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第3話 詰み。「この国、明日にはなくなりますね」


「……あはっ、あはははは! 見て、バルトロさん! この子の『裏面』! なんて官能的な起毛ケバ立ちなの! まるで早朝の霧に濡れた、産まれたての仔羊の産毛をなぞっているみたい……っ!」


 古文書修復ギルドの地下作業室。

 私は今、人生で最高の「絶頂」を迎えていた。


 目の前にあるのは、千年前の古代王朝で使われていたとされる、伝説の『極薄半透明羊皮紙』。

 あまりに薄く、あまりに繊細。

 光に透かせば、向こう側の景色が真珠色に輝いて見える。

 そして何より、その肌触りだ。


「しっとりしているのに、指を離す瞬間にだけ、かすかな『粘り』を感じさせる……。これは、なめし工程で特殊な植物性オイルを、それこそ何百回と、愛を込めて刷り込まないと出せない質感よ。ああ、もう……。私、この紙になら、魂を吸い取られてもいい……っ!」


 私は作業台の上に広げられたその「至宝」に、ゆっくりと指先を滑らせる。

 指紋の溝一つ一つが、千年前の職人の執念を拾い上げていく。

 その悦びに、私の背筋にはゾクゾクとした電流が走り、頬は朱に染まり、吐息は熱を帯びていく。


「エルナ、落ち着け。鼻血が出ているぞ。あと、その……よだれを垂らすな。せっかくの国宝が台無しになる」


 隣でバルトロさんが呆れたように言ったが、そんなの耳に入らない。


「台無し? まさか! この子は私の愛(水分)を求めているのよ! ほら、見てください、この端の方……。少しだけ乾燥して、寂しそうに反り返っているわ。今すぐ、私の最高級保湿オイル(自前)を馴染ませてあげないと……っ!」


 私は懐から、鑑定官時代に自作した「羊皮紙専用・潤滑美容液」を取り出した。

 これを指先に薄く伸ばし、慈しむように、優しく、円を描くようにマッサージを施す。

 すると、乾燥して強張っていた皮が、私の体温とオイルに反応して、ふわりと柔らかくほぐれていく。


「ああ……いい子ね。気持ちいい? そうなのね、もっと欲しがっているのね……。ふふ、遠慮しなくていいのよ。今日は朝まで、あなたの繊維の奥まで愛し抜いてあげるから……っ!」


 そんな、はたから見れば完全に「アウト」な光景が繰り広げられていた、その時だった。


 バァァァン!!


 地下室の重い扉が、乱暴に蹴破られた。


「エルナ・フォートランド! そこにいるのは分かっているぞ!」


 現れたのは、銀色に輝く鎧を纏った王宮騎士団の一団。

 中央で肩を荒くしているのは、昨日私を「変態」呼ばわりして追い出した、レオナルド殿下の第一側近だ。


 私は指先を羊皮紙の「秘部(繊維の密集地帯)」に添えたまま、不機嫌そうに振り返った。


「……何かしら。今、いいところなんですけど。この子(紙)がようやく心を開きかけているのに、乱暴に踏み込まないでくださる?」


「黙れ! 非常事態だ! 殿下の命により、貴様を直ちに王宮へ連行する!」


 側近の男は、顔を引き攣らせながら叫んだ。

 彼の背後からは、さらに数名の文官たちが、真っ青な顔をして雪崩れ込んでくる。

 その手には、ボロボロに崩れ、黒いシミが広がった「かつての重要書類」たちが握られていた。


「これを見ろ! 貴様が言った通りだ! 昨日受理した条約書が、今朝になって全て『真っ白』になった! それどころか、保管庫にあった他の契約書まで、次々と腐食し始めているんだ!」


「……あら。意外と早かったわね」


 私は鼻を鳴らし、再び目の前の羊皮紙のテクスチャに意識を戻した。


「当然ですよ。あの偽物は、表面のコーティング剤に『時間差で揮発する腐食性魔法薬』が練り込まれていましたから。しかも、隣り合う紙の繊維を媒介にして、周囲の羊皮紙まで『汚染』するタイプ。一度広まれば、もう止まりませんよ」


「な、なんだと……!? では、どうすれば治るんだ!」


「治りません。だって、ベースの皮そのものが、腐った牛皮なんですから。あ、もしかして、あのケビンさんとかいう鑑定士の『魔道具』で、どうにかできると思ってらっしゃる?」


 私がクスクスと笑うと、文官の一人が泣き崩れた。


「ケビン様は……っ! 『正常です! これは羊皮紙が自己進化しているんです!』と叫びながら、今朝、窓から逃亡しました……っ!」


「あはは! 自己進化って、素敵な感性ね! 皮が進化して空気に溶けるなんて、詩的じゃない!」


 私は笑いが止まらなかった。

 あんなに「最新科学だ」「魔道具だ」と威張っていた連中が、一枚の偽物の皮に国を滅ぼされようとしている。


「笑っている場合か! 今、港では隣国の艦隊が『契約書が有効だ』と言い張って、王都の占領を開始しようとしているんだ! 法的根拠となる書類が消失した今、我が国は対抗する手段がない! 今すぐ、今すぐ王宮に来て、書類を修復しろ!」


 側近が私の腕を掴もうと手を伸ばす。

 だがその瞬間、私は手近にあった鑑定用の鋭いピンセットを、彼の鼻先に突きつけた。


「——その汚い手で、私に触れないで。それと、私の愛する羊皮紙たちに、あなたの殺気立った吐息をかけないでもらえるかしら? 質が変わってしまうわ」


 私の瞳に宿った、冷徹で狂気じみた光に、歴戦の騎士であるはずの彼は気圧されて足を止めた。


「いいですか。私はもう、王宮の人間ではありません。クビになったんですよ? 『非科学的で不潔な変態』と言われてね」


「それは……殿下も、その、言い過ぎたと反省されておられる……っ! 報酬は望むままだ! 爵位でも、金でも!」


「金? 爵位?」


 私は、自分の指先に絡みつく、千年前の羊皮紙の「しっとりとした重み」を愛おしそうに見つめた。


「そんなものより、今、私の目の前にあるこの『ケラチンの宝石』の方が、一万倍価値があるわ。この子は、私を求めている。私の指先から伝わるアブラを、一滴残らず吸い込みたがっているのよ。……それ以外のことに、私の貴重な一分一秒を割くなんて、羊に対する冒涜だわ」


「貴様……っ! 一国の存亡よりも、その汚い皮の方が大事だというのか!」


「ええ、もちろん」


 私は、側近の言葉を鼻で笑い飛ばした。


「国なんて、明日には別の誰かが勝手に作りますよ。でも、この『千年前の職人の奇跡』は、一度失われたら二度と戻らない。私にとっての正義は、常に『皮の質』にしかないんです」


 私は作業台の上の羊皮紙を愛おしそうに抱き上げた。

 そして、ひざまずいて震えている文官たちを見下ろした。


「さようなら。明日には、王宮は隣国のものになっているんでしょうね。契約書が全部消えたなら、王族の資産も、土地の所有権も、全部パァ。文字通り、着の身着のままで追い出されるわけだ……。あら、素敵じゃない! 裸一貫、羊皮紙(皮)の気持ちが少しは分かるようになるかもしれないわよ?」


「う、うわあああああ!!」


 絶望した騎士たちが、半狂乱になって私を捕らえようとした。

 だが、その前にバルトロさんが、ギルド秘伝の「防音魔法」と「認識阻害魔法」を起動した。


「悪いが、ここはギルドの治外法権だ。王族といえど、職人の『仕事』を邪魔することは許されん。……帰れ、愚か者ども。お前たちが捨てたのは、ただの鑑定士ではない。この国の『屋台骨』そのものだったのだよ」


 扉が魔法の力で閉ざされ、地下室に再び静寂が戻る。


 私は、もう彼らの叫び声すら聞こえなくなった部屋で、再び羊皮紙に顔を寄せた。


「ふふ……邪魔者は消えたわ。ねぇ、続きをしましょうか……。次は、あなたのその、少しだけ毛穴が目立つ『腰』の部分。そこに、私の特製エッセンスをたっぷりと流し込んであげる……っ!」


 私の指が、再び背徳的なリズムで動き出す。


 王宮が明日、物理的に消滅しようとしている。

 その事実すら、私の脳内では「乾燥したパピルス」程度の重要性しかなかった。


「ああ……っ、生きててよかった……! 千年前のあなたと、今、一つになれている気がするわ……っ!」


 狂ったような歓喜の叫びが、薄暗い地下室に響き渡る。

 その頃、王宮の玉座の間では、レオナルド殿下が「消えていく権利書」を前に、泡を吹いて倒れていた。


 国の終わりまで、あと二十四時間。

 そして、私の「フェチのうたげ」が終わるまでも、あと二十四時間。


 ……もちろん、私は後者の方が、圧倒的に大切なのだった。

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