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第7話

「遠い中ようこそお越しくださいました」

「お出迎えありがとう。……必要ないと言わなかったか?」

「ええ。承知しております。……ですが――」

「まぁ、君も上からいろいろ言われているのだろう」

 ルーメイは近隣の町で馬車を降り、一般市民に紛れて国境地帯まで歩いた。夜中には地平線の向こうから瞬間的に赤い光が見えることもあり、その戦闘において火が使われていることは遠くから見ても明らかだった。

 彼女を迎えに来た将校もまた、皺のついた制服に身を纏い、靴周りに砂埃が付着していた。国境地帯に近づくにつれ足元の土は緩み始め、今となっては足を入れてそのままにしておくと沈むほどには足元の土が柔らかく、一般的な泥よりも水分の含有量はずっと多かった。乾いた泥濘が皮のように靴に張り付き、将校とは思えないような身なりだった。

 そんな泥濘地帯を時間をかけて歩き続けること一時間。戦場が見渡せる丘に二人は到着した。視野の小さな双眼鏡を将校から借りて、ルーメイは暗闇に包まれた戦場を見渡す。灯り一つないこの状況で、黒と黒の境目から物体の輪郭を見つけ、ぼんやりと全体像を把握した。今は日が昇る前のため、積極的な戦闘は行われていない。しかし、重要な攻略目標とされる砦には、常に複数人の兵士が出入りし、入り口を警備していた。

「あの砦は奪取できたのか?」

「半分ほど。残り半分は依然として敵が占領しています。日の出と同時に、突撃を仕掛ける予定です」

「そうか。士気はどうだ?」

「それなりに高いかと。殺すことに快楽を覚えるような狂った人間が誕生しているくらいです」

「そいつが味方にいるだけ結構なことだ」

 ルーメイとその将校は、丘の上の小さな小屋で、早めの朝食をとった。戦域を包む血生臭い泥濘の香りを鼻に通しながら口に入れる朝食はとても楽しめたものではなく、生きるために食料を口に詰め込み、日の出を待った。

 現場の長が日の出を確認した時、あるいは日の出を確認する少し前、鳥の鳴き声にも似た笛を吹く。その笛と同時に兵士は茂みから顔を出し、敵が構える陣地を踏み越える勢いで走り込み、敵に白兵戦を仕掛ける。そして敵の死体を踏み越えて前線を敵の喉元に向けて進めていく、この作戦はそのことの繰り返しだった。

 この付近には日の出、日没に似たような声で鳴く鳥がおり、笛の音はその鳥の鳴き声に意図的に寄せられている。敵軍がこれを攻撃の合図だととらえるかはその時の判断によるが、軍の兵士は聞き分けができるように訓練されていた。二人が前線の様子を眺める今も、鳥が鳴いている。

 敵側の空が少しずつ赤くなり、地平線から青色が昇り始めたその時、自軍の最前列の少し後ろに立った笛吹が高らかに笛の音を響かせた。それに連鎖するように隣の笛吹も笛を吹く。遠くまで届くようなその甲高い音は、兵士を安全な陣地から強引に追い出した。

 兵士たちは気が狂ったように自身を鼓舞し、敵を恐怖に陥れるために雄叫びを上げながら敵の陣地に向かって走りこむ。重量のある鎧は金属音を立てながら中に入る兵士に合わせて動き、足元を捉えんとする泥濘を払いのけ、兵士は力強い走りで敵の懐に飛び込んだ。

 敵の兵士が攻撃に気付いたのは、突撃した兵士が敵陣に切り込んだ頃。余裕もなく敵を迎えることとなった彼らは、剣を手に取るまでもなく腕や足を剣や鈍器で殴打され、その場に座り込んだ。短剣や鈍器といった至近距離戦闘に特化した兵士たちが嵐の如く戦場をかき乱し敵の陣形を崩すと、強引に次の陣地に向けて進み始め、半殺しにされた敵が立て直しを計り、さらに進む兵士たちの進軍を阻止しようと血に塗れた手で武器をもう一度握る。最初に飛び込んだ兵士たちは、陣地の奥深くに飛び入り、敵に囲まれた。敵が得意げな顔をして囲まれた味方に向けて剣を振り上げる。

そして、振り上げた剣は宙を舞い、虚しく地面に落ちた。

味方に向けて振り上げた剣は、更に後ろから迫っていた味方によって剣を弾き飛ばされ、長い剣を持つ兵士が横に薙ぎ払い、唖然としつつ密集していた敵軍は綺麗なまでに地面に倒された。薙ぎ払った兵士たちと、短剣と鈍器を握った兵士は更なる進軍のために、衝撃と痛みに苦しむ敵を踏みしめるように強く体重をかけ、嗜虐的な笑みと共に敵の屍を踏み越えた。

 そして、軽やかな装備を身に着け、鋭利で短い刃物を何本も持った兵士たちが、倒れた敵の首元に的確に剣を突き刺し、わずかな隙間から皮膚を深く切り裂いた。泥濘の水に映る戦場の景色は次第に赤色に染まり、切り裂かれた首元からは、脈打つたびに血が勢いよく噴き出す。

「鮮やかな三段攻撃だな。混乱、打撃、致命。我ながら良い作戦を思いついたものだ」

 小高い丘の上からルーメイは戦場の様子を眺める。遠くから見れば兵士は波のようになっており、戦線に沿った人の並びが三つあった。

「訓練した甲斐がありましたね」

「ああ」

「進めるところまで進めと連絡してくれ。次は川の前で待ち構えるはずだ。川の向こうからどうせ矢が飛んでくる。長物を持った奴らを前に出して、盾を構えるように伝えておけ」

 ルーメイは机の上に広げられた地図の二か所に指を置き、その間の距離を測った。

「承知しました」

 下士官は小屋の外に待機している伝令兵にその内容を伝える。伝令兵は乗馬したまま内容を紙切れに書き記すと、その情報を伝えるために丘を駆け下り、前線へ情報を届けに向かった。

「では、私たちも丘を降りよう」

 二人は小屋から出て、徒歩で先ほどの戦場まで向かう。丘を降りるたびに濃くなる血の匂いと生臭さは、爽やかな朝の空気を汚染し、丘の麓には腐敗臭にも近しいような臭いが周辺一帯に沈殿していた。

 そして、小屋から見えていた砦の方へと向かう。攻略目標だったこの砦だが、そこまで大きな砦というわけではなく、出城のようなもので、十数人の兵士がここで生活をしながら国境付近を監視していたようだった。屋上には少し大きく高い篝火台が置かれており、今も火をくすぶらせている。

「……ものすごい死にようだな」

 アーシャは行く途中で見つけた、自軍の兵士の死体の前で足を止めた。その場にしゃがみ込み、仰向けになった死体の裏側を見るように、片手で持ち上げる。すると、折れた剣の先端が、腹部から貫通する形で背中から飛び出していた。殺すために腹部に刺された剣が今は止血の役割を果たしており、剣を少し動すと、生じた隙間からこぷりと血が溢れた。

「罠でしょうかね……」

「多分そうだろう。今は撤去されているか、すべて作動済みのようだから心配はいらない。しかし、こうして若い者が命を失った抜け殻を見ると心に響くものがあるな」

 現場には救命措置を受けられなかった兵士が取り残されている。無惨かつ助けようのない攻撃を受けた者や、罠にかかった者、首を斬り落とされた者など、多くの死に方をした死体と切断された身体の一部があたり一面に転がっていた。

「札の回収は来るんだな?」

「ええ。数日後に」

「そうか。…………ありがとう」

 ルーメイがそう言葉を落として体の裏側に入れた手を引き抜くと、重たい鎧と共に、死体は再び空を向いた。

 二人は先ほど戦闘を終えた砦に向かった。いざ砦の中に入ってみると、鎧を脱がされた兵士たちが傷口に落とされる薬品に悶え、傷の痛みにうめき声をあげ、その声が反響する。その砦自体が大きな石棺のような様相を呈していた。

 ルーメイはその状況に目を釘付けにされていたが、気を取り戻したよう砦の奥にある階段を登り、砦の上の階にある小部屋に向かった。

 その小部屋は、金属製の枠が付いた小さな覗き窓のついた扉で塞がれていた。中からは息の音が聞こえ、下からは追いかけるように阿鼻叫喚の声が響く。

「この中で拘束しています」

「そうか。氏名と階級は聞き出したか?」

「本人に自筆させました」

「従順だな」

 ルーメイは扉の傍に立つ人物からメモ書きを受け取る。そこには、拘束されている人間の名前と、階級が書かれており、その下にはその兵士が供述したことが事細かに書き留められていた。

「従順にさせました」

 気色の悪い笑みを浮かべる人物にその紙を返し、ルーメイは剣を鞘から抜き取って扉を開けた。

 夏でもないというのに半袖の服を着させられた捕虜の姿は、見るも無惨な姿だった。そこには地獄から見上げるような目線をルーメイに送る、拘束された捕虜。身に纏うのは布一枚だけで、所々には血がにじんでいる。また、必要な情報を吐き出させるために何度も傷をつけた痕跡も同じ場所に数か所、生々しく残っていた。

「――。……――!」

 立つように指示をしたのだろう。捕虜の管理を担当する兵士は声を荒げながら腕に繋がれた鎖を強く引き、無理やり立たせる。渋々といった感じで立ち上がった兵士は、厳しい目つきをルーメイに送った。

「生まれはどこだ?」

「幼少期はどんな風に?」

「自国に戻りたいか?」

 ルーメイは日常会話をするように質問を並べ、それを隣に立つ兵士が翻訳して捕虜に伝える。捕虜は声が小さいものの、質問にはすべて答えた。首都近郊で生まれ育ち、徴兵されて戦地に送られたという。さらには、戦争を行う計画自体はかなり前から存在したとも答えた。

自国に戻る気はあると答えたその捕虜は、自身に愛する家族がいることを伝えた。紙に適当な絵を描き、ルーメイに差し出した。

「これは娘か?」

 通訳がそれを伝えると、言葉で返さずに静かに何度も首を縦に振った。光を失っていた瞳には光が戻り、捕虜は従順に繰り返されるルーメイの質問に答えた。しかし、帰ってきた答えがどれだけ有益な情報であっても、彼女は長年姿を変えない石のように決して顔色を変えなかった。それでも捕虜は、ルーメイやゲルテハルト国にとって有益であろう多くの情報を口にした。

「これで話は終わりだと伝えてくれ」

「――――」

 通訳がそう伝えると、捕虜はより一層目を輝かせた。ルーメイは捕虜を連れてくるように指示をし、先ほど登ってきた階段を降り、止むことを知らないうめき声を耳に入れながら、砦の外に出た。

 ルーメイがさらに指示を飛ばし、とある器具を持ってくるように伝える。そして、手足の拘束具を取り外すように周囲に伝えた。

 その指示に従って持ち込まれた新たな器具は、人より大きい一枚の木の板に、金属の器具がいくつか取り付けられたもの。ちょうど人の四肢がおさまりそうな輪が四つほど取り付けられていた。

 その器具が運ばれてくると、捕虜からは目の光が失われ、兵士の指示に抗うどころか従うばかりで、すべてを諦め、投げ出したように抵抗をしなかった。腕と足の拘束具が取り外されても逃げる素振りすら見せず、自らその板の上に横たわった。そして、ルーメイの指示に合わせて、手足をもう一度拘束し、仰向けの状態で捕虜を板に磔にした。

「……最後に言い残すことは?」

「――――――?」

 捕虜は何も答えなかった。焦点を合わせず、空のその先を見ているような瞳は、生気を失い、ただ空を映し、自らの状況を自らの脳に知らせ、認知させるための器官にしかなっていないようだった。

 ルーメイは片手で握っていた剣を取り出し、それを捕虜の眼前にかざす。それでも捕虜は抗うことなく、意識を失ったように雲の流れる空を見上げていた。

「離れろ」

 そう指示を飛ばすと、隣で付き添っていた将校や通訳、捕虜の管理を担当している兵士は二歩ほど引き下がった。

「来世は戦いのない世に生まれるといいな」

 そしてルーメイは冷酷な顔で、捕虜の首元をめがけて剣を振り下ろす。鈍く水気の含んだ音と共に、首が刎ねられた。

血飛沫と共に斬られた首はルーメイの足元に転がり落ち、止まることのない血を流している。板の上では、首の血管から行く先を失った血液が木目にそって染み渡っていた。板から剣を離し、剣先が地面を向くように持つと、赤く鮮やかに光る剣先から雑草の上に滴った。血生臭いその空気は、少しだけ密度を上げて鼻腔を衝く。

「……跡形のないように燃やしておいてくれ。敵国に死者の名簿を送り付ける際には『戦死』と記載するように」

「承知いたしました」

 ルーメイは将校を連れて、次の戦場に足を向けた。


「どうやら、戦線は少しずつ動いているみたいですよ」

「そうなの?」

「こちらをご覧ください」

 そうしてリリーがアーシャに差し出したのは、一枚の広報誌。全国に配られる予定の紙のうち一枚を、アーシャは手にした。

 そこには現在の戦況や、死者数の概算等、戦局の先行きが怪しかった以前よりは、戦場のありのままの情報が連ねられていた。また、裏面には物資不足の不安を煽ることのないように、注意書きがなされている。事実、供給される食料の種類こそ減ったものの、東西にある穀倉地帯を維持しているため、食料の量としては問題なく、栄養状態の悪化も目を瞑れる程度のものだった。

 しかしながら批判的な報道機関が、燻る国民の不安感情をあおり続け、一部の国民はこの広報用紙に懐疑的な姿勢で生活する国民も少しずつ増加している。

 アーシャはこの広報誌に真実と嘘が混在していることを知っていた。もちろん口外してはならないが、自軍の死者数はより少なく、敵の死者数はより多く記載されている。本当の数字を知るのは、ごく一部の限られた人間だ。

 リリーの手元に紙を返す。

「そういえば、先日の新聞で、ゲルテハルト国の新たな自治政府として、レルカーリア国の風景画が掲載されていたと思います」

「そうね。あの風景画はとても綺麗だったわ」

「その風景や落ち着いた雰囲気に憧れて、移住を希望する人が増えているそうですよ。今回は特例も特例なので移住は認められませんが」

「そうね。私のところにもそのような書類が届いていたわ。落ち着いたら、また協議を行う予定よ」

「左様でございますか」

 開戦直後、ゲルテハルト国の同盟国の紹介として、レルカーリア国が特集されたことがある。その紙面の上半分はレルカーリア国の風景画が掲載され、その風景画が、国民の注目を集めた。遥か遠くに連なる山々に、平原のように大きく広がる清らかな湖。そして低地に向かって流れ続ける清流。人口の多いゲルテハルト国では、そのような長閑な暮らしを求める国民が多数おり、特に富裕層がこの雰囲気に目を付け、移住を試みているとリリーは話す。

「それもこれも、独立できたら……の話ね。……だからまずは、目先の戦争を終わらせる必要があるわね」

「そうですね」

 リリーは広報用紙を封筒にしまいながら言う。

「…………買ってきた食材で、今日の夕食を作ってもらうことはできるかしら?」

「……もちろんですが、私が買いに行きましょうか?」

 リリーは首をかしげて提案する。

「私が買いに行きたいの。最近家から出ていないし、少し外に出たくて」

「そうですか。では、お待ちしております。お気をつけていってらっしゃいませ」

「ありがとう」

 準備を整えて、外に出る。もちろん、ガーターベルト、手元にはナイフが仕込まれている。ここ数日の日照りで路面は乾き、歩く度に聞いていた水音は聞こえなくなった。道端には冬の終わりに咲く花が咲いており、季節の移ろいを知らせるような仄かに甘い香りを道行く人々に届けている。建造物の陰に薄く雪が残る中、道行く人々は陰になっていない側に集まって、優しい太陽の温かさを感じながら歩いていた。

「このコートも明日にはいらなくなりそうね」

 そう言いながらコートを脱ぎ、腕にかけて道を歩く。

 戦争が始まる前と何ら変わらない景色が眼前に広がる。石畳から響くいくつもの足音が道沿いに立つ家に反響し、人気が多いように思わせてくる音も、若い母親が子供を抱きながら買い物をする姿も、木のおもちゃや、ぬいぐるみを手に道端で遊ぶ子供も、何もかもが平時と同じ景色だった。店にある食材の品ぞろえが少し寂しくなった程度で、それも少し歩いて大きな店に行けば揃えることは難しくない。

 大通りに出れば、広がった道幅と同じだけ人出が多くなる。アーシャは、その一角にある豊富な種類の食材を取り扱う店で、食べたい具材を手当たり次第購入し、両手に紙袋を携えて帰宅した。

「お帰りなさいませ」

「あなたたちの分もこれで足りるかしら?」

「ええ、十分でございます」

 リリーは紙袋の中身を覗き込みながら言う。

「お会計の方は……」

「気にしないで、私が払わせてもらうわ」

「……よろしいのですか?」

「もちろんよ。いつもお世話になっているもの」

「それではお言葉に甘えて」

 アーシャから紙袋を受け取り、キッチンを住まいとするメイドたちの元へその紙袋を運んだ。そして夕食は、それをふんだんに生かした食材が食卓に並んだ。

「今日のこれは、アーシャちゃんが選んだの?」

「私が選んだわ。見た目がよさそうなものを買ってきただけなのだけど……」

「いい組み合わせ」

 いつもルーメイが座る席には誰も座らず、少しの空虚感と共に料理を口の中に入れる。甘くも塩味のつけられたそれは、その微妙な気持ちから意識を逸らし、次の一口を口に入れるには十分なものだった。デザートには新鮮な雪をそのまま容器に盛り付け、さらにはその上から果汁や花の蜜に砂糖を加えて煮込み続けたとろみのある液体をかけたものが振る舞われた。もちろん、その雪は地面から取ったものではなく、専用のトレイの上に積もらせた雪だ。

「これは……雪よね?」

「はい。そのままお食べいただけます」

 雪をそのまま食べるという発想すらなかったアーシャは、驚きながらも液体のかかった部分を掬って口に運ぶ。良いくちどけの雪は、甘い汁と混ざり合い、シャリシャリとした軽快な食感は、彼女にとっては初めての体験だった。

「この国を代表する伝統料理に数えられるものの一つです。お味はいかがですか?」

「私の国にはない新しい食感ね。美味しいわ」

 食卓にシャリシャリという音が響き続ける単調ながらも奇妙な感覚に、アーシャは口元で笑みを浮かべながら雪を口の中で溶かした。

「……そういえば昨日、しょうもないことがありまして」

 キッチンを担当しているメイドが突然口を開く。

「昨日、本を読もうと思ったんです。そうして書庫に入って本を取って開いたのですが、表紙と内容が全く違っていたんです」

 そこまで話したところで、キッチンを担当するもう一人のメイドが笑いをこらえるように口元に手を当てながら、何もない方向に視線を逸らし始めた。目を逸らすメイドの腕をがっしり掴み、口角をひきつらせながらそのメイドは話を続ける。

「そしたらこの子がですね。本のカバーをかけ替えたというんです。私の読む本を予想して、わざわざ書庫でカバーをかけ替えたと」

「あ、あれはっ、違ってたからかけ替えたんです! まっ、まさか私がそんなこと」

「お黙りなさい。カバーをかけ替えるにしてももっと丁寧にやりなさい。端が折れていたわよ。ブックカバーのかけ替えが下手なのはあなたしかいないわ」

 気味が悪いほどの笑顔と共にそう話すメイドとは逆に、腕を掴まれたメイドは一層強くつかまれる腕から生じる痛みに、イタズラから逃げるように笑っていた顔を歪ませる。その晩、腕を掴まれていたメイドは後にユラに呼び出され、夜遅くまでブックカバーを綺麗にかけかえる方法をみっちり教わるのだった。


「あれで勝てないというのはどういうことだ」

「どうやら偵察部隊が敵の数を見誤ったようでして……」

「それを頼りにするなとあれほど言っただろう」

 ルーメイは、師団長や参謀本部が集まる作戦会議にて、作戦失敗の報を耳にした。

 事前の見込みでは質、量ともに優勢であり、勝利はほぼ確実と思われていた戦いだったのだが、偵察部隊が敵数を見誤っており、偵察部隊の情報を信じ込んでいたその戦線の担当者は、その情報に疑いをかけることなく勝てるはずの攻撃を敢行した。そして、実際の敵の数は偵察部隊の数えた頭数の三倍であることが分かったのは、攻撃命令を出してから数時間後のことだった。

敵だけが生き残り、戦場に散らばる死体の大半はゲルテハルト国の兵士。その戦線の部隊は一部を除いて壊滅状態に陥り、結果として戦線に大穴を開けた。緊急的に他の師団から部隊をかき集めて再編成し、敵に奥深くまで浸透されるという最悪の事態は免れたものの、数週間かけて前進した地域をたったの二日で奪還された。

「偵察部隊はあくまでも敵の『有無』を確認するためのものだ。正確な数などいくらでも隠せる。兜に周辺の草木を絡ませて偽装する戦術はよくやるだろう。我が軍が知りうる作戦のすべてを敵が使ってくることもあると心に刻んでおけ。安直な行動は厳に慎むように」

 参謀本部からの痛烈な発言に気圧されて言葉を失う別の師団長。ルーメイはそんな師団長を冷酷な目で見ていた。ルーメイの師団からもいくつかの部隊を派遣し、すでに多数の死者が出ている。

 作戦会議はその後も支障なく進んだが、失態を犯した師団長には発言の場は一瞬たりとも与えられなかった。

 一人省かれた作戦会議では、現在の戦況が事細かに説明された。先の師団長の失策によって後退した戦線をどのようにして再度押し上げるのかというのが主な議題となり、さらには北部と南部の気温差による進軍度合いの違いについても焦点になった。南部から次第に晴れ間が差し込むようになり、北部と南部とでは、地面の状態も気温も温度もすべてが違う状態となっている。そのため、今後の天候を読みながら、季節の変わり目が過ぎるまで当面の間戦線を維持することとなった。

 しかし、この決断は当初の作戦目標からは大幅に遠のく選択をしたことにもなる。戦争が長引けば、国防費の増大は避けられず、やがて国民生活にも多大な影響が及ぶこととなり、厭戦気分が国中に浸透することは目に見えていた。

 それからというもの、敵からの攻撃には参謀本部が対応し、柔軟に対応し撃退するものの、反撃を行ったり、新たに占領地を獲得するような積極的な攻撃には出ず、ひたすらに防御の姿勢を取り続けた。

 その作戦の甲斐あって戦況は僅かながら安定し、その安定した状況をしばらく観察した後、ルーメイは道端の草木が花を咲かせた頃に帰宅した。

「いやあ。変わらないな、ここは」

 玄関で靴を脱ぎ、付き添いのエーリカに荷物を預け、久々に自室の扉を開く。そして、窓から周囲を見渡した。雪解けを迎えたこの地域では、その水を栄養にして、柔らかな陽光を浴び、夜には風に吹かれ、日を追うごとに緑が深まっていた。

 鼻が通るように滑らかなその空気をルーメイは胸いっぱいに吸い込み、吐き出した。

「元気だったか? アーシャ」

「ええ。私は元気です」

 上がり調子でアーシャが答えると、ルーメイは彼女の前に立って、しばらく目を合わせ続けた。交錯する視線にアーシャが疑問を持ち、口に出そうとしたその瞬間、口の動きを見計らったかのようにルーメイも口を開いた。

「可愛いな……」

 突然彼女は言う。

「あの、私が、ですか?」

 アーシャは自らの口元に向けて指をさして確認した。

「この部屋にはアーシャ以外誰もいないが」

「それはそうですけど……」

 照れますね、と疑問符を浮かべつつ首を傾げて目線の色を変えるアーシャ。

「なんだか、目の前に生きた人間がいるっていうのが、物凄く奇跡というか、ありえないことのように思えてしまって……。……不純だったな。すまない」

 ルーメイは目元の水気に気づき、ハンカチで目元を抑える。今まで見るに堪えない死体が積み上がり続け、長期間良い香りも鼻を通らず、良い景色も網膜に映してこなかった彼女にとって、薄い布を幾重にも重ねた純白のワンピースを着ていながら生きていることを示すように服を揺らすアーシャは、戦場で生まれた見えない傷に気付かせ、尚且つそれに寄り添うような存在だった。そんなアーシャは、様子を伺うように見つめ、ルーメイの眼中に存在し続けた。不慣れな状況に手足を動かすその挙動でさえも、ルーメイの涙の理由となりえた。

「……ええと……。なんと言えば良いのでしょう。私は、前線に出向いていないので殺されることはありませんし、余程のことがない限り、私は生きていますよ。恐らく」

 身長差を意識せずとも感じられるその距離で、ルーメイは目の前の暖かく、穏やかに揺らぐその命の灯に手を伸ばし、包み込んだ。

 その後、ルーメイは家の椅子に座って仕事をできることに喜びを感じ、いつもとは比にならない速度で積みあがった仕事を片付けていった。執務室には絶え間なく彼女のペンの音が響き、時々エーリカや他のメイドが部屋を出入りし、用件を伝えては戻っていく。そんな日常に感極まったルーメイは食卓を囲んだ際にはアーシャやユラからメイドまですべての人に話を振り、騒がしい食卓が出来上がった。そしてまた、アーシャを含めたルーメイの周囲の人々はそれに安堵していた。

 後に無謀な作戦を強行したとしてかの師団長は更迭され、後任の師団長が就任した。新たな師団長の作戦によってさらなる戦線の後退を阻止し、さらには維持することに成功した。当面の間は敵も攻撃を仕掛けてくることはないだろうと見込んでいた参謀本部が再び作戦会議を開くこととなったのは、新しい季節が全国の空を覆った数週間後の晴れた日の朝だった。

「ルーメイ様」

「こんなに朝早くからどうした? エーリカ」

「軍から招集命令です」

「またか。飽きたぞ」

 前のめりになってエーリカの話に耳を傾けていたルーメイは、一気に力を抜いて背もたれに体を預ける。

「どうせ、しょうもないことを決定して終わりだろう」

「とりあえず行きましょう。同行いたします」

「……わかった」

 しぶしぶといった様子で肘置きに手をかけて重い腰を上げると、今着ているブラウスの上から制服を着込み、いつもの作戦会議が行われている場所へと向かった。

 いつもの部屋には、変わらぬ面々が険しい表情で地図を見つめていた。やけに低い天井と、仄暗い室内。とても参謀本部のある建物の作戦会議室だとは思えないが、これがいつも通りの光景だった。参謀本部と先に集まっていた幹部は地図を覗き込みながら答えの出ない議論を続けており、エーリカに荷物を預けると、ルーメイもその中に加わった。

「今日はどうしたというんだ」

「ここが、突破されたらしい」

「この前のあの例の場所じゃないか。穴はふさいだんじゃなかったのか?」

「敵の、『新兵器』によって一瞬にして突破されたと」

「ほう?」

 ルーメイはその新兵器について聞き返したが、有力な情報は何も得られず、その兵器が効果を発揮するその瞬間を見た兵士たちは、即死したという。そんな超兵器にも等しい存在にルーメイは興味を抱きつつも、すぐに目の前にある地図に視線を落とした。最初の国境線は黒い線で塗られており、少し前まではその線の右側、つまり敵国の領内で前線を張っていたが、今現在はその線の左側、さらに言えば黒い線から少し離れた場所が前線となっている。

「とりあえず、今はこの突出した部分を包囲殲滅する方向で固まっている」

「私はその案に賛成だ。彼らは惜しみなくそれを使ってくるだろう。兵器の鹵獲も夢ではない」

「確かにそうだな」

 鋭いナイフの先端のように、一部分だけ極度に突出した戦線があり、その根元を折るようにして包囲殲滅するという作戦は全会一致で採択され、それ以降も新兵器については経過観察をすることとなった。また、前線の兵士からの情報収集も始め、怪しい動きがみられた戦域は予備役を動員するなどして対応することとなった。

「……で、なんだって?」

「さっき耳元で言っただろう……」

「ごめん聞いてなかった」

 ユラは実験器具の手入れをしながら、ルーメイの話を聞く。

「で? 敵が? 新兵器みたいなの出したんだって?」

「聞いてるんじゃないか」

 ルーメイは、時間と共に積みあがったデータをそのままユラに話す。その方面の知識なら、一技術者である彼女の右に出る者はいない。何かわかるのではないだろうかという一縷の望みに賭けてのことだった。ユラはしばらく考え込んだあと、フラスコの中の液体を揺らしながら答えた。

「大きめの爆弾、投げられたんじゃないの?」

「爆弾……?」

 聞きなれない言葉は、ルーメイは身体を前のめりにさせた。

「今までは、火炎壺が主流だった。紐に火をつけて、敵に投げて地面に落ちて割れた時に、可燃性の液体が広がる。見たことあるでしょ?」

 火炎壺は、ユラが今まで何度も実験を行ってきた、言わば彼女の専門分野だった。その実験の様子を実務者であるルーメイが見て、要望を出すことも少なくない。そこら中に転がる石よりも見てきたその火炎壺とはまた違ったものだと、ユラは説明を続ける。

「もっと瞬間的に強いエネルギーを発揮できるものが、爆弾。多分ね。人が見る間もなく死ぬくらいなんだもん。そうとしか考えられない」

「そっちの国じゃどうなんだ? 実用化されているのか?」

「うちの国じゃ、まだ実用化には至ってない。隣の王国でやっとかな」

「それほどの技術をルブエールは有していたというのだろうか」

「そう、なんじゃない?」

 ルーメイは、頭の中にある情報の整合性を確かめるために、ユラにそのことについて根掘り葉掘り聞き出す。稀に耳を傾けない時間はあったものの、片手間に実験をこなしてその結果を紙に殴り書きしながら、ルーメイの話を聞いては断片的に言葉を返していた。

 まず結果として、新兵器は相当な技術力を持っていなければ作れない。そして、その技術力のレベルはユラが言うには、ゲルテハルト国を大きく上回っているだろうとユラは推測した。

 そして、この話はじきにルーメイが頭を抱える原因となった。軍の高級将校を育成する課程で、仮想敵国であるルブエールについて、これほどの技術力があるとは教わっておらず、頭の引き出しにあるのは先ほどユラから言われた情報とは、今の両国の関係ほどに遠く離れたもの。その差異に頭を悩ませながらも、培った経験と技術力で作戦を立案しつつ、それを次回の作戦会議で報告するために、彼女は思いつく限り紙に多くのことを書き留めた。

 一進一退を続けていた戦争は、季節の移ろいとともに、敵側に有利な状況になっていった。軍が総力を挙げて分析を続ける新兵器についても、日に日に戦線への配備数は増え、それによる被害は拡大する一方。このままでは戦力不足が危ぶまれるというそんな時、ルーメイの元に新たな試練が突き付けられた。

「北東部にある穀倉地帯が奪取された……?」

 ルーメイはこの情報に驚くよりも先に、疑問を抱いた。前回の作戦会議では、生活の要である穀倉地帯に対しては手厚い防御を施し、さらには参謀本部が直々に指揮を執っていたはずの場所。いくら見つめても文章に書かれた文字は変わらず、ひたすら彼女に現実を突き付け続けた。

「え……は?」

 この書類を運んできたエーリカに疑いの目を向ける。

 エーリカは机の前に立ったまま、何かを言われる筋合いはないといった表情で微動だにせずルーメイの発言を待ち続けた。

「……他に何か詳細は聞いていないか?」

「特には聞いておりません」

 そう言われると目線を下げ、指先を頭に添えて頭を抱えた。

 北東部にある穀倉地帯では、希少な植物から採集できる果実や、生産量の少ない果物、穀物を生産している。そこだけでしか手に入らないような穀物の在庫は、既に店頭にある限りだった。そして、その希少な穀物の主な消費先は、この国に住む貴族や富豪たち。

複数の大企業を一手に担い、発言力の強い人間たちが不満や批判をしようものなら、国の安定性は一瞬にして消え去り、国は逆三角形の上に立つような状態になる。それを防ぐためにはまず、三角形の根本、つまり彼らの生活を支えなければならない。貴族や富豪に宛てた一級品の生産地を喪失したことは、そのような批判を恐れる政府にとっては看過できない事態だった。その現実は、少し遠くで狭い部屋に詰めている参謀本部にも衝撃を与えた。

その情報が政府にも伝わると、すぐにその地域を奪還するように厳命された。

その命を受けた参謀本部は直々に作戦を立案し、敵の兵力の十倍にも近い兵を並べて、物量で圧倒しながら数週間かけて奪還に成功した。政府の要人はそのことに肩の荷を降ろしたが、後に発行された勝利を知らせるはずの広報誌が、わずか一握りの人間のために数多くの犠牲を払ったことを大多数の国民に知らせることとなり、それが原因となって政府、軍に対する信頼や、戦争の勝利に対する疑念が持たれ始めた。幸いなことに一般国民の生活に対する影響は大きくないため、その火種が過度に大きくなることはなかったものの、生まれた火種が季節と共に過去に流れることはなかった。

「なぁ、お前あれだろ? 軍の遣いだろ? なんでこんなことなっちまったんだよ! ええ? 前まであった食材もなくなって、そのうち食べるものに困るんじゃないのか?」

「えっ?」

 街ですれ違った男にそう詰め寄られるのはエーリカ。素っ頓狂な声を上げて、そちらの方を振り向く。すると、その方向には、調理用のナイフと思われる鋭利な武器を右手に持つ男が立っていた。男はむしゃくしゃしたように乱雑な足取りでエーリカに詰め寄り、息のかかる距離で大声を上げながら問い詰めた。

 男が一歩詰めよれば、エーリカは一歩引きさがって間合いを取る。

「落ち着いていただけますか……!」

 男が手先に力を込めたのを見て、エーリカは袖口に仕込んでいたナイフに手をかける。恐怖に瞳孔を開きながらも、必死に突然詰め寄る相手をなだめようとした。

 男がナイフを振り上げたその瞬間、瞬く間にエーリカはナイフを振り上げた男の手を素手で振り払う。そして唖然とする男の前にこう言葉を残し、その場を去った。

「……申し訳ありませんが、私の知るところではありません。……お問い合わせなら広報部にお寄せくださりますと助かります」

警護なしでは外出することすら難しいでしょう――。帰宅後、ルーメイの前でそう言い放ったエーリカの一言は、崩れ去る日常をただ無力に見つめるように失望に溢れ、振り払った際に生まれた左腕と額の傷が、痛ましい現実を生々しく表現していた。

それからまた数日後の夜には、家を囲む塀に火が昇った。通りかかった善良な市民や警備兵、偶然居合わせたメイドたちによってすぐに消され、生じた損害は極僅か。そして、犯人はその場にいた人々に取り押さえられ、警察による取り調べを受けた。その取り調べで容疑者の男は、軍や現在の国内情勢に不満があったため、犯行に及んだという動機を明らかにしたのだった。

このような事件や日常生活を通して、軍やその関係者は、国内での不満が無視できない程度になっていることを感じざるを得ない状況にあった。

 国民の不満をいかにして取り除くか。その類の議題は、それ以降、頻繁に取り上げられるようになった。大多数の国民が現政府を支持しているものの、批判的な報道緒行う会社がある以上、不満の拡大は避けられないとの認識で一致した政府と軍は、新たな策を探し求め、再びコマを手に取った。

そのうち、有利であったはずの防衛戦争は、政治的目的を優先しすぎた余りに多くの犠牲を払い、前線は徐々に後退し、自国の土を敵が踏むことを許すことが日常になった。そして、相手が持ち掛けてきた戦争に勝利するという軍事的な目的の作戦よりも、政治的な安定を目的とした作戦が目立つようになり、肝心な部分で戦力の投入が行えず敗北することも徐々に増え始めた。腐っても政府の犬である軍は、政府の言う事に逆らうことはできない。静かな苛立ちを募らせる参謀本部がいくら最善策を提案しようと、政府が却下すれば、実現などありえなかった。

 幸いなことに敵国は東側であり、ゲルテハルト国の首都は国の中でも極西部に位置していた。さらに言えば、レルカーリア国の国境からほど近い場所に首都がある。

しかし、人口だけで考えれば東部に集中しているため、一度奪取されてしまえば、再奪還は戦力面だけではなく、経済力や人口といった多方面において苦戦を強いられるのは明白だった。

ルーメイはその最悪な事態を一日でも遅らせるために、崩壊しかけた戦線を立て直そうと、日夜地図を睨み、戦況に睨まれていた。

 そんな彼女の部屋に出入りする人間は、ただ広がる砂漠の中の水源のように美しく、物珍しく彼女の瞳に映る。呼び出されたユラも、その一人だった。

 ユラはノックもせずに扉を押し開ける。

「何の、用事?」

「新兵器のことについてだ。『爆弾』と言っていただろう。それを我が国の技術力をもってして生産することはできるのか、ふと疑問に思ったんだ。政府の連中は、その新兵器を分析するのに精を出しているようだが、こちらである技術で類似品のようなものは作れないだろうか、と思ってな」

 部屋の入口付近に棒のように立つユラにそう声をかけると、首をひねりながら、小さな唸り声を落とす。

「無理」

 唸り声に続けてそう返答したユラに、ルーメイは衝撃を受けたように足を一歩後ろに下げた。

「そんなに無理か……?」

 食い込むようなその返答に、ルーメイは少したじろぎながら再度尋ねる。

「そもそもあれは手投げじゃない。あの兵器はうちじゃ作れない」

「そっちは?」

「目下開発中……。実用化は数年先」

「あいつらが最新鋭ってわけか」

「そ」

 鋭い眼差しのままユラの意見と向き合うルーメイがいる一方で、ユラはゆらゆらと暖炉の火に誘われその前に座ると、ぼうっと暖炉の火を眺め始めた。ルーメイはそれを気にしないように、少し丸まった背中を覆い隠す髪に語り掛ける。

「それを開発できさえすれば、何とかなるような気がするんだよな」

「そりゃね……。戦力的にもイイ感じになるんじゃない……」

 言葉の随所に隠しきれない睡魔をにじませながら、ユラは答えた。

 つい数日前、ユラは戦線付近に出向き、回収されたという新兵器の実物を他の技術者と共に確認しに行った。その際に、構造物の素材をほぼすべて特定できた。さらには、その材料がゲルテハルト国とレルカーリア国の領土内に眠っている可能性も高いということが分かった。

にもかかわらず実用化に踏み切れない原因となったのは、基礎技術力の低さ。

戦争が進行するにつれ敵は技術開発により多額の資金を費やすようになり、敵兵士一人当たりの火力は、戦争開始直後と比べれば二倍三倍と大きくなっていた。

それに対抗するためにゲルテハルト国はより多くの兵士を動員して戦力の均衡を保っていた。しかし、増大する戦死者、揺らぐ統一、方向性を失いかけた正義、資源に制限がかかり始めたことによって失われる国民の自由。その諸々に目を瞑れなくなり、現地に確認しに行った翌日に重い腰を上げて新技術開発して実用化しようと動き始める前触れを見せたところだった。

「でもさあ、無理だよねぇ」

「どうしてそう思う?」

 改めて、現実と未来を否定するユラに、ルーメイは静かに問い返した。

「国民性」

 一言で割り切るユラ。

「この国の料理が美味しいのには、理由がある。……知ってるでしょ?」

「我々ゲルテハルトの民が、常に快楽を求める考えを持つから、だろう?」

「そそ。だから、技術開発に積極的な人間が少ない」

「だから我々はこうして手を組んでいるのだろう? 騎士団国シュマイジと」

「そう。ただ、本国は正式に参戦するつもりはないらしいし。有力な技術支援は望めない」

 ユラはため息をつきながらがっくりと肩を落とし、暖炉の火の温かさに包まれる。歴史の一ページを遠くから眺めるように、或いは走馬灯を眺めるようにぼうっとしていた。

「…………何か策があるんだろう。ユラ?」

「ないことは、ない」

 迷いを残しながら、ユラはそう答える。

「言ってみてくれ」

 ユラが明かした策は、「国」に頼るものだった――。


「アーシャ。ちょっといいか?」

 ドア越しに声をかけると、遊びに来た友達を迎える家主のように明るい声をドア越しに響かせながら、アーシャはドアを開いた。

「おはようございます」

 爽やかで柔和な笑顔と共にルーメイを出迎えると、自室にあるもう一つの椅子を持ってきて、ルーメイに座るように促した。包み込むようなその柔らかい椅子にルーメイが腰を掛けたのを見届けてから、アーシャも椅子に座った。

 机上には、いくつかの書類が置かれており、すぐそばにはペンも用意されていた。仕事の途中であったことを察したルーメイは、手をさり気なく机の方へ向けて、仕事を続けるように促す。

「お気になさらず。後はサインするだけですから」

「そうか。最近はどうだ?」

「……どう答えてよいのかわからないような気分です。……それ以外は特に」

 アーシャは苦笑いしながらその話題をそれとなく避け、ルーメイが本題に切り込むのを待った。ルーメイもその言葉に納得したような表情を示すと、少し考えてから口を開いた。

「最近、敵が新兵器を作ったらしいんだ」

「そうなんですね」

 アーシャは静かに首肯する。

「その新兵器とやらは、我が国の技術では生産できないもののようでな。全く恥ずかしい話だ。……そして今日は、その話で折り入ってお願いがある。というよりかは政府から指示があったんだ。より手厚い技術支援を受けることはできないかと」

 アーシャはしばらくの間悩むそぶりを見せる。アーシャは自宅にある技術書はほぼすべてこの国のために提供している。事実、その技術があって鉄の精錬についての技術が大きく進歩し、純度の高い鉄を精錬することができるようになった。さらには、剣などに用いることのできる剛性の高い物質を作るための成分の配合など、ゲルテハルト国にはない技術や数多くの基礎的な知見が、アーシャの持ち寄った本に詰まっていた。

 しかし、遥か東のルブエールでは、その技術はもちろん当たり前のものであり、ゲルテハルト国で実用化に至らないような最新技術として扱われていた技術も、一世代前の技術になろうとしていた。かの国の技術面の発展はここ数年、ここ数カ月だけでも勢いを失うことなく発展を続けている。

 その技術格差を大量の犠牲の末に痛感した参謀本部と政府は、今やゲルテハルト国の一角を成す、新たな協力者であるアーシャに、支援を求めたのだった。

「レルカーリア国の技術は、政府が崩壊する以前から目を見張るものがあった。隣国なのになぜここまで差が開くのか不思議なほどに」

「……確かに崩壊する前は、隣国のリーリエ王国と肩を並べるほどの技術力がありました。技術の開発は政府が崩壊する直前まで行われていたと聞いています。それ以降は当たり前ですが行われていません。ですので、計算上は、今ちょうど、ルブエール共和国と同世代の技術を有しているかと」

「であるなら、その技術をどうにかして引っ張り出してきてほしい。……というのが今回のお願いだ」

 アーシャは、自宅から持ち寄った技術書が収められている本棚を眺める。自宅以外に、レルカーリア国の遺した技術に触れることのできる場所。頭の中に地図を広げ、思い返すように目を瞑り、しばらくの間沈黙が訪れた。

「……確か、レルカーリア国の遥か南西側に、書庫とも呼ばれた王立図書館があったはずです。そこには代々引き継がれてきたすべてが眠るとも言われていて、王族のみぞ知るような文献も中にはあると聞いたことがあります」

 レルカーリア国が建国されてから世紀を何度かまたいだ頃。今から数えれば百年以上前、当時、主権を握っていた王族は文化の存続を最優先として、堅実な運営を行ってきた。文化の保存に資する目的で建築されたのが、その王立図書館。長方形の宮殿のような建物で、多額の資金を費やして堅牢な設計がなされており、風雨はもちろん並大抵の攻撃を受けただけでは建物が崩壊することはないと噂には言われている。事実、建築から百年経っても傷一つなく機能を果たしており、情報の少ない当時では、地域のみならず世界の知見が集まっていたといっても過言ではないような場所。

「――そんな図書館だったのですが、政府が崩壊する少し前から手入れがなされておらず、今どうなっているかは私も分かりません」

 アーシャが住んでいる家からは程遠く、数日かけて歩くような距離だという。彼女がその建物の現在の姿を知る由はなかった。

「……アーシャが言うその図書館に、我が国にとって有用な技術書が眠っているのであれば、一縷の望みをかけてそこに部隊を派遣したい」

「図書館一つに部隊一つを?」

 荷物を運ぶことのできる荷車とそれを引く馬、そして数人いれば事足りそうな目的であったが、ルーメイはそこに部隊を付け加えた。しかも、暇を持て余しているメイドとユラまでつけるという。

「敵がその図書館の存在を知っていた場合、少人数で行っては無駄足になりかねない。小さなことでも、可能な限りの対策を施していくべきだろう?」

「それはそうですが、前線の兵力が……」

「それは心配無用だ。師団長である私を甘く見るんじゃないぞ」

 自信と共にあふれる笑みを見せながら、アーシャに語り掛けた。

 話は瞬く間に進んだ。瞬きをしている間に準備を終わらせたかのような速度でルーメイは矢継ぎ早に関係各所に指示を飛ばし、その翌日の昼下がりには、図書館へ向かう準備ができたと報告が入った。前線から帰隊することのできた精鋭部隊にはつかの間の休息が与えられ、直々に勲章が授与された。

「さて、今よりこの部隊は、彼女らの指揮下に入る。そして諸君」

 その一言で、家の前に整然と並ぶ十数名の屈強な兵士が軍靴の音を立てて姿勢を正す。遅れて、装備の擦れる金属音が響いた。

「諸君には、任務を与える。二人の命を最優先としてくれ。次いで求められる文献の回収を行い、誰一人として欠けることなく帰隊するように。文献の仕分けは有識者であるユラが担当する」

 ルーメイは、部隊の全員の手を握り、挨拶を交わした。手短でありながらも静止して敬礼をし、ルーメイの手を握る。彼らは、使命に燃え滾る目線をルーメイに送り続けた。最後の兵士に挨拶をし終わると、再び玄関の入り口に立つ。

「……諸君が戻るまでの間、私は職責、そして使命を果たし続ける。君たちが帰るべき場所が、会うべき人が、変わらぬ姿で諸君を迎えることができるよう、この身をもってして最善を尽くすと誓おう」

 ルーメイは首元の勲章を揺らしながら、部隊の兵士たちの横に紛れるようにして並んでいたアーシャの元に歩いた。

「そしてアーシャ。絶対に、ここへ戻って来てくれ。……約束だ」

「もちろんです。……必ず」

 真剣な眼差しと共にそう答える。

「必ず、だ。……長く話しすぎたな。さぁ、行ってきてくれ。図書館までの遠足だ」

 ルーメイは、アーシャに笑顔を向けた。

「それでは、行きましょう」

 そうして、ルーメイとその場に残る数名のメイドたちに背中を見送られながら、アーシャは人通りの少ない道に出た。途端、アーシャは立ち止まる。

「……どうかされましたか?」

 隣に立つ凛とした顔のリリーは、アーシャの顔を覗き込むようにして聞く。アーシャは何かを迷う様子で、山の麓へと続く道を眺めていた。

 ひとたび瞼を下ろし、呼吸を整える。

「なんでもないわ、行きましょう」

 ふと、彼女が家の方向を振り返ると、玄関には、誰一人としていなかった。

 物寂しげな雰囲気を振り切るように素早く前を向き、少しずつ変わりゆく景色を瞳に映す。

 歩けば歩くほど伸びるような道を、日が暮れるまでひたすらに歩き続けた。


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