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第四話

 郊外のことを人々は忘れ去られた記憶という。保管され、消去され──それでも世界にしがみつこうとしている人たちが暮らしている。

 いうなれば、選別を落とされた者たちが住む場所。


 下町にまだ人の温かさが残っているなら、ここは温かさの残滓といったところだろう。

 建物はほとんどが崩れ、整備されていたはずの道路は割れている。

 電気も通っていない。

 ただ、風に混じって焦げた鉄の匂いが漂ってくるだけだ。


 住民たちは、何かを求めるように街の中心部にある建物に手を伸ばそうとする。


「ここなら、しばらくは追ってこないはずだ」


 女は車のドアを閉めながら言った。

 影人はドアの閉まる音に顔だけ振り返る。


「……そうか」

「光琉は寝ている。疲れたんだろうな」


 影人は後部座席へ視線を移した。微かに見える白──光琉の体が上下している。

 聞こえるはずのない寝息が、耳元をくすぐった。


 何も返さずに影人は前を向く。目に映るのは、街中央の建物が夕日を遮る景色。


 煙草を一本取り出した。いつものように火をつけ、咥える。

 煙を吸い込み、落ち着かせようと呼吸する。


「ゴホッゴホッ──」


 突如、胸を締め付けるような圧迫感に襲われた。思わず煙草を地面に捨て、足で踏みつけて火を消す。


「どうした?」

「……いや、何でもない」


 まるで体そのものが、煙草を拒否しているようだ。


 何かないかとポケットを探ると、先ほど光琉がくれたチョコレートがあった。

 包み紙を破き、口へ運ぶ。


 チョコは影人の体温で溶けかけている。舌で転がすたび、甘さがゆっくりと口の奥に広がっていった。

 荒れた波が静まるように、心が凪いでいく。


 女は何も言わなかった。ただ、寄り添うように立つ。


「こうして見ると、綺麗だろ」


 彼女の言葉に促されるように、再び中央都市に目を向ける。

 無機質に作られた建物群が、夕日のコントラストによって彩られていた。


「でも、あそこには人の営みがない」


 住人たちはすべてを管理され、一日を過ごす。まるで歯車のように、同じ歩調、同じ時間を共有している。


 管理されるだけの社会は、人によって幸福に映るかもしれない。

 しかし、外から観れば、それはあまりにも異質だ。


 その支配から逃げたところで地獄には変わりない。影人のように腐って生きるか、郊外の人間のように無駄な憧れを抱いて手を伸ばすか。


 今となっては、何が正解かは分からない。

 人類は遠い昔に間違えてしまったのだろう。


「それで、これからどこへ行くんだよ?」


 口の中でチョコを転がしながら、影人は訊ねた。


「そうだな……郊外を出る。都市と都市の間の未管理エリアで、しばらく時間を稼ごう」

「は、一時凌ぎにしかなんねーな」


 影人は軽口のつもりだったが、女の表情はどこか申し訳なさそうだ。

 その大きなため息が、嫌でも耳につく。


「本当はもっと早く助ける予定だったんだ……」


 親指の爪を噛んでいる。歯と爪のぶつかる音は、彼女の悔しさを鳴らしているかのようだった。

 ここ十年、依頼者としてよく顔を出してくれた。影人が世の中に埋もれなかったのは、彼女のおかげと言っても過言ではない。


 口の中に広がっていたチョコの甘さは、いつの間にか消えていた。

 女に向き直り、視線を合わせる。


「正直に答えてくれ、オレは何者なんだ?」


 一瞬、彼女は息を呑んだ。

 迷うように視線を揺らしてから、肩を大きく落とす。


「そうだな。ここまで来たら隠すほうが失礼だ」


 見せた笑顔には、諦めのようなものが混ざっていた。


「お前は──」

「あっははは! 影人さんじゃないですか!?」


 彼女の言葉は、その大きな笑い声に打ち消された。


 周囲の音が遠ざかる。しかし、その笑い声だけは異様に響き渡っていた。


 黒ずんだローブは裂け、ほつれた縫い目がぶらさがっている。頬は異様にコケて、無精髭が生えている。所々肌が煤けており、汚らしい。

 瞳は深く濁っていた。それなのに顔に満面の笑みを作っている。

 腰は折れ曲がり、一歩一歩がぎこちない。


「影人さん、僕ですよ僕!」


 なのに、声だけは異様に明るい。その曖昧さが、嫌悪感として影人の背をなぞる。


「知り合いか?」


 女はこちらを見やった。瞳の奥に揺れるのは、疑念と恐怖だ。

 影人は、少し考えるように目を伏せた。


「……いや」


 影人としての記憶の中に、彼は存在しない。こんな狂人には会ったこともない。


 その否定を聞いても、男は笑い続ける。


「嫌だなぁ、影人さんが助けてくれたじゃないですか!? 僕はあのときからあなたに憧れて憧れて仕方なかったんですよ!?」


 関わってはいけない。警鐘を鳴らすように、鼓動が跳ね上がる。

 口の中に広がっていたはずのチョコの後味は、すっかりと消えていた。


「だから、僕は影人さんになりたくてなりたくて……」


 彼が頭を抱える。肩が震えて上ずった笑いが漏れる。


 影人たち二人は見合わせて頷いた。早く離れたほうがいいその一心で、車へと逃げこむ。


「ん……どうしたの?」


 ドアが勢いよく閉まる音で、光琉が目を覚ましたようだ。しかし、二人は答えている暇はない。

 少しでも遠くへ逃げる。狂人には関わらないのが一番だ。


 女が鍵をさして回した。エンジンをかけようとするが、振動が途中で止まる。


「どうした!?」


 声をかけると、女は何回も鍵を回していた。彼女は焦りから下唇を噛んでいる。


 影人は懐にしまっていた拳銃に意識を向けた。


 しかし、と頭でストッパーがかかる。相手は、一般人でありこの世界の被害者なのだ。

 だから、女も逃げることを選んだ。


「──なんで逃げるのさ!?」


 影人の横の窓に、男がへばりつく。息でガラスが曇るほどに近い。

 満面の笑みで見つめる瞳は、言葉にし難い狂気が浮かんでいた。


「僕は、君に助けてもらって、本当に本当に本当に嬉しかったんだ! その記憶は誰にも渡さない! 誰にも譲らない!」

「感謝してるなら、襲ってくるな!」


 影人の怒鳴り声は、彼の耳には届かない。

 肌がガラスに密着するたびに、耳障りな擦れる音が鳴る。


 世界が呼吸を止める。


「影人影人影人影人影人! 僕と、一つになろうよ!?」


 影人は助手席のドアを蹴る。嫌悪感から距離を取るように。


「酷いなぁ影人! 僕はこんなにも、君のことを思っているのに!」


 彼は舌を窓ガラスに這わせていた。もはや言葉が通じないという次元ではない。生理的に受け付けない。

 ドアに残る彼の唾液が、影人の肌を泡立たせる。


「お前なんて知らん!」


 口から出たのは、反射的な拒否だった。


「仕事柄何人も助けてきたが、お前のような人間は知らん!」


 ハッキリと拒絶されて、彼は頭を掻きむしり始めた。


「なんで? なんでなんでなんで!? 君のことずっとずっと思ってきたのに!?」


 髪の毛が散り、唾液が飛ぶ。

 その姿は、もはや人の形をした何かだ。


「……かわいそう」


 そんな彼を見てかなのか、光琉がポツリと呟いた。


 エンジンがかかる。車の振動が、体全体に跳ね返ってくる。

 まるで空気を与えられたかのような安心感が、振動を通して循環する。


「早く出せ!」

「わかってる!」


 女は車を後方に動かす。タイヤの地面を擦れる音が響き、砂ぼこりを舞い上げる。


「なんで、なんでなんでなんで!?」


 立ち尽くす男に、影人は顔を向けない。一刻も早く彼から離れなくてはという拒否反応が、体中を埋め尽くした。

 きっと運転している彼女もそうだろう。


 その考えが、致命的な隙を与える。


 車の振動を掻き消すほどの轟音。彼が立っていた場所は大きな砂煙で埋もれ──もう見えなかった。


「うそでしょ……?」


 女の言葉が、ハンドルを握る手の震えを代弁しているようだった。


 煙の先に揺らめくのは大きな影。聞こえてくる男の悲鳴。

 そのすべてが、何を引き寄せてしまったのかを意味していた。


「おいおいおいおい……!」


 影人もこれには苦笑いも漏れない。


 煙が晴れた先で見えたのは、青年だった。狂気に支配された男の頭を地面にこすりつけて、潰している。

 周囲に飛び散った血が嫌に現実味を帯びていた。


「ここまで来なかったんじゃないのかよ!?」

「記憶管理局の執着がここまでとは思ってなかったんだ!」


 親指の爪を噛んでいる。彼女にとっても想定外の事態のようだ。

 責めたくなる気持ちを、グッと胸の中に抑えた。代わりに、右脚を短く揺らす。


 ゆらりと立ち昇る彼の巨体は、沈みかけの陽を背後に不気味に蠢いていた。

 こちらへと進んでくる。しかし、彼のつま先が何かに弾かれるようにスパークする。


 立ち止まり、見つめてくる。


「どうやら、奴の限界距離らしい……」


 女が息を整える。ハンドルを握る手の震えは収まっている。

 影人は自然と光琉の安否を確認するように振り返っていた。彼女の瞳には怯えのような物が見えるが、無事なようだ。


 そのことに安堵している自分に気がついて、胸の奥で違和感を覚える。


 視線を前方に戻す。巨体はこちらを見つめていた。ただ、無機質に。


「とにかく、ここから少しでも離れよう」


 女が息を整え、車を動かし始めた。ところで、青年が先ほどつぶしたはずの男を持ち上げる。


「何をしてんだ……?」


 彼の不可解な行動に、影人は小首を傾げた。

 

 心の奥の引っかかりは、訴えている。まだ安堵するのは早いと。しかし、その答えを影人自身が引っ張り出すことはできなかった。


 青年はそのまま腕を振り上げた。彼の動きに合わせて、掴まれた男の足が人形のようにぶらつく。


「まさか……」


 最悪の現実が脳裏に浮かぶ。

 しかし、そんなことはできるのか? 人間をボールのようにこちらに投げつけることなど可能なのか?


 不気味に揺らめく青年の輪郭が、答えを語っていた。


 本当に一瞬の静寂だった。すべてのときが止まったような感覚を受けた。

 破砕音とともにすべてが現実に引き戻される。

 

 青年の投げた男が運転席にぶつかった。隣にいたはずの彼女を、影人は見つけることができない。


「──(かなえ)!?」


 女の名前を呼ぶ影人の声は、轟音とともに掻き消された。

 車が横転し、世界が暗転する。

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