悪役令嬢と呼ばれた私も、断罪された宰相も、何もしていない
本作は「悪役令嬢」「断罪」という、よくあるはずの舞台を借りながら、ざまぁでも復讐でもなく、“国が壊れる時の静けさ”と“生き延びた後の手触り”を描いた短編です。
誰かが明確に悪いわけではないのに、空気と都合だけで裁きが成立してしまう。そんな瞬間を、少し軽めの語り口で追いかけました。
断罪の場で落ちたのは二人――「悪役」と呼ばれた少女と、切られた宰相。
けれど本当に堕ちていったのは、彼らではなく王国の方でした。
静かな崩壊と、静かな再建。
よろしければ最後まで、お付き合いください。
大広間が眩しいのは、光のせいだけじゃない。人が「正しい顔」を作ろうとすると、だいたい照明が増える。なぜかこの国は、そういう時だけやたらと明るい。
王城の天井は高く、壁は白く、床は磨かれすぎていた。冬の光が床で跳ね返って、貴族たちの指輪や勲章まで無駄にきらきらする。祝祭みたいなのに、誰も本当に笑っていない。笑う代わりに、頷く。頷きが多い日ほど、ろくなことが起きない。
私は壇の前に立っていた。公爵令嬢、王太子の婚約者――だった。さっき「婚約破棄」の文書が読み上げられ、署名と印章が押された。紙が擦れる音が、やけに大きい。国が転ぶ時というのは、こんな小さな音から始まるのか、と変に納得してしまった。
王太子が一歩前へ出る。衣装は豪奢で、声はよく整えられている。息の吸い方と視線の配り方に、練習の跡が見えた。芝居が上手い人は、だいたい「真実」より「場」を上手く作る。
「公爵令嬢を、悪役令嬢として断罪する」
ざわりと空気が動く。風じゃない。人の気配が動いた音だ。誰かが「やっと」と息を吐き、誰かが小さく笑い、誰かが涙を拭くふりをした。ふりでもいいのだ。今は「そういう空気」が欲しいだけだから。
私は、何もしていない。
本当に、何も。聖女と呼ばれる少女を押したことも、悪口を言ったことも、毒を盛ったこともない。陰口すら言っていない。言っていないのだから、証拠がない。証拠がないから話が早い。そういう逆転が、この手の場ではよく起きる。
聖女は王太子の隣で泣いていた。泣き方まで綺麗だった。頬を伝う涙が光に拾われて、まるで「真実そのもの」みたいに見える。涙は便利だ。涙があると、言葉が省略できる。
「わ、私……怖かったんです」
聖女が震える声で言う。大広間の空気が柔らかくなる。柔らかい空気は、だいたい誰かを押し潰すために使われる。今日は私だ。
「彼女は……私の祈りを笑いました」 「彼女は……王太子殿下を操りました」 「彼女は……民を見下しました」
誰が言い出したかは、もう重要じゃない。発言者は空気の中に溶ける。残るのは「そういうことになった」という結論だけだ。結論が先で、理由は後から増える。
証人として、侍女が呼ばれた。彼女は泣きながら「見た」と言った。何を、とは言わない。言えないのではなく、言わなくても場が完成してしまうからだ。次に騎士が呼ばれ、「噂を聞いた」と言った。噂は、正義より早い。早いものは勝つ。
私は壇上の王の方を見る。王は黙っていた。これは王の裁きじゃない。王は空気に「許可」を出しているだけだ。許可を出せば責任は散る。責任が散れば、誰も責められない。誰も責められないというのは、だいたい一番ずるい。
その横に、宰相がいた。
三十代。異様に若い宰相。初めて見た時、私は「人事の冗談」かと思った。けれど彼は冗談ではなかった。財政、法、外交。面倒くさいものを全部抱えて、淡々と処理する人だった。誰に媚びず、誰に怒鳴られず、ただ「必要だから」という理由で国を回す。
彼は、何もしていない。
少なくとも、悪意で何かをしたことはない。やったのは帳簿を合わせ、条文を整え、戦を避け、税を集め、飢えを減らすこと。つまり国を国として保つこと。目立たないが、一番恨まれやすい役割だ。
王太子が声を張る。
「そして――宰相を罷免し、その地位と爵位を剥奪する」
大広間が一度だけ揺れた。私の断罪では揺れなかったのに、宰相の名で揺れる。人々は薄々分かっている。宰相が消えると国が困る。分かっているのに、それでも拍子木を鳴らす。祭りを止めたくないのだ。
「罪状は、聖女への不敬。王太子殿下への侮辱。民意に反して悪役令嬢を庇い立てし、王国の信仰を乱した」
民意。信仰。乱した。便利な言葉が三つ揃うと、だいたい刃物になる。中身が曖昧だから、誰でも握れる。誰でも握れるから、責任も薄い。
宰相が一歩前に出る。靴音が落ち着いていた。顔色一つ変えない。反論もしない。ただ、静かに一礼した。
「承りました」
それだけ。
反論できないのではない。反論しないのだ。反論すれば、この場は「正義の裁き」ではなく「政治の揉め事」になる。王太子の顔が曇り、聖女の涙が無効になり、貴族たちは居心地が悪くなり、民衆は理由を欲しがる。理由が出れば責任が生まれ、責任が生まれれば空気が死ぬ。
空気を殺すことは、この大広間では罪だ。
だから宰相は黙る。国を守るための黙り方で、結果として切られる。最もこの国らしい転落の仕方。
私は宰相の横顔を見る。彼の視線が一瞬だけ私に向いた。言葉はない。でも、視線だけで十分だった。
「終わりました」と言っている。 「始まりました」とも言っている。
この国では、その二つはだいたい同じ意味だ。
───
追放は驚くほど事務的だった。
荷物の制限。同行者の制限。馬車の手配。出国期限。泣く侍女に衛兵が冷たい声で指示を出す。涙はここでは役に立たない。大広間でしか通用しない。
廊下は長い。白い壁に掛けられた肖像画がこちらを見下ろしてくる。歴代の王族と宰相たち。立派な顔、立派な衣装、立派な目線。皆、自分の時代が永遠だと思っていた顔をしている。永遠は、だいたい書類の上にしかない。
門の前で宰相が待っていた。護衛は二人。護衛というより監視だ。国は最後まで律儀に「逃がしてやる」を演出する。追放は慈悲だと信じたいのだろう。
宰相が私に言う。
「馬車に」
命令じゃない。提案の形を取っている。礼儀が崩れないのが彼らしい。
私は馬車に乗る前に一度だけ振り返った。城は高く、塔は空を刺している。あれが刺さっている限り、この国は落ちないと子どもの頃は思っていた。
「お別れですか」
宰相の声が背中に届く。淡々としているのに、妙に優しい。
「確認です。あれが倒れる日が来るかどうか」
「来ます」
即答だった。
「城が?」
「城ではありません。中身です。空気が変わった時点で、支えは外れています」
怖いのは予言じゃない。断言だ。彼はもう数字と条文の計算で結論に出している。
「私たちがいなくても?」
「私たちがいないからです」
事務連絡みたいに言う。誇張でも自慢でもない。ただの結論。彼の強さで、弱さでもある。
馬車が動く。王都は思ったより普通だった。パン屋はパンを焼き、子どもは走り回り、兵士はあくびを噛み殺している。国が堕ちる瞬間というのは、こうして日常の顔のまま始まるらしい。
馬車の中で、宰相は膝に書類袋を置いた。追放される側が書類袋を持っているのが、もう彼らしい。
「それは?」
「控えです。契約、勅令、税制の写し、港の利権配分、軍の糧秣契約……」
私は目を瞬いた。
「なぜそんなものを」
「捨てると困る人が増えます。困る人が増えると暴れます。暴れると――帳簿が汚れます」
最後が分からないのに、妙に納得してしまう。
「怖くないのですか」
私が聞くと、宰相は窓の外を見たまま答えた。
「怖いです。ただ、怖がっても税率は下がりません」
相変わらずだ。感情を扱い切れない時、彼は税率に逃げる癖がある。でも今は、その癖がありがたい。彼の言葉は、私を現実に縛ってくれる。
「あなたは、何を望みますか」
宰相が私を見る。視線はまっすぐで、逃げ道がない。
「これからの話です。追放は終わりではありません」
私は窓の外を見る。畑、森、街道。国境という線は地図の上にしかないが、人の人生には確かに線が引かれる。
「生きたいです」
自分でも驚くほど、即答だった。
「良い」
宰相は小さく頷いた。
「それだけで十分です。後は私が、生活に落とし込みます」
生活に落とし込む。国家運営の言葉みたいで可笑しいのに、今はそれが救いだった。
───
隣国は、思ったより現実的だった。
城が高くない。門が厳めしくない。代わりに市場がうるさい。商人がうるさい。荷車がうるさい。子どもがうるさい。つまり生きている。
私たちは身分を隠した。私は「ミラ」。宰相は「レオン」。どこにでもいそうな名前で、どこにでもいない顔をしているのが難点だったが、隣国の人々は忙しい。噂より今日の売上が大事らしい。
最初の仕事は帳場だった。レオンが商会の会計補佐として雇われ、私はその手伝いをする。私は字を書くのは得意だった。公爵家の娘として役立つのは、こういう時だ。
「合いません」
私が帳簿を指すと、商会の主人が頭を抱えた。
「またか……誰だよ、数字を嫌ってるのは」
レオンが淡く言う。
「数字は嫌っても増えます」
主人は「怖い」と呟いた。私は少し笑った。レオンは褒め言葉だと思ったらしく、小さく満足げだった。
彼は淡々と整えた。無駄な支出を切り、仕入れ契約を見直し、倉庫の管理を整え、在庫のロスを減らした。三ヶ月で商会は目に見えて儲かり始めた。主人は泣いた。今度は喜びで。
「お前、何者だ」
「昔、少しだけ面倒くさい仕事を」
「面倒くさいの規模が違う……」
レオンは表情を変えない。彼にとって儲かることは喜びではなく、整合性の証明に近い。
私はその横で暮らしを足していった。台所を覚え、洗濯を覚え、隣国の言葉の癖を覚えた。パンは固いが噛むほど甘い。王国のパンは柔らかかったが、誰かの顔色の方が固かった。
夜、狭い部屋で私たちはよく話した。話すと言ってもレオンは多くを語らない。必要なことだけを端的に言う。その端的さが、私の頭の中の霧を少しずつ払っていった。
「追手は来ますか」
「低いです。彼らは面倒を嫌います」
「私たちを生かしておくのは、面倒では?」
「殺す方が面倒です。理由が要ります。民意が揺れます。噂が増えます。帳簿が汚れます」
また帳簿だ。私は思わず笑ってしまった。
「あなた、帳簿が好きすぎませんか」
「好きではありません。守っているだけです」
「守っている」
「崩れる時は、だいたい帳簿から崩れます」
その時は、まだ「崩れる」を自分たちの国に結びつける余裕がなかった。余裕がないのは、生活が始まったばかりだったからだ。食べて、寝て、働いて、明日の分を稼ぐ。その単純さが、どれだけ尊いかを知ったばかりだった。
でも、崩壊は来る。崩壊は必ず報せになって追いかけてくる。
───
最初の知らせは「噂」だった。隣国の酒場で商人たちが笑いながら話している。
「向こうの国、港の関税を急にいじったらしい」 「急に? あの国、関税って規則だらけじゃなかったか」 「規則を破ってでも聖女を守る、とか言ってるんだと」 「聖女って、あの涙の子か? 今は何でも聖女なんだな」
笑い話のように聞こえる。でも私の背中は冷えた。関税は国の血流だ。急にいじれば詰まる。詰まれば腐る。
レオンに伝えると、彼は淡く頷いただけだった。
「始まりです」
それからの知らせは、波のように来た。最初は噂、次に短い報告、次に正式な通知。段階が進むほど文章が短くなるのが怖い。短い文章は、説明ができない時に生まれる。
旧王国は、宰相の席を埋めた。埋めた人間は「顔が良い」人だった。演説が上手く、貴族に愛想が良く、何より聖女に丁寧だった。丁寧さは政治で最も誤解されやすい能力だ。
最初に出た勅令は、聞き心地がいい。
「聖女を中心とした新たな国づくり」 「民意に沿った改革」 「旧来の官僚主義を打破」
打破、という言葉は便利だ。壊すのは簡単で、作るのは地味だから。地味な作業は宰相がやっていた。その宰相がいないのに、打破だけが残った。
次に来たのは「人事」だった。
文官の大量更迭。 会計官の入れ替え。 港湾局の再編。 軍需契約の全面見直し。
見直し、という言葉も便利だ。見直すためには見て理解しなければならない。理解する時間は、たいてい誰も用意しない。
その結果、港が揺れた。
港は海じゃない。海は動く。止まるのは手続きだ。関税、検査、許可、賄賂、恐怖。そこに「新しい顔」が割り込むと、古い流れは詰まる。詰まると、船が来ない。船が来ないと物が来ない。物が来ないと、町が苛立つ。
物価が上がる。パンが薄くなる。市場の声が尖る。 尖った声は、次に「誰のせいか」を探し始める。
同時に、税が揺れた。
税は国の体温だ。徴税が緩むと、最初に困るのは軍だ。軍の糧秣が遅れる。給与が遅れる。遅れると、軍は「正義」ではなく「生存」で動き始める。
軍が割れた。
割れ方は、派手じゃない。最初は「配置換え」。次に「独自徴発」。最後に「勝手な検問」。検問が増えると物流が止まり、物流が止まると飢えが増える。飢えが増えると暴力が増える。
暴力が増えると、王国は「治安」という看板を貼り直そうとする。看板を貼り直す方法は、いつも同じだ。
責任を作る。
責任は、まず「旧宰相派」に向かった。宰相がいなくても、宰相の影は便利だから。次に「貴族の裏切り者」に向かった。裏切り者は常に必要だ。裏切り者がいると、自分は裏切っていないことになる。
そして最後に、責任は聖女へ向かった。
「聖女が本物ではなかった」 「聖女が民を欺いた」 「聖女が国を乱した」
あの大広間で便利だった涙が、今度は不便になった。涙は守るべきものから、責めやすいものへ変わる。空気が変わると、神聖も商品も同じ棚に置かれる。
聖女は消えた。逃げたのか、隠されたのか、殺されたのか。報告は曖昧で、それが一番嫌だった。曖昧な報告は、国が壊れている証拠だ。壊れている国は、正確な言葉を出せない。
レオンが言った。
「紙を増やして、責任を薄めています」
「責任を薄めると、何が起きますか」
「誰も責任を取らなくなります」 「すると?」 「現場が動かなくなります」 「すると?」 「暴力が動きます」
淡々とした説明が、やけに現実味を持って胸に刺さる。私は気づいた。彼が数字に逃げているんじゃない。数字に縋っているのだ。感情に食われないために。国が空気に食われないために。
旧王国の崩れ方は静かだった。だから余計に怖い。 税が揺れ、港が揺れ、物が止まり、軍が割れ、暴力が動き、責任が飛び交う。
崩壊は音を立てない。音を立てるのは、崩壊の上で踊っている人間だけだ。
───
その間に、私たちは隣国で根を張っていった。
レオンは商会を辞め、隣国の官庁に呼ばれた。呼んだのは若い官僚で、目がぎらぎらしていた。理想が服を着て歩いているみたいな人だ。
「あなたのような人が必要です。国を数字で救ってください」
レオンは淡々と返す。
「国は数字で救えません。救えるのは制度です。制度は数字で裏打ちできます」
官僚は一瞬黙り、勢いよく頷いた。
「つまり必要です!」
話が通じているようで通じていない。でも前に進む。隣国の政治は勢いがある。勢いがある国は失敗もするが修正も早い。
レオンは淡々と働き、淡々と成果を出した。税制が整い、港の手数料が見直され、道路維持費が安くなり、商人が増え、雇用が増え、町の灯りが増えた。
私は官庁の記録室で働くようになった。レオンの推薦だった。「彼女は嘘を書きません」と。褒め言葉かどうか分からない推薦だが、記録室の上司はそれを最高の賛辞として受け取った。
「嘘を書かないのは大事よ。うちは特にね」
上司は笑いながら言った。笑って言える国は、たぶん強い。
暮らしは忙しくて、でも少しずつ温かくなっていった。狭い部屋は、最初はただの箱だったのに、いつの間にか「帰る場所」になった。帰る場所がある、というのは、体の芯に灯りが入るみたいな感覚だった。
ある冬、私は熱を出した。大したことはない。働きすぎと乾燥だろう。だけどレオンは突然慌てる。淡々としている人間の慌て方は、少し面白い。
水、薬、毛布。全部が「手順」みたいに揃えられて、私は笑ってしまった。笑ったせいで咳が出て、レオンが眉をひそめる。
「体調が悪いのに笑うのは非効率です」
「効率の問題ではありません」
「なら何の問題ですか」
「あなたが……その言い方をするからです」
レオンは困った顔をした。初めて見たかもしれない表情だった。
「私は感情を上手く扱えません」
「知っています」
私があっさり言うと、レオンが少しだけ目を瞬いた。
「知っていて、ここにいるのですか」
「はい。あなたは嘘をつかないから」
私の言葉は、たぶん彼の胸の奥のどこかに、丁寧に置かれた。置かれたものは、すぐには言葉にならない。ただ、彼の呼吸が少しだけ柔らかくなった。
「……それなら」
レオンが小さく息を吐く。
「形式を整えましょう」
「形式?」
「婚姻の届け出です」
あまりにも事務的で、あまりにも彼らしくて、私はまた笑った。彼は「咳が増える」と不満そうだったが、止めなかった。止めないことが、彼の精一杯の近さだった。
婚姻の手続きは、隣国の方が書類が多かった。多いのに、職員の顔が明るい。書類は同じ紙なのに、扱う人間が違うと空気が違う。私は少しだけ泣きそうになって、慌てて笑ってごまかした。
レオンが、役所の帰り道で言った。
「……あなたを守る、という言い方は好きではありません」
「どうして」
「守る、と言うと上下ができます。制度は上下で壊れます」
「じゃあ、なんて言えばいいですか」
レオンは少し考えて、珍しく言葉を選んだ。
「……隣にいる」
それだけだった。だけど、それだけで充分だった。
───
五年後。
子どもは二人になった。
上の子はよく走り、下の子はよく食べた。二人ともよく笑った。笑い方は私に似ていて、困った時に口角だけ上げる癖はレオンに似ていた。
「お父さん、港の人が言ってたよ。ここの国、すごく豊かになったって」
上の子がレオンの裾を引く。レオンは「父」と呼ばれるたびに一瞬固まる。彼にとって、それはまだ新しい役割なのだろう。
「港の人は常に大げさです」
「でも魚が増えたって。お父さんが数字をいじったからだって」
「数字はいじりません。整えます」
「整えると魚が増えるの?」
「間接的に増えます」
子どもはよく分からない顔をして、でも納得したらしく頷いた。私は台所からそれを見て笑った。王城の大広間より、ずっと確かな現実がここにある。
その夕方、レオンは一通の報告書を持ち帰った。隣国の外交部から回ってきた正式なものだ。紙が厚く、封蝋が丁寧に押されている。丁寧な封蝋は、だいたい嫌な知らせだ。
レオンは淡々と封を切り、読み、目を伏せた。伏せたのは悲しみではなく確認だ。数字を読む時の癖。
「旧王国ですか」
私が聞くと、レオンは短く頷いた。
「王都が割れました。王城は残っていますが、中身は空です。王は病を理由に退き、王太子は逃げました。軍は分裂し、港は完全に止まりました。周辺国は国境を閉じています。難民が出ています」
難民。その言葉が、ようやく「崩壊」を現実に引きずり出す。私の胸の中に、あの城の廊下の冷たさが戻ってきた。
「聖女は」
「見つかっていません。責任は今、“いないもの”に向いています」
いないものに責任を向ける。国が壊れる時の最後の癖だ。責任を置ける場所がなくなると、空気は空気のまま暴れる。
私は思ったより胸が痛まないことに驚いた。憎んでいたわけじゃない。恨んでもいない。ただ、そうなるだろうと分かっていた。大広間が眩しすぎた時点で、国の目はもう見えていなかったのだから。
「助けに行きますか」
自分でも不思議な質問だった。
レオンは少しだけ考えた。額に手を当てる癖が出る。
「私が行けば、整う可能性はあります。ただし」
「ただし?」
「こちらが困ります。制度を支える人間は、どこにでも必要です。……そして私たちはもう、役割だけの人間ではない」
レオンの視線が奥の部屋――子どもたちが眠る方へ向く。私も同じ方を見る。子どもは、国より先に守らなければならない。守るという言い方は好きではないけれど、順番はある。
「そうですね」
私は頷いた。
「私たちはもう逃げた人間です。逃げた先で、暮らしてしまった」
レオンが小さく首を振る。
「逃げたのではありません。生きたのです」
その言い方が、彼にしては珍しく優しかった。私は少しだけ笑って、少しだけ泣きそうになって、結局その両方を飲み込んだ。
レオンが私の手を取る。冷たい指。いつも紙を触っているせいだ。私はその手を握り返す。温度差が少しずつ埋まる。
「後悔していますか」
レオンが言葉を探しながら聞く。探しているのが分かる。彼にとってそれは努力だ。
私は首を振る。
「いいえ。あの国で私は悪役でした。でもここでは母親です。あなたは父親です。それだけで充分です」
レオンは淡く笑った。
「あなたの言葉は、いつも制度より強い」
「それは褒め言葉ですか」
「……全部です」
半分じゃない。珍しい。私はその返事が嬉しくて、つい笑ってしまった。レオンも、ほんの少しだけ笑った。
窓の外で、隣国の町が灯っている。市場の喧騒は遠くなったが、人の息遣いは消えない。旧王国の報告書はテーブルの上でただの紙になった。紙は燃えるし、濡れるし、破れる。だからこそ紙に頼りすぎる国は脆い。人が支えなければ、紙は国にならない。
夜、上の子が寝言を言った。
「おうこく……」
夢の中で、どこかの城を見ているのかもしれない。私の記憶が血ではなく空気として伝わったのだろうか。
私は子どもの髪を撫でて、静かに言う。
「大丈夫。ここが、あなたの国よ」
隣で、レオンが小さく頷いた。
彼はもう宰相ではない。私はもう悪役令嬢ではない。
それでも私たちは、何もしていない二人のままだ。
ただ、生きて、暮らして、整えて、笑っているだけ。
そしてたぶん、それがいちばん難しくて、いちばん強い。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この話で描きたかったのは、派手なざまぁや痛快な復讐ではなく、もっと手触りのある“崩れ方”でした。
誰かが明確に悪いから国が滅びる、というより、空気が便利な言葉を選び続けた結果、いつの間にか支えが抜けていく。断罪の場はその象徴で、あの眩しさは「正しさ」を飾りつけるための光です。
そして、追放された二人が得たのは勝利ではなく生活でした。
生きること、整えること、隣にいること。派手ではないけれど、一番難しくて、一番強いものだと思っています。
もし彼らがあの国へ戻る物語を書くなら、それは救国譚というより、“戻らないことを選んだ人間が、それでも背負ってしまうもの”の話になる気がします。
ただ、この短編はここで閉じるのがいちばん綺麗だと感じました。
またどこかで、別の断罪、別の王国、別の生活を書けたら嬉しいです。




