第三話
体に振動が伝わる。朝から昼へと移り、靄が晴れかけた下町を三人を乗せた車が走る。
周囲は不自然なほど静かで、車のエンジン音だけやけに刺さる。
助手席の影人はバックミラーに目をやる。後部座席にシートベルトをつけた少女。包みを破ってチョコを口に運ぼうとしていた。
彼女を見るたび右側頭部が疼く。それでも、朝よりはマシだ。
苛立ちを紛らわすように、煙草を一本取り出す。
「……ん」
運転席の女が片手を差し出す。
「……なんだよ?」
「禁煙だ」
舌打ちを漏らす。車の振動に合わせて、苛立ちを隠すように膝を揺する。
「んで、本当に闇市を覗くのか?」
「そうだな──それしか、なかったらな」
背後で白がチョコレートを噛む音が、やけに耳につく。
影人は振り返らない。代わりに窓の外の流れる景色を睨む。
「なんだよ? 記憶を探してほしいんだろ?」
「あぁ、そうだ……」
女はハンドルを握りながら、一定の間隔で指を鳴らしていた。その上、どこか警戒しているような視線だ。
下町の通りは、昼なのに静かすぎる。──その警戒は、運転のせいではない。
「どうした?」
影人が訊ねると、彼女は視線だけこちらへ寄越した。
「何がだ?」
「いつものお前らしくないと思ってな」
前の信号機が赤に変わる。相変わらず、機械的な働きものだ。
停車。エンジンの唸りと振動が、やけに伝わってくる。
「いや、無事なら良いんだ」
「無事……? ──あぁ、こいつの記憶か?」
「そうじゃない!」
彼女の言葉が胸に刺さる。すべての音が遠のいた。
白がチョコレートの包みを破く音。それが現実に引き戻す。
「……あぁ、ごめん。お前は何も知らない。だから、遅れたとしてもお前のせいじゃない」
「何の話だ?」
訊ねた瞬間、信号が青に変わる。
「そう、お前のせいじゃない」
彼女が親指の爪を噛んだ。心の底から焦っていないときにしか見せない癖だ。
影人は女の方を向く。
「なぁ、本当に──」
タイヤと地面を擦る音が耳を突き抜けた。
急ブレーキの反動で体が前に飛び出される。白の小さな悲鳴も混じる。
シートベルトが胸を圧迫し、咳き込みながら顔を上げた。
フロントガラスの前に、コートを着た青年が立っていた。
影人が見上げるほど背が高い。
「なんだこい……つ……──」
声が止まる。右側頭部が今までにないほど痛む。
昨日の夜の記憶が、脳裏を走る。コンビニの青年だ。
「ち、やっぱり遅かったか」
女がアクセルを全開にする。
青年を構うことなく車が発進した。
「お、おい!」
影人の制止も虚しく、車は突っ込む。
青年は車のボンネットに乗り上げ、そのまま後方へ流れていった。
「お前、何したか分かって──!」
振り返る。
青年は何事もなかったように立ち上がっていた。
車との距離は広がっていく。しかし、ずっと視線が合っているかのような錯覚を受ける。
嫌悪感が背筋を駆け上がり、息を詰まらせた。
「──見つけた」
耳元で囁かれた気がした。ハッキリとした青年の息遣いが、確かに聞こえた。
「──……ざぶ! ボンネットを開けろ!」
女の怒鳴り声が、影人の意識を現実に引き戻した。
「ざぶ……?」
聞き覚えのない呼び名が、頭の奥で引っかかった。
「早く開けろ!」
「あ、あぁ……」
促されるままにボンネットを跳ね上げると、拳銃が一丁きちんと収められていた。
「お前、こんなの入れてるのか!?」
影人は拳銃を取り上げつつ女を見返す。
「答えてる暇はない! 今すぐあいつに向かって撃て!」
「う、撃てって!」
「良いから! 撃て!」
再び振り返る。
彼は歩いていた。なのに、距離は遠ざからない。むしろ、少しずつ縮まっている。足音が──影人の心臓を揺らした。
「早く!」
急かされて、影人は窓を開けた。身を外に乗り出して、銃を両手で構えた。青年に向かって銃口を向ける。
「……っ」
撃たなくては。風を、身体で感じる、指に力を入れようとする。しかし、震える。
頭の裏に痛烈にこびりついているのは、十年前麻布雄一の事件。雨の中、血まみれに倒れる彼の身体。
「くそ……!」
影人がついた悪態は、誰にも拾われることなく車外へ溶けていった。
震える指が、引き金を──引いた。
銃声が影人の耳を貫く。
青年が動きを止めて蹲る。体にチラつくようなノイズが走り、彼は動かなくなった。
「当たった……のか?」
自然と口にした疑問は、誰にも拾われることがなかった。
車内に戻り、背もたれに深く腰掛ける。大きく息をつく。
それでも、鼓動をなかなか落ち着かなかった。
震える手の中には、まだ拳銃が収まっていた。
「……やったぞ」
心の中の恐怖を隠すように、声に出していた。
「今のところだけどな」
「どういうことだよ?」
「奴は……記憶に干渉してくる。次は──もっと現実に近づいてくる」
彼女は、ハンドルを握る手に力を込めていた。
「説明しろ。奴の狙いは少女か?」
バックミラー越しに後部座席を見ると、白は少し震えている。取り出したチョコの包み紙を落とし、しばらくそれを見ていた。
「そうだ」
女の声が影人の視線を戻す。彼女の表情には、すでにいつものような笑みは見えなかった。
「じゃあ中止だ。依頼は受けれない」
言葉を落とすように吐いて、足を揺する。
煙草を取り出そうとして、禁煙だと言われたことを思い出した。煙の代わりに深いため息が口から出る。
「それはできない」
「なんでだ? オレは関係ないだろ?」
「関係あるからだ」
彼女の言葉の意味が理解できない。
自分と白は今、初めて会った者同士だ。何故か「おとうさん」と呼ばれている──それだけだ。
右側頭部が大きく疼く。本当にそれだけかと、問われている気がした。
何故か彼女を以前、抱きかかえていた気がする。
そうだ、彼女の好物はチョコレートだ。
それを影人は──知っていた気がする。
頭を振る。そんなわけがないと考えを払う。
「何が関係あるだ。とにかく、命に関わるようなことはごめんだ」
「……あいつの狙いはお前でもあるんだ。覚えはあるだろ」
一瞬、車内の温度が低下する。
「覚えなんて……──」
否定しようとした。しかし、言葉を詰まらせる。
昨日のコンビニのことが、頭を過ぎる。「あいつは、オレと接触した」その事実が突き刺さる。
「なんなんだよあいつは?」
静寂する下町を、車はただ走る。灰色の未来に向かうように。
「……記憶管理局が送ってきた刺客だ」
観念したかのように、女は呟くように言った。
「観測したエラーを修正するためにやってくる」
「そんなこと、オレはされる覚えがないぞ?」
彼女は喉を詰まらせるように、息をついた。少し考えるように視線を泳がせる。
ハンドルを握る手の指が、不規則なリズム刻んでいた。
「今のお前にはな……」
訊き返すことができなかった。頭の奥底で何か重要なことを忘れている。そんな引っかかりがあったからだ。
後部座席から手が差し伸ばされる。それは白く、細く、触れたら壊れそうなほど脆い。
手の中にはチョコレートが一つ握られていた。
「おとうさん、チョコ、おいしいよ?」
どこか気遣ったような声色だ。拒否仕掛けたが、影人は震える手で受け取った。
白は少し満足そうに息をつくと、手を引っ込める。
「珍しいな、お前が素直に受け取るなんて」
女の軽口が少し戻ってきた。しかし、言葉尻が震えているのは、焦りを隠しきれていないからだ。
彼女の言葉から逃げるように、影人は手の中のチョコを見る。後部座席からは新しい包みを破く音が聞こえてきた。
──おとうさん、チョコおいしいね!
そんな明るい少女の声が脳内に響き渡る。両目からは涙が落ちた。
その涙の理由を言葉にはできなかった。ただ静かに呼吸だけを紡ぐ。
女のため息が聞こえた。顔を上げると、彼女と視線が合う。
「説明してやる」
彼女が右にハンドルを切ると、車は曲がる。
いつの間にか下町を抜けて、郊外に出ていた。
そこは人間の手が長く入っていない。
草木は伸び放題だ。小動物たちは大きな音を鳴らして走る車に、ビックリするように逃げていく。
「白は記憶管理局に記憶が保管されていない。なくしたではなく、保管されてないだ」
その言葉の意味するところは、白がこの世界の根幹を揺るがす人間だという証明だ。
そんな人間は、今の統制を取る世の中には存在しない。
無意識に後部座席の白を見る。視線が合うと、彼女は首を傾げながらチョコを食べていた。
「どうしたの?」
白の言葉が、右側頭部に突き刺さる。脳裏に閃くのは十年前に血まみれで倒れる影人の姿。
そう麻布ではなく影人だ。
「情報管理局は白を狙っている」
一瞬の沈黙が、車内を包んだ。
「……白じゃない光琉だ」
「……」
彼女の沈黙で、自分が何を口走ったのかを理解した。首を横に振り、頭の雑音を振り払う。
「オレは何を言って?」
自分の口を覆う。無意識に出た言葉が、何故か影人の存在意義を揺らそうとしていた。
「そうだな光琉だ」
女は肯定も否定もしない。ただ、淡々とハンドルを握る。
「とにかく、光琉は狙われている。そして、お前もだ。それはもう、否定できないんじゃないか?」
言葉が、車内の音をすべて奪った。
エンジンの唸りも、風を切る音も、すべて遠くへ沈んでいく。
影人は首を振ろうとしたが、先ほどから襲う違和感が自身の根幹を揺らす。
──オレは本当は何者なんだ?
そんな彼を乗せて、車はただ走る。




