男女逆転の世界で、ドアマットヒーローになりました
「君に、事前に伝えておかなければならないことがある」
結婚式を終えた夜、私は妻となったばかりの女性を前にして、そう切り出した。
私の名はリオネル・クレイン。
クレイン侯爵家を継いだばかりの男だ。相手はエルザ・レーヴェン伯爵令嬢。
母が選び、家同士が決め、私は受け入れただけの妻だった。お仕着せの妻。言葉にすればひどいが、その時の私は本気でそう思っていた。
貴族同士の政略結婚など、そんなものだ。愛などなくても家は続く。衣食住を保証し、苦労をさせず、体面を守る。それで夫としての責任は十分に果たしている。
初夜に告げるには酷かもしれない。だが、期待させてから傷つけるより、最初に線を引いておく方が誠実だろう。
そう思っていた。
この時の私は、誠実と無神経の区別がついていなかった。
「私は君を――」
愛することはない。
そう続けようとした瞬間、世界が反転した。
椅子も、机も、燭台の灯りも、エルザの青い瞳も、すべてがぐにゃりと歪んだ。
次に目を開けた時、私は教会にいた。
見覚えがあった。つい今日、エルザと式を挙げたばかりの教会だ。
ただ、様子がおかしい。
今までいた世界とは違う。それだけは、なぜかすぐに分かった。異常事態なのに、まったく焦りはない。むしろこの状況を、なぜか当たり前に受け入れている。
正面には司祭。隣には、銀の盆に載せられた白い手袋。
花嫁はいなかった。
「……待て」
思わず声が漏れた。
「何か?」
「いや、何か、ではなく。これは結婚式では?」
「左様でございます」
「花嫁は。エルザはどこだ」
侍女の眉が、わずかに動いた。
「旦那様。奥様とお呼びください」
「……奥様」
「奥様はお忙しいとのことです」
お忙しい。結婚式よりも。
私は銀の盆に載った手袋を見た。
「つまり私は今から、手袋と結婚するのか」
「奥様の代理でございます」
「手袋が?」
「はい」
司祭は厳かに頷いた。
花嫁が結婚式に来ず、代理が手袋など、聞いたことがない。おかしい。何もかもおかしい。
そう思うのに、同時に私はなぜだか知っていた。
この世界では、男が女の家へ嫁ぐこと。夫は妻の色を身につけること。妻は外で働き、夫は屋敷を差配し、帰りを待つこと。離縁された男の行き場が少ないこと。夫は、美しく、慎ましく、妻の隣で微笑むものだということ。
知らないはずの常識が、最初から自分の中にあった。
まるで、誰かの人生を雑に縫いつけられたようだった。
「では、誓いを」
司祭が言った。
私は手袋を見た。
手袋は何も言わない。
当然だ。
手袋だ。
誓いの言葉は、私だけが口にした。
相手からの返事はない。
続いて、指輪の交換が行われた。
私は自分の指輪を、自分の手で嵌めた。
もうひとつの指輪は、銀の盆の上に置かれた白い手袋の薬指に、そっと通された。
屈辱的だった。
それなのに、胸の奥が寂しかった。
いくらお仕着せの夫とはいえ、せめて指輪を交換する時くらい、奥様の顔を見たかった。
いや、待て。
私は今、手袋だけを寄越した花嫁に憤るのではなく、顔を見たかったなどと、悲劇の夫めいたことを考えているのか。
この世界の夫マインドか。
そうなら、かなりやばい。
さらに司祭は、何ひとつ疑問に思っていない顔で続けた。
「では、誓いの口づけを」
待て。
私は銀の盆の上の白い手袋を見た。
まさか、手袋にか。
誰も止めてくれなかった。
こうして私は、人生で最も静かな相手との誓いの口づけを終え、誰よりも静かに、誰よりも実感なく、手袋と結婚した。
その夜、初夜を迎えるため、私は侍女たちに磨かれた。
湯を使わされ、香油を塗られ、髪を整えられ、胸元の開いた薄手の、丈の短い夜着を着せられた。
「これは、少し露出が多くないか」
「奥様のお目に触れるのですから」
「だが、少々恥ずかしい」
「旦那様。せめて初夜くらいは、奥様の目を楽しませなさいませ」
侍女は淡々と言った。
「殿方にできることは、それくらいでしょう」
なるほど。
私は夫になったのではない。たぶん、余興になったのだ。
部屋で待つ間、私は心もとない夜着の胸元を押さえていた。来なくてもいい。来ないなら来ないで、どうせ政略結婚だ。そう思う一方で、扉の向こうに足音がするたび、胸が跳ねた。
やめろ。期待するな。
そう思うのに、期待してしまう。
やがて扉が開き、奥様が入ってきた。
エルザ・レーヴェン女侯爵。
先ほどまで、私が「愛することはない」と告げかけた人物と、同じ顔、同じ声、同じ青い瞳、同じ名前だった。ただし、こちらのエルザはレーヴェン家の当主である。私を迎える側で、私は彼女に嫁いだ夫だった。
彼女は寝台の端に腰かけることもなく、扉のそばに立ったまま、腕を組んでいた。
そして、言った。
「あなたを愛することはない」
胸の奥が冷えた。
いやいやいや、待て。冷えるな。これは政略結婚だ。私だって、つい前の世界で同じことを彼女に言おうとしていたではないか。
そう思ったはずなのに、目の奥が熱い。
「これは家同士の婚姻です。あなたを夫として遇しはしますが、私の心まで求めないでください」
「……はい」
「生活に必要なものは用意いたします。けれど、贅沢は慎みなさい」
「はい」
「外でどなたと親しくなっても構いません。ただし、子だけは作ってこないでくださいませ。私の家名に、余計な火種を持ち込まれては困ります」
「はい」
「夜会では、着飾って私の隣で微笑んでいれば結構です。難しい話に口を挟む必要はございません」
「はい」
「寝室は別にいたしましょう。必要があれば、こちらから呼びます」
必要があれば。
私は夫なのか。それとも、呼び出し式の置物なのか。
「以上です。何か質問は?」
山ほどあった。まず、結婚式にはなぜ手袋だけ寄越したのですか。次に、初夜に扉の前から規約を読み上げる妻は、この世界では一般的なのですか。最後に、私は人間ですか。
だが、声に出たのは一言だけだった。
「ございません、奥様」
「よろしい」
奥様は満足げに頷いた。
「それと、くれぐれも離縁などとは考えないことです」
「離縁、ですか」
「あなたはもう、レーヴェン家に嫁いだ身です。私のもとを離れても、次にあなたを迎えるのは、悪趣味な女主人か、年老いた未亡人くらいでしょう」
私は言葉を失った。
二十四歳で、もう薹が立っている扱いなのか。
「生活は保証します。ですから、分をわきまえなさい」
「……はい」
「分かれば結構です」
奥様はそれだけ言うと、そのまま部屋を出ていった。
初夜は五分で終わった。大変、事務的だった。
私はしくしくと枕に顔を押しつけた。涙で濡れた枕は冷たかった。
翌朝。
「旦那様。いつまでお休みでいらっしゃるのですか。奥様はもう、大奥様とお仕事に行かれましたよ」
侍女に、容赦なく叩き起こされた。
目を開けると、侍女が寝台の横に立っていた。
「昨夜は奥様をお引き留めできなかったのですね」
できるわけがない。あの方は規約を読み上げて、すぐに出ていったのである。
「申し訳ありません」
なぜ謝った。
私の中の夫マインドが、勝手に頭を下げた。
「初夜くらいは、もう少し頑張っていただかないと」
「何をですか」
「殿方の務めでございます」
務め。
私には愛されないと宣言された直後に、何かを成し遂げる務めがあったらしい。この世界の夫、難易度が高い。
そして、渡されたのは、粗悪な古い雑巾かと思うような仕事着だった。布は薄く、袖口はぼろぼろだった。
「これは」
「旦那様用でございます」
「昨夜の夜着との差が激しくないか」
「奥様のお目に触れない時は、実用で十分かと」
なるほど。
奥様の前では余興。それ以外では、ぼろ雑巾。
「お食事はご用意できております」
案内された食卓には、硬いパンと、野菜くずの浮いた薄いスープが置かれていた。
すでに席には、ひとりの男性がいた。白髪まじりの穏やかな男性で、姿勢よく椅子に座り、硬いパンを何の感情もなくスープに浸している。
「おはようございます、リオネル殿」
「お、おはようございます」
「大旦那様でございます」
侍女が言った。
大旦那様。つまり、奥様の父君である。この家に婿入りした、先輩の夫。
大旦那様は、スープに沈めたパンを静かに見つめていた。まるで長年の戦友を見る目だった。
「最初は皆、パンの硬さに負けます」
「パンに」
「ええ。ですが、スープによく浸せば勝てます」
助言が実用的すぎる。
野菜くずは、スープの底で最後の底力を見せている。私はパンを少しちぎった。
硬い。
私は今すでに、パンに負けそうになった。
「焦ってはいけません」
大旦那様は静かに言った。
「この家で生きるには、まずパンを柔らかくするところからです」
「そこからなのですか」
「そこからです」
大旦那様は悟りきった顔で頷いた。
「女主人が不在の朝は、パンが硬い。女主人が在宅の日は、柔らかい。覚えておくとよろしい」
「その違いは何なのです」
「使用人も、女主人の目がある時は気を張ります」
奥様がいないと、パンが硬くなる。
この世界、怖い。
「エルザのことは、すまなかった」
「奥様のこと、ですか」
「結婚式のことです。夫となる者に、手袋だけを寄越すのはよくない」
大旦那様は、硬いパンをスープに沈めながら言った。
「せめて私が、あの子の代わりに誓いのキスだけでも受け取ればよかった」
「大旦那様が、ですか」
想像してしまった。
白い手袋の代わりに、大旦那様が厳かに立ち、私の口づけを受け取る構えでいる光景を。
だめだ。
手袋でよかった。
大旦那様は何事もなかったように、またパンをスープに沈めた。 私も黙って、硬いパンをスープに浸した。しばらく置くと、ようやく歯が通る。パンは強い。私よりもずっと強い。
そのパンをなんとか食べ終えたころ、仕事が待っていた。
「奥様が戻られたら、書斎をお使いになります。花瓶の水を替え、暖炉まわりを整え、銀器を磨き、窓辺の埃を払っておいてくださいませ」
「私が?」
「奥様をお迎えする場所を整えるのも、旦那様の務めでございます」
旦那様の務め。
その言葉に、少しだけ背筋が伸びた。悔しい。今、明らかに雑用を押しつけられているのに。
「それから、書斎の古い灰もお願いします。奥様は灰の匂いを好まれませんので。あと、こちらの豆を分けておいてくださいませ」
侍女は小さな籠を差し出した。中には、白い豆と黒い豆が混ざっている。
「厨房で混ざってしまいましたので」
「厨房で混ざったものを、なぜ私が」
「旦那様、お暇でいらっしゃいますでしょう?」
侍女はにこりと笑った。
「それに、初夜ではお役に立たなかったではありませんか」
息が止まった。
「旦那様にも、少しはお役に立っていただきませんと」
何も言い返せない。
私さえ我慢すれば済む。少しでも奥様のお役に立てるなら。そう思ってしまう自分が、情けなかった。
こうして私は、灰を片づけ、銀器を磨き、豆を分けることになった。
暖炉の灰は、思ったよりもしつこかった。
払えば舞い、拭けば伸び、避けようとすれば袖につく。
気づけば、髪にも、頬にも、仕事着の袖にも灰がついていた。
私は灰色の男になっていた。
夫というより、燃え尽きた何かである。
灰をかぶった男が、妻の帰りを待っている。
……いや、待て。
これでは某童話のヒロインではないか。
このあと私がガラスの靴でも落とし、奥様が白馬に乗って迎えに来てくださるのだろうか。
⋯⋯絵面がひどい。
白馬にも奥様にも申し訳ない。
せっかく迎えに来た先にいるのが、灰まみれの二十四歳男である。
恋ではなく、事件である。
それでも、書斎だけは整えた。
奥様が使う部屋だ。
奥様が戻ってきた時、少しでも気持ちよく過ごせるように。
そう思ってしまった自分に気づき、私は灰まみれの手で顔を覆いかけた。危ない。顔を覆ったら、さらに灰がつくところだった。
その時、廊下から足音がした。
先ほどの侍女だった。
私は床に膝をつき、這いつくばるようにして暖炉まわりを拭いていた。侍女は私の横を通り過ぎようとして、わざとらしく仕事着の裾を踏んだ。
動けない。
布が引かれ、私はその場に縫いとめられたようになる。侍女は私を見下ろし、口元を押さえた。
「失礼。灰色でしたので、ドアマットかと思いました」
ドアマット。
私はドアマット。
いや、違う。だが、ドアマットと言われて妙に納得してしまった。
この屋敷での私は、夫というより敷物に近い。奥様の帰る場所を保ち、奥様の邪魔にならぬよう端に寄り、奥様の機嫌をうかがい、使用人にはこき使われ、あげく踏まれる。
私はドアマット。人に踏まれる灰色のドアマット。
いや、待て。
ドアマットなら、奥様が帰宅するたびに踏んでくださる。それはそれで、ひとつの幸せの形なのでは――。
そこまで考えた瞬間、私は両手で顔を覆った。
イヤイヤッ、と小さく顔を左右に振ってしまう。
……振ってしまった。
今、私は何をした。いい歳した男が、灰まみれで、両手で顔を覆って、イヤイヤッと顔を振った。
違う。これは私ではない。この世界の夫マインドが悪い。
惨めすぎて、涙が出てきた。
「何をしているのです」
低い声がした。
廊下の空気が、ぴたりと止まる。
振り向くと、奥様が立っていた。
青い瞳が、少しも笑っていなかった。
「奥様。お早いお帰りで」
侍女の顔色が変わった。
「これは、その、旦那様が自ら」
「私の夫が、自ら灰をかぶって敷物になると?」
静かな声だった。静かすぎて、怖かった。
「いえ、奥様のお部屋を整えるのも旦那様の務めかと」
「誰が言いました」
「それは」
侍女が黙る。
奥様は私の髪についた灰を見て、眉を寄せた。次に、机に置かれた豆の籠を見る。
「これは何です」
「厨房で混ざりまして」
「厨房で混ざったものを、なぜ夫が分けているのです」
「その、旦那様にも少しはお役に」
「私の夫を、厨房の豆より下に置いたのですか」
侍女の肩が震えた。
奥様は声を荒らさなかった。ただ、冷たく言った。
「荷物をまとめなさい」
「奥様」
「今すぐ」
「ですが」
「私の夫を勝手に使い、勝手に汚し、勝手に侮る者を、この屋敷に置くつもりはない」
私は息を止めた。
私の夫。
その言葉だけで、胸が鳴った。単純すぎる。自分でも分かっている。
侍女は慌てて頭を下げ、部屋を出ていった。
廊下が静かになる。
奥様は私の前に立った。
「あなたも」
「はい」
「なぜ黙っていたのです」
「私が耐えれば済むかと」
「馬鹿ですか」
叱られた。叱られたのに、少し嬉しい。
これはもう、かなり重症である。
奥様は近くにあった布を取った。そして、私の頬に触れる。
灰を拭われた。
少し乱暴だった。けれど、目元に近いところだけは、妙に丁寧だった。
「ひどい顔」
「申し訳ありません」
「泣いていたのですか?」
「泣いておりません」
「男の人は、すぐ泣くのですね」
からかうような声ではなかった。ただ、少しだけ目を細めて、私の頬の灰を拭う。
「でも、あなたの泣き顔は綺麗です」
胸が、変な音を立てた。
「その顔は、私の前だけにしなさい」
「……はい」
「よろしい」
奥様は私の前髪を上げ、額の灰も拭う。
近い。灰まみれの顔を、妻の手で拭われている。ただそれだけなのに、心が落ち着かない。
「ドアマットと間違われるほど灰をかぶる夫がどこにいます」
「ここに」
「返事をしなくてよろしい」
「はい」
奥様は小さく息を吐いた。
「嫌なことをされたなら、言いなさい。黙って耐えたところで、あなたが汚れるだけです」
嬉しかった。
情けないほど嬉しかった。
けれど、奥様は続けた。
「あなたは私のものなのですから。私の許可なく、他人に踏まれてよいものではありません」
胸の奥が、少しだけ引っかかった。
私が傷ついたから怒っているのではない。
私が悲しかったから拭ってくれたのでもない。
私が、奥様のものだから庇ってくださった。
それでも、その時の私はまだ、その言葉にすがってしまった。
ものでもいい。
奥様が、私を自分のものだと言ってくださるなら。
その日から屋敷の空気は少し変わった。
硬いパンは、少しだけ柔らかくなった。スープには、くずではない野菜が浮かぶようになった。豆の籠は二度と私の前に置かれなかった。
嫌な侍女はいなくなり、私を見る使用人たちの目も、ほんの少しだけ慎重になった。
私は灰色のドアマットから、せめて室内用の敷物くらいには昇格したのかもしれない。
いや、昇格先が敷物でいいのか。
よくはない。よくはないが。
奥様に灰を拭われた頬だけが、いつまでも熱かった。
朝食のあと、別の侍女が厚い帳簿を持ってきた。
「旦那様、お暇でいらっしゃいますか?」
侍女はにこりと笑った。
前の侍女よりは、少しだけ角がない。だが、その言葉にはまだ、旦那様にならこの程度は許される、という空気が残っていた。
渡されたのは、帳簿だった。
帳簿。
それなら分かる。前の世界でも、屋敷の収支や領地の管理は一通り見ていた。収入と支出、備品の購入、使用人の賃金、季節ごとの支出。細かな数字に強いとまでは言わないが、少なくとも読める自信はある。
夫だからと甘く見るな。少しは見返してやる。
そう思って帳面を開いた。
三呼吸後、私は静かに帳面を閉じた。
「旦那様?」
「これは帳簿ではない」
「帳簿でございます」
「違う。これは呪文書だ」
もう一度、恐る恐る開く。
収入。支出。繰越。
そこまでは分かる。
問題はその先だった。
月別支出表。品目別集計。在庫一覧。発注点管理。前年差異表。支出割合の円グラフ。
帳簿のはずなのに、丸い図まで描かれている。
誰だ。数字を丸くした者は。
そして欄外には、見慣れない異国式の算定記号が並んでいた。
『=IF(在庫数<発注点, 発注, 保留)』
『=SUMIF(品目, 小麦, 金額)』
『=VLOOKUP(品名, 単価表, 三列目, FALSE)』
※FALSE=偽
偽?
帳簿は嘘をつかないのではないのか。数字は正直だと聞いていた。
なのに、帳簿が堂々と「偽」と名乗っている。しかも三列目で。
三列目に何がある。嘘か。嘘が三列目にあるのか。
『=IFERROR(索引照合, 該当なし)』
いこーる。いふ。さむいふ。ぶい、るっく、あっぷ。いふえらー。
やはりこれは帳簿ではない。異国語で書かれた呪文書だ。
おかしい。この世界はおかしい。
この手の立場の者は、普通、帳簿が読めるものではないのか。使用人には侮られ、夫としては軽んじられ、食事は硬いパンと薄いスープ。それでも、実は帳簿に強い。こっそり不正を見抜き、屋敷の無駄を正し、使用人たちを青ざめさせる。
そういう場面ではないのか。
なのに、現実の私はどうだ。帳簿を開いて三呼吸で閉じた。
円が数字を丸めてくる。 偽が堂々と居座っている。ぶい、るっく、あっぷに至っては、どこを見上げればいいのかも分からない。
「こちら、奥様が昨夜まとめられた来期分の試算でございます」
「昨夜?」
「はい」
「これを?」
「はい」
「一晩で?」
「奥様は有能ですので」
ふと、隣室から、ぱちぱちぱち、と音が聞こえた。
のぞいてみると、奥様だった。
ぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱち。
雨音どころではない。もはや、何かの演武だった。
ものすごい速さでそろばんを弾いている。目は帳簿から離れない。指だけが、勝手に数字を追っている。
速い。鋭い。無駄がない。
あれはもう計算ではない。格闘技である。
素晴らしい。エクセレント、である。
ならば、この奥様が作った謎の帳簿も、やはりただの帳簿ではない。
えくせれんとな帳簿。略して、えくせる。
私は心の中で、そっとそう名づけた。
「では、旦那様には、こちらの空欄に品目名を書き写していただければ十分です」
「計算は」
「奥様がなさいます」
「……そうか」
「旦那様は、字がお綺麗ですから」
褒められた。たぶん。
私は羽根ペンを握った。
せめて綺麗な字で書こう。夫として。いや、清書係として。
こうして、日々を過ごすたび、この世界の常識は、少しずつ私の感じ方まで塗り替えていった。
奥様に放っておかれれば寂しい。奥様の色を身につければ胸が弾む。奥様に見られるなら、少しでも綺麗でいたい。奥様に気まぐれに誘われれば眠れず、奥様に忘れられれば枕に顔を埋めたくなる。
前の世界の私が、少しずつ薄れていくようだった。
その日の午後、屋外の小さなパーティーが開かれた。
奥様は私に、彼女の瞳と同じ青の礼服を用意した。
形は紳士服だ。ただし、襟元はレース。袖口もレース。胸元には、控えめとは言いがたい飾りリボン。
「……これは」
「私の色です」
奥様は当然のように言った。
「夫が妻の色を身につけるのは、当然でしょう?」
私は奥様の色を身につけた。所有物の札を首に下げられたようなものだ。
所有物。
そう思ったのに、鏡の中の私は少し頬を赤くしていた。
似合っている。
青いリボンが、胸元でかわいらしく揺れている。
庭園では、奥様が女性貴族たちに囲まれていた。
奥様の隣に立つために着せられたはずなのに、気づけば私は少し離れた壁際にいた。
妻の色をまとった、たいそう見栄えのする壁の花である。
手元には焼き菓子。
できることといえば、奥様の方を見て、邪魔にならないように微笑むことくらいだった。
飾りなら飾りで、せめて役に立つ飾りでありたい。
やがて、話題は小麦の輸送になった。
帳簿では、異国語の呪文に負けた。
けれど、小麦は呪文を唱えない。
収穫量。倉庫。馬車の数。
そのくらいなら、私にも分かる。
前の世界でも、やっていたことだ。
だが、奥様たちの口から出てきたのは、私の知っている小麦ではなかった。
「今年の小麦輸送に関しては、南部街道のロジスティクスにおけるボトルネックが、倉庫側のリードタイムですわ」
「ええ。現場のオペレーションが属人化しておりますもの」
「ステークホルダーへの説明には、まずエビデンスが必要ですわね」
唱えてきた。
小麦が、呪文を唱えてきた。
⋯⋯すてーくほるだー。
私はその言葉を、頭の中でそっと繰り返した。
ガンホルダーのようなものだろうか。ならば、ステーキを入れて腰に下げる非常食のための道具か。
いや、待て。
小麦の話ではなかったか。いつから肉の話になった。
「サステナビリティの観点からも、今の仕入れスキームは見直すべきでしょう」
「領民へのベネフィットも、数字で見える化しませんと」
私は焼き菓子を持ったまま固まった。
小麦はどこへ行った。せめて一粒でいいから、姿を見せてほしい。
そこへ一人の男が、何でもない顔で会話に入った。
アルノーというらしい。
背が高い。姿勢がいい。微笑み方まで、むしゃくしゃするほど洗練されている。
「その件なら、北部倉庫を中継させればリードタイムを二日削れます。ステークホルダーへの説明もつくかと」
分かるのか。
あの男には、ステークホルダーが何か分かるのか。
私には、肉袋にしか思えなかった。
しかも、それに説明をするらしい。
小麦の話ではなかったのか。
「エルザ、こちらの試算も見てくれ」
私は焼き菓子を持つ手を止めた。
エルザ。
奥様を、エルザ。
私はまだ一度も呼んでいない。呼ぶどころか、心の中でもだいたい奥様である。
奥様は、アルノーには少しだけ柔らかく笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
これは嫉妬ではない。焼き菓子が喉に詰まっただけだ。
そう思って、私はもう一つ焼き菓子を食べた。
なぜ食べた。
甘いはずなのに、味がしなかった。
私はお飾り夫。会話ができるのは彼。役割分担が、あまりに残酷だった。
その時、見知らぬ女貴族が近づいてきた。
「あら、エルザ様の旦那様ですわね」
彼女は私を上から下まで眺め、にこりと笑った。
「まあ、本当にお綺麗なお顔をしていらっしゃる」
「恐れ入ります」
「結婚式にエルザ様がいらっしゃらず、手袋と誓いを交わしたというのは、本当ですの?」
私は笑顔を貼りつけた。
「奥様はご多忙ですから」
「まあ。健気ですこと」
健気。
その言葉は、褒め言葉の形をした針だった。
女は一歩近づいてきた。
「でも、少しくらい寂しいでしょう?」
「そのようなことは」
「私がお相手いたしましょうか?」
白い手袋の指が、私の顎に触れた。
くい、と持ち上げられる。
近い。
私は固まった。この世界では、男はこういう時、下手に騒ぐものではない。そういう常識が、頭のどこかにある。
だが、近い。近いし、怖いし、何より奥様に見られたら困る。
「顔を赤くして。可愛らしい方」
「お、おやめください」
「まあ。その顔。そそられるわ」
その時だった。
「私の夫に、何をしているのです」
低い声が落ちた。
女の指が、私の顎から離れる。振り向くと、奥様が立っていた。
青い瞳が、ひどく冷たい。
「エルザ様、これはただのご挨拶ですわ」
「顎を持ち上げる挨拶を、私は知りません」
奥様は私の前に立った。
背中で遮られる。 その姿が、あまりにかっこよくて。 胸が鳴った。
女貴族は笑みを引きつらせ、「失礼いたしましたわ」と早々に身を引いた。
逃げ足が速い。
「リオネル」
「は、はい」
奥様が、冷えた目でこちらを見た。
「おまえは、ほかの女に色目を使うのか?」
違う。断じて違う。私は今、被害者側だったはずだ。
「使っておりません」
「顔が赤い」
「それは、驚いたからで」
「顎を触られて、大人しくしていた」
「固まっていただけです」
「つまり、触らせていた」
理不尽だ。完全に理不尽だ。
だが、奥様の声が低い。怒っている。私のことで怒っている。
少し嬉しい。
「申し訳ありません」
なぜ謝った。
私の中の夫マインドが、勝手に頭を下げた。
奥様は一歩近づき、私の顎に指をかけた。先ほどの女より、ずっと強く。
「覚えておきなさい」
近い。奥様の青い瞳が、目の前にある。
「あなたは私の夫です」
「……はい」
「私以外に、そんな誘うような顔を見せる必要はありません」
とくん、と胸が鳴った。
もうだめだ。私はたぶん、今ので完全にだめになった。
だが、奥様は続けた。
「あなたは私のものだ。勝手にほかの女に触れさせることは許しません」
胸の奥で鳴っていたものが、すっと沈んだ。
助けられた。
たぶん。
けれど、愛ではない。
私は守られたのではなく、所有権を主張されたのだ。
それでもまだ、顎に残った奥様の指の感触が熱い。
そして奥様は、何事もなかったように仕事の話に戻っていった。
そのあと、面白くなさそうにこちらを見ていた若い男が近づいてきた。
「エルザ様の夫ともなれば、さぞ大切にされているのでしょうね」
声は甘い。だが目は笑っていない。
「結婚式には手袋が代理だったそうですが」
また、その話か。
私は微笑んだ。夫らしく。慎ましく。
「奥様はご多忙ですから」
「それでも奥様の色を着せてもらえるなら、十分では?」
「……はい」
その男が一歩、私の前へ踏み出した。
気づいた時には、その靴先が私の足に引っかかっていた。
私はつまずき、誰かの持っていた杯が、まるで最初からそうするために用意されていたように傾いた。
赤ワインが、頭から降ってきた。
髪から、額から、襟元から、赤い雫が落ちる。青い礼服に、濃い染みが広がった。
「まあ、大変」
「足元にはお気をつけになりませんと」
「せっかくのエルザ様のお色が、真っ赤になってしまわれましたわね」
声は心配の形をしているのに、目が笑っている。
私は口を開いた。怒るべきだ。そう思った。
だが出てきたのは、情けないほど穏やかな声だった。
「少し、足元が悪かったようです」
その時だった。
「ずいぶん都合よく転んだのですね」
冷たい声が落ちた。
奥様だった。
その場の空気が、すっと凍る。
「エルザ様、これはリオネル様が足を滑らせて」
「あなたの足は、ずいぶん遠くまで伸びるのですね」
男の顔色が変わった。
「偶然でよかったですわ」
奥様は濡れた私の袖を指先でつまんだ。
「もし万が一、故意だったなら、私の夫を侮辱したことになりますもの」
また、助けてくださった。
私が困っている時、奥様はいつもすぐに気づいてくださる。さっきも、今も。
胸が鳴った。奥様が、私のために怒ってくださっている。
そう思った。
だが、奥様は続けた。
「私のものに、私の許可なく汚れをつけるなど、不愉快です」
分かっておりました。
私ではなく、やはり所有物の話だった。
けれど、ときめきが消えない。私の気持ちは、どうやらワインよりも簡単に染まるらしい。
「こちらへ」
奥様はそう言って、私の手首を取った。
濡れた礼服のまま庭園に立ち尽くしていた私は、そのまま控え室へ連れていかれた。
侍女に命じて替えの服を用意させると、奥様は自ら布を取り、私の髪についたワインを拭った。
「動かない」
「は、はい」
奥様の指が、私の髪に触れている。濡れた前髪を上げられ、頬に流れた雫を拭われる。
近い。
近すぎる。
心臓が、勝手に騒ぎ出した。
「着替えますよ」
「自分でできます」
奥様は聞かなかったように、私の襟元へ手を伸ばした。
私は反射的に、その手を押さえそうになった。
「リオネル」
低い声で名を呼ばれ、指先が止まる。
「何を今さら恥ずかしがっているのです。あなたは私の夫でしょう。何も構わないではありませんか」
構う。
私は大いに構う。
夜ならともかく、ここは明るい控え室である。
だが、奥様はそんな私の動揺など意に介さず、濡れた上着の留め具を外した。
ひとつ。
ふたつ。
上着が肩から落ちる。
次に、奥様の指がシャツの一番上のボタンにかかった。
指先が喉元に触れた瞬間、私は息を止めた。
この世界の夫マインドは、肌を見せることにやたらと初心である。
胸元が少し開いただけで、反射的に隠したくなる。
私は思わず、手で襟元を押さえた。
「何をしているのです?」
「いえ、その」
「濡れたままでは風邪をひきます」
「ですが」
「じっとしていなさい」
命令された。命令されたのに、胸が跳ねた。
もう本当に駄目かもしれない。
奥様の指が、またボタンにかかる。ひとつ。ふたつ。
外されるたびに、私はどこを見ればいいのか分からなくなった。天井を見る。壁を見る。最後に奥様の顔を見てしまい、慌てて目を逸らした。
「顔が赤い」
「ワインのせいです」
「浴びただけでしょう」
「はい」
濡れた礼服を脱がされ、新しいシャツを着せられる。
奥様の手つきは、少々乱暴だった。けれど、濡れた髪を拭う時だけは、少しだけ丁寧だった。
それが余計にいけなかった。
「ありがとうございます」
自分でも驚くほど、ほわりとした声が出た。
奥様が一瞬、目を止める。
「……あなた、本当に酒に弱いのですね」
「飲んでいません」
「浴びただけでその顔になるなら、同じことです」
奥様は私の頬に残ったワインを拭った。
「今後、他人の前で酒を飲むのは禁止します」
「そこまでですか」
「そこまでです」
その言い方があまりにきっぱりしていて、胸が鳴った。
心配してくださっている。そう思った。そう思ってしまった。
「それから」
奥様は濡れた布を卓上に置き、私をまっすぐ見た。
「嫌なことをされたなら、言いなさい。笑って誤魔化す必要はありません。あなたが黙っていると、私が気づくのに手間がかかります」
嬉しかった。
情けないほど嬉しかった。
その瞬間だけは、ワインを浴びたことも、笑われたことも、少しだけ報われた気がした。
けれど奥様は続けた。
「あなたは私の所有物なのですから。私の許可なく、他人に汚されてよいものではありません」
その言葉を聞いた瞬間、今度こそ、はっきり嫌だと思った。
優しい言葉の形をしていた。
けれど、やっぱりそれは愛ではなかった。
私は、奥様の家に置かれたいのではない。
奥様のものとして守られたいのでもない。
奥様の心が欲しいのだ。
そう気づいた瞬間、自分でも呆れた。
なんと贅沢な夫だろう。衣食住どころか、妻の心まで欲しがっている。
けれど、欲しかった。どうしようもなく、欲しかった。
その夜、奥様に呼ばれた。
いつもより落ち込んでいることに、気づかれたのかもしれない。
「不満があるなら言いなさい。宝石ですか? 服ですか? 部屋を替えますか?」
聞くつもりはなかった。
それなのに、口が先に動いた。
「奥様は」
「何です」
「アルノー様を、想っていらっしゃるのですか」
言ってから、血の気が引いた。
奥様はしばらく黙って私を見た。怒るかと思った。だが、彼女は低く息を吐いただけだった。
「男の嫉妬は見苦しいですよ」
その一言で、胸が刺されたように痛んだ。
「……申し訳ありません」
「アルノーは仕事相手です。それ以上でも、それ以下でもありません」
それなら、よかった。
そう思った自分が、さらに情けなかった。
「私は」
声が震えた。
「宝石もいりません」
奥様が眉をひそめる。
「服もいりません」
言ってから、少しだけ考えた。
「いえ、服は少しいります。裸では困るので」
「何の話です?」
「ですが、そういうことではありません」
「では何が」
「お金も、立派な部屋も、何もいりません」
涙が落ちた。
今度は拭わなかった。
「一生を共に過ごすのに、愛のない生活なんて耐えられません」
奥様が初めて黙った。
「私は、置物ではなく」
喉が詰まる。
「飾り物でもなく」
声が震える。
「あなたの所有物でもなく」
私は奥様の足元に膝をついた。
「一人の人間として、愛されたいのです」
みっともない。
殿方の涙は見苦しい。そう言われても、もう止まらなかった。
「どうか」
私は縋るように言った。
「どうか、私を愛してください」
その瞬間。
世界が反転した。
床も、天井も、奥様の青い瞳も、硬いパンも、くず野菜のスープも、すべてが砕ける。
知っていたはずの常識が、音もなく剥がれ落ちた。
男が嫁ぐ世界。妻の色を身につける夫。夫用の服装。離縁された男の行き場。
それらが急に、遠い悪夢のようになった。
代わりに、私は思い出した。
ここでは、私が妻を迎える側なのだ。ここでは、私があの言葉を言う側だったのだ。
「君に、事前に伝えておかなければならないことがある」
私は、そこに戻っていた。
結婚式を終えた夜。開きかけた自分の口。妻となったばかりのエルザ。
言おうとしていた言葉を思い出して、背筋が冷えた。
君を愛することはない。
そんな非道なことを、私は言うつもりだったのか。
目の前にいるエルザ・レーヴェン伯爵令嬢は、反転世界の奥様と同じ顔、同じ声、同じ青い瞳、同じ名前だった。
けれど今の彼女は、私を迎える女侯爵ではない。私の家へ嫁いできた、私の妻だった。
私は椅子を蹴るように立ち上がった。
「リオネル様?」
次の瞬間、私は彼女の足元に膝をついていた。
片手で彼女の手を取り、もう片方の手で、ほとんど縋るようにドレスの裾を掴む。
「どうか」
声が震えた。
「どうか、私を愛してください」
エルザは目を見開いた。
「……どうされましたの?」
「宝石も服もお金もいりません。硬くないパンと、味のするスープがあれば十分です。ですから、どうか、私を愛してください」
「あの、リオネル様」
「夫として、精一杯慎ましくいたします。壁の花もやります。焼き菓子も食べます。嫉妬も、できれば見苦しくない範囲に抑えます」
「落ち着いてくださいませ」
「ですが、どうか、結婚式には来てください」
「もう無事に済みました」
「初夜に規約だけ読み上げて帰らないでください」
「そんなこと、いたしませんよ」
「愛人とステークホルダーの話をしないでください」
「愛人?」
「アルノーという名の男とは関わらないでください」
「存じ上げませんけれど」
「硬いパンと、くず野菜のスープだけを出さないでください」
「出しません」
「灰まみれのドアマットと間違えないでください」
「間違えません」
「豆を分けさせないでください」
「分けさせません」
「私を、焼き菓子を食べるだけの壁の花にしないでください」
「……いたしません」
エルザは少し困ったように私を見た。
けれど彼女は、私の手を振り払わずに言った。
「まず、お立ちください。床は冷えます」
その言葉に、私はようやく息をついた。
戻ったのだ。本当に戻ったのだ。
硬いパンも、くず野菜のスープも、壁際の焼き菓子もない。
よかった。よかった。戻った。
そう思った時、彼女の視線が私の瞳を見つめた。
「泣いていらっしゃるのですか?」
私は答えられなかった。
エルザは、知ってか知らずか、穏やかに微笑んだ。
「リオネル様の泣き顔は、綺麗ですね」
その右手が、すっと伸びる。
白い指が私の顎にかかった。くい、と上げられる。
息が止まった。
戻った。戻ったはずだ。
それなのに、その仕草だけが、あまりにあちらの奥様に似ていた。
「その顔は、私の前だけにしてくださいまし」
私は彼女の左手を、さらに丁寧に握り直した。
夢だったのか。罰だったのか。それとも本当に、どこかの世界だったのか。
分からない。
けれど、ひとつだけ決めた。
この人を大事にしよう。
まずは、硬くないパンから始めよう。




