第2話
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
私は、この剣と共にあり続ける。私の命がある限り。
私は、この国を捨てるつもりなど毛頭ない。豊かな自然に囲まれたこの国を手放すなど、私には選択肢にすらならなかった。
私は、教えを果たす。
そして、取り戻す。
解体されたかつての独立、そして奪われた平和と繫栄を。
全てはこの剣と共に。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「そろそろ冬かしら」
彼女は少し曇った窓をみる。その先に生い茂る木々の葉は、少しずつ色づき始めていた。風に吹かれて舞い散る葉が季節の移ろいを彼女に告げる。
白いシャツにクリーム色のニットベスト、そして栗色のスカートに足を通し、更にその上にはグレーの厚手のコートを羽織る。
意を決したようにドアを押し開けると、家の中を荒らしまわるように強い風が僅かな隙間から吹き込んだ。家の中でひらひらと舞い上がる紙を目にしてため息をつきながらその扉を閉める。彼女は冷えて固まった土を踏みしめながら、いつもの道を歩き始めた。
夏の頃と比べれば見かける動物の数も種類も減った。湖の水を飲む無数にいた鳥も、今となっては片手で数えるほどしか見かけられない。爽やかな風が吹いていたあの草原も、空気が凍り付いたように風が吹いていなかった。
彼女は川に沿っている道から少しそれた先の、ログハウスに目をやる。以前、彼女がサンドイッチを購入したその場所。今は以前置かれていたテーブルや椅子が何一つとして置かれておらず、建物の横に丸太が並べられている。
「ここは以前も来た場所ね」
そこから少し進んだ先の分かれ道で、彼女は地図を手にしてそう言う。右側には長い草が覆っている道があり、その先には形を保っていない青い天幕がいくつか並んでいた。
彼女はもう一つの道に歩みを進める。この道は、頻繁に人の行き来があるらしく、比較的最近のものと思われる足跡がいくつかあった。
青い天幕の並ぶ陣地を右側に見ながら、踏みしめて固められてできた道を歩く。
長く一緒に歩んできた川は途中で森の方へと消えていき、代わりに道幅が少しだけ広がった。道とそうでない部分が明確に区別できるようになり、僅かながら人の手を感じられるような道へと次第に変わってゆく。
「誰かが整備しているのかしら。……ありがたい話ね」
時間をかけて丘を登っていくと、山の方角から吹き下ろす、冷たい風が吹き始めた。短い雑草すらも、その風に激しく揺られる。冷たい空気の塊と衝突したような突然の強い風に足を止めながら、時間をかけてその場所を脱した。
しばらく歩くと、風は自然と弱まった。朝から山頂を覆い隠していた分厚い雲も散り、くっきりとその鋭利な姿を露にしている。吹き下ろしてきた冷水のような冷たい空気は足元に残り、纏わりついた。
さらに天候は回復し、散りゆく雲の隙間からは日が差すようになった。地面にスポットライトを当てるように、光のカーテンが雲の形に合わせて揺れている。彼女は動く影と日向を行き来しながら、目的の場所までたどり着いた。
そこは道が交差している場所で、人が住んでいるような家は見えない。しかし彼女は、そこで何かを待つように交差点の周辺の木を調べて回った。しばらくすると、籠を重ねて背負っている男がやってきた。
「ねぇ。ちょっといいかしら」
彼女は少し離れた場所から声を掛け、手を振る。すると男は静かに籠をその場に下した。彼女は先ほどまで調べていた木に荷物を置き、少しの銀貨を握りしめて男のもとに向かう。
行った先では、男が重ねられた籠を一つ一つ丁寧に並べていた。
籠の中身は、パン。一つの籠に五つほどのパンが並べられており、どれも形や色がすべて違う。黒く焦げているように見える硬そうなパンや、明るい狐色をした柔らかそうなパンも並べられていた。
彼女は小さいパンを二つ選ぶ。
「これ、あとこれもちょうだい」
「百ルーラだな」
「じゃぁこれで」
彼女は手に握っていた銀貨から二枚選び、男の手に落とす。男は指で一枚ずつ確認すると、まいど、と言ってポケットに滑り込ませた。
「前よりもパンの数が少ないように思うけど、大口の客がいらしたの?」
「焦がしちまったんだよ。客には売れねぇから、俺が食ったんだ」
男は頭をポリポリかきながら、苦笑いする。
「そうなのね。失敗なんて、珍しいんじゃない?」
「今日は火加減を間違えてな。ははっ」
失敗を空に笑い飛ばすように力なく笑う男。しばらくの談笑の後、彼女は男に礼を伝えて、その場を後に足した。彼女がしばらくしてからその場所を振り返ると、籠から籠へとパンを移し替えて、次の場所へと向かう背中があった。
彼女は荷物を置いた場所に戻り、小物が入っていたランチボックスにパンを入れ、再び歩き出した。パンを買った交差点を右に折れると、道幅が広がり、やがて石畳が姿を現すようになった。
違う形の石が敷き詰められ、中央部分は平坦だが、端に寄ると、左右に向けて傾斜がつけられている。
「雨の降る季節でも、水たまりの一つすらできないのよね、この道は」
この周辺では年明けから夏になるまで、長く雨の降る時期がある。技術が発達していなかった当時は、道を左右に傾けることによって、水たまりができるのを防いだという。
彼女は過去を懐かしむように、周囲を見回しながら平坦な部分を歩く。道幅はかなり広く、荷車を数台は並べられる程度の広さだ。
彼女が歩み始めたこの道は、見渡す限り続いている。
パンを食べるための落ち着ける場所を探して、彼女は道なりに進む。
旅人や商人、大事な使命を持つ人の行き交うこの道。彼女は道行く人々の身なりを見ながら歩いた。
「休める場所はだいぶ先のようね。日が沈むまでには行きたいのだけど……」
彼女は地図を見ながら言葉をこぼす。太陽は最も高く上がっている時間で、空は薄く雲がかかっており、水色の上を薄い白が覆っている。ただ、天候が崩れるような影の色をした雲は周囲を見回した彼女の視界には入らなかった。
彼女は少し歩いた先で、朽ちた切り株を見つけた。切り株は少し高く、彼女が座れば足が地につかないほどの高さ。元々空に向かって伸びていた木は、地面の草に枝を包まれるように、横たわっている。
彼女は背負ってきたカバンや装備を先に切り株に置き、縁に手をついて小さく飛んで腰を乗せた。
隣にランチボックスを置き、先ほど買ったパンを取り出す。小麦色に焼けたパンを一口大にちぎる。中はふんわりとしていて、ほんのり黄色味がかっていた。バターのまろやかで濃厚な香りがふわりと風に乗る。その香りは、痛みを感じるほどに冷やされていた鼻をもみほぐした。
「いい香り……」
温かさを感じるような味を堪能しながら一つ目のパンを食べきると、二つ目の焦げ茶色のパンもすぐに食べきった。
「……さすがに人も少ないわね」
彼女はただ続く道と平原、そして前方に広がる地平線を独り占めしながら歩く。人通りの多さをうかがわせる道幅とは裏腹に、それを使う人がおらず、道には物寂し気な雰囲気が冷気とともに立ち込めていた。
灰色の石畳と、不規則に生えている街路樹のようなもの。どこからともなく醸し出される、不気味な空気と冷たさを肌に感じながら、彼女は歩いた。
「国境地帯……ではあるけど、人が通らない理由にはならないわ。何かあったのかしら」
道を間違えていないか不安になった彼女は、道端に転がっていた平たく大きな岩に地図を広げる。
「うーん……」
彼女は地図の上に影を作りながら、地図を読む。彼女は今回の目的地である街を指さす。そこから家までをなぞり、空を見て自分の歩いてきた道を思い返した。
「間違っているとは思わないけれど。……やはり何かあったのかしら」
地図と自分を信じることに決め、彼女はカバンの中に地図をしまう。彼女が視線を道に戻した時にも、人はいなかった。
次第に使われていない建造物や廃墟が道端に現れるようになり、どこに続いているのかわからない道も道路から枝のように伸びはじめた。少し前は隙間が多く荒かった石畳も、隙間のないように細やかに敷き詰められ、隙間のある所には何かを流し込んで固められている。
常に短剣の存在を確かめ、周囲を見回しながら歩いていた彼女も、昼下がりの明るい太陽に顔がほころぶ。
しかし、暖かさを感じる時間はそう長くなかった。次第に雲が空の下に入り込み、そのまま日没を迎えようとしている。辛うじて地面に届いている光も、風前の灯火の如く頼りないものだった。
彼女は足早に仄暗い道を歩き、宿の立ち並ぶ通りにたどり着いた。道にはみ出して所狭しとテーブルと椅子が並べられた酒場は、二階に宿を構えていることが大半。彼女はそのうちの一軒に泊めてもらうことにした。
「ん。確かに頂戴したよ」
酒場の店員であろう男は、紙幣と銀貨を数えて、部屋の鍵を手渡した。
「階段を上がって一番右奥の部屋、路地に面しているうちの右側の部屋だ」
「親切にありがとう」
「あいよ」
男は客に呼ばれて、そちらの方に向かう。彼女は軋む階段を上って、今夜限りの自室に荷物を置いた。
部屋は簡素な部屋で、ベッドにサイドテーブル、別で用意された机に必要な物が一通りそろえられている。
彼女は身を包んできたコートを部屋の壁にあったハンガーにかけ、白いシャツにニットベスト姿で一階の酒場まで階段を下りた。下りた先では、昼から酒に呑まれているであろう男や、屋外の席に座って夜の街並みを眺める女が椅子に腰かけている。
「お嬢ちゃん、何か飲むかい? 夕食まではまだ時間がある」
カウンターに両手をついて暇そうにしている、先ほどの男が声をかける。彼女は用意されたメニューを訪ねると、男は面白げに、飲み物の色を答え始めた。どれも味は甘めの味だという。
「うーん……」
「甘いものは苦手かい?」
男はグラスを布で拭きながら聞きなおす。彼女はその質問に首を振って答えた。
「いいえ。甘いものは好きよ。青色のものをくださる?」
「おうよ。ちょっと待ってな」
カウンターの下に身を隠す男。
しばらくすると、縦長で四角い瓶を取り出した。その瓶の中には、濃い青の液体が入っている。ランタンの暖かい光に、宝石のように輝く濃く青い液体。細い注ぎ口から少しだけ注ぎ、さらにその上から冷えた水を注いだ。
「見るからに寒そうな色ね」
「ああ、今日はちょっと氷を少なめにしている。どうぞ」
小さなグラスに注がれた、青色の液体を男が机に置く。氷がさわやかな音を響かせた。
不思議そうに彼女はその注がれた液体を眺める。グラスを手にもってランタンの明かりを見たり、少し揺らして液体の粘度を確認した。最後に鼻の近くにもってきて息を吸うと、甘い香りが彼女の鼻腔をくすぐった。
グラスを傾けて、一口飲む。
「……かなり甘いのね」
少なくとも彼女からすれば、率直に美味しいといえるような甘さではなかったようで、首を傾げながらその飲み物を見つめた。喉ごしのいい飲み心地ではあったが、後を引く甘さが彼女の手に水の入ったグラスを取らせた。そして流し込むように水を飲んで、グラスを置く。その様子を見ていた男は、口を開いた。
「そいつはそれだけで飲むと甘すぎるくらいだ。ただ、その甘さは腹下しに効くらしい。だから刺激の強い料理と合わせて飲む人が多いんだとよ」
男は自分で飲み物をブレンドしながら言う。
「ふうん……」
彼女は再びグラスを傾けて、青い液体を口の中に流し込んだ。
暗くなり始めた世界は一瞬で夜になった。この辺りは人通りが多く、人の流れが途切れることはない。彼女も、様々な装いをした人たちを見ながら、少しずつ青い飲み物を飲んでいた。
酒場に入ってくる人も増えた。旅の途中で休憩に来た人、夕食を求めて来た人、平民から兵士や貴族らしき人まで集まっている。彼女は店の男に目配せをする。すると男は、しばらくしてから湯気の立つ食べ物を持ってきた。
「おまちどおさま」
「ありがとう。……これは、どういう食べ方をする料理?」
彼女の目の前に出されたのは、ハンバーグと溶けたチーズの入った容器。そして、他にも野菜などが付いている。
「おや、知らないのかい?」
「あまり食べたことがないわ。どうやって食べるのかしら?」
程よく焦げ目のついた肉と、黄色いチーズを交互に見つめる。
「お嬢ちゃんは食べないかもなぁ。これはな、肉を切って、チーズにつけて食べるもんだ」
「なるほど。どうもありがとう」
男は礼を返すと、持ち場に戻るついでに注文を取ってキッチンに戻っていった。
よれたシャツを着ている男の背中を追いかけていた目線を、眼前にある食事に戻す。湯気を立ち上らせて食欲をそそるハンバーグ、とろみのついた温かい黄色をしたチーズ、数少ないの野菜であるジャガイモと人参、そしてスープ。
彼女は目を一巡させて、ハンバーグを一口大に切り取る。フォークで刺すだけでもランタンの灯りを反射するほど肉汁が流れ落ち、一口分切り取り終わるころには、ハンバーグの周りに肉汁の海ができていた。香りを巻き上げるように、フワフワと湯気が昇る。
そして切り取った肉をフォークに刺し、チーズにつける。持ち上げると、チーズは細く長く伸び、一時の模様を作りながら容器の中に落ち始めた。
器用にフォークを使って落ちるチーズを切って巻き取り、口に運ぶ。
「とっても美味しい……!」
舌で崩せるほどに柔らかい肉はチーズをよく絡めており、そのまろやかで濃厚な味わいと、肉に施されたパンチの効いた味付けを彼女の口の中に広げる。息をする度、その香りは濃厚になっていった。
目を輝かせながら夕食を平らげた後、彼女はこの街を歩くことにした。店を出る際、男に、「気を抜くなよ」と忠告され、それ以来彼女は短剣の入った鞘に時々手を触れている。
夜のこの街は特に変わった様子もなく、人通りも多い。荷車を引いた馬が軽快に歩き、厚手のコートに身を包んだ貴族らしき人が使用人とともに街を歩いていた。寒さを感じないほどに活気のある街で、街の規模と比べて喧騒の耳に入る音の種類や大きさも多種多様だった。
建物から漏れる明かりを頼りに、彼女は大通りを歩く。
ランタンの灯りに少しだけ輝く石畳や、石畳と靴が響かせる硬い音、彼女があまり見かけない装いの異なる文化圏の人間。彼女にとっては何もかもが新鮮だった。
「そろそろ戻ろうかしら……」
その声すら簡単にかき消すほどの喧騒の中、彼女はつぶやく。先ほどと比べて人通りも少なくなり、建物から漏れる明かりの量も減って、石畳の小さな突起に気が付きにくくなった。
彼女は少し大きめな交差点をぐるりと回り、先ほどまでいた酒場までの道を足早に辿る。
戻っている途中、一時的に人の波がパタリと途切れた。彼女はその非日常的で静かな雰囲気に心を奪われ、意識を抜かれたように立ち止まり、強い風が星を瞬かせているのをぼうっと見つめていた。
「今日の星空も――」
「こっちに来てもらおうか」
「へっ?」
拍子抜けした声で振り返った瞬間、彼女の視界は何者かによって覆われた。
「何するのよ! ……ああっ!」
視界が奪われても抵抗を続けようとする彼女は、鞘に収めていた短剣を引き抜こうとした。しかし、謎の人物によって振り払われ、彼女のいた場所には、星の光を反射する短剣だけが残された。彼女が少し前までここにいたという、その存在を示すように。
「――! ……! ……っぐ」
「黙れ」
手足を一瞬にして紐で縛られ、口に布を詰められた彼女は時に嘔吐きながら、必死に抵抗する。肝心の短剣はすでに失われ、細身で頼りない体格の彼女に残された抵抗手段は、ひたすらに体を動かして声を上げることだけだった。
それに鞭を打つように、謎の人物は低く響く声で動きを制する。
それでもなお彼女は、抵抗の意思を示した。その行為が功を奏し、足の紐がほどけたその時。
「黙っとけりゃいいものを! うるさいぞ小娘!」
「うぐっ……」
籠った重い悲鳴を最後に、彼女の体から力が抜けた――。
「ユラ、傷の調子はどうだ」
「……治りそう」
ユラは、茶色いガラス瓶に入った液体を揺らして混ぜながら、細い金属のようなものを器用に使い、傷口をのぞき込む。瓶を傾けて布にしみこませると、その布を傷口の上にかぶせた。そして、ユラは手で包み込むようにして、その布を強くあてた。
布が動かないように両端をひもで縛り、ユラともう一人の女性はその部屋を離れた。
しばらくして目を覚ました彼女は、ぼやける視界をできるだけ鮮明にとらえようと目を細めながらあたりを見回す。
真新しい木材が使われているであろう、隙間のない木の床、部屋の横幅をいっぱいに使った大きな窓、火を消したランタンが置かれているサイドテーブル、そしてベッドに横たわる彼女自身の姿。
違和感の正体を確かめるように、頭に手を伸ばす。乾いた質感の布が頭に巻かれており、厚みがあった。そしてまた別の違和感の正体を確かめようと足に手を伸ばす。
「痛っ……」
反射的に素早く手を放す。上体を起こして足に視線を向けてみると、血の滲んだ布が傷口に当てられていた。傷口を刺激してしまったせいか、布の赤く染まった部分が広がっていく。
「……とてもじゃないけど、歩くことはできなさそうね」
彼女は痛みに耐えるように、苦い顔をして顔を歪め、歯を食いしばった。刺激を与えないように布の上からそっと触れた彼女の手には、少しの血がついていた。
気温が変わらない部屋の中から、冷たい風に吹かれているであろう木を見つめる。まるで傘が何層にも重なったような形をした針葉樹。ただ揺れて、時には風に葉をもぎ取られる針葉樹を彼女はぼうっと見つめながら、風のように流れる時間を感じていた。
自らの足に手を置きながら外を見ていると、開かない窓がカタカタと音を立てて揺れるほどの強い風が吹いた。同時に、部屋の入口の方で軋むような高い音が響く。
風で扉があいたのかと思い彼女はその方向に目を向けた。
すると、二人の人間が立っていた。一人は白いシャツに金色の刺繍と装飾が入ったグレーのコートのようなものを羽織っており、もう一人は深い青色のシャツにグレーのロングカーディガン、グレーのパンツに先端の丸い革靴、そして魔女帽をかぶっている。
白いシャツを着た女性とは背中に細長い革製の鞘を背負っていた。彼女はそれに怖気づいて、体にかかっていた布を自身のほうに手繰り寄せる。
ところが仕草を見た一人の女性は、彼女の曇った顔を晴らすように、パッと顔を明るくして口を開いた。
「起きたのか! 目を覚ましてくれてよかった!」
「おはよう、寝てた人」
もう一人もポツリと言葉をこぼす。
彼女は背中に背負っていた鞘を壁に立てかけ、ベッドに座る彼女のもとに歩み寄った。底の硬い靴から響く足音が響く。
「安心してくれ、いじめる予定はない」
目線を合わせるために、白いシャツを着た背の高い女性は少しだけかがむ。重なる布を少しよけて中腰になると、疑うような目線で見上げる彼女を覗き込んだ。その女性が見上げた彼女の瞳は、疑問と少しの恐怖を混ぜた、戸惑いを見せていた。先ほどの言葉を信用しきれていないように。
「あなたたちは、一体……」
絞り出すような小声を口元で響かせる。すると、彼女の顔を覗き込んでいた一人の女性が答えた。
「私たちは、軍に所属する人間だ。そしてここは、私の家の一室だ」
彼女を見上げながら、女性は説明を続ける。彼女は少し疑いの目を向けながらも、至って真面目に女性の話に耳を傾けていた。
「君は、どこまで覚えている?」
「どこまで…、というのは?」
彼女はその言葉をそのまま返す。
「何をされた?」
女性が少し聞き方を変えると、彼女は昨日の夜にあったであろうことを、断片的に語り始めた。夜道を歩いていて、空を見上げたとたんに何者かに連れ去られ、抵抗したと。
その話を聞いて、女性は優しい笑顔で頷く。
「君は、この辺りでは有名な蛮族のようなものに襲われたんだ。道の真ん中に短剣が落ちていると知らせを聞いてな。あたりを探すように指示したら、隊員の一人が見るも無惨な姿になった君を見つけたんだ」
彼女と女性が話を進める傍ら、足元にいるもう一人の女性は口を開かないまま、木の机の上で何かを調合している。瓶がぶつかるたびに、カラン、チンと心地よい音が響いた。
女性がこのあたりのことを一通り説明する間に、彼女の足元にいたもう一人の女性が、血の滲んだ布をはがし、新しい布に取り換えた。その布も、何かの薬品に浸されている。
布を取り換える様子を横目にしながら女性と話をしていた彼女は、自信の傷口に目を奪われ、そして目を疑った。
先ほどまで何もしなくても少しずつ血が滲んでおり、身体がえぐられていることが布越しに見ても認識できるほど酷く深い傷だった。それが今は、傷口の陥没が消え、血や傷口こそあるものの、少し前と比べてずっと良くなっている。
彼女は、自分自身の傷口をまじまじと見つめた。
「何、見てるの」
彼女の足に布を貼り付けた女性は、横目で彼女を見つめる。女性は、ずれ落ちてくる魔女帽の位置を調整しながら、彼女の傷口に液体を垂らす。
「いえ……すごいな、と思っただけよ」
「そう。ありがと」
その女性は軽く頭を下げて、再び傷口に向き直った。
「こいつは私の助手、隣の国の研究機関にいながらこちらに出向している」
「そうなのね。あなたは?」
「私は先ほども言った通り、軍人だ。師団長といって、上から数えたほうが早い立場にいる」
「師団長……」
彼女が遠回りをして軍の階級を下から口にしていくと、数えるたびに目の前にいる女性に対する尊敬の眼差しが強まった。逆に、女性は彼女がほぼすべての階級を口にできることに目を丸くしていた。
「君も軍人か?」
「いえ。私の身辺にそのような人がいただけで」
「そうか。でも、そのような知識に触れることができる階級の人間なのだな」
女性は立ち上がって腕を組み納得したように首を縦に振る。そしてどこからか木の椅子を持ち出して、彼女の目の前に置き、腰かけた。
女性は紙を取り出し、彼女についていくらか質問を投げかけた。個人の特定につながるような情報ではなく、好きな食べ物や、幼少期の記憶など、ありふれた雑談のような話題に数十分ほど費やした。
治療が終わると二人は手を振って部屋から出ていった。自由に家の中を歩き回っていいと告げて。
彼女の傷口はみるみるうちに塞がり、夕方になるころには歩けるようになっていた。まだ痛みは残っているようで、時々歩みを止めて自分の足を見るが、またすぐに歩き出すことができる。
彼女は部屋を出て、大きさに圧倒されながら家の中を歩き回った。
無限に続くように感じる廊下や、自分が小さく感じるほどに高い天井のある部屋など、小さい家に住んでいる彼女にとっては眩暈を引き起こす程に広かった。
どちらかの女性が伝えたのか、メイドらしき人も彼女とすれ違った際には礼儀正しく挨拶をする。
「ここまで家が大きいと、メイドさんも多そうね」
先ほどすれ違ったメイドが廊下を歩くコツコツという音を聞きながら、彼女は独り言をつぶやく。
廊下の端にたどり着き、彼女は横に見えている階段を上る。利便性ではなく装飾に重点を置いた手すりに窓からの陽が入るのを見ながら、彼女は上の階にたどり着いた。
「ここが一番上の階のようね」
あたりを見回してもさらに上に行けるような場所はない。そして、天井が傾斜しており、屋根らしきものが近くに見えているのも判断材料となった。
彼女は二階の開かない窓から、外を眺める。
まず近くには、広大な家の敷地。植栽や敷地内の道は丁寧に整備されており、咲いた花の周りには蝶々が風に揺られながら飛んでいる。
次に、少し遠くに目を向けると、石畳の道と、少し離れたところにはログハウスやレンガ造りの家が何軒か建てられているのが見えた。同じ気候区に様々な種類の建物があることに少し違和感を覚えながらも、彼女はより遠くに目を向けた。
遠くには濃い緑の箱が置かれているように丁寧に整備された森があり、その境界付近まで家が立ち並んでいる街が見えた。
また、少し横に目をずらせば、無造作に道に沿って建てられた家々が並んでいる。
彼女は見慣れない景色を澄んだ瞳に映す。
「とてもきれいな景色だけど、どこなのかしら……いつも見えていた山が見えない方向、ということしかわからないわ」
そんなことを景色に向けて呟き、彼女は探索をやめて与えられた自室に戻った。
幸いなことに、言語は全く同じであるため、国籍や国民性が違えど、言葉はほぼすべてが通じる。彼女はそれを利用して、部屋に置かれていた何冊かの本を開いた。
どの本も真新しく、紙も折れたり汚れたりしておらず、丁寧に保管されていたことがうかがえる。薬品に関する本や、文学に関する本、読んで楽しむことのできる手軽な読み物等がおかれていた。
彼女はつまむようにどの本も少しずつ読みながら、時間をつぶす。
「……はい?」
読みふけっていたその時、誰かが部屋の扉をたたいた。彼女が扉を開けると、そこにいたのはメイド。
「夕食のご用意ができました」
淡々と用件のみを切り出すメイドに、彼女は困惑しながらも言葉を返す。
「……私の?」
「はい」
「お金はそんなに持ってないのだけど」
「必要ありません」
「本当にいいのかしら……」
彼女が少し迷っているとメイドは、必要ありません、と言葉を繰り返した。
広い家の中を、前を歩くメイドの後をつける。屋根の高さの割に小さい扉をメイドが開けると、そこには先ほど彼女の治療に当たっていた女性と、気さくに話していた女性の二人が座っていた。彼女の分の席を空けて。
「お、きたきた。さあ、食べようか! 今日も美味しい料理たくさんあるぞ!」
「今日も、美味しそう」
二人は口々にそんなことを言う。料理を一瞥した後、目線は入り口で立ち尽くす彼女へと向けられた。
彼女はその目線に答えるように、優しく笑顔を浮かべながら答えた。
「はい!」