第五話 終話
──あの日は、酷い雨が降っていた。
曇天の空はどうしようもなく、光の一筋さえ漏れなかった。
影人は自分に向かって銃を構えていた。何故、こんなことをしたのかと問う。
自分は、苦笑しながら答えた。
「親心だ」
光琉だけには、真実を見てほしかった。作られた世界ではなく、今の絶望を。
それでも希望を見いだしてほしかった。
それが、とてつもない無謀な願いだとは分かっていた。分かっていたが、諦めることはできなかった。
脳裏に浮かぶのは、光琉を抱いて子守唄を歌う妻の微笑みだった。彼女は、最後まで本当の幸せを望んでいた。
影人は構えていた拳銃をそっと下ろした。表情はどこか複雑そうだ。
そんな彼に向かって、自分は小さく肩を竦める。
「お前は、迷わなくていい」
この世界から見れば、異端なのは自分の方だ。影人は、ただ自分の役目をまっとうしていたにすぎない。
彼は、自分に銃口を向けた。その手は、小刻みに震えている。
「……俺は」
声はか細かった。瞳は揺れていた。
迷う必要はない──そう言いかけて、胸の奥に言葉をしまう。
彼はゆっくりと銃を降ろした。
その瞳は複雑な光を帯びて、それでも、どこか決意の色を宿していた。
「──……逃げろ」
その一言を絞り出すまでに、どれだけの葛藤があったのか。
計り知ることはできない。
自分は、ただ静かに首を縦に振った。
次の瞬間だった。雷鳴のような銃声が響く。
影人の右側頭部から、赤いしぶきが散った。
曇天の世界が、ゆっくりと赤に染まっていく。
※※※※※※※※※※
影人は、大きく咳き込んだ。
フロントガラスには、蜘蛛の巣のような亀裂が走っている。
運転席を確認する。潰れた鉄板の隙間から、彼女の姿を確認することはできなかった。
小さく息をつき、蹴破るようにドアを押し開ける。ゆっくりと外の世界に這い出て、空気の冷たさが肺に刺さる。
体の節々が軋み、それでも──生きていると実感した。
──光琉は……どうなった?
震える手で、後部座席を覗き込む。
そこに彼女はいた。
かすかに胸が上下している。確かに生きていることを示していた。
その事実だけで、安堵が全身を駆け巡った。
しかし、安心してはいられない。車からはガソリンが漏れ、鼻に刺さるような臭いがまとわりつく。
いつ爆発するかもわからない状況に、内心は焦る。それでも一定の呼吸を整えて、冷静さを保った。
後部座席のドアを開ける。一部が歪んでしまっているためか、耳障りな音を鳴らした。
気絶している光琉の体を抱き上げて、そっと車外へ連れ出す。
「……おとうさん?」
細く目を開けた。こちらを見上げる光琉の顔には、痛々しいほどの傷ができていた。
「大丈夫だ……」
影人は──麻布雄一は静かに応える。
腕の中の温もりに、少し涙が出てきそうだ。
車からある程度離し、光琉をソッと地面に降ろす。瓦礫に預けるように背をもたれさせ、彼女の腕や脚を動かす。
あれだけの事故で、打撲や切り傷程度で済んでいた。それは奇跡というものだろう。少しすれば、彼女は歩き出せるだろう。
よかったと胸をなでおろしながら、雄一は光琉の頭を撫でる。
立ち上がると、光琉は不思議そうにこちらを見上げていた。
「おとうさん、どこに行くの?」
言葉が詰まった。何て返そうかと悩み、曖昧な笑顔しか出なかった。
懐にしまった銃の重みが、胸の奥で確かに主張していた。
指先に残る冷たさが、まだ終わっていないことを思い出させる。
雄一は、自然と都市の方へ歩き出した。
逃げていては、決着をつけることはできない。
「おとうさん……」
もう一度彼女の声が背中にぶつかる。雄一は足を止めた。
振り返る。瓦礫のすき間から覗く蛍光灯の光が、光琉だけを照らしていた。
「行ってくる」
泣き出しそうなのを堪えた精一杯の笑顔だった。
彼女は何も言わない。それを返事だと受け取った雄一は、足を前へ進める。
※※※※※※※※※※
懐にしまった銃の重みが、胸の奥で確かに主張していた。
指先に残る冷たさが、まだ終わっていないことを思い出させる。
雄一は、自然と都市の方へ足を向ける。
逃げていては、決着をつけることはできない。
「おとうさん……」
もう一度彼女の声が背中にぶつかる。雄一は足を止めた。
振り返る。瓦礫のすき間から覗く蛍光灯の光が、光琉だけを照らしていた。
「行ってくる」
泣き出しそうなのを堪えた精一杯の笑顔だった。
彼女は何も言わない。それを返事だと受け取った雄一は、足を前へ進める。
※※※※※※※※※※
雄一は郊外から下町へ向かう道を歩く。
その足取りは、死への恐怖を引きずるように重かった。
ようやく、自分が何者かも思い出したばかりだ。
それでも、光琉が歩む未来を切り拓くために、雄一は導になることを選んだ。
あの青年は、雄一を捕捉すればすぐにでもやってくるだろう。
自身の震えを押し殺すように、前を見据えた。
地面が揺れる。音が鳴る。
世界そのものが悲鳴を上げているような瞬間だった。
なのに、空気が一段と冷えた。──これは、気のせいではない。
青年が、そこに立っていた。
すべてが隔絶したような佇まいは、言葉にできないほど異様だ。
「よう」
それでも雄一は声をかける。
顔には、皮肉めいた笑みを貼り付けて。
「──十年前もお前だったよな?」
影人ならここで煙草を一本取り出すだろう。
しかし雄一が取り出したのは拳銃だった。
「悪いな。今度こそ、オレが相手をしてやる」
銃口を青年の顔に据える。彼は答えを返さない。ただ──無機質な瞳だけが、こちらを見据えていた。時間が、そこにだけ止まっているようだった。
引き金を引いた。振動が腕を伝い、肩に突き刺さった。反動を殺すことができずに、両腕は跳ね上がる。
閃光とともに発射された銃弾は、青年の顔に向けて飛んでいく。
銃弾は空気を裂き、風を突き破る。微かな磁気と電気を帯びて。
弾道は完璧に青年の頭を捉える角度だった。
青年は頭だけを傾ける。銃弾は、彼の背後の闇へ抜けた。
彼が笑った気がした。冷ややかなその気配が、雄一の心に突き刺さる。
二発目、三発目と撃つが当たらない。
彼は悠々とこちらに歩み寄っていく。
きっと、青年からは焦っているように見えるだろう。しかし、雄一は焦ってなどいない。
足をしっかり地につけ、巨体を見据えている。
彼は笑っている。勝利を確信している。その笑顔は、不気味な執行者ではなく、やけに人間味を感じさせた。
「……はん」
雄一は鼻で笑う。
記憶管理局に使われている存在であっても、人間性というのは完全に殺せないらしい。
青年は雄一の首を右手で掴む。腕力だけで体を持ち上げるという、人間離れの芸当をやってのけた。
圧迫感で呼吸ができない。首の骨が軋むように悲鳴を上げる。視界は明滅し、それでも雄一は青年を見据える。
銃口を彼の額に突きつけた。
──元々、お前に勝つつもりはないんだよ。
雄一は喉を抑えられて声を出せない。だから、心の中で告げる。
彼の狙いは、この怪物を“人間として”倒すこと。それを示すことだった。
「おとうさん……!」
光琉の声が聞こえた。傷だらけの体を引きずりながら、彼女が追いついてきたのだ。
視界は動かせない。しかし、確かにそこに“いる”ことを感じる。
雄一は口角を上げる。舞台は整った。
引き金を引いた。弾は発射される。
ゼロ距離で放たれたそれは、青年の肉を抉り、頭蓋を割る。彼は体を後方に反らせた。
しかし、ゆっくりと顔を戻す。こちらを見つめる目には、確信めいた光が宿っている。
「そういえば──」
雄一は喉の奥から、言葉を絞り出す。
「この銃は、特別製って言ってたな」
吐いた言葉は、まるで煙草の煙のように空気に溶けた。
骨の折れる音が鳴る。それは、雄一の首の骨が折れる致命的な音だった。
※※※※※※※※※※
光琉は呆然とする。せっかく会えた父親が、自分を守るために死んでいった。
青年は、そんな父をゴミクズのように捨てた。
こちらを見る。その目が、「次はお前だ」と告げている気がした。
逃げなければ──という気持ちと、立ち向たなければ──という気持ちが、せめぎ合う。
脳内で葛藤を繰り返している間に、彼はこちらへと踏み出していた。
──大丈夫だ。前だけを見据えろ。
聞こえるはずのない麻布雄一の声が、脳内に染み込むように響いた。
同時に、青年の足が止まる。
右側頭部から、ノイズが走った。スパークが体全体に広がり、彼は痙攣を起こす。
その現象を光琉は見たことがあった。
彼が郊外でこちらに歩み寄ろうとしたときだ。記憶管理局の管轄外に出ようとすれば、彼はスパークを起こしていた。
つまり、今青年の体は、記憶管理局の管轄を逸脱しようとしている。縛られた人間は、制御権を失えば存在を保つことができない。
彼の足元に転がっている拳銃に目を向ける。きっと父が撃った弾丸がそうさせているのだ。
光琉は記憶管理局に管理されていない。それはどこまでも自分の足で歩める自由を意味していた。
反対に青年は全権限を預けてしまっている。首輪を外されてしまえば、どうすることもできない。
安心を保証するための依存が、今彼に牙を剥いていた。
青年は吠えた。その声は現実を受け入れられないとでも言うように、悲痛なものだった。
体全体のスパークが臨界点に達した。
ノイズが空気を裂き──青年という存在は、歪みの中で消えた。
残された光琉は小さく息をついた。何が起こったのか飲み込むのに、少し時間がかかる。
小さな呼吸音が自分のものだと、やっと理解した。
彼女は震える足を、前へと進めた。そのまま落ちている拳銃のもとに近寄る。ゆっくりと拾い上げて、丁寧にほこりを払った。
背後から鳥の鳴き声が聞こえた。二羽の白い鳥は、じゃれ合いながら空へと飛んでいく。
光琉の頭の中に、昔母が歌ってくれた子守唄を思い出した。それは、自由を求めて鳥が空へと羽ばたく唄だ。
中央管理局の建物から、光が放たれた。それは夜になりかけた世界を明るく照らす。
エラーを訴えるその光は、光琉にはどこまでも美しく感じた。
次作完結次第即投稿いたします。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました




