第4話 手遅れ。さようなら無能殿下、私は紙の海で生きていきます。
その日の朝、王国は文字通り「紙上の楼閣」であったことを証明した。
太陽が昇ると同時に、王宮に保管されていた数万枚の公文書——土地の所有証明書、爵位授与証、軍への出動命令書、そして近隣諸国との不可侵条約——そのすべてが、まるで春の雪解けのように、ドロドロの粘液となって床に滴り落ちたのだ。
法的な根拠を失った王室は、ただの「豪華な服を着た不法占拠者」に成り下がった。
一方で、私が身を寄せる古文書修復ギルドの地下室には、朝日よりも眩しい「悦び」が満ちあふれていた。
「ああ……っ、この裏面のザラつき……。指先に刻まれる、この繊細な細胞の凹凸……。これこそが、千年の時を超えて私を呼んでいた、真実の鼓動なのね……っ!」
私は、修復を終えたばかりの古代聖典を、愛おしそうに全身で抱きしめていた。
人肌に温まった羊皮紙が、私の体温を吸い込み、微かな獣の、しかし神聖な香りを放つ。
その香りを肺の奥深くまで吸い込み、私は何度目かの絶頂を噛み締めていた。
「エルナ……。すまないが、また『例のゴミ』が入り口に溜まっているぞ」
ギルドマスターのバルトロさんが、心底嫌そうに鼻を押さえながらやってきた。
彼の指差す先、ギルドの重厚な門扉の向こう側には、ボロ布のような服を纏い、泥にまみれた集団が土下座をしていた。
中心にいるのは、かつての第一王子、レオナルド殿下だ。
昨日までの輝く金髪は見る影もなく、ストレスのあまり十円ハゲが三つもできている。
「エルナ! エルナ・フォートランド! 頼む、出てきてくれ! この通りだ!」
レオナルドの声は掠れ、涙に濡れていた。
私は、抱きしめていた愛しの羊皮紙に「ちょっと待っててね」とキスをしてから、しぶしぶと地上へ向かった。
もちろん、羊皮紙を愛でるための指先を汚さないよう、特製の絹手袋を装着して。
「あら。隣国の軍隊に追い出されるまで、あと三十分くらいじゃなかったかしら? そんなところで泥遊びをしていてよろしいの?」
私が門の隙間から顔を出すと、レオナルドは縋り付くように地面を這い寄ってきた。
「頼む! この『王位継承正当性証明書』を直してくれ! これさえあれば、軍を動かせる! 帝国を追い払えるんだ! 君なら、君のその……変態的な指先なら、修復できるだろう!?」
彼が差し出したのは、もはや原型を留めていない、茶褐色のベタベタした塊だった。
私は一瞥すらしたくなかったが、職業病が勝り、一瞬だけ鼻をクンと鳴らした。
「……お断りします。その汚物を私の視界に入れないで。鼻が腐りそうだわ」
「な、なんだと……!? これは国宝なんだぞ!」
「国宝? 笑わせないで。それはただの『パルプの成れの果て』よ」
私は、手袋越しにその塊を指差し、冷酷に告げた。
「いいですか、殿下。それは元々、低質なパピルスの繊維に、安物の羊の脂を塗りたくって『羊皮紙風』に見せかけただけの偽造品です。湿気を吸えば、そうやってただの生ゴミに戻る。……そんな不浄なものに私の指が触れたら、明日から最高級のケラチンを感じ取れなくなってしまうわ」
「な、偽造……? まさか、建国以来の正当な書類だぞ!?」
「鑑定眼のない王家が、代々『偽物』を家宝として崇めていた。……それだけの話です。あはは! 滑稽ね、偽物の紙に跪いて、偽物の権力を振りかざしていたなんて!」
私が高らかに笑うと、背後に控えていた騎士たちも絶望に崩れ落ちた。
彼らが信じていた「伝統」も「法」も、すべては紙の質を見抜けない無能さが生んだ幻想だったのだ。
「そんな……。じゃあ、我が国は……。僕の地位は、どうなるんだ……」
「消えるのよ。煙のように。文字通りね」
私は、懐から一枚の「本物」を取り出した。
それは、今朝がた私が修復を完了させた、古代の土地譲渡契約書。
「見て。この神々しいまでの透け感。この紙は、自分を愛してくれる持ち主を、自ら選ぶの。……そしてたった今、この土地の所有権は、この私——古文書修復ギルドの首席鑑定官、エルナ・フォートランドに移行されたわ」
「なっ……何を言っている!?」
「この土地の古い地権は、実は『最も優れた鑑定眼を持つ者』に委ねられるという特約があったのよ。羊皮紙の繊維の中に、極小の文字で、愛を込めて刻まれていたわ。……あなたたちには、一生かかっても見つけられなかったでしょうね」
私が契約書にそっと唇を寄せると、紙が柔らかい光を放った。
それは、正当な持ち主を認めた証。
「というわけで、このギルド周辺の土地一帯は、私の私有地です。不法侵入者は、今すぐ出て行ってくださるかしら? あなたのその、脂ぎった不潔な肌が私の地面(土壌)に触れるだけで、地中の栄養バランスが崩れて、将来的に羊の餌の質が悪くなるわ」
「エ、エルナ……っ! 頼む、僕が悪かった! 不潔なんて言わない! 君の指先は世界一美しい! だから……っ!」
「衛兵、つまみ出しなさい」
私が合図を出すと、ギルドが雇った最強の「紙マニア」な傭兵たちが現れた。
彼らはレオナルドたちを文字通りゴミのように放り投げ、門を固く閉ざした。
遠くから「ああっ! 帝国の兵士が来た!」「待ってくれ、僕は王子だ! うわあああ!」という悲鳴が聞こえてきたが、私は耳を塞いだ。
そんな騒音、羊皮紙が呼吸する繊細な音に比べれば、ただの雑音だ。
「……ふぅ。ようやく静かになったわね」
私は、再び地下室へと戻った。
そこには、私が守るべき「愛しい子たち」が、静かに、優雅に、私の帰りを待っている。
バルトロさんが、感銘を受けたように私を見つめていた。
「エルナ、お前は……。この国を救うのではなく、自分だけの『紙の帝国』を築くことを選んだのだな」
「救う価値のあるものなんて、ここには『皮』しかありませんもの」
私は、作業台の上の羊皮紙に顔を寄せ、その冷たくもしなやかな感触に溺れた。
「ああ……。見て、バルトロさん。この子のこの……左上の、わずかな縮れ。これは、私の体温を欲しがっているサインだわ。……いいのよ、もう大丈夫。あの無能な男たちは、もう二度とあなたたちを汚さない。これからは、私と、私と同じようにあなたたちを心から愛する変態たちだけで、永遠に愛でてあげるから……っ!」
私は、恍惚とした表情で羊皮紙をなめ回すように見つめた。
指先から伝わる、最高級の、純度百パーセントの快楽。
翌日。
王国は正式に滅亡し、隣国の支配下に入った。
けれど、新しくやってきた帝国の皇帝は、賢明だった。
彼は私の前に跪き、こう言ったのだ。
『エルナ殿。どうか、我が国のすべての公文書を、あなたのその「神の指先」で管理していただきたい。報酬は、帝国の全予算の半分と、世界中から集めた最高級の羊皮紙だ』
私は、満面の笑みで答えた。
「よろしいでしょう。ただし条件が一つ。……私が仕事をしている間、一言も喋らず、私の『愛撫の音』だけを聞いていること。いいですね?」
こうして、私は「羊皮紙の聖女」として、帝国の裏の支配者となった。
かつての王子が、帝国の家畜小屋で「羊の世話」という名の、一生消えない屈辱に塗れた刑罰を受けているという報告を受けたが、私は鼻で笑った。
彼には、ちょうどいい役目じゃない。
いつか、彼が世話をした羊の皮が、私の元へ届くかもしれないわ。
その時、もし質が悪ければ……。
今度は、彼自身の『皮』を鑑定してあげてもいいかもしれないわね?
「あはっ……あはははは! 冗談よ。人間の皮なんて、ガサガサで興味ないわ!」
私は、今日も最高の羊皮紙を頬に寄せ、世界一幸せな吐息を漏らす。
紙の香りに包まれて、私の「フェチの宴」は、永遠に続いていく。
もし同系統がお好きなら、女主人公×異世界の完結作もあります:
『全肯定未亡人は今日も可愛い子を甘やかす』(N3385LM)




