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第5話

「ただいま」

 もちろん、誰もいるはずもない。アーシャがいた形跡だけが、彼女の帰りを待っていた。机の上に閉じられた本、少ししわの寄ったベッド、火のついていない暖炉の上にかけられた鍋。

 すべて、アーシャが家を出た時の状態そのままだった。

 家を出た時よりは幾分か膨れたカバンの中身を取り出して整理し、自宅にあったものは元の場所へ。持ってきたものは新しい在処へそれぞれ片付けた。

 そして彼女は、ツヴァイヘンダーを木の机の上に横たわらせる。ゴト、と重く鈍い音がして、剣が置かれた。

 冬の日差しに変わらぬ輝きを放ち、侵せぬオーラを纏うようにその光は揺らぎ、彼女が顔を動かすと、反射する光も色と強さを変えてそれに呼応した。そして彼女は、その剣に触れ、優しい吐息を落とす。

「長旅だったね」

 ただ、旅をするために家を出たはずだった。自国の領土を守るために、剣を振るった。自分自身を守るために、剣を振るおうとした。ルーメイに見せるために、剣を振るった。そして、ルーメイはこの剣に憧れた。さらに、ルーメイはアーシャの技量を認めた。

 長く連れ添ったパートナーは、その疲れを全く感じさせない程に強い輝きを放つ。

 アーシャも目を細めながら、その強い輝きを愛おしそうに手で覆う。

「おつかれさま……」

 アーシャは右手で持ち手を抑え、左手の指先で剣を感じるように手を動かし、先端の方に向けて撫でた。

 しばらくの間剣を嗜み、家を掃除し、増えたものをもう一度整頓し、陽光の暖かさだけでは心もとない夕方になったころに、暖炉に火を入れる。

「ユラさんから火をつける道具をもらってきておけばよかったわね」

 火をつけ、暫くの間揺らぐ火を眺める。家の中に横たわる冷たい空気を追い出すように暖かい空気が家に循環し、パチパチと何かが弾けるような音が家に響き、火の粉が煙突に向かって上がっていく様子をアーシャはぼうっと眺めていた。

 局所的に強く燃えていた暖炉はじきにすべての木を燃やし始め、アーシャの動き一つに揺れていた火は芯を持って薪を燃やし、揺らいでいた。

 そんな落ち着いた揺らぎに眠気を誘われたアーシャは、暖炉から少し離れたところにカーペットを敷き、そこに座る。そして、細く鋭いその剣を小さな体で包み、重量を彼女の肩と床で支えるようにして剣を胸の内に抱えた。

 日が暮れて暖炉の火の色と窓から差し込む赤い陽光が混ざり合うその時まで、彼女はパートナーと共にしばらくの眠りについていた。

 アーシャが目を覚ましたのは、日が暮れる少し前になってからのこと。東の空から迫る夜に追い出されるように、赤く燃える太陽が西の地平線に沈もうとしている。玄関側の窓から差し込む赤い夕陽の温かさに目を覚まされ、アーシャは瞼を開けて寒さに負けようとしている暖炉の火を目にした。

「陽が沈むのが早いわね……。少し寝すぎたかしら」

 アーシャは玄関近くのハンガーにかけてあったコートを手に取り、外に出た。

 ドアを開くと、冷え固まりそうなほど冷たい空気が、肌を露出した手先や首元に染み入る。アーシャは肩を上げ、悴む手先でコートの襟を立てた。

 アーシャは風の通りやすい家のそばにある干し肉を取りに行き、大きな塊を一つ、木の棒から引き抜いた。寒さに耐えかねて小走りで家の中に戻ると、家の中を揺蕩う暖かな空気に迎えられ、自然と肩が下りた。

「……温かいものが飲みたいわね」

 玄関のドアを閉めた後、アーシャはもう一度窓の外を見やる。

 最後、家を出た際に腐りそうなものは食べきっていたため、家には乾かした食べ物しか残っていなかった。そして、水も同じく、家にはなかった。

 大きなため息をついた後、意を決して家を出る。湖畔に向かうと、乗ってきた馬が枯れ草を踏み分けながら歩き回っていた。アーシャがさらに近づくと、それに気づいた馬がそろりそろりと傍にやってくる。水をくむ様子を興味深くも優しい目つきで眺め、水を汲み終わると、彼女に体を擦り付けて、白い鼻息を吐きながら再び草原を歩き回り始めた。

「あれで寒くないというのだから、すごい身体よね」

 極寒の地で育った馬のため、寒さには非常に強いという特徴がある。見た目はとてもシンプルで、剝ぎ取る毛皮もないほどには皮が薄い。筋肉の繊維や凹凸がわかるほどには筋肉質で、今日のような冬の日に雪原を駆ける姿には、誰もが見惚れる馬だった。

 アーシャは汲んできた水をかけ替えた小さい鍋に入れ、薪を足して火を強める。

 蠟燭の火のように小さくなっていた暖炉の火は、次第に新たにくべられた薪に火を広げて背丈を伸ばし、鍋底を撫でるほどの大きさになった。温まった水から湯気が上がってくると、乾いた草と具材を入れる。草はすぐに溶け、具材は少しずつ水を吸って大きくなった。

 家にあった食材が腐っていないことを確認し、スープ、野菜、メインディッシュの順で平らげた。

 夜の身支度を済ませ、窓からは月明かりだけを取り入れる。

 自身の影が暖炉の火に揺らめく中、彼女は向こうで仕入れた文献を机の上に広げ、読み耽った。

「眠い……」

 机の前でふわふわ頭を揺らして、ボタンを押したように机の上に崩れ落ち、その衝撃で目を覚ましたアーシャは額を抑えながら呟いた。

 覚束ない足取りで本棚の小さな隙間に本を押し込んで、ベッドに横たわると、暫く月明かりを眺めた後、アーシャは久々に実家での眠りについた。

 窓をカタカタ揺らす夜を超えて、アーシャは弱くも優しい日差しで目を覚ます。

「一段と寒いわね……」

 身体を覆っていた分厚い布を首元で押さえたままベッドを出て、暖炉に火を入れる。彼女の後をつける布を引きずりながら、彼女は窓を曇らせている小さな水滴を指で集め、水滴を窓枠に落とした。

 彼女が指を動かしたその場所は水滴が消え、外が鮮明に見えていた。くすんだ窓からは空を覆う薄く白い雲と、地面を覆う雪が境目を失って繋がった世界が窓の外に広がっていた。その外の景色を見て、アーシャは自身を覆う布をより一層深く被った。

「……馬の様子も見に行かないといけないわね」

 意を決して彼女の体温と寒さを隔てていた布をベッドに整え、急いで着替えその上から温かい部屋着を着込んだ。準備を整えて、さらにその上からコートを羽織る。

外に出て、高らかな口笛を澄んだ空に響かせた。

 どこかに反響して帰ってくる彼女の口笛。小鳥のさえずりのように高く、滑らかで、キレの良い口笛は、彼女が見渡す範囲の大半の場所に響く。

 しばらくして、遠くから白い馬が駆けてくる。寒さをものともせず、スキップをするように軽快な足取りで彼女の元に来て足を止めた。彼女の周りの草木もすっかり雪に埋もれ、白馬は足元が雪に埋まり、雪から生えているようにも見える。

 頭にそっと手を添えてやると、白い鼻息を出しながら、彼女が撫でるのに合わせて馬は顔を寄せた。

「温かいね……どこで寝ていたの?」

 口元から白い息を逃がしながら聞くと、馬は白い息を吐いて答えた。その温かい息は、アーシャのかじかんだ手先の痛みを和らげた。

 落ち着かないようにせわしなく周辺を歩き回る白馬を追いかけながら、物品の欠損や馬の身体に傷がないことを確認すると、アーシャは自由にさせるように口笛を吹いた。馬は、再び雪原と同化して木の陰に消えていった。

 来る年末は、大雪だった。

 毎年、年末になれば一夜にして天変地異が起こったと勘違いするほどの大雪がこの地域一帯を襲う。年が明けてアーシャが玄関の扉を開けると、壁のように雪が彼女の前に立ちはだかった。アーシャの身長より少し低い程の高さまで雪が積もり、玄関の扉の上の方から陽の光が様子を伺っている。

 コートを羽織って家の中にあるスコップを取り、雪を家の中に向けて崩しながら、新たに生まれた地表に向けて掘削した。

「今年は、どんな年になるかしら」

 雪の上に出たアーシャが窓の雪を払うと、家の中の剣が朝日を浴びてキラリと輝きを放った。


「お帰りなさいませ」

「お出迎えありがとう」

 年末年始休暇を経て、アーシャは再びルーメイの家へと戻った。この家に住み始めてからすでに数か月以上が経過しており、慣れた様子であいさつを交わした。所々改修されており、ほんのり慣れない木材の匂いが彼女の鼻腔を通り抜けた。

「アーシャ様のお部屋も、少しだけ広がりました」

 アーシャ専属のメイドであるリリーは、広がった場所に立ち、腕を広げる。古びた家具類は新調され、隣の部屋の整理が終わって不必要になった棚を撤去し、壁を移動させた。シングルベッドの横幅程度のスペースが新たに設けられていた。

「構造上は問題ないようなのですが、館もかなり古く老朽化している部分があるため、改修を兼ねて毎年改築を重ねています」

「代々の師団長が大切に使われてきたのね。それだけ平和ということだわ」

 アーシャは壁が動いて新たに部屋に現れた柱に触れる。この柱が新たにアーシャの部屋と隣の部屋の境目になった。

「仰る通りです。我が国は、先の戦争から長きにわたり、確固たる独立と平和を国民の支えの下保ってまいりました。私個人として、これからも続くことを願います」

「ええ。同じく、私も願うわ」

 窓際に立って銀世界を眺めていたアーシャは、予兆なく息を吸わずに咳き込んだ。肺の空気が抜け切った時に、咳が咳を呼んでいた時間は魔法をかけたように止まった。アーシャは胸に手を当て、息を整える。

「温かい飲み物をお持ちします」

「助かるわ。ありがとう」

 年が明けて、アーシャは正式に軍との雇用契約を結んだ。これまではルーメイが給与から私費で雇っていたが、これからは軍に所属する事務員として勤務することになった。のだが、実態はそれと似ても似つかないものだった。

 ルーメイは今まで通りの関係性を求めており、業務日であっても家に帰ることを許可していた。

 雇用されたとはとても思えない自由さだが、雇用されたという実感を、アーシャは課せられた業務量を通して感じていた。

「申し訳ないが……この仕事とこの仕事を終わらせてほしい。金とチョコと酒ならいくらでも……くれてやる……」

「わかりました。ところで大丈夫……ではなさそうですね……」

 自宅兼仕事場ということもあり、私服で仕事をしているルーメイは、緩い服装で机の上に突っ伏していた。彼女の隣には未消化と思われる仕事が山積みになっており、分厚い本や細々した紙が建築物のように立っていた。

 アーシャはメイドに手伝ってもらいつつ、仕事に必要な物品を自室に移動させ、机に向かう。事務作業をすること自体初めての経験だったが、幼少期に詰め込まれた教養を生かし、立ちはだかる業務に時間の許す限り立ち向かい続けた。

「そういえば、ユラさんは?」

 アーシャは昼休憩のついでに、傍にいたリリーに彼女のことについて聞く。

「ユラ様は、学会での発表があるため、こちらにお戻りになるのは少し先の予定です」

「彼女も忙しくしているのね」

 姿勢を戻して机に向かいなおすと、そこにはやりかけの仕事がいくつも積み重なっていた。

 それでも食事の時間は揃えられ、疲労困憊のルーメイは一口食べるたびに肌の艶とハリが戻り、笑顔が増え、生き返っているようだった。

 ルーメイは年末年始に業務が立て込むのは例年通りのため慣れている様子だったが、それでも隠すことのできない疲労は、彼女の語尾にあった。気を抜くと口から漏れそうになる吐息をこらえるように話し、話すことでさえ負担になっているような話し方だった。

 ルーメイの仕事が落ち着くまでは、約一カ月を要した。

 進捗の報告に訪れたアーシャは片付けられて何もないルーメイの机を目の当たりにし、自然と笑顔がこぼれる。ルーメイも上機嫌すぎるあまり、こみ上げる嬉しさに表情筋が追い付かないような笑顔で業務の報告を聞き、途中だった仕事をアーシャが止めたにもかかわらず取り上げて残りを自身でこなすほどの余裕さをアピールしていた。

「面倒だったらこちらに投げてくれても構わない。遠慮なく言ってくれ!」

「いえ。任された仕事は最後まで責任をもってやらせていただきます」

「本当にいいのか……? せめて、今手に持っている書類は私が全部もらおう。残りの仕事に力を注いでくれるとありがたい」

「承知しました」

 アーシャは手持ちの紙の束をルーメイに手渡し、自室に戻ってしばらく仮眠を取った。

 依然として厳しい冬が続いており、部屋から部屋に移動するための廊下は凍えるほど寒い。外と比べれば幾分かましだが、それでも寿命を縮めることは容易いと体感できるほどには大きな温度差だった。


「とりあえず、こちらの仕事は終わりました。それで……ええと」

「……どうした? 大丈夫か?」

 報告する書類は手元にあり、それを読み上げるだけ。それだけであるにもかかわらずアーシャは何かと闘うように目線を書類から離し、少しだけ間をおいてから姿勢を崩さず、話を続けようとした。

「ええと、この……書類……」

 声は消え入るように小さくなり、ルーメイが手元の書類についた埃に目を取られた一瞬の隙に、ガタンと音を響かせてアーシャは床に倒れこんだ。遅れて彼女が力尽きたように手放した書類上に覆いかぶさる。

「アーシャ! おい!」

 ルーメイは大きな机を鬱陶しそうに迂回して机の前で倒れ込むアーシャの元に駆けつけてしゃがみ込む。ルーメイが彼女の口元に手をかざすと、温かく湿った吐息が彼女の手に当たり、ルーメイは自分を落ち着けるように短く息を吐いた。

「失礼します……! どうなさいましたか」

 物音を聞いて駆け付けたのはエーリカ。掃除道具と思われる濡れたタオルを片手に持っている。

「来てくれたか。ユラとリリーを呼んできてくれ。彼女を部屋で休ませてあげてほしい」

「承知しました」

 事の重大さを言葉を聞くまでもなく察知したエーリカは、指示を聞き終わる否や、扉を閉めずに返事をしながら部屋を飛び出した。

「……流石に頼みすぎてしまった…………申し訳ない」

 ルーメイは彼女の上体をしゃがんだ自身の足にもたれさせる。

 少し伸びた前髪を手先で払ってやると、アーシャは身体を震わせながら、大きく息を吐いた。

 駆け付けたリリーは軽々とアーシャを持ち上げて、自室に連れ戻った。罅の入った陶器を運ぶように優しい手つきでベッドに寝かせる。後を追って部屋に入ってきたリリーも、温かい飲み物と優しい手触りの布を水に浸して、アーシャの額の上に乗せた。

「私がもっと気にしていれば……。こうはならなかった。すべて私の責任だ」

「…………」

 ルーメイがベッド横で膝立ちしながら浅く息をするアーシャを見守る。そして、自責の念をぽつりぽつりとこぼした。

 そんな二人を静かにメイドたちが見守っていると、ゆったり歩く足音が、部屋の中に響いた。

「どいて」

 そう静かに言うと、白い布の手袋を手にはめたユラはルーメイを押しのけて、アーシャの首元、手首に手を当てた。

 そのまましばらく待ち、ユラは立ち上がった。

「過労で風邪ひいてる……多分。発熱がある。薬は後で作る……。取り敢えず冷やそ……。目を離さないでね」

「「承知しました」」

 メイドたちは口をそろえる。

「……ルーメイ。働かせすぎ。休ませて」

「重々承知している。私が責任をもって面倒を見る」

 アーシャの顔を見ながら、顔を伏せたルーメイがそう答えた。

「……また来る」

 ドアを閉める音が部屋の中に響く。

 少し大きいそのドアの音に目を覚まされたように、アーシャはゆっくりと瞼を開ける。十数分前まで、溌剌とした声で業務報告をしていたアーシャは影の一つすら見せず、ベッドに体を預けていた。

 目の前に何があるのかを見れているのかが怪しいほど、薄らとしか目を開けないアーシャ。慌てる様子もなく、重力に抗い手を上げることも、体を動かすことも諦めていた。

 ルーメイはその少しの動きも見逃さず、アーシャに自身の手を被せる。

「……アーシャ。目を覚ましたなら……少しでいい。手を動かしてくれないか」

 耳元で優しく囁くと、アーシャは指先を少しだけ動かし、被せられたルーメイの手をかたどった。

 息をすることさえ諦めてしまいそうな弱い息の音。

「声が出せるならそのまま話してもらっていい。声を出すのが辛ければ手を動かしてくれ」

 アーシャは指をルーメイの指に絡ませ、何かの意思表示をするように、指を動かし続けた。

 アーシャの手元に小さな板と紙、そしてペンを握らせると、アーシャは震える手を動かしながら、文字を連ねていく。その文字は弱弱しく、手の震えでペン先が紙から離れてしまい、判読できない箇所も複数あった。しかし、直視せずとも書き損じた文字を上書きして修正し、一つの言葉を完成させた。

『みずがのみたい』

 紙をルーメイの方にずらす。

ルーメイが紙を受け取ると、メイドの助けを借りながら、コップを口元に運んだ。ゆっくりコップを傾けると、小さな一口が彼女の口に取り込まれた。

瞳から伺える意識は朦朧としており、まっすぐな眼差しは見られないが、しっかりと瞳を認識することができる程度には瞼が開いており、発熱に揺れる双眸が周囲を見回していた。

ゆっくり姿勢を戻して再び横にすると、アーシャは自ら頭を動かして再び瞼を下ろした。

「流石に、やりすぎ。……アーシャちゃんは、軍人じゃない。メイドちゃんは、精鋭だよ。私も、訓練は受けた。……アーシャちゃんは、軍人じゃない」

「その通り……一般人だ」

「分かっていながら、どうしてあれだけの仕事を任せたの? 新人にはとてもじゃないけど、質も量も厳しかったと思う。……私はね」

「心配はしたんだ……でも、彼女は自分でやると――」

「その無理を見抜いて、仕事を取り上げる。……それが上官の役目。……部下を守れない上司が戦時に頼りになる? ……今は私が面倒を見るから、仕事を続けて。今回は初めての事例だからいいけど、次やらかしたら……ね?」

「ああ……。肝に銘じておく」

 ルーメイは別室でユラから厳しく怒られた。

 彼女の周りに仕える人材は基本的に軍の訓練を受けている人材であり、メイドに至っては身辺護衛も兼ねているため文武両道な精鋭が選ばれている。ユラも訓練に耐えうる体力を兼ね備えているため、こちらの国に出向くことができていた。そのため、彼らは常人と比にならない量の業務でも難なくこなすことができていた。

 それと比べればアーシャは軍という筋肉と体力がものを言う物騒な組織とは無縁の存在であり、要求される年齢、体力も他と比べれば充分ではなかった。華奢で小柄な彼女からすれば、今回課された業務の量はとてもこなせる量ではなかった。

 ルーメイにとって一般の人材を雇うことは初めての経験であり、今回ばかりはユラから見逃されたが、次回同じようなことをすればどんな薬品を飲まされても不思議ではない。

 ルーメイは話が終わると目尻に涙をためて部屋を後にし、職務に戻った。

 他と比べれば身体には詳しいユラが面倒を見ることになり、ユラは微かな意思表示も見逃すまいと、仕方ない時を覗いて片時も傍を離れることはなかった。

 夕食は野菜や肉類をすりつぶしてペースト状にし、水と調味料を加えて煮込んだポタージュスープと、ジャガイモを茹でてつぶしたマッシュポテトが提供された。ユラが食事前に投与した薬が効果を示し、小さいながらも声を発したり、ベッドの上で体を起こすといった軽い日常動作は自力でできるようになった。

 しかし、スープの入った容器を長時間片手で持つことは難しいため、ユラが食後の薬を調合している間に、メイドが一口ずつ口に運んだ。

「……起きたね。調子は?」

「よくはないですが、お陰様で……少し楽になりました」

 息も長くは続かず、途切れ途切れに話す。

「これは夜の薬で、毎食後……。目いっぱい投与してるから、数日はこの量、かな。取り敢えず飲み続けて、回復を待つ」

「ユラさんは……薬も……作れて、病気も診ることができるんですね」

「……医者じゃない。……けど、同じくらい知識はある。薬や成分の配合なら私の方が一枚上手だと、思う」

 そう言い切って、明確な自信を示すユラ。食事を終えたアーシャは、ユラから小さなフラスコを受け取り、トロリとした中身の液体を口の中に流し込む。

 ほんのり甘く温かいその薬は痛むアーシャの喉を刺激することなく食道、そして胃へと流し込まれた。

「ほかに症状があれば、その都度薬、作るから」

「ありがとう……ございます」

 アーシャは小さなフラスコをユラの掌に返す。

「それじゃ、リリー、後はよろしく。好きなことをしてあげられるように、助けてあげて」

「承知しました」

 ユラが部屋を去った後、リリーは食べ終わった食器を回収し、外で待機していたメイドに渡す。すぐに部屋の中に戻り、本を取りに行こうと立ち上がったアーシャに手が触れない程度の近い距離で注意深く見守った。やがてその本が眠気を誘うと、アーシャは本を自身の身体の上に伏せて、眠りについた。リリーはその本に栞を挟み、サイドテーブルに置く。

 そのまま起きることなく深夜を迎えると、昼間の薬の時間以外眠っていたユラが活動を始め、リリーと交代した。

 ユラはアーシャの机を借りて様々な文献を読み、更に知識を積み上げていく。軽い実験であればアーシャの部屋の中で行うことさえあった。フラスコやビーカーを置く音、それらがぶつかるチンという音が、時々部屋の中に響いた。

 日夜問わず看病をした甲斐あってか、アーシャは発症から一週間でほぼ回復した。重いものを持ち上げることや、声を張ることはできないものの、日常の作業であれば難なくこなすことができる。

 休養期間を終えたアーシャは、彼女が倒れて以来毎日、反省の弁を口にしていたというルーメイの部屋のドアを叩いた。

「アーシャ……良くなったのか!」

「おかげさまで」

「本当に良かった……。そしてすまなかった。この度は本当に申し訳ないことをした」

 ブラウス姿のルーメイは椅子から立ち上がり頭を下げる。少し伸びた髪が遅れてさらりと垂れた。

「頭を上げてください。体調管理ができなかったのは私の責任ですから」

「本当にすまない……。これはせめてものお詫びだ」

 ルーメイはサイドテーブルに置かれていた缶の蓋を開け、一つのトレイを取り出した。紙のトレイごと取り出したそれは、チョコレート。優しい茶色をしたチョコレートは、美しい球体に仕上げられており、特別な逸品物であることは明らかだった。

 アーシャは礼を述べてルーメイの掌に乗せられた紙のトレイからチョコレートを取り、口の中に入れる。外側はパリッとした薄いチョコレートで、中にはペースト状のチョコレートが入っていた。口の中にはフルーティーな酒の甘くも豊かさのある香りが広がる。その香りには、アーシャが過去に樽の中から抽出した液体とよく似ていた。

「とてもおいしいです」

「それはよかった」

 笑顔で頬を抑えるアーシャに見惚れていたルーメイは視線を移し、一枚の紙をチョコレートを嗜むアーシャの目の前に提示した。

「お楽しみのところ悪いのだが、これも言い訳の一つだと思って聞いてくれ」

「何でしょうか?」

 アーシャは紙を受け取る。

「かなり前、東側の隣国であるルブエール共和国との国境付近で、不審な動きが確認された。極秘にされていたんだが、広報から発表があったので共有させてもらう。私が例年以上に忙しくしていたのはこれも理由だ」

 その紙は新聞記事の一面で、大きな文字で、『国境で不審な動き 監視を強化』と書かれている。国境を超えていないものの、大規模な人の移動も確認されており、それが共和国軍であることも最近になって判明したと記事の下側に書かれていた。

 アーシャが流し読みをして視線を上げると、ルーメイは事態を憂慮するように重い視線をアーシャの手元にある新聞記事に向けていた。

「このような事態には我々も黙っていられない。共和国政府に書筒を送付したそうだが、返答がなかった。そのため、致し方なく我々も国境線に軍を置いている」

 アーシャは手元の記事をルーメイのテーブルに戻す。

「大事にならなければよいですが……」

「私も、上層部もそう願っている……。というわけで、私が忙しいのはこの先当分続くということだ」

「私にできることがあればぜひ」

「ああ。もちろん」

 寒さについての他愛もない話を広げ、二人して暖炉の前で温まる。国際情勢が動きを見せようとしている中、暖炉の火はその動きを気にしないかのように好き勝手揺らめいていた。

 ぽつりぽつりと言葉を交わしていると、エーリカが昼食の用意ができたと二人に声をかけた。

ユラ、ルーメイ、アーシャ、そしてメイドたち。何の変哲もない毎日の昼食を栄養にして、大勢で話に花を咲かせていた。

 

 そこから事態が進展するのに時間はかからなかった。翌日には不審な動きが再度確認され、本格的な軍の動員が始まった。いずれの情報も本部に情報が届くまで時間がかかるため、ルーメイは新しい情報を歯痒い思いをしながら待っており、新しい情報が届いてはすぐに決断を下すということの繰り返し。

 さらに翌日には、国境での小競り合いが発生した。双方ともに死者は出なかったものの、共和国側の兵士が国境線を超えたことを確認したゲルテハルト国軍は、小規模に反撃を実施。この戦闘で数人が怪我を負った。

 国民にもその情報が知れ渡ると、各地の商店から食料が消え去った。軍の広報が状態を事細かに伝えて、この事態は収束したが、国民の不安は収束せず、拡大を続けた。不安定になった食料供給は、国家の備蓄放出と価格統制を併用し、いったんは終わりを迎えた。しかしそれ以降、慢性的な物資不足に陥り、それが日常の一部となった。

 夜になれば人通りが少なくなり、酒を売る店から漏れる明かりの量もめっきり減った。

 そして、色褪せた食糧で作られた食事をいつものメンバーで楽しんでいると。

「し、失礼いたします……!」

 飛び込んできたのは、メイドでも誰でもなく、軍の関係者。青ざめた顔を床に向けて頭を下げながら、右手で一枚の封筒を差し出している。

「……なんだ食事中に」

 ルーメイのその一言でテーブルの空気が凍る。メイドたちはすぐに食事の手を止めた。アーシャの目線も、彼女に向けられている。一方ユラは、マイペースに食事を続けている。

 覚悟を決めた顔でルーメイが立ち上がり、差し出された封筒を開けた。

「…………これは本当か」

 中の書類に目を向けながら、ルーメイは封筒を差し出した主に聞く。

「はい……! 今日の夕方に政府機関に届けられたと……そのため、一刻も早くお集まりいただきたく……!」

「……そうか、わかった。エーリカ、準備はいいな」

「はい。いつでも」

 食事で緩んでいたエーリカの表情がその一言で一気に引き締まり、テーブルの空気は痛いほどに凍り付く。

「……悪い。上層部からの招集だ。これからの対応を協議すればすぐに戻る。空気を凍らせて悪かった。それでは、私はこれで失礼するよ」

 軍の関係者、そしてエーリカに矢継ぎ早に指示を飛ばしながら、ルーメイは部屋を後にした。せわしなく響く革靴の音を微かに聞きながら、静かに食事を再開する。話題の提供者であるルーメイがいなくなったことにより、ユラを除くそれぞれが立ち回りに困りながら食事を終えた。

 しばらくして、ルーメイは家を出ていき、首都近郊にある官公庁街へと向かった。ここからはそう遠くない距離にあるが、簡単にいくことのできる距離ではない。

 ユラは、「私らが動揺すれば、敵国の思うツボ。私たちは堂々としてればいい」と言い残し、普段通り実験に戻った。メイドたちも少し動揺しながらも次第に普段通りに戻り、アーシャも本を読んでそのことから意識を遠ざけた。

「アーシャ様、今よろしいでしょうか」

「もちろん。どうぞ」

「失礼いたします」

 そう言って入ってきたのは、アーシャ専属のメイドであるリリー。少し険しい顔をして、手には布のかぶさったトレイを持っている。リリーはそのトレイをサイドテーブルに置くと、立ったまま話を始めた。

「先ほど、ルーメイ様が国からの招集を受けて家を出て行かれました。ルーメイ様も要人であるため、私たちも身辺警護は厳重にしております。もちろん、アーシャ様も。ですが、情勢を鑑みて、より一層体制を強化することにいたしました」

 そう言って、リリーはトレイにかぶさった布を自分の方に引き払う。

 そこには、鋭いナイフが入っていた。指を掛ける輪がつけられており、どちらの方向でも使えるようになっている、戦闘用のナイフ。優しい蠟燭の光を、刃物の先端のように鋭く反射していた。

「このナイフを、常に携帯していただきたいと思います」

 アーシャはナイフを手に取る。手を広げてサイズを確かめると、静かに頷いた。

「わかったわ。ガーターベルトに仕込めるサイズのようだから、つけておくわね」

「ありがとうございます。私たちは普段、そのようなナイフを持たないのですが、今日から当面の間は、懐に一本、手首に一本ずつ、ガーターに四本ずつ、計十一本のナイフを装備させていただきます」

 ふわりとしたメイド服の布さえ切り裂いてしまうほど鋭利なナイフが、大量に服の内側に忍ばされていた。少し動いただけでも血が出てしまいそうなほどに密着しているため、外見は全くと言っていいほど変化がない。心臓を守るように忍ばされている懐のナイフ、手を少し動かせば取り出せる手首のナイフ、そして、女性らしい体型には似つかないガーターベルトにある太腿のナイフ。

「重たいでしょう?」

「そうですね。私たちも訓練は受けていますので、時間稼ぎ程度はできると思います」「私もいざとなれば応戦するわ」

 アーシャは手を口元に当てて、上品に笑いながらツヴァイヘンダーと短剣の方を見やる。そしてすぐに、手に取っているナイフに目線を戻した。

「……いずれ、笑い事にならない日が来るのかしら」


 ルーメイが会議から戻ってきて数日後のこと。ドアをノックする重たい音が部屋に響いた。アーシャが返事をすると、ルーメイは動きにくい仕事服の姿で、アーシャの部屋に立ち入る。

「アーシャは、レルカーリア国の人間だったな」

「ええ。……今は亡き国家ですが、確かに歴史上に存在した国家です」

 遠い過去を回想するように、ルーメイから目線を逸らす。

「落ち着いて聞いてくれ。レルカーリア国にも、最後通牒が届いた」

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