第1話 【悲報】最推しの羊皮紙を愛でていたら、クビになりました。
「ああ……っ、最高……。なんて、なんて愛おしいの……っ!」
薄暗い王宮の地下書庫。
ひんやりとした空気の中で、私は恍惚とした吐息を漏らしていた。
私の指先にあるのは、一枚の古い羊皮紙だ。
建国初期に交わされたという、歴史的に極めて重要な平和条約の原本。
けれど、私にとってそんな「内容」はどうでもいい。
重要なのは、この「質」だ。
「見て、この繊維の密度。この羊はきっと、乾燥した北部の高地で育ったわね……。しかも、かなり若い雄の皮。なめし剤には……ああ、オークの樹皮と、隠し味に微量のハチミツが使われているわ。この、指を吸い付くような、けれど決してベタつかない、処女の肌のようなしなやかさ……っ!」
私は、その羊皮紙をそっと頬に寄せた。
ずり、ずり、と皮膚でその感触を確かめる。
冷たさが体温で温まり、わずかに獣の残り香と、百年以上の時を経た古いインクの香りが鼻腔をくすぐる。
「吸いたい……。この角の部分、少しだけ、舐めてもいいかしら……。いえ、だめよエルナ。それは鑑定官としての矜持が許さないわ。でも、この銀河のような毛穴の並び……っ。ああ、もう、たまらない……!」
私は羊皮紙を抱きしめ、背徳的な快楽に身を震わせていた。
傍から見れば、完全に事案である。
王宮の重要書類に対して、およそ正気とは思えない愛情を注ぐ女。
それが私、エルナ・フォートランドだ。
役職は、王宮文書管理室の首席鑑定官。
聞こえはいいけれど、実際は「紙フェチの変態」として、同僚からは白い目で見られている。
でも、いいの。
紙は裏切らない。
羊は死してなお、その皮に真実を刻み続ける。
文字なんて、後から人間が都合よく書き連ねただけの飾りに過ぎないのだから。
「おい、またやっているのか。その……気色悪い儀式を」
背後から、心底不快そうな声が響いた。
振り返ると、そこには豪華な刺繍の入った服を纏った、金髪の美男子が立っていた。
この国の第一王子、レオナルド殿下だ。
彼の隣には、鼻持ちならない笑みを浮かべた若い男が一人。
最近、王子の側近として取り入っている「魔道具鑑定士」のケビンとかいう男だった。
私は頬に羊皮紙をくっつけたまま、うっとりと答える。
「殿下、ご機嫌麗しゅう。この羊皮紙、最高ですよ。特にこの左下、三センチ四方のエリア。ここだけ、なめしの工程で職人が気合を入れたのが伝わってきます。指先に伝わる脈動が……」
「黙れ。不潔だ。その不浄な顔を、国の至宝から離せ」
レオナルド殿下は、ゴミを見るような目で私を見下した。
不浄?
心外ね。私は毎朝、羊皮紙を触るために、最高級のせっけんで十回は手を洗っているというのに。
「いいですか、エルナ。君のその『主観的で非科学的な鑑定』は、もう古いんだよ」
殿下は、傍らのケビンを顎で示した。
ケビンは待ってましたとばかりに、何やら仰々しいレンズのついた魔道具を取り出す。
「これからは、この最新魔道具『ルミナス・アイ』の時代です。魔力の波長を読み取り、瞬時に真贋を判定する。君のように、紙の匂いを嗅いだり、頬ずりしたりする必要はないんですよ。ああ、想像するだけで吐き気がする」
「……魔道具、ですか」
私はようやく、羊皮紙を机に戻した。
名残惜しさに指先が震える。
最後にそっと小指でなぞると、羊皮紙が「行かないで」と泣いているような気がした。
「左様。もはや、君のような『変態鑑定官』は王宮には不要だ」
レオナルド殿下は、冷酷に告げた。
「エルナ・フォートランド。本日をもって、貴様を解雇する。直ちにこの書庫から立ち去れ。二度と王宮の敷地を踏むことは許さん」
「クビ……ですか?」
私は、呆然とした。
「そうだ。本来なら、重要書類への汚損行為で投獄してもいいところだが、これまでの功績に免じて、追放だけで済ませてやる。感謝しろ」
殿下の言葉に、ケビンがクスクスと下卑た笑い声を上げる。
「よかったですねぇ、エルナさん。これからは、外の安物パピルスでも愛でて暮らしてください。……ああ、もっとも、追放された鑑定官を雇う奇特な場所があればの話ですが」
私は、しばらく沈黙した。
頭の中を駆け巡るのは、これからの生活への不安……ではない。
(……この書庫にある、あの秘蔵の『幻の黒山羊皮の契約書』とも、お別れなの……? あの、ざらつきの中に秘められた、野生的な弾力……。それをもう、味わえないなんて……!)
絶望だ。
まさに世界の終わり。
私の人生の彩りが、今この瞬間に失われようとしている。
「……わかりました。お受けします」
私は深く頭を下げた。
反論しても無駄だ。殿下の目は、すでに私を人間として扱っていない。
「最後に、一つだけよろしいでしょうか」
「なんだ。命乞いなら聞かんぞ」
「いえ。殿下が今、お手に持たれているその『隣国との友好条約改定案』。それを少しだけ、見せていただけませんか?」
殿下は不審そうに眉をひそめたが、「これか」と、手にしていた羊皮紙を私の前に突き出した。
「ふん。最新の魔道具で『本物』と判定されたばかりの書類だ。君の汚い手が触れる前に、よく目に焼き付けておけ」
私は言われるまま、その羊皮紙に目をやった。
……触れるまでもない。
三メートル離れていても、その異常さは私の鼻と目が捉えていた。
「殿下。その羊皮紙……いえ、その『紙のようなもの』。今すぐ破棄したほうがよろしいですよ」
「なんだと?」
「それは羊の皮ではありません。安価な牛皮を薬品で限界まで薄く伸ばし、表面にそれっぽく毛穴のスタンプを押しただけの、悪質な偽物です。しかも、インクに含まれる鉄分と薬品が反応して、明日にはボロボロに崩れるでしょう」
私が淡々と告げると、書庫に一瞬の静寂が訪れた。
直後、ケビンが爆笑した。
「ひゃはははは! 何を言い出すかと思えば! 偽物だって? この『ルミナス・アイ』が完璧な真作判定を出した書類をか? 負け惜しみもいい加減にしてください!」
「そうだな。見苦しいぞ、エルナ」
殿下も冷ややかな笑みを浮かべる。
「ケビンの魔道具は、契約書に込められた『魔法的な署名』を検知しているんだ。表面の材質がどうこうという、君のオカルトな主張とは次元が違う」
「でも、その署名自体が、皮の繊維の中に巧妙に埋め込まれた偽造魔法だったら……?」
「黙れ! 衛兵! この女を連れ出せ!」
殿下の怒声が響き、屈強な衛兵たちが私の両脇を抱えた。
「ちょっと、離して! 触らないで! 私に触れていいのは、最高級の羊皮紙だけなのよ! あなたたちのその、ガサガサの軍手で私の感触を鈍らせないで……!」
私は抵抗したが、虚しくもそのまま引きずられていく。
書庫の入り口まで来たとき、私は最後にもう一度だけ叫んだ。
「いいですか! その契約書、明日には『真っ白』になりますからね! 質の悪い偽物は、持ち主の傲慢さに耐えきれずに自壊するんです! せめて、湿気のない場所に保管してくださいよ! あああああ、あの羊皮紙が、かわいそう……っ!」
「早く放り出せ!」
ドタン、という音とともに、私は王宮の裏門から放り出された。
石畳の上に転がった私は、汚れを払うことも忘れ、呆然と夜空を見上げた。
……クビになった。
最高の職場を、最高の羊皮紙たちを失った。
けれど。
「ふふ……ふふふふ……」
私は、握りしめていた右手の感触を思い出し、笑みを浮かべた。
追い出される直前、殿下から差し出されたあの「偽物」の端っこを、ほんの少しだけ、爪で引っ掻いて採取しておいたのだ。
「これ……やっぱり羊じゃない。この、化学薬品特有のツンとした刺激臭。そして、不自然に均一な厚み。……これを作った組織は、よほど王宮の鑑定眼をナメているわね」
偽造書類が王宮に紛れ込んでいる。
それも、最新の魔道具をすり抜ける巧妙な方法で。
おそらく、あのケビンという男もグルか、あるいは救いようのない無能だ。
あの書類が受理され、正式な契約として発効してしまえば……。
明日には、王宮の権利関係はメチャクチャになるだろう。
「まあ、私には関係ないことだけど」
私は立ち上がり、服についた埃をパンパンと叩いた。
「それよりも、今の私にはもっと重要な任務があるわ」
私は、懐から一枚の汚れたチラシを取り出した。
以前、街で見かけてこっそり保管しておいたものだ。
『求む、古文書修復員。当ギルドには、千年前の未鑑定羊皮紙が数千枚眠っています。触り放題。なめし放題。変態歓迎』
「……天国は、ここにあったのね」
私は期待に胸を膨らませ、夜の街へと駆け出した。
王宮が明日、偽造契約書一枚で乗っ取られることも知らずに。
私はただ、まだ見ぬ「最高の肌触り」を求めて、鼻をヒクつかせた。
「待っててね、千年前の羊さんたち……っ! 今、私が愛でに行ってあげるから!」
こうして、一人の変態鑑定官が王宮から消えた。
それが、王国崩壊へのカウントダウンだとは、まだ誰も気づいていなかった。




