第一話
茂木影人は、煙草を燻らせる。灰色の空に、煙は消えて行った。
無精髭の生えた顔は疲れ切っている。三白眼の目にはクマができ、少し伸びた髪も手入れされていない。よれたワイシャツの襟にかけたネクタイを緩め、「あー……」と、情けない声を発した。
アパートの廊下。影人は手すりにもたれかかるように空を見上げる。
遠くに見えるのは、摩天楼。その周りを囲むように連なるビル群。「数千万の人間たちが管理されている」。文字通り、データとして。
人々の記憶を集めて情報を統制する社会。記憶や人格を政府に模造品として提供し、見返りに安全な居場所をもらう。そんな世界で、影人は取り残された。まるで、忘れ去られたここら一帯のボロい下町のように。
頬を吹き抜ける風が煙草の煙を揺らす。
「くっだらねぇ……」
その言葉を放ったのは果たして何回目か。
影人は頭の片隅に響く頭痛を隠すように、煙草の吸い殻を携帯灰皿に捨てる。
政府の保護がない人間には、明日の食い扶持すらもままならない。手を出すのは自然と後ろ暗い仕事ばかりだ。
一時は街の治安を護る刑事として活躍していた自分が見ると、きっと鼻で笑うだろう。
ズボンの後ろポケットに入れた携帯が震える。舌打ちをして取り出した。
『おう、影人。どうせ暇だろ?』
そのチャットの一文を見た瞬間、無性に無視してやりたい気分になる。しかしそうなると、仕事を回してもらえなくなって困るのは影人のほうだ。
『決めつけんな』
『だったら何してるか言ってみろよ。どうせ、中央管理都市を見ながら悪態ついてたんだろう?』
あたりだ。しかし、認めるのは釈然としないので無視することにした。
『何の用だよ?』
『依頼だよ依頼。お前にピッタリのな』
『俺にピッタリの? そんなモンあったら、こんな風になってねぇっての』
『確かにな笑。まぁ、もうお前の家の近くに来てるから、寄るわ』
連絡してから来いよとチャットを返そうとした。しかしその前に、アパートの階段を登るピンヒールの足音がする。
「よーっす。相変わらずしけた面で安心するぜ」
レディースのスーツに身を包んだ百七十センチほどの女性だ。影人が背筋を伸ばせば同じくらいの背丈だ。
スーツはクリーニングの香りが残るほど整っている。その布地の下にのぞくラインも隙のない美しさについ目が止まる。
少しきつめの目は細められて笑顔を作っている。黒く艶のある髪はポニーテールにまとめられ、風に揺られていた。
「てか、また煙草吸ってたな? 百害あって一利なしだぞ」
彼女が鼻を摘みながら手で払う。
「これがオレのライフワークだ」
「早死するな」
彼女は笑い、そのあとすぐに、誰か別の名前を呼びかけて口を閉じた。
風が二人の間を通り抜ける。
「……うっせ」
まだ煙が漂っているかのように手で払ってから、彼女の表情が引き締まる。
「少女の記憶を取り戻して欲しい」
「はぁ? そんなモン、記憶管理局の仕事だろ? オレの出る幕じゃねぇよ」
「麻布雄一。この名前を聞いてもか?」
「……なんでそいつの名前が出てくるんだ?」
十年前、影人が撃ち殺してしまった人間の名前だ。狂乱し、一般市民を襲った男だ。その目には哀れみを宿し、何かを乞うように見えた。
どうしようもなかった。影人がやらなければ、被害は拡大していた。しかし、それを良しとしない世論のために、影人は人々の記憶とともに無き人となった。
「郊外で一人でいたところを少女が保護された。ボロボロで死にかけだ」
「それがなんであいつとつながるんだよ?」
「彼女が奴の名前をうわ言のように言っているからだよ」
影人の忘れかけていた記憶が、煙のようにまとわりついてくる。
無視するという選択肢を考えた。しかし、心臓の鼓動がそうさせてはくれないようだ。
──少し考えさせてくれ。
彼女は影人の返答を見送ってくれた。ただし一晩だけだぞと念を押されたが。
暗くなり、影人は自室に入った。汚れた布団の上に寝転がりタバコを咥える。
いまだに部屋を照らしてくれている蛍光灯を眺める。どこからか入ってきた虫が光に帯び寄せられ、静電気が鳴る。
立ち上る煙は記憶を想起させるかのように揺れる。
叫び、血みどろの光景。右側頭部が少し痛んだ。麻布はあのとき何を叫んでいたのか。影人には思い出すことができない。
今更だ。あれはとっくに記憶の隅に追いやった出来事だ。それが背中を伝うように、這い寄ってくる。
間違ったことをしていない。そうしろと命令されたからしたことだ。いくら言い訳をしても、心臓の音は収まらない。
「……っつ」
煙草の灰が顔に落ちた。
考えすぎだ。影人は体を起こす。
とりあえず、顔を洗って落ち着くところから始めよう。そう思い、連なる台所に足を運んだ。
水を流して手ですくう。顔にかけると、冷たさで少しは頭が整理される。
「あいつ、何を言ってたんだろうな?」
しかし、その答えは見つからない。煙を掴むかのように。
※※※※※※※※※※
最初はIDでの管理だった。個人情報を一括で纏め、住みよい形を作ろうと導入された。
給与明細、買い物、税金支払に健康管理など確かに便利になった。しかし、情報更新に追いつけなくなった政府は、記憶を保存することにした。演算能力の向上で、暮らしの安全は保証された──あなたが誰であるか以外は。
影人は煙草が切れたので、コンビニに向かう。綺羅びやかな中央のビル群と比べて、下町は薄汚れている。壊れた街灯は、修理されないまま放置されている。
町全体が靄に沈んで見える。
たまにすれ違う人は、どこかやつれていた。相手から見たら、影人もそのように見られている。
ほとんど暗闇に包まれる下町で、コンビニは変わらず明るく照らしている。
「いらっしゃーせー……」
入店すると、生気の感じられない店員の声が聞こえた。
コンビニの品揃えは悪い。おにぎりなんて塩むすびくらいしかないほどだ。雑誌コーナーには、一人の青年が成人雑誌を読んでいた。梅雨明けだというのに、コートを羽織っている。
下町では基本的に人間関係は希薄だ。その日を生きるのに必死な人間が集まるから、当たり前だ。実際、影人も変わった人間がいるなというくらいの認識だった。
頬杖をつく店員の前に立つ。影人の存在に気がつくと、彼は目だけを向けた。
「なんのよっすかー……?」
「百二十一番の煙草の在庫ある?」
「切れてるっすねー……」
彼の声は、まったくもって抑揚がない。
「じゃあ、あるもんでいい」
「はいよー……」
大きなため息をつきながら、やる気なさげに彼は一箱取ってくる。いつもと違う銘柄だが、吸えないことはない。
「記憶認証ありますかー……?」
「ないね」
「じゃあ、身分証明できるもんでもいいっす……」
言われて、財布から免許証を取り出す。失効ギリギリのものだ。
店員がタバコをレジに通すと、機械的な音が鳴る。
「あーした……。五百八十円になりまーす……」
「……五百八十円ね」
財布の中身を確認し、お金を渡そうとした。それよりも早く影人の背後から手が伸びる。レジに置かれるのは提示された金額ちょうどであった。
影人は驚いて振り返る。そこには先ほどの青年が立っていた。
「あざーした……」
生気の感じられない声が遠のく。
影人よりも背の高い青年の視線が突き刺さる。
肩幅は影人よりも広い。コートで隠れていて推測でしかないが、彼の体はとても筋肉質のように見える。
青年の顔は無表情だった。顔が一文字に引き結ばれ、青黒い瞳がこちらを見下げている。頭には包帯が巻かれ、右側頭部には血が滲んでいる。
「お前は、麻布雄一、だ」
途切れ途切れの嗄れた声が聞こえた。まるで喉を火傷したかのように酷いものだ。
しかし、そんな声も気にならない名前が、影人の耳にへばりつく。
心臓が早鐘をうつ。呼吸も何故か浅くなる。
右側頭部の痛みが酷くなり、頭の中に煙が充満するように何も考えられない。
「……違う」
喉から絞り出した声は、それだけだった。
「お前は──麻布、雄一、だ」
一言一句、聞こえるように丁寧に言う。彼は顔を限界まで近づけた。
彼の目に吸い込まれるかのような錯覚に陥る。言葉は脳髄に貼り付き、離れない。
息がかかる。
背筋を這うのは、強烈な嫌悪感だった。
「あのぉ……?」
店員の声が耳朶を打つ。影人は彼の方へ振り向いた。
「どうしたんすか……?」
彼は眉根を寄せていた。
「いや……近くに人が」
「人……?」
蛍光灯が瞬く。
青年は雑誌コーナーで本を読んでいた。
雑誌をめくる紙擦れの音が鳴る。
「あ、いや……」
何がどうなっているのか自分でも分からない。手が震えて冷や汗をかく。胸を抑えて、浅く呼吸をした。
気のせいで片付けるには、あまりにも現実味があった。ふらつく足取りでコンビニの出入り口に向かう。
「あざーした……?」
店員の訝しげな声が背中に当たる。しかし、影人は気にしている余裕はなかった。
コンビニから出ると、右側頭部が大きく軋む。
自分はおかしくなってしまったのだろうか。藻掻くように足を進める。
数歩ほどしたあと、呼吸も辛くなってくる。視界が灯りのように明滅した。
「どうしたんだ、オレ……?」
自分でも例えようのない恐怖が襲いかかってくる。頭の中で反芻されるのは、先ほどの青年の声。
何とか家に向かおうと足を動かすが、限界を迎える。気がつけば足音が途切れて地面に倒れ込む。遠くで蛍光灯の低音が聞こえ、──視界が暗転する。
※※※※※※※※※※
──おとう……さん。
どこか聞き覚えのある声が聞こえてきた。その声を辿るように、視界を覆う白い幕を掻き分ける。雨上がりのような匂いが漂う。
──おとーさん。
そこにいたのは、五歳くらいの少女だった。
どこか懐かしく感じる。
自然に抱き上げていた。甘いチョコレートのような匂いが広がる。
少女は楽しそうに笑う。「あのね、あのね」と今日あった出来事について語ってくれる。
──おかーさんが、お歌を教えてくれたの!
夜寝る時に怖くないようにと、いつも近くにいるからねと。
少女は楽しそうに歌う。指先に甘さを残して。
──小鳥さんが運ぶのは……。




