第4話
ルーメイから任された仕事の手伝い。数日前、顔を堅くしてその仕事の内容を聞いたアーシャは、目を丸くしてその場に立ち尽くしていた。
内容が、アーシャの想像よりもずっと簡単なことで、喜ばしいことだったから。
その任された仕事というのは、とある日に地域に住む住民の子供たちにプレゼントを配布するというものだった。ゲルテハルト国のみならず、周辺国も含みこの地域一帯では、年末になれば来年の子供の健やかな発育を願って、大人が子供の欲しいものをプレゼントする伝統的な文化が存在する。家庭ごとに行われるこの行事だが、ルーメイの独断により、与えられた予算の一部を利用して地域住民の子供たちにプレゼントを配ることにした。
着任したその年から行われており、地域の住民たちからはひそかに期待を集めていた。
今年は年末の軍事パレードと同日に開催されることとなった。アーシャはルーメイの代わりにそのイベントの責任者となり、手配に追われていた。
「アーシャ、そっちの調子はどうだ?」
「かなり余裕をもって終わりそうです。今のところ必要な物資が届き始めていると現地から手紙がありました」
「それはいい知らせだ!」
そのご褒美と言わんばかりに、ルーメイは机の中から取り出したとある包み紙を渡す。アーシャがそれを開封してみると、砕いたナッツの入ったチョコレートだった。
「いやぁ。本当は私がやりたかったんだがな、どうも最近忙しくて。急に申し訳ないな。ちゃんと年末年始は家に帰れるように調整する」
「ありがとうございます」
応援の声を背中に聞きながら、アーシャは引き続き事務作業に戻った。
そして軍事パレードの前日、アーシャはルーメイとプレゼントが一時的に保管されている倉庫に足を踏み入れた。
隣に立つルーメイは丁寧に積み上げられたプレゼントがたくさん詰まった箱を一つだけ手に取ると、梱包や装飾を陶磁器に触れるかのように優しい手つきで見ていった。中には長持ちするビスケットのような食べ物から、ぬいぐるみなど。入っているものは様々だが、子供たちが喜ぶものが詰め込まれていた。
そして、納得したように笑顔で頷きながらそのプレゼントを元の場所に戻す。
「十分すぎるくらいだな! いやぁ。アーシャはすごいな。私は不器用な人間なものでね。このような細かいところに気が配れなくてな。お願いして正解だったよ」
「そう思っていただけたなら、私もうれしいです」
厚手のコートに身を包んだアーシャは嬉しさのあまり少しだけ身体をよじってコートを揺らした。
そこから一夜明け、軍事パレード当日。いつもの家から少し離れた場所にある大きな広場のような場所に、ルーメイはいた。
装飾一つに至るまでメイドたちの手によって乱れなく整えられた礼装に身を包んだルーメイは、飾緒や輝かしい勲章を身に着けて、高い踏み台の上に立ち、見惚れるほどに綺麗に並んだ兵士に対して、敬礼をする。
パレードは盛大かつ華やかに行われ、広場の周りには近くに住む住民たちや、記者も集まっていた。鎧を着込んだ重装備の兵士や、清潔感のある礼装に身を包んだ一般の兵士が軍靴の音を響かせ、軍楽隊が演奏する勇ましい音楽に合わせて行進するたび、沿道からは歓声が上がった。
そしてパレードが終わった後、ルーメイは再び台に立ち、兵士たちを前にして演説を行った。
「――いずれ訪れる戦争に対して我々は勇猛果敢に戦わなければならない。そのためにも、平時からの鍛錬は必要であろう。今日、諸君の勇ましい姿を見れたことを誇りに思う。平時は抑止力として、戦時は国を護る屈強な兵士として活躍してもらうことを心より期待している。軍は栄誉あるゲルテハルト国民のための組織だ。そのことを胸に刻み今後の活動に励んでいただきたい」
その言葉で、一年に一度の軍事パレードは幕を下ろした。
そして、幹部の号令がかかると、兵士たちは走ってその場を後にし、兵士たちがいた場所には子供たちと付き添いの大人たちが集まり始める。
屈強な兵士たちがゴロゴロと引っ張ってきたのは、プレゼントを乗せた台車のようなもの。軽いものを運ぶような顔で、大量のプレゼントを持ち運んでくると、至る所で配布が始まった。
そのプレゼントを受け取った子供は早速その場で中身を確認して、笑顔を咲かせる。包まれたクッキーを親と分けて食べたり、中から取り出したぬいぐるみを愛おしそうに抱きしめて親に見せびらかしたり。子供たちの無邪気なその姿を、アーシャを含めた大人たちは静かに見守っていた。
配布は会場に来た子供たちが全員受け取るまで続けられ、最終的に数百個が余った。処分を急ぐようなものはないため、アーシャはその日の夜にルーメイに聞いた。
「余ったのはいいことだ。もらえない子供たちがいるのはかわいそうだからな。とりあえず一個はアーシャのものだ。もう一つはユラにあげよう。で、メイドたちにもクッキーは分け与えよう。それ以外は適当に私が何とかする!」
ルーメイが傍にいたメイドに目線を送ると、メイドは軽くうなずいてその部屋を後にした。
メイドが静かに部屋の扉を閉めると、ルーメイは立ち上がってアーシャに目の前にある椅子に座るように促した。
「よっ……と。いやぁ、助かったよ! 本当に。何度でも言いたくなるが忙しくてそこの方面まで手が回らなくてな。ユラは相変わらず色々爆発させているようだし、頼めるのがアーシャしかいなかったんだ」
その後にもアーシャを褒める言葉が続き、ルーメイは知りうる言葉の大半を尽くして彼女をほめちぎった。
「そ、それほどお褒めいただくようなことでしたでしょうか……?」
「そりゃそうだ! 可愛い子供たちの役に立つことをしたんだ! 褒めない理由を探す方が難しい」
ルーメイはケラケラと笑いながらグラスに入った水を口の中に流し込み、褒め言葉を話し続けて乾いた口を潤した。
「顔、赤いな」
意地悪な笑顔と共にアーシャの頬を指さすルーメイ。
「ゆっ、夕日が入っているからです。きっとそう……です!」
ルーメイがカーテンを閉めても、アーシャの頬は赤みを帯びたままだった。
夕食後、自室でアーシャが本を読んでくつろいでいると、扉をノックする音が響いた。アーシャが返事をすると、白と黒を基調とした服に身を包んだメイドが部屋の中に入り、彼女に一枚の紙を渡した。
「ルーメイさんが、『アーシャに休暇を取ってほしい』ということで、年末の休暇を取らせるよう手紙を受け取りましたので、お届けに参りました」
要件が終わるとメイドは足早に部屋から退出し、アーシャの手元には一枚の手紙が残った。内容はメイドが伝えられた通りで、ルーメイからの感謝を伝える内容と、紙の裏側には休むことのできる日付が書かれていた。
「今年は特に早かったわね……」
部屋にあるカレンダーを見る。
今日は、カレンダーの最後から数えたほうが早いくらいの日だった。
「と、いうわけで! 君たちは今日からお休みだ!」
そう声高らかに宣言したのはルーメイ。彼女の机の前に置かれた椅子には、アーシャとユラが座っていた。
ユラは暖炉の暖かさに眠気を誘われ、頭をかくかくさせている。アーシャは眠気に抗いつつもルーメイに目を向け、話を聞いていた。
「ルーメイさんは休まれないのでしょうか?」
「あたしゃぁ、来年の頭が過ぎたら休みだ。残念なことに年末年始を跨ぐ休みはない! ……ったく、年末年始のどこかで一日くらい業務から解放されたいものだ」
どこか自虐するように笑いながらルーメイは自身の休暇について説明を始めた。
ルーメイは実質的に休みがなく、年末年始は遠方で行われる会議に参加しなければならないためこの家を空けるという。その間家の面倒はメイドたちが見てくれることになっているが、改修や掃除を行うため、二人も家を出る必要があるというのだ。
「家に帰れということですね?」
「ああ、そういうことだ。ユラはともかく、アーシャは帰れそうか?」
「雪が積もっていなければ歩いて帰れるのですが、このところの天気を見ると厳しそうで……」
ルーメイは窓の外を見て、悩ましい声を出しながら腕を組む。
数日前から天候が悪化し、晴れ間を見ることはなくなった。今日も空を分厚い灰色の雲が覆っている。この地に長らく住む住民はこの雪は数日続くと言っており、雪も山頂から日に日に白く雪化粧をされ、山の半分以上が白い帽子を深く被っているようだった。
ユラが暖かさに身を骨抜きにされ椅子から落ちると、アーシャは同じくらいの身長をしたユラを暖炉から少し離れたところまで運び、再び自分の椅子に戻った。
完全な寝息を立てているユラを見やりながら、ルーメイは何かをひらめいたように手を叩いた。
「アーシャ、馬乗れるか?」
「う、馬……? 乗れますが腕にはそんなに自信が――」
「アーシャならちょっと乗れば大丈夫だ! それでユラの家に帰ってもらおう。アーシャの家のある方角は山があって雪がきつい。帰るのはとてもじゃないが厳しいだろう?」
アーシャはしばらく悩んだ末、その案を了承した。
ユラはというと起きると二人の会話の内容を復唱し始め、アーシャがユラの家に泊まるところまでの話は聞いていたようだった。
「まぁ、二人が家を出るまでは時間がある。それまではゆっくりしていくといい。とりあえず、二人にお茶でも入れてやってくれ、エーリカ」
「かしこまりました」
ルーメイが部屋の入り口に立っていた専属のメイドに話しかけると、彼女は返事をして部屋を後にした。
「暖かい部屋の中から見る寒そうな外は最高だねぇ」
「そうね」
メイドからもらった飲み物でやっと目を覚ましたユラは、珍しくはっきりした口調で窓の外を眺め、そんなことをつぶやいた。
窓の外は、一面の銀世界で、雪の間から家々が顔をのぞかせている。
平野部に建てられた大きなこの家からは、周辺の地域一帯を見渡すことができた。見ることのできない太陽が沈もうとするその瞬間さえも、見ることができる。
しばらくすると、風で空を舞う雪が窓に張り付き、外の景色を見ることはできなくなってしまった。
数日して、二人が家を出る当日になった時には、アーシャの腰の高さほどまで雪が積もっており、地面が上がって家が下がったと錯覚を起こすほどには周辺一帯の積雪量は増えていた。
「山の方はどうなっているのかしら……」
この平野でこの積雪度合いなら、とアーシャが考えを巡らせていると、部屋の扉がノックされた。
返事して部屋の中に入るように促すと、そこには冬服を着たユラが立っていた。
白いブロードシャツの上に、灰色のステンカラーのケープコートを重ね、足元はこげ茶色の革の長靴を履いている。
馬のいる場所までしばらく歩くらしく、そこまでのための服装のようだった。
アーシャはこちらに来てから買い足した新しい灰色のフレアのワンピースを身に纏っている。デニム生地の方さをふわりとしたフレアのシルエットが和らげていた。そしてその上に、黒色のチェスターコ―トを着ている。靴は革の長靴だ。
「出れそう?」
「ええ。準備はできているわ」
アーシャがそういうと、ユラはついてくるように言って荷物を持ちあげた。アーシャも、ツヴァイヘンダーと短剣を優しく持ち上げて背負い、自室の扉を閉めた。
暖炉では暖まらない廊下を歩き、ルーメイのいる部屋に入る。
「おや、二人はもう出発か」
「ん。行ってくる」
ユラは答えると同時に首肯する。
「最近は治安がいいわけじゃない。気を抜かないようにな。アーシャも」
「承知しました」
「それじゃ、会うのはまた来年だな! 良い年末を!」
「そちらこそ、良い年末を」
メイドたちにも年末の挨拶を済ませた後に見送られ、二人は家を後にした。
昨日までは庭一面に雪が積もっていたが、今日二人が家を出ることを見越して、メイドは朝から外で雪かきを行っていた。そのため、二人のためだけに家を出る道がつくられている。
その道をたどって家が面する道に出ると、人通りが比較的多いため、薄らと雪が積もっている程度だった。
見ず知らずの誰かの足跡をたどり、馬を飼育、管理している場所まで歩く。
十数分歩いた先にあったのは、整備されたとある施設。砂が敷かれており、敷地の隅には大きな建物が立っている。
その建物の入口にユラは立った。
「……馬、借りに来たんだけど」
ぼそっとつぶやくと、その声は思いのほか反響した。
誰もいないように思われたがその声を聞き取り、奥の方から一人の男が姿を現した。
息を吐けば白い霧が視界を覆うほどの寒さだというのに、半袖に作業着であろうオーバーオールを重ね着し、暑そうにしている。
「朝早くからご苦労さん。話は聞いてる。あそこの二頭を使ってくれ」
「ありがとう」
ユラに続いてアーシャも頭を下げると、男は手を挙げて返事をした。
準備を整えて、馬に括りつけられた荷物入れに荷物を入れ、金具で荷物が飛び出ないようにする。
ユラもアーシャも馬に乗り、少しだけ敷地内を歩いてから外に出た。
「それじゃぁ、私についてきて。まだ朝早いから少し走ろ」
「わかったわ」
ユラは、魔女だからという理由で茶色の馬を選び、余った白色の馬がアーシャに割り当てられた。軍事パレードからそこまで時間が経っていないため、毛並みも整えられており、道や雪の積もった地を駆けさせるにはもったいないほどの毛艶だった。
冬の朝日に馬の毛が輝き、馬の吐く息は白く銀世界に溶け込む。静かな街の石畳を軽快な音を立てながら駆け抜けた。
人々がすっかり目覚めたころには街を抜け、永遠と広がる銀世界に二人はいた。
森や山、平原、川が一望できるこの少し小高い丘は、冷たい風が吹き抜ける場所になっている。
ただ、寒いこの地で発展した縫製技術はこの寒さをものともしないほどの機能性と実用性、デザイン性を兼ね備えていた。密度の高い繊維を紡いでそれを編んで作られた生地を重ね、風を遮ることのできる皮のようなものをその生地で挟み込むことによって、圧倒的な防寒性を実現している。直射日光が当たる温かい場所で二人はコートの首元を緩め、少し早い昼休憩を取ろうとしていた。
「今日はメイドちゃんお手製のサンドイッチだね」
「いつ食べても美味しいと思える食事を作るのは相当な腕が必要よね」
「だね」
そんなことを言いながら、雪を払った倒木の上でサンドイッチを齧る。
手綱を手放して束の間の自由を獲得した馬は、近くの川で水を飲んだ後、周辺を探索するように銀世界を歩き回っていた。
見渡す限り二人と馬以外に何もなく、ただただ白い世界が広がる。
太陽の光も白く、眩いこの世界の明るさをさらに上げようとしているように、雪の結晶一粒一粒を強く輝かせていた。風で流れてくる白い雲も、境界がなく溶け込むように空に浮かんでいた。
鞘から顔をのぞかせるツヴァイヘンダーも、アーシャが触れて少し傾けると、彼女の想いに答えるように輝きを返した。
「さぁ、行こうか」
「そうね。ここからはどのくらい?」
「もう半分は越えてるからあと少し。夕方前には確実に到着できる」
そう言ってユラは冷たい空気によく響く口笛を吹く。
すると二頭の馬は遠くの川から小走りで二人の下に駆け寄り、傍に身を寄せる。
アーシャが馬の頬を少し撫でてやると、馬も嬉しそうに顔を寄せ、それに答えた。
そして再び二人と二頭の馬は、人通りのない雪原を駆けた。
「書類を」
国境付近の木造建築の古びた建物。その小さな窓の隙間から二人に話しかける兵士。その隙間は少し厚い紙の束が通るくらいしか空いていなかった。滑り込ませるように書類を渡すと、一枚一枚流れるように目を通し、証明の代わりに特殊な形の鋏を使って紙の隅を切り落とす。
「どうぞ。おかえりなさいませ」
とても丁寧な態度に少し戸惑っていたアーシャも、兵士が入口の方に視線を飛ばすと、軽く頭を下げてユラの後に続いた。
国境を通過すれば、街までそう遠くはない。
ユラの故郷である騎士団国シュマイジは、国土が小さいにもかかわらず人口が多く、非常に過密な街が広がる。そのため、国境付近からでも寒さに身を寄せ合うように所狭しと密集する家々を眺めることができた。
「ここが、ユラの故郷?」
「そ。ちっさいくせに人は多い。困った国だよ。お隣の国に土地を貸してほしい」
石畳の上を落ち着いたペースで音を鳴らしながら歩く二人。
幸いなことにもアーシャの住む場所は国境付近のため、目的地までそう時間はかからなかった。
馬をとある場所に預けて、そこからは徒歩でユラの家に向かう。
大通りから細く長く伸びた一本道に入り、そこからさらに生えた小道に入る。その道の行き止まりにあるのが、ユラの家だった。
「そっちじゃ小さい家かもしれない。こっちじゃ豪邸、のなりそこないみたいな」
「なるほど……?」
枯れた蔓草がカギのようになっている鉄の門を無理やり押し開け、敷地に入る。少しだけ庭を歩くと、すぐに家の入り口だった。
蠟燭が溶け切った家の玄関にあるランタン。家を支えていると思いたくなるほどの蔓草。ささくれた窓枠の木。
そんな建物が醸し出す雰囲気は、想像以上のものだった。
「……何もしない。家は散らかってるだけだから、どうぞ」
想像していた雰囲気とは違ったのか、アーシャは雰囲気と寒さに足元を固められ、入り口に立ち尽くす。
「え、ええ」
そう言って寒さのせいか、雰囲気のせいかぎこちなく足を動かし、ユラの家に入った。
「……思ってたより、散らかってる、ようね」
「……そうだね」
二人が目の当たりにしたのは、割れたフラスコが床の代わりになり、木の箱が乱雑に積み上げられ、変色した布が覆いかぶさった得体の知れぬ物体が置かれているという光景だった。
朝起きた際に血塗れになるのを防ぐため、夕食の時間までは二人で部屋の荷物を整理をすることにした。積みあがった実験器具や、散らばった文献、解読できないような文字で殴り書きされたメモ用紙などが、廃墟にも近しいレベルで散乱し、積みあがり山を形成していた。
そんな山を細心の注意を払いながら整地し、夕食の時間を迎えたためいったん作業を切り上げた。
「えーっと、とりあえず、ありがとう。あの。話すと長くなるんだけどね」
「どうしたの?」
部屋の掃除を部分的に終わらせた後、食卓のある部屋の椅子に腰かけて申し訳なさそうに言葉を細切れにしながら話すユラ。それを不思議そうな様子でアーシャは動きを伺っていた。
「私、片付けるのが苦手で。そのくせ……自分の部屋を散らかってるって思う」
「なるほど」
「だから……一緒に部屋、片付けてほしい。いいものをごちそうする……」
ユラは前に垂れた髪の毛を指先でいじりながら申し訳なさそうにそう言った。
「もちろん。泊めてもらうのだからお安い御用よ」
アーシャは椅子に座りながら周囲を見渡す。
技術者というだけあって、文献や実験器具の数量は普通の人の比ではない。しかしながら、収納も同時に多かった。乱雑に物が置かれているため有効に活用できていない場所があることを突き止めたアーシャは、その場所の整理に着手した。
清潔な布を口に当て、舞い上がる粉塵を防ぎながら作業を進める。
家主であるユラの意見を聞きながら、物や本を見やすいように並べていく。
整理が終わるころには、棚に入りきらなかった本たちはきれいに整頓されて並べられ、実験器具も順序良く並べて棚に収めることによって、生活できる範囲が大きく広がった。埃と同じ数だけ散らばっているであろう破損した実験器具は、慣れた手つきでユラが素手で持ち上げて片付け、一か所にまとめた。
「ありがとう……。私の家……広い」
「重たい剣を振るってきた甲斐があったようね。改めて見るといい家だわ」
積み上げられたガラクタで隠れていた窓からは、赤い夕陽が差し込んでいた。
「今日は、いいものをごちそうする。少し、待ってて」
そう言ってユラは隣の店で野菜を購入してすぐに家に戻り、調理場の前に立つ。
少し重たい石のまな板を取り出して、紙袋に入った野菜を取り出して切っていく。いくつかの野菜を細長く切ってボウルに入れ、偏りのないようにボウルを手際よく振って混ぜた。
石のまな板をもとの場所に戻し、ボウルをもって暖炉の前へもっていく。
魔法使いらしくフラスコやビーカーに入れられた数々の調味料の中から一つ選び、鍋の中に注ぎ込む。そして何かの塊を木の上に落とすと、自然と煙が立ち上って火が灯された。
「魔法使いの、特権。火を起こさなくていい。絶やしてもすぐに灯せる」
「一生懸命摩擦を起こしていたのが不思議に思えるくらいね」
魔法使いの技術で様々な工程を短縮しながら調理を進めていく。
そして出来上がったのは、切られた様々な種類の野菜を高温の油で熱したものだった。野菜を覆うように付いた膜は口の中に入れると小気味の良い音を立て、独特の軽やかな食感を口の中に広げる。そして熱せられた野菜は甘みを残しながらも調味料によりさらにその美味しさが引き立てられていた。
素朴ながらも非常に味わい深いこの料理は、アーシャの口に合っていたらしく、何度も首肯しながら軽やかな音を響かせた。
「美味しい?」
「ええ、とても美味しいわ。手間をかけずにおいしい料理を作れるのが羨ましいくらいよ。私の国なんて手間をかけても美味しくないもの」
アーシャは自虐的な笑みを添えて笑う。
生まれ故郷の料理を思い返してその差に驚きながら、振る舞われたご馳走を胃に収めた。
「明日、出てくんだっけ」
「そうね。朝出たら夕方ぐらいには着くかしら」
「起きれないから朝ごはんテーブルに置いとく……。持っていって」
「本当に? ありがとう。嬉しいわ」
ユラはアーシャの嫌いな食べ物だけを聞き、メニューは当日のお楽しみということで伏せられた。
そこからアーシャとユラは少量のお酒を嗜みながら、互いの知る世界を広げあった。同じ言語圏ながらも生活様式や服装といった多くの点で相違があり、言葉が通じることが不思議なくらいだった。
シュマイジは人口が密集していることもあり、夜になっても外から聞こえる音は人の出す雑音ばかり。木々の梢や動物が草を踏み分ける音や窓の隙間を出入りする風の音といった、自然そのものを聞きながら眠りについてきたアーシャにとっては、眠りにつきづらい環境だった。
結眠気がアーシャを誘うことはなく、眠れないことを夜遅くまで実験をしていたユラにそのことを伝えると、翌朝まで聴覚を麻痺させる薬を提案されたが、アーシャは迷う暇もなく断った。
浅い眠りの後、アーシャは窓から差し込む冬の陽光に目を覚まされる。
「んうう……眠い……」
アーシャが部屋から出ると机の上にはパンとジャムが置かれており、暖炉には鍋がかけられていた。弱火が鍋の底を炙っている。優しい湯気が、暖炉の煙突に煙とともに吸い込まれていた。直前にサンドイッチとスープを食べ、暫く暖炉の前で温まった後、家を出た。
家を出る前にユラの寝室を覗いた時には、液体の入ったフラスコの前で机に顔を伏せていた。
今にも落ちてきそうな雪雲が空を覆う中、アーシャは馬を預けた施設まで歩く。
たまに雲の隙間から差し込む光が、地面に降り注ごうとする雪の結晶を明るく照らし、幻想的な雰囲気がしばしば見られた。
馬を預けた場所で馬を返してもらい、国境を通過してから、再び馬に乗ってアーシャの家のある方向まで馬を走らせた。
前までいた家から見えていた、遠くに連なる鋭い山々を左側に見ながら、雪の積もった道を馬で駆ける。山の上には帽子のように雲がかぶさっており、山の反対側の天候を伺わせるものだった。
「ちょっといいかしら?」
「誰かと思えば君か。久しぶりだな」
そう声をかけたのは、昼過ぎの少し日が傾き始めた頃。アーシャは道を歩くパン売りの男に声をかけた。
男もアーシャのことを覚えていたようで、慣れた顔で籠を下ろし、今日の品ぞろえを見せた。
柔らかそうな丸く白いパンが一つ、甘そうな黄色いパンが二つ、チョコレートにも似た色をした薄く切られたライ麦パンが綺麗に並んでいた。その他にも、切って食べるための大きなパンが別の籠に入っている。
「じゃぁ、これと……これをもらおうかしら」
「えーと。二〇三ルーラだな」
「ちょうどで」
「まいどあり。……元気でな」
「そちらこそお元気で」
男はひらひらと手を揺らして、次の客を求めて歩き始めた。
アーシャは少し休憩できる場所を求めて、家の方向へ向けて少しだけ馬を歩かせる。朝家を出た時とは違い、空は青く澄んで、冬晴れの空だった。
いつか見た湖を遠くに見ながら休める場所を見つけたアーシャは、馬を下りて自由にさせ、机のように平たい石の上に先ほど買った昼食を広げた。弱く吹き続ける風が、パンの小麦の香りを彼女の鼻腔に運ぶ。
彼女はその香りにつられたように口を大きく開け、パンに歯を入れた。
口の中で広がる甘く奥行きのある香り。肺に入れると冷たく痛い空気を、やわらかい空気に変えて、かつ彼女の欲求を満たした。
大きさの割に重量があり、齧った部分からはクリームが今にもとろけ落ちそうになっている。
アーシャはすんでのところでパンを持ち上げて、垂れてきたクリームをめいっぱい開いた口の中に落とした。クリームだけが口の中に入り、その甘さと背徳感に彼女は零れ落ちそうになる頬を支えるように自身の頬に手を添えた。その幸せを口いっぱいに広げ、彼女は空に広がる晴天に負けないほどの笑顔を見せた。
「さてと……そろそろ動いた方がいいかしらね」
コートの前側を開けて服の中の汗ばんだ空気を入れ替え、午前中の乗馬で火照った体を冷ましているときに、彼女は言った。
日は傾き始め、地平線に沈むまではまだまだ時間があるように思えたが、反対側の山に目を向けてみると、雲が山の斜面を下りてきているのを彼女は確認した。
アーシャはどこにいるかわからない馬に向けて口笛を吹き、高い音を響かせる。
すると、遠くから風と共に颯爽と現れた、雪のように白い白馬。
「行きましょうか」
そう声をかけると、それに反応するように馬は強く白い息を吐いた。
ツヴァイヘンダーを背中に背負い、馬にまたがる。
湖のその先にあるアーシャの家を目指して、彼女はしばらくの間、馬を走らせた。
アーシャは湖畔で馬を下りる。いつか来た懐かしい湖一体の穏やかな風が彼女を迎えた。そこだけはいつでも春のような景色で、注ぎ注がれる湖の周りには、今でも青い草がゆさゆさと冬の風に揺れていた。
遠くに見える丘も、山も、そして隣の国も。
すべてが昨日の出来事であるかのようにアーシャは当時の動きを追いかけた。湖で休み、歩き、そしてその先に目をやる。
冷たい水を飲む馬を少しの間見つめて、家主は懐かしい自宅の建付けの悪い扉を押し開けた。