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最終話

 自らを包む布。それは、体温を逃がさないためのものでもあり、自身を守るためのものでもあった。いつ何時、誰に攻撃されてもいいように。

 雪解け水が緩やかに川を流れ、土はぬかるむ。そんな春先に、ゲルテハルト国は国家存立の危機に。そして同じく、ルーメイの指揮する第三師団も、存在そのものが脅かされていた。敵はすぐそこの街まで迫っており、防衛には一刻の猶予もない。今までは常識的な戦術を取ってきた敵軍も、近日はより一層苛烈な攻撃を容赦なく加えるようになった。

 街のあちこちから立ち上る煙は、朝焼けと共にその姿を露わにし、その煙柱の本数は日を追うごとに増えていた。

 そんなとある日、ルーメイはとある決断を下した。

「ミンカ。ちょっと頼みたいことがある」

「はい」

 ルーメイの執務室で窓の溝にたまった埃を丹念に掃除していたミンカは、その声のする方向に振り返る。

「この書類をもって、とある場所に向かってほしい」

 渡された書類というものは、書類ではなく、革で覆われた硬く、大きく、四角い鞄だった。ミンカが書類の詰まった鞄を受け取って両手で持つと、ルーメイは自身の机から地図を取り出して、ミンカに行先を図示した。

「ここは……隣の国です」

「そうだ。隣の国、リーリエ王国だ。すでに話は通してある。国境まで歩いていけば、あとはその場所まで連れて行ってくれる人がいる」

 まくし立てるように早口で話すルーメイに違和感を覚えたミンカは、ルーメイ自身はどうするのかを聞いた。

「……私は、まだ仕事がある」

「私が、手伝います」

 ミンカは食い気味に答えた。

「権利の関係上、ミンカには任せられない。悪いが、ミンカはその書類を持って行ってくれ」

 ルーメイは、念押しにそう伝える。

 その返答内容に納得のいかないミンカは、黙ってルーメイのことを細い目で見つめ、可愛いらしくも不満げな表情を見せた。隠し事を見抜くようなその鋭い眼差しは、見事にルーメイの心を射抜く。

「……やっぱりミンカは賢いな。大人の事情をよくわかってる」

 ルーメイはやる気なさげに笑う。

「でもな、ミンカ。これは命令だ。その書類と一緒に隣の国へ逃げるんだ」

「なぜ、ですか」

「……もう間もなく、この街は敵軍に明け渡される」

 新兵器の登場以来、ゲルテハルト国軍は、敗北、そして撤退を繰り返してきた。可能な限り損耗を抑えられるよう、積極的に撤退しつつ、新兵器の存在しない場所で局所的に反撃を行ってきた。しかし、新兵器が満遍なく配備された今、突破の糸口は見えない。そして何より、日々増え続ける戦死者に、民間人も混ざるようになった。

 このような状況である以上、周囲と比べて幼いミンカをここで死なせるわけにはいかない。

「だから、お願いだ。きっとその場所にはアーシャも行くだろう。アーシャに会って、その書類を渡してくれ。この先の平和に必要なものが入っている」

 目の前に立つミンカが持つその鞄を、念を押してもう一度ミンカにやさしく押し付けた。押されただけミンカは足を後ろに下げ、ただただ目線をルーメイに送り続ける。その沈黙は、相変わらずミンカにとっての不服を示す物であった。

「……わかりました」

「頼んだぞ。ミンカならきっとできる」

 さらにその後、ミンカには子供向けの可愛らしい服が用意され、変装して国を出るように指示された。子供も見境なく攻撃に巻き込む情報もあったが、ないよりはましだというルーメイの意見により、来たる日にはミンカは子供のふりをして国を出ていくこととなった。

 その来たる日は、物の数日と待たずに、彼女らに鉄槌を下しに来た。鼓膜が破れんとする爆音と、目の奥に痛みが残るほどの閃光で目を覚まされ、ミンカはのそのそとベッドから降りて、まだ薄暗いはずの小窓を開けて外を見た。

 そこにあったのは、長閑な首都とは思えない光景であった。家々は火に包まれ、形を保った家は片手で数えるほどしかない。煙柱があちこちから立ち上り、それが地上の火に照らされて、空を支えているような光景だった。

 詳細はまだ暗く判然としないが、ミンカが何かに押されるようにして急ぎ足でルーメイの部屋を訪れると、彼女も同じく外を眺めていた。

 急遽メイドたちと警備にあたっていた兵士、そして伝令兵を集めて簡単な作戦会議を済ませる。

 作戦会議が終わると、メイドたちは可能な限りの武装をして兵士たちと行動を共にし、ルーメイは身軽な鎧を身にまとい、長年連れ添ってきた体験を棚から引き抜き、鞘に収めた。

 ミンカは子供向けの衣装に着替えた。彼女は等身大の鏡の前でくるりと周り、スカートの裾を浮かせてみると、身長も相まって、その仕草は完全に幼い少女のそれだった。遅れてふわりと揺れるそのスカートを、彼女は黙って見つめていた。

「準備はできたか」

「はい」

 ルーメイは着替えたミンカの容姿を頭頂部から足先まで撫でまわすように見る。満足げな表情でうなずくと、頭に手を置いて二回優しく撫でた。

 その容姿の似合い具合にルーメイが納得しながら見ていると、朝起きた時の衝撃とは比べ物にならない衝撃が家を揺らした。瞬間的に視界は白く染まり、目を開けてみると、ルーメイの後ろにある窓は割れ、煙が中に這いつくばうようにして流れ込んできていた。

「……近いな。近いどころか。もう直撃じゃないか」

「危ないです」

「ああ。分かってる。……ミンカ、行くんだ」

 ルーメイはしゃがんでミンカと目線を合わせる。

「……先生とは、いつどこで会えますか。私、また、帰ってきます。約束、してください。また、会えるって」

 今までの仕草や言動から何を隠しているかはほぼすべて見通しているミンカは、鋭い眼差しでルーメイに返答を求めた。しかし、ルーメイは困り笑いしながら彼女の頭に手を置き、その事実から目を背けようとした。

「会えるんですね?」

 頭から手を離して立ち上がった後、ミンカはもう一度そう言う。

「……絶対に会える場所が一つだけある」

 ルーメイは出入り口の方を向き、背中を向けたまま、そうつぶやいた。

「教えてください」

「その場所はアーシャの方がよく知っている。我々が戦争に勝利してから暫くした後、もう一度アーシャに聞いてみるといい。きっと答えてくれるはずだ」

「答えになって――」

 ミンカは語気を強めて反論を重ねる。

「私が今から言うことは……ミンカというメイドへの命令だ。生きて、書類を届けて、然るべき時期にアーシャと一緒にここに帰って来ること。いいな、ミンカ」

 メイドを総括する立場であるルーメイからの命令はやむを得ない理由がない限り、拒否することはできない。

 ミンカは渋々静かにうなずき、部屋から出ていくルーメイを見送った。

 ルーメイの部屋の窓から、火柱が立ち上る方向へ歩いていくのを見送ってから、ミンカは誰もいなくなり、振動の絶えない家を後にした。家を出てから一分と立たずに、彼女は再び轟音と閃光を浴びた。

 振動に足元をすくわれ、鞄を地面に落とし、その鞄に足を取られる。

 地面に手をついて再び立ち上がり、鞄をもう一度手にしようと振り返ったその先には、火柱と化した家が残っていた。その場所だけ昼間になったような明るさは、周囲を明るく照らし、木々の破片や人の死体など、見るに堪えないものをミンカの瞳に映した。

 火に木が割れ、構造物の柱が崩れ落ちる音に混ざりながら、ルーメイであろう声がミンカの耳に届く。声を張り上げて、煙の向こうへ逃げようとしているような、そんな声だった。

「……せんせい――」

 荷物から手を離し、その火の中に飛び入ろうとしたその時、それを拒むように、目の前にも炎が広がった。

来るな。誰かがそこへの立ち入りを拒むようにその炎は壁を作り、家を激しく焼いた。


 名目上の戦勝記念日――。終戦記念日というほうが正しい。

 かの一年前に終結した戦争。今までにはなかった新たな技術が投入されたことにより、双方の軍人、民間人に多大な損害を出し、その戦火は罪なき人々までを巻き込み、無差別に命を奪った。

 他方で、技術の革新も生んだ。

 誰もが手軽に、安全に火を取り扱うことのできる技術が開発され、火を使った調理が簡単にできるようになり衛生環境が改善したことで、食事を原因とした病による死亡率や、乳幼児の死亡率も多少改善された。また、前線で兵士を治療するために用いていた傷薬や強力な鎮痛薬も実用化され、今となっては民間の病院でも処方されるほどに普及するようになった。

 また、レルカーリア国の書庫から大量の建築に関する書類が発見され、今まで不可能とされてきた建造物や、どのようにして建築されたのか不明だった建築物も、建築方法が明らかになり、新しい街を一から作り直すのにはうってつけの機会となった。

 戦争が、国を、人々を、文化を、変えた。

 しかし、その過程で多くを失った。数え上げればきりがなく、夜空に浮かぶ星の数よりも多いであろうその願い事も、戦火のまえに儚く散ることとなった。

 生き残った人々は罪悪感に苛まれ、原因不明の死を遂げる人々や、身体が思うように動かず、生業も成り立たないといった人々は、戦争に参加した全ての国で増加し、国が解決すべき喫緊の社会課題と位置付けられる程に状態は深刻化した。

 多くを消し飛ばし、多くを残したこの戦争。

 ミンカとアーシャの二人は、終戦記念日に合わせて建築された平和記念碑のある公園で開かれた終戦記念式典と戦没者追悼式に参加した後、少し離れた場所にある戦没者が埋葬されている墓地に足を踏み入れていた。

 森を切り開いて作られたこの墓地は、見渡す限りの墓石で埋め尽くされ、合間に短く手入れのなされた草が生えている程度で、少し狭苦しい墓地だった。所々に伸びる木は、鳥の巣があり、そのために残された。こうして墓地の入り口に二人が経っている今も、自由に鳥が出入りしている。

「……ありえない」

 ミンカは、その墓石が並ぶ光景を見て、そう言う。

「どうして、そう思うの?」

「……私たちが、失った、なくしたのは、これですべて、でしょうか」

 ミンカは何かを探し、求めるように墓地にある通路を歩きだす。

 通路の左右には花々が自生しており、岩の隙間から根を張り、顔を出している。そんな花々は、蜜で虫を引き寄せ、粉を運ばせる。鳥が止まり、蜜を吸う。自然の中に静謐に眠るこの墓地は、自然に生きる動物たち、植物たちに守られていた。

「私は、もっと……もっと、もっと。多くのものを、失ったような気が……します」

 ミンカは足を止め、木の根元の近くに一輪だけ咲き誇る可憐な花に手をかざした。

 するとその花は、優しく触れただけにもかかわらず、細い花弁を一枚だけ落とし、完全な姿を失った。

「……失ったもの。それに、それに……名前が、つけられないんです」

 ミンカは落ちた花弁を拾い上げる。そして、その花に差し戻すように、花の上に花弁を置いた。

 名も無き感情は、今もミンカを包む。

 先生との別れを経て、ミンカはその失ったものの名前を、永遠と探し求めてきた。

 ある日は涙を流し、ある日は自分を傷つけ、ある日は本を読み、ある日は辞書を引き、ある日は戦没者の名前を読み上げた。そして今日、戦没者墓地に足を踏み入れ、こうして並ぶ墓石を眺めている。

「一年間。ずっと、先生だったらどうするんだろう。……って考えてきました」

 ミンカは立ち上がり、また先へと進む。アーシャもその後に続いた。

「先生ならきっと、素晴らしい答えを見つけられる。私、そう信じてます」

 再び立ち止まる。

「……でも、なぜでしょう。先生は、『私にもわからない』……そういう気がして、なりません」

 十字に交差した通路。目の前には、鳥の巣がある木が一本だけ自生している。

 雛が絶え間なく泣き続け、それに押されるようにして親鳥は餌をとっては雛の口まで運び、そしてまた巣を旅立って餌を探しに向かう。

 一際高いその雛の鳴き声は、墓地の隅々まで響いた。

「先生でも、わからないことはあるのでしょうか」

 ミンカはその木を見上げる。

 丁度、親鳥が小さな虫を咥えて巣に戻り、一匹の雛に口いっぱいの大きさの虫を咥えさせると、再び飛び立った。雛はその虫を生きたまま飲み込み、また餌を欲しがり、大きく高い声で泣く。

「……だとしたら。仮に、先生にもわからないことがあるとするなら。……私にも、わかるはずはありません。先生は、賢くて、強くて、面白くて、素晴らしい人でした」

 十字路を左に曲がる。

「そんな先生にも、わからないことが、あるのなら、私にもわからなくて当たり前です」

 ミンカは下を向きながら、宛先もないように、ただひたすらにゆっくり、ただひたすらに墓地の中を歩く。ミンカの足の大きさと同じくらいの石畳を、一枚、また一枚と、踏みしめるように。

「……私は、頭もよくありません。ことばも、苦手です。数字も、よくわかりません。ただただ、力に頼って、生きてきました。得る予定のなかった、力に頼って」

 ミンカの左右を墓石が流れていく。

「持っていたその力に頼り続け、夜の街をひたすら歩き回っていた時、先生は私のことを見つけてくださいました」

 そうして、もう一つの十字に交差した通路の前で、ミンカは足を止めた。

 ここには同じ種類の花が群生しており、ここだけでも小さな花畑を見ているような、そんな満足感を得られる。それと同時に、一本だけでは存在感の薄く、弱い花が、集まってその存在を示し、共に生きようとするその姿がそこにあった。

「そこの子、名前は。……先生の言った言葉を、私はまだはっきり憶えています。私は、また悪い人に声を掛けられたと思って、しゃがんでいた先生の顔を目一杯殴りました」

 花が風に揺れる。そして花の甘い香りも、風の流れる方向に連れ去られた。

 そしてミンカも、スカートの靡く方向に足を向け、再び歩き出す。

「でも、先生は私のことを殴り返したりしませんでした。……今思えば、そこで私は優しさというものを知ったんだと思います」

 コツコツと靴から音を鳴らして、石畳の上を歩く。

「殴っちゃいけない人だったんだ」

 まだ、歩く。

「殴らなくてもいい人なんだ」

 ゆっくり、歩く。

「……もう、殴られなくてもいいんだ。と」

 ミンカは、そして歩く速度を落とし、やがてその場に立ち止まった。

 少し長い草木に左右を挟まれ、抜けた先には、また別の墓地が目の前に広がっていた。その草木も手入れされていないというわけではなく、あくまでも自然が生きるための道として、人が通るための道として、その部分だけは石畳が敷かれずに、自然と人が交差する場所だった。

「私が初めて出会った優しい人……先生は、私が殴ってしまって、殴り返されるとばかり思って怖くて泣いて、必死に痛みをこらえようとしていた私を抱きしめて、先生の家に連れ帰ってくれました」

 ミンカは再び歩き始める。そして、ミンカが立ち止まっていたその場所には、乾いているはずの石畳に数滴の水が滴っていた。

「そして、私はもう一人の先生と出会いました」

 先の十字路を右へと曲がった。

「……その先生は、少し、厳しい人でした。でも、優しくて……とても賢かったです。私が最初に先生と会った時、先生は風邪をひいていました。ですが、何でもないように私を喜んで迎えてくれました」

 少し奥まった場所にやってきた。

 そこは墓地の角で、左に曲がるしかない。ミンカは石畳の続く方向へと曲がり、もう一度歩みを進めた。答えにたどり着くまでのその過程を探し求めるように。

「その先生と、最初に私のことを見つけてくれた先生は、私にたくさんのことを教えてくれました。言葉から始めて、数字や服の着方も教えてくれました。……それでも、私は未だにことばと数字が苦手です」

 しばらく歩くと、墓地を一望できる高台のような場所にたどり着いた。そこからは見渡す限り墓地が広がり、いくつかの区画に分かれて墓地が整備されていることがよく分かった。そして、その墓地は四方を木々に囲まれていることも、この場所からであれば把握することができた。

 ミンカは、そこで立ち止まりながら、話を続ける。

「しばらくして私は、お勉強をさせられるようになりました。私が一人でも生きていけるように、先生たちは私のことを育ててくれました」

 それからミンカは、士官学校に入学した。年齢不詳である以上、入学の基準を満たすことができるかどうかも怪しかったが、ルーメイが各方面と交渉を重ねて特別に入学が決まり、軍人兼使用人としてではなく、単なる一使用人として、卒業を目指すことになった。

 入学以降、ミンカは理解できないことが積み重なり、それを理解するのに一日の大半を費やすこととなった。生まれてからまともな教育を受けてこなかった彼女にとって、特定の専門分野を学ぼうなど、赤の他人からすれば数十年も早い話のように思えた。そして、士官学校の同学年の学生からも、同じようなことを言われ続けた。

「それで、私は、気づけば部屋の中を荒らして、気づけば血を流して、気づけば物を壊していました」

 流れ続ける風に、少し遠くにある芝生が波のような模様を作る。そして、二人を包み込むように、梢の音も風と共に流れ続ける。

「私がこんなに酷い出来栄えでも、先生たちは私のことを見捨てずに、私のちぐはぐな話を聞いてくれました」

 そしてミンカは士官学校の卒業要件をなんとか満たし、剣の本数は違うが、「先生」と同じバッチを手に入れた。士官学校を卒業した証であり、成績によって剣の本数が二本、一本、なしと変わる。

 ミンカは剣付きのバッチを手に入れることこそできなかったものの、卒業したこと自体が、「先生」にとっての誇りでもあり、同時にミンカの才能を覗かせるものでもあった。

 ミンカはその高台から一望できる墓地の一部に目をつけて、導かれるようにしてその方向に向けて階段を下り始めた。後ろにアーシャも続き、ミンカの歩みを見守る。

 この高台から見える墓石が全てではない。切り開かれた森の中にはまだ墓石が置かれていない場所も存在しており、ほぼ全数が判明したとされる戦死者数だが、これから判明する戦死者のために、ある程度の余裕が確保されている。また、その空白は行方不明の人々がいつでもこの場所に帰ることができるようにと願ったものでもあった。

 十字路を何度か曲がり、何度も似ているようで違う木々や花々と出会い、ミンカは長く話し、長く歩いたその末に、足を止めた。

 そこは何ら変わらぬ墓地の一角。

 右を見れば墓石が、左を見れば墓石が、前を見れば石畳の道が、後ろにも石畳の道がある。どこを歩いても同じ景色が見ることができるであろう、他の場所と何ら変わらぬその場所で、ミンカは周囲を見回す。

 何かを探すように。何かを求めるように。

 近くにある何かを探すように。

「どこ、ですか」

 ミンカは焦って周囲を見回す。

 首を振り、あちこち振り返る度に、目尻から涙が空に舞った。

「先生……先生!」

 それにこたえる声はない。

「先生! どこに行ったんですか! 約束の場所に来ましたよ……先生!」

 喉が壊れるほど大きな声と共に勢い良く振り返った瞬間、石畳の段差に足を引っかけ、ミンカは体勢を大きく崩した。彼女の身体がふわりと浮いたその瞬間、アーシャは彼女の身体の下に手を入れ、足を前に出して受け止める。

「先生……」

 受け止められたアーシャの身体に抱かれながら、くぐもった声を嗚咽と共に漏らす。軽く握った握りこぶしを、アーシャの肩に何度もぶつけた。

 アーシャは、サッと周囲を見回し、景色を確認する。そして、下を向いたままのミンカを立ち上がらせると、アーシャはとある場所に目が留まった。

「ミンカ。ほら、顔を上げて」

「……先生、どこにいるんですか」

 改めて問い直すミンカ。

 アーシャに腕を引っ張られながら立ち上がって目を開く。

 目の前には、最初に出会った、「先生」の名が刻まれた墓石が他の墓石に紛れて立っていた。特別な装飾を施されることもなく、他の兵士の名前が刻まれた墓石の中に立っていた。

「……先生は、ここにいるわ」

 ミンカはその場にしゃがみ、静かに墓石の名前に触れる。

 確かにその名前の通りに刻まれている。名前も、階級も、生年月日も、すべてが同じだった。確かに、彼女の墓石だった。

「……途中から、思っていたんです。生きて会うことはできないんだろうなと。なんとなく、感じていたんだと思います」

 墓石にやさしく手を置く。

「でも、どうしても、どうしても。信じたくありませんでした。受け入れたくなかった。先生が死んだというそのことを」

 そして、手を離した。

「けど、私、気づきました。さっきから独り言をずっと話していました。先生は、もうこの世界には生きていません。ですが、たくさんの思い出の片鱗を語れる程に、私は先生のことを憶えて、心に刻んで生きています」

 自身の膝に手をついて立ち上がる。

「そうである以上、なにも、この世界に先生が存在する必要はありません。私の心の中に、存在してくれればいいんです」

 ミンカは、剣が二本ついた、士官学校の卒業した証であるバッチを取り出す。そして、もう一人の先生の墓石を前に、口を開いた。

「二人の先生は、私が生きる上での道標となった人でした。でもそれは、あくまでも道標。その先のことは、私が考える必要があります。きっと先生たちは、私が誰かに頼り続けて生きることを願ってはいません。私がたとえ独りになったとしても生きていけるように、士官学校を卒業……させてくれたのですから」

 そのバッチを胸の前で握る。ほろほろと零れるその涙は、ミンカの足元、墓石の前にしとしとと落ちる。

 終戦してから間もなく、二人の先生の死に触れ、そうして約一年が経った今、ミンカは二人の先生の死を受け入れたのだった。

 ハンカチで涙を拭うと、ミンカはその場所をアーシャに譲り、鼻をすすりながら、しゃがんで墓石を眺めるアーシャの斜め後ろ、石畳の上に立っていた。

「……私も、先生、そう呼びたいくらいには尊敬できる人だったわ。ルーメイさんだけでなく、リリーも、もちろんミンカも。そして他のメイドも」

 アーシャは目の前にある墓に、話しかける。

「ルーメイさん。……戦争が終わってから、時は早いもので、一年が経ったわ。まだまだ、復興は道半ばで、今も家のない人や、食べるものがない人がいる。きっと、完全に立ち直ることができるのは五年……いや、十年はかかるかもしれない」

「ルーメイさんの守りたかった世界。ルーメイさんの見たかった未来。それはきっと、国民が守りたかった世界、そして未来だと思う」

 しばらく訪れた沈黙。

 その沈黙を退け、埋めて、その沈黙が意味を持つように、鳥がさえずり、梢が響き、ミンカがコツコツと軽やかに靴の音を鳴らした。

「それを必ず現実にできるとは限らないけれど、いつかきっと、『この世界も悪くない』……そう思ってもらえるように、一国の宰相として、ここにお約束します」

 そう述べると、静かに立ち上がって、ミンカの方を見る。

 ミンカは姿勢よく立ったままアーシャのことを見つめていた。

「帰りましょうか」

「はい」

 そこから少しの間馬車に揺られ、家につながる道の近くで馬車を降りて、自宅へと向かう。レルカーリア国特有の凹凸の多い地形を横目に見ながら、平坦に整備された道を歩いて、ミンカと共に自宅に戻った。

「さぁ、仕事を続けましょう」

「そうですね」

 長く肩から掛けていたツヴァイヘンダーを棚に戻し、ペンを手に取った。

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