただけです」


「つまり、触らせていた」


 理不尽だ。完全に理不尽だ。


 だが、奥様の声が低い。怒っている。私のことで怒っている。


 少し嬉しい。


「申し訳ありません」


 なぜ謝った。


 私の中の夫マインドが、勝手に頭を下げた。


 奥様は一歩近づき、私の顎に指をかけた。先ほどの女より、ずっと強く。


「覚えておきなさい」


 近い。奥様の青い瞳が、目の前にある。


「あなたは私の夫です」


「……はい」


「私以外に、そんな誘うような顔を見せる必要はありません」


 とくん、と胸が鳴った。


 もうだめだ。私はたぶん、今ので完全にだめになった。


 だが、奥様は続けた。


「あなたは私のものだ。勝手にほかの女に触れさせることは許しません」


 胸の奥で鳴っていたものが、すっと沈んだ。


 助けられた。

 たぶん。


 けれど、愛ではない。

 私は守られたのではなく、所有権を主張されたのだ。


 それでもまだ、顎に残った奥様の指の感触が熱い。


 そして奥様は、何事もなかったように仕事の話に戻っていった。


 そのあと、面白くなさそうにこちらを見ていた若い男が近づいてきた。


「エルザ様の夫ともなれば、さぞ大切にされているのでしょうね」


 声は甘い。だが目は笑っていない。


「結婚式には手袋が代理だったそうですが」


 また、その話か。


 私は微笑んだ。夫らしく。慎ましく。


「奥様はご多忙ですから」


「それでも奥様の色を着せてもらえるなら、十分では?」


「……はい」


 その男が一歩、私の前へ踏み出した。


 気づいた時には、その靴先が私の足に引っかかっていた。


 私はつまずき、誰かの持っていた杯が、まるで最初からそうするために用意されていたように傾いた。


 赤ワインが、頭から降ってきた。


 髪から、額から、襟元から、赤い雫が落ちる。青い礼服に、濃い染みが広がった。


「まあ、大変」


「足元にはお気をつけになりませんと」


「せっかくのエルザ様のお色が、真っ赤になってしまわれましたわね」


 声は心配の形をしているのに、目が笑っている。


 私は口を開いた。怒るべきだ。そう思った。


 だが出てきたのは、情けないほど穏やかな声だった。


「少し、足元が悪かったようです」


 その時だった。


「ずいぶん都合よく転んだのですね」


 冷たい声が落ちた。


 奥様だった。


 その場の空気が、すっと凍る。


「エルザ様、これはリオネル様が足を滑らせて」


「あなたの足は、ずいぶん遠くまで伸びるのですね」


 男の顔色が変わった。


「偶然でよかったですわ」


 奥様は濡れた私の袖を指先でつまんだ。


「もし万が一、故意だったなら、私の夫を侮辱したことになりますもの」


 また、助けてくださった。

 私が困っている時、奥様はいつもすぐに気づいてくださる。さっきも、今も。


 胸が鳴った。奥様が、私のために怒ってくださっている。


 そう思った。


 だが、奥様は続けた。


「私のものに、私の許可なく汚れをつけるなど、不愉快です」


 分かっておりました。


 私ではなく、やはり所有物の話だった。


 けれど、ときめきが消えない。私の気持ちは、どうやらワインよりも簡単に染まるらしい。


「こちらへ」


 奥様はそう言って、私の手首を取った。


 濡れた礼服のまま庭園に立ち尽くしていた私は、そのまま控え室へ連れていかれた。


 侍女に命じて替えの服を用意させると、奥様は自ら布を取り、私の髪についたワインを拭った。


「動かない」


「は、はい」


 奥様の指が、私の髪に触れている。濡れた前髪を上げられ、頬に流れた雫を拭われる。


近い。


近すぎる。


心臓が、勝手に騒ぎ出した。


「着替えますよ」


「自分でできます」


 奥様は聞かなかったように、私の襟元へ手を伸ばした。


 私は反射的に、その手を押さえそうになった。


「リオネル」


 低い声で名を呼ばれ、指先が止まる。


「何を今さら恥ずかしがっているのです。あなたは私の夫でしょう。何も構わないではありませんか」


 構う。


 私は大いに構う。


 夜ならともかく、ここは明るい控え室である。


 だが、奥様はそんな私の動揺など意に介さず、濡れた上着の留め具を外した。


 ひとつ。

 ふたつ。


 上着が肩から落ちる。


 次に、奥様の指がシャツの一番上のボタンにかかった。


 指先が喉元に触れた瞬間、私は息を止めた。


 この世界の夫マインドは、肌を見せることにやたらと初心である。

 胸元が少し開いただけで、反射的に隠したくなる。


 私は思わず、手で襟元を押さえた。


「何をしているのです?」


「いえ、その」


「濡れたままでは風邪をひきます」


「ですが」


「じっとしていなさい」


 命令された。命令されたのに、胸が跳ねた。


 もう本当に駄目かもしれない。


 奥様の指が、またボタンにかかる。ひとつ。ふたつ。


 外されるたびに、私はどこを見ればいいのか分からなくなった。天井を見る。壁を見る。最後に奥様の顔を見てしまい、慌てて目を逸らした。


「顔が赤い」


「ワインのせいです」


「浴びただけでしょう」


「はい」


 濡れた礼服を脱がされ、新しいシャツを着せられる。


 奥様の手つきは、少々乱暴だった。けれど、濡れた髪を拭う時だけは、少しだけ丁寧だった。


 それが余計にいけなかった。


「ありがとうございます」


 自分でも驚くほど、ほわりとした声が出た。


 奥様が一瞬、目を止める。


「……あなた、本当に酒に弱いのですね」


「飲んでいません」


「浴びただけでその顔になるなら、同じことです」


 奥様は私の頬に残ったワインを拭った。


「今後、他人の前で酒を飲むのは禁止します」


「そこまでですか」


「そこまでです」


 その言い方があまりにきっぱりしていて、胸が鳴った。


 心配してくださっている。そう思った。そう思ってしまった。


「それから」


 奥様は濡れた布を卓上に置き、私をまっすぐ見た。


「嫌なことをされたなら、言いなさい。笑って誤魔化す必要はありません。あなたが黙っていると、私が気づくのに手間がかかります」


 嬉しかった。


 情けないほど嬉しかった。


 その瞬間だけは、ワインを浴びたことも、笑われたことも、少しだけ報われた気がした。


 けれど奥様は続けた。


「あなたは私の所有物なのですから。私の許可なく、他人に汚されてよいものではありません」


 その言葉を聞いた瞬間、今度こそ、はっきり嫌だと思った。


 優しい言葉の形をしていた。

 けれど、やっぱりそれは愛ではなかった。


 私は、奥様の家に置かれたいのではない。

 奥様のものとして守られたいのでもない。


 奥様の心が欲しいのだ。


 そう気づいた瞬間、自分でも呆れた。


 なんと贅沢な夫だろう。衣食住どころか、妻の心まで欲しがっている。


 けれど、欲しかった。どうしようもなく、欲しかった。


 その夜、奥様に呼ばれた。


 いつもより落ち込んでいることに、気づかれたのかもしれない。


「不満があるなら言いなさい。宝石ですか? 服ですか? 部屋を替えますか?」


 聞くつもりはなかった。

 それなのに、口が先に動いた。


「奥様は」


「何です」


「アルノー様を、想っていらっしゃるのですか」


 言ってから、血の気が引いた。


 奥様はしばらく黙って私を見た。怒るかと思った。だが、彼女は低く息を吐いただけだった。


「男の嫉妬は見苦しいですよ」


 その一言で、胸が刺されたように痛んだ。


「……申し訳ありません」


「アルノーは仕事相手です。それ以上でも、それ以下でもありません」


 それなら、よかった。


 そう思った自分が、さらに情けなかった。


「私は」


 声が震えた。


「宝石もいりません」


 奥様が眉をひそめる。


「服もいりません」


 言ってから、少しだけ考えた。


「いえ、服は少しいります。裸では困るので」


「何の話です?」


「ですが、そういうことではありません」


「では何が」


「お金も、立派な部屋も、何もいりません」


 涙が落ちた。


 今度は拭わなかった。


「一生を共に過ごすのに、愛のない生活なんて耐えられません」


 奥様が初めて黙った。


「私は、置物ではなく」


 喉が詰まる。


「飾り物でもなく」


 声が震える。


「あなたの所有物でもなく」


 私は奥様の足元に膝をついた。


「一人の人間として、愛されたいのです」


 みっともない。


 殿方の涙は見苦しい。そう言われても、もう止まらなかった。


「どうか」


 私は縋るように言った。


「どうか、私を愛してください」


 その瞬間。


 世界が反転した。


 床も、天井も、奥様の青い瞳も、硬いパンも、くず野菜のスープも、すべてが砕ける。


 知っていたはずの常識が、音もなく剥がれ落ちた。


 男が嫁ぐ世界。妻の色を身につける夫。夫用の服装。離縁された男の行き場。


 それらが急に、遠い悪夢のようになった。


 代わりに、私は思い出した。


 ここでは、私が妻を迎える側なのだ。ここでは、私があの言葉を言う側だったのだ。


「君に、事前に伝えておかなければならないことがある」


 私は、そこに戻っていた。


 結婚式を終えた夜。開きかけた自分の口。妻となったばかりのエルザ。


 言おうとしていた言葉を思い出して、背筋が冷えた。


 君を愛することはない。


 そんな非道なことを、私は言うつもりだったのか。


 目の前にいるエルザ・レーヴェン伯爵令嬢は、反転世界の奥様と同じ顔、同じ声、同じ青い瞳、同じ名前だった。


 けれど今の彼女は、私を迎える女侯爵ではない。私の家へ嫁いできた、私の妻だった。


 私は椅子を蹴るように立ち上がった。


「リオネル様?」


 次の瞬間、私は彼女の足元に膝をついていた。


 片手で彼女の手を取り、もう片方の手で、ほとんど縋るようにドレスの裾を掴む。


「どうか」


 声が震えた。


「どうか、私を愛してください」


 エルザは目を見開いた。


「……どうされましたの?」


「宝石も服もお金もいりません。硬くないパンと、味のするスープがあれば十分です。ですから、どうか、私を愛してください」


「あの、リオネル様」


「夫として、精一杯慎ましくいたします。壁の花もやります。焼き菓子も食べます。嫉妬も、できれば見苦しくない範囲に抑えます」


「落ち着いてくださいませ」


「ですが、どうか、結婚式には来てください」


「もう無事に済みました」


「初夜に規約だけ読み上げて帰らないでください」


「そんなこと、いたしませんよ」


「愛人とステークホルダーの話をしないでください」


「愛人?」


「アルノーという名の男とは関わらないでください」


「存じ上げませんけれど」


「硬いパンと、くず野菜のスープだけを出さないでください」


「出しません」


「灰まみれのドアマットと間違えないでください」


「間違えません」


「豆を分けさせないでください」


「分けさせません」


「私を、焼き菓子を食べるだけの壁の花にしないでください」


「……いたしません」


 エルザは少し困ったように私を見た。


 けれど彼女は、私の手を振り払わずに言った。


「まず、お立ちください。床は冷えます」


 その言葉に、私はようやく息をついた。


 戻ったのだ。本当に戻ったのだ。


 硬いパンも、くず野菜のスープも、壁際の焼き菓子もない。


 よかった。よかった。戻った。


 そう思った時、彼女の視線が私の瞳を見つめた。


「泣いていらっしゃるのですか?」


 私は答えられなかった。


 エルザは、知ってか知らずか、穏やかに微笑んだ。


「リオネル様の泣き顔は、綺麗ですね」


 その右手が、すっと伸びる。


 白い指が私の顎にかかった。くい、と上げられる。


 息が止まった。


 戻った。戻ったはずだ。


 それなのに、その仕草だけが、あまりにあちらの奥様に似ていた。


「その顔は、私の前だけにしてくださいまし」


 私は彼女の左手を、さらに丁寧に握り直した。


 夢だったのか。罰だったのか。それとも本当に、どこかの世界だったのか。


 分からない。


 けれど、ひとつだけ決めた。


 この人を大事にしよう。


 まずは、硬くないパンから始めよう。

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― 新着の感想 ―
あれだな、初夜に馬鹿な宣言したり婚約者を冷遇する全ての男にみてほしい夢。 パラレルワールドっぽいけど、女侯爵マインドはエルザさんにも宿ってそうだから、反省をいつまでも忘れずにいた方が良い。
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