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第2話 新生活はパラダイス。一方、王宮には不穏な影。


 その場所は、私にとっての「聖域サンクチュアリ」だった。


 王宮から無情にも放り出された翌日。私が這々の体で辿り着いたのは、街の外れにある重厚な石造りの建物——「古文書修復ギルド」の扉前だった。

 そこから漏れ出てくる空気に、私は思わず膝から崩れ落ちそうになった。


「はぁ……はぁ……っ! なんて、なんて濃密な芳香かおりなの……っ!」


 普通の人間なら「埃っぽい獣の匂い」と顔を顰めるだろう。

 けれど、私にとっては違う。

 数百年の時を経て熟成された羊の脂、保存用のミツロウ、なめし剤のタンニン、そして良質なインクが醸し出す、最高級のヴィンテージ・アロマ。


 私は、扉の木目に鼻を押し付け、深呼吸を繰り返した。


「これよ……これなの。王宮の、あの消毒液臭い小綺麗な書庫とは格が違うわ。ここには『生命いのち』が眠っている。生きて、呼吸して、私を待っている羊皮紙たちが……っ!」


「……おい、朝っぱらから扉の匂いを嗅いで悶絶している不審者は誰だ」


 ギギィ、と重い扉が開いた。

 現れたのは、片目にモノクルを嵌めた白髪混じりの老人だった。この道五十年のベテラン、ギルドマスターのバルトロさんだ。


「あ、あわわ……。昨日、募集広告を見て伺いました、エルナ・フォートランドです!」


「ほう、元王宮鑑定官の……。噂は聞いているぞ。紙への愛が強すぎて、書類に頬ずりをしては公文書を汚損しようとする、狂った鑑定士がいるとな」


「汚損じゃありません、愛撫です!」


 私が食い気味に言い返すと、バルトロさんは少しだけ目を見開き、それから「フッ」と不敵な笑みを漏らした。


「気に入った。その狂気、うちでは『才能』と呼ぶ。……ついてこい、新入り。お前に、これを見せてやろう」


 案内されたのは、地下最深部にある、徹底した温度と湿度管理がなされた特別収蔵庫だった。

 バルトロさんが棚から恭しく取り出したのは、一枚の、黒ずんだ革の塊。


「これは……まさか」


「ああ。五百年前に絶滅したと言われる『神山羊シルヴァン・ゴート』の原皮を用いた、伝説の聖典の一部だ。触れることすら許されない国宝級だが……修復が必要でな。鑑定してみろ」


 私は、震える指先をその皮へと伸ばした。

 指が触れる直前、私の全身に電気が走った。

 触れていないのに、指先の細胞がその「質」を感じ取って歓喜に震えている。


「あ……。あああ……っ!」


 我慢できなかった。

 私は、手袋を脱ぎ捨て、むき出しの指先でその漆黒の羊皮紙をなぞった。


「な、なんてこと……。この、吸い付くような……けれど、指を押し返すような、圧倒的な弾力。五百年前のものなのに、まだこの子は生きているわ。まるで、森の中を駆け抜ける若い羊の、引き締まった太ももの筋肉をそのまま触っているような……官能的な悦び……っ!」


 私は、その羊皮紙に顔を埋めた。

 頬を滑らせる。

 ざらりとした銀面の粒子が、私の皮膚を愛撫する。


「ああ……っ、この感触。このなめしの深さ。これは、普通のなめし剤じゃないわね……? おそらく、失われた古代の鉱物塩を使っているわ。だから、五百年経っても繊維がこんなに瑞々しいのね……。ねぇ、あなた。寂しかったのね? ずっと暗いところで。大丈夫よ、私が今、あなたの細胞一つ一つを解きほぐしてあげるから……っ!」


 ハァハァと荒い息を吐きながら、私は羊皮紙に耳を押し当てた。

 繊維が呼吸する音が聞こえる(気がする)。


「……完璧だ。まさか、一瞬で鉱物なめしであることを見抜くとはな。しかも、その……変態的なまでの情熱。合格だ、エルナ。今日からお前が、この部屋のあるじだ」


「は、はい! 一生、ここで暮らします! ここを、私の墓場にしてください……っ!」


 こうして、私は最高の職場を手に入れた。

 王宮からの追放? そんなこと、もはや「昨日食べた安いパンの味」くらいにしか覚えていない。

 私は今、五百年前のイケメン羊(の皮)と、蜜月の時間を過ごしているのだから。


 ——しかし、その頃。

 私が捨てた(捨てられた)王宮では、じわじわと「破滅」の足音が響き始めていた。


「おい、ケビン! これは一体どういうことだ!」


 第一王子、レオナルドの怒声が豪華な執務室に響き渡った。

 彼の前には、昨日私が「偽物だ」と断言した『隣国との友好条約改定案』が置かれている。

 だが、その様子がおかしい。


 昨日までは、威厳ある金色のインクで書かれていたはずの文字が——。

 まるで、水に濡れたかのように、じわじわと滲み出し、消えかかっていたのだ。


「そんな、馬鹿な……っ! 『ルミナス・アイ』は完璧に反応していました! 魔法的な署名は、確かに本物だったはずです!」


 ケビンが必死にレンズを覗き込むが、魔道具は虚しく「正常」を意味する緑色の光を放っている。

 しかし、現実は残酷だ。

 羊皮紙もどきの表面は、今やボロボロと剥がれ落ち、まるで古い角質が剥けるように、無惨な姿を晒していた。


「見てください、殿下! 文字が……文字が勝手に書き換わっています!」


 レオナルドが悲鳴に近い声を上げた。

 インクが滲んだ跡から、別の文字が浮き上がってきたのだ。


『……本契約を締結した瞬間、王国の関税権および軍事通行権のすべてを、帝国へと譲渡する。なお、本契約は解除不能とする……』


「なんだと!? こんな条項、昨日はなかったぞ!」


「これが……あいつが言っていたことか? 『質の悪い偽物は、持ち主の傲慢さに耐えきれずに自壊する』……」


 レオナルドの脳裏に、頬ずりをしながら警告していた、あの気味の悪い女の姿がよぎった。


 そう、この書類は「魔法的に偽造」されたものではなかった。

 「物理的に偽造」されたものだったのだ。


 表面に薄く、本物の羊皮紙から削り取った「本物の皮の膜」を貼り付け、そこに魔法的な署名を施す。

 魔道具は「表面」の情報を読み取り、本物と判定する。

 しかし、その下のベースとなっているのは、粗悪な薬品漬けの偽造紙だ。

 薬品が時間をかけて表面の「本物の皮」を腐食させ、本来の(帝国に都合のいい)文字を浮かび上がらせる——。


 エルナは、その「皮の厚みの不自然さ」と「薬品の腐食の予兆」を、指先の感触だけで見抜いていたのである。


「殿下、大変です! 帝国の特使が、すでに港に到着しました! 例の契約書に基づき、関税の徴収権を今すぐ寄越せと言っております!」


「くそっ、なんというタイミングだ! おい、ケビン! 今すぐあの契約書の文字を元に戻せ!」


「む、無理です! 紙そのものが崩壊し始めているので、魔法を定着させる『ベース』がありません! こんな……こんなこと、魔道具の理論にはなかった……っ!」


 ケビンは真っ青になり、ガタガタと震え始めた。

 魔法は万能ではない。

 魔法を載せる「物質」が死んでしまえば、どんな高位の魔法も意味をなさないのだ。


「……ま、待て。まだあいつがいるはずだ。あの変態女だ!」


 レオナルドは、縋るような思いで叫んだ。


「エルナを呼べ! あいつなら、指先で触るだけで、何が起きているかわかるはずだ! あいつにこの紙を修復させろ! 今すぐだ!」


「そ、それが……。エルナは昨日、殿下が命じられた通り、すでに王都を離れ……行き先も不明です……」


「なんだと……っ!?」


 レオナルドは、目の前のデスクを力任せに叩いた。

 その瞬間、デスクの上に置かれていた別の「重要書類」からも、パラパラと奇妙な粉が落ちた。


「……おい。おい、まさか、他の書類もか?」


 彼は、震える手で、棚に並んだ契約書を次々と手に取った。

 どれも、ケビンが「最新魔道具」で合格を出した、王国の中枢を支える重要文書ばかりだ。


 それらが今、エルナという「最後の守り手」を失ったことで、まるで呪いが解けたかのように、一斉に崩壊を始めていた。


 その頃、古文書修復ギルドの地下。


「ふふふ……。いいわ、いいわよ、あなた……。この繊維の毛羽立ち、最高に刺激的だわ……。もっと、もっと私にあなたを教えて……っ!」


 エルナは、王国の危機など露知らず。

 千年前の羊皮紙と、熱烈な「ディープ・コミュニケーション」に興じていた。


「ああ……っ、王宮を追い出されて本当によかった! こんなに素晴らしい子たちと、二十四時間一緒にいられるなんて……っ。私、今、世界で一番幸せだわ!」


 彼女の指先が、悦びに満ちて踊る。

 その背後で、王国の秩序が音を立てて崩れ去っているとは、夢にも思わずに。

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